100万石大名について

1人間七七四年2009/02/16(月) 16:49:46ID:N2wmqinO
戦国中期
三好・今川

少し遅れて
濃尾時代の織田、全盛武田・長尾上杉、北条、毛利
小牧長久手期の徳川

関ヶ原頃
上杉・毛利

江戸期
前田


100万石大名についていろいろと語りませう!

2人間七七四年2009/02/16(月) 16:57:47ID:S4xMyPnE
100万石って単位が生まれたのは太閤検地以後だから、それ以前は関係ないような…。

3人間七七四年2009/02/16(月) 17:15:33ID:N2wmqinO
うぎゃ

4人間七七四年2009/02/16(月) 18:05:34ID:J6bd6Zwy
十一州の太守・尼子
五州二島の熊・龍造寺
近畿南海の覇者・三好

南奥常北の麒麟・佐竹
独眼竜・伊達
九州の覇王・島津

西国探題・池田
出羽の狐・最上

5人間七七四年2009/02/16(月) 20:30:35ID:UJecEYWz
伊達
後北条
上杉
武田
徳川
織田
三好
尼子
大内
毛利
長宗我部
大友
竜造寺
島津

ここら辺の戦国大名は石高に直したら一度は100万石超えてたのかな
あとこいつらも

豊臣秀長
丹羽長秀
織田信雄

6人間七七四年2009/02/16(月) 21:42:14ID:G7OFjPHQ
龍造寺は70〜80万石じゃなかろうか?
勢力地図見ると一国全支配とかしてない。
尼子も70万石ぐらいか?

7人間七七四年2009/02/16(月) 22:27:11ID:P9LU52RE
とりあえず長宗我部はない

8人間七七四年2009/02/17(火) 02:35:39ID:8N+ub5G/
Yahoo!知恵袋に
ttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1011269740 なんていう

太閤検地では四国全部で80万石程度なので、長宗我部はないはずだけど、太閤検地では
土佐の石高が低すぎることを考えると、かろうじて100万石に届いていた可能性も。

9人間七七四年2009/02/17(火) 04:12:00ID:+xrQks+a
とりあえず
100万石領主=地方の群雄とみなしてOK?

10人間七七四年2009/02/17(火) 04:15:54ID:j/SbzJ6H
島津も100万石を超えたのは一瞬だろ。
ある程度の統治期間が必要じゃね?

11人間七七四年2009/02/17(火) 04:34:32ID:HZEj7cyK
つーか、日本の石高は、太閤検地までは各地域さまざまな差し出し検地で、
太閤検地以前とは平均で30%は低かったんだから、
太閤検地で出てきた石高でそれ以前の生産高を見るのは無理があるだろ。
だいたい太閤検地は、秀吉が諸侯の軍役を増やすための魔法の種みたいなもんなんだから。

12仙台藩百姓2009/02/17(火) 12:22:11ID:/pd1BqmP
細かい事言ったらきりがないお┐ (´ω`) ┌
太閤検地以降の石高にしても、当然毎年の生産量は違うのだから
実高も毎年変動するお

13人間七七四年2009/02/17(火) 16:42:26ID:+nJaZmsi
小笠原長時
最盛期の版図で100年に一度の豊作と言われた某年には瞬間的に105万石までいった。

14人間七七四年2009/02/17(火) 16:45:05ID:HZEj7cyK
むしろ江戸期に実高で100万石以上行った所の方がすごい。
伊達、毛利、島津、

熊本の細川や安芸の浅野はそこまで行ってなかったっけ?

15人間七七四年2009/02/17(火) 17:34:57ID:hD268Th6
最上百万石まつり

16人間七七四年2009/02/17(火) 18:03:35ID:8N+ub5G/
>>13
ゑ? 小笠原って領土的にはせいぜい10万石程度でそ。
どうすれば10倍も収穫できるんだ?

>>14
ttp://homepage3.nifty.com/ksatake/fjitu60.html によると、
実高でも100万石を超えていたのは加賀藩のみ。

>>15
最上は新田開発が盛んになる江戸中期まで残っていれば、実高100万石も
夢ではなかったかもしれないけど…

17人間七七四年2009/02/17(火) 18:24:04ID:Tb2Mc1i5
200万石大名 織田 三好 北条

18人間七七四年2009/02/17(火) 18:51:49ID:8N+ub5G/
>>17
毛利が最盛期は200万石行っているんじゃない?

19人間七七四年2009/02/17(火) 18:58:18ID:zg6KTpU+
んないってねーよ毛利厨はほんと馬鹿だな。

20人間七七四年2009/02/17(火) 20:23:50ID:tePNMDM7
>>17
三好はともかく、織田と北条がそこにいるのはおかしい

21人間七七四年2009/02/17(火) 21:11:42ID:PcFZoNdJ
19は石高=米と思っているヤシ

22人間七七四年2009/02/17(火) 21:54:40ID:DR4cPQVi
>>20
北条も織田も、戦国時代に安定的に200万石を支配した大名だが?
北条は氏政〜氏直時代の話になるが。

スレタイ通りに戦国時代に100万石以上を安定支配した大名は・・・
東から
北条、武田、徳川、織田、細川(三好)、大内(毛利)
こんなもんか。意外と少ないな。(太閤検地ベース)

23人間七七四年2009/02/17(火) 22:07:39ID:0Move5xB
手取川の後の上杉はどのくらい?

24人間七七四年2009/02/17(火) 22:47:10ID:DR4cPQVi
>>23
越後の長尾(上杉)家って、越後一国を安定支配していたとは
言えないからなあ。

とりあえず、越後+越中+能登を完全に支配したと仮定しても
98万石で100万石に届かず(太閤検地ベース)

25人間七七四年2009/02/17(火) 22:53:59ID:2zrJQd1g
加藤清正は実質100万石と肥後郷土本に載ってたな…
マンセーだろうけど

26人間七七四年2009/02/17(火) 23:15:08ID:tePNMDM7
>>22
いや
織田>>>>北条>>>>>>三好
くらいなもんだろ。全部最盛期計算で

つまり、織田も北条も200万よりは上だと

27人間七七四年2009/02/18(水) 01:30:51ID:iDVYNEB3
謙信は上野と北信入れたら100万いくんじゃね?

28人間七七四年2009/02/18(水) 05:32:25ID:BvqLNim0
池田と蒲生も100万いってる

29人間七七四年2009/02/18(水) 05:33:16ID:BvqLNim0
もちろん本願寺もそう

30人間七七四年2009/02/18(水) 08:12:32ID:1B7UTntn
>>27
加賀も入れたら120万石はいく。
>>21
元就死去寸前の毛利は95万石くらい。
元就死後に葬式にも出ずに吉川元春が各地の戦線で戦い続けて挽回したが。
さらに石高に米以外を入れたら計算不能だろ。謙信なんか250万石を余裕で超えるぞ。

31人間七七四年2009/02/18(水) 08:16:22ID:1wRciNKC
大内なんて勘合貿易の利益があったから、実収入的には300万石近かったかもしれぬ。

32人間七七四年2009/02/18(水) 09:15:05ID:mK85cdHs
とりあえず>>1に今川が入ってる理由が分からん
今川や三好入れるんなら細川や大内とか大友も入れとけ

33人間七七四年2009/02/18(水) 09:28:08ID:1B7UTntn
関東管領上杉憲実も入れとけ。

34人間七七四年2009/02/18(水) 11:32:01ID:BvqLNim0
東北の南部、安東、葛西、最上、葦名は最大のときどのくらいあったの?

35人間七七四年2009/02/18(水) 13:10:16ID:lvM8R6zL
安東は寄騎の蛎崎入れて
南部も大浦独立前なら
面積は百万石クラス

芦名の会津はせいぜい40万石

上杉時代や蒲生の会津は
かなり下駄を履かせてもらった数字

36人間七七四年2009/02/18(水) 14:47:03ID:/mzVo15y
織田信雄チャーンは?

37人間七七四年2009/02/18(水) 20:34:05ID:yIqkxVX/
>>30
上杉が加賀全域を支配下に置いたことは「一瞬」たりと無かったはずだが。
それと、交易収入加えると250万石とかいう根拠はなんだ?
中世〜近世の主産業は農業で、支配者に入ってくる収入はともかく、産業
収益そのものが、商業が農業を上回るなんてことは無い。
(堺や博多と言った都市のみ、であればともかく)

>>32
今川氏親&伊勢盛時コンビのときじゃない?
相模・伊豆・駿河・遠江の4国支配・・・あれ?67万石くらいか。

38人間七七四年2009/02/18(水) 20:54:28ID:wqV9Vbyq
>>37
つ 鉱山

39人間七七四年2009/02/18(水) 21:00:19ID:JMhlIvn7
略奪での収入は石高換算でどんなもんだったんだろう

40人間七七四年2009/02/19(木) 10:10:53ID:xFeUYP5X
当時の越後や越前は堺よりもでかい商業都市なんだけどな
石高換算は出来ないが

41人間七七四年2009/02/19(木) 10:45:12ID:2vglfkAX
自分の贔屓の大名を持ち上げたいという
意図が透けて見えるレスばっかだな

42人間七七四年2009/02/19(木) 11:26:32ID:uuY+mA62
>>40
さすがに堺よりでかいということはないだろ。

>>41
はやくおちんちんがむけて、気の利いた煽りができるようになればイイネ!

43人間七七四年2009/02/19(木) 12:17:38ID:RAmW4BFX
当時は日本の中でも京が経済規模で他を圧倒していて、堺はその京の外港としての機能で
大きくなったわけだが、京の外港と言う意味では二級の意味しかなかった三国湊(でしょ?)が、
当時工業地帯としての機能まで備えた堺より栄えたなんてありえない。
ましてや越後(笑)

変な書き物に影響されたのか知らんが、冷静になって考えて見ようや。

44人間七七四年2009/02/19(木) 12:42:06ID:xFeUYP5X
いや大阪が京都の港として使われだしたのが秀吉が来てからでしょ
それも大きなものではないし
江戸時代に入ってからじゃない?

交易海運の規模はどう見ても太平洋側弱すぎると思うんだけど
越後の人口は一応国内屈指だし大名はそこそこ安定しているので
自動的に商業は栄えるでしょ 貧乏な国じゃないしね
越前は柴田が治めたときに住んでいる者の多くが他国の人
と言う話が残る
ここの国人にならなければ店を出させないなんて触れを出してる
程で僅かに理解できる
俺の見た資料で大規模交易街は後大分県の地震で消えた島含めこの3つだったよ
ソース名前覚えてないが江戸初期の変な書物なのは違いないけどw
外れているとも思えない

45人間七七四年2009/02/19(木) 13:01:44ID:sPK+xIKl
>>44
堺と大阪を混同している時点で大外れ。出直せ。
あと、太平洋と瀬戸内海を混同するな。

46人間七七四年2009/02/19(木) 13:17:50ID:eEbZny0h
大友家から京へ物出す場合も日本海通る
治安の悪い瀬戸内に船走らせるとは正気の沙汰じゃないな
つかおまいら想定している年代違うだろ

47人間七七四年2009/02/19(木) 13:21:17ID:tt4qncWr
>>46
堺は瀬戸内海を牛耳っていた村上水軍に場所代払って普通に船を行き来させていたんだが。

48人間七七四年2009/02/19(木) 15:01:05ID:L+XAJ7MV
秀吉は何万石あったの?家臣は入れていいの?

49人間七七四年2009/02/19(木) 18:20:53ID:PJZxs4Lf
堺と大坂を混同する自体がアイタタタタタタなんだが
>>46、海賊がなぜ儲かるのか分かるか?そこに商船が多数通るからだ。
瀬戸内海と日本海は西方交易のメインルート。瀬戸内海が危険で通れ
ないってどういう認識なんだ。

それと、明船は太平洋側の小田原まで、普通に往来してるから。太平洋
を通れないなんてことはない。メインルートとは言えないがね。

>>48
大身の他国衆を除いて100万石以上の直轄地(直臣の領地含む)を持った
大名なんて、それこそ織田と豊臣と徳川と北条しか無いだろうな。(北条も
怪しい。)

50人間七七四年2009/02/19(木) 18:40:24ID:RAmW4BFX
まあ北条は徐々に直轄支配というか、他国衆であっても、北条氏代官による土地管理を
進めていってたから、最後期には100万石を越えてたかもね。

51人間七七四年2009/02/19(木) 20:55:28ID:p2ZJTOg/
秀吉は200万石

52人間七七四年2009/02/19(木) 21:00:23ID:9+Ku5tcq
家康は250万石っておかしくない?家臣合わせてるじゃん

53人間七七四年2009/02/19(木) 21:03:32ID:ih64ZWlf
信長は150万石
丹羽は100万石

54人間七七四年2009/02/19(木) 21:37:17ID:Dfr5a+yA
北条氏邦80万石

55人間七七四年2009/02/19(木) 22:23:18ID:eEbZny0h
46は海賊わかってないだろ
パイレーツと勘違いしてね?

56人間七七四年2009/02/20(金) 00:15:32ID:uYn6jt+T
>>55
お前、自分で自分に突っ込んで何がやりたいの?

57人間七七四年2009/02/20(金) 17:07:17ID:eblmhZd1
徳川家康250万石
(最大の家臣は徳川秀忠20万石)

毛利輝元170万石
(最大の家臣は小早川隆景30万石
小早川独立後は毛利秀元20万石)

58人間七七四年2009/02/20(金) 18:25:50ID:E8QQQK0K
徳川家康の関東領国時代の直轄領が100万石強あったらしいが、
他の100万石を越える有力戦国大名の直轄領って
どのくらいの規模だったんかな?

59人間七七四年2009/02/20(金) 20:10:53ID:UGKIH4D4
>>58
3割前後なんでね?

60人間七七四年2009/02/20(金) 20:22:50ID:qQPQ0vhn
徳川家は直轄領が多い体質だね。
家康はそれこそスタートの時点から君主権の強化確立をやりまくってたから、
その結実ではあるな。

61人間七七四年2009/02/21(土) 07:02:05ID:fE5GfFbC
関東に移動で整理整頓できたってのも良いほうに働いたわな

62人間七七四年2009/02/21(土) 10:15:19ID:Lqhsh+0n
佐竹は親類筋を合わせれば100万石

63人間七七四年2009/02/21(土) 13:46:54ID:0CtVCest
じゃあ足利は何万石行くと思ってんだ馬鹿

64人間七七四年2009/02/21(土) 17:09:43ID:Hx4aW3mC
1580年
島津…薩摩、大隅、日向
龍造寺…肥前、筑前、肥後半国
大友…豊前、豊後

長宗我部…土佐、阿波、讃岐半国

65人間七七四年2009/02/22(日) 07:14:22ID:PvUTjLG6
1580年
毛利…安芸、周防、長門、石見、出雲、
隠岐、備後、備中、伯耆、因幡

66人間七七四年2009/02/22(日) 14:39:09ID:XsJZgLcF
もし毛利が織田と誼を結んで四国、九州を本格的に攻めていたらどうなったんだろう?

67人間七七四年2009/02/22(日) 17:42:39ID:DfxfraEn
島津は織田にならすんなり降伏するから戦にならない。

68人間七七四年2009/02/22(日) 19:20:48ID:5Kbpaa3N
>>63
>>62は佐竹義宣の弟達、岩城、多賀谷、葦名のことじゃないのか

69人間七七四年2009/02/23(月) 00:35:30ID:+mWgVJTC
岩城とか葦名を佐竹領として組み込むなよ

70人間七七四年2009/02/23(月) 01:14:34ID:cZbElYEg
>>68
それがありだと、大友宗麟の弟の大内義長が当主だった頃、
大友は200万石クラスの巨大大名ってことになる罠。

71人間七七四年2009/02/23(月) 01:21:43ID:2CCGavU7
さすがに、北畠信雄や神戸信孝、大石氏照や藤田氏邦、吉川元春や小早川
隆景の関係と、佐竹と関係諸氏との関係は違う罠。

72人間七七四年2009/02/23(月) 23:25:38ID:cEq2UghN
跡取りとして養子に出したという点では
毛利における吉川や小早川の関係と同じだから
その周辺地域でもう10年くらい佐竹義重が暴れる時代があれば
自然と佐竹の下に組み込んでよさそうみたいな仮定を含めたレス。

73人間七七四年2009/02/24(火) 00:11:21ID:rD0EHo2s
佐竹と芦名、大友と大内のように対等に近い勢力に養子に出してその家の
跡取りになるのと、織田と北畠・神戸、北条と大石・藤田、毛利と吉川・小早川の
ようにあきらかに勢力の力関係に差がある場合とでは全然違うものだし。

74人間七七四年2009/02/24(火) 00:17:53ID:J005JqPH
>>72
すぐ南に北条がいるのに、佐竹が自領拡大に専念できるはずも無い。
むしろ、いかにして北条を防ぐか、が至上命題な状況。

75人間七七四年2009/02/24(火) 00:19:53ID:v+xCGVxx
だな。佐竹と蘆名、大内と大友の件は、江戸時代で言えば北条や真田に伊達の人間が
養子に入ったから、それらは伊達の勢力下に入ったというようなものだ。

76人間七七四年2009/02/24(火) 06:31:13ID:tL6tWXPD
>>75
北条に伊達の人間が養子入りした事実は無い。

77人間七七四年2009/02/24(火) 06:41:02ID:iE2nnjPk
毛利だって小早川や吉川と
さして勢力差があったわけではない。
毛利も佐竹とほとんど同じ。

78人間七七四年2009/02/24(火) 06:59:08ID:I+6fxXyz
tes

79人間七七四年2009/02/24(火) 07:02:44ID:I+6fxXyz
やったあああああああああああああああ
規制解除!ありがとうみんな

>>76
よく北条の子孫は創価だけど途中で伊達から養子をもらったから
どうのこうのってのをよく見た気がする
あれのソースがどっから来てるのかは知らんが

80人間七七四年2009/02/24(火) 08:10:05ID:M3uiGrAU
吉川・小早川を素早く従属・家臣化させることに成功した毛利と
岩城や葦名もままならなかった佐竹を同列で語れるわけねーだろw

81仙台藩百姓2009/02/24(火) 13:28:25ID:xoTMjXFG
>>79
正確に言うと北条は堀田家から養子を貰ったわけで
伊達と直接縁組した事は一度もないと言う意味だと思うお( ^ω^)
血筋で言うと
仙台藩6代藩主伊達宗村公の8男正敦が堀田家に入り
その正敦の5男正衡の7男が北条に入り
狭山藩12代藩主北条氏恭を名乗ったわけだから
一応伊達の血を引いているのは間違いないお( ^ω^)

82仙台藩百姓2009/02/24(火) 13:44:20ID:xoTMjXFG
>>73
佐竹と葦名が対等のわけあるまいお┐ (´ω`) ┌
佐竹はせいぜい十数万石、洞中合わせて二十万石前後
葦名は三十万石弱、洞中合わせて五十万石前後だお

83人間七七四年2009/02/25(水) 07:35:10ID:k2Vm0uG4
葦名の仙道方面のあれらは洞中ですらないよ。

84人間七七四年2009/02/25(水) 13:22:59ID:viEsQuF1
佐竹は洞中で最大8000くらいの動員力はある。
小田も降伏させてるし20万石なんて事はない。

85人間七七四年2009/02/25(水) 15:15:20ID:0Q6VNz9N
水戸藩領(久慈郡・那珂郡・多賀郡・茨城郡・行方郡・鹿島郡・下野国の一部)
で実高20万石弱だったから
佐竹の支配領域は行方・鹿島は含まれず、真壁・筑波郡の一部及び陸奥高野郡が含まれるから
時期によって変動があるが25万石前後は妥当だと思う

86人間七七四年2009/02/25(水) 17:18:45ID:TR4gJIeD
上杉を景虎が継いでいたら
北条は伊豆から加賀まで
ぐるっと武田を包む形になって相当でかくなる

87人間七七四年2009/02/25(水) 18:01:26ID:WKJXPmwM
>>86
計400万石弱かwww
北条厨でもそんなことは言わない罠。

>>62が言ってるのはそんなレベルだってことだな。

88人間七七四年2009/02/26(木) 02:32:07ID:2z8s1/Yg
本能寺時点の秀吉は宇喜多領抜きでも100万石ありそうな気がする。
江戸期の池田輝政一族領に相当する場所+長浜

89人間七七四年2009/02/26(木) 08:07:28ID:B6uYIfer
毛利も佐竹も変わらん

90人間七七四年2009/02/26(木) 08:12:09ID:Guv00nh7
>>89
と、佐竹信者は信じたいようです。

91人間七七四年2009/02/26(木) 08:42:33ID:B6uYIfer
>>90
基地外毛利厨ですね。
関ヶ原でも毛利本家に従わず、吉川も小早川も自家の都合で
バラバラに動いてたくらいだから上杉と徳川のどちらに付くかで揉めた佐竹よりも求心力がなかったわけだが。
なんせ佐竹は関ヶ原当時、寄騎も基本的に佐竹にちゃんと従ってたし。

92人間七七四年2009/02/26(木) 09:14:28ID:5mRLzYcc
石高で比べるなら、佐竹と毛利を同列に扱うのは無理があるだろう……

93人間七七四年2009/02/26(木) 09:23:00ID:ukGRP6jE
佐竹の中の人も大変だな

94人間七七四年2009/02/26(木) 09:24:52ID:h36bDZFv
関ヶ原当時で言えば佐竹(80万石)+相馬他で100万石突破じゃね?
ここは武将の優劣を語る場じゃないよね

95人間七七四年2009/02/26(木) 09:29:58ID:CsCdQkYO
佐竹は連合国みたいなもんで佐竹家自体の石高は大した事ない
ひるがえって北条・前田・上杉・伊達・毛利は本家の石高は高い
秀吉が天下統一してなかったら伊達と北条に攻められて連合国崩壊
瞬時に滅亡していた

96人間七七四年2009/02/26(木) 09:37:09ID:h36bDZFv
関ヶ原当時と言ってるだろ!

本家てなんだよw

>秀吉が天下統一してなかったら伊達と北条に攻められて連合国崩壊
瞬時に滅亡していた

他いけ

97人間七七四年2009/02/26(木) 09:38:43ID:WuHMPLTN
地元の人間として言わせて貰うが
佐竹も義宣以外ほぼ全員西軍加担に反対して義宣も身動きが取れなかった
与力大名も多賀谷は勝手に小山襲撃しようとしてたし
相馬は途中から東軍加担して上杉領に攻め込んだし
東家は義久が自分の手勢で秀忠に参陣したし
車は上杉に参陣したし(この男はどういう立場なのか謎だが)
豊臣政権下で洞の解体が進み中央集権化が図られたと言っても
まだまだ自立性が高く大名の意思だけで事を決するのは不可能だった
こういった確執が後に川井事件として表面化してくるわけだが…
まあ、家中の統制が取れていなかったのは佐竹も同じだよ

そもそも太閤検地の数値で見る限り与力大名合わせても80万石弱ですけどね

98人間七七四年2009/02/26(木) 09:45:11ID:h36bDZFv
>そもそも太閤検地の数値で見る限り与力大名合わせても80万石弱ですけどね
太閤検地かよ

99人間七七四年2009/02/26(木) 09:51:08ID:8/akm1Pj
常陸一国で53万石。小田原征伐前でも南部の一部を除いて全域に勢力
行き渡ってるから洞合わせて40万石はあるだろうな。25万石なんて事は絶対にない。
鹿島の方だって勢力下だったし。

100人間七七四年2009/02/26(木) 10:15:14ID:gNU4HqK3
100ゲット

101人間七七四年2009/02/26(木) 10:16:21ID:WuHMPLTN
>>98
みんな太閤検地の数値で言ってるでしょ

ここも勘違いしてる人が殆どだけど佐竹領が54万石であって常陸一国は54万石じゃないです
陸奥と下野の一部を含み、今で言う県南地域(土浦以南)は含まない地域で54万石
小田原征伐直前だと、これも勘違いしている人が多いが
小田氏などはいまだ健在で藤沢を根拠に勢力を保持していた
佐竹が支配に組み込んだのは北郡一帯で
信太、東條、田中、河内、豊田あたりは小田の支配からも脱して北条に組していた
鹿島、行方は大掾の洞中(一部江戸)
茨城郡、那珂郡の海側は江戸の支配地
笠間一帯は宇都宮の洞中
里美や多賀郡北部は岩城の支配地
なわけだが
小田、江戸、大掾をどう扱うかによって大幅に勢力地が変わってくるね

102人間七七四年2009/02/26(木) 10:29:15ID:h36bDZFv
なんでそんなに必至なの?

103人間七七四年2009/02/26(木) 10:37:10ID:Guv00nh7
>>102
必死なのは君だけだよ。

104人間七七四年2009/02/26(木) 13:09:52ID:BqxQFbnc
マイナー大名厨は何とかしてメジャーな奴らと肩を並べたがるからな
佐竹の養子縁組と毛利のそれが同列とかどんな妄想だよww
優勢にありながら片目の若造に結局は押されまくった佐竹
秀吉に泣きついて天下六大将と呼ばれるもほんの10年で泡と消え、
僻地に飛ばされちまったじゃねーか

105人間七七四年2009/02/26(木) 16:03:46ID:B6uYIfer
佐竹は伊達に負けた事なんてまったくないわけだが。
むしろ政宗が佐竹に半殺しにされた事はあるが。

106622009/02/26(木) 16:51:52ID:hfDOdD9T
久しぶりに来て見たら俺のレスのせいで荒れてなんか申し訳ない

107人間七七四年2009/02/26(木) 17:50:37ID:2UiormE5
スレが勢いづいたんだからいいってことよ

108人間七七四年2009/02/26(木) 18:03:42ID:5mRLzYcc
方向性はともかく、盛り上がらないよりはよっぽど良いわな

109人間七七四年2009/02/26(木) 18:24:33ID:WuHMPLTN
そもそも佐竹は100万石大名じゃないからスレ違い
佐竹議論は佐竹スレへどうぞ(過疎ってるし)

110人間七七四年2009/02/26(木) 18:30:44ID:yLp85JTs
佐竹は普通に政宗相手に涙目じゃん
お友達も親戚もいっぱいいたのに
最後は虫の息になった相馬しか残ってなくね

111人間七七四年2009/02/26(木) 18:30:59ID:Guv00nh7
それこそ応仁の乱の頃の、細川とか山名とか、石高にすればどのくらいだったんだろ?

112人間七七四年2009/02/26(木) 19:01:11ID:B6uYIfer
佐竹優勢下だったが、秀吉の惣無事令のために葦名救援がやりづらくなったから弱体化して自立できない葦名が自壊しただけ。
葦名が自壊してなければ、義重本隊と葦名軍で挟撃されて政宗が死んでたね。
さらに須賀川や会津の平定にも政宗は失敗し、小田原参陣への道が封鎖され、困って追い詰められた伊達は家臣が分裂し母が政宗暗殺クーデター未遂まで引き起こされたね。
会津には上杉軍が進撃開始して、佐竹も北上準備してたけど、秀吉が北条を先に潰すから政宗は無視しとけって言われて命拾い。
佐竹自体は人取橋で伊達軍の崩壊を確認して帰ったりしてるわけだが。
郡山合戦でも囮に食い付いて砦から出てきた伊達軍をフルボッコしたから、伊達は陣から引きこもり出てこなくなったわけだが。

113人間七七四年2009/02/26(木) 19:24:22ID:qwy+XQ5D
>>111
巨大守護大名、実効支配力が弱いからなぁ。

114人間七七四年2009/02/26(木) 20:36:02ID:yLp85JTs
そんなメクラの雑魚宗に葦名・畠山・二階堂・石川・白河・岩城らをみんな取られて
せっかく築き上げた南奥の地盤を全て失った佐竹の養子縁組が
毛利両川と比較できるようなものなら雑魚宗相手に苦戦したりしませんよ
いい加減に佐竹厨は夢から覚めなさい
鬼義重だの坂東太郎なんてまやかしに過ぎず、
元々は常陸1国すらままならない旧来の守護で
太閤に取り立ててもらってこその大身だったことに

115人間七七四年2009/02/26(木) 21:19:22ID:2z8s1/Yg
面積は広くても山岳や雪国に割拠して
生涯かけてようやく100万石の武田や上杉と
平野に割拠した織田や北条など

116人間七七四年2009/02/26(木) 22:33:43ID:WuHMPLTN
>>114
ただ毛利叩きたいだけの奴が適当に言ってるだけだから佐竹厨など存在しない
戦国期の佐竹は当知行の観点から言えば奥七郡の支配もままならず僅か数郡の支配に留まる
葦名への入嗣は葦名当主がたまたま三代続けて急死した事から持ち掛けられただけで
それ以前は高野郡の回復が目下の政策であって特別意図したものではなく
降って湧いたような話しでしかない
義重は南陸奥への危機感がなく、まさか政宗があれほど急進策を取るとは夢にも思わなかった感は否めない
南方の政策だけでも敵国があまりに強大過ぎて手に余るものなのに
北からも圧迫されては手の付けようがなかったのもやむを得ないとは思うが
必要に迫られていたのも事実である
その原因にあるのは100年以上前の山入一揆にあるわけだが…
まあ、スレ主旨から脱線しすぎだな

117人間七七四年2009/02/27(金) 03:11:46ID:LCpbRAyf
まぁ佐竹なんてどうひっくり返っても100万石には届かない

118人間七七四年2009/02/27(金) 06:10:33ID:r7F2V/W4
葦名への養子送りは降って湧いた運が良かっただけのものではなく、佐竹側代表の太田三楽の交渉手腕によるもの。
葦名は佐竹や上杉が惣無事令で支援ができなかったから滅亡しただけ。
実際、惣無事令で佐竹から支援がもらえないなら伊達に付くと重臣たちから佐竹へ書状まで出されている。
義重は秀吉から伊達と和睦しなかったからどうなるかわかってんだろうなと恫喝されていた。
岩城や石川や白河らは、佐竹同様に惣無事令の両成敗を恐れて一時的に伊達との戦闘を回避する為の方便でしかない(九州まで制圧した秀吉が雪解けしたら小田原征伐を開始するのはすでに決定済なのは奥羽とて周知の事実)
4ヶ月後の小田原征伐に向けて家康や上杉や前田は準備を開始していた時期の惣無事令の両成敗の強制力が無ければ、
佐竹が葦名らを積極援助してたのは間違いない。
葦名や岩城らに義重は養子を送り込んでるのは南奥で覇権を確立したからに他ならず、毛利における小早川や吉川と変わらない。
ただ惣無事令と小田原征伐が佐竹にとっては利なく不幸であった。

119人間七七四年2009/02/27(金) 06:16:54ID:yyskgkjr
佐竹はもういいよw

120人間七七四年2009/02/27(金) 06:17:27ID:LCpbRAyf
これは例の荒らしくんですね、分かります

121人間七七四年2009/02/27(金) 09:24:08ID:PRvK8PYp
>>118
伊達との入嗣争いに勝利したのは三楽斎の手腕によるものに違いないが
葦名の養子問題が起きたのは偶然に外ならない
義広入嗣以前には積極的に南奥(高野郡以外に)侵略しようとした形跡もない
惣無事令の為に葦名を支援しなかったというのも
同時期に佐竹・岩城・相馬が長期に渡って三春進攻を行った事実からすると矛盾がある
だいたい、家臣団を掌握し当主を逐って息子を当主に据えた毛利両川と
単に無嗣入嗣を行った葦名を同じものとするなど
佐竹の事も毛利の事も知らないとしか思えない
この論法では上杉から養子を迎えた佐竹も上杉の配下という事になってしまう
白河結城についてなら毛利両川と似たケースと言えるだろうけど

122人間七七四年2009/02/27(金) 10:34:39ID:wOgKUfYo
佐竹は実高80万石と出てくることがあるけど、土佐や出羽同様、手心が加わった
石高といううわさのある太閤検地で常陸は53万石だけど、新田開発のある程度
進んだ寛永期でも75万石なので、太閤検地の53万石は妥当な数字だと思うけどなぁ。

この佐竹80万石というのは常陸の佐竹本領だけではなく、相馬などを含めての数字と
なっている場合もあり、どうも根拠がはっきりしない。

ただ、常陸には鉱山があるので、実収が80万石あったかもしれないけど。

123人間七七四年2009/02/27(金) 10:54:03ID:PRvK8PYp
佐竹80万石の内約は
佐竹 約54万石
(与力大名)
岩城 約11万5千石
相馬 約6万石
多賀谷 約6万石
を合計してだいたい80万石になるというのが元ネタ

124人間七七四年2009/02/27(金) 10:58:23ID:ybrAmGAh
>>111
1国の平均が30万石前後
(江戸期の国持ち基準)とすれば11州の山名は300万石

125人間七七四年2009/02/27(金) 12:06:35ID:wOgKUfYo
>>123
なるほど。それが佐竹だけで80万石、岩城、相馬、多賀谷などを足せば100万石
などと話が拡大していったわけか…

126人間七七四年2009/02/27(金) 13:28:54ID:ybrAmGAh
天下6大将が
百万石ないと格好つかないし
他の5人は百万石大名
(島津は元百万石超え)

127仙台藩百姓2009/02/27(金) 13:56:42ID:StMLtFK9
天下六大将なんで誰が言ったかしらんけど
豊臣政権下で100万石超えてたの徳川・毛利・上杉の3人だけじゃんお( ^ω^)

128人間七七四年2009/02/27(金) 14:02:56ID:mHNPpkNb
大内氏の漫画みたいな金持ちっぷりは凄い。
100万石なんてケチなもんじゃない。

一体勘合貿易でどれだけもうけてたんだろう?

129人間七七四年2009/02/27(金) 14:06:55ID:gEDBb8H/
徳川家康は、本能寺の変後に、甲斐・信濃南部を制圧した勢いで、
上杉景勝と合戦して、
信濃北部や、あわよくば越後進攻を考えた事は無かったのでしょうか?

130仙台藩百姓2009/02/27(金) 14:31:55ID:StMLtFK9
そんな余裕はなかったお┐ (´ω`) ┌
甲信上州は織田の統治期間が浅かったから
それぞれ保持を諦め放棄したお陰で
ほぼ空白状態になった事から三者はここぞとばかり侵攻したわけで
まさか地生えの勢力と正面からぶつかるとなると一朝一夕に勝負は決しないお
それぞれ別の敵も抱えていたし無理押しは避けたかったから
皆、妥協案を練って和解したわけだお( ^ω^)
秀吉の西国平定が長引けば真田の問題もあったし上杉との合戦は必至だったかもしれんけど

131人間七七四年2009/02/27(金) 14:37:12ID:FQDPh6g9
>>127
丹羽長秀は120万石。息子の代で減封食らったし、減封食らったときの1585年じゃ
豊臣政権下とはいえないというかもしれないけど、減封を食らったということは
豊臣政権下の大名ってことだし。

織田信雄も約100万石。1590年の小田原遠征後に改易だから、確実に豊臣政権下の
大名だ罠。丹羽よりもさらに長持ちだし。

蒲生は会津92万石だったけど100万石と号していたけど、これは置いとくか。

あと、忘れちゃいけないのが大和大納言。立派な独立大名。

132人間七七四年2009/02/27(金) 14:48:58ID:AK9+IK6d
筑摩や安曇郡北部、小県等信濃中部で激しい抗争があって上杉、徳川も
それぞれ敵方に働きかけてる。麻績や青柳、仁科地方等を巡って戦っているし
埴科郡の屋代秀正や小県の室賀、更級の塩崎氏等が家康の誘いにのって内通するが
上杉が麻績、青柳、屋代ら討伐のため出兵すると逃亡したようだ。
しかし小笠原は家康の支援を受けつつジワジワと安曇や筑摩を攻略していったようだ。
84年には上杉に大敗してるが新発田対策のため越後に引き返すと反撃に出て
麻績、青柳を攻略してるし。

133仙台藩百姓2009/02/27(金) 15:15:47ID:StMLtFK9
>>131
いや
六大将(徳川・前田・毛利・上杉・佐竹・島津)での話だお( ^ω^)
だいたい何を根拠にこの六家なんだか
島津、佐竹はまだしも他の連中は土豪の成り上がりじゃんお┐ (´ω`) ┌
まあ、豊臣政権の六大将だからそれでいいのかもしれんけど( ^ω^)


134人間七七四年2009/02/27(金) 18:04:32ID:pi+RZ5s6
確か雪の峠という漫画で「関が原時、佐竹は親類筋を合わせれば100万石」
という台詞があるからそれが元ネタになったんじゃないか

135人間七七四年2009/02/27(金) 18:20:59ID:cV2f0aOd
>>134
与力大名込みで80万石、(東軍について)勝てば津軽か九州で百万石
って台詞だったと思う

136人間七七四年2009/02/28(土) 08:47:31ID:MGiQ3fBD
>>積極的に南奥侵略
それは義重が葦名に出した書状で
「今後は私の指示に従ってくれるのですね。わかりました」みたいな事を言ってるように、すでに実質的には佐竹に服属してたからじゃないか?
>>三春侵攻を行った
秀吉が惣無事令をもって直接、義重に圧力をかけてきたのは伊達との和睦についてであり、弱小ザコ大名については秀吉自身どうとも思ってなかったよね。
例えば相馬に至っては小田原征伐に参陣すらしてないのに許されてるし。

137人間七七四年2009/03/01(日) 13:07:24ID:rB2JlcXJ
そういや南部も小田原参陣してないね。
最上は政宗より遅く小田原参陣だし。

138人間七七四年2009/03/01(日) 14:59:51ID:PnLNiH/e
>>137
最上は許可取った上の遅参だし。

139人間七七四年2009/03/01(日) 17:48:55ID:NM/fwpJZ
>>136
それは白川の扱いについてであって葦名が佐竹に従わなきゃならない理由なんてないし
後にも先にも佐竹に服属した事実などない

摺上原の戦いでは元々葦名、佐竹、相馬、岩城らで三春や二本松などを攻め
仙道から伊達勢を駆逐するために出陣した
しかし突如猪苗代が離反し伊達を会津に引き入れた為
葦名勢は急ぎ会津へ引き返し、佐竹や岩城は城攻めを継続した
だが葦名が摺上原で大敗し僅か数日で滅びると言う予想外の事態が起き
三春攻略どころではなくなって退却した
葦名の敗因と惣無事令は関係ない

140人間七七四年2009/03/01(日) 19:59:57ID:jxOWkFjt
佐竹絡みで、伊達ネタなんだが・・・
Wikipedia含め、伊達の最大勢力を150万石とか書いてあるのが結構あるんだが
これのソースは何だろう?

どう計算しても太閤検地ベースで150万石はおろか、120万石にも足りない気がす
るのだが。

141人間七七四年2009/03/01(日) 21:32:47ID:NM/fwpJZ
後の上杉領は大まかに見て
伊達、葦名、田村、二階堂、大内、畠山、石川、白川
の範囲ぐらいだが、これで120万石
これに岩城11万5千石と大崎20〜30万石
あと相馬と佐竹領を多少分取っていたからだいたい150万石なんだろうと思う
大崎、石川、白川、岩城辺りを伊達領に入れていいものか検討の余地があるけど

142人間七七四年2009/03/01(日) 22:14:56ID:jxOWkFjt
>>141
後の上杉領って、その他に庄内と下越含めてじゃなかったか?

143人間七七四年2009/03/02(月) 11:15:02ID:NRAC63uO
>>142
ほかに上杉領には佐渡や白石のある刈田郡も入ってる。
伊達輝宗時代の勢力圏で120万石くらいだろ。
最大でも政宗は75万石くらいだろ。

だって
上杉軍先陣が南会津へ侵攻を開始し景勝本隊も三条あたりまでやってきて、佐竹が北上予定だったけど、秀吉が小田原殺るから、その準備しろって言われて帰った後でさえ
南会津や須賀川の反乱が相ついで鎮圧失敗してるし。
政宗の小田原参陣は大内宿から南下できず引き返し、越後の道を借りて参陣してるって事は白河結城だって政宗に属してたとはお世辞にも言えない。
実際、政宗の支配地域は郡山より北だけだな。

144人間七七四年2009/03/02(月) 12:26:52ID:cyDvXbo/
輝宗時代より少ないと言うのはいくらなんでもデタラメ過ぎるかとw

145人間七七四年2009/03/02(月) 16:45:17ID:qJIZD8CG
支配力が弱い勢力圏で考えると、輝宗の頃のほうが広いというのもありえるな。
政宗はアレな外交政策の結果、友好勢力を敵対化してしまったので。
直轄に近い支配力の強い勢力圏は広がったけど。

146人間七七四年2009/03/02(月) 18:16:55ID:cyDvXbo/
有り得ないよ
輝宗時代は伊達領以外に支配の及んだ地域なんてないし
政宗は全て敵にまわして全て降したし
輝宗時代より増えた地域はあっても減った地域はない

147人間七七四年2009/03/02(月) 20:07:14ID:7ME8itgb
例の名無しキチガイ荒らしだろ
輝宗時代より減ったとか言ってるアホは
最上スレも荒らしたやつだよ

148人間七七四年2009/03/03(火) 18:36:41ID:TDHn/raj
葦名盛氏死後の輝宗はもっと大きいだろ。
葛西や大崎も隷属下に置いてるし
佐竹に奥羽は伊達に従うって言ってるから(暗に佐竹に奥羽に手を出すなって言ってる)
そもそもそれらが岩城の兄貴に対して表明してるように
対信長戦を想定してのものなわけだし。

149人間七七四年2009/03/03(火) 19:10:28ID:TDHn/raj
>>139

天正7年正月に白河城へ佐竹義広を入れる事に成功
(12歳の政宗へ田村の愛姫が嫁ぐ)
天正8年6/17に盛氏死去。
天正8年7/6の葦名盛隆→義重への書状で
伊達と同盟したことに力を得た田村の郡山方面での暗躍に困って
佐竹義重に、この上は御使相重ねられ、何事もなき様に任せ入り候と佐竹に頼み込んでる。
7/10には佐竹家臣の小貫佐渡守から、ここに御指南の旨仰せ越され本望に存じられ候。と葦名へ返答してる。
これは葦名が佐竹に従うことが確実になったことを示している。
盛氏時代から連戦連敗してた義重の指揮下に入ってでも田村氏を抑えようとする戦略である。

摺上原においても佐竹はあくまで伊達本隊と衝突して
秀吉の直接命令への違反を避けた。
そのために田村攻めを継続して、会津へ向かった伊達軍を追わなかった。
翌年早々の佐竹の北上も伊達と接触しなかった。
明らかに秀吉から恫喝されてからの佐竹は伊達との交戦を避けていたし
葦名家臣団からも佐竹が葦名への支援から手を引くなら伊達を頼るしかないとまで言われている。

150人間七七四年2009/03/06(金) 07:00:47ID:KfvGjSAj
>>143
本領安堵分が72万石
秀吉に削られた領地(後の蒲生領)が42万石
実高はともかく112万石でいいんじゃね?
あとは「馬打ち同然」の葛西・大崎領(約30万石)をどう捉えるかで変わってくる

100万石級は意外と多いけど200万石オーバーは島津くらい?

151人間七七四年2009/03/06(金) 07:19:58ID:27v19ymN
米沢30万石(置賜、伊達、信夫)
→会津112万石(芦名滅亡)
→米沢72万石(奥羽仕置、芦名領を召し上げ)
→大崎58万石(蒲生、浅野らの讒言)
→大崎60万石(対上杉への疑惑などでお墨付き反古、刈田郡のみ加増)
→仙台62万石(近江の最上領など加増)
→仙台72万石(大阪の役論功行賞、南伊予を加増)
→仙台62万石(長男・秀宗の独立、宇和島立藩)

152人間七七四年2009/03/06(金) 09:24:48ID:wdDcDnb+
葦名時代の石高は22〜24万石しかない。
100万石以上って何の冗談だ?気持ちわりぃ。

153人間七七四年2009/03/06(金) 12:11:17ID:vol1/OrH
>>150
つ 北条

154人間七七四年2009/03/06(金) 12:37:29ID:0SEoRCVq
>>150
・・・島津は200万石越えてないだろ。

200万石越えといえば、初期の大内、細川、中期の三好、後期の織田、北条
までだろう(自力で得た領地で、かつ戦国時代を小田原の役までとして)

155人間七七四年2009/03/06(金) 16:18:08ID:/ZsNftYU
>>149
飛躍しすぎ
当時の状況からして白川や南郷に対しての事と考えるのが妥当
それに指南=従える、ではない
佐竹宗家も東家や南家などに指南を受けている
その論法では佐竹宗家が東家などに従属したことになる
そもそも指南とは案内役程度の意味で目下から目上に対するものが多い
この事からも佐竹と葦名の立ち位置が分かると思う

摺上原当時の状況が根本的に間違っている
当時政宗は仙道を南下し郡山周辺の諸城を攻略し、更には田村から相馬勢を駆逐した
この事より相馬岩城が田村領をめぐって伊達と対峙し
佐竹は相馬らの支援の為に出陣し田村領を攻め
葦名も田村攻めに加わるべく岩瀬へ向かった
一方、政宗は大森を拠点に相馬領を攻め、主力を田村領に入れて防がせた
しかし、ここで壷下口を守備していた猪苗代が謀反
これを聞いた葦名は急遽岩瀬から会津へ引き返し
これを好機と見た政宗も転じて急ぎ大森から猪苗代へ向かい
三春を守備していた片倉や成美達も直ぐさま来るよう命じられ慌てて合流し
岩瀬より戻って来た葦名勢と摺上原で激突した
と言うのが全体的な流れ
つまりは伊達の占拠する田村領を攻める為に葦名佐竹岩城相馬が出陣し
伊達も田村領に集結してここが主戦場になるはずであったが
猪苗代の離反で会津への道ががら空きになった為に政宗は矛先を転じて会津へ急行
政宗がそこまで狙っていたとは思えないが結果的に佐竹らは陽動される形になった
本来はすぐに勝負が決するものではないが
積年の葦名宗家に対する不信感や不満によって離反が相次ぎ
思いもよらぬ呆気なさで政宗に会津が転がり込んで来た
というのが事のあらまし
惣無事令云々ではなく初めから田村領で伊達と対峙するつもりが肩透かしを食らっただけの話し

156人間七七四年2009/03/06(金) 17:09:00ID:wdDcDnb+
>>155
白川や南郷だけじゃないだろ…伊達厨って佐竹を貶めることに必死だな。
身内の叔父に指南してって言うのと、他家が指南してって言ってくるのでは内容が全然違うだろ。
だいたい葦名は指揮権すら佐竹に預けているだろうに。
それにしても伊達妄想脳の人間は話にならんな。
どんなに言い逃れしようが実際、摺上原寸前の時期の秀吉に、伊達と和睦しないで惣無事になんか異議があるなら富士を見る時に聞こうか?と脅迫された佐竹は郡山方面を北上せずに、田村の三春の支城方面に出ることで、徹底的に伊達と回避して戦ってないのは事実なわけだが。

157人間七七四年2009/03/06(金) 17:12:56ID:LixUx5z3
>>156
自分が気に入らない事を言う人間に、○○厨などとレッテルを貼る時点で、
まともな議論をする気のないコミニュケーションを拒絶した人間として、言っている内容も含めて
相手にされなくなるんだよ。
世間では。


君が社会に出ることがあるのかどうかは分からないけど、よく覚えておこうな。

158人間七七四年2009/03/06(金) 17:24:40ID:0SEoRCVq
>>155-157
良いから、お前ら余所でやれ。
スレ違いだ。

159人間七七四年2009/03/07(土) 00:15:04ID:bgugRa51
>>157
厨房とか書かれるのが嫌なら2ちゃんなんて二度と見るなよ…恥ずかしいよお前。

160人間七七四年2009/03/07(土) 08:10:48ID:ZibvnIfR
島津が百万石にいったのはたった一年ぐらい

161人間七七四年2009/03/07(土) 09:20:36ID:7asJ7pXb
>>156
一体いつ佐竹に指揮権を預けていたのかね?
身内と他人で意味が違うというのも根拠ないし
摺上原当時に伊達が三春に入っていたのも事実だ
そもそも佐竹が自ら伊達と決戦しようと出陣した事など過去にもあるまい
根拠もなく伊達厨呼ばわりしてる時点で
あなたこそ伊達が嫌いで内容などどうでもよく貶ようとしているだけでしょう

162人間七七四年2009/03/07(土) 10:58:08ID:7asJ7pXb
スレ違いになってるので一つネタを…
会津鑑によると葦名盛氏時代の所領は160万石余だそうです
質問苦情等は受け付けません

163人間七七四年2009/03/07(土) 11:54:28ID:DYaSY9vu
そもそも葦名が劣勢な田村の攻勢に対して
佐竹が会津まで出張ってきたりして
安積郡の御代田城攻めなんかは佐竹主導だったし。

伊達の援軍の入った三春城ではなく三春城の支城を攻めたと書いてるわけだがw

>>佐竹が自ら伊達と決戦しようと出陣した事など過去にもあるまい

人取橋や窪田の戦いも知らないんですねw

164人間七七四年2009/03/08(日) 02:00:12ID:A+cviHvM
ここは何のスレ?

165人間七七四年2009/03/08(日) 03:10:39ID:A+cviHvM
島津は江戸時代百万石だと思ったけど何で聞いたんだかな…

166人間七七四年2009/03/08(日) 03:18:08ID:Qbk18K1u
>>165
江戸時代を語るなら実高じゃなく表高だろ(太閤検地ベースなら)。
で、100万石越えは徳川宗家を除けば加賀前田家のみ。

んで、佐竹も伊達も100万石をまともに支配したこと無いのでスレ違
い、と。

167人間七七四年2009/03/08(日) 08:12:25ID:P03DhLlh
>>162
嫡男葦名盛興が生存していた盛氏最盛期でも160万石なんて全く無い。
二階堂盛隆の時は家臣に黒川城を乗っ取られたりした挙げ句に暗殺されるし、
亀王丸に至っては20万石程度の支配力しかなかった。
佐竹義広時代は重臣バラバラで纏められなかった。

168人間七七四年2009/03/08(日) 08:45:28ID:dW3BNoRU
>>165
薩摩藩は火山灰の降り積もった荒地ばかりでどんなに下駄を履かせたって100万石には届かん

169人間七七四年2009/03/08(日) 18:42:44ID:niW69HF6
>>163
当然三春を攻める為に支城を攻めていたわけだが…
何の為に支城があるとお思いか?
支城とは核となる本城を守る為に築くものなんです
御代田城攻撃は須賀川を攻めた田村に葦名が報復した戦い
総大将は盛隆であって佐竹はその後詰めに来たに過ぎない
和睦も葦名田村間で取り仕切った
人取橋は伊達が二本松を攻めた事から葦名に救援を依頼し
葦名も周辺諸氏に増援を依頼し戦ったもの
主力は葦名で、当主の亀王丸が幼児のため金上盛備と四天の合議で執り行われた
奥羽永慶軍記の誇張を検証もなしに引用した者が多かった為に
佐竹と伊達の戦いのように流布されてしまっているが
これは完全に二本松をめぐる葦名と伊達の戦いである
窪田の戦いも同様
葦名が仙道から伊達の影響を排すべく出陣し佐竹に援軍を頼んだ
ただ、この頃は義広入嗣後であり義宣も積極的に動き出していて
葦名主導の戦いから連合の戦いへ移行している

170人間七七四年2009/03/09(月) 16:34:21ID:I9S0jYgb
三春城には伊達の援軍が入ってるので攻めない。
あくまでも支城で油を売ってるわけだ。


天正8年7/6の葦名盛隆→義重への書状で
伊達と同盟したことに力を得た田村の郡山方面での暗躍に困って
佐竹義重に、この上は御使相重ねられ、何事もなき様に任せ入り候と佐竹に頼み込んでる。
7/10には佐竹家臣の小貫佐渡守から、ここに御指南の旨仰せ越され本望に存じられ候。と葦名へ返答してる。
これは葦名が佐竹に従うことが確実になったことを示している。
盛氏時代から連戦連敗してた義重の指揮下に入ってでも田村氏を抑えようとする戦略である。
この時に「無二糾明に及ぶべからずに候」と義重家臣が盛隆に送っているのは特筆される。
「糾す」とは「正す」の意であり、古代中国において王など上位者が使う漢字である。
しかも盛隆→義重に対して、義重の配下→盛隆である。
どちらが上位者かは明白。
天正9年の御代田攻めは、言わば盛隆の実家須賀川二階堂氏の安全を葦名独力で
伊達の後援を受けた田村から守れず、
白河を支配してる佐竹に従うことで須賀川の安全を守ってもらう意図である。
無二糾明とは義重が主人として仙道を中心として新秩序を打ち立てる表明に他ならない。

人取橋の戦いは畠山への攻囲に対してなんら手を打てない葦名らが
対北条戦忙殺している佐竹に救援依頼したのは事実だが
実際に戦いが始まると佐竹が人取橋正面を担う主力となり、茂庭を討ち取り政宗本隊500m
まで肉薄し銃撃を浴びせ、政宗を岩角城へ背走させており、その他諸将は左右を進むなど
指揮の主導権は完全に佐竹が担っている。
これを葦名と佐竹の戦いだとするのは無理がありすぎる。

葦名盛興が早世し、衰退していく葦名を見ながら盛氏が死に、
二階堂盛隆の時は家臣に黒川城を乗っ取られたりした挙げ句に暗殺されるし、
生まれたばかりの亀王丸が当主では・・・そこまで葦名の力はない。
政宗を過大評価させる為に葦名を過大評価したり、
輝宗や佐竹を過小評価しようとするのは史略を愚弄する行為だろう。

171人間七七四年2009/03/09(月) 18:06:58ID:taBbn5rB
>>169
そもそも御代田の戦いは佐竹の後援を受けた葦名と伊達の後援を受けた田村の代理戦争。
残念ながらすでにこの時期の葦名は伊達や佐竹と拮抗できる力はないよ。
後見役もいない人質だった為に葦名内で立場が弱い二階堂のガキ盛隆が当主になった事で、
伊達出身の正妻のために揺さぶりをかけられ始め家臣団の動揺が始まっていた。
だからこそ佐竹の後見が必要になっていた。
ただ盛隆死後に政宗の弟を養子に送り込む政略には拒絶してるからまだ致命的崩壊まで至ってないが。

172人間七七四年2009/03/09(月) 20:11:50ID:f8X/+Z6n
>>169-171
いい加減余所でやれっての。
荒らし行為で通報するぞ。

173人間七七四年2009/03/10(火) 16:11:15ID:Gyav/Xw0
>>170
田村の防衛には十分な兵を割いているから三春を出て猪苗代へ向かうようにと
政宗が片倉と成実に命じたように
当然三春だけではなく田村領自体の防衛に当たっていた
ちなみに佐竹の攻略した大平城も伊達と田村の兵が守っていた
支城を落としながら本城に迫るのは常識
いきなり本城に迫るようじゃ支城の意味がない
前にも言ったように指南=従うではない
遜った言い方をしているだけ
そもそも順番が逆だ
葦名佐竹が和解した事で田村は孤立したから伊達に頼った
葦名が窮地に陥ったから佐竹と結んだわけではない
軽々しく従っただの言っているが、佐竹が葦名に対して軍役を課した事など一度もなく
領内の仕置に干渉した事もない
それを書簡から文字を部分的に抜きだし騒ぎ立てるなど珍説にもならないトンデモだ
それと人取橋で茂庭を討ったのは竹貫三河守率いる岩城勢
佐竹の動向は不明としか言いようがない
軍記類ですら永慶軍記以外は佐竹の記載はほとんどない
無論書状等では確認できない

だいたい伊達と佐竹を結び付けたがるのが既に毒されている証拠
実際に佐竹の奥州政策は白川氏を抑えて南郷を支配する事にあった
その過程で芋づる式に葦名らが付いて来たにすぎない
政宗の二本松攻めに対して義久が赤坂氏に送った書状の中で述べているように
人取橋の頃はお互い敵対する気もなかった
伊達と佐竹の関係が決定的になるのは亀王丸死後の葦名後継問題からの数年に過ぎない
政宗と義重を競わせる事自体珍妙としか言いようがない

174人間七七四年2009/03/10(火) 16:17:58ID:uxaklKN7


   こ  こ  で  や  れ


東北戦国史
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1149998160/

175人間七七四年2009/03/10(火) 18:12:32ID:Gyav/Xw0
>政宗を過大評価させる為に葦名を過大評価したり、
>輝宗や佐竹を過小評価しようとするのは史略を愚弄する行為だろう。

だいたい政宗や輝宗の話などしていないのに
何の脈絡もなくこんな事言い出す事自体、単に政宗が嫌いだから
自分の都合のいいように話しを持っていきたいという意図が見え見えだ
物事を好き嫌いでしか判断できない人は歴史に向いてないよ

176人間七七四年2009/03/13(金) 21:41:59ID:y6R1aLlK
推定100万石超
上杉氏(長尾)
大内氏
大友氏
織田氏(弾正忠)
織田氏(内大臣)
島津氏
武田氏
伊達氏
徳川氏
豊臣氏
豊臣氏(大納言)
丹羽氏
北条氏
細川氏
前田氏
三好氏
山梨

100万石弱?
蒲生氏
龍造寺氏

177人間七七四年2009/03/13(金) 22:21:03ID:X88usixQ
>>176
> 山梨

ちょっとわらったw

178人間七七四年2009/03/13(金) 22:21:19ID:30NHR5QU
チシキガナイナラムリシテマトメナクテモイインダヨ

179人間七七四年2009/03/13(金) 22:22:01ID:rGsPmgCq
>>176
大友と島津と伊達はまず越えてない。
長尾上杉でギリギリ越えてるか越えてないか。

で、毛利が抜けてるのはなぜだ?

180人間七七四年2009/03/14(土) 08:25:43ID:Xw3cSYmc
伊達と島津は秀吉に屈する直前は100万石ぐらいはあったと思うぞ
でも、1年間ぐらいしか持たなかったし一時的な占領であって支配ではないわな

181人間七七四年2009/03/14(土) 10:09:55ID:X/m/dBH3
嶋津は確実に100万石超
伊達と上杉は微妙だな
大友は超えていない
山名とか細川も支配の定義によっては微妙

182人間七七四年2009/03/14(土) 10:27:44ID:X/m/dBH3
いや、上杉は確定だった
会津時代をすっかり忘れていた

183人間七七四年2009/03/14(土) 11:35:47ID:ULM0i49f
会津時代なんてたった3年じゃん

184人間七七四年2009/03/14(土) 11:39:38ID:dcUZiu9M
3カウントでフォール勝ちだし100万石獲得でいいんじゃないかに

185人間七七四年2009/03/18(水) 21:08:05ID:Kri4BSeS
>>173
葦名との決戦に当たっての動員兵力から田村支援にそれほど兵は送れないはず。
支城への伊達の派兵は治家記録にあるが毎回得意の捏造であり、他資料には見えない。
また人取橋も文献ごとに書かれてる内容が違うので水掛論になるので止めておく。
そこで確実に事実誤認してる点として佐竹の目的が南郷支配に止まるとする指摘をあげよう。
まず背景だが葦名盛氏晩年の徳政令の多さから家臣団と農村の疲弊があったのが確実視されていた。
葦名盛氏の娘婿だった藤原姓白河氏を義広の養子送りで源姓白河氏となして義親を義広の名代にする工作と同時に、
葦名配下の石川氏もまた義重によって永禄期初期からすでに狙われていた。
奥太郎(彦三郎・光専)は石川晴光の実子だが、義広が白河の名跡を継ぐ際には葦名との相談をまったく必要とせずに、
石川領も義広の白河氏に引き渡すと起請文を出している。
さらに義広が平氏三浦葦名の名跡を継ぐに当たり、石川氏の名跡を義広は継いでおり昭光は義親と同じく義広の名代になったと思われる。
天正2年3月に葦名は田村と戦い大敗。6月に盛興死去し二階堂盛隆が継ぐ。
田村に須賀川二階堂が侵食され佐竹の力を頼る他なかった。

186人間七七四年2009/03/18(水) 21:27:52ID:Kri4BSeS
沼尻の戦いにおける佐竹の動員は
会津鉄砲300や岩瀬・白河・田村・浅川などを動員して北条と対立している。
葦名が佐竹に従属してるのは明らかで、田村さえも時には従えていた。
この戦いのあとの10月に葦名盛隆は家臣に殺された。
義広は葦名・須賀川・石川・白河を兼ねた。これにより佐竹本家と合わせた巨大な源氏勢力圏が成立。
伊達は田村を後援し、佐竹は葦名を後援しての代理戦争はすでに始まっていた。
葦名に義広が入る云々以前に伊達にとって国益の侵食や怨恨は充分にあった。
特に政宗は田村の娘を正室にしており、人取橋では佐竹による二本松救援は怒りを覚えたろう。
また決定的対立云々言うなら、葦名に嫁いだ叔母が死去して伊達派の瓦解消滅による、佐竹派の葦名支配と伊達領圧迫の危機感が政宗にとって佐竹と完全対立した最大の理由だろう。
また同時に佐竹は秀吉による源氏勢力のこれ以上の拡大阻止をも目的とした惣無事令に悩むこととなった。
これは織田が武田を滅ぼして滝川が厩橋城に着任した際に、北条と共に佐竹も行動停止し、
一時的に奥羽大名の佐竹からの離脱と伊達輝宗への接近以来の中央政権による難局だった。
政宗にとっては惣無事による佐竹の停止は、織田の関東進出以来のチャンスに映ったのだろう。

187人間七七四年2009/03/18(水) 21:41:27ID:Kri4BSeS
須賀川領や石川領や白河領が反乱だらけで政宗が平定に失敗したのは、それらの地がすでに佐竹家臣の知行地と化していたからである。
ゆえに政宗は小田原参陣に会津南部や仙道からの南下が不可能だったのである。
また昭光や義親はすでに実権がなく義広の名代に過ぎず、彼らの政宗への降伏はまったく実を伴わない空疎なものでしかなかった。
したたかに生き残ってきた彼らもそれをわかっており、二股をかけてワザと年末に伊達に降伏して、
すでに動員令が発布され翌年雪解けとともに始まる秀吉の小田原攻めを待っていただけである。
言わば名を伊達に、実は佐竹に預けていた。

188人間七七四年2009/03/18(水) 21:50:22ID:9Dse5UIL
4日ぶりのレスがこれか。完全に荒らし確定だな、こいつ

189人間七七四年2009/03/30(月) 09:03:42ID:+blJwTYw
船尾義綱宛源義親一字状が有名だね。
源姓になった義親が白河に養子に入った佐竹義広の後見役として白河家中重臣となった船尾に一字をあげられる立場に家の格が上がったと言う。
白河義親も源氏になれて嬉しかっただろうね。葦名の源氏化のために義親も尽力したようだし。

190人間七七四年2009/04/01(水) 07:00:46ID:zziTfR9B
佐竹義重の甥の朝勝をもらった結城氏や宇都宮氏・葦名氏とかも勢力圏の一部と考えれば佐竹は100万石行くな。
秀吉が関東奥羽にまたがる巨大源氏勢力圏が築かれるのを惣無事令と恫喝で阻止したのは残念だったな。
ビビった北条も葦名義広に「当家と葦名家は長年友好な関係だったので、これを機会に佐竹との和睦を執り成してください」ってお願いしてたくらいだもんなぁ。

191人間七七四年2009/04/06(月) 13:28:09ID:F72/KbPC
謙信末期は100万石いってる。
元就は残念ながら死去寸前には備中が大混乱だし、尼子残党に伯耆を分断されたりで100万石きってる。

192人間七七四年2009/04/06(月) 14:44:06ID:/TJ+InOw
勝頼末期は100万石いってる
景勝から譲られた北信濃と東上野
旧領の甲斐、中南信、駿河、西上野に加え
美濃の一部、遠州の一部、飛騨の一部

武田の最盛期を気づいた

193人間七七四年2009/04/06(月) 21:20:17ID:qkEsZNu9

既に武田勢の国人領主やその領民はもちろん、直属領地の領民達も疲弊しており、既に勝頼は見限られていた。

194人間七七四年2009/04/11(土) 16:34:30ID:CBsj9cHn
勝頼が生き延びる方法はあったと思うか?

195人間七七四年2009/04/12(日) 02:09:01ID:Y7NXcNj5
>>194
長篠の前に信長に臣従

196人間七七四年2009/05/26(火) 21:37:03ID:5mCH4vOx
長篠の前は無理だろw

武田征伐の号令前、甲斐と木曽除く信濃を安堵するという要求を蹴らなければって所か。

197人間七七四年2009/05/27(水) 14:54:56ID:ZoYzkGxi
松前が最強

北海道全部が領地だぜ?

198人間七七四年2009/05/27(水) 15:56:00ID:dTB6VT1Z
米が採れない

199人間七七四年2009/05/29(金) 18:26:15ID:UYmkP0C+
>>198
300年後には蝦夷が石高日本一
21世紀に入り羽後に抜かれるまでは

200人間七七四年2009/05/29(金) 19:26:46ID:lK84txWP
>>199
人間が300年生きられる生物ならよかったんだろうけどね。

201人間七七四年2009/07/09(木) 00:53:50ID:vyrnkcKQ
武田信玄
戦国時代の戦国大名。日本史上、有数の暴君。
あと少しで信濃統一を果たすところまでいくが上杉に阻まれる
同盟や和睦をやぶるなど謀略を尽くしての領土を拡大し、奪った領土からの略奪により家臣や国内をまとめあげた。
しかし、国境を接する弱小豪族をすべて倒したあたりから領土拡大に急ブレーキがかかる。
このような相手国からの略奪によって家臣や国内の領民の不満を封じこむやり方は、領土拡大のペースが落ちると家臣や国内の不満を生むこととなった。
息子である勝頼は家臣や領民の不満を封じるため、無理な拡大路線を強いられることとなった。
また、信玄の度重なる外交に関する不義により武田家の他国への信用性はゼロに等しいこともあった。
その結果、勝頼は、他国との連携作戦もできずにやがて孤立していくこととなる。
結局、勝頼は父親の残した大きな負債を払拭することができなかった。
そして、武田家は一回の合戦で戦闘力を失い、たった一ヶ月で滅亡した。
織田信長が倒した戦国大名の中では武田家はもっとも労を要しない相手だった。

       ,、r‐''''''''''''''''ー 、
      ,r'         `' 、
     /             ヽ
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   ,,'  ;    ,、、,_  ニニ  ,、」、
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   l:,;'"`'、,    . ,;ィェ、..   ,rェ;〈
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    l;゙、',.::l;;;i  / / / r   ヽ. ///l,    
    l;;;;`‐;;;;;ヽ   . './'ー'''ー‐' ',  l;;;,,    
. ,、rイ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ゝ  ,r";;二二二,ヽ, !;;;;:'   
'.:.:.l ll ;;;;;;;;;;;;;;;;;' ,rニン"  ̄二´ `ノ;;;;;`-、
:.:.:.| l.l  '';;;;;;;;;;;;;;'         ,イ l'''  l `
:.:.:.:| ','、  '''''''''   , ‐---,ェr'".l.|  |  |
:.:.:.:|  ゙、゙、       `''''''''"",ノ l l  .|  |
:.:.:.:.|  ヽヽ     `'---‐'" .//  !  |


武田信玄(基準値)
統率68 武勇56 知略82 政治72

毛利元就(適正値)
統率98 武勇72 知略115 政治89

徳川家康(適正値)
統率102 武勇88 知略100 政治115

豊臣秀吉(適正値)
統率105 武勇65 知略110 政治120

織田信長(適正値)
統率120 武勇105 知略105 政治105

北条氏康(適正値)
統率95 武勇82 知略89 政治110

上杉謙信(適正値)
統率92 武勇99 知略68 政治95

信玄が信長よりスタートに恵まれない  → だがのウソ
信虎は甲斐を統一し、信玄は労せずそれを丸ごと承継。
一方、信秀は尾張統一に失敗し、今川の戦いにも敗北。信秀の領土で信長が承継したのは名護屋城とその近辺だけ

信玄は信長とちがって、同格とばかり戦って領土を広げた → だがの妄想
一国にまとまらない信濃の豪族という格下との戦いに勝利して領土を広げただけ。同格の上杉やと北条との戦いでは領土拡大の
スピードは目に見える勢いで低下。上杉の謙信の出奔事件の合間をぬった和睦を反古にしての領土拡大や、氏康の病気をねらって
領土を拡大するものの、両国の間の第三国のわずかな領土の領有を得たにすぎない。、結局、上杉や北条といった同格の相手の領土は奪うことができなかった。

202人間七七四年2009/08/13(木) 21:47:12ID:No7wb72F
 1  佐竹氏  ・清和源氏を祖とする佐竹氏本家。 54万5千4百石
 2  蘆名氏  ・当初は奥州の有力大名。義重の次男義広を蘆名家当主とした。  5万石
 3  岩城氏  ・奥州藤原氏と関係が深い。義重の3男貞隆が家督を継いだ。 12万石
 4  多賀谷氏  ・桓武平氏を祖とする名門。義重の4男宣家を養子と迎え当主とした。  6万石
 5  宇都宮氏  ・義重の甥、国綱が当主となるが浅野長政の不快をかい改易される。 18万石(改易)
 6  相馬氏  ・佐竹氏とは親戚関係。関ヶ原の戦い後一端改易されるが復権する。  6万石


203人間七七四年2009/10/11(日) 18:59:27ID:A6tv6I3I
纏めで締めて欲しいのだが?

204人間七七四年2009/10/11(日) 19:00:48ID:A6tv6I3I
あげ

205人間七七四年2009/10/11(日) 19:22:13ID:fRuaA5j8
伊達、北条、武田、今川、上杉、前田、徳川、織田
豊臣、三好、長宗我部、尼子、毛利、大友、島津

実質支配高を石高に考えればこんくらいか。惜しいのは

佐竹、芦名、斉藤、本願寺、宇喜多、大内、竜造寺


しかし北条とか領地を取られまくってるし、常に豪族に反抗されてるから
5代通してやっとこさ、100万石越えって感じかな

206人間七七四年2009/10/11(日) 19:40:06ID:i0+TXwCs
松前百万石って米もとれないのになぜですか?

207人間七七四年2009/10/12(月) 11:58:07ID:Ud+anfar
>>202
佐竹が常陸54万石確保するのって義宣の時代だろ
その頃既に蘆名とか滅んでなかったか

208人間七七四年2009/10/13(火) 00:02:59ID:LZAY9Evn
例えば今で言えば東京は米をあまり作ってないが、経済的には東北全部以上の価値があったりする。

石高だけで考えるのはどうだろうか。
今も昔も総合的な国力が問題になるのは同じだよ。


209人間七七四年2009/10/13(火) 20:25:19ID:YR4zQCpX
しかし経済全体における米の価値の違いもきちんと頭に入れないといけない。
この時代の米は、いわば石油などに近い存在。

210人間七七四年2009/10/14(水) 02:10:02ID:+E6cYBiS
足利将軍はどれくらいの国石だったの?

211人間七七四年2009/10/14(水) 06:13:47ID:AOfLo33z
政宗は百万石になど達してないだろ。
輝宗から相続した瞬間だけ百万石超えてたが、
直後に政宗に会談した大内に愛想をつかされ離反され、
さらに二本松にまで離反されたため、
怒って黒幕と誤認した蘆名を奇襲して大敗し、八つ当たりで民衆を撫で斬り大虐殺や輝宗暗殺したから伊達勢力圏が崩壊し瓦解。

212人間七七四年2009/10/14(水) 08:08:30ID:WbJcUCFB
輝宗の時代に100万石もあったなんて初耳だぞw

213人間七七四年2009/10/14(水) 08:48:18ID:m4782dke
勢力圏って便利な言葉ですね

214人間七七四年2009/10/14(水) 18:48:49ID:6Vraf5XS
100万石の大名も、俺ん家の冷房のついた部屋で、
吉野家の牛丼でも食わせたら、泣きながら大喜びなんだろうな。

と、つまらぬことを考えてしまう。

中国の皇帝みたいに、国中の美女を選び放題って文化でもないし。

215人間七七四年2009/10/14(水) 19:13:28ID:GdOiooOk
>>210
時期によってもかなり違うのだが、少なくとも応仁の乱までは
鎌倉以来の荘園、南北朝のときに新たに獲得した直轄領、さらに奉公衆などの
将軍直轄の武士の所領を含めると、相当巨大になると思われる。

所領形態としては豊臣政権にちょっと似てるな。まあ豊臣政権は足利政権の
カスタムアップバージョンみたいなもんだが。

216人間七七四年2009/10/14(水) 19:59:38ID:1Oxx6k/O
南部と安東は?

あと北陸の一向衆

217人間七七四年2009/10/14(水) 20:19:24ID:6MCNhAyY
朝倉と浅井の関係が今川と徳川のような間柄だったとすると
朝倉も百万石越えだな。

218人間七七四年2009/10/15(木) 07:43:47ID:R3zGcC1M
>>212
お前はあまりに無知すぎるわ

219人間七七四年2009/10/16(金) 22:17:14ID:8dmvW60l
>>211
山岡某の独眼竜政宗では230万石なんてとんでもねー数字書かれてたよな>芦名滅ぼした時点で

220人間七七四年2009/10/16(金) 22:18:04ID:8dmvW60l
>>212
せいぜい30万石あったかどうかだなあ

221人間七七四年2009/10/17(土) 09:35:57ID:wsjYTZd4
>>219
山岡の書いてることはかなりいい加減

>>220
お前はぜんぜん知識ないなw
輝宗を貶して政宗をマンセーする本しか読んだことないだろ?

222人間七七四年2009/10/18(日) 06:57:59ID:OaKiwA24
具体的なことを指摘しないで罵倒しまくる
中2の巣窟スレになっちゃったな

223人間七七四年2010/01/03(日) 23:46:30ID:jmFYx6vb
伊達は一時期会津あたりまで支配したから最盛期は200万石くらい。
上杉は越後佐渡で90万石。謙信時代はこれに越中60万石、
その他北信濃や上野、能登半島なども押さえてたから
やはりマックスで200万石は越えてたっぽいな。
毛利は中国120万石、一時期備前の宇喜多なども配下で
九州四国の一部も従えてたから、これもマックス200万石くらいか。

224人間七七四年2010/01/11(月) 06:58:59ID:Z6sUH7XG
にわか歴女にしてみれば東北全部支配していたイメージだから伊達500万石くらいで勘弁してやれよ

225人間七七四年2010/02/11(木) 00:18:39ID:nUnjtQl8
保守

226人間七七四年2010/05/29(土) 06:39:26ID:XoO5AeZ1
1

227人間七七四年2010/07/30(金) 17:35:53ID:SeBePQFV
>>223
適当言ってないで集計したら?

228人間七七四年2010/09/17(金) 02:59:00ID:TWN6sk4K
体制に入ったんじゃね^^

229人間七七四年2010/11/13(土) 08:13:08ID:/pgf+qHf
保守

230人間七七四年2011/02/03(木) 01:22:54ID:d58ujK4f
>>205
四国って結構あるんだな

231人間七七四年2011/02/03(木) 01:43:42ID:79uf2Ojk
100万石っていっても所詮米の生産量だけだからさ、それだけじゃホントの
国力は計れないんじゃね? ちなみに戦国初期は江戸というか東京首都圏が
なかった 逆に上杉謙信の春日山城のすぐちかくの直江津ってのが
東日本最大の貿易港ですんごいお金が入ってたらしい
あと織田信長の乳信秀公も港で儲けてたらしい

232仙台藩百姓2011/02/03(木) 07:47:53ID:STmuCkLM
その割には長尾が特別裕福だった様子がないおね( ^ω^)
東日本最大とか言うけど全港で収支を帳簿につけていた訳でもないのにどうやって分かるのか謎過ぎるお( ^ω^)…
まだ、信秀は朝廷に莫大な献金(長尾の50倍)をしていたりするからその片鱗を感じられるけど( ^ω^)

233人間七七四年2011/02/03(木) 09:06:56ID:0XWLDSjx
>232
 謙信公が死去した後、春日山城の金蔵に残されていた金の調査が行われ、総額は2万7千両だった。
現在の価値で少なくとも数億円。

234仙台藩百姓2011/02/03(木) 10:05:39ID:STmuCkLM
>>233
それは大名の平均貯蓄額より多いのかお?( ^ω^)
そもそも謙信が貯えていた1両とは何グラムで金の含有量は何%なのだお?( ^ω^)

235人間七七四年2011/02/03(木) 11:06:01ID:X8Cu63KB
時代は違うが財政崩壊して秀次から大借金してた伊達や細川や毛利や
商人から借金した大友とかあるから
財政黒字どころか貯蓄までしてるなんてのは基本的にレアなんじゃね?
特に謙信の蓄財のおかけで勝頼の政策が180度変更になり北条を裏切る程の魅力ある大金額だろうね。
しかも為景時代の財政崩壊から復活してるだけでも凄いわけだが。

236人間七七四年2011/02/03(木) 15:05:29ID:ASJ5RhZ2
薩摩77万石は上げ底もいいとこで、実質50万弱

237人間七七四年2011/02/03(木) 15:17:35ID:M4zb5IxA
薩摩77万は琉球の15万込みだから
他と同じ量り方したら30万石前後

でも人が少ない訳じゃなく面積相当の人口は居る

238人間七七四年2011/02/03(木) 15:25:43ID:ASJ5RhZ2
サツマイモと借金踏み倒しですね
石高じゃなくて、経済力で語ったほうがいいかもだけど
統一貨幣があったわけでもないし、GDPなんて出しようがないからなあ

239人間七七四年2011/02/04(金) 00:37:44ID:0cAM/no2
借金踏み倒しなんてどこも一緒だろ…
肥後細川も商人から嫌われまくりだぞ

240人間七七四年2011/02/04(金) 10:23:13ID:0ypTa0p6
細川さんの金のなさは秀吉時代からだからなあ
金気がないとさびよけのまじないに使われるほど
なんで50万石の太守なのに、あんなに金がなかったんだろう?
不知火海は宝の海、熊本も良質な地下水に恵まれているのに

241人間七七四年2011/02/04(金) 10:55:59ID:+ojwSB0X
細川、伊達、毛利あたりは豊臣秀次から大借金してるしな。
毛利は大友にたびたび大敗して結局、
国人たちに加増も褒美も与えられなかったのが致命傷で財政崩壊。
伊達も家臣に加増も褒美も与えられず、
転封した際には痩せた土地を与えられ大物配下が次々に出奔しまくるほど財政崩壊。
細川は交遊における雅な趣味のせいか?丹後田辺城時代は信長による過度な軍役負担で貧しそうだが肥後時代は好転しそうだけどね?

242人間七七四年2011/02/04(金) 12:32:39ID:EoL8+xGw
織田の最大時500万くらいあった?

243人間七七四年2011/02/04(金) 14:02:11ID:mxh26Bdd
>>231
> 100万石っていっても所詮米の生産量だけだからさ、それだけじゃホントの
> 国力は計れないんじゃね? 

はあ?なにいってんの?

244人間七七四年2011/02/04(金) 14:33:11ID:rd3TVPby
石高は現金生産力とでも思った方がはやい
地米・物成も石高に含めるとこもあるけど米よりは信用度落ちるし
やっぱり米が穫れるとこのが取引には強い

245人間七七四年2011/02/04(金) 18:02:39ID:p9T2liPn
>>217
そして密かにいわれてるように
朝倉義景が六角家からの養子であるというのが本当のことで
3家の関係が親密であったとするなら。

246人間七七四年2011/02/04(金) 23:42:56ID:zsylV5Cg

戦国時代の時弘前や会津若松の石高はどれくらいでしたか?
教えて下さい。

247人間七七四年2011/02/10(木) 13:16:46ID:+rnKOcM1
蒲生氏郷が入る前の後進地区の会津は治水もロクにやってない洪水だらけの荒れ地ばっかりなので
15〜18万石くらいなもんで飢饉での一揆を防ぐ為に徳政令ばっかりやってて、
米を無駄に酒作りに転用して米不足から餓死者を出さないように家臣の贅沢を禁止し禁酒令まで出してた劣等地。
津軽の地は米作りに向いてないからほとんど変化なく4万石くらい。

248人間七七四年2011/02/11(金) 23:13:21ID:2zx4b5EZ
ありがとうございます。

249人間七七四年2011/02/19(土) 14:26:52ID:N3xoGa0X
百万石大名を潰した大名は?
誰が最多?

250人間七七四年2011/02/20(日) 14:08:30.36ID:pEMZTnnM
揃いも揃って鎌倉期からの名門で家臣に名族たくさんいるから人件費もかかってたんじゃないか。
バサラ贅沢も大きいだろうが

251人間七七四年2011/02/20(日) 14:39:40.31ID:ktCjRQbq
>>247
マジで? 蒲生が表向き90万石くらいの時のことを言ってるんだよね?
太閤検地って田舎になるほど急激に杜撰になるのかな?

252人間七七四年2011/02/20(日) 18:06:57.10ID:H+2LixHq
太閤検地でまだ田畑になってなくても
開発で田畑になる地は打ち出してたんじゃない?
当時の畿内、特に伊勢は農業最先端地域だったから収穫向上の技術もあるし
(当時の会津には水車どころか流路を増やしてそれぞれの流域に
灌漑用に水道を巡らし田畑を作ることもしてないので田畑は限られた場所にしかなかった)
河川の洪水ですぐに黒川城に水が流入してたのも河川改修で治したようだし、
近江商人→伊勢松坂の商人も大量に引率して会津入りしてるし。

253人間七七四年2011/02/21(月) 01:43:36.42ID:m+YCNYdW
マジレスすると年貢制度自体、博打財政でしょ?天候次第で収支が逆転するから
江戸時代って農民泣かせの時代だったのは間違いないなぁ

254人間七七四年2011/02/22(火) 16:25:15.83ID:+5hi4gV8
なんか昭和の原野商法に近いものがあるなw

255人間七七四年2011/02/23(水) 16:43:53.59ID:cPmdIvZ6
幕末なら島津、毛利が藩政改革に成功。黒字化で軍備や政治工作にまわせた。

256人間七七四年2011/02/26(土) 11:22:55.73ID:LOsmo7OP
島津は250年ローンの続きを支払うべき

257人間七七四年2011/03/01(火) 15:53:56.23ID:vaA0DY92
ひとつ聞きたいのは石高の概念っていつぐらいから生まれたんだ

258人間七七四年2011/05/31(火) 16:18:52.60ID:UcK7r4hU
 1  佐竹氏  ・清和源氏を祖とする佐竹氏本家。 54万5千4百石
 2  蘆名氏  ・当初は奥州の有力大名。義重の次男義広を蘆名家当主とした。  5万石
 3  岩城氏  ・奥州藤原氏と関係が深い。義重の3男貞隆が家督を継いだ。 12万石
 4  多賀谷氏  ・桓武平氏を祖とする名門。義重の4男宣家を養子と迎え当主とした。  6万石
 5  宇都宮氏  ・義重の甥、国綱が当主となるが浅野長政の不快をかい改易される。 18万石(改易)
 6  相馬氏  ・佐竹氏とは親戚関係。関ヶ原の戦い後一端改易されるが復権する。  6万石

佐竹ホールディングス101万石

259人間七七四年2011/06/01(水) 01:42:39.20ID:nVk5g2jd
>>253
それだと農業がバクチってことになるのだが

260人間七七四年2011/06/01(水) 01:44:23.35ID:nVk5g2jd
>>257
太閤検地から

261人間七七四年2011/06/01(水) 15:12:24.86ID:05bKv18h
>>259
奥州や茨城県東部はまさに負け率が異常に高いバクチそのもの
だから南奥や茨城東部では田では無く畑で代替作物を育ててる。
金銅山尽きた後の南部と財政崩壊スタートの伊達の百姓は藩がバクチ熱中で地獄行き。
特に伊達は畑を潰してどんどん田に変え作付け面積を拡大し江戸期を通じて死亡モードだった。
一番ひどい時は公称100万石で実収10万石だけ。

262人間七七四年2011/06/12(日) 13:32:54.87ID:EHkZqu+3
なんで茨城東部だけ限定なんだよw
茨城東部が駄目な時は関東の殆どが駄目だろ

263人間七七四年2011/06/12(日) 17:32:03.10ID:ykyl9a8p
茨城を北部、南部に分けるのはよく見るが
東西に分けるってのは珍しいなw

264人間七七四年2011/06/12(日) 17:33:48.86ID:Ohub8Fx6
チリを東西に分けるのはよくある

265人間七七四年2011/06/13(月) 02:35:37.65ID:b9yjlsSr
凄い細長いなソレw
でも東西で気候が全く違うからあながち冗談とも言えなそうだが

266人間七七四年2011/06/13(月) 19:26:47.39ID:1xsHohoe
上杉の代替わりに付け込んだ武田勝頼。

267人間七七四年2011/06/14(火) 18:52:55.85ID:kQUWVkWV
山側海側って分け方しないか、そーいうばあい

268人間七七四年2011/06/14(火) 19:57:08.64ID:Hj7H5zc9
慶長見地の石高で良いから百万石大名に換算してよ!!!!

269人間七七四年2011/06/14(火) 19:59:30.88ID:Hj7H5zc9
あげるよ。

270人間七七四年2011/06/14(火) 21:05:28.84ID:WxZ2r4xP
常陸東部も見事にやませの影響を受けるからでしょう。
もともと陸奥国が良馬を産出すると言われるのも
田を作ってやませや冷害を受けて壊滅的打撃を受けるよりも畑や放牧にこそ向いている環境特性からだし。
中世から近世への移行において
石高制による家格と言うステータスが登場したことは陸奥国の…特に海岸部を中心に悪い影響を与えたかも知れませんね。
また室町時代にも大きな津波がやってきたらしいので塩害などもあったでしょう。

271人間七七四年2011/06/15(水) 06:58:08.82ID:HATxBWtq
諸条件の違いと水増しと正確な数がわからないのが欠点だけど、
動員力をベースに2万5千から3万くらいの兵を戦場に送れれば100万石程度の力があると見なせるかもね。

272人間七七四年2011/06/15(水) 11:38:59.59ID:+xfaWP65
全体の兵数に関する一次資料って物凄く少ないから難しいわな
だからむしろ現状では石高から兵数を予想している

273人間七七四年2011/06/16(木) 21:30:11.88ID:qBl/gPFI
100万石といっても、面積は洋々だしね

274人間七七四年2011/07/07(木) 13:37:05.53ID:V+elLq+2
>>258
うわっ、東国将軍じゃないかw

275人間七七四年2011/07/07(木) 18:20:27.70ID:JFfZ64h6
いや、この時期はお隣に徳川250万石がいるし
それと計算が間違っている
葦名の5万石は佐竹の54万石に含まれている(慶長5年検地帳参照)
あと宇都宮氏は与力でも何でもないから関係ない

・佐竹 54万5千石
与力大名
・岩城 11万5千石
・多賀谷 6万石(?)
・相馬 6万石

が豊臣政権下の支配体制

276人間七七四年2011/07/16(土) 00:06:25.09ID:1mhhLTId
徳川250万石ってウソくらいよな

277人間七七四年2011/07/16(土) 04:06:57.57ID:rl5yUA/4
家康は国替えでトクしたなー って思ってたけど、実は家康の旧領って200万石以上の
国力があり、逆に旧北条領って見掛け倒しだったらしいね

278人間七七四年2011/07/16(土) 09:04:39.19ID:1mhhLTId
畿内の技術力を動員して開発したら250万石くらいにはなるぞ的なもんだろ。
当時の関東がそんなに石高あったようには見えない。
本当にそんだけあったらあんだけヘタレな北条が理解し難い

279人間七七四年2011/07/16(土) 09:32:37.33ID:vB3/8bj3
畿内の技術力なんてそんな大層なもんじゃないだろ、夢見過ぎ

280人間七七四年2011/07/16(土) 09:42:04.45ID:BFur9Q8z
奈良時代とか古代から関東の生産量は多かったし、北条領が特別生産量少なかったとは思えないが
なにかデータがあるわけ?
また、徳川関係の家譜や軍記物が元ネタとかいうオチじゃ

281人間七七四年2011/07/16(土) 10:31:15.55ID:OVOTNSb+
推測できないくらいあれこれ不安定な支配体制だったんだろう

282人間七七四年2011/07/16(土) 10:36:32.91ID:whnG6D2q
当時の農業先端国は伊勢を中心にした畿内。
関東なんてド田舎は灌漑農業も無く農機具も遅れたままだぞ。
海運により商業が発達した越後ですら労働者の多くが塩田従事者で
自然の川の支流沿いに田畑があり集落化してただけで
灌漑農業によって水路が作られ一面が水田なんてもんは無かった。
そもそも関東なんて利根川の氾濫で流路まで頻繁に変更される始末で
その都度、農業どころか財産まで流される鄙びた地。
北条なんて治水すらやってない。

283人間七七四年2011/07/16(土) 10:48:17.50ID:yBvWS//I
>>282
だから何を根拠に言ってるの?
どの程度生産量に差があったわけ?

284人間七七四年2011/07/16(土) 10:52:54.35ID:oQN8QLti
利根川が氾濫するから関東の稲作が駄目とかどんだけ珍説だよw
利根川を利用してない地域の方が圧倒的に多いわけだが

285人間七七四年2011/07/16(土) 11:00:11.92ID:whnG6D2q
そんなに言うなら北条が灌漑農業やってた一次史料出してみろよ。
絶対に無理だけどな。
灌漑農業が飛躍的な食料生産力を生むのは明白な事実なんだが。

286人間七七四年2011/07/16(土) 11:33:24.65ID:Z3SVqHWU
>>285
明らかなのにソース示せないってどういう事なの?w

287人間七七四年2011/07/16(土) 11:41:19.59ID:whnG6D2q
灌漑農業が飛躍的な食料生産力を生むのは明白な事実なんだが

288人間七七四年2011/07/16(土) 14:41:15.68ID:1mhhLTId
あまり洪水被害を過小評価しない方がいいぞ。
それと利根川の流路は江戸時代の治水と灌漑と埋め立てと河川流通整備を兼ねた東遷事業で大きく変更されていることを学んだ方がいい。

289人間七七四年2011/07/16(土) 15:02:34.67ID:xQJ2JcYl
頓珍漢すぎて話にならんわ

290人間七七四年2011/07/16(土) 15:13:36.08ID:whnG6D2q
なら北条が灌漑農業やってた一次史料出してみろよwww

291人間七七四年2011/07/16(土) 16:16:22.38ID:yOuZ40Le
北条なんてどうでもいい
話を逸らすなよ
その伊勢と関東の生産量の差を示してみろと言ってるんだ

292人間七七四年2011/07/16(土) 16:32:57.29ID:whnG6D2q
話を逸らしてないよ下記がすべてを物語っている。

そんなに言うなら北条が灌漑農業やってた一次史料出してみろよ。
絶対に無理だけどな。
灌漑農業が飛躍的な食料生産力を生むのは明白な事実なんだが。

293人間七七四年2011/07/16(土) 17:28:00.90ID:rl5yUA/4
匿名掲示板ってもう終わりかなあ

294人間七七四年2011/07/16(土) 19:20:09.02ID:AFeic/Iz
俺、北条で働いてたけど灌漑してたよ。

295人間七七四年2011/07/16(土) 19:48:40.21ID:8oBkyhVD
100万石あれば・・・100万石

296人間七七四年2011/07/16(土) 20:13:09.43ID:1mhhLTId
>>294
リアル僧化乙

297人間七七四年2011/07/18(月) 11:14:30.57ID:247PXhTP
北条は領内開発をまったくやらなかったからね…

298人間七七四年2012/06/18(月) 23:59:37.70ID:M4DsetAG
age

299人間七七四年2013/04/30(火) 12:53:45.52ID:zQGCslRv

300人間七七四年2013/06/12(水) 23:37:02.63ID:xIUWvF04
a

301人間七七四年2014/06/19(木) 21:23:58.58ID:aUZiI2im
age

津島の港とか何万石程度の経済価値があったんだろう?

302人間七七四年2014/06/20(金) 08:39:08.64ID:1EOIJi4p
20万石

303人間七七四年2014/12/17(水) 11:42:31.39ID:Wvu3haoy
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304人間七七四年2015/01/17(土) 21:27:04.08ID:fUFQBZ/g
太閤検地でも地方の方はめんどくさくなって適当に自己申告だけで済ませてたって説もあるしなw

でも石高って米のとれだと上越とか奥州の方は米所だし凄くふえるんじゃないの?
当時はそんなに米所ではなかった?

305人間七七四年2015/01/23(金) 13:46:11.31ID:HTPUx5eI
裏日本(出羽から越後にかけて)の大名は石高を過少申告

表高→実高
津軽 5→25
佐竹20→40
上杉15→35
溝口 5→20(万石)

306人間七七四年2015/01/23(金) 13:48:48.37ID:HTPUx5eI
出羽は21世紀の今だと1000万石くらい
越後は500万石(500万石という銘柄の米が実際ある)

307人間七七四年2015/01/23(金) 13:51:41.08ID:HTPUx5eI
朱印高より実際の石高が低いのは
足利(喜連川)、宗、水戸徳川、鍋島

308人間七七四年2015/01/29(木) 09:47:49.06ID:P8BBH0El
島津も実高<朱印高
井伊・越前松平・藤堂も実高30万石に満たず明治で伯爵

(伯爵だった越前・水戸・宇和島は後に維新の功績により侯爵へ)

309人間七七四年2015/04/14(火) 19:53:08.55ID:2rU3PXKA
伊達って昔読んだ漫画で最高で114万石って書いてあったで気がしたけど違うのか?

310人間七七四年2015/09/11(金) 21:49:28.13ID:EW8TLOm4
北条は小田原攻めの時に5万も動員出来なかったのをどう捉えるべきか

311人間七七四年2015/12/17(木) 19:35:16.61ID:YhmcBbK4
トンキンが東京が寒村の漁村地帯であることを嫌がって
近畿にそんな技術無いとか言い出しててワロタ
江戸以前の関東に野原以外に何があるんだよ

312人間七七四年2015/12/17(木) 20:22:48.54ID:F06WvNIv
おいらどっかで伊達政宗は実質200万石って聞いた
脱税レベルの過少申告

313人間七七四年2015/12/19(土) 12:32:58.13ID:ufqeBhhy
>>305
それは江戸時代初期と後期の石高では?
中期には地方でも農機具や灌漑が向上して飛躍的に増産したから

314人間七七四年2015/12/19(土) 12:34:13.34ID:ufqeBhhy
表高はずっと同じだったような

315人間七七四年2015/12/19(土) 16:22:50.55ID:GvzZJBeI
本当に農業が劇的に変化したのは戦後の機械化以後のことで江戸時代に入って地方の産業力が活性化したなんてのは
70年代に持て囃された日本人の勤勉さというイデオロギーありきの学説

316人間七七四年2015/12/22(火) 16:35:33.09ID:dS7BPhVR
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317人間七七四年2016/02/08(月) 14:13:31.05ID:tKHAtur4
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318人間七七四年2016/09/05(月) 21:55:14.84ID:+TFiAzJS
伊達
黒川114万石
→米沢72万石
→岩出山(岩手沢)58万石
→仙台60万石
→仙台62万石+宇和島7万石(のち10万石高直し)+吉田3万石

319人間七七四年2017/04/11(火) 18:17:49.67ID:+Gf6HS43
さいたまんぞう

320人間七七四年2018/02/25(日) 00:01:51.78ID:3KoBIxum
良スレ

321人間七七四年2018/04/01(日) 22:16:00.35ID:LkQTCwR8
毛利
112万石→29万石

防長の最検地で50万石余の検地高をたたき出すも
幕閣が難色を示し
36万7千石が表高となる。
幕末には実高90万石とも言われる。

322人間七七四年2018/07/15(日) 23:24:11.01ID:gnwmrWFU
>>318
米沢72万石ってどこから捻り出すの?
上杉の米沢は30万石だし山形城に最上氏が健在だ。

323人間七七四年2018/07/22(日) 06:02:03.08ID:EbbLEcwM
松前藩は石高0で申告して許されてたらしいな
実際は米以外の作物や貿易で儲けてたらしいが石高は0なので潤ってた

324人間七七四年2018/07/22(日) 09:04:35.63ID:c61oR0+k
毛利輝元は 長門、周防、岩見、安芸、出雲、伯耆、備後、備中
これで120万石は過少申告 完全に脱税 かるく200万石は超えてる

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