【一領具足】戦国時代の兵農分離【郷士】

1人間七七四年2010/02/28(日) 15:03:30ID:ceoZUbIS
信長は「兵農分離」を進めて常備軍を作ったとか本に書かれてるけど、本当だろうか?

2人間七七四年2010/02/28(日) 15:38:58ID:GBvUoiwu
本当だよ
否定してるのは2chだけだから気をつけろよ

3月孔雀2010/02/28(日) 16:11:44ID:C+O3qxX5
常備軍、さすが、信長さん。

4人間七七四年2010/02/28(日) 17:36:54ID:PKi4YTnt
> 池上裕子著「織豊政権と江戸幕府」より
>
> 「(佐久間盛信への)折檻状から読み取れるように、信長自身は所領の大きさに比例して、
> 家臣一人ずつの軍役数を定めると言う方法をとっていない。家臣をどれだけ抱えるかは
> 各自に任されていた。
> これは鎌倉・室町期の武士たちの有り方と類似で、北条・武田らが所領貫高に比例して
> 軍役数を決定した方法といちじるしい対照を成す。
> 従って武篇道と戦果が問題となる。
>
> (中略)
>
> 信長は信盛親子に続いて、家老の林通勝(秀貞)、安藤守就親子、丹羽右近も追放した。
> それは信長の権力強化の表れのようにも見える。これをもって中世の武家権力と違って、
> 信長が家臣の所領に対し干渉しているとか、領域統治能力を問うているとかと評価して、
> 信長の権力は新しいとみる見方もあるがいかがであろうか。
>
> 信長は家臣を大名に任じて分国を統治させ、各方面ごとの総大将を任命して統一戦争を
> 戦っていかなければならない。
> 拡大する家臣団と支配領域に対応した家臣団編成、軍役賦課・軍事力編成が
> なされていないからこそ生じた問題であろう。
> それを武篇道の督励で対応しようとしたのが追放策であろう。
> それは、信長自身が武篇道に邁進して土地支配制度と知行制の整備を怠ってきたことに
> 原因があるのであって、逆に信長の限界を示すべきものとみるべきであろう。
>
> この問題の解決は秀吉の課題となる。」

5人間七七四年2010/02/28(日) 18:26:50ID:T3EeA+Ty
信長はむしろ遅れている方

6人間七七四年2010/02/28(日) 19:39:00ID:1erh9Mts
>>1
本当。だから戦国の世で頭一つ抜きん出た。
武田みたいに農閑期しか戦えない軍隊じゃあ勝てないよ。

7人間七七四年2010/02/28(日) 20:02:25ID:Vw5HDT+r
ただし、「金と命が大事」な兵だから
敗色をみると簡単に逃げ出す。
合戦をみると当たり負けが結構多い。

8人間七七四年2010/02/28(日) 21:18:17ID:T3EeA+Ty

9人間七七四年2010/02/28(日) 21:20:29ID:T3EeA+Ty
> 池上裕子著「織豊政権と江戸幕府」より
>
> 「(佐久間盛信への)折檻状から読み取れるように、信長自身は所領の大きさに比例して、
> 家臣一人ずつの軍役数を定めると言う方法をとっていない。家臣をどれだけ抱えるかは
> 各自に任されていた。
> これは鎌倉・室町期の武士たちの有り方と類似で、北条・武田らが所領貫高に比例して
> 軍役数を決定した方法といちじるしい対照を成す。
> 従って武篇道と戦果が問題となる。
>
> (中略)
>
> 信長は信盛親子に続いて、家老の林通勝(秀貞)、安藤守就親子、丹羽右近も追放した。
> それは信長の権力強化の表れのようにも見える。これをもって中世の武家権力と違って、
> 信長が家臣の所領に対し干渉しているとか、領域統治能力を問うているとかと評価して、
> 信長の権力は新しいとみる見方もあるがいかがであろうか。
>
> 信長は家臣を大名に任じて分国を統治させ、各方面ごとの総大将を任命して統一戦争を
> 戦っていかなければならない。
> 拡大する家臣団と支配領域に対応した家臣団編成、軍役賦課・軍事力編成が
> なされていないからこそ生じた問題であろう。
> それを武篇道の督励で対応しようとしたのが追放策であろう。
> それは、信長自身が武篇道に邁進して土地支配制度と知行制の整備を怠ってきたことに
> 原因があるのであって、逆に信長の限界を示すべきものとみるべきであろう。
>
> この問題の解決は秀吉の課題となる。」

10人間七七四年2010/02/28(日) 22:17:18ID:dvtTqF9i
>>9
それで北条・武田の動員兵力は単独で織田以上出すことが出来るのかw
そんなきちきちに決めなければならないほど織田家は兵に困っていたわけではないw

11人間七七四年2010/02/28(日) 22:33:10ID:g1lD5vug
武田、北条が細かい兵役を定めたのは貧しい地域で少しでも多くの兵士を集めるための苦肉の策だったのかな

12人間七七四年2010/03/01(月) 02:44:44ID:CygL7hyG
努力して兵を集めても織田には及ばないということか?

13人間七七四年2010/03/01(月) 03:02:23ID:TDlTgSGP
>>9>>10はマルチ

14人間七七四年2010/03/01(月) 04:55:57ID:3bJTDENF

15人間七七四年2010/03/01(月) 08:07:58ID:MB4lJWqZ
なんでこんなバカばっかのスレに・・・

16人間七七四年2010/03/01(月) 12:16:53ID:9mkGAgai
最近>>9のような北条・武田は石高に応じて兵役を決めたから革新的
織田はむしろ遅れていたと主張するのが流行ってるらしいね
実際は後進地域が少しでも周りの勢力に対抗するための必要に迫られた
制度だったんだろう

17人間七七四年2010/03/04(木) 00:56:39ID:B9p+lBIp
>>15
ニワカにも分かりやすく概論を開陳してくれ。

18人間七七四年2010/03/04(木) 01:28:36ID:+3wX/Oib
無理だろ
大抵こういうこと言う人間は自分がわかった気になってるだけで説明する能力もない

19人間七七四年2010/03/04(木) 02:20:41ID:xIWFpWTY
>>16
信長のやったことは鎌倉室町と変わらぬ旧態依然としたものであり、北条や武田のやったことは
そこからの脱却を明らかに志向した上、近世に引き継がれた。

時代からの脱却を志した側と旧態依然とした慣習の中に安穏としていた側、
どちらが先進的か馬鹿でも解るだろうに。

20人間七七四年2010/03/04(木) 02:35:10ID:x4HrHviJ
信玄みたいに勝つたんびに自分家戻ってたら
時間がいくらあっても足りない。
天下統一のためになによりもスピードを最優先した。
時間を金で解決した...と、見るべきだと思うがな。

信長は土地支配だの知行だのという土臭いのより
ホリエモンのような考えだったと俺は見てる。

21人間七七四年2010/03/04(木) 07:34:54ID:QAuncT2w
>>19
北条も武田もその制度や政治、軍制を徳川が参考にしてその手本となり
後世に引き継がれたわけだから、いいものを残せばやはり残るわけだ

22人間七七四年2010/03/04(木) 12:34:02ID:KwlEP3lM
>>20
スピードを最優先か
信長がわずかの時間の間に大きな勢力になれた理由ってなんなんだろうね

23人間七七四年2010/03/04(木) 18:50:23ID:PrHjosDb
>>20
武田の甲府も信虎の代に領内の中心として移転されたもの。
信玄時代に領土が4〜5国程になった時もその中心だったので移転の必要がなかった。
信長も他の大名と同様に戦いの度に律儀に岐阜城に戻ってる。
安土も広がった領内の中心地という事で他大名と似た感じの選択地だった。

24人間七七四年2010/03/04(木) 18:53:19ID:GAwa9TFu
合理性と、単純に図抜けて戦が上手かったから。かね。

25人間七七四年2010/03/04(木) 20:08:35ID:xIWFpWTY
戦が上手いってのは信長に対する典型的な誤解だな。信長は確かに武闘派だが
ポカやミスが多く決して戦上手とは言えない。

信長の真骨頂は寝技の政略だ。信長の政略の上手さは確かに群雄の中で抜きん出ている。

26人間七七四年2010/03/05(金) 00:09:45ID:CJPkoFEb
政略こそポカしてるだろ浅井とか越前とか本願寺とか義秋とか、
最後は反乱で死んでるし

27人間七七四年2010/03/05(金) 01:33:15ID:gADJ/bfz
お金集めが得意だった

28人間七七四年2010/03/07(日) 14:54:12ID:PV5WOt27
武田信虎は、常備軍というか金で雇った用兵集団・新参の召抱え集団を
持っていたよ。
「御意の足衆」と呼ばれていたとか。

もっともこれは、二代続けて内紛で、軍の主力(最も戦闘力の高い)が
消耗していての止むを得ない処置だったみたいだが。

29人間七七四年2010/03/07(日) 17:46:44ID:JvY1ukIw
戦国の世に常備軍なんて超非効率的なことは
普通やらないからね

30人間七七四年2010/03/10(水) 00:59:11ID:c98VN3nn
傭兵を大量動員して戦い続けたなんてのは
応仁の乱でもあるわけで
別に特別な発想ではない

むしろ農兵を大量動員し始めたことが
戦乱の世を一気に進展させ戦国大名が生まれていった

31人間七七四年2010/03/10(水) 01:00:07ID:c98VN3nn
信長のスピーディな領土拡大は
むしろモンゴル帝国などと同じで
あえて征服地の制度をそのまま残すことで統治コストを減らしたことにある

32人間七七四年2010/03/10(水) 06:05:52ID:8bDAVWSX
なるほど

33人間七七四年2010/12/02(木) 20:53:37ID:2xsLqYqG
よく分からんな。

34人間七七四年2010/12/12(日) 03:11:44ID:oqQqk+j+
戦国時代に常備軍ってのはないな。

兵農分離での効果は、
1.年貢納入責任者を絞り込むことで、それ以外の農民なら農繁期でも徴兵&長期出兵しやすくなった
2.武士階級を農業から切り離し、領地経営や政務従事、守衛業務等に専念させることで、
 やはり農繁期の出兵がしやすくなった
ってとこだろう。

2を以て常備軍とは言えない。
備における武士階級の割合はたかが知れてるからな。
分割相続を禁止し、家臣の嫡男以外の者を小姓衆として召抱え、
親衛隊を組織するぐらいのことは可能だろうが、
常備「軍」と呼べるほど大規模なものではないし、
それは兵農分離前でもそれなりに可能だし。

35人間七七四年2011/02/21(月) 03:16:13.23ID:ZVhqfwK+
100反の田植え、稲刈りは10人でやるとどれ位時間かかりますか?

36人間七七四年2011/02/21(月) 04:02:03.58ID:8m2BbT/E
そもそも「兵農分離」という現象は江戸期のもので戦国時代には起きていない

戦国時代は「兵農一致」だ

37人間七七四年2011/02/21(月) 04:58:00.38ID:8cBnTsZP
信長が兵農分離を進めて、農繁期でも攻めまくりとかいつ頃生まれた伝説なんだろ?

38人間七七四年2011/02/21(月) 12:23:41.91ID:lEbvG9Pb
まあ大きく出てきたのは戦後だろうな。一種の進歩主義的な歴史観に
ぴったりマッチした。

実態は畿内は人口が多いから他の大名と変わらぬ軍役でも、より多くの人間が集められた、
ってだけの話だな。
信長の軍役制度はむしろ、あの当時ですら制度として遅れておる。

39人間七七四年2011/02/21(月) 15:41:29.66ID:8cBnTsZP
>>38
>一種の進歩主義的な歴史観にぴったりマッチした。

もう少し詳しく、具体的に。

40人間七七四年2011/02/21(月) 16:16:39.09ID:8m2BbT/E
>>39
進歩主義史観ってのは「歴史の段階的進歩を先取りしたものが勝つ」って思想。
なので信長の拡大には何か「進歩」があるはずだってことになり、その思想に合わせて
後から理由付けされたのが「兵農分離」

信長が中世から近世への転換だったという「思い込み」
歴史が転換した以上それには進歩的(あるいは革命的な)思想があったはずだという「思い込み」

それらの思い込みが作った魔法のキーワードが「兵農分離」だよ。
兵農分離と言ってれば詳細な研究をすること無く戦国をストーリーとして語れるわけだからな。

41人間七七四年2011/02/22(火) 15:14:16.62ID:nizrKD5A
小説家とかが喜んで使ってそうだなw ノブりんは革命児ナリ♪とか

42人間七七四年2011/02/22(火) 15:55:53.40ID:QUoufZ3H
遠藤周作なんてその典型だな。あの時代だからしょうがないが今読むと非常に気持ち悪い。
一種のゲーム小説みたいな感じがする。

43人間七七四年2011/02/22(火) 19:08:48.88ID:T1WsQSaH
小説は面白けば何でもいい。史実に沿っててもつまらなければ無価値。
問題は読み手。

44人間七七四年2011/03/05(土) 22:55:42.19ID:w8Kt0W/w
>>42
たとえばどの本?

45人間七七四年2011/03/10(木) 19:16:01.40ID:NjN3kGqd
>>44
遠藤周作の歴史小説で信長が出てるのは、ほぼ全部そんな感じじゃね?

46人間七七四年2011/04/09(土) 13:15:28.61ID:JgS3alM7
【本能寺の変】明智光秀/惟任日向守を語る2
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1298723473/200

200 名前:人間七七四年 投稿日:2011/04/09(土) 07:06:39.40 ID:Tug5M9ir
織田軍は武具兵糧全て完全支給の自己完結型軍隊。略奪厳禁。
もろ近代軍。こんな初歩も知らんとは。

47人間七七四年2011/04/09(土) 13:19:48.41ID:Tug5M9ir
他人の書き込みを貼り付けて悦の、思考が停止して久しい夢遊病者。

48人間七七四年2011/04/09(土) 18:41:22.35ID:HLEolBKd
キチガイの書き込みを大喜びで他所に貼り付けるのもキチガイ。
これ基本知識な。

49人間七七四年2011/04/14(木) 02:25:10.16ID:NCMqT5Fu
自分がキチガイであると自覚しているキチガイも珍しい

50人間七七四年2011/08/26(金) 12:54:03.28ID:QDazOluS
保守

51人間七七四年2011/09/09(金) 00:31:40.75ID:Q4gMti3q
>>9
この本読んだけど、全然ダメだった。

52人間七七四年2011/09/09(金) 03:43:47.50ID:/yAKlicF
>>51
どうダメだった?

53人間七七四年2011/09/11(日) 23:04:11.32ID:cNLoH+v9
>>52
・もし信長が生きててもあれ以上の事はやらなかっただろうと勝手に断定し、「信長の限界(>>9)」などと言う
・理由も語らず安土宗論をインチキ呼ばわり
・相変わらず残酷で厳しい信長、優しい秀吉というイメージで物事を語る
・それでいて朝鮮出兵では「朝鮮侵略での秀吉の残虐行為」という項を設ける
・朝鮮の地名のルビが朝鮮語。慶尚道は「けいしょうどう」ではなく「キョンサンド」。どうでもいいが
・家康が各大名を弾圧しまくった件についてはほぼスルー

54人間七七四年2011/09/13(火) 01:32:57.39ID:fJ4YLXZt
>>53
そりゃお前の読み方が全然ダメだわwお前が予断で読み過ぎてるだけの話

55人間七七四年2011/09/15(木) 18:48:08.88ID:CIBVxVbA
書いてあった事しか書いてないのに予断もなにも

56人間七七四年2011/09/16(金) 08:34:02.69ID:atFUnX96
>>55
スクリプトだからほっとけ。



煽られて反論できなくなった
  → ○○ 必 死 だ な (w

予期せぬ自分の無知で煽られた
  → 釣れた
  → わーマジレス返ってきたよ

言い返せないけど 負けは認めたくない
  → ( ´,_ゝ`)プッ
  → 無知白痴は黙ってろ
  → 知能障害をおこす
  → 放置出来ないお前も厨なんだよ(w

相手の精神的に追い詰めてやる
  → ブラクラ、グロ画像のURL貼り
  → テンプレ(○○の特徴)、オタ系のAAで煽る
  → ○○Uzeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeee

最後の悪あがき
  → IP抜くぞゴルァ!
  → 知り合いのハッカーが(ry
  → スクリプトによる連カキ               ←今ここ
  → 他のスレで相手のレスを貼って皮肉を吐く

完全敗北
  → F5連打
  → 田代砲

57人間七七四年2011/11/27(日) 18:28:40.20ID:c3ITKaVT
NHKは相変わらず、兵農分離とか言ってるのか?

58人間七七四年2011/11/27(日) 19:45:00.78ID:AXEQWciE
>>55
実際に信長は生きててもあれ以上はできないとおもうし
その内部制度が粗雑で欠陥だらけだったのも事実
単なる事実述べられてるだけじゃね
>>56
そんな迷惑なことやるのは必死でニートな織田厨くらいだろ

59人間七七四年2011/12/17(土) 02:22:03.36ID:fVeDDd9R
>>58
だがさんちーっすw

だがさんの上洛スレ64事件
http://www26.atwiki.jp/dagamatome/pages/20.html


>実際に信長は生きててもあれ以上はできないとおもうし

何の根拠もなくお前が思ってるだけじゃあな。

>その内部制度が粗雑で欠陥だらけだった

お前の妄想。

60人間七七四年2012/01/27(金) 22:04:59.44ID:NZrL5Wd9
>>59
廃人ニート織田厨君ちーッスww
相変わらず廃人ニートで妄想しかかけない馬鹿丸出しでワロスww

結局自演かどうかの証拠だせなかった事例を大威張りでまとめられてもな
結局証拠みつけられなかったわけだw

根拠あるぞ
信長の生涯はそれこそ離反・虐殺・粛清のオンパレードだった
本能寺の後でそれこそ反乱おきまくりで
家臣も誰も織田家を守ろうとしなかったくらいに結束力ももろいもの
さらには統治体制も適当で
武田攻め程度の距離で兵糧におっかなびっくりになるくらいの適当体制
こんな体制で信長みたいな人間性じゃそれこそ拡大すればするほど崩壊する危険性は高まるだけ
ま、信長のやり方じゃ日本統一する前に寿命尽きて死亡するか、
もしくは本能寺に類する謀反おきて死亡して崩壊するか、
領国離反が相次いで収拾つかなくなって崩壊するか、
いずれかの道しか残されてないような感じだな
よくて一代限りの政権だよ
残念だったな、廃人ニート織田厨www
お前の馬鹿げた妄想と違って現実はこんなもんww

61人間七七四年2012/01/28(土) 00:06:15.53ID:xJWJMxCI
>>60
>>9を百ぺん読んで出直してきな。だがさん

62人間七七四年2012/01/28(土) 00:11:36.72ID:KgfZ+JpP
>>61
>>9を100回読んでも
信長政権とやらがろくに兵力指示すら出来ず、領内整備もろくにしてない適当体制だった事が
明白にわかるだろ
お前こそ>>9に書かれてる文章の中身本当に理解できてるのか?
ひょっとしてコピペ長文が読めずに無条件で信長礼賛だと思い込める幸せ回路全開の馬鹿ですかww
あ、廃人ゴミニート織田厨だったねwwごめんごめんww

63人間七七四年2012/01/28(土) 00:24:18.92ID:xJWJMxCI
>>62
> 折檻状から読み取れるように、信長自身は所領の大きさに比例して、
> 家臣一人ずつの軍役数を定めると言う方法をとっていない。家臣をどれだけ抱えるかは
> 各自に任されていた。

とあるが、その折檻状で信盛を「俸禄に応じて家臣をちゃんと召抱えていない」と書かれている。
よって君の言う「ろくに兵力指示すら出来ず」は間違い。
また信長は領内全てで道路工事をしている。
よって「領内整備もろくにしてない適当体制」というのも間違い。

64人間七七四年2012/01/28(土) 00:45:06.62ID:n82zEiCO
>>63
そっちのほうこそ間違いw
折檻状においては「せっかく俸禄与えても譜代家臣の俸禄揚げたり、人を養わないで、自分の蓄財増やすだけ。
それで結局面目を失うような事態になった」とけなしてる。
つまり、ここで問題になってるのは「手柄を上げられず面目を失った事」であって
「人を雇わなかったことじゃない」のねwww
文章みればわかるはずなのにワロスww

それから「領内すべてで道路工事」てどこの世界の話ですかww
むしろ領内全域から見ればやったところのほうが少ないわww
ためしにやったというところあげてみなww
てかろくに裁判も出来ずに、「俺の指示受けろ」といいつつ指示出さなくて
困った挙句代官が現地に丸投げしてる適当体制がなんだっていうんだかww

65人間七七四年2012/01/28(土) 00:59:42.93ID:xJWJMxCI
>>64
信長政権とやらがろくに兵力指示すら出来ず>>62

してる>>63

折檻状で問題にしてるのはそこじゃない>>64


以上、話の論点ずらし乙。


>むしろ領内全域から見ればやったところのほうが少ないわww
>ためしにやったというところあげてみなww

1575年の時点で尾張・美濃・近江・山城・摂津・河内・三河・遠江。
その後も領国全部で拡張されている。

66人間七七四年2012/01/28(土) 01:05:57.57ID:n82zEiCO
>>65
論点ずらししてんのはお前だっつのww
信長政権が兵力指示ろくに出来ず>>62

してる(と妄想)>>63

佐久間折檻状では別に兵力指示を示してない。>>64
信長が言ってるのは「手柄上げられないのに譜代家臣の俸禄あげたり、人を雇おうともしないってどういう事?」
という事であって、信長が兵力指示してるわけではない事がこれでわかる
はっきりいえば信長の下では手柄さえ上げられるなら兵力に関しては特にお咎め無しだった事がわかる

以上、>>65の阿呆が盛大に自爆したことをさらしてあげました
ていうか、廃人ニート織田厨って本当に文章よめないのな

だから、どこでそれが示されてるんだよ
お前がいってるだけじゃん
資料だせ、資料

67人間七七四年2012/01/28(土) 01:19:10.52ID:n82zEiCO
つーか>>65であげられてる三河とか遠江ってそもそも織田領土じゃねえしww
ニート織田厨厚顔無恥すぎてワロスww

68人間七七四年2012/01/28(土) 01:23:31.76ID:xJWJMxCI
>>66
「先々より自分に抱へ置き侯者どもに加増も仕り、似相に与力をも相付げ、新季に侍をも抱へるにおいては、是れ程越度はあるまじく侯に〜」

以前から召抱えていた者に加増し、同じように与力をつけ、新しく侍を召抱えておけば、これほど不覚を取ることはなかったのに〜
よって>>64の、信長が問題にしてるのは人を雇わなかったことじゃない、というのは間違い。
つまり信長は「もっと人を雇っておけ」と言ってるわけ。


道路については信長公記8巻、1575年7月5日のフロイスの書状、およびフロイス日本史第2部40章を読みなさい。

69人間七七四年2012/01/28(土) 01:28:43.12ID:n82zEiCO
>>68
だからいってるだろ
「人を雇っておけば不覚とらなかったのに。」
つまり不覚とらなければ別に口出ししなかったし、関知もしなかったわけだ。

記述出してみ。
つか、織田領でもない三河遠江が入ってる時点で眉唾すぎだろww

70人間七七四年2012/01/28(土) 12:09:26.92ID:xJWJMxCI
>>69
その不覚をとらないために家臣を雇えって言ってるのに、無理矢理すぎる解釈だな。
本当に折檻状を読んでるのか?


小河かり屋跡職申し付け侯ところ、先々より人数これあるべしと、思ひ侯ところ、其の廉もなく、剰へ、先方の者どもをぼ、多分に追ひ出だし、
然りといへども、其の跡目を求め置き候へぱ、各同前の事侯に、一人も抱へず侯時は、蔵納とりこみ、金銀になし侯事、言語道断の題目の事、
→最低でも各同前(=以前と同じくらい)は雇え、ということ。


山崎に申し付け候に、信長詞をもかけ侯者ども、程なく追失せ侯儀、是れも最前の如く、小河かりやの取り扱ひ紛れたき事、
→信長が声をかけておいた者を召抱えずに追放してしまったことを非難。


大まはしに、つもり侯へぽ、第一、欲ふかく、気むさく、よき人をも抱へず、其の上、油断の様に取沙汰侯へば、畢竟する所は、父子とも武篇道たらはず候によつて、かくの如きの事、
→またも人を召抱えない事を非難。


与力を専とし、余人の取次にも構へ侯時は、是れを以て、軍役を勤め、自分の侍相抱へず、領中を徒になし、比興を構へ侯事、
→与力ばかり使っていること、および自分で家臣を召抱えない事をまたまた非難している。


これだけ繰り返し言われてるのに。




「信長の政治体制が適当だ」と言うくらい詳しいんなら、信長公記とフロイス日本史くらい持ってるだろ。
たった数ページの話だ、自分で読みな。

71人間七七四年2012/01/28(土) 19:44:19.94ID:4Q6YuI00
>>70
読んでるからいってんだろ
もはや最後の追放にいたる折檻状で何いってんだって話だな
てか、折檻状見ればわかるが、10年前20年前の事柄だって
ゴロゴロ書いてあるのに、それをどんだけ放置していたんだって話になる
結局信長には家臣の兵数を自分で定める制度も権限も無かったんだよ

結局お前が揚げている文章で言われてるのは、「武辺道たらはず」といわれてるように
「お前の態度や仕事のやり方ってどうなのよ?」的な武辺道という道徳的観念からの追求に過ぎない
武田や北条が部下に書状を発給してその兵力や装備にまで口出しして軍隊編成を行っていたのとはまるで別物
結局のところ、信長は長い間その佐久間の所業を気に入らないとおもっていたにせよ放置せざるを得ず、
しかも、人を雇う・雇わないの選択及びその編成や構成は佐久間本人によらざるを得ないことが
折檻状からの内容からして明白
結局信長は後に武田攻めの時にも「兵糧心配なので兵力調整してきてくだちゃい」といってることや
軍役に関する書状が「なるべくたくさんつれてきてね」的なニュアンスでしかない事からも
家臣に対する軍役を定める制度も権限ももっちゃいなかったんだよ

寝言ほざいてんじゃねーぞ
自分で言い出したんだからさっさと出せよ
またいつもの書名だけ出してのあるある詐欺か?
ま、いつもの低脳織田厨ニートらしい馬鹿っぷりだな

72人間七七四年2012/01/30(月) 00:26:34.17ID:WHu97vLW
だがさん最近元気だね

73人間七七四年2012/01/31(火) 07:57:37.01ID:pyn6FspO
兵農未分離で後進的な筈の薩長土肥に滅ぼされた幕府

74人間七七四年2012/01/31(火) 15:39:27.63ID:rQSCjATu
そもそも兵農分離が先進的とか言い出したのは戦後に過ぎないっつーの。
しかもその認識は間違いだし。

兵農分離は政策ではなくあくまで現象にすぎん。それも江戸期に起こったものだ。

75人間七七四年2012/02/05(日) 05:26:37.03ID:JFR2uORa
>>74
江戸期は兵農分離したのではなくて、帰農したんだよ。
それが実態。200石で2名の江戸出仕に代えたんだよ。
基本は200石で20人の江戸出仕で総動員は30人以上だよ。

お前は馬鹿なのかw ちゃんと一次史料で調べてないだろw

76人間七七四年2012/02/05(日) 09:25:53.34ID:WQK+ZO0p
>>75
半武半農が帰農もしていない状況を兵農分離とはいわねーんだよあほかw

77人間七七四年2012/02/05(日) 13:41:50.78ID:JFR2uORa
>>76
違うよ。馬鹿はお前w

足軽であっても徒歩侍であって、専門で城に詰めてるんだよ。
後北条家の到着状をみろよ。

2貫400文は扶持米で1貫200文。これは12か月分の扶持米。
一反が1石で500文の計算なんだよ。安藤枡、いわゆる関東枡の大きさで
一食2合分で3食で計算があってる。

なので15歳で歩者(足軽身分)になったら年中、城に詰めてるんだよ。
お前は馬鹿であまりに無知すぎだろ!

78人間七七四年2012/02/05(日) 13:48:13.57ID:JFR2uORa
ちょっと訂正な。
2貫400文は、金1貫200文と扶持米が1貫200文分(1日6合で1年分支給)。
扶持米が1貫200文分は、2石4斗分。

なんでこんな無知と低脳と馬鹿しかおらんの?
暫く来ないうちに馬鹿しかおらんのか?

79人間七七四年2012/02/05(日) 15:19:34.47ID:DSHC1ita
そもそもID:JFR2uORaの兵農分離の定義がさっぱりわからん。
北条は兵農分離してたってことか?

80人間七七四年2012/02/05(日) 15:51:31.78ID:8Yvmmku7
プロ足軽

81人間七七四年2012/02/06(月) 21:11:55.46ID:yZjAYLTI
とりあえず>>74から始まっている論点について書いてみると

兵農分離は政策ではなく現象であるか否か
→YES
詳しくは下で説明するが、戦国時代の兵農分離は主として郷村側の対応であって大名側の政策ではない

江戸期の兵農分離は帰農であるか否か
→YES
士農工商の枠組みが分けられ、それまで曖昧だった武士と豪農や地侍の区別が明確につけられた
士となったものは>>75がいうようにそれこそ足軽に至るまで城詰めのサラリーマン武士となり、
農となったものは武士的な生活や様式をやめて農村社会での生活に溶け込んでいった
いわゆる近世的兵農分離

戦国時代に兵農分離は起きなかったか
→NO
ただし本格的な近世的兵農分離は江戸時代に起きたものではあったが、
戦国時代にも中世的兵農分離と呼ぶべき現象は起きていた
その詳細は戦乱が続いて軍役が恒常化した事で、軍役衆の供給先である郷村社会が対応したもの
具体的にいうと軍役をこなしてくれる人間を郷村内で固定する代わりに特権や地位を与えたり、
さらには他所の流れ者や浪人などと契約を結んでおき、いざ軍役という時に出陣してもらう、といったもの
後者の場合は質がかなり悪かったらしく、毛利元就などは「まともな奴をよこせ!」と怒声をあげている
このように戦国時代における兵農分離というのはあくまでも郷村側が課せられた軍役に対して対応したものであり、
大名側の政策として行われたものではない
ただし武田などは書状において農民その他の参戦ではなく、武勇人・有徳人を参戦させるように指示しているので
一部にそれに近い動きがあったともいえる
しかし、小説家などによって兵農分離の代名詞のように語られる織田にはこのような動きはろくにない
というか軍役自体が織田はかなり適当

兵農分離は先進的であるか否か
→微妙
そもそも「先進的」なるものをどう定義するかにもよるが、戦国時代的価値観でいうと
江戸時代の近世的兵農分離では戦闘階級と非戦闘階級が分けられてしまうため、
戦闘員の減少が起きてしまう
他国との戦争で少しでも軍役人数を増加させたがっていた戦国大名達にとってはこれはNG
江戸時代という平和な時代に秩序構成のために行われたもの
戦国時代の中世的兵農分離は郷村側の対応であって、大名側の政策ではない
当然の事ながら「兵農分離してるから農繁期農閑期に縛られなくてお得!」
とかいった類のものでも無論無い
戦国時代では多くの大名がオールシーズンで戦っている

82人間七七四年2012/03/08(木) 13:55:46.47ID:OL9g66v0
兵農分離という言葉が誤解の種なんだから、
使わないに越したことない。

83人間七七四年2012/03/09(金) 00:52:31.22ID:9bSJpHyb
島原や幕末みるに江戸時代ですら有事の際は農民を戦闘員として組み込むの想定してたわけで
身分制度面や現象としてはともかく軍制としては兵農分離はいずれ死語になるんじゃないか

84人間七七四年2012/03/18(日) 23:57:51.56ID:Fea1hm1D
韮山農兵なんて農民どころか江川の譜代の家来だろW

85人間七七四年2012/04/16(月) 09:44:38.19ID:AKm90kH4
つうか信長が領地あたりの人数決めてないってのは
「お前どれくらい出すの?」「やる気あんの?」
ということでやる夫は規定以上につれてくるし
やらない夫は少なめということで全体的には収支トントンなんじゃねえの

86人間七七四年2012/04/17(火) 00:59:21.96ID:LypskZko
何人くるか明確じゃないので、
事前にまともな作戦を立てられない

87人間七七四年2012/04/17(火) 18:47:08.09ID:9GC83tUL
領土拡大があまりに急だったから均一的制度面はおっつかなかったが
広域指揮官単位では明智軍法など関東中部大名に近い感じではやっている
ある面、部下任せともいえるがサボれば佐久間みたいに追放される

88人間七七四年2012/04/20(金) 17:49:32.68ID:BXZkLLfQ
>>87
明智軍法はほぼ確実に江戸期に製作されたものだよ。

89人間七七四年2012/04/24(火) 20:48:12.13ID:WeBW0wgi
それはしらなんだ。
確かにそれっぽいけど根拠はどんな感じなんだ?

90人間七七四年2012/04/28(土) 20:22:42.25ID:lxgRHWqB
>>89
領地の石高換算してないのに石高で軍役計算してるしな、アレ。

91人間七七四年2012/04/30(月) 23:06:43.40ID:/IaeVNi/
石高換算?

92人間七七四年2012/10/17(水) 15:21:34.95ID:MkWKWpT0
戦国から江戸時代を通じて兵農分離が最も進まなかった家は何処?

93人間七七四年2012/10/17(水) 15:23:49.92ID:XNC68gVP
そもそも兵農分離は江戸時代の現象

94人間七七四年2012/10/17(水) 19:27:12.32ID:QoDbqIcy
城下町への武士集住を徹底せず地方地行を続けた場合を兵農未分離と仮定するなら
島津・伊達・鍋島あたりの家は幕末まで戦国期に近い体制を維持してる

95人間七七四年2012/10/18(木) 11:55:10.14ID:OsRiSuCn
>地方地行を続けた場合を

それって単なる封建制の特徴じゃ?

96人間七七四年2012/10/18(木) 18:28:37.13ID:SPtx7g0k
単なる封建制とはどういう状態の事か

97人間七七四年2012/10/18(木) 20:00:45.44ID:/qlGMV2o
江戸時代すら封建制と呼ぶべきかどうか議論があるしな

98人間七七四年2012/10/21(日) 00:16:33.68ID:JeWj77XP
>>94
>城下町への武士集住を徹底せず地方地行を続けた場合を兵農未分離と仮定するなら

仮定がおかしい。
兵農未分離のポイントは、第一に職業だろ。

99人間七七四年2012/10/21(日) 00:20:02.16ID:/m7kD9I/
そもそも戦国時代は兵農一致の進んだ時代と考えた方がいい。兵農の分離は完全に江戸時代に入ってからの現象

100人間七七四年2012/10/21(日) 05:42:51.49ID:ZfwaQ868
今だに兵士を物理的に農村から離す事を兵農分離だと思ってる奴多いのな

101人間七七四年2012/10/21(日) 07:20:47.86ID:os+A7UnD
そもそも戦国時代を通じて百姓は戦闘に参加しないのが基本だしな。
農村から軍役で徴集されるのは軍夫・人夫といった非戦闘員。

農村にあって武士の下に組織される戦闘員である足軽などは在村給人という身分であり、百姓ではない。
彼らは百姓とは違い、戦力となる代わりに年貢や賦役の一部を免除されていた。

102人間七七四年2012/11/08(木) 20:15:52.97ID:JlK/Kj6h
>>81
>軍役自体が織田はかなり適当
”適当”だから、常備兵?メインになってた可能性も

織田家で城下町に兵士を集めはじめたのは朝倉が滅んでからくらい
覇権が確立して軍役の軽減とともに兵農分離が進んだとも見れるし
「国中土民百姓新義之主執不可仕」(天正四年柴田勝家黒印状)とか
天正7年には信長自身が安土に妻子の移住を命じたり、
家臣の新恩給付は基本転封が伴い、いわゆる在地性を失った兵士が主流だったわけで
織田家の少数精鋭(常備軍)化は兵農分離の一端、と見てかまわないのでは?

まぁ近江の井戸村氏とか兄は豊臣配下で専業武士となり弟は在地で農業を続けたり
天正13年の筒井の伊賀転入では在地の侍衆の採用はなかった(百姓か牢人になった)わけで
”兵士と農業(土地)との分断”の例はいくつも残っているわけで……

103人間七七四年2012/11/11(日) 20:18:18.47ID:NlOmgjI2
>>102
それを兵農分離の常備兵というなら東国は信長の100年前に兵農分離も常備兵化も達成しとる

104人間七七四年2012/11/12(月) 16:10:49.72ID:QuVqSI6i
>>103
北条でも足軽衆は平時は村にいた(農業に従事)のでは?

秀吉の大返しのとき、姫路城下に足軽衆の家族もいたので
ちょっと事情が変わると思います

105人間七七四年2012/11/14(水) 05:52:05.96ID:KZrrNcPJ
>>104
信長の足軽衆が普段城下に居たとでも思ってるのかよ?
秀吉がどうして畿内に身分法令出したのか考えてみろよ。

106人間七七四年2012/11/14(水) 09:27:20.51ID:prRj8D6/
天正19年の身分統制令なら、朝鮮の役の頃の話ですよね
あれは身分制の確立というより(外征のための)武家奉公人を確保するために出された、のでは?
当時は長宗我部家では(外征負担から逃れるため)一領具足からの離脱が起こったり
軍役のメリットがなくなってきた時代の法令ですし、織田家の話とはまた別かと

つか織田家後期では、強大化による相対的な軍役負担軽減によって足軽衆の城下居住が起こった、わけで
(秀吉の大返しでは姫路城下に配下足軽衆の家族がいましたよね?)
それは兵農分離と呼んでかまわないと思いますが

107人間七七四年2012/11/14(水) 10:22:07.47ID:ZJ/hGG9W
それが>>81が書いてる「中世的兵農分離」の現象じゃないの?

108人間七七四年2012/11/14(水) 18:44:39.09ID:prRj8D6/
>>107
>近世的兵農分離では戦闘階級と非戦闘階級が分けられてしまうため、
>戦闘員の減少が起きてしまう (>>81
…ことが織田家では起きてたんじゃないか、と自分は思うわけで

つまり急激な領地の拡大と相対的な軍役軽減によって起こる必要戦闘員の減少が
かつ転封による”兵士の在地性の喪失”も相まって、兵士家族の城下居住”現象”が起きた
つまり当時の織田家では実質的な「兵農分離」が確認できるんじゃないか、と

そして豊臣期以降は外征という負担増が江戸初期におけるような逆行(農兵)を生じさせたんじゃないかとも

109人間七七四年2012/11/20(火) 08:09:32.87ID:q+FrpgVO
久しぶりに書き込み
>>102からはじまってる論争について

>>102から織田家兵農分離完結論者さんの主張は正直、
資料的に見れば根拠が非常に薄いとおもわれる
理由は下記の通り

1.朝倉滅亡年(1573年)の織田家の畿内における覇権確立は
軍役の軽減を可能としたか?→NO
まず、>>102さんが織田家を少数精鋭化した、と述べているが
むしろ1573年以降、織田家の軍勢出陣回数も、軍勢規模も増加している。
とても少数精鋭、という感じではない。

百姓土民が新規に主を持つのを禁止した柴田の書状をもって兵農分離、と
するのはいささか見当が違うように思われる
当時は百姓土民が勝手に土地から離れたり、別の領主のところに住み着いたりする、というのはよくあった。
これは領主にとっては労働力の減少となるため、NG
武田信玄などもそういった武田領国内で流浪して、武田領国内の別の土地に住み着いた民を、
もとの武田配下の領主のもとへ返すように指示を出したりしてる。
さらに信長が安土に馬廻りの家族を集めた事例も、他の大名と比べて特異とするものではない。
武田なども甲府に家臣団の屋敷があり、家族などが集住してる。
さらにくどいようではあるが、武田は信玄の書状で直接農民をはじめとする諸階層が戦場に来ることを否定しているので、
>>102氏が述べる理屈では武田はとっくに兵農分離をしていたことになる。

兄が武士となり、弟が農民となり続けていた事例
これは若い頃の秀吉が小者として織田に仕えた後、
しばらくして出世したあとで配下を増やす必要に迫られ、弟たちを自分の配下としてる事例、
武田家臣の春日が最初は武田家の近習として仕え、
後にその出世に伴って一族で武士となっている者達が出てくる事例などから見るに、
地位がそれ程高くなく、多くの配下や一族を必要としないなら、兄が武士、弟が農民、
という形でなし崩し的に分かれるのはそれ程不自然ではないように思われる。
結局のところ多数の一族を武士とするにも、必要性や地位が作用する。

110人間七七四年2012/11/20(火) 08:15:48.16ID:q+FrpgVO
>>109の続き
「在地の侍を召抱えないこと」は「兵士と農業の分断」にあたるのか否か→NO
武田信玄は軍鑑において、「新たに征服した土地において、自家の家臣ばかりを移し、
土地を与え、在地の者を召抱えないのは悪徳の大将のする事だ。」というように述べており、
在地のものを召抱える、召抱えない、は大名側の政策方針によるもので、別に身分分断、という感じではない。
後年のことになるが、山之内家なども土佐移住において新規の侍を召抱えない方針をとっており、現地の郷士たちと激しい対立をしている。
そして、他の大名は大抵現地から侍を採用しており、兵農分離云々が関係ないことがわかる。

姫路城に足軽の家族がいたのか否か。これは何の資料にのっているのかわからない。
仮にそうであったとしても、それは在地の足軽であったのか、他の土地からの移住者であったのか判断がつけにくい。
さらに述べると、それをもって「他の大名にはない特異なる織田の常備軍化の証拠!」と高らかに歌い上げる事は可能であるのか否か→NO
戦国時代の武将たちは結構頻繁に戦略的都合などで配置換えをしている。武田家の事例で言えば、西上野には真田や浅利や内藤などが差し向けられ、赴任している。
彼らは自分の直卒家臣団を数十騎〜数百騎率いて在地に赴任していたとされるが、
この「騎」というものには一騎あたり4人もの歩兵がついたとされる。
つまり、彼らは数百から千人以上にも及ぶ歩兵を引き連れていったわけであり、
彼らは当然主君が在地に腰をすえて家族なども呼ぶ以上、自分達も家族を連れて移住していたであろう事は想像に難くない。

111人間七七四年2012/11/20(火) 08:18:31.66ID:q+FrpgVO
>>110の続き
織田家で実質的な兵農分離は確認できるのか?→NO
これまで見てきたように、>>102氏が織田の兵農分離の証拠、
としている事例は大抵の場合、他の大名の事例で確認や説明がついてしまう。
そして織田家が兵農分離をしてないといえる最大の焦点は、
織田家が軍役指示をろくに出していない事、にあると思われる。
信長の軍役指示は「なるべくたくさん」とか
「今度の出陣は遠い国なので、兵糧大変だから人数調整してきて!でもたくさんいるのと同じくらいに頑張って!」とか、
「武功あげられないんだったら、人をたくさん雇うなりなんなりしろよ!」とか、かなりイージーというか、適当な感じである。
これらの文面から見る限り、少なくとも信長本人は兵力を多数欲していたようであるし、少数精鋭、といったものを志向している形跡は伺えない。
>>102氏は最後の文面から見るに、どうやら織田家で近世的兵農分離が行われていた、と主張したいようではあるが、
この近世的兵農分離は軍役指示によって人数や装備、役割が大名側に明確に規定される事を前提としており、
それによって定められた「必要人数」である武士階級と、それ以外の農民階級の明確なる身分的分離、であって、
その第一歩たる明確なる軍役指示が行われていない織田家で近世的兵農分離が行われていた、とするのは難しいように思われる。
さらに近年では信長の書状内容などから見るに、どうやら織田領国では明確な軍役規定がされていた武田・北条・上杉などと違い、
軍役人数をどれだけ集めるかは、家臣の裁量に任されていた事が指摘されている。
つまり、信長本人も「近世的兵農分離」における第一前提である、「自家の規定人数」を把握もしてなかったし、
把握しようともしていなかったのである。
これでもって織田家が兵農分離を果たした、とするのは
いささか以上に厳しいと思われる。

112人間七七四年2012/11/20(火) 17:19:50.29ID:j/sqiMtz
>>109
>他の大名の事例で確認や説明がついてしまう
これは何ら問題ないかと
様々な要因が重なって「織田家だけ」に兵農分離が起こったんじゃないか、という話なので
基本、全国で同じような現象が見られることは当然、と思います

とりあえず自分は「軍役賦課の縮小が兵農分離を引き起こした要因の一つ」という仮説の上
書状等もそれを示すものとして出しています

>むしろ1573年以降、織田家の軍勢出陣回数も、軍勢規模も増加している
あくまで絶対規模ではなく”相対的な軍役負担”を考えています
それ故>>102は「新領(越前)においての新規徴兵はなかった」ことを
軍勢規模も増加していますが、領地も大増したため「相対的な軍役軽減が起こっている」
…という指摘をしたいわけです
織田家の場合、反織田連合(1599)時点で345万石程度(相手は合わせて185万石)所有しており
夫役も近江安治郷では規定6人が在陣の場合は2人(1581)と軽減されていたり
時代を経るに連れ、織田家内での軍役負担は減少していきます

>兄が武士となり、弟が農民となり続けていた事例
当時「兵士の給料から在地性がなくなった」現象が起こっていた、という指摘の一つです
さらに「在地性」という観点から見れば「転封」も重要な要素だと思います
つまり「軍役従事者と農業従事との間に直接的な関係が薄れた」ことが当時は起こっていた、と

>姫路城に足軽の家族がいたのか否か
川角太閤記の「中国大返し」の姫路立ちの際の御触に「足軽弓鉄砲の妻子は、扶持方までのたのみなり」
との記述があり、姫路城下には平時から”雇用形態の兵士”が家族とともに居住していたと推察できます

113人間七七四年2012/11/20(火) 17:21:47.34ID:j/sqiMtz
>織田領国では明確な軍役規定がされていた武田・北条・上杉などと違い
>軍役人数をどれだけ集めるかは、家臣の裁量に任されていた事

ソレは単に信長は、総兵士数増加が必須だった他の戦国大名とは違う事情だった”だけ”なのでは?
(それに対し北条も武田も軍役拡大に熱心で、それ故記録も多く残るわけで)
西欧でも傭兵雇用になれば傭兵隊長に全額渡す方式になり(室町期の足軽衆も同じ形態)
王の配下への細かい徴兵への言及はほぼなくなりますし
明確な規定が必要がないだけで(記録がないから)織田家の軍制が遅れていたとは言い難い、と考えます
(ここらは色々見解の相違がありうるところと思いますが、逆に傭兵に大きく依存してた可能性もあるのでは)

つか(西欧を参考にすると)「全兵士数の確実な把握」が必須になるのは直接雇用の場合(賃金)で
傭兵団が主流の場合はそう問題にならない気がしますが……
つか、これと「兵農分離」との関係がいまいちわからないです
というか「”近世的”兵農分離」という言葉をちょっと詳しく定義ご教授していただけると……

114人間七七四年2012/11/20(火) 22:46:43.65ID:iLsphbjk
徳川家に人員や装備を細かく指示した軍役書は無いが、
旗本先手組から分かるように時代遅れとは思えない

115人間七七四年2012/11/21(水) 06:12:40.58ID:TUmnNLmP
>>112
いや、問題ありまくりでしょ。
ぶっちゃけて言いますと、貴方の言ってる事例って武田で全て確認や説明がついちゃうんですよ。
貴方の言い分だと、武田も兵農分離してた事になるのに、貴方の中だと武田はしてなくて、織田だけ、って明らかに結論ありきが酷すぎると思いますが。

いや、ですからね、何度も言ってるように、仮説、というか結論ありきという感じがするのですが。ていうかですね、貴方が言ってる朝倉滅亡年1573年から、という事例で
柴田を持ち出すのはどうなんでしょうか。織田の越前支配は初期に前波など朝倉旧家臣たちに任され、それが越前一揆で崩壊し、
2年以上の歳月をすぎて織田が越前を再征服し、柴田が越前を任されるのはそれ以後、となるので柴田の書状を出したのもこれ以降となるはずではありませんか?
それに、そのまま読めば百姓が別の領主に仕えるのを禁じた、と読める書状でそうおっしゃられるのもどうかと思いますが。
正直、「仮説」という言葉で反論封殺というのはどうかと思うわけですよ。

いや、よくわかんないわけですよ。それ。
百姓云々の書状は単なる百姓が他の領主に税を払うのを禁じた、ととれるわけですし、
軍役関連とみるのって難しくありません?
1599年ってとっくに豊臣時代じゃないですか。貴方の言ってる事がマジでわけわかりません。
相手側が185万石っていつの事をいってるんでしょうか。
「夫役は6人で在陣の場合は二人。」これってそのまま読めば、
夫役(通常の領主命令による肉体労働役)は通常6人で、軍役がある場合は二人、という感じで別におかしくない命令に見えるのですが。
軍役で人をそっちの方に出すから、夫役はその場合は二人でいいよ、というだけの命令でしょ、これ。

いや、ですからそれだと武田をはじめとして多くの大名で武将達の転封が起きてるわけで、
貴方の理屈だと他の大名も「在地性消滅云々」が起きてたわけですよ。
というか、必要な地点に武将を次々に派遣して配置換えするなんて、多くの大名が普通にやってるので、織田だけの特異点みたいに言われてしまうとなんとも。

その兵士達が在地から徴収された兵ではないでしょうか。
というか、秀吉の所領から見て姫路城を本拠とした播磨は中国遠征における主要な兵力供給源であるはずですので、在地兵であるなら、家族がいるのは自然では。
もしそれが違ったとしても、武田の事例でみられるように、武将の直属兵であるケースも考慮されるわけですよ。

116人間七七四年2012/11/21(水) 06:15:46.56ID:TUmnNLmP
>>113
いや、信長本人が「なるべくたくさん」とか軍役指示出してるわけですよ。信長の軍役指示は明らかに「できるだけ多く」を志向しており、
貴方の言うような感じではないのですが、貴方は信長本人の指示すら否定して、何を主張されたいのかよくわからないのですが。
傭兵団とかいってますけど、正直それが存在している、それを雇用している、といった関連の書状や裏付けとなる資料が無い限り、
それは貴方の空想に留まるのではないでしょうか。西欧では没落貴族や現役貴族をはじめとした階層が主な傭兵隊長や傭兵組織の供給源となっておりましたし、
スイスやドイツの兵士達が傭兵稼業を専門に行う、といった感じで供給源になってたりしてます。
当時のイタリア諸都市などにも軍事を厭う傾向があった、という下地も見逃せません。正直な話、日本戦国時代とは何から何まで別の価値観のもとで構築された制度なんですよ、
西欧の傭兵制度って。貴方の言う傭兵団、とやらは一体何を資料とされておられるのか、
その兵士の供給源はどこだったのか、その指導者や構成組織はどういった人々だったのか、裏付けとなる資料はなんなのか、といった点がすっぽ抜けているように思えます。

近世的兵農分離に関しては>>81のとおりです。

117人間七七四年2012/11/21(水) 16:06:30.61ID:0dpJ7FXT
>>115
自分が「織田家が特別」だった状況の一つとして「領民への軍役賦課軽減」を考えています
武田や北条で同様の条件があったなら、ソレは問題になるとは思いますが……
前提条件が違えば形が酷似していても同じ評価を下すことは難しいかと

>在地兵であるなら、家族がいるのは自然では
播磨って”でかい”ですよ(武田家北条家では足軽衆の妻子は領地全体に広がっていて城下に住んでませんよね?)
日常から城下にいなければ(大返しは数日の出来事ですから)城に取りに来いという指示に従えるものでしょうか
ちょっと弱いご指摘と思います

>信長の軍役指示は明らかに「できるだけ多く」を志向しており、
当時の織田家の状況が「賦課増大を伴う軍隊規模の拡大」ではなく「領民への軍役賦課軽減」であったこと
は同意していただけますか?

武田家や北条のように制度的に軍役賦課増大を整備していない(軍規模の拡大を意図しない)ならば
当時の信長の「兵隊多く集めろ」って発言の意図は”短期的目的”であって
長期にわたっての漸次変化(兵農分離は状況であるわけで)をまな板に載せている今は
ちょっと意味が無い指摘と考えます

118人間七七四年2012/11/21(水) 16:07:45.86ID:0dpJ7FXT
>西欧では没落貴族や現役貴族をはじめとした階層が主な傭兵隊長や傭兵組織の供給源
日本の場合、同様の雇用形態の兵士は足軽や牢人に当たります
(すみません、戦国板なのでそういう前提長くなるので省きました……)

兵農分離の判断指標の一つは、担う兵士が基本雇用であること、だと考えます
当時の織田家でも雇用形態の兵士が主流である→この状況は「兵農分離」ではないか、ってのが自分の意図です
それ故、西欧での兵士の供給源の細部については、あまり関係がない話に思えますが……


>「近世的兵農分離」における第一前提である、「自家の規定人数」を把握(>>81)
…ってなのが必須な理由をお聞きしたいのですが……

119人間七七四年2012/11/21(水) 17:46:17.19ID:Os9bDURU
横からだけど
根本的に「領民への軍役賦課軽減」っていうのがよく解らないんだけど…
織田家はドンドン戦線が拡大して、複数の離れた場所で戦が起こってる訳だから
普通に考えると戦場までの距離も長くなるし、必要な物資の量も多くなるしで
戦に動員される人数もドンドン多くなると思うけど
その増えた分の人員も全部「傭兵」で補ってた事なのかな?

120人間七七四年2012/11/21(水) 19:16:53.61ID:0dpJ7FXT
>>119
実際の所、領内夫役は軽くなってます(>>115
また明智家中軍法(1582)では軍役人数100石に対し6人ですが
上杉氏の家臣安田家(1574)では1232石に対し109人(100石あたり8.8人)
基本的に織田家の軍役規定は他の大名と比較しても軽かったりします

つまり、確かに戦線の拡大や遠征で軍隊規模は大きくなっているのですが
経済的規模拡大や内戦の利による周辺国への優位性の確立の影響のほうが大きく
一人あたりの負担が減った、ってことを「領民への軍役賦課軽減」と言いたいわけで
織田家が軍事従事者を城下に集めるようになったのは、その優位性が確立(>>102
(この時期を越前占領と自分は仮定しています)してからなのです

で、実際の兵役従事者をどのように集めたか、は、またこの話とは別の問題になるかと思いますが……

121人間七七四年2012/11/22(木) 00:06:01.53ID:QrX27ZgC
>>117
いや、それって貴方しか言ってない、
貴方しかそういう風に資料読まないでしょ、的な
貴方の「仮説」の話じゃないんですか?
なんで事実みたいな話になってるんですか?
最初は「仮説に基づいて話をしている」と言ってたのに、
いつの間にか既定の事実みたいに主張してる。正直ちょっと結論ありきが酷すぎて、議論しようにも困るんですよ。
それはそういう意味の資料じゃない、と言われたら「仮説に基づいている」と言って
ご自身の資料解釈をごり押しして、その理屈だと他の大名でも説明できてしまう、と
いわれたら貴方の「仮説的資料解釈」に基づいて織田以外は違う、と断定する、こんなんじゃまともな議論にならないじゃありませんか。
貴方は何がしたいんですか。

武田北条でも在城衆とか普通にいますよ。
それから、貴方のいうところの中国大返し、
ですが、秀吉は毛利と対戦中でその率いていた軍勢をそのまま伴って姫路城に到達したわけでして。前提条件違うでしょ。

いや、全然同意してないですよ。どこで同意したように見えるんですか。
正直、貴方って論理にまず結論があって、それに無理やり他をおしこめていく感じで
議論してて突拍子もなくて疲れるといいますか、なんというか。
少し前までは「仮説」の話だといってたのが、ここでもまた既定事実みたいに断定してる。
しかもこれで相手に「賛同してもらえますか?」とか言われてもビックリ仰天としかいえないですよ。

122人間七七四年2012/11/22(木) 00:12:20.02ID:QrX27ZgC
>>117宛続き
信長自身が軍役指示で「できるだけ多くつれてきてね。」と言ってるのに、なんでこれで負荷軽減、となるんですか?その解釈の仕方にマジでびっくり仰天です。
貴方は何か誤解してるようですが、軍役付加というのは、その大名による領国統治や整備の精度によるんですよ。
だから太閤検地によってより精密な軍役付加が全国的に可能になったわけでして。
信長は基本的に領国は放任主義ですから、配下に与えた領地の生産力とかを把握しておらず、
その為その土地であがる収入でどれだけの兵をどんな装備で召集できるか、というのがわからず、
その為に軍役指示が「なるべくたくさん」という抽象的なものにならざるを得なかったのは不思議でもなんでもないわけです。
貴方の願望と違って、短期的なものではなく、通常の、いわば恒久的な信長による軍役指示が「なるべくたくさん」なんですよ。
なんで軍役書状に書かれてる事が短期的だという前提になるんですか。
しかも「だったはずです」って何をもとに断言してるんですか。
貴方の仮説を既定事実にしようとするのはやめなさいと何度もいってるでしょう。
マジで何から何までぶっとびまくりでビックリ仰天ですよ。
正直な話ですね、1.Aという大名がいました、2.彼は領国放任主義でした。
3.そんな彼の軍役指示は「なるべくたくさん」という極めて適当なものでした。
という3つの情報があれば、常識的に考えればAは領国整備がまだ未整備で、
軍役付加を精密にできるだけの体制をもってなかったから、こういう風になったんだな、となって終了ですよ。
貴方はこのAの名前が織田信長、であるというただ一点をもって無理やり資料ないのに差別化をはかってるだけにしか見えないわけでして。

そうやって都合悪い事から目を背けるのもやめなさい。
貴方の願望と違って、信長が出してるのは普通に恒久的な軍役の指示で「なるべくたくさん」という適当指示なんです。

123人間七七四年2012/11/22(木) 00:28:40.98ID:QrX27ZgC
>>118
いや、当たらないんですよ。足軽衆は足軽衆で村に属したり、武家に仕えたりしてますし、
浪人衆は参戦する時は陣借り、という形で参戦しますが、彼らの究極目標は結局のところ
「手柄を立てて召し抱えてもらう」事でして、大名側もそれを餌にして浪人衆を誘うわけでして、
浪人である事を目的にして部隊構成とか冗談じゃないでしょ。

いや、雇用形態ってなんですか?貴方が言ってるのは浪人衆でしょ?
彼らは陣借りして参戦して、戦が終わって手柄立てて召し抱えられなければそれまで、の非正規雇用形態ですよ。
彼らを主力にして構成してたと仮に仮定して(まずありえませんが)、臨時非正規雇用ばっかの軍隊であって、
まず雇用形態とは言えないわけですよ。
長々と上で西洋の傭兵の雇用形態を説明したのは、そこらへんを察してもらう意図があったわけでして、
西欧では傭兵隊長の雇用というのは何年契約、報酬はどれだけ、条件は、としっかりとした契約書類をもとにして行われるわけです。
もしあなたの言うように織田家が傭兵雇用とやらをやってたなら、それを多数率いる人間との契約書状や部隊規模に応じた待遇関連の書状とかもあるはずでしょう?
ちなみに、西欧の傭兵は兵力から装備に至るまでしっかりと契約書類でまとめられてます。
でも残念ながら、日本において貴方が希望されているような存在は資料上見当たらないわけですよ。
というか、貴方が夢想してる「ずっと織田家から扶持をもらって雇用される存在」ってただの織田に仕えてる武士なんじゃないでしょうか。
どこの大名家にも普通にいる、ただの武士です。それだけじゃ数が足りないから軍役、というものがあるわけでして。

124人間七七四年2012/11/22(木) 00:29:56.62ID:QrX27ZgC
>>118宛続き
この点については説明不足でしたか。
まあ、室町末期から江戸時代に至る流れの中で、軍役の制度はどんどん変化していったわけですよ。
@最初は室町守護の延長で、「なるべくたくさんお願いね!」的な感じで配下を召集し、その軍勢を集合させるわけです。
配下がどれだけの部隊を召集するかは配下にゆだねられており、主君は間接的な関与しかできません。
近年、様々な資料から考察される信長の軍制はまさにこれです。「なるべくたくさんお願いね!」
「遠い国なので兵糧大変!人数調整してきて!でも多数いるのと同じくらいに頑張って!」
「手柄立てられないなら、人をたくさん雇えよ!」
資料から見られる信長の軍役指示はどんぴしゃでこの形態である事を示しています。
A次に武田・北条・上杉・今川、といった東国有力大名達が、自身の領国を整備し、
領国把握の制度をあげ、それによって土地ごとの収入を把握し、その収入に応じて人数・装備まで含めた軍役を直接配下に付加していき、
望みどおりの軍隊を構成していきます。この形態は豊臣政権になって太閤検地や領国指示などが行われ、全国的に広がっていきます。
B最後に、こうして軍役によって規定された「必要人数」が治世になって調整され、
固定化され、武士身分と農民身分が明確に分けられるのが近世的兵農分離です。
そしてこの形態が江戸時代を通して続いていくわけです。江戸時代には上士から足軽に至るまで普通に藩士として藩に所属しています。
そして、これに至る道筋はAを経なければ達成されないため、領土把握と軍役付加による人数の把握が必要、と書いたわけです。
この時代的な一連の流れから見ればですね、貴方のおっしゃるような「資料無いけど、
なぜか特異点的に織田だけ兵農分離」(しかも他の大名もかぶってる所ばっかり)という主張するよりは、
単に織田の軍制が@の段階だったと見た方が納得しやすいと思うのですがいかがですか。

125人間七七四年2012/11/22(木) 00:32:33.68ID:QrX27ZgC
>>120
いや、軽くなってないでしょ。
貴方の出した書状はそのまま読めば「通常の公共肉体労働は6人だけど、軍役ある場合は二人でいいよ」としか読めないのに、
どうして軽くなってる事になるんですか。
マジでわかんないのですが。
それから、明知軍法は後世の創作の疑い強いですし、軍役かけられる人数が少ない、
というのは大抵の場合、領国掌握力の低さを示してるとされますが。
信長が実際に領国に対して放任主義である事、配下の軍役指示が具体的にできない事を考慮すれば、
自明の理と思いますが。

いや、結構重要な問題だと思いますよ。
上でも書きましたけどね、浪人衆が参戦するのは陣借りといいましてね、
彼らは手柄を立てて大名に召し抱えてもらいたいから参戦するわけでしてね。
貴方の言うような雇用形態なわけじゃない、非正規雇用形態、それも一時期だけ陣借りして手柄立てられなければさよなら、
の世知辛い雇用形態なんですよ。そういった浪人衆をどうやって「雇用」するのか。
単に召し抱えるならそれは単なる武士としての仕官でしかないのではないか。
それが軍役人数や傭兵という雇用形態とどう関係するのか、傭兵契約というなら契約書状はあるのか、
こういった問題に関して貴方は何も答えられてないではありませんか。

126人間七七四年2012/11/22(木) 01:02:46.11ID:klQXrmhq
横からすまんが明智軍法は六人役だから豊臣と同数。軽くはない。
貫高制の武田北条に比べれば物価の計算次第で多少上下するが若干低い程度

127人間七七四年2012/11/22(木) 08:28:58.74ID:k6Ltget9
…「仮説」と前置きしてるのに「途中の文章が断定口調だ」と言われましても……

>>122
>そうやって都合悪い事から目を背けるのもやめなさい
本当に兵力を必要とするならば、制度整備され”軍役賦課対象が拡大”します(実際、当時の武田北条ではそうですよね?
なぜ織田家では他の戦国大名と同じ制度整備をしなかったのか、その理由が「織田家の後進性」にある
…と、いわれているような気がしますが、これは自分は正しく理解してます?

えっと自分が問題にしている時代は、織田家の優位確立(越前占領)後、なので、
それ以前の織田家の軍制については検討するつもりはありません

>>123
>「”ずっと”織田家から扶持をもらって雇用される存在」
そんなことは一言も言及してないですが……
戦闘員が非正規雇用形態(契約社員)でなく正規社員であることが「兵農分離」に重要である
…って、言われても、その理由がよくわかりません

「兵農分離」という観点から見れば、
単純に「農業活動に直接従事しない金で雇える兵士が当時存在する」し、そのような雇用形態は普通にあった
…ってことが言えれば、自分の仮説には何も問題がないわけで
それ以外の相違を上げられても、反論しようがなく……

>>125
>信長が実際に領国に対して放任主義である事
この点を「必要がなかったから放任主義だった」→軍役負担が重くなかった、と自分は見ているわけで
検地自体は織田家時代でも行われていたわけで、そのような検地が終わった領地に
新たな軍役賦課を課す、ことすら信長(とブレーン)はしなかった
…という点は、どう解釈されているのでしょうか?

>>126
「当時の織田家の軍役が敵対する他の大名より(相対的に)軽い」
…という指摘です それが”織田家の特徴”になるわけで

128人間七七四年2012/11/22(木) 10:41:42.25ID:60Ekgcqx
>検地自体は織田家時代でも行われていたわけで、そのような検地が終わった領地に
>新たな軍役賦課を課す、ことすら信長(とブレーン)はしなかった

信長もしとるよ。というかし始めたというのが正確か
大和総検地(差出)に、検地を以って軍役を定という条項があるし、あと明智軍法

織田家の政策は時代によって何段階かに分かれてて
将軍を擁してどちらかといえば旧体制の守護者という時代から
将軍追放と長篠後あたりから東国式の制度に改め初めて
局地的地域的に目に見える形になったのが天正8年ぐらいからで
その後も推し進めていったが本能寺で途中終了
大部分の政策は豊臣政権に受け継がれて拡大発展というのが流れ

あと上の人も言ってるけど提示される史料や例のほとんどが北条か武田にもあるもので
そこからその結論に結びつけるのは理論の飛躍というしかないと思うよ

129人間七七四年2012/11/23(金) 04:29:42.95ID:P+uf9rLC
>>128
「織田家の優位性確立後、領内の軍役負担が軽くなった」ことが言いたいことなので
もちろん具体的な武田北条の事例を示していただけると嬉しいのですが
それも無く「飛躍」と言われても、当方調べようがないところがあります

たとえば信長も総動員令「上ハ六十、下ハ十五男頭ニ令出陣(1576)」出したことがありますが
優位性確立後にそのようなことはありません(軍役が増えたとは思えない)
なのに>>122のように具体事例がなく否定されているわけで「困惑」しています

つか”素人”の仮設に具体事例示さずに反証しないってなのはどうなんでしょうか?

130人間七七四年2012/11/23(金) 04:53:35.43ID:P+uf9rLC
近江安治郷の話にしても「減税してるよ」って意味合いでだしてるわけで
武田北条でも同様の減税が行われていても反論になってない気がします

他にも>>124では覇権が確立し検地も行われた時代でも室町型の古い軍制
(つまり秀吉も明智も同様だった)ような説明があって
でも、城下に兵士が住んでたよ→(もっと先進だった武田北条)でも同じよ
…てのは、じゃ織田も進んでたんじゃ?とか思って困惑はしています、、、

131人間七七四年2012/11/23(金) 05:58:08.66ID:CeYaYgVF
>>129 >>130
横から悪いけどみんな色々事例を出して
「結局織田の軍制は貴方がおもってるようなものじゃないよ」
と説明してると思うのだけど、あなたは何をいってるの?
そもそも自分の言ってる事を「仮説」といって
それにもとづいて資料を見てる、とあなたは飛躍する事からはじめてるのに
今になって飛躍じゃないというのもおかしな話だとおもうし、
逆にいえば何をもって反証になると思うの?
何を示せば反証になると思うの?
そこを示してもらわないと話にならないのでは?

132人間七七四年2012/11/23(金) 13:14:10.95ID:fFM+Tc/1
>>130
近江安治郷は減税云々は関係ないだろ。
城譜代や道路譜代の平時に掛かる夫役を6人出してるものは、
戦時の陣夫の場合は2人出せといってるだけのことで。
平時の夫役と戦時の陣夫の人数が違い、
また負担が大きい遠征についていく陣夫の方が、
人数が少なく規定されてるのは北条でも一緒。
資料の読み違えで根拠の根本から崩れてる。

133人間七七四年2012/11/27(火) 02:59:59.55ID:CkgS8POJ
>>131
たとえば、織田家では武田北条とは違い「軍役対象が縮小されてる」説明とか頂きたいです
(今まで触れられてませんよね?ぜひそこらの厳しいご指摘を)

「常備兵化」がすすむ結果として「兵農分離」という現象が見られるわけですが、
「領民への軍役負担軽減」や「遠征日常化による長期動員」や「新地転封による在地性の喪失」
などなど”織田家特有の条件”が重なって、織田家末期では兵役従事者の給料制や妻子城下在住が見られる
ってことは「兵農分離」と呼べるのじゃないか、って話なので、↑の3つの認識が間違ってるのならそこらを……

自分は、兵農分離は現象、だと考えているので、当時はもう完成してたとか言うつもりはありません
ただ、常備兵化した兵役従事者が主流だったんじゃないか、ってな部分は強調したいです
(「近世的兵の分離」って言葉も違和感があります)

134人間七七四年2012/11/27(火) 03:01:00.75ID:CkgS8POJ
>>132
…天正八年の播磨但馬外征時に出されたからこそ”意味”が出てくる、のですが……
(武田や北条で同じ物が出されているのなら、ぜひ資料ご教授ください)

織田家が外征時でも動員対象を緩和できた、のは「織田家に軍事経済的余力がある」からだ
ってことで、他の大名でも余力があったら軽減している、のなら、何も問題がないような……
天正十年武田征伐の時は信長自身「遠陣だから人は少なめで」(信長公記)と言っているわけで
「当時の織田家での領民への軍役が(他と比較して)軽くなっていた」
と判断するのはおかしい、という話なら、特にそこらのご教授を是非お願いしたく……

(個人的なことですが、織田家の平時と戦時での夫役の違いが分かる資料を不勉強ながら知りませんので
もし良ければ、これもご教授願えませんか?)

135人間七七四年2012/11/27(火) 17:29:46.67ID:RlSYW8AF
>>134
肉体労働で税を払う夫役には
城譜代や道路譜代など平時の土木事業を行う夫役(普請役)と
従軍し輸送部隊や戦時の土木事業を行う夫役(陣夫役)との
2種類あるのは分かるな?
たとえば北条氏の場合は40貫の収入のある土地当たり普請役(大普請役)は2人
陣夫役(夫丸)は1人出すように規定されている(後北条氏の基礎研究)
近江安治郷の場合も普請役は6人、陣夫役は2人出すように命令してるに過ぎない訳で
今までは6人だったけど今後は2人にします。といった内容ではないので
減税の根拠にはなりえない。

136人間七七四年2012/11/27(火) 17:45:51.20ID:RlSYW8AF
>>134
信長公記の武田征伐も「兵糧不足に陥らないよう」に兵を少なくと
ちゃんと理由も明記されてるのに軍縮だと言い張るのは理解できない

>>129
本能寺直前に四国遠征のため
伊勢に15歳から60歳までの総動員令が出されてるのでこれも間違い
(慈円院正以書状)

137人間七七四年2013/09/15(日) 00:39:06.99ID:M27bqH/e
うんこ

138人間七七四年2013/09/17(火) 09:16:18.88ID:PjptxjNy
明智家中軍法は光秀が自分で考えて施行したもので、
織田家が施行したもんじゃねーぞ。
また織田軍は新地加増はあっても、
新地転封はやってない。
新地転封ではなく使い捨て改易をしてる。
だから秀吉は近江長浜、
光秀は近江坂本から、
滝川にしても北伊勢から主力を引き連れて遠征してる。
そこの国人を調略して与力となして支配をひろげるだけ。

139人間七七四年2013/09/17(火) 13:45:10.80ID:Jl/VaR3V
信長は勝家に越前を貸し置くと書いてるから、
そもそも用済みになるまで貸していただけでいつでも没収可。
そのために勝家監視役として、利家らが目付として付けられていたわけだし。
利家は息子と信長の娘が婚姻したから生き残れるが、
勝家は改易されて追放される末路しかない。

140人間七七四年2013/09/17(火) 20:44:37.22ID:+DHktL9u
だがさんこんな辺境までくんのか

141人間七七四年2013/09/18(水) 09:13:10.66ID:yXIXS/Km
信長は譜代家老は切り捨てるつもりだったからこそ、
利家や蘭丸など同性愛信長側近団を作ってたからね。
それに嫉妬してたのが光秀。
秀吉はすでに信長に疑われて財宝たんまり安土城に送ったり弁明のために安土城と播磨を往復したりしてるし。

142人間七七四年2013/09/18(水) 12:51:19.81ID:Kyl7AFTh
>>140
初期の流れを見る限り、だが本人がこのスレを立てた可能性もあるかと。

143人間七七四年2013/09/22(日) 13:24:48.02ID:AnC5gjXE
来年の大河ドラマは軍師黒田官兵衛。
備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
http://mirai660.net/castle/

144人間七七四年2015/10/24(土) 00:37:46.09ID:IWI4YwhB
良スレ保守

145人間七七四年2016/09/04(日) 01:52:48.87ID:HtMKMeMG
保守

146人間七七四年2017/09/15(金) 20:54:38.64ID:6j2TuJ3+
保守

147人間七七四年2018/02/18(日) 18:31:09.84ID:8Mh7x2rB
百姓は今で言う軍属で召集されても
戦闘員である侍や足軽は常備軍だから
元々、兵農分離は戦国期は当たり前
だったんでしょ

148人間七七四年2018/02/21(水) 03:46:20.87ID:SOgg2ZMn
このスレは今からもう5〜8年くらい前に盛り上がっていたようだが今じゃもう信長が「兵農分離」をし職業軍人を作った、と言う説がデタラメだと言うのがだいぶ認知されたなぁと

149人間七七四年2018/02/21(水) 10:44:54.30ID:3p542Zl0
歴史的に見ても律令制の徴兵制が崩壊して
平安初期なら村々から兵を募るとかは
あったけど、武士の時代からは完全に
戦闘要員は専門職が担うことになった
から、そもそも兵農分離は武士の誕生と
共に当たり前だったのだろうな

150人間七七四年2019/04/22(月) 16:19:50.57ID:W/7diJSg
兵農分離が当たり前だったってマジかよ

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