【瀧川】滝川一益ら滝川氏を語る【忍者】

1人間七七四年2011/03/28(月) 03:08:51.00ID:+gVqz/RQ
忍者出身と言われるなど正確な出自不詳ながら、
信長に重用され織田家四天王とまで言われた滝川一益の生涯や逸話、
血縁者や末裔など滝川一族について語りましょう。


滝川一益 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%B7%9D%E4%B8%80%E7%9B%8A


■武家家伝_滝川氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/takiga_k.html

2人間七七四年2011/03/28(月) 03:09:49.35ID:+gVqz/RQ
田舎住まいよりも、茶器を愛した数寄者。

3人間七七四年2011/03/29(火) 02:45:49.77ID:xutXo2pX
北伊勢後略の先兵になったのは地縁でもあったんでしょうか?

4人間七七四年2011/03/30(水) 14:34:26.73ID:FfUc2e5l
難しいことは分からんが、「いちます」「かずます」のどっちなんだ?

5人間七七四年2011/03/30(水) 14:59:22.38ID:8APPD9D6
木造氏流以外の子孫は殆ど歴史に出てこないな

6人間七七四年2011/03/30(水) 17:37:55.65ID:KIt1RJZT
秀吉に「おめーの席ねぇから」

と言われたときの一益の心境や如何に

7人間七七四年2011/03/30(水) 20:44:22.59ID:JwN9Ss33
本能寺が起こった時点でこの人も終了だったよな。

8人間七七四年2011/03/30(水) 23:24:55.30ID:fpblugw0
    , - ' ゙    `` ‐ 、_,,,,,
   ,r'          /=ミ
  /           彡ll',''´
. /             彡lll
 !-- .、    ,、、、、,,,   彡lノ 栄えある織田軍に
 l,,,,,__ /   ___     'r''゙ヽ
. |`゙'' ./   `'゙'''"    .〉,l | 北条ごときに負ける弱将は無用
 |.   ,'           //
. ',. ,'           , r' 滝川一益を不名誉除隊と処す
.  ゙, ゙'ー ‐`      l  |
   ゙、''゙ ,,、二''‐    ノ  l、
''''''''7'ヽ  '''    /   /`〉`゙T''''''''''
  l  ` 、,,,,、- ' "    / /.|  |
.  |  |  .l i       / ./ |  |
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 |  |   | ',   / /  l  .l

9人間七七四年2011/03/31(木) 00:03:17.86ID:6iCjJLUY
鉄砲の扱いに長けてたらしいけどそれなら伊賀じゃなくて根来が実は出身地じゃないのかね

10人間七七四年2011/03/31(木) 02:20:40.89ID:+gIKB7xI
>>6
清洲会議やってる時は、まだ関東から逃げてくる途中だったね。

11人間七七四年2011/03/31(木) 02:48:05.97ID:be6nWExH
イチマスさーん

12人間七七四年2011/03/31(木) 03:01:28.34ID:1VjLS+tw
この人って織田家の家臣では序列的に何番目の人?
佐久間と林と信長親族除いて。

13人間七七四年2011/03/31(木) 03:19:25.39ID:8wrGB10K
>>9
鉄砲云々の話は眉唾。

うちの怪しげな家系図を見る限りでは紀州か大和あたりの土豪だった模様。
大和あたりに残っている史料を見ると菅領細川氏が衰えて三好・松永が台頭した時期に畿内の土豪クラスの紛争もピークになった。
それで負けた側が落ち延びる先は伊勢・尾張方面が多かったみたいだ。

当時、伊勢湾〜三河湾が太平洋側の商業ルートでかなり繁栄していたらしく織田と北畠の争いもこのルートをどちらが押さえるかという争い。

滝川氏も畿内から先に尾張に移っていた同族の池田氏のツテをたよりに尾張に移った模様。
滝川氏が畿内にいた時期に鉄砲が土豪クラスで所持されていた可能性は限りなくゼロに近い。
尾張移住後に鉄砲に携わるような機会は特にはなかったと思われる。

忍者だった的な話はマンガの域を出ないし、出自に関しては田舎のヤンチャな地主ぐらいのイメージで間違いないと思われる。

ちなみに滝川氏は子沢山の一族だったようで伊勢やら美濃あたりの土豪や足軽組頭クラスの家に養子を出しまくっている。

そのうちの数家は滝川姓を名乗っていて江戸時代に元の姓に戻した近藤家なんかは旗本になっていたりする。

14人間七七四年2011/03/31(木) 03:48:46.89ID:8wrGB10K
>>12
与えられた役目と与力から推定すると秀吉が長浜城主になるまでは柴田、丹羽、滝川で三番目。

その後は柴田、明智、羽柴、滝川、丹羽、荒木村重。
ただ前者三人と後者三人の間にはかなり差がある。
前者三人は方面軍司令官並みの役割を与えられてたのに対し、後者三人はこの三人を支援する師団の師団長のような扱い。

かなり有力な与力を与えられてはいたもののあちこち転戦ばかりしてたから出費ばかりが嵩んで、領地や手当ては少なかったみたいだ。
だからこそ茶碗のエピソードも生まれたと思われる。

15人間七七四年2011/03/31(木) 04:01:18.89ID:1VjLS+tw
>>14
なんで滝川は羽柴や明智に抜かれたんだろう?
軍政面よりも小規模な遊撃隊というか機動部隊みたいな軍事能力に特化してたのかな?
でも関東管領になったことで本能寺が無ければ東国平定戦で一気に柴田、羽柴、明智に並ぶ可能性があったよね?

16人間七七四年2011/03/31(木) 05:04:39.00ID:8wrGB10K
>>14
>なんで滝川は羽柴や明智に抜かれたんだろう?
軍政面よりも小規模な遊撃隊というか機動部隊みたいな軍事能力に特化してたのかな?


軍政っていうか行政面の手腕と各自の役割の差だと思う。

行政の手腕で言うと光秀、秀吉は畿内平定を進めている時期に最重要の京都行政を任されるほど信用されていた上、朝廷や他家との外交まで預かっている。
柴田は戦いでの実績はずば抜けていた上に譜代の筆頭と言う立場。
譜代も頑張ればちゃんと重用しますというメッセージを示すのと家中のバランスを取る意味でも柴田には重要な仕事を任せる必要があった。

この三人は織田家飛躍の象徴。
本能寺の変がなければ天下布武実現まで多分トップスリーのまま。

逆に言うとこの三人にいかに良い仕事をさせるかが重要になってくる。
なので三人が行き詰まりそうな局面になると信長は援軍を送る。
その時の援軍司令官は万に上る与力を預かり大量の軍事物資の調達と運搬まで管理する。
この役目を果たせる人もそうそういない訳で滝川や丹羽みたいな戦歴も行政的な手腕もある人物は長期作戦から外していつでも動けるようにしておく必要があった。


>でも関東管領になったことで本能寺が無ければ東国平定戦で一気に柴田、羽柴、明智に並ぶ可能性があったよね?

確かに「関東菅領」とされた事で占領した土地の支配権をある程度優先的に与えられたのは間違いないと思う。
ただ天下布武実現のための戦略全体から見ると最優先は中国地方で次が北陸、四国。
関東は北条の拡張を食い止める防御的な意味合いが強くて攻略に移るのはまだ先だと考えていたと思う。

だからこそ丹波の明智をわざわざ秀吉の援軍に送った。
援軍であれば本来なら丹羽や池田恒興あたりのベテランに指揮を取らせるところを。
信長はそれだけ中国地方の攻略を急いでいたし重要だと考えていたんだと思われる。

なので関東菅領になったとは言え与えられた役割の重要さはやはり秀吉、光秀、柴田とは差があったと考えるのが妥当かなと思う。

中国地方攻略が済んだ後であれば関東方面でも攻勢を強め三人に並ぶ可能性はあったかも知れないね。

エライ長文になったw

17人間七七四年2011/03/31(木) 05:49:36.44ID:NGa6HSNE
関東管領に任じられた証拠ないしね。
越後を柴田指揮下に北信濃の森や上野の滝川で挟み討ちで滅亡させたら
柴田が厩橋城に入城してきて
滝川や川尻は柴田の指揮下に編入されて家康などと先鋒させられ北条滅亡させると思うよ。
このあと家康に伊豆を加増させるどころか滅亡させると思うけど。
この時点で信長はまた領地没収の大リストラをやらかすよ。
佐久間信盛みたいに高野山へ行くか奥羽で討ち死に覚悟で功績をあげるか選べみたいな。

18人間七七四年2011/03/31(木) 08:35:12.05ID:6iCjJLUY
働いてんのに領地没収なんて眉唾だと何度言わせればうんたら

19人間七七四年2011/03/31(木) 11:46:36.15ID:91hMD7zZ
水野信元や久松信俊や塙直政や佐久間信盛は信長のために
むちゃくちゃ働いてたのに自刃や領地没収されたじゃん。


20人間七七四年2011/03/31(木) 13:57:20.13ID:+gIKB7xI
関東管領といっても室町幕府とは無関係なんだけど、
「一益、関東管領」の初出はどこなんだろう?

21人間七七四年2011/03/31(木) 14:26:21.53ID:be6nWExH
小瀬甫安?

22人間七七四年2011/04/01(金) 11:43:16.32ID:4AFZBG+1
たしか、戦後の研究者で方面軍を提唱した人が、それぞれの担当地域と役割を説明するために
滝川軍を「関東管領軍」と名づけたのが発端じゃなかったかなあ?
少なくとも、室町幕府の職制としての関東管領に一益が就任した形跡はないよ

>>16
ほぼ同意なんだが、おそらく、織田家の序列は佐久間と柴田がトップツー
その次に明智そして秀吉が続き、さらにその下にあなたのおっしゃるように
補助役として丹羽が滝川らがいたものと思われる

23人間七七四年2011/04/02(土) 06:47:44.59ID:WegqReJB
なんでそんなに明智の評価が高いの?

24人間七七四年2011/04/02(土) 10:25:21.84ID:wSL0n9++
>>23
信長が盲目だったから

25人間七七四年2011/04/02(土) 13:09:24.76ID:WegqReJB
ごめん。羽柴より明智の評価が高かったようには思えないって意味です。
折檻状の順番を重視したら池田がもっと上でないとおかしくなってしまうし。

26人間七七四年2011/04/02(土) 22:59:06.70ID:TfIhxBrK
伊勢攻略の立役者なわけだから、
何もなければもっと早く近江の羽柴、丹波の明智のように他方面への司令になった可能性はある
ただ長島一揆という厄介な存在がいたために出世が遅れたのは否めないな

27人間七七四年2011/04/03(日) 03:15:45.67ID:tN+NgnjV
>>23
将軍や将軍側近の細川氏らとの縁を繋いだのと、美濃近江周辺の国人と様々な形で繋がっていたのを買われたんだと思う。

相撲の番付みたいなものはないからね。
その時々で前後はあるし任された仕事が長引いてしまえば次の仕事は与えられにくい。

そういう意味では城を与えられた時期や切り取った土地の処分権、どの程度の与力を与えられたかみたいな部分からの印象で序列をイメージするところはあると思う。

本能寺の変直前では秀吉の中国攻略作戦が一気に前進しかかっていて、そこに光秀と信長本人が増援で行く形になっていたから序列は秀吉、光秀と考えるのが妥当かな。
そのまま中国攻略が秀吉を中心に行われ毛利を下していれば秀吉が勝家、光秀、一益を置き去るほど加増されたと思われる。
その後粛清に合う可能性も劇的に高まっただろうけど…


丹羽、池田に関しては若い頃から信長の側近で、畿内の制圧に目処がついた頃には信長の子息が出陣する際に彼らを現場で支えるような役割が与えられている。
これは後継者の育成とその後継者を支える老臣の関係作りを始める意味合いもあったと思われる。


一益が光秀、秀吉に遅れを取ったのは長島での苦戦が大きかっただろうね。
それでも厳しい戦線を生き残り関東の攻略を任される機会を与えられたんだから、相当な信頼を受けていたのは間違いない。

28人間七七四年2011/04/03(日) 04:07:55.85ID:OTLRvz97
>>27
柴田と秀吉は?
柴田も謙信死後の上杉に対して大攻勢を成功させてるじゃん?

あと光秀って丹波、丹後と来て秀吉と並行して山陰攻略担当になるのかと思ったら
畿内の管理統制みたいな仕事させられてたけどあれはどれくらい重要なの?

29人間七七四年2011/04/03(日) 15:22:36.67ID:XQYreiZg
信長的には秀吉はいくら加増しても結局自分の息子のものになるわけだからな

30人間七七四年2011/04/04(月) 23:43:51.51ID:wnbmui1r
子孫が真田家と縁があったのは、本能寺前に交流があったから?

31人間七七四年2011/04/05(火) 00:24:12.38ID:SqOvn/Rd
滝川クリステルが一益の子孫ってマジ?

32人間七七四年2011/04/05(火) 00:33:29.45ID:P5SW1HmW
うそ

33人間七七四年2011/04/06(水) 12:59:25.84ID:gXlMbd4H
北海道滝川市立江部乙小学校いじめ事件
滝川ルネッサンス

34人間七七四年2011/04/14(木) 14:34:40.66ID:xIp21jXy
>>26
瀧川一益の遊撃戦力・兵站以外のお仕事

・伊勢方面の織田連枝衆と愉快な配下たち(不愉快な先代当主とその御一門)の監督(監視),補助
・長島一帯の一向宗勢力の監視(戦力動向以上に物流・情報の監視−経済戦の一面)
・伊勢隣接国の検地代官などの民政補助
・佐久間とやってた東国取次の仕事(佐久間が近畿転出後は独占、これが武田殲滅戦、その後の転封の遠因)
・甲賀衆との人脈を生かした情報・物流の管理(佐治水軍、九鬼水軍などの指揮権保持)

羽柴と明智比べて劣っているからではなく、単に重要すぎて周辺が落ち着くまで動かせなかっただけが本当の理由

35人間七七四年2011/06/02(木) 07:23:34.42ID:bIBiXRWx
秀吉とモメなかったら、滝川一族も関ヶ原まで大名だったかな?

36人間七七四年2011/06/02(木) 20:12:32.66ID:tW1x+F2V
清洲会議の頃既に、秀吉−織田信雄-丹羽長秀-池田勝入ラインが構築されている以上、
秀吉に接近しようが滝川はその他扱いしか受けなかっただろう。
滝川の存在は、伊勢を支配する信雄や美濃以東に野心を持つ池田勝入(と森長可)の利害と
真正面からぶつかるし。

37人間七七四年2011/06/02(木) 20:17:12.55ID:OqXd+0Vg
>>35
いちおう、次男の一時は関ヶ原の時点で1.4万石の大名。

というのは置いといて、賤ヶ岳の時点では桑名城主で15万石程度か。
積極的に秀吉に付いた場合、50万石クラスの大名にせざるを得ない
だろうから、丹羽や蒲生同様に一益の死後に大減封喰らって、
せいぜい10万石程度になるんじゃじゃない?

中立の場合は15万石を安堵かせいぜい数万石の減封だろうから、
こっちのほうが結果的にはよさそうな気がする。

15万石程度だと、たとえば池田は恒興時代は13万石だったし、
小牧・長久手の戦いでの討死ってことで、石高的にも時期的にも
死因的にも減封することができなかった、何事も無く輝政に
家督相続できたんで。

38人間七七四年2011/06/18(土) 11:43:22.92ID:T07MysdJ
八巻正治。氏の学歴は以下の通りです。

【学習歴の記録】
 美幌幼稚園 卒園  美幌小学校 卒業  美幌中学校 卒業   美幌高校 卒業 
※高校は途中転入で、しかも不登校でした!

 順天堂大学  体育学部  健康教育学専攻   卒 業 ※ガンガン勉強しました!

 青山学院大学  第U文学部  教育学科  卒 業 ※幼稚園での教育実習も行いました!

 東洋大学  第U文学部  教育学科  卒 業 ※養護学校の教員免許を取得しました!

 立教大学・大学院  文学研究科:博士課程(前期)   教育学専攻  修 了 ※良き学師たちに巡り合えました!

 カリフォルニア神学大学院日本校    博士課程  キリスト教神学  修 了 ※神様の深き愛の素晴らしさを学びました!

 米ニューポート大学大学院  博士課程  教育学専攻  修 了 ※論文執筆に燃えました!-----------------

資       格
1973年03月19日   中学校教諭1級(千葉県教委 昭47中1普 第501号),高等学校教諭2級(昭47高2普 第427号) 教員免許状(保健体育)取得
1973年04月26日  衛生管理者免許状(第61号) 取得
1978年03月31日 養護学校教諭1級(東京都教育委員会 昭53養学1普 第132号) 教員免許状取得
1994年02月26日 『米セント・チャールズ大学(カリフォルニア神学大学院日本校:提携校)』より 『博士(宗教学)(Ph.D.)』 の学位を取得

39人間七七四年2011/06/20(月) 15:51:57.41ID:8C4SjfDh
BS-TBS 20日 22時

ナンバー2 滝川一益

40人間七七四年2011/06/21(火) 02:18:31.17ID:syROGGE2
滝川一益がいつナンバー2になったんだよ…

41人間七七四年2011/06/21(火) 03:50:08.56ID:m0myBDke
信長のナンバー2って何人いんだよ

42人間七七四年2011/06/27(月) 10:27:22.03ID:B3uG5PSh
>>40
少なくとも北伊勢に所領を得た1567年時点では秀吉よりは上だろうな

43人間七七四年2011/07/14(木) 04:05:41.41ID:2bPsv1fS
滝川さんパズル状態。(☆は同一人物確定、★は推測)


☆滝川一益=滝川左近将監
★滝川彦右衛門=滝川伊予守(清洲同盟の使者)
★滝川儀太夫=滝川益重=前田利益の父?
★滝川益氏=佐治新助=前田利益の父?
?滝川法忠
?滝川彦九郎

その他、怪しい縁者?
☆滝川彦次郎=滝川忠征(一益の稚児?)
☆滝孫平次=中村一氏(甲賀滝家出身?)
☆中村一忠(滝川一忠の嫡男の就職先)
柘植保重(滝川雄利の姉の夫、或いは雄利の実父)
福地宗隆(伊賀の土豪、柘植保重の父?)

ttp://www.geocities.jp/kawabemasatake/nobunaga.html

44人間七七四年2011/07/14(木) 04:25:49.80ID:2bPsv1fS
>>39
面白そうな番組だね。再放送ないかな。
東西の大役比較という感じ?

一益は伊勢で気ままに過ごしてたから、
秀吉と違い、身内の政争に疎く遅れをとったんだろうね。

45人間七七四年2011/07/14(木) 04:40:03.34ID:2bPsv1fS
>>34
追加
・尾張の防衛(佐久間と共同で徳川家の援護及び警戒)
・美濃勢(信忠、河尻)の援護

46人間七七四年2011/07/14(木) 13:46:11.45ID:bdVn+Y6A
>>44
今のところ再放送ないみたい。
http://w3.bs-tbs.co.jp/no2/12.html

47人間七七四年2011/07/15(金) 09:45:08.60ID:YZWNLz04
滝川法忠=滝川彦次郎=滝川忠征だね。

滝川一益=滝川左近将監=滝川伊予守(清洲同盟の使者)
も問題なさそう。



井上力・もう一つの史話
http://www5f.biglobe.ne.jp/~inou/index.html
高山右近の出自  

しかし、左近将監の官はそのままで兼官の形をとり、朝廷を離れた所では
依然として「左近将監」を通していた、という推測は無理であろうか。』

48人間七七四年2011/07/18(月) 19:01:33.10ID:Y2GN5x1W
>>47
>滝川一益=滝川左近将監=滝川伊予守(清洲同盟の使者)
世代的に無理だろ

49人間七七四年2011/07/19(火) 18:27:29.37ID:3yYF0ILP
どういう意味?

50人間七七四年2011/07/28(木) 23:55:43.44ID:3iTlEDVR
利益の父親が益氏という話は、
どの資料からのものかなぁ?

51人間七七四年2011/08/05(金) 20:12:19.12ID:W/jp05AV
>>47
>しかし、左近将監の官はそのままで兼官の形をとり、朝廷を離れた所では
依然として「左近将監」を通していた、という推測は無理であろうか。
無理無理

52人間七七四年2011/08/06(土) 23:13:24.77ID:mW5r8/lQ
武田豊信に宛てた一益への帰属を求める
『倉賀野淡路守書状写(家吉判)』(天正10年4月6日)
では、一益のことを伊予の守と呼んでいる。

やはり同一人物っぽい。

53奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2011/08/07(日) 04:59:27.23ID:IlIRRS1M
江南史学はまた補強を始めたのか。

54人間七七四年2011/08/07(日) 08:02:48.36ID:HG/5TWOH
>>52情報感謝
戦国人名辞典の「倉賀野家吉」を見たら
群馬県史か新編高崎市史資料編にある書状みたいだけど
よければ内容を教えていただけませんか?
ふだん左近将監と名乗っている相手を
伊予守と呼ぶような例は珍しいよね

55人間七七四年2011/08/08(月) 13:28:36.15ID:mRuPZpwu
結局たっきーって忍者じゃないだろ?

56人間七七四年2011/08/08(月) 16:46:59.52ID:Uhab2HRf
この時代の忍者の定義が不明。

57人間七七四年2011/10/16(日) 01:48:41.77ID:iU7PvmzA
>>54
近くの図書館で見つけたぞ。
新編高崎市史通史編2(中世) の補遺にあった。

急度令啓上候、仍今度自上方御乱入、因茲駿・甲・信・上属御手候、
西上州箕輪へ滝川伊予守殿移被申候、彼仁に被仰付候、
御様子者日の本迄被仰付候、(以下略)

58人間七七四年2011/11/04(金) 20:41:03.43ID:xxfoGyXy
>>55
服部半蔵が忍者なら、一益も忍者でよいと思う。

59人間七七四年2011/11/06(日) 07:24:36.43ID:UiJxZp+C
諜報活動・破壊工作に主に従事していた=忍者でいいんじゃないの?
大概は臨時雇いで、大名の要請で略奪やら放火やら汚れ仕事やってた連中。
夜盗に毛が生えたレベルでしょ

半蔵は忍者じゃないし、伊賀甲賀出身ってだけで忍者扱いするのはどうかと思う
滝川さんについては論外。

60人間七七四年2011/11/06(日) 09:16:09.68ID:uoDdFOSJ
>>59
中村一氏や百地丹波、佐治新助はどうだろう?
忍者と夜盗の区別は、地域性でしか分けられないのでは。
伊賀や甲賀の戦術が特徴的であり、夜盗レベルでは無かっただろうし。
あと一益の調略能力はかなり異常だと思う。
北畠、荒木、関、尾張前田と凄い崩れ方。

61人間七七四年2011/11/12(土) 06:03:44.17ID:A2/40o85
>>57
すみません、遅くなりましたが、ありがとうございます。
厩橋城ではなく箕輪城なんですね

62人間七七四年2011/11/12(土) 11:16:07.28ID:6m4o+4yY
伊賀甲賀の人間をみんな忍者というのは、外人が日本人をみんなサムライニンジャゲイシャというのと一緒

63人間七七四年2011/11/12(土) 14:11:32.45ID:t+Q9bHwR
忍者=スパイ

64人間七七四年2011/11/13(日) 03:00:59.53ID:cp4SE/+O
>>61
最初は箕輪城に入場してるから、史実通りだね。
>>62
一益は尾張出身ぽいけど、
本家が甲賀五十三家の可能性があるとかないとかw

65人間七七四年2011/11/18(金) 20:09:50.10ID:Rw48obto
柴田が謙信の死と御館の乱のおかげで加賀を攻略できて首がつながり
滝川も武田攻略開始のあたって信長から
「俺が出陣するまで軽挙するな。砦普請に力を入れろ。
若い信忠をキチンと制御しろ、失敗したら2度と俺の前に参上を許さんから覚悟しとけよ!」と言われているのだった。
そして森を先陣に信忠が軽挙進撃を続けて、老人滝川は動揺していただろう。
結果的に武田征伐は成功したから良かったが
失敗してたら滝川も佐久間と同じように追放されていた。

66人間七七四年2011/11/18(金) 20:24:34.92ID:+FfA8rVJ
信忠が親父の陰に隠れてた名将で助かったな

67人間七七四年2011/11/18(金) 21:43:44.76ID:umlTHGZA
信忠は盲進しただけのバカだな。
勝頼が高遠城を見捨てて
諏訪から甲斐に帰る馬鹿なことをして自爆しただけ。

68人間七七四年2011/11/18(金) 22:20:24.92ID:dnuLHagf
>>65
河尻も同じ様な事を言われてたの?

69人間七七四年2011/11/19(土) 07:05:28.65ID:dqDr1JPZ
>>65
武田がしょぼくて助かったな滝川

70人間七七四年2011/11/19(土) 09:15:32.64ID:Z1ny/Hlw
木曽の地は落ち無いと言う前提条件の盲信があって
織田軍の侵攻を遅滞させる物理的な備えが無さ過ぎて、
木曽を通過したら速攻で南信濃が制圧され
高遠城までやすやすと
織田軍が進撃できた時点で終わってたからなあ。
本願寺降伏以降はいつ大規模進行が来てもおかしく無かったのに。

71人間七七四年2011/11/19(土) 21:37:04.08ID:yxSGM3V/
>>57
天正十年四月五日の長沼山城守宛文書(栃木県庁採集文書)では、
滝川左近と署名してるよ

72人間七七四年2011/11/19(土) 22:02:36.40ID:itTbODvY
滝川一益は北伊勢と上野の国主格、ならびに臨時関東管領代行に任命されたのに晩年は越前五千石

73人間七七四年2011/11/20(日) 09:20:33.67ID:bvkb6op1
そうそうたる前半生だったのに晩年は御伽衆、なんて人は山ほどいるけどね

74人間七七四年2011/11/20(日) 19:01:26.59ID:jqiZOtO3
>>67が正解。
信長は滝川・河尻に慎重策を命令している。
なのに信忠がどんどこ攻めた。武田勢が想像以上に崩壊してたので助かったけど
信忠が名将というより、末期武田の崩壊が激し過ぎた

75人間七七四年2011/11/20(日) 19:59:22.81ID:dEYclyI6
すでに家康の攻撃すら
武田には防衛する力が無かったからねぇ。

76人間七七四年2011/11/20(日) 20:01:19.57ID:J1xQbUyv
信忠にとっては武田は弱すぎたんだな

77人間七七四年2011/11/20(日) 21:01:27.63ID:dEYclyI6
武田攻め盲進と
同じように本能寺に
盲進撃して討死した挙げ句に
織田家を瞬殺した信忠…

78人間七七四年2011/11/20(日) 23:35:33.04ID:TypTBLyK
>>71
松平左近衛権少将伊予守定昭っていうのが居るから、
滝川左近将監兼伊予守一益だったのかな?
>>69
滝川と河尻は、軍を分裂させるより、協力した方が良いと考えたのかも。

79人間七七四年2011/11/21(月) 14:56:03.92ID:8mBz5g8W
勝頼が高天神城を見捨てて虐殺されたことで、
勝頼の対内外信用度が
地の底に堕ちていたからなあ。
木曽や穴山離反スイッチになった。

80人間七七四年2011/11/21(月) 16:57:08.67ID:8f7Oubjq
>>78
後世の人が松平左近定昭から伊予守を連想して、
滝川伊予守を作り出したのはありそうな話だな。

81人間七七四年2011/11/21(月) 18:25:29.24ID:YTxrpHDm
武田は長篠で信玄以来の重臣まとめて失って
内部がごたごたしてたところで高天神城落城だからな
滅亡に至る過程で桶狭間以来の今川と共通点が多い

そんな状況だったら信長本体待たずとも自分たちだけで潰せると
信忠が判断したのもむべなるかな

82人間七七四年2011/11/21(月) 19:15:36.16ID:9Z3+hQxR
>>81
そこまで天才軍師なヤツなどいない。

83人間七七四年2011/11/21(月) 21:15:00.60ID:WN14IJu0
>>80
当時も伊予守って呼ばれてたみたいだよ。>>57

84人間七七四年2011/11/21(月) 22:08:23.20ID:WN14IJu0
伊予守 従五位下相当
左近大夫将監 五位相当

85人間七七四年2011/11/22(火) 21:45:27.61ID:TpEtaYLW
>>81
信長の勝頼評は結構高かったと思った。
それゆえの慎重策の提言だったんじゃないかな。
それを聞いてれば、信忠が勝頼に対抗心を持っても不思議では無いかと。
実際は勝頼はそれほど大局を見れる人では無かった訳だが。

86人間七七四年2011/11/22(火) 22:04:25.77ID:v4YFQ4N6
>>74
武田勝頼の主戦力を構成してた上州勢は何やってたんだ?
と思ったら浅間山噴火で大変だったんだね。

87人間七七四年2011/11/22(火) 23:09:30.01ID:pOrqD3vy
>>57の文書が後世に作られた可能性はないのかな?

88人間七七四年2011/11/22(火) 23:34:20.45ID:v4YFQ4N6
どうしてそう思うん?

89人間七七四年2011/11/23(水) 04:04:29.82ID:YvL+q4gF
>>86
>>浅間山噴火
まじ?

90人間七七四年2011/11/23(水) 08:30:24.96ID:E1znGt1r
>>87
天正十年の4月5日も6月も「左近」なのに
4月6日だけ「伊予守」っておかしいよね

91人間七七四年2011/11/23(水) 09:48:23.33ID:RrwRCbfj
くぐってみた。
気象庁
http://www.seisvol.kishou.go.jp/tokyo/306_Asamayama/306_history.html
1108(天仁元)年9月5日 大噴火
1281(弘安4)年7月3日 噴火?
1527(大永7)年5月 噴火
1528(享禄元)年 噴火
1532(享禄4)年1月14日 噴火
1534(天文元)年 噴火
1582(天正10)年2月16日 噴火
1590(天正18)年 噴火
1591(天正19)年 噴火
1595(文禄4)年 噴火?
1596(慶長元)年5、8月 噴火
5月1〜5日 噴火、5日 噴石のため死者多数、8月19日 噴火
1597(慶長2)年4月 噴火
1598(慶長3)年 噴火
1599〜1600(慶長4)年 噴火
1605(慶長10)年 噴火
1609(慶長14)年 噴火
1644(正保元)年2月 噴火
1645(正保2)年2、5月 噴火
1647(正保4)年2、3月 噴火

92人間七七四年2011/11/23(水) 10:01:45.06ID:RrwRCbfj
>>90
今のところ自筆の史料はほぼ全部左近将監だけど、
同時代の他人の書いた史料や書状で伊予守がチラホラある。
兼任だった可能性が高くなってきたと思う。>>47>>57


(「滝川伊予守」について)
http://www5f.biglobe.ne.jp/~inou/newpage25.htm
一益の官名については、文書の署名および宛名、それに〈公記〉にもすべて「左近(尉・将
監)」となっているが、〈勢州四家記〉〈三河物語〉〈木造記〉など後世の書には、「伊予守」で
登場することがある。
これを単純な誤記とするのは早計で〈宇野〉や〈言継〉といった一次史料にも「滝川伊予守」
は登場するのである。このうち〈言継〉にあるのは、天正四年六月八日、山科言継の信長訪問
のとき奏者を務め、同月二十四日、興福寺別当職をめぐる争いに関し、丹羽長秀とともに上洛
している人物で、これが一益であることは、ほとんど疑いない。
また、同三年十二月二十八日、勅願寺である伊勢金剛寺を欠所処分にした「滝川伊予守」
の違乱を、勅命によって停止したという事実もある(京都御所東山御文庫記録)。これも一益
である可能性が非常に高いであろう。
案ずるに、一益は、天正三年七月三日の信長家臣の叙目に際して、「伊予守」に任官した
のではなかろうか。しかし、左近将監の官はそのままで兼官の形をとり、朝廷を離れた所では
依然として「左近将監」を通していた、という推測は無理であろうか。』〈辞典〉

93人間七七四年2011/11/23(水) 10:25:05.09ID:E1znGt1r
>>92
『織田信長家臣団辞典』に
「ほとんど疑いない」「可能性が非常に高いであろう」
と書いてあるからと言っても、それは証明にならない。
例えば柴田勝家も代理を出したことがあるよ

94人間七七四年2011/11/23(水) 10:25:25.40ID:Df9pa0ru
兼官って出来るの?
左近将監が自官で、伊予守が任官した奴かと思ってた。

95人間七七四年2011/11/23(水) 11:22:07.40ID:9vNRn5sQ
木曾に武田が負けたんじゃなくて、
火山噴火で武田軍が木曾攻め止めて撤退したんじゃないのか?
北条の動きが悪いのも噴火のせいでは?
天変地異は為政者の徳が無いと中世には思われ
天皇も天変地異を不徳のせいだと自分を攻めてる記述あるし。
武田から離反増えたのもうなづける。

96人間七七四年2011/11/23(水) 12:18:50.58ID:RB5I4CfE
ようは武田がびびったってことだろ

97人間七七四年2011/11/23(水) 13:02:15.70ID:RrwRCbfj
>>94
けっこういるみたい。

藤原良房 左近衛少将 兼 加賀守
平時望 蔵人頭 兼 伊予守
松平定昭 左近衛少将 兼 伊予守

98人間七七四年2011/11/23(水) 13:16:52.86ID:W6SWGafp
伊予守と左少将なら釣り合うけど、左近将監では低すぎる

99人間七七四年2011/11/23(水) 15:15:03.20ID:RrwRCbfj
>>98
同じくらいじゃない?>>84

100人間七七四年2011/11/23(水) 15:30:27.22ID:EOj0JAGm
左近将監の自官が正式任官されるのと一緒に伊予守に任官する、と解釈する意味がわからない

101人間七七四年2011/11/23(水) 15:52:27.98ID:RrwRCbfj
両方、正式任官の記録は無いんだよね。

102人間七七四年2011/11/26(土) 15:21:07.68ID:dMaMUTD/
谷口克広も正式任官したという記録は見つけていない

103人間七七四年2011/11/26(土) 16:21:24.92ID:tw2UYmVi
任官後も藤吉朗署名で書状出し続けてた秀吉と似たようなものだったのかね

104人間七七四年2011/11/26(土) 18:32:13.25ID:dMaMUTD/
左近将監は元々自官であり、伊予守との兼官で正式任官されたとしても
あえて伊予守よりも下位の左近将監を名乗り続ける理由は?

105人間七七四年2011/11/26(土) 19:07:14.17ID:tw2UYmVi
だから秀吉と同じだろ

106人間七七四年2011/11/26(土) 19:09:58.12ID:dMaMUTD/
「藤吉郎」は字だから官途の「左近」とは違うよ

107人間七七四年2011/11/26(土) 19:12:42.86ID:tw2UYmVi
は?

108人間七七四年2011/11/26(土) 19:18:36.41ID:dMaMUTD/
筑前守に任官したら、藤吉郎では無くなる、というものでも無いんじゃない?
例えば九郎義経は任官後も「九郎判官」って呼ばれているし。

109人間七七四年2011/11/26(土) 19:18:53.64ID:mpTpRJ6x
江戸初期の池田光政(新太郎少将)や内藤忠興(四位帯刀)のように
武士としていくらかでも内実があるものを名乗りたかったのでは

110人間七七四年2011/11/26(土) 20:19:54.64ID:tw2UYmVi
>>108
言いたいこととはちょっとずれてると思うけど
もともと詐称してたものを詐称し続けてただけの話だろ

111人間七七四年2011/11/27(日) 01:40:17.59ID:Br4byeDc
1575(天正3)年頃の任官

松井友閑:宮内卿(正四位下)
柴田勝家:修理亮(従五位下)
梁田広正:右近衛将監(正六位上)
滝川一益:左近衛将監(正六位上)、伊予守
佐久間信盛:右衛門少尉(正七位上)

明智光秀:日向守
原田直政:備中守
村井貞勝:長門守
羽柴秀吉:筑前守

武井爾伝:二位法印?
丹羽長秀:辞退?

なんか官位と織田家中の地位が一致してなくね?

112人間七七四年2011/11/27(日) 12:19:23.70ID:x8EyLg3p
○○守はそこを攻めさせようっていう意図を表してはいるが、おそらく上下についてはあまり意識してない

113人間七七四年2011/11/27(日) 17:30:50.12ID:q88fHAeZ
官位で序列をつけるようになったのは江戸時代に入ってからだから
信長は単なる箔付けくらいにしか考えてなかったのかも

114人間七七四年2011/11/27(日) 17:49:01.77ID:Br4byeDc
判官といえば、佐々木道誉

官位 左衛門少尉、検非違使、佐渡守

確かに官位の序列を意識してる感じじゃないね。
むしろ武官を意識している感じ。

115人間七七四年2011/11/27(日) 18:49:26.29ID:rcvoOtpH
受領名も位が高すぎると現場から離れる印象があって
武士らしくないと敬遠されてたからな

116人間七七四年2011/11/28(月) 08:28:54.69ID:5gTmBqt8
>>114
佐渡守は父祖以来の官職であり、衛門尉と検非違使は兼帯が基本だから普通だよ

117人間七七四年2011/11/30(水) 19:17:11.65ID:d6WWGRD/
>>114
結局、57の史料が正しければ、
左近将監と伊予守との兼官になんの不都合も無いってことかな。

118人間七七四年2011/11/30(水) 19:46:20.37ID:Io4rHJiw
左近将監と伊予守のどちらも正式任官の傍証が残っていないから悩んでいるんでしょ

119人間七七四年2011/11/30(水) 19:55:59.98ID:d6WWGRD/
>>118
言継卿記は、傍証くらいにはなるんじゃないの?

120人間七七四年2011/11/30(水) 20:16:39.28ID:TRVCgKD9
柴田、佐久間も正式任官の傍証無いんだろ

121人間七七四年2011/11/30(水) 21:34:04.94ID:Io4rHJiw
佐久間、柴田、滝川の3人の任官は他の武将の任官事例から推測しただけでしょ

122人間七七四年2011/11/30(水) 21:47:23.77ID:d6WWGRD/
>>121
3人以外も、信長公記か当時の日記で任官を確認してるだけだし。
むしろ当時の信長政権下で自官か正式任官かというのは、大した問題じゃない気がするけど。

123人間七七四年2011/12/01(木) 02:09:36.89ID:JIck8F1f
兵部卿 兼 大宰大弐 兼 侍従如元 大内義隆
右大臣 兼 右近衛大将 織田信長
右近衛権少将 兼 三河守 徳川家康
左近衛権少将 兼 筑前守 前田利家etc

兼官なんてこのあたりの時代は山ほどいる

124人間七七四年2011/12/01(木) 06:14:31.67ID:Zshmou3z
兼官事例が多いからといっても、滝川一益が正式任官した証明にはならないからね。
公家の日記に正式任官が書かれているならともかく、
(村井貞勝らは日記に加えて信長公記でも傍証されている)
「滝川伊予守」と書いてあっても、それは自官の可能性もあるし、
そもそも日記に出てくる「滝川伊予守」が一益のこととも限らないのでは?

125人間七七四年2011/12/01(木) 10:19:20.72ID:JIck8F1f
重臣格の仕事をする滝川さんは一益以外居るのか?というところだろう
つか滝川伊予守が一益である可能性を否定したいのなら
滝川伊予守は実は一益ではなく誰々だったという史料や
同日に別の場所に居たという史料でも提示すべきじゃないか

126人間七七四年2011/12/01(木) 22:56:58.07ID:yHnDkoky
滝川儀太夫かもしれない

127人間七七四年2011/12/02(金) 01:32:16.13ID:2Oa/O13R
一益以外の一族を伊予守と誤伝されたってことか。

128人間七七四年2011/12/08(木) 04:34:39.96ID:f5fvMP+0
一益が動けない時に一族の誰かが名代として代わりに仕事することはきっとあっただろ

129人間七七四年2011/12/20(火) 08:18:28.87ID:1oWeDEBN
秀長みたいな人かな。
伊予守だから、一益と同等以上なのに影が薄い長生きの人。

130人間七七四年2011/12/24(土) 12:46:53.60ID:0O5n1E7F
出世したり金持ちになったら親族増える


その中にはそれなりの人物もいて時には一益の代理するぐらいの人間も現れただろうな

131人間七七四年2012/02/16(木) 00:33:45.76ID:JEVJ9Oa5
一益の伊勢帰還の様子がかなり明確になってきたね。
依田・真田氏や木曽氏との交渉が興味深い。

132人間七七四年2012/02/28(火) 13:11:40.14ID:H5IW6Tej
マジか!?

133人間七七四年2012/03/14(水) 00:02:18.96ID:QRHt3DZF
関東200万石の北条を切り取れって
秀吉、柴田よりずっと難しい注文じゃね?

134人間七七四年2012/03/14(水) 01:00:38.63ID:gOeel7V3
その場合は信忠軍と徳川軍との共同作業になるからそれほどでも無い
信長も後詰に出るかもしれないし

135人間七七四年2012/03/15(木) 12:53:54.20ID:MMnAPY+j
その場合がどの場合を言っているのか分らんが
実際に北条領の侵攻だろう?どう違うんだ?

136人間七七四年2012/03/15(木) 22:46:12.71ID:jUEtxwsp
>>133
そうとはいえ、上州の領主は言うに及ばず、武蔵の上田や深谷上杉なども一益に
出仕したようだし、関東の諸大名も一益を通じて織田政権に従う流れができつつあった
(そもそも北条氏も信長に対しては下手に出ている状況、ただし緊張関係が強まれば
また話は変わってくるだろうけど)
一益はこうした連中を織田政権に服属させていくことが求められていたと思う。

137人間七七四年2012/03/17(土) 07:35:58.70ID:B285HDGS
北条領の侵攻なんて命令されていないだろ

138人間七七四年2012/03/17(土) 14:54:46.49ID:GWxNmzWX
うむむ

139人間七七四年2012/03/24(土) 08:51:36.73ID:Me36vRbQ
柴田日向守も勝家と同一人物説があるけど謎の人物

140人間七七四年2012/03/24(土) 10:18:12.34ID:27+YCq86
>>136
>武蔵の上田や深谷上杉なども一益に出仕したようだし、

謙信が来ると一斉になびいた時と同じだなw

141人間七七四年2012/03/24(土) 19:40:43.95ID:wd6EhtMT
さっき大河の秀吉見てたら滝川さんが秀吉の浮気を信長に報告してたw

142人間七七四年2012/03/24(土) 21:19:51.44ID:Y4DhK+14
>>141
密告は忍者の義務だからな。

143人間七七四年2012/03/27(火) 11:54:19.58ID:C53/B70C
滝川一益って何気に有能だよな
織田家で有能な人物って、秀吉を別格とすれば
コイツが次点だったと思うな〜

柴田勝家→この程度の猛将は探せば幾らでもいる
丹羽長秀→何か目立つ功を上げた事があったか?
明智光秀→知識が豊富で多才ではあるが、鼻にかけてて信長に嫌われてる

144人間七七四年2012/03/27(火) 12:25:30.28ID:A4MnrK/F
つっこみ前提のレスは要りません

145人間七七四年2012/03/27(火) 14:00:58.00ID:IOZrMTGt
織田家中の実力でいえば
柴田、滝川、明智>佐々>佐久間、丹羽、細川、森(父)、蜂谷、稲葉>坂井、原田、川尻、日根野、金森、前田
>林、平手、秀吉(雑魚)>>>>>>>>蒲生(口だけ番長)
こんなもん

146人間七七四年2012/04/14(土) 20:19:35.77ID:Zy2XQs3t
滝川一益は信長との血縁が無いね

147人間七七四年2012/04/15(日) 08:38:05.44ID:6lUBxtyu
信秀時代から仕えているなら柴田より古参では?

148人間七七四年2012/04/24(火) 21:01:03.12ID:yM3EIbJm
高遠歴史博物館で「滝沢左近」とか「龍川」と書かれてた
せめて統一しろw
どんな知識で書いたのかな?

149人間七七四年2012/04/24(火) 23:37:18.66ID:WeBW0wgi
桜みにいったのか、いいな

150人間七七四年2012/04/26(木) 06:06:18.79ID:F7qANHQn
隠れ人たらし

151人間七七四年2012/04/26(木) 22:11:41.23ID:XdJwipCu
配下に真田昌幸、大田三楽斎、藤田信吉、佐野昌綱、佐野宗綱って、
凄い豪勢な面子だったよな。
あと一年武田が早く滅んでいたら、本能寺の変後に大暴れできただろうに。

152人間七七四年2012/04/26(木) 22:12:59.22ID:XdJwipCu
ごめん。昌綱じゃなくて房綱。

153人間七七四年2012/04/29(日) 16:38:03.16ID:euMu6pMv
最後に小田原城主は城を出て滝川一益の娘婿にあたる秀吉方の滝川何某の陣中に降伏を申し出ている。北条氏も関東管領滝川一益の体面を立てたのか?ただ徳川大名家として複数残ったのは北条家のほうだから、現代の我々には北条家のほうが戦国関東の主というイメージが強い。

154人間七七四年2012/04/30(月) 05:07:10.73ID:oSQRv2UJ
前田慶次利益が滝川一益軍で武功を上げていたというだけでも滝川一益はすごいよ
秀吉みたいに北条といつでも和睦できるような外交してればよかったかもね

155人間七七四年2012/04/30(月) 12:02:04.08ID:/IaeVNi/
お、おう

156人間七七四年2012/04/30(月) 12:03:47.42ID:ltICd/X4
実際のところ、反北条派を集めて思いっきり氏邦とか苛めてたよな。一益のじーさん。

157人間七七四年2012/05/23(水) 10:55:49.79ID:F/ROxUFw
>>156
そうそう。
離間工作は得意だった模様で、講談的な文書以外ではおっそろしいぐらいの策士だったのが分かる

158人間七七四年2012/05/27(日) 23:00:49.89ID:qiO9ryYh
まさか清州会議に出席できなくなるとは

159人間七七四年2012/07/01(日) 07:21:33.96ID:SVlSyARz
若年の頃泉州堺に出て、鉄砲の射撃と製造技術を学んだとされ、百発百中の腕前を披露することにより信長に召抱えられたという話があり、朝倉家における明智光秀と共通点がある。

160人間七七四年2012/07/03(火) 03:40:20.66ID:osDjdFf5
>>159
その手の話は全半生不明の人にはありがちな、後世の作り話っぽい臭いがする。

そもそも鉄砲みたいな玉薬の機密含んだ最先端の武器の修養を急に現れた浪人に教える間抜けはいないかと。


もし一益が素性のハッキリした人間ならもっと前半生も記録としてしっかり残ってるだろうし。

161人間七七四年2012/07/07(土) 13:18:29.04ID:FddXQQLp
秀吉に睨まれて記録を消されたんじゃない?
いや半分マジでw

162人間七七四年2012/07/07(土) 13:24:09.84ID:a5JL7Jmo
ついでに自分の記録も消しちゃったのか秀吉

163人間七七四年2012/07/12(木) 01:40:07.93ID:Fz4RjYML
滝川具挙の家系に系図なり家譜があれば、その辺詳しそうだが

164人間七七四年2012/07/20(金) 06:25:34.27ID:St3Vl8na
滝川一積は真田昌幸の娘婿

165人間七七四年2012/09/11(火) 00:06:53.95ID:xv8tdN67
>>151
滝川軍団が磐石だったら本能寺の変自体起こったかどうか

信長・信忠が寡兵で一箇所にいて
羽柴軍団は交戦中、滝川軍団は成立したばかり、信孝・丹羽軍団は成立以前の段階
畿内をなんとか固めて柴田さえどうにかすればなんとかなるって状況だから動いたんだろう

166人間七七四年2012/09/17(月) 23:53:57.22ID:WfaLerM/
信長が関東をどうするつもりだったか今一つ分からんのよね

167人間七七四年2012/09/18(火) 00:51:00.00ID:b+pNRIfL
戸谷氏はじめ、秀吉が関東でやったことは信長のパクリだとする研究が出て来ましたね。

168人間七七四年2012/09/21(金) 06:33:28.74ID:NfKVNCQS
岐阜や安土や今日に遠くて嘆いていたが、神流川へは車で1時間、厩橋へは2時間弱

神流川の辺りは田舎だからあまり開発はされてないものの、これといった高みもなく背の高い林や森もあるから、いまいち配置や状況把握、往時の雰囲気がつかめない
資料も少ないし金久保の城址は石碑だけだし
どこかいいポイント知りません?

169人間七七四年2012/09/21(金) 06:35:57.25ID:MHus+mKZ
>>165
一番根本的には畿内担当だった佐久間軍団が解体されて、光秀のもとに再編されたことだけどな

170人間七七四年2012/09/21(金) 18:57:18.40ID:3rHGktYJ
佐久間軍団から光秀のもと・・・?
せいぜい筒井順慶くらいしか思いつかないぞ

171人間七七四年2012/10/02(火) 13:44:20.41ID:dPjgraAh
昭和の滝川一益は調理師として名を轟かしている

172人間七七四年2012/10/05(金) 17:16:49.55ID:kxFkJIdo
昭和かよ

173人間七七四年2012/11/15(木) 00:08:47.21ID:PlK26iZ2
こんなにも一益は人気がないのか…

174人間七七四年2012/11/15(木) 00:24:28.05ID:8ZJtl3k3
本能寺以降の没落っぷりがな
滝川一益は運が無かった

175人間七七四年2012/11/29(木) 08:02:01.67ID:4mhHtwOh
だが畳の上で死ねた。

176人間七七四年2012/11/29(木) 13:25:14.66ID:3ol5na7p
人気が無いこともないだろう
知名度は他の家中と互角どころか織田の家臣として最強の一角を担っている

歴史的資料なんて見つかってナンボ
後の時代になって「滝川一益の知られざる真実、その素顔とは」
なんつー感じで、○HK歴史秘話が採り上げるに相違ない。

177人間七七四年2012/11/30(金) 00:07:29.11ID:JWgvVI/U
一益は撤退が異常に上手い?普通なら討ち死にしてる敗退いくつもあるよね。

178人間七七四年2012/11/30(金) 07:10:02.89ID:a4zwOrUc
>>177

撤退はうまいね。

籠城戦もうまいと思う。

179人間七七四年2012/11/30(金) 10:59:13.97ID:cVvlFGQ+
城落とすのも上手い。

野戦は・・・大敗があるからなぁ

180人間七七四年2012/11/30(金) 13:30:52.35ID:/rR9Csur
野戦は苦手だが、攻城戦や籠城戦には強い武将というのは他にもいたはず。

中村一氏なんかそうじゃないか?

181人間七七四年2012/11/30(金) 15:59:19.77ID:FMbBNrjp
野戦→家康
攻城戦→秀吉
?→信長

っていうのは、歴史に疎い奴が持ってる常識

182人間七七四年2012/11/30(金) 16:22:13.93ID:i5qGK3sk
滝川はまあガチンコで長久手で1万人戦死の大敗やら松ノ木攻防やら戸木やら東駒野やら浜田やらで蹴散らされまくった秀吉よりは遥かにマシだが
超はつかない普通の名将レベルだな
神流川は氏直の偽退却戦術がすごかっただけだし

183人間七七四年2012/11/30(金) 16:30:35.78ID:3+4iP3FF
秀吉なんか名将ですらないからいちいち比較する必要無し

184人間七七四年2012/11/30(金) 18:14:59.99ID:bXc0PgFF
織田家中の実力でいえば
柴田、滝川、明智>佐々>佐久間、丹羽、細川、森(父)、蜂谷、稲葉>坂井、原田、川尻、日根野、金森、前田
>林、平手、秀吉(雑魚)>>>>>>>>蒲生(口だけ番長)
こんなもん

185人間七七四年2012/11/30(金) 21:55:50.31ID:jiF5fRIl
>>177
一益は隠れた人望があるよな
真田と婚姻関係だし丹羽長秀のところで隠居してるし
天徳寺宝衍や太田三楽斎とも仲がいい

186人間七七四年2012/11/30(金) 23:15:12.20ID:Xwmi8dRT
滝川は秀吉に追われたわけで
このスレ的には秀吉のことケチョンケチョンにするのは良いんだけど
秀吉って本当に雑魚なん?w

187人間七七四年2012/11/30(金) 23:22:44.15ID:cVvlFGQ+
板に強烈な秀吉アンチが住み着いてるからしょうがない
荒れたくなければ触らないように。

188人間七七四年2012/11/30(金) 23:57:14.58ID:Xwmi8dRT
承知つかまつった

189人間七七四年2012/12/01(土) 05:29:59.04ID:nfVNvvNl
秀吉なんて長島・峰・桑名攻防で滝川得意のゲリラ戦術にあってボッコボコにやられてるもんなあ(滝川事書、柴田→填島書状など)
滝川なんて当時北伊勢4郡のみでせいぜい5000そこそこだろうに

190人間七七四年2012/12/01(土) 05:32:18.06ID:GKBo+ZWo
名将滝川を秀吉と比べる事自体問題外。
秀吉と比べるなら毛利輝元とか織田信雄配下の木造・高木・吉村あたりの雑魚と比べたほうがマシ
直接対決でゴミクズのように蹴散らされてるし

191人間七七四年2012/12/01(土) 05:43:48.48ID:FEHIMKWL
あーあ

192人間七七四年2012/12/01(土) 14:33:11.00ID:++kZDuOJ
しかし、滝川強しとはいえ
流石に前田利家の次点くらいじゃないのかい?

193人間七七四年2012/12/01(土) 17:02:47.99ID:nfVNvvNl
前田みたいな雑魚と滝川と比較とかないだろ
前田なんて目立った合戦末森合戦くらいじゃん。比べるなら美濃の関とか神戸あたりの雑魚武将のがいいだろ
末森合戦。これも佐々VS前田の状況兵力差でいうと
佐々は前田だけでなく越中にて上杉と交戦
前田は後ろも丹羽がいてきっちりガードと
圧倒的有利な会戦状況で佐々が攻めて来たのを撃退しただけだし

194人間七七四年2012/12/01(土) 17:42:17.93ID:00nZQgfo
そうなのか
今朝NHKの落語で、山内一豊の話が紹介されてて
信長公の家中の紹介の節では前田利家の次に滝川一益の名が挙がってて
ふと思ったのよ

195人間七七四年2012/12/01(土) 18:15:49.23ID:nfVNvvNl
滝川は織田家トップ格だろ
柴田・明智・滝川>佐々>佐久間、丹羽、細川、森(父)、蜂谷、稲葉>坂井、原田、川尻、日根野、金森、前田
>林、平手、秀吉(雑魚)>>>>>>>>蒲生(口だけ番長)
こんなもん

196人間七七四年2012/12/02(日) 04:42:44.72ID:A8WZfGi7
晩年の滝川さんについて聞きたい
その遺志は倉賀野氏の引き継がれたの?

197人間七七四年2012/12/03(月) 03:57:09.78ID:6i3gNFfj
あげ

198人間七七四年2012/12/05(水) 03:15:14.52ID:3RCxO1iF
遺志ってなんだよw

199人間七七四年2012/12/07(金) 00:18:43.87ID:4tdNR+41
滝川一益の「信長様のために北条氏を潰す」という遺志は、
倉賀野さんに引き継がれ、彼によって北条氏は内部から崩壊しましたが何か?

200人間七七四年2012/12/07(金) 21:02:11.11ID:2FJWVGjp
先生! 信長様すでにお亡くなりになってるのに、
どうやって、ためにするんですか?ww

201人間七七四年2012/12/07(金) 21:11:46.01ID:YQYauL0R
触んな

202人間七七四年2012/12/31(月) 21:17:59.08ID:R0i3ZAG+
>>174
そうかな?むしろ本能寺以降の方が一益のハイライトだと思う
特に神流川の合戦なんて、合戦に持ち込めただけでも並みの武将じゃない
あげくに三つの大戦を華々しく負け抜いて、畳の上で死んでいるのだからなんという幸運

203人間七七四年2012/12/31(月) 23:24:17.75ID:YP5fBOxf
武将が畳の上で死ぬなんて屈辱的だろう

204人間七七四年2012/12/31(月) 23:26:50.86ID:S5Dvw5LQ
んなことはない。落ちぶれたのは屈辱的だろうけど

205人間七七四年2013/01/02(水) 20:55:40.33ID:+Rk8lJPh
所領ゼロから小大名に返り咲いているのだから、
本人にしてみれば落ちぶれたというほどのものでもないだろ
むしろ外様の家康に負けたことの方が屈辱だったかも

206人間七七四年2013/01/05(土) 22:52:03.80ID:7nzIojOO
畳の上で死んでたらね
そんな恵まれた晩年じゃなかったと思うがね

207人間七七四年2013/01/06(日) 10:15:37.76ID:xk4/Q6pM
>>206
なぜそう思うのかわからない
敵方の家康からも評価が高く、
秀吉からも知行地を貰い大名に復帰しているというのに

208人間七七四年2013/01/06(日) 12:34:05.88ID:N0RYvHGI
>>207
浅学なもんでね
逆に教えて欲しい
「流石は滝川」て一言程度で評価が高かった事になり、数千石の捨て扶持の事を大名と華々しく表現してるのかな?
何て書物に家康の評価が高かったと書いてあり、秀吉から知行をもらって大名となったと書いてあるんだい?

209人間七七四年2013/01/06(日) 12:46:26.35ID:PsJz5A7N
その前に「恵まれた晩年じゃなかったと思う」その根拠を教えていただきとうございます

210人間七七四年2013/01/06(日) 13:51:52.15ID:N0RYvHGI
転落した事実がある
それは普通に考えれば十分に恵まれた晩年じゃない
栄達を嫌い微々とした生き方を望むなら、ほいほいと小牧長久手に参戦なんかしないでしょ
リベンジを試みたが結局出来なかった、これをひねくれた考え方や曲解しなければ「恵まれなかった晩年」というんだよ

さ、そちらの根拠をどうぞ

211人間七七四年2013/01/08(火) 17:46:20.14ID:tSnNQ0mB
他人には「どんな書物で〜」とか言ってるのに自分はその辺のソースを出さないのか

212人間七七四年2013/01/08(火) 19:24:44.02ID:57OlMCZ+
何のソースが必要なんだよ
本能寺の変が起きた事?
小牧長久手が起きた事?
それに参加したかどうか?
その後捨て扶持で細々と暮らし、以前のような栄達ができずに死んだ事?
これらが必要だっていうなら、一益はおろか、この時代を話すに値しないからもういいよ
脳内戦国ファンタジーだけで楽しんでてください

213人間七七四年2013/01/08(火) 20:32:38.70ID:xfUEWYbr
なんだ。「滝川一益の晩年は恵まれてなかった」だけ言いたいだけか。

まあ、織田家臣の中でも滝川さんくらい有名で有能な武将ならば
晩年はもっと厚遇されてもよかったよな、ってことですかそうですね^^^

214人間七七四年2013/01/08(火) 21:17:07.98ID:rZnWw/LO
>>212
なにを根拠に「捨扶持」と言っているのかわからないけど、
3千石といったら大身旗本の待遇。
はっきり言ってかなり恵まれた暮らしが出来る

更に世継ぎとなった滝川一時は1万2千石の所領を有し大名復帰
後には蟹江城の戦いを認められ家康から2千石を貰っている
また死んだ時には秀忠からは勇者(一益)の子孫と評されている

ついでに縁者には大名クラスだけでも、池田輝政、真田昌幸、中村一氏、滝川雄利がおり、
跡継ぎでない息子達はそれぞれで仕官に成功している

つまりどうみても「細々と暮らす」ような身分じゃない
悠々自適に楽しく暮らしていたと考えた方が妥当かと

215人間七七四年2013/01/08(火) 21:54:40.71ID:rZnWw/LO
>>210
小牧長久手に参戦したのは秀吉に直々に頼まれたからだな

7/12秀吉→滝川八(一時)宛書状 (寛永諸家系図伝の佐久間一時の項にある書状写し)
>入庵(一益)江 壱万五千石令契約知行 今度改三千石之通入庵江遣候
>相残而壱万二千石分 其方可有領知 向後諸事無御油断御励有之 全可有御領知状如件

秀吉が一益を1万5千石で起用し、 7/12(戦後)に約束どおり1万5千石の知行を一益と一時に分けて与えたという意味。

216人間七七四年2013/01/08(火) 23:13:01.68ID:57OlMCZ+
事前に言っておくけど、別にアンチ一益なわけじゃなく一益は5本の指に入る好きな武将だ
だからこそ、妄信的や狂信的な一益像でなく、贔屓の無い真実の一益像が知りたいだけ

>>214
だから浅学なんで教えて欲しいんだが
ゼロから2000石や12000石になったならまだしも、数十万石の身分からその石高だろ
2000石が何人扶持とか知ってるかい?
関ヶ原の後上杉までは行かないが、普通はリストラやら家中運営の変更やら混乱で窮々となる
悠々自適な生活を送ったと考える方がおかしい
不遇のうちに没すという根拠や書物などは数あれど、悠々自適に過ごせるくらいなら、そういった記述こそ残らない方がおかしいだろう?
縁者の前田利益レベルの無名武将ですら悠々自適に暮らしたと残ってるんだから

小牧長久手は隠棲してた所、秀吉に頼まれてほいほいと参戦したんでしょ
参戦しなおかつ力戦したのは、少しでも返り咲こうとしたからで、思ったほど功績があげられず、秀吉に2000石の捨て扶持という判断されたわけでしょ
逸話だとしても雀に憧れ、領地より茶器を欲する心があったら、そのまま断ればいいだけ
四の五のうるさかったら出家するという手もあったはずだ
一益ほどなら主家や浪人生活でもやっていける蓄えや、それこそ縁者の大名からの援助もあるだろうからね

望まざる事ながら参戦し、その勲功でもらった2000石で悠々自適に暮らした
という出典を教えて欲しい

217人間七七四年2013/01/08(火) 23:29:02.47ID:isMYQouZ
とりあえず2000石の旗本なら子孫は悠遊だな

218人間七七四年2013/01/08(火) 23:39:25.50ID:57OlMCZ+
旗本ならね
一益は秀吉の旗本になったんか?

219人間七七四年2013/01/09(水) 20:49:21.91ID:3k+S3/hm
家康の旗本にはなったろ

220人間七七四年2013/01/09(水) 21:24:38.37ID:F+rTvYqZ
家康の旗本になったのは子や孫だろ
俺も浅学だが、この程度の知識だったり、事実を曲解してまで持ち上げたりするやつばかりで、もう少しまともに一益の事を知ってる人、知ろうとしてる人はいないのか
ちゃんと一益の実像を語りあいたいんだけど…

221人間七七四年2013/01/09(水) 21:34:59.38ID:mHOyCPhm
だから子孫の話をしたんだが

222人間七七四年2013/01/09(水) 21:42:56.96ID:F+rTvYqZ
子孫じゃなくて一益の話をしてたんだけど…

223人間七七四年2013/01/09(水) 22:09:46.24ID:GiMnh3Nu
>とりあえず2000石の旗本なら子孫は悠遊だな
>とりあえず2000石の旗本なら子孫は悠遊だな
>とりあえず2000石の旗本なら子孫は悠遊だな

>子孫は悠遊だな


一益の話をする前に、きちんと日本語の勉強をした方がいい

224人間七七四年2013/01/09(水) 22:22:06.47ID:F+rTvYqZ
>>223
だから何でそこで子孫の話が出てくるんだって話だろ
1つのレスだけじゃなくて流れで読めないのに日本語の講釈とは、よほどのバカか?
それにID変えてんのかしらんが、おまえは>>217じゃねえだろ
当事者でもなく、ろくに一益の話題もなく、横からくだらねえ煽りしかできねえなら出てくるなよ

225人間七七四年2013/01/09(水) 22:32:01.24ID:mHOyCPhm
217は俺ね。さすがに自演認定は可哀想だから

226人間七七四年2013/01/09(水) 23:14:56.47ID:F+rTvYqZ
助かるわサンクス
ID違いが互い違いに論点づらしてくるから困る

喧嘩したいわけじゃないんだけどな
単レス相手にしなきゃいいんだろうけど
それとも俺以外みんな、一益は恵まれた晩年を送って満足して死んだと思っているんだろうか…

ただ「不遇の晩年」でなく「悠々自適に過ごした」という出典を知りたいだけなんだよ
たしかな出典があれば、俺だって新しい事知れて嬉しいんだが

227人間七七四年2013/01/10(木) 00:23:30.47ID:AJygO0Hr
>>216
不遇のうちに没すという出典書物とは具体的に何だろう?
蟹江城合戦を恥じて出家したという説があったり、
越前で失明したなど出鱈目な説が多いね

>普通はリストラやら家中運営の変更やら混乱で窮々となる
時系列から考えてそれはないと思う

滝川家単位でみてみると
本能寺前:上野1国+信濃2郡+伊勢5郡(計80万石?)
神流川合戦後:伊勢5郡(計20万石?)
賤ヶ岳合戦後:蟄居(0万石)
蟹江城合戦後:報酬(1万5千石)

つまりリストラは神流川と賤ヶ岳の合戦後に終わった状態
その証拠として蟹江城合戦には、娘婿の津田秀政や養子の滝川忠征は参戦していない

228人間七七四年2013/01/10(木) 00:38:30.54ID:AJygO0Hr
また前田長定を敵に売り渡し恥じて剃髪し蟄居したなども信じ難い
それならば秀吉から1万5千石も渡されないだろうし、
家康や秀忠から賞賛されることもないはず
そもそも戦友の死など一益はいくらでも見てきただろう
そんな柔な武将では無い
だいたい賤ヶ岳後に剃髪してるので2度目の出家に何の意味があるだろうか

229人間七七四年2013/01/10(木) 00:44:49.38ID:AJygO0Hr
確かな事実としては、
死ぬ前年まで秀吉から佐竹義重の返書の添状を出したり、
太田三楽斎の息子の梶原政景に書状を出したりしており、
また死後には上野時代の元側近の天徳寺宝衍が秀吉に仕え対北条外交で活躍?している
つまり一益は秀吉政権の関東方面の取次ぎ役を行っていた様子が伺える

すると結論としては、「不遇の晩年」でもなく「悠々自適に過ごした」でもなく、
「死ぬ直前まで秀吉に扱き使われていた」という第3案が妥当だと思われるが如何に

230人間七七四年2013/01/10(木) 00:52:32.88ID:Y9XbQyDP
>>227
冷静にレスしてくれて分かりやすい
出典資料としたら妖しいが、俺が知ってるものとしたら常山紀談がある
他には知らないが、たしかに出家したとか失明したとかは言い伝えだね
言い伝えを鵜呑みにしろとは言わないが、なぜ不遇のエピソードばかりで、悠々自適のエピはないんだろうね
誰とも交わりも持たず高野山にでも登ったならまだしも、死ぬまでは2000石の身分だったんだから、悠々自適なら黒官みたいなエピがあるよね
そこらへんはどう思う?
それに、悠々自適、恵まれた晩年説は出典はおろか、エピもないということになる
これは曲解してる事にならないか?

時系列的には確かにその通り、俺の勘違いがあったね
言うとおりいったん0にリセットされてるから言うほどの混乱はなかったと思う
ただ15000石のというのは牽強付会にすぎないか?
あくまで2000石(もしくは3000石)と12000石だ

ところで>>216の後半についてはどう思う?
小牧長久手までは0石だから不遇だったが、その後捨て扶持もらって糊口をしのげるようになったから悠々自適で恵まれた晩年だった、って考えてるのかな

231人間七七四年2013/01/10(木) 00:56:28.91ID:AJygO0Hr
>>230
秀吉の書状の写しからもて、1万5千石で間違い無いと思う>>216
2千石という出典は何だろう?

232人間七七四年2013/01/10(木) 00:57:16.56ID:AJygO0Hr
訂正
秀吉の書状の写しからもて、1万5千石で間違い無いと思う>>215

233人間七七四年2013/01/10(木) 00:58:54.64ID:AJygO0Hr
もて・・・orz 寝る

234人間七七四年2013/01/10(木) 01:01:32.19ID:Y9XbQyDP
>>229
すまん、そういうオチだったかw
こき使われてたというのはあるね
こき使われてるというよりかは、まあまだこんくらいは出来そうだからやれ 的な感じがあるけどね
秀吉は賤ヶ岳から小牧長久手までは、まだ一益を買ってて幾ばくかの警戒をするほどだったと思う
ところが小牧長久手の結果で、もう使える状態じゃないと判断したと思うよ
年齢か精神状態か原因は分からないけどね
参戦してある程度は成果出した手前、2000石の捨て扶持なんだと思う
もしくは、まだ息子のほうが12000石ほどの見込みあったのかもしれないね

235人間七七四年2013/01/10(木) 01:09:19.52ID:Y9XbQyDP
>>233
がんばれw

流石に何からなにまで出典を把握してるわけじゃないから何ともいえないが、一益2000(もしくは3000)の息子12000だと記憶しているんだが…
秀吉の写しが手紙なのか証書なのか分からないが、手紙的なものなら「滝川に褒美として15000やる」程度の書き方だったんじゃないか?
加賀百万石の前田家といっても実際は1家で百万石じゃない、みたいに証書や実際の分配としたら親子で分配してたんじゃないかな

236人間七七四年2013/01/10(木) 01:10:28.85ID:AJygO0Hr
>>234
蟹江城合戦を調べて欲しい
秀吉に対する賤ヶ岳合戦の善戦以上に、
九鬼嘉隆と組み、家康と激戦を繰り広げているから

237人間七七四年2013/01/10(木) 01:22:51.30ID:1V0ipHRQ
普通に考えれば良いのでは?

信長が本能寺で倒れ、秀吉と柴田勝家の後継者争いで
一益は柴田側について、のちに降伏。そして隠居。
小牧・長久手の戦いでは、織田信雄の家老滝川雄利は一益の婿。
ゆえに秀吉に呼ばれて力を貸した。それだけの話でしょ。

2000石は捨て扶持ではなくむしろ
2000石も拝領したことの方が驚きだと思うが。

238人間七七四年2013/01/10(木) 01:36:00.66ID:Y9XbQyDP
>>236
いや細かく見ればたしかにそうだよ
もしくは一益だけに注目すればね
ただ秀吉としたら、戦ってるのは一益だけじゃないし、何より「元同僚であれほどの男」ってのがあったはず
それがあの程度の結果
頑張っても結果や成果を残さなきゃ、他にも活躍した武将やそれ以上の功績があった武将に対処出来ないしね
2000は手形だったけど、結局手形のみ程度の功績、秀吉としたらかなり期待はずれだったと思うよ

239人間七七四年2013/01/10(木) 01:39:52.37ID:Y9XbQyDP
>>237
うん
でも実はメインの話はその後の話なんだ
小牧長久手以降、どんな晩年だったかっていうね

それと捨て扶持ってのは「役に立たない者に捨てるつもりで与える金品」なんだが、最後の二行は凡ミス?

240人間七七四年2013/01/10(木) 02:00:27.87ID:egQlQ0D6
>>239
いいえ。

というか、まず「捨て扶持ありき」の考え方で凝り固まってるね。
期待外れだったというけど、秀吉なら恐らく深い考え方をしただろうからね。
凡人にはわからないと思うよ。

まあ2000石が多いのか少ないのか、どう感じるかが問題だね。
俺は多いと思うって話。

241人間七七四年2013/01/10(木) 02:13:07.08ID:Y9XbQyDP
>>240
もう少し日本語勉強しろ
2000が捨て扶持というには多すぎる石高だといいたいのか?
報償として2000は多すぎるといいたいのか?
拝領とか書きながら秀吉目線の240内容だったりわけ分からん
まあ主論じゃないからどうでもいいや

242人間七七四年2013/01/10(木) 03:34:34.99ID:fXNhL68Z
お前の方こそ日本語を勉強しろよ・・・そのまんまじゃねーか
ていうか、主張を小出しにして面白いか?

243人間七七四年2013/01/10(木) 03:50:44.05ID:A7K69jAr
>>242
>>224の最後の一行ヨロ

244人間七七四年2013/01/10(木) 15:18:53.63ID:UdEPkdTQ
というか、まず最初に
寂しい晩年を送ったと書かれた文献を持って来いよグズ
思う思うって、いくら論議しても想像でしかないだろ

まるで意味無いだろ

245人間七七四年2013/01/10(木) 15:29:48.45ID:A7K69jAr
>>244
>>230
10や20前のレスくらい呼んでから書けよクズ
バカさ丸出しだぞ

246人間七七四年2013/01/10(木) 15:39:09.78ID:A7K69jAr
俺を煽るのは構わないが、出典を持ってきてるのは俺とID:AJygO0Hrだけじゃねえか
何度も言ってるだろ

「不遇の晩年」でなかったという出典を知りたいだけ

この日本語が理解出来ないクソレスはもう相手しねえから

247人間七七四年2013/01/10(木) 16:55:48.25ID:UdEPkdTQ
>>245-246
だから無駄に煽っているのはあんたでしょ?
出典資料としたら妖しいとか書いてるものをソースにしなさんな

銘銘が想像で楽しくああじゃないか?こうじゃないか?と語るのは構わないが
俺様の考えが正しいと押し通すのはやめてもらおうか

押し通すならきちんとした歴史的文献でも持ってこい
話はそれからだ

248人間七七四年2013/01/10(木) 16:58:45.59ID:UdEPkdTQ
それと「当事者」とか言い出しなさんな
ここは誰でも利用することができる情報交換サイト2チョンネルだ

出典がどうのこうのは大学の研究室にでも篭ってやってくれ

249人間七七四年2013/01/10(木) 17:21:59.19ID:A7K69jAr
「思う思うじゃなく出典出せクズ」で出典だしたら今度は「ここは思い思い楽しく語るとこ」かw
180度方向転換笑わせんな
マジでバカさ丸出しだぞ
相手しないって言ったそばから相手してる俺も大概だけどなw

素直に「スーパー武将一益をマンセーしたいスレなんで難しい話やマイナス要因な話はしないでください」って言えよ
ま、確かにこの板じゃちゃんと語り合えないか
北伊勢攻略や神流川についても色々知りたかったがしかたない

250人間七七四年2013/01/10(木) 18:13:27.65ID:UdEPkdTQ
>この日本語が理解出来ないクソレスはもう相手しねえから

相手にしなくていいよ
俺も相手にする気はない
スレ汚しなんでお互い消えようぜ

251人間七七四年2013/01/10(木) 18:30:32.57ID:A7K69jAr
バカ丸出し野郎のくせに勝手に道連れにすんなよ
ことごとく的ハズレで、スレチなレスしかしないおまえだけ消えればいい

バカや盲信者以外にID:AJygO0Hrのような、良識ある人もいると思う
そのかすかな望みをもってダメもとで、北伊勢攻略について教えて欲しい

北伊勢攻略に抜擢されたのは、当時すでにそこそこの身分で、かつ地縁や血縁が多少なりあったからとちらほら聞く
柴田や佐久間ほどでないにしろ、多少の身分でも抜擢するのは信長の家風でわかる
ただ地縁や血縁は、ひとまたぎすれば甲賀だから分からなくもないけど、実際どうだったんだろう?
攻略後に血縁を結んでいったのは有名だけど
抜擢された理由で詳しく知ってる人いるかな?

252人間七七四年2013/01/11(金) 00:18:04.11ID:IJv3S9Kq
少し冷静になれよ
それに修行も足りない
三重県史でも調べて来たら?

質問しまくりたい人は質問スレで
煽りあいたい人は過大スレで
とは言っても枯れ木も山の賑わいかな

253人間七七四年2013/01/11(金) 00:30:48.94ID:LEX11C8U
構うな

254人間七七四年2013/01/11(金) 00:45:55.22ID:Ho9YPbU1
過疎スレ賑わっていいじゃん
粘着野郎はウザいがレスは意外とまとも
ちゃんと滝川一益の話してるじゃん
むしろいい相手が来てただちょっかい出したり煽ってるやつらばかりだと思うガナ

>>251
あまり詳しくないから参考になるようなレスできないけど俺も等身大の滝川一益を知りたいと思うよ
煽りに負けずいい意味でこのスレ盛り上げてくれるのを期待してるよ

255人間七七四年2013/01/11(金) 00:54:37.81ID:phzPSKz4
自演

256人間七七四年2013/01/11(金) 01:12:39.89ID:k3SKXb/2
おしい奴だが煽りをスルーしないのが悪い

257人間七七四年2013/01/11(金) 23:49:26.21ID:GikJcbUb
>>237-241
何が2千石だよ お前ら揃って駄目すぎ
過去レス全部読んでからレスしろ

7/12秀吉→滝川八(一時)宛書状 (寛永諸家系図伝の佐久間一時の項にある書状写し)
>入庵(一益)江 壱万五千石令契約知行 今度改三千石之通入庵江遣候
>相残而壱万二千石分 其方可有領知 向後諸事無御油断御励有之 全可有御領知状如件

全訳

7/12(蟹江城の戦い後)
入庵(一益)へ 【一万5千石】で約束した知行について、今回改め【3千石】を入庵へ使わしてそうろう
残り【一万二千石】は そなた(一時)に使わす 今後励め 領地の件

そして>>215に感謝

258人間七七四年2013/01/12(土) 00:41:17.73ID:FBKwiaIL
一益の出自で有力なのは甲賀の滝城高安氏と尾張の滝川某一族だが詳細はわからない

一益のストーリーは、
あの蟹江城を服部友貞から奪い自力で城主となったことから始まる
その後の伊勢方面攻略の主役となるのは当然だろう

そして最後の蟹江城合戦だが、この戦こそ一益の生涯最高の戦いと言ってよい
むしろ断言したい

まず徳川家康と織田信雄は、まさか滝川一益が海から上陸するとは思いもよらないことだっただろう
しかも3つの城を落とし、4つめの大野城までも陥落寸前だったのだから恐ろしい

259人間七七四年2013/01/12(土) 01:06:07.80ID:FBKwiaIL
蟹江城落城の報を聞いた徳川家康と織田信雄は、その日のうちに駆けつけ、
半月以上もこの戦場に釘付けにされている。小牧などは放置状態だっただろう
徳川家康と織田信雄は文字通り命懸けで蟹江城を攻め立てている
一益が寡兵で後の天下人家康を上回る知略を見せつけたと言ってよい

ただ惜しむらくは、秀吉の予想をも遥かに上回ってしまったことだろう
そしてこれが敗因となった
秀吉にしてみれば寡兵の一益がここまでやるとは考えもしなかったのだろう
一益の謀略が明らかになった時には戦線を離れており、戦線に戻った時には既に勝機は去っていた
さぞ秀吉は悔しかったはず
この合戦に限って言えば、一益にも家康にも及ばなかったのだから

260人間七七四年2013/01/12(土) 01:23:29.61ID:FBKwiaIL
最後にニミッツ提督が小沢治三郎を評して言った言葉を

「勝った指揮官は名将で、負けた指揮官は愚将だというのは、
ジャーナリズムの評価にすぎない。指揮官の成果は、むしろ、
彼が持つ可能性にある。敗将といえども、彼に可能性が認め
られる限り名将である。オザワ提督の場合、その記録は敗北の
連続だが、その敗北の中に恐るべき可能性をうかがわせている。
おそらく部下は、彼の下で働くのを喜んだにちがいない」
( 児島襄『指揮官』(上))。

(一人で盛り上がってスマソ(丁丁))

261人間七七四年2013/01/12(土) 14:17:00.82ID:DJcqAeTZ
>>蟹江合戦が滝川の単独行動
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る 6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発 6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた 6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った 三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い

262人間七七四年2013/01/12(土) 15:05:07.29ID:DJcqAeTZ
信雄・家康相手に大敗して1万人も大損害だしたから怖くて近づけなかっただけ
大垣から蟹江なんてすぐだからな。いこうと思えばいつでもいけた
二重堀合戦が史実な証拠として神子田が改易され、信雄から感状もでてる
愛知県史資料編867〜869で滝川が蟹江から退去した事で秀吉は出陣日を改める事を伝えてるんだろうが
蟹江が何も意味ないなら出陣日改める必要なし
蟹江を落とせれば清洲と長島の分断&北だけでなく西からも長島を包囲可能
蟹江は秀吉がいた大垣から眼前の距離
谷口氏の論文や愛知県史資料編が位置づけているとおり蟹江合戦が秀吉の三河侵攻計画や
領国分断作戦の一貫の証明だろうが。大体滝川はただ協力してるだけじゃねえだろうが
前年に秀吉に降ってれっきとした家臣だろうが。独断で行動してたとするならそれこそ証明が必要
>>秀吉の戦略は下記であり、滝川の行動は秀吉の戦略外だ。
>>6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
>>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが

この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる

263人間七七四年2013/01/13(日) 07:45:30.90ID:VINMPVxV
短くまとめられないのはちゃんと理解出来てないからだってばっちゃが言ってた

264人間七七四年2013/01/19(土) 04:36:54.63ID:ZsAFRjtb
ここも単なる「好きな武将崇拝スレ」だったか
キモいのばっか

265人間七七四年2013/01/20(日) 16:00:30.60ID:WagvSvCs
いや、好きな武将を崇拝してるわけじゃなくて
定説ってだけでしょ

一方的な偏った意見がキモい、というのであれば
「滝川一益は、名ばかりが有名で実力は皆無。その証拠に禄高も大したことない。
晩年もきっと惨めな人生を送ったに違いない(キリッ」って自論を展開してる人はいたけど
そういう「嫌いな武将を叩く」レスというのは、キモいのには当たらないのかい?

新たな歴史資料が発見されたのならばともかく
文献文献言ってる人いたけど、そんなものあったら歴史研究家がとっくに解明してるよ

266人間七七四年2013/01/22(火) 13:18:32.34ID:eVABsiZe
これだから崇拝はキモい
このスレの定説=滝川最強なんだから、一般の定説は滝川を貶めるための新説になるんだろうな
それに息をするかのように悪意をねじ込む
ロムってみたが「その証拠に禄高も大したことない。
晩年もきっと惨めな人生を送ったに違いない(キリッ」
とは書いてるが「滝川一益は、名ばかりが有名で実力は皆無」なんて書いてない
悪質なカルト宗教の信者に似てるよほんと

267人間七七四年2013/01/22(火) 16:18:19.02ID:3uHx32jd
「俺は滝川のファンだけど」とオブラートに包んでネタを提供しようと一生懸命だったけど
書いてることは中学生並の根拠と理論と煽り文句しか書いてなかったし

そもそも2チョンネルなんてのは悪質なカルト宗教みたいなもんだ
ネトウヨがチョンコ連呼してるか、馴れ合いでナァナァやってるスレだけだよ

新説を唱えたいなら大学の研究室でやってくれ

268人間七七四年2013/01/22(火) 22:09:55.91ID:qGyaN20u
そーだーそのとおりだーー

269人間七七四年2013/01/22(火) 22:19:37.05ID:/S585fi2
このスレの定説=滝川最強だっけ?アンチ意見を書いたらダメというような風潮は無かったと思うが。

崇拝でも執拗なアンチでも、偏っている意見はどちらもキモくないの?との問いに
これだから崇拝はキモイ、悪質なカルト信者だ、というのはどうもねえ。

270人間七七四年2013/01/22(火) 23:37:01.30ID:qGyaN20u
>269
そんなのどうでもいいじゃん
それよりこれからは語尾にたっきー最強って入れて話そうぜーたっきー最強!!

271人間七七四年2013/01/22(火) 23:40:43.53ID:/S585fi2
たしかにどうでもいいいね。たっきー最強!

272人間七七四年2013/01/23(水) 23:27:22.17ID:WtVySQbf
>>264
めでたく満場一致で貴方の意見が採択されました

YOU COMPLETE GAME OVER!

273人間七七四年2013/01/24(木) 01:47:43.04ID:KefBhMmo
あーあ
通説をまず事実としてない時点で中学生レベルなのはどっちだか
前のやつの言ってた「晩年は不遇」のどこが新説?
通説=事実を言ってただけだろう
それを覆そうとして「〜だから××なはず」なんて憶測ばかり
だからこのスレのみで通用する通説・定説・事実は滝川最強なんだと分かったよ
それを揺さぶるやつは集団で煽る
ここしばらくのスレ遡ればクソスレなのはよく分かるからいいか

274人間七七四年2013/01/25(金) 00:15:44.33ID:RLe1Wsfq
まったくそのとーりだー みんなは改心したぞー

275人間七七四年2013/01/25(金) 01:05:36.17ID:NGDbo+v1
たっきー、と聞くと滝沢を連想するよね?たっきー最強!

276人間七七四年2013/01/27(日) 17:56:55.40ID:VvWsdVuZ
よくわからないけど滝川一益は最強ではないよねぇ、たっきー最強!

277人間七七四年2013/01/30(水) 00:21:23.41ID:ctk/mpgw
>>276
どっちなんだよwたっきー最強!

278人間七七四年2013/02/06(水) 09:52:42.96ID:l8dXy11M
読売新聞の記者だったりしてな たっきー最強!

279人間七七四年2013/02/24(日) 11:37:54.50ID:0dNw9UW1
あの身分と子供の数で妻が不明って凄い

280人間七七四年2013/02/26(火) 15:48:27.53ID:ew/M2TZP
○売新聞の隔週企画では、冴えない晩年を送った
みたいな事が書かれてたな
しかも、五段階評価で
統率3・教養4・実行力3・企画力2・先見性2
と平平凡凡の絵に描いたような凡将

こいつの認識では、完全に名前だけの武将なんだろうな

281人間七七四年2013/02/27(水) 11:44:20.21ID:pN5KkRXp
しかし一益は、真面目なんだろうけど状況判断の拙さは感じるな。
本能寺の時なんて関東なんか北条に任せてさっさと畿内に反転すればよかったんだよ。
それをくずくずと関東確保しようとするから神流川になる。
畿内を落ち着かせれば関東なんて後でどうとでもなるんだし、本質を見失っている。
そのあたりが秀吉との決定的な差だな

282人間七七四年2013/02/28(木) 08:41:08.20ID:NdGvQNa7
神の目線で見れる後世の人間が何を偉そうに
よほど自分の人生は失敗のない人生なんだろうねえw

283人間七七四年2013/02/28(木) 20:38:48.25ID:l3IlEeJz
>>282
危うく似たようなことを書くところだったが
俺は思い留まったよ
これからも書くつもりは無い

284人間七七四年2013/03/03(日) 23:30:03.43ID:ZTf5q2Sk
>>280
静岡大学の教授だっけ?
個人の主観で左右されるのは擁護派アンチ派どちらにも言えることだな。

285人間七七四年2013/07/21(日) NY:AN:NY.ANID:6k9gwfEo
でもな、一族郎党討死。家断絶なんてのは多くある話だし
後世に血筋を残せただけでも立派なもんだと俺なんかは思うんだがなー

286人間七七四年2013/08/13(火) NY:AN:NY.ANID:ZzDBQK5p
>>207

> 敵方の家康からも評価が高く、

家康は三方ヶ原で世話になった義理がある。

287人間七七四年2013/08/13(火) NY:AN:NY.ANID:ZzDBQK5p
>>281

毛利は秀吉を追撃しなかったが、北条は追撃したと思うね。

288人間七七四年2013/09/08(日) 06:20:08.34ID:d0RbzSv5
なんだここもただの狂信者の巣か
ねじまげて曲解して裏の裏の裏までこじつけて英雄視するだけで、良いも悪いも全て飲み込もうとしないのな
北朝鮮国民と同じで一益様最強最高万歳だなw

289人間七七四年2013/09/08(日) 06:29:58.29ID:YYChAss4
>>287
追撃っつーか、北条はそのあとで織田領に攻め込んでるので(天正壬午の乱)

290人間七七四年2013/09/08(日) 06:53:05.09ID:FuRfjxl9

291人間七七四年2013/09/08(日) 11:09:27.74ID:24Sqr1T9
>>289
息子が1万2千石の大名なのに不遇な晩年説だったと言い張る
その根拠は?

292人間七七四年2013/09/08(日) 11:22:57.73ID:24Sqr1T9
やっぱどうでもいいや。
不遇な晩年かどうかなんて一益本人にしかわからないし、
半端者相手にトコトン追及するほど興味わかねー。○ノシ

293人間七七四年2013/09/10(火) 01:24:01.23ID:Ch07Pp8P
>>281>>287
秀吉は播磨戦役で粘り勝ち、但馬を一蹴、宇喜多を調略、鳥取や高松での物量戦で圧倒してたからな。
長年、戦っていた毛利は秀吉を恐れていたんだろう。

一方、北条は滝川に対してそういう感情はない。
一益が畿内へ仇討ちに行ったら、ガラ空きの上野は北条に取られるだろう
森みたいに新領地を投げ捨てて逃げるか、残って戦うしかない。

294人間七七四年2013/09/10(火) 02:04:27.59ID:alhQ/q2Y
実際には但馬平定は天正8年になって光秀の援護を受けながらようやく終わっただけだし
毛利から寝返った宇喜多・南条に毛利が苦戦したせいで、但馬・播磨戦線まで出てこれなくなっただけで秀吉は特に何もやってない。
天正8年の山名氏政→古志書状(古志文書)4/13には織田勢が今度但馬に乱入してきて種種入魂之被申分、尤祝着候とか書いてるし
5/19には去4月18日但馬水生表の合戦で織田勢と竹野衆が合戦し竹野衆が勝利したと報じている
6/13垣谷豊続→岡遠江守感状で宵田表相動候処、則織田勢罷出候之間誠砕手数剋相戦切崩、得勝利などと勝利を書き綴っている
播磨戦線でも毛利に3000殺されるガチンコ負けして西播磨一帯を占領され尼子衆ぶち殺されてるし
天正10年の高松攻防前の鴨城攻防戦でも
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事
と秀吉方が敗戦してるのがわかる。
また秀吉が備中・美作・備前戦線に加わりだす天正9年頃から、それまで単独で大国毛利相手に辛川合戦・戸倉合戦・祝山城などで大勝するなど優勢だった宇喜多が
備前児島・忍山城・篠茸・宮山城が奪回されだし宇喜多家も窮状に追い込まれてる。
あと、秀吉が毛利を単体で攻めきれず信長に援軍を請うたというのは陰徳太平記のデタラメくさいと思ってたが、山本浩樹氏によれば一次資料による裏付けがとれる
ようで、「信長の御動座」を待ち一気に決着をつけるつもりだったらしい。

295人間七七四年2013/09/10(火) 02:11:28.76ID:GejM5S0X
播磨口の攻防は信忠ら大軍の援護受けまくってたからな
毛利も秀吉を蹴散らすと兵站の長さと対大友戦を理由にさっさと本国に退却しちまうしかなりラッキーだった。

296人間七七四年2013/09/10(火) 11:13:21.85ID:vxfJzo51
またキチガイアンチ秀吉のアホか。
相変わらず狂ってるな。

297人間七七四年2013/09/10(火) 11:16:40.31ID:I8WnkgQn
Λ_Λ  
<=( ´∀`) <またキチガイアンチ秀吉のアホか。 相変わらず狂ってるな。
(    )     
| | |   
〈_フ__フ


          / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  Λ_Λ  < ふぅ、後はついでに織田を叩いておけばいいニダ
  <丶`∀´>   \______________
  ( ̄ ⊃・∀・))
  | | ̄| ̄
  〈_フ__フ

298人間七七四年2013/09/10(火) 14:44:20.71ID:MeUHDRuV
子孫がおもてなしの心を世界に伝えた

299人間七七四年2013/09/10(火) 15:27:52.92ID:vxfJzo51
天正5年に一旦、秀吉によって但馬平定されたのは事実だし
朝来郡と養父郡を占拠し生野銀山を手に入れ
出石・城崎・美含・二方の4郡を山名親子に安堵
天正6年春には武田城の秀長の元へ山名氏政が挨拶にきてるほど安定していた。
しかし天正7年に垣屋豊続が元春を訪れ但馬侵攻を哀願したので、
元春は今度の但馬侵攻の目標を八木・竹田両城を手に入れないと但州の儀は正儀あるべからず
と書いていて但馬支配の要が両城であるとしている。まぁ実質、生野銀山を奪い取ることが目標だわな。
そして元春は8月くらいに但馬へ侵攻したと考えられている。
しかし秀吉の調略に応じた宇喜多や南条が離反した為に9月には元春が但馬から逃亡し、
一ヶ月に満たない但馬訪問に終わる。
天正8年に入り織田軍が謀反者追討で但馬へ入ると、
垣屋氏が但馬山名氏の居城だった有子山城に逃げ込んだが5/16に開城。
山名祐豊は5/21病没し、氏政は因幡へ逃亡し但馬を織田領に組み込み完了。
垣屋豊続は水生山城→余部城→田井城と逃亡を続けたが宮部善祥坊に降伏斡旋され帰順。
垣谷豊続が織田軍に勝ったなどと主張してて笑えたわ。さすがキチガイアンチ秀吉の織田朝鮮人だわ。
光秀の援護とか意味不明なもんを付け足したりとアホ杉。

300人間七七四年2013/09/10(火) 15:50:39.02ID:vxfJzo51
さらに言えば天正10年5/4小早川→冷民少の書状でもって
秀吉が鴨城(加茂城)で敗戦と主張しているが、

5/6には秀吉が亀井茲矩に宛てて備中国の巣蜘塚城・河屋城・加茂城・亀石城を落城させたので
備中国の平定の目処が付いてきたことを書き送ってるし、
勢いがますますついて5/7には備中国高松城を包囲して水攻めを開始してる。
ちなみに5/19に秀吉は柴田勝家の与力の溝江大炊允に戦況がうまく言ってると報告してる。
はっきり言って毛利方の糞書状なんてまったく信用できないもんなんだよカス。

301人間七七四年2013/09/10(火) 15:50:52.92ID:QwZOlZbj
>>299
ほとんど公記と太閤記の妄想話じゃん

302人間七七四年2013/09/10(火) 15:55:53.16ID:vxfJzo51
天正6年5月に山名氏政が挨拶にきた際に
秀吉が出した書状で本物認定されてるのは下記の書状だけだタコ(三鬼清一郎氏の認定)

秀吉→山名宛書状
条々
   一此方別而御入魂之上者御身 上之儀於我等聊不可存疎意候事
   一御居城不可有別儀之事
   一出石郡之儀進之置候条無異儀可被仰付事
右旨八幡大菩薩愛宕山相違有 間敷侯依而如件
    天正六         羽柴筑前守
      五月十六日   秀吉
      山名殿
          余人々御中

上記のように年号まで入ってるのは非常に珍しく、おまけに神仏にまで誓っているのは
この書状が約束を違えない重要な書状であることを示していて、
先にレスした12/10の秀吉→黒田・別所重宗宛書状(黒田家文書)でも両家の婚姻についてなので
同様に年号と神仏への誓いが記している非常にレアな秀吉書状として有名。

ちなみにお前が偽書状だと連呼してる12/5付秀吉→下村玄蕃助宛書状(下村文書・三鬼清一郎氏の認定)も
上記文書とリンクしていて、この書状の冒頭は

一但州悉以如存分隙明候条 去廿七日至作州境目〜と書いていて
秀吉による但馬の攻略が完了したことも報じていて、その後、美作へ進出している。
そして戦後統治政策の一環として山名へ上記安堵状が発給されてる。
この書状はおもしろく秀吉は信長を無視して安堵状が発給できる実力者になっていることの現われで
この調子で調子に乗って宇喜多も安堵したところ、秀吉が連戦連勝して圧倒していたこともあり、
信長は宇喜多みたいなザコは滅ぼすつもりだった為、勝手に許したと激怒することになる。
しかしのちに本願寺顕如が美濃の坊主や門徒衆へ宛てた書状で、
宇喜多の寝返りで毛利が岩屋・兵庫・尼崎から引退し帰国したことを挙げていて
秀吉の宇喜多調略が決定的な戦略的効果を与えていたのがわかる。

303人間七七四年2013/09/10(火) 15:57:58.42ID:QwZOlZbj
>>はいはい偽書状乙w5月の秀吉が出した書状で本物認定されてるのは下記の書状だけだタコ(三鬼清一郎氏の認定)
三鬼の妄想なんぞ知らん。山口県史資料編3目次解説凡例の最後から2ページ目の12行目
でも見直せ山口県史資料編凡例 2ページ目
正門でないものについては、中世に書写されたと思われるものには「案」とし
近世以降に書写されたと思われるものには「写」とした
現段階では真偽の容易ではない文書、また偽文書と考えられるものでもその存在に
何らかの意味があると判断される場合は、検討を要する旨の注記をつけて収録した。
んでソースとしてあがってる書状をみてもそんな注記も「写」もついておらず
偽文書などという馬鹿妄想いうのはお前だけ
さらに「上月城」という呼称は下記の他の史料でも使われており他の呼び方をしている文書が捏造されてできてるだけ
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫  宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長  敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼  今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
>>秀吉による但馬の攻略が完了したことも報じていて
お前天正8年にやっと但馬が平定した事もしらんのか。天正8年の山名氏政→古志書状(古志文書で)4/13には織田勢が今度但馬に乱入してきて種種入魂之被申分、尤祝着候とか書いてるし
5/19には去4月18日但馬水生表の合戦で織田勢と竹野衆が合戦し竹野衆が勝利したと報じている
6/13垣谷豊続→岡遠江守感状で宵田表相動候処、則織田勢罷出候之間誠砕手数剋相戦切崩、得勝利などと勝利を書き綴っている
>>あっ?そもそも日記形式じゃねぇんだから大久保の記憶違いだろ。庚午の年の出来事って記憶してるだけでもすげぇだろ
そんな3ヶ月も重要合戦の日付を間違えるような糞記憶力じゃ話にならん。完全に記憶違いで合戦の存在自体噂で聞いたか後であやふやな記憶をデタラメに思い出したか知らんし
>>つかそもそも東海方面は三嶋暦を使ってるんだからズレるのはおかしくないだろ。
何がおかしくないのか不明。そんな3ヶ月も重要合戦の日付がずれる糞史料を直接的ソースとして用いるとか話にならん。
>>それに越前出兵への依頼を家康に申し出たのが2月とも解釈できるしな。
なぜそう解釈できるんだ?
>>それにの一色藤長の5/4付け書状の内容には金崎城に秀吉・光秀・池田勝正らが残されたのは
>>北郡の儀 相下され 重ねて越国乱入有るべき候などと再度の越前侵攻のためとの言い訳を丹羽から聞かされているのがわかる。
再度の越前侵攻のため残されたなら金ヶ崎の退却のため残されたという論拠には全くならない。他の目的に備えられたと考えるのが普通
三河物語にも信長が撤退したときに家康へは何も連絡なく捨ておかれたが秀吉の案内で家康は撤退できたと書いた後に
>> あくまで信長は越前への再度の侵攻を考えていたが、越前衆が機先を制して3万で出陣してきたと書いていて
んで、実際に金ヶ崎で残留部隊と朝倉が衝突したというソースは?
>>月のズレなんてよくあることだし、むしろ丹羽から聞いた内容と同じ内容を大久保も書いてる正確さの方がすげえわ
そんなデッチ上げの全く記憶違いの嘘文書が直接ソースになると思ってるお前の脳味噌の方が凄いよ

304人間七七四年2013/09/10(火) 16:04:58.79ID:vxfJzo51
やっぱり糞アンチ秀吉のお前のしわざかよwwwww

305人間七七四年2013/09/10(火) 16:07:45.92ID:QwZOlZbj
但馬守護の山名は上洛して信長に謁見してるから明らかに織田方。
信長の援助もらいながら但馬に復帰してるんだから最初から織田方も糞もない
11/21今井宗久自筆書札留で宗久と山名が同道して岐阜へ下向しているのがわかる
4/19信長→山名入道、太田垣、八木、垣屋、田結で信長が山名を援助して銀山経営にあたろうとしているのが読み取れる
信長軍に追われた山名紹煕が許されて但馬入国するが、それは信長の監軍がつけられ
山名四天王が自立大名化を進める中、紹煕はその次のクラスの伊吹、下津屋、宮、森本などの諸氏を擁して国中に点的に勢力を及ぼす大名であった。

306人間七七四年2013/09/10(火) 16:08:48.93ID:QwZOlZbj
天正5年10月23日 秀吉、信長の命令で中国を平定に着手、是日、京都を発す
播磨小寺孝隆の姫路城に入りて、同国諸士の質を徴し、更に但馬に赴きて、岩洲城を攻略する
12月3日秀吉、竹中重治、小寺孝隆をして、備前宇喜多直家の属城播磨福原城を攻略せしめ、自ら同国七條城(上月城)を囲み、之を赴援する直家と戦ひて、之を破り、是日、七條城を陥る、尋で、秀吉、尼子勝久、山中幸盛を播磨三木城より同城に移らしむ
12月5日羽柴秀吉、播磨龍野に入る、尋で、上京す
天正6年2月23日秀吉、再び播磨に入り、書写山に陣す、尋で、同国三木城別所長治、毛利氏等に通じ、兵を挙ぐ、
3月15日秀吉、播磨中島隆重等に基本領を安堵せしむ、
3月29日羽柴秀吉、別所長治を播磨三木城に攻む、
4月3日羽柴秀吉、播磨三木の属城同国野口を攻め、是日、城將長井四郎左衛門を降す、
4月4日織田信忠、摂津石山城を攻む、尋で、軍を班す、
4月18日吉川元春、小早川隆景、播磨に入り、尼子勝久、山中幸盛を上月城に囲む、
4月29日信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援させる
5月1日 信長、親を播磨に出征せんとす、佐久間信盛等、之を諌止す、尋で、又出陣せんとし、大雨に依り、之を停む、
5月4日 信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す、
5月6日信長、信忠、北畠信雄等を播磨に遣す、是日、信忠等、賀古川に陣す、
5月16日羽柴秀吉、但馬山名豊国の好を通ずるを容れ、其所領等を安堵せしむ、
5月21日羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、
是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、尋で、宗治、同城を復す、
5月24日羽柴秀吉、竹中重治を遣し、備前八幡山城某の帰属を信長に報じる
6月16日羽柴秀吉、入京して信長に謁す、信長、秀吉をして、播磨高倉山の営を徹し、神吉、志方の両城を攻めしむ、
6月21日毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
6月26日羽柴秀吉、陣を播磨高倉山より書写山に移す、明日、織田信忠等と共に、別所長治の属城神吉を攻めて克たず
6月29日信長、津田信澄等に命じ、摂津兵庫及び播磨高砂間の道路に、戌兵を置かしむ、
7月5日播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る、山中幸盛、偽り降り、
尋で、毛利氏の爲めに備中合の渡に殺さる、
7月7日織田氏の兵、毛利氏の兵を摂津木津の砦に攻む、
7月20日 織田信忠、羽柴秀吉等、播磨神吉城を攻めて、之を陥れ、秀吉、同城を守る
8月10日織田氏の軍、播磨志方城を攻略す、尋で、同国三木城を囲む
8月17日織田信忠、播磨より岐阜に帰る、
10月9日信長、摂津に出陣し、諸將を遣して、荒木村重を打たしむ、尋で、耶蘇会宣教師を遣し、同国高槻城高山友祥を誘降せしむ、
10月17日 荒木村重、新五郎父子、義昭、毛利氏及び本願寺光佐(顕如)と通じて、信長に背く、是日、光佐、村重と盟約す、
10月22日羽柴秀吉の兵、別所長治等と播磨三木城下に戦ひて、其弟治定を斬る、
11月14日織田氏の諸將、荒木村重を摂津在岡城に攻め、之を破る、
11月24日信長、摂津刀根山の塁に陣し、茨木城中川清秀を誘降す、尋で、瀧川一益等を遣し、同国兵庫等に放火せしむ、
12月11日信長、陣を摂津古池田に移し、將士をして、諸塁を守らしめ、羽柴秀吉等を播磨に、惟任光秀を丹波に遣す、尋で、安土に帰城す、
12月23日毛利輝元、荒木村重に援兵を遣す、是日、之を湯浅將宗に報ず、

307人間七七四年2013/09/10(火) 16:09:48.29ID:vxfJzo51
>>305
それ俺が昔レスしたもんなんだけどwwwww
毎回、毎回、よくもまぁ他人のレスを盗用して飽きないなwwww

308人間七七四年2013/09/10(火) 16:16:28.51ID:kfXdeKJ9
>>307
ちげーよアホ
http://www.logsoku.com/r/sengoku/1325991921/
ここで俺がかいたもんでお前のレスじゃねーよクズ

309人間七七四年2013/09/10(火) 16:25:13.70ID:vxfJzo51
たしかその時に
他にもいろいろ書いていたが文章を削除して改変bしてんのか?
永禄12年の但馬への織田軍の侵攻で、山名祐豊は堺へ逃亡していたが
今井宗久と坂井政尚(のち志賀の陣で朝倉に討たれる)に信長への口ぞえを依頼し
信長へ礼銭1000貫文を払った。もちろん今井が半分肩代わりし、
もう半分は年利4割の利息を取ることにした。
そして信長は「御公用吹屋銭」の上納を山名祐豊に命じた。
ちなみに吹屋とは今井宗久の屋号。
これで永禄6年に但馬復帰するも、
信長の取次窓口の坂井政尚が討ち死にすると山名祐豊は毛利と接近し、織田を離反。

310人間七七四年2013/09/10(火) 16:25:20.73ID:3MviHKL7
>>293

> 森みたいに新領地を投げ捨てて逃げるか


結果論になるが、こっちのほうが良かったのではないか?

311人間七七四年2013/09/10(火) 16:43:06.40ID:vxfJzo51
>>309の続き

訂正 永禄6年は間違い。永禄13年ね。

蛇足だが山名祐豊は堺では渡辺宗陽を頼っていて
彼は銭屋の屋号を持つ金融業者で今井の友人であった。
要するに生野銀山の金づるの山名氏は商人と信長の搾取を嫌い
朝倉軍が坂井を討った機会に毛利を頼ったわけだ。

しかも生野銀山は天文11年にはじめて発掘され、天文23年(1554年)に
山名祐豊が朝廷に白銀300両を献上し、2年後にも白銀200両献上と言う(元亀元年が1570年ね)
むちゃくちゃ驚かれた新鉱脈でその利権こそが但馬国の価値を急浮上させた。
だから織田軍は上洛に成功するやすぐ但馬へ秀吉らを派兵した。

312人間七七四年2013/09/10(火) 17:00:39.72ID:vxfJzo51
>>310
うまいとこ北条に滝川が勝ってしまうマグレが発生してたら
甲斐信濃も徳川の手に落ちなかったかもな。

313人間七七四年2013/09/10(火) 19:36:37.62ID:ka5t23dF
だがさんはNG

314人間七七四年2013/09/10(火) 22:58:20.40ID:FLLpn1s0
>>312
日程的に無理っぽい
一益が敗北した6月19日の時点で、毛利長秀、森長可は信濃にいないし、
河尻は死亡してる。

6月8日  森長可、越後二本木の陣を払い撤退
6月不明 毛利長秀が南信濃の領地を放棄
6月不明 森長可が北信濃の領地を放棄
6月13日 滝川一益、藤田信吉の反乱を鎮圧 
6月17日 神流川の戦い(第1次)滝川一益勝利
6月18日 甲斐に残り続けた河尻秀隆が殺害される 
6月19日 神流川の戦い(第2次)滝川一益敗北
6月不明 森長可、美濃上恵土城を攻める
6月不明 森長可、美濃大森城を攻める
6月22日 森長可が美濃米田城に攻め込む

315人間七七四年2013/09/10(火) 23:04:08.55ID:GejM5S0X
まだ二本木に侵攻してたとか馬鹿な妄想展開してる奴がいるのか
長沼も奪回できてないのに二本木なんか侵攻できるわけねえだろカス

316人間七七四年2013/09/10(火) 23:05:27.76ID:4zE+LbOk
長沼どころかそれより南西部の仁科地方(安曇・筑摩)にすら上杉方の島津忠直が駐屯してるのが
4/20頃の景勝書状でわかるしな

317人間七七四年2013/09/10(火) 23:11:44.47ID:FLLpn1s0
そりゃすまなかったねぇ_○_

318人間七七四年2013/09/11(水) 08:20:27.57ID:vnMZP2tB
>>314
北条を撃退した滝川には真田らがいるので、
信濃の佐久郡〜上田のルートが確保出来てるから、
そっから甲斐へ川尻が侵入すれば家康も織田軍には敵対しないだろうし、
真田は信濃国人調略に使える。

319人間七七四年2013/09/11(水) 10:21:39.70ID:HDPt9YGB
>>300
加茂城→鴨城と表記を見事に間違える冷泉民部少輔の子孫による後世作成偽書状wwwさすが先祖の武功を捏造する毛利家臣団www
冷泉元満は水軍の将なのになぜか備中高松城の近くでめちゃくちゃ内陸地の加茂城www

320人間七七四年2013/09/11(水) 12:02:50.86ID:IYorSGx5
>>299-300
参照文献は?

321人間七七四年2013/09/11(水) 16:36:42.16ID:E9SOHzDH
>>320
そんなもんない。兵庫県史や山口県史の資料編とかくまなく漁ってもそんな文書ないし

322人間七七四年2013/09/11(水) 17:06:08.87ID:qNU47uZ4
>>320
>>302でOKじゃん。
それで不満なら兵庫県朝来郡和田山町・和田山町史編纂室長の宿南保氏が詳しく書いてる。
ただだいぶ前に読んだから文献名は忘れた。
多分宿南氏が執筆した下記のどれかにあるはず。
但馬史、八鹿町史、出石町史、養父町史
もし興味あるなら読んで見れば?

323人間七七四年2013/09/11(水) 23:21:39.91ID:KN/Ka1R1
一益がどう移動して関東から伊勢に帰国したんだっけ?
以前、どっかで読んだ気がするが忘れてしまった…

324人間七七四年2013/09/12(木) 12:18:07.47ID:ohy4Sg2w
>>310
森に関しては、在地土豪のほぼ全てが離反したので選択肢が一つしか無かったんだろう。
北関東の諸将はそれまで常に北条への脅威を感じていたから、離反せずに
滝川の指揮下に残るのを選択したんだろう。
敗戦後、一益は無条件で諸将に人質を返還して、お互い涙ながらに(本当か分からんが)別れたという逸話もあるし
本能寺後に残って戦えるような体制は出来てたんだろう。
河尻は逃げた方が良かった気もするけど、国主の体面もあるしな。

速攻でトンズラしても穴山みたいな例もあるから一概にどれが正解とも言えない。
森も家康も紙一重の逃走劇だったしね。

325人間七七四年2013/09/12(木) 12:25:29.54ID:C20vlyAb
森は信長の敵討ちのためにいち早く上洛したのであって逃げた訳ではない。

森家譜「ホントだよ。だよ!」

326人間七七四年2013/09/12(木) 12:35:51.12ID:rE7IfGhM
そういいつつ、信長の意志を無視して団忠正が本能寺で死んだ機会に
岩村城を奪い取って見事に織田家へ謀反したのでした。

327人間七七四年2013/09/14(土) 00:25:28.79ID:LaJszNQD
>>318
それどういう意味?
滝川方が19日の戦いにも勝利したとしても、河尻は前日に死んでるんだけど。


それから上杉に対する守りがきつい。
上野も防衛しなくちゃならないのに、北信まで入手しようとすると
上杉の本拠地の目の前なんだけど。
むしろ下野方面の宇都宮や佐竹と上手く連携して北条に対処したほうが良い方向のような気がする。
どちらにせよ上杉方面が厳しいけど。

328人間七七四年2013/09/14(土) 11:21:27.70ID:5uXjcqkJ
そっから甲斐へ川尻が侵入すれば
のトコの川尻ってのが、本来、滝川と書くつもりで間違えたんだろ?
北条を大破した滝川織田軍を見れば家康も信濃経営に協力するしかないんじゃないかな。
もう光秀も討ち取って、一応は、織田家の混乱も落ち着き始めているし。

329人間七七四年2013/09/14(土) 14:12:55.76ID:LaJszNQD
>>328
河尻を川尻と書く程度のドジだけなら話続けてもいいけど、
更に実は滝川の間違いでしたなんて言う大ドジとは話続けられねーってばw
時間かけて真面目に考えるこっちの身にもなってみろ。

「自己チェック」できるようになってからまたレスよろ。

330人間七七四年2013/09/14(土) 14:20:16.01ID:LaJszNQD
ちょっと言い過ぎたかな。
また荒らされたら困るから謝っとく。

331人間七七四年2013/11/16(土) 15:34:28.71ID:b3oxd1ld
長文ばっかでウザくて読んでないけど、ここも滝川マンセースレ?
それとも公平な味方で事実を探してるスレ?

332人間七七四年2013/11/16(土) 15:35:12.80ID:b3oxd1ld
公平な見方だなwww
味方しちゃマンセースレだwww

333人間七七四年2013/11/16(土) 18:05:36.94ID:KPszZGt0
川尻と河尻・・・どっちでも構わねーじゃん。心底くだらねぇ。

334人間七七四年2013/11/16(土) 23:16:46.44ID:b3oxd1ld
なに?
やっぱりマンセーどもが騒いでるスレなん?

335人間七七四年2013/11/17(日) 00:43:19.21ID:oHWq4p0Y
公平な味方だと一益は忍者でOK?

336人間七七四年2013/11/17(日) 12:11:41.68ID:pecfg4yS
おまえがそう思うならそれでいいんじゃね?

337人間七七四年2013/11/17(日) 12:44:55.90ID:fEePUQB/
最近は一益が忍者じゃないとも言い切れなくなったよな?
雑賀孫一なんかも広義の忍者になってるし

338人間七七四年2013/11/17(日) 18:05:26.51ID:pecfg4yS
何をもって忍者とするかだろ
情報収集するのも忍者で、その支持出すのも上忍というなら、斥候物見部隊はみんな忍者だし、大名はみんな上忍だ

339人間七七四年2013/11/17(日) 18:07:02.92ID:pecfg4yS
支持× 指示○
河尻を川尻とかいただけで真っ赤になる人に怒られちゃう///

340人間七七四年2013/11/17(日) 18:16:07.76ID:fEePUQB/
>>338
「忍者」っていうより、「忍者大名」の定義が必要だと思われ
っていうか、漢字苦手なんだねw

341人間七七四年2013/11/17(日) 18:22:30.57ID:pecfg4yS
上でうだうだやってたのは俺じゃないぞ
昨日初めてこのスレきたID:b3oxd1ldだ

342人間七七四年2013/11/17(日) 18:42:55.75ID:fEePUQB/
忍者大名数えてみた

百地丹波
藤林長門守
服部半蔵
佐治為次
滝川一益
風魔小太郎
雑賀孫一
土橋守重

一万石以上だとこんな感じ?

343人間七七四年2013/11/17(日) 18:55:14.16ID:tXxkKvLP
信長書状には、川尻とも河尻も書かれている。

344人間七七四年2013/11/17(日) 19:16:48.78ID:pecfg4yS
自分でも言ってたが忍者大名の定義が先じゃね?
もちろん何をもって「忍者」というかにもつながるけど

345人間七七四年2013/11/28(木) 00:21:19.69ID:VT5HeY2y
忍者大名の定義でも作るか

一.幼少の頃忍者の里に居た、又は、忍者に育てられた
一.諜報や離間工作が得意
一.忍者集団を率いている形跡がある
一.一万石以上の所領がある

これで決まりだ!

346人間七七四年2013/11/28(木) 00:32:27.31ID:vnw5x8xa
服部正成と風魔小太郎は1万石無いから除外すか。どうでもいいけど

347人間七七四年2013/11/28(木) 21:24:22.76ID:VT5HeY2y
大名の条件だから仕方がない

348人間七七四年2013/11/29(金) 16:42:00.41ID:GFqq2jng
江戸時代の大名の条件で室町末期の大名を定義されてもなあ
こういっちゃなんだが「忍者」というくくりも「大名」というくくりも幼稚なゲーム感覚のカテゴライズに思えてしょうがない
黒衣装に覆面して刀背負ってる忍者や、石垣に白亜の城にいる大名をイメージしてるんじゃないの?

349人間七七四年2013/11/29(金) 16:46:44.43ID:Zm8oCix3
江戸時代前半だと大名の定義は3000石以上ですよ。どうでもいいけど

350人間七七四年2013/11/30(土) 00:50:22.41ID:1agDNSei
>>349
初めて聞いた。何に書いてある?
忍者、侍、武士道の定義も娯楽や願望の中でイメージが積み重ねられているものだから、
楽しく真面目に定義しておけばいいと思う。

351人間七七四年2013/12/01(日) 10:57:14.65ID:IUmjfqfj
賤ヶ岳の時って本当に7月まで籠城してたの?
一益の史実って本当か嘘かよくわからないの多いね

352人間七七四年2013/12/07(土) 13:11:06.53ID:UdgsuoRd
>>131
詳しくたのんます

353人間七七四年2013/12/09(月) 22:32:27.76ID:pMADVYI/
>>14
追放までは佐久間が副社長で
柴田、丹羽が譜代の現場のツートップ
滝川、明智、羽柴の順で外様スリートップ
佐久間追放後は柴田、明智、羽柴、丹羽、滝川の順
本能寺前は柴田、羽柴、明智、丹羽、滝川の順

あんまり自信無いけどこんな推移だと思う
こういうのって興味深いね

354人間七七四年2013/12/10(火) 01:47:14.25ID:/NPUWVHq
関東取次ぎをどれぐらい評価するかだな

355人間七七四年2013/12/11(水) 22:15:02.07ID:21lw6vxh
>>353
出世は信長の心次第だからね。
案外、本拠地の安土城や大阪城普請の丹羽や、
信忠付家老で甲斐を与えられた川尻の方が、
柴田や羽柴より重用されてたのかも。

356人間七七四年2013/12/11(水) 22:19:37.11ID:FZ0We1Co
丹羽はトップ5どころかトップ15にもはいらんだろ。
丹羽なんて若狭数万石程度だから国高でいえば前田佐々佐久間川尻蜂谷宮部筒井池田あたりに余裕で負ける。
瀧川や明智あたりとは比較するのもおこがましい。

357人間七七四年2013/12/19(木) 23:21:13.44ID:CwdLsgZg
知行の話をしてる訳じゃないからなぁ

358人間七七四年2013/12/20(金) 07:17:22.81ID:NRU0k23v
丹羽は秀吉政権下で言う石田三成や三奉行、徳川政権下で言う老中若年寄みたいなもんだしな。石高少なくても権力がデカいから問題ない

少なくとも俺の推測として織田家の組織図はこんな感じ(1582年信長最晩年)

     織田信長(TOP)
       │
     織田信忠(次期TOP)
       │─────────織田家主要一門(信雄、信孝、信包、信澄、長益など)
       │────────────羽柴秀吉(織田家準一門と地方有力組を兼任)
       │─────────織田家準一門、主要側近(丹羽、池田、菅屋、前田など。森梶原斎藤など信忠直臣も多く占める)
       │     
地方有力組(柴田勝家、明智光秀、滝川一益などが著名。家臣ではないが徳川家康も恐らくこの位置)
       │
     在地家臣有力(蜂屋、佐々など織田譜代が中心。地方有力組の補佐、監視もつとめる)
       │
     在地家臣(ほとんど外様や他家からの降伏組)

359人間七七四年2013/12/20(金) 07:41:51.83ID:BHYuPJ8y
現代風に言えば丹羽池田河尻は本社勤務の重役部課長で、柴田明智滝川は地方の支部支店長みたいなもんかね
役職や肩書、部下石高の量が上だから地方軍団長の方が上ってのは確かに首をかしげたくなるな

360人間七七四年2013/12/20(金) 08:08:35.71ID:i3aICfGX
宮中伯より辺境伯の方が偉いよ

361人間七七四年2013/12/20(金) 08:20:22.39ID:5VQ9hkG9
領邦君主足りうる辺境伯とはまた違うだろ?
柴田も明智も最終的に味方から離反貰ってるし
佐久間があっさり追放されて終わったところを見るととてもじゃないが強固な権力があったとは

362人間七七四年2013/12/23(月) 02:50:16.52ID:xm2aNDau
信長生前は信長、信忠近辺の方が権力は上だよね。
諫言で更迭とかできるし。
信長死後の特殊な状況下だから、柴田や羽柴のような石高と兵力の多い
地方組の発言力が強くなったんだと思う。

363人間七七四年2013/12/23(月) 02:55:59.37ID:xm2aNDau
>>358
スレ違いかもしれないけど、
明智光秀が地方有力組で、池田恒興が側近って矛盾があると思う。
それから磯野員昌が簡単に追放されてるから、
羽柴秀吉は準一門というほどの地位は得ていないと思う。

364人間七七四年2014/02/26(水) 16:40:28.59ID:jV+wMIMx
月に2、3度神流川の戦場跡を通る
毎回趣深い

365人間七七四年2014/03/10(月) 18:21:46.27ID:R+XaKtgW
磯野員昌は戦上手だったのに、なぜ追放されたんだろ?

366人間七七四年2014/03/12(水) 21:55:55.90ID:9lVI8ccP
上州玉村はのどかなとこだった
地元の人に本陣あと聴いたけど
地元の人は滝川のこと知らなかった…

367人間七七四年2014/03/21(金) 04:00:40.19ID:mc7Bb6dC
勝家が結構内政出来た話は聞くけど一益はどうよ

368人間七七四年2014/08/02(土) 09:51:12.56ID:yOSgodKv
>>353
林は顧問か

369人間七七四年2014/10/06(月) 17:40:17.42ID:xn5jM1Pq
保守

370人間七七四年2014/10/06(月) 20:14:21.53ID:uCoQlIri
>>363
信長の子を養子にしてたけど秀吉

371人間七七四年2014/10/07(火) 22:29:11.28ID:bWNBo/iW
津田信澄を養子にしてたろ

372人間七七四年2015/03/20(金) 19:49:54.13ID:4fI8Et6l
賀正

373人間七七四年2015/03/20(金) 21:03:00.30ID:HUiMtk1v
元は忍者の片割れかなんからしいが

374人間七七四年2015/03/21(土) 01:09:57.39ID:qWEqlBlS
>>363 
というよりぶっちゃけ羽柴が高過ぎなだけだ

375人間七七四年2015/09/25(金) 20:54:03.66ID:miEL2kJZ
柴田の与力には佐々、前田、不破など、尾張時代のメンバーだけど
羽柴の与力は蜂須賀、前野、秀長、黒田と信長より秀吉の直臣って印象
滝川の与力は層が薄い印象ですが

376人間七七四年2015/09/25(金) 23:26:30.33ID:Mb2LH1WZ
滝川が天下とってたら伊勢衆とか有名になったよ。

377人間七七四年2016/01/27(水) 20:45:10.97ID:Y9nz8y6k
今年の真田丸で、一益は人気出そうだよな!
清洲会議でもいい役だったしwww

378人間七七四年2016/02/11(木) 18:46:21.69ID:EqkK/UpW
池田と親類筋だってのは眉唾だよね

379人間七七四年2016/02/11(木) 19:09:14.36ID:ed1cGqIJ
前田慶次の叔父貴だっけ?

380人間七七四年2016/02/12(金) 18:06:37.51ID:806Kkcje
>>377

出番は少なそうだが。

381人間七七四年2016/02/13(土) 08:00:48.00ID:QIgC+7Fd
真田丸の一益は不憫な役回りになりそう

382人間七七四年2016/02/13(土) 10:52:59.52ID:PRXqbQqU
信長の死を配下の国人は皆知ってるのに自分だけ知らないからなw

383人間七七四年2016/02/14(日) 09:34:09.88ID:/Z6aFMOX
昌幸、信長の引き立てのためにマヌケで哀れなおっさん役にwww

384人間七七四年2016/02/14(日) 10:27:49.99ID:/Z6aFMOX
>>378
池田氏の系図で池田恒利が滝川出身なんだっけ?
大名である池田氏側が、名氏とは言えない滝川氏の系統を
詐称する意味って無い気がするけどなー。

385人間七七四年2016/02/14(日) 20:03:47.54ID:/CB7ZTMD
信忠の乳母が滝川出の人でその信忠に池田は付けられていたし、
恒興曾孫光政の娘六姫が一目惚れし再婚したという滝川は一益の系統と
言われているから詐称じゃなくガチだろうなあ。
六姫は庶子とはいえ先夫は元助の孫にあたる一門で支藩藩主実弟だから
池田との格の兼ね合いも込みで考えると滝川とそれなりに繋がりがなければ
再婚は認めなかったと思われ。

386人間七七四年2016/02/14(日) 22:15:56.67ID:GvpFTwSD
今年の大河は出番が多いなw

387人間七七四年2016/02/15(月) 13:05:08.02ID:2CaSMDce
69 : 風吹けば名無し@転載禁止2016/02/15(月) 10:17:56.40 ID:fGccl6YN0
本能寺の変時の滝川一益
一益「上野衆はワイらが負けた後はすぐに北条に降るんやで」
一益「上野の人質はここで返す。もし、それでもワイと一緒に行動したいんなら最後までワイが面倒みるで」
一益「もし、我らが北条に負けたら城は空城になるからその前に元の領主に返すから安心せーや」
一益「もし道中に我らが討ち取られてもしゃーないんで別に恨まんで」
一益「みんな頑張って生きろや」

こう言い残して自分の直臣の手勢4千で北条2万にぶち当たって相手を渡河不能にさせてから
ダッシュで伊勢へ逃げてった


これってマジ?お人好しすぎるだろ

388人間七七四年2016/02/21(日) 19:16:38.37ID:Igk8uyHe
>>386

出番は多いんだが、ぱっとしない。

巨人軍の黄金期に例えると末次みたいなもんか。

389人間七七四年2016/02/22(月) 01:38:43.91ID:E7gJPwHl
一益と昌幸の策が両方ボロボロだったという
今までに無い不思議ストーリーだった。

390人間七七四年2016/02/22(月) 04:45:09.10ID:VnX/cPRw
>>384
でも池田家譜を書いたのが岡山藩士の滝川の子孫だったりするからな。
ところで岡山藩と鳥取藩というのは、家譜の作成の時、当然
すり合わせをやっているのだろうな。鳥取藩の家譜は書いてあることが
違ったりしないだろうな。

391人間七七四年2016/02/22(月) 06:20:19.75ID:HD2JAPBs
>>389

両者リングアウトだ

392人間七七四年2016/06/13(月) 23:46:08.22ID:Ej2x/fSw
>>390
「池田家」の部分は凡そ合致してるけどすりあわせたかは微妙
あと両藩の藩祖輝政の生母善応院の件で池田家と善応院の実家荒尾家で
相違があるから(信長弟の信勝寡婦か否かをめぐるアレ)藩祖生母ですら
これだからそのあたりも加味して注意してみる必要はあると思われ

393人間七七四年2017/04/10(月) 00:27:15.74ID:kliBoiFW
>>387
凄すぎるなwww

394人間七七四年2017/06/27(火) 13:03:29.81ID:hsd6m11d
早く隠居したいと愚痴ったりとか領地はいらん茶器をくれのエピソードから
何だかあまり野心のなさそうな人という印象があるんだが実際はどうだったんだろう

395人間七七四年2017/06/27(火) 18:55:07.80ID:NrkGufvG
自分でも驚くほど出世して責任重大な任務を任されまくるとは思ってもみなかったんだろうと予想
野心を抱く暇もないまま年を重ね、簡単には隠居できない身分になっていて
その上領地までもらった日にはそれこそもっと重大な責任を背負わされる
責任感が強い人だからこそ気疲れも激しく、面倒事を増やしたくなかったのではと思う

茶器は本当に欲しかったんだろうなとも思うw

396人間七七四年2017/06/29(木) 11:52:12.05ID:CKdflh6v
滝川は信忠付けって時点で相当な能力だし、信頼度もずば抜けてたやろなぁ

397人間七七四年2017/07/01(土) 21:48:51.20ID:ZtH2rZ/J
籠城戦には強かったようだが。

398人間七七四年2017/07/02(日) 20:58:13.76ID:QBysXWLn
なんで三国峠で栗林に負けたの?

399名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!2017/10/22(日) 10:48:45.76ID:qhmMdzp2
単純な理由では
山での攻め戦は難しい

400人間七七四年2017/10/28(土) 08:15:56.62ID:1GJYxa1s
司馬遼太郎曰く、滝川は、何の取り柄もない男

401藤壮司2017/10/28(土) 08:30:13.86ID:GOn5On5E
滝川一益は、信長のワル友達やろ
気の知れた友達だというだけで、十分、信長には
役に立っているやん

402人間七七四年2017/10/28(土) 08:39:02.70ID:vhdDb93H
気が知れただけ、な
後は、何の取り柄もない

403藤壮司2017/10/28(土) 08:41:13.02ID:M46In4j6
じゃあ、取り柄がないでいい

404人間七七四年2017/10/28(土) 12:35:17.99ID:GA2iWLlv
取り柄はなくても無能でもない

世の中のほとんどの人はほぼ無能
ただ組織でのストレスに堪えるのが仕事
これが今の社会学、経営組織学の基本的な考え方

能力があって仕事を得ている人、収入を得ている人は全体の3パーセントに満たないと言われている

405人間七七四年2017/10/28(土) 13:53:24.35ID:ZsaTPhPx
海音寺潮五郎には高く評価されて、司馬遼太郎には低く評価されていたのか?

406人間七七四年2017/10/28(土) 13:57:43.92ID:Yd1luCbh
シバリョに嫌われてたとはちょっと意外かも
お気に入りの明智光秀と微妙にキャラが被るからか?

407人間七七四年2017/10/28(土) 16:31:18.86ID:4ZapSmJC
水軍の活用にも長じていた滝川一益を
なぜ信長は関東の内陸部に派遣したのか?

408人間七七四年2017/10/30(月) 16:43:16.04ID:GCm4z86J
司馬の小説とかでは評価されてない・・・事もないぞ?
主演にはなってないけど、端々では活躍はちゃんと書かれてる。
そもそも、滝川って主人公向けじゃないだろ。

409人間七七四年2017/11/18(土) 19:52:11.66ID:8GkUfAi8
信長の死亡が無かったら一益は北条攻略成功してたと思う?

410人間七七四年2017/11/20(月) 11:24:03.17ID:ewYKLWad
対毛利攻略が先に終わり、予定通り四国出兵
四国攻略の援護を中国地方の秀吉に任せて信長、信忠の直轄兵をどこに向けるか次第だろうな

謙信死後の対上杉は防衛から攻勢に転じている
内部の調略も比較的順調
一気に滅ぼすのは難しいにしても少しずつ押し込めているから直轄兵向けるなら北条攻略だろう

家康の処遇が少し難しくなるタイミングでもあるし信長は甲斐辺りまで出張って北条攻略の後詰めやりつつ、徳川ハメにいくかもな

411人間七七四年2017/11/21(火) 20:06:43.67ID:X1Ggymrj
どちらにしても滝川一手じゃ無理だよな。
滝川の兵力って1万5千位だろ?

412人間七七四年2018/02/11(日) 23:15:04.01ID:yKj9jV35
秀吉の伊勢侵攻の時、兵力ナンボぐらいなんやろ?
関盛信追い出して得た分入れても1万が限度くらい?

413人間七七四年2018/02/12(月) 00:58:52.17ID:K45DkQUW
周辺の土豪の動向がよく分からんがみんな滝川に付いてやっと1万いくかいかないかじゃないか?

秀吉方についたり静観したのもいただろうからせいぜい7〜8000ではなかろうか

414人間七七四年2018/02/21(水) 00:22:36.90ID:3c3uyQ5s
たしか秀吉は滝川牽制に2万程伊勢に残したんよな
他に信雄信包らもいてこれは幾ら何でも警戒しすぎなような

415人間七七四年2018/03/05(月) 23:22:34.84ID:OCBI9Va0
秀吉からしたら兵力的には優勢だけど三方面作戦&のぶかつ

416人間七七四年2018/03/05(月) 23:26:25.02ID:OCBI9Va0
秀吉からしたら兵力的には優勢だけど三方面作戦&信雄アテにならん
対柴田は城砦揃えてるし多少兵力割いてでも滝川を封じ込めたかったんだろな
信孝は経験値無いし稲葉や森勢いるから積極的攻勢出てこれないしで

417人間七七四年2018/03/06(火) 06:26:47.19ID:CQ/1WyQD
>>416

> 信孝は経験値無いし

この人、合戦の経験はそこそこあるわけだが。

418人間七七四年2018/03/10(土) 22:13:04.44ID:xVtY9uy8
退くも滝川、進むも滝川

419人間七七四年2018/03/11(日) 00:08:39.24ID:hFPicuA7
今も子孫は滝川名乗ってるの?
もしくは瀧川か
名前は一が入ってる?

420人間七七四年2018/05/21(月) 01:42:23.54ID:Wg4lP/9k
>>417
所詮猿には遠く及ばんし何より領国がなあ
元々伊勢に出向が勝手知らない美濃領国になり西美濃に東美濃に森家と自立心高い輩を束ねなきゃならんかったのはデメリットだろうな
まだ尾張が領国なら侵攻もされにくいし滝川と連動して猿に対抗しやすかったんだろうがな

421人間七七四年2018/05/27(日) 04:09:56.23ID:ZLr2fcgC
☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と生活保護
を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
の導入は必須です。月額約70000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。♪♪

422人間七七四年2018/09/09(日) 19:18:59.10ID:cdF8T47H
保守

423人間七七四年2018/10/01(月) 15:05:55.61ID:UYrCr1ic
美濃攻めから包囲網破綻までの十数年間、織田の急所だった北伊勢を守りながら東国との外交をやりつつ調略三昧。
その実績からノッブに「関東を任せられるのはお前だけ」と泣き付かれる。
神流川以降は大局的勝利には無縁だが秀吉・家康ら相手を一時ながら手玉に取ってる。
晩年は再度東国との外交に活躍。
他の織田家の著名な家臣が五大老なったり画になる最後になる中では地味だけどガチ名将だろう。
それに親族の慈徳院がノッブの側室だし、一門衆に近い位置だったかもと空想してしまう。

424人間七七四年2018/10/01(月) 19:39:09.01ID:MXOQQ6zB
五大老になった織田家の著名な家臣なんて居たっけ?

425人間七七四年2018/10/02(火) 23:24:31.01ID:1V0NWKQr
>>424
前田さん

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