武田信玄は毛利元就に比べるとたいした事ない

1人間七七四年2013/08/21(水) NY:AN:NY.ANID:UPJIbGRK
雑魚しかいない信濃で村上に2回も負け、関東でも北条に大敗する雑魚上杉領や
織田や徳川に大敗し弱体化しきった今川領を棚ボタ泥棒しただけなのが信玄。
大内・尼子など全国クラスの強豪を、安芸一国人の地位から倒した元就とは比べものにならないね


寡兵で大軍を蹴散らす戦を多くやってのけた島津や毛利と違い、格下の村上に2回も大敗した雑魚w

2人間七七四年2013/08/21(水) NY:AN:NY.ANID:nXxluaqE
武田厨の自慢する信玄の戦果の実像w

小田井原の戦い1547年 信玄27歳 
武田軍4000 山内上杉軍3000
関八州古戦録のねつ造

塩尻峠の戦い 1548年 信玄28歳
大勝利は甲陽軍艦のねつ造

〜 25年間の空白w〜

三方ヶ原の戦い1573年 信玄54歳
武田軍 2万7千 徳川・織田1万1千
戦力差は2.5倍 勝って当然


寡兵の敵に負けまくりの武田信玄の無様な戦歴w

上田原の戦い 

武田軍8000 VS 村上軍5000
武田軍死者700〜1200 村上軍死者 300
(板垣信方、甘利虎泰討死 信玄負傷)


野々宮の戦い

武田5000 VS 小笠原1000 
武田軍死者 300

砥石崩れ 

武田軍7000 VS 村上軍 2500
武田軍死者1000〜5000  村上軍死者 193
(横田備中討死)


第四回川中島合戦

武田20000  VS 上杉13000
上杉軍の死者3400 負傷者6000
武田軍の死者4600、負傷者13000
(武田信繁、諸角虎定、山本勘助討死)

三増峠の戦い
武田20000  VS 北条6000〜7000
被害不明
(浅利信種討死)

犀ヶ崖の戦い
武田27000 VS 徳川軍 100
武田軍 死者数百

3人間七七四年2013/08/21(水) NY:AN:NY.ANID:nXxluaqE
寡兵で大軍を破った戦い一覧 ver03 (信玄、謙信は無しw)

島津の木崎原 耳川 沖田畷 四川
龍造寺の今山 
毛利の有田 郡山攻囲戦 厳島
宗滴の加賀一向一揆戦
信長の稲生、桶狭間、天王寺
村上の上田原 砥石
武田信虎の 対福島戦
伊勢長島の第一次第二次防衛戦
北条の河越
里見の三船山

4人間七七四年2013/08/21(水) NY:AN:NY.ANID:nXxluaqE
領土拡張率ランキング


         家督相続年  相続時勢力圏  最大勢力圏  勢力拡大率
1織田信長    1551年     4万石    800万石      200倍
2毛利元就    1523年    2万石  180万石      90倍  
3長宗我部元親  1560年    2万石    80万石      40倍
4三好長慶    1532年?    10万石     200万石       20倍
5島津義久    1566年    15万石      180万石     12倍
6尼子経久    1478年   10万石     70万石       7倍
7北条氏康    1541年    45万石     180万石       4倍
8武田信玄    1541年    26万石      90万石       3倍
9上杉謙信    1548年    45万石   90万石       2倍
10伊達政宗    1584年    45万石    80万石     2倍

5人間七七四年2013/08/21(水) NY:AN:NY.ANID:etUVoURW
執拗かつ偏執的ストーカー気質で信玄叩く目的のみで、
次々と工作糞スレを乱立させて板を荒らすキチガイ織田厨。
当然、一次史料による根拠もなく、著しい偏りのある捏造歪曲コピペを貼っただけで、
早朝から議論にすら値しないクソレスを連投させただけであった。
まずは織田厨の猿自慰レスではなく、
一次史料を根拠にしたレスでやり直ししてください。
浅はかに毛利厨を装おって工作したところで、今までの工作キチガイ癖が見事に露呈していて織田厨であることがバレバレです。
好い加減、荒らし行為に自覚を持って迷惑を反省してください。

6人間七七四年2013/08/21(水) NY:AN:NY.ANID:0CV5d0an
織田厨許せんな 謀反で死ぬべき

7人間七七四年2013/08/21(水) NY:AN:NY.ANID:CMESRUXs
織田在日のやつ、武田厨を装ったり、徳川厨を装ってアンチ秀吉行為を行ったり・・・
今度は毛利厨を装って武田と秀吉叩きを開始か。。。。

こいつは真性の超キチガイですわ。

8人間七七四年2013/08/21(水) NY:AN:NY.ANID:nBfA9QF3
また迷惑顧みず糞スレ立てまくり荒らし回る汚物信長厨…

9人間七七四年2013/08/21(水) NY:AN:NY.ANID:Wf8b83Id
で、この糞スレを立てたカス織田厨はどう責任取るわけ?

10人間七七四年2013/08/21(水) NY:AN:NY.ANID:VWZ4B6n0
元就と比べたら信玄も可哀想だわな

11人間七七四年2013/08/22(木) NY:AN:NY.ANID:2UBfxvow
>>10
はっ?具体的に一次史料を根拠に書いてくれよwww
陶と一緒に大内義隆を裏切り、
陶が劣勢と見るや陶の背後を襲う信義のかけらもない元就w
尼子晴久にボロ負けするだけでなく、大友に連敗しまくりの元就如きカスは敵じゃねぇよ。

12人間七七四年2013/08/22(木) NY:AN:NY.ANID:7F/lknXW
戦国板から三戦板へ移転した小早川隆景VS直江兼続スレでの
一方的な毛利側の大敗する未来しか見えないな。
ただこのスレが立てられた趣旨と違って、
毛利厨を装う織田厨が立てた工作スレという性格を認識しないとならない。
駄スレ乱立させてて各板を荒らす織田厨はスレ立て制限されればいいのにな。

13人間七七四年2013/08/22(木) NY:AN:NY.ANID:/xHlmDHj
大内尼子といった当時最強クラスの大名を打ち滅ぼした元就に比べりゃ雑魚イジメしかしてない信玄なんてカスみたいなもんだなw

14人間七七四年2013/08/22(木) NY:AN:NY.ANID:7F/lknXW
織田厨が必死に武田厨と毛利厨の対立を煽る工作w
しかも指摘されたそばから一次史料による根拠がやっぱり存在せずw完全に思いつきレベルww

15人間七七四年2013/08/23(金) NY:AN:NY.ANID:aVTHiJ7y
そもそもさ毛利は江戸期に関ヶ原の失敗のおかげで改革に着手し始めただけで
この時期の毛利って所詮中国地方の中小豪族の集合体の頭に毛利一族が
乗っかってるだけに過ぎないんだよね。
だからあの大元就でさえ九州進出には全く大友に歯が立ってないし
両川でさえ播磨以東だと全く精彩を欠く。
一つ一つの局地戦は勝っても全く戦略的な動きが出来ていなかった。
これは毛利の構造上の問題でまして大阪以東の関ヶ原で毛利軍がまともに
機能するわけないって言うのが家康の思惑でしょ。
まあ計算通りと言うか。テルや広家が馬鹿だったとかそういう問題ではなくて
あんなん元就本人ですらどうしようもなかったと思うんだけど。

16人間七七四年2013/08/25(日) NY:AN:NY.ANID:xRKR7rGL
毛利は大内や尼子など自分の100倍くらいの勢力を滅ぼしたチート大名だからな。
信玄・謙信なんて元就や両川に比べればゴミ

17人間七七四年2013/08/25(日) NY:AN:NY.ANID:Ch/oK/rv
>>16
具体的なことは一切書けないアホ織田チョンwww
はやく信玄よりすごいところを一次史料を根拠に語ってみろよwww
はやく議論しようぜwww
毛利がすごいように見えるのは軍記講談の世界だけだからなw
看羊録で毛利は朝鮮人と似ているとか、
関ヶ原の戦い前夜では朝鮮人の参謀達がまわりを補佐してると書かれるほどだから、
織田チョンが毛利を擁護し、秀吉や豊臣政権を貶す動機は充分だな。
関ヶ原の戦いスレでは必死に三成が全て悪いだけで輝元は被害者とか捏造史観をばら撒いてアホ丸出しw

18人間七七四年2013/08/25(日) NY:AN:NY.ANID:IMvZ5rX0
在日織田チョンがアンチ秀吉コピペ爆撃の批判を一切しない。
そのアンチ秀吉爆撃するヤツが、
subが過去に作った武田擁護テンプレのコピペ爆撃をしているが、
その時は爆撃終了と共に間髪入れずに「また武田厨のキチガイか」などとレスして
たとえ他板での出来事だったとしてもタイムレスにだがスレに報告されるなど
武田厨のフリをして暴れる→また織田厨が被害者かなどと言う自作自演連続コンボの様式美が存在。
しかもアンチ秀吉コピペは過去に類例なく、明らかに自分の作った内容のレス。
だがはそれに反論していたことがすでに判明済み。
また三河物語での志賀の陣での解釈を巡り、sabコピペと自分で作ったアンチ秀吉コピペで致命的な辻褄の破綻が露呈し
武田厨を装った織田厨の仕業とバレるや、戦国板での爆撃を速攻で止めて
ばれてないゲーム板では続行するなど、図星を突かれて対応してるのがバレバレ。

19人間七七四年2013/08/26(月) NY:AN:NY.ANID:Q6HieuGG
まあ実際成長率も最大石高も元就の方が圧倒的に上だしな
だがに「数字は嘘をつかない」という名言を送ろう

20人間七七四年2013/08/26(月) NY:AN:NY.ANID:Bk9rC33o
>>19
あーぁ根拠がまったく語れず
いま思いついたレベルのレスしか書けない可哀想な織田ちゅうw

21人間七七四年2013/08/26(月) NY:AN:NY.ANID:Q6HieuGG
だがには数字が理解出来ないらしい

22人間七七四年2013/08/26(月) NY:AN:NY.ANID:Bk9rC33o
他力本願や相手の自滅など棚からボタ持ちで領地が増えたところでw

23人間七七四年2013/08/26(月) NY:AN:NY.ANID:Q6HieuGG
抜け目のなかった元就とニブチンの信玄との差だなそれは
謙信があれだけ四方で戦えまくったのも信玄がニブチンだからだし

24人間七七四年2013/08/26(月) NY:AN:NY.ANID:Bk9rC33o
>>23
>>抜け目のなかった元就
例えば?一次史料の根拠つけて箇条書きしてくれ。
一緒に議論していこう。

25人間七七四年2013/08/26(月) NY:AN:NY.ANID:Q6HieuGG
だがは自分で言ったことも忘れるらしい

26人間七七四年2013/08/26(月) NY:AN:NY.ANID:IG5jvuCv
織田厨ってやっぱり揺るぎない糞だよね。
結局、根拠ない悪口中傷しか書けない無知なのを毎回晒すだけだし。

27人間七七四年2013/08/27(火) NY:AN:NY.ANID:MLOzhSQv
>>24
うむ。それには拙者も興味ある。
ぜひ織田厨から高説を賜ろう。
はよ書け!

28人間七七四年2013/08/27(火) NY:AN:NY.ANID:S/dEMkSj
だから>>22でだが自身が言っているじゃん
抜け目ないというのはそういうこと
動かざること山の如しの信玄にはまあ無理だな
今川攻めの準備に何年もかかっているようではねえ

29人間七七四年2013/08/27(火) NY:AN:NY.ANID:3mYqfNIT
はっ?
それはすべて受動的な出来事の結果であり、
主体的、主導的な抜け目ない行動の証明には一切なってねぇだろアホか。

30人間七七四年2013/08/27(火) NY:AN:NY.ANID:S/dEMkSj
相手の隙をつくから抜け目ないというのだよ
在日のだがには日本語は理解出来ないみたいだな

31人間七七四年2013/08/27(火) NY:AN:NY.ANID:LHGGyUFn
相手の隙を付いたって言う一次史料まだ?

32人間七七四年2013/08/27(火) NY:AN:NY.ANID:S/dEMkSj
自分の言ったことも理解出来ないだがであった

33人間七七四年2013/08/27(火) NY:AN:NY.ANID:qnGvOEg3
自分の強さを過信して嫡男を廃してまで前線に立ち続けた信玄
早い段階で嫡男を失うも嫡孫のことを気にかけまくった元就
直系が早くに途絶え幕末では影も形もなかった武田
直系を維持したまま新政府の中心勢力になった毛利

34人間七七四年2013/08/28(水) NY:AN:NY.ANID:pndvRBAn
一人でオダチューオダチュー言ってて悲しくならないのがだがの凄いところだと思うんだよ
よく何年もできるもんだなと感心してくるレベル
最近は最初にはっ?ってつけないと自尊心を保てなくなってきたみたいだけど

35人間七七四年2013/08/28(水) NY:AN:NY.ANID:pmCyQR1m
>>33
自分の強さを過信していたとする一次史料は?
嫡孫を気にかけたも何も輝元がヘタレ依存症で引退しようとすると泣きついてきただけだがw
信玄死去10年後まで責任もてるかよw
廃藩置県知らないのかよw
>>34
一人でだがだがレッテルを貼って連呼するゴミ織田厨w

36人間七七四年2013/08/28(水) NY:AN:NY.ANID:fk3tB9Qo
だがチョンぶりぶりw

37人間七七四年2013/08/28(水) NY:AN:NY.ANID:PUzTuKUw
連呼リアン織田厨また泣かされてるのか

38人間七七四年2013/08/28(水) NY:AN:NY.ANID:qpUNR0L+
歴史ゲーム板
毛利を語ろう
秀吉擁護 ID:OLS/uK1H
アンチ秀吉 ID:7zgWFRNP

39人間七七四年2013/08/28(水) NY:AN:NY.ANID:a0MWfe+D
だーがだーがだがアスペの子♪

40人間七七四年2013/08/28(水) NY:AN:NY.ANID:xRgaA55N
相変わらずレッテル張りしかできねぇな この連呼リアン

41人間七七四年2013/08/28(水) NY:AN:NY.ANID:fk3tB9Qo
なんとか流行らせようと必死のだがチョンであった

42人間七七四年2013/08/28(水) NY:AN:NY.ANID:RN47r+XX
アンチ秀吉爆撃コピペ基地外は武田厨のフリをする織田ちゅう

43人間七七四年2013/08/29(木) NY:AN:NY.ANID:njMGWuI+
織田厨で検索されないように織田ちゅうって改変せんでもええんやで

44人間七七四年2013/08/29(木) NY:AN:NY.ANID:6fX2UzPy
>>33
強さとかじゃなくて単なる権力ボケだよ信玄の場合
親父を追放し息子をも殺したという前代未聞のことをやったことからも信玄が如何に権力に執着していたかがわかる

45人間七七四年2013/08/29(木) NY:AN:NY.ANID:uVMYXPds
>>44
親父追放は甲斐国の民意だろうが、だから信玄死後に甲斐に戻ろうとしたら
壮絶な拒否を受けて高遠から先へ行くの断念してんじゃん。
信玄の意思なら、信玄死んだら甲斐に戻れるはずだろうがw
だいたい信玄は息子を殺してない。家康が信康を殺したことと混同してて馬鹿すぎ。

46人間七七四年2013/08/29(木) NY:AN:NY.ANID:uVMYXPds
結局、毛利についてほとんど何も知らん織田厨が武田貶しのためにこのスレを作ったのがバレたな。
アホだからすぐ馬脚を出す織田厨l。

47人間七七四年2013/08/29(木) NY:AN:NY.ANID:6fX2UzPy
>>45
信虎追放が民意だったという一次ソースを出してくれるかな?だがよ

48人間七七四年2013/08/29(木) NY:AN:NY.ANID:uVMYXPds
権臣重臣たちによる晴信を御輿に担いでの悪人信虎の追放(妙法寺記)
此年六月十四日武田太夫様(晴信)親ノ信虎ヲ駿河ヘ押シ越シ申シ候。余リニ悪行ヲ成サレ候間、
カヨウニメサレ候。サルホドニ地下、侍、出家、男女共ニ喜ビ満足候コト限リナシ。

勝山記を読めばいかに甲斐が貧しく連年の災害に苦しんでいたかわかるんだが。
それを信玄が領内開発と法治による信賞必罰で見違えるような国にしたんだよな。
信虎は在京守護として、ほとんど京にいて公家たちと交際したり旅行行ったりで甲斐の財を湯水のように使うわ、
甲斐にたまにしか帰らないから、甲斐国人は統制されず、やりたい放題。
越後では守護の上杉房定が在京守護を止めて越後支配に乗り出し、検地をやって守護代や国人の横領を取り締まったりしているが、
信虎にはそんな意識もなく、たまに甲斐に帰国するや戦マニアの顔を出して戦乱三昧にして甲斐を荒廃させた。


信虎平生悪逆無道ナリ。国中ノ人民牛馬畜類共ニ愁悩セリ(塩山向嶽禅庵小年代記)

「奉公衆が他国に逃げるような事態をひきおこすようでは、守護の地位を保つことはできないだろう」
武田研究で有名な上野晴朗氏
「天文5年以来の家臣団の離反が根にあり、義元と同盟したことで、北条氏をより強く敵に回したことで、
北条と今川の友好関係が破れた。
このような関係は武田家臣団の喜ばぬところであり、
対隣国関係の政策上で信虎と家臣団は二つに意見が割れた」

信虎のワンマン独断専行的態度に対する家臣団の不満と過酷な収奪による農民の疲弊。
これは道三や信長とも共通した性格であろう。 一方、信秀は類い稀なる器用の人と賞賛され、その才覚で人心を得た。
信秀評 備後殿はとりわけ器用で仁を持つ方で諸家中のよき者と知れ渡っていた。
信長評 大欝気(おおうつけ)と言う言葉以外の言葉が見つからないほど。

織田厨の捏造歪曲の実例
信玄の外征で破綻したので「世の中一向悪くなる」と書いてあるよなw
はい、これ自然災害が多発していた晴信初期の国情を書いている部分であり
完全に織田厨の歪曲で、その後の晴信の内政治水の努力により、毎年災害多発の甲斐から災害記録がなくなってしまうのが史実です。
そして甲斐では妙法寺記に「世間が富貴になった、先代にはなかったことだ」と賞賛され
数百年にわたって神として尊崇された 長野在住の学者も身近で信玄を悪く言う人がいないことに驚いているくらい
本当にまあ、そうやって織田の所業を武田におしつけて印象操作すれば騙せると思う、
姑息なゴミニートの印象操作はいい加減にしとけやゴミ 武田には徳役という税制があった。
これは有徳銭とも呼ばれ、富裕層にだけ税を追加で取るもの。 これを当時は悪政と言っていたが、
これらが河川改修などの災害防止にあてられていた。 逆に北条などは富裕層である高利貸しを優遇して
借金苦で家族を質に入れて流されてるケースが多発してる。

49人間七七四年2013/08/29(木) NY:AN:NY.ANID:6fX2UzPy
>>48
妄想コピペは却下
早くソースをうぷしろ

50人間七七四年2013/08/29(木) NY:AN:NY.ANID:uVMYXPds
※文章抜けてた。下記追加

信長文書研究で有名だった奥野高広氏の信虎評
「奉公衆が他国に逃げるような事態をひきおこすようでは、守護の地位を保つことはできないだろう

51人間七七四年2013/08/29(木) NY:AN:NY.ANID:uVMYXPds
>>49
妙法寺記
塩山向嶽禅庵小年代記
奥野高広氏
上野晴朗氏
これで充分だろw

52人間七七四年2013/08/29(木) NY:AN:NY.ANID:6fX2UzPy
だから画像出せよ

53人間七七四年2013/08/29(木) NY:AN:NY.ANID:6fX2UzPy
>>51
あとそこに出ているのは信虎追放からかなりあとになって書かれたものだから一次ソースではないな
だが理論に則ればね

54人間七七四年2013/08/29(木) NY:AN:NY.ANID:/er+1p6d
まーた意味不明なことを言い出してるw
日記は一次史料なのにwww
涙目織田厨顔面蒼白火病必死乙wwwwwww

55人間七七四年2013/08/29(木) NY:AN:NY.ANID:6fX2UzPy
原本が存在していない以上日記ではない

56人間七七四年2013/08/29(木) NY:AN:NY.ANID:uVMYXPds
>>55
原本ない=日記でない!?
そんなアホな主張してるのは糞キチガイ織田厨だけwww

57人間七七四年2013/08/29(木) NY:AN:NY.ANID:njMGWuI+
信虎が悪逆だったから信玄はいい君主だという謎理論

58人間七七四年2013/08/30(金) NY:AN:NY.ANID:SyUaVhIQ
まあ、殷の紂王と同じだね。
信玄が外に侵略出来たのも信虎が統一していてくれたおかげだからなぁ。
才能的には信虎と信玄で大差ないように思う。

59人間七七四年2013/08/30(金) NY:AN:NY.ANID:SvCpssgt
>>57>>58無知の織田厨の歴史妄想コリエイトwww


甲斐国は武田の支配した国中 
小山田が支配した郡内 
穴山の支配した河内 
でほぼ三分されてる(少し国中が大きい程度) 
この両者は独自に外交権を有して戦国領主として対等な立場にあったが、 
天文末期に武田による介入が進み、介入からさらに国衆存続のための武田による保護へ変質した。 
これは信玄による法整備と公正な裁判によるところが大きい。 
たとえば郡内での領民の裁判などで、小山田一族の暴虐の裁きはまったく進まず 
訴訟を信玄の元へ訴え、それを信玄が裁き、小山田の妨害を排したりと 
介入し、さらに穴山などは信玄の発給文書様式と特徴を学ぶことで、 
武田へ従属し領内権力基盤を安定させる方向性へ志向したのである。4 
つまり天文末期の晴信時代に武田氏はその内治裁判の先進的整備を通じて甲斐国での民意の支持を得て 
国衆への介入と知識提供を通じて、甲斐国の統一権力への進化と臣従を進めていき、 
その内治による国力伸張を背景に他の国衆を凌駕し、武田による安全保障体制を構築提供するに至った。 

しかも国中には専横重臣ばかりで晴信政権はその家臣団によって擁立された。 
これは斉藤道三や長尾為景などと同様に一国の主の資格なしとして否定されたおとと同様である。 

>>286 
>>平和な甲斐に生まれる 
どこが平和だよw甲斐国は実質、武田、穴山。、小山田の三国の合同政権で 
しかも武田の支配していた地域は専横家臣だらけ。 
結局、その専横家臣団によって武田の集権化を進め統合しようとした信虎はくにを追放され 
専横家臣団に都合が良い傀儡として信玄が擁立されただけ。 
>>信玄に無条件で忠義を尽くしてくれる 
そうではなく、専横家臣団の意向で信玄が当主に祭り上げられてたくらい武田当主なんて誰もやりたがらない傀儡守護職。 
それは戦国時代に大半の守護が家臣による下克上で滅んでいることでもわかる。 
>>信玄にやりたいように政治ができる 
>>287のように信玄の国の整備と経営の努力によって指導力を発揮していったことを周りが認めていった結果だ。 
国人たちによる合議政権だから信玄の意見だけで勝手なことができるわけねーだろ。 
>>父親が、自分で身を引いて信玄に全権譲渡 
そんなことどこにも書いてない。お前の妄想。 

60人間七七四年2013/08/30(金) NY:AN:NY.ANID:zSE9PRwc
織田ちゅう涙目大敗走を繰り返して池沼だな。
この話題だって過去に何度も繰り返して蒸し返しては論破されてるじゃん。
どんどん織田ちゅう論破テンプレを完璧にされていくだけなのにw

61人間七七四年2013/08/30(金) NY:AN:NY.ANID:Hrgn5XJl
織田厨のクソバカなところは、
信玄を貶す時に、例えば信虎は次男を可愛がっていたとか
しばしば甲陽軍鑑出典のネタを持ち出すことだな。
なにも知らねーでwikiを見て玄人ぶって書いてるの丸わかりで笑えるw

62人間七七四年2013/08/31(土) NY:AN:NY.ANID:FoDfsSxL

63人間七七四年2013/09/05(木) 22:06:40.76ID:o9Pkk1nV
毛利元就ってスレタイには書いていたが

やはり信玄厨は織田信長に重度のコンプレックスがあるんだろうなw
信長なんか関係ないだろうに
大内、畠山、今川が落ち目になった真空状態で戦争屋揃いの信州、坂東で遊んだ田舎者と、
空白の上方に突っ込んだ坊ちゃまくらいの違いしかないだろ

64人間七七四年2013/09/06(金) 01:56:03.64ID:wtjLBCh+
最初は5万石以下の地方城主だったからな、元就
左に大内義興、右に尼子経久と、強敵に囲まれてるし

65人間七七四年2013/09/06(金) 12:24:34.48ID:0I0DS03P
>>63
スレを立てたのが織田厨であるお前だろwwww
織田厨が武田コンプレックスから作ったスレでのたまうアホwww

66人間七七四年2013/09/06(金) 17:34:17.06ID:F21tRkir
なんでも日帝のせいにする朝鮮人みたいな奴・・・

67人間七七四年2013/09/06(金) 17:52:59.54ID:0I0DS03P
>>66
はいはい、
島津に比べたら、武田・上杉なんて雑魚だよなスレもお前が立てたんだろうがw
織田厨は所詮、毛利にしても島津にしてもコーエー武将ファイル程度の知識しかねーから
結局、武田貶しのレスしか書き込みできないんだからバレバレじゃんwww
違うというなら、SABの過去レス盗用コピペじゃなくて、
純粋に自分で考えた毛利や島津に関する、信玄より優れている点を箇条書きしてみろよwwww無理だけどなwww

68人間七七四年2013/09/06(金) 18:40:46.30ID:Fu2ge2xl
×みたい
○そのもの

69人間七七四年2013/09/06(金) 21:55:46.32ID:eLZgMx6i
織田厨はゲーム歴史板の住人でもあるから、
思考回路がゲーム脳丸出しで非現実的なあほ

70人間七七四年2013/09/08(日) 11:29:28.04ID:QrcZu6Bs
>>38
そのスレをログ速で読んでみたが、反日の何でもかんでも
悉く秀吉を徹底的に無能だと捏造歪曲しまくる鬼気迫る狂いっぷりは怖いな。。。
反日勢力の工作による歴史コリエイトはいろんな板に飛び火してるし、
やつらはそれが職業だからどんなに長い時間でも書き込みし続けるよな。
とりあえず、秀吉擁護派に援軍レスを書いておくか。

などと秀吉は書いていて秀次を大垣に派遣した目的を
池田家中が怒って騒いでいる元凶である秀次の失策で恒興親子を死なせた償いとして、
秀次を罪人同様に縄目の恥をかかせたのでうれしく思ってくださいと書いている。
ちなみに岡山大学付属図書館では秀次への縄かかりを兄弟への罪滅ぼしとしてさせることと訳している。
この書状からも秀吉の作戦の失敗というよりも秀次の判断ミスであるのは明白。

これにもアンチ秀吉のヤツがケチをつけているようだから下記の文章をテンプレに入れて欲しいところだな。
東京史料編纂所の所属だった染谷氏の訳は「兄弟からその失態によって縄で縛られることでしょう」と訳している。


つかそもそも秀吉は小田原城を干してから会津へ向かう宣言してるのに兵糧不足なわけがなかろうwww辻褄があわねぇwww
前年10月に長束へ蔵入米20万石を清水へ廻送するように命じ、さらに金一万枚で伊勢・尾張・三河・駿河で商品米を買い上げを命じ
2月末に加藤・九鬼・脇坂の水軍が山中城のある伊豆の目と鼻の先の清水湊

これにもアンチ秀吉のヤツがケチをつけているようだから下記の文章をテンプレに入れて欲しいところだな。
4/13の秀吉→おねの侍女である五さ宛て書状(形式的なもので実際はおね宛)でも
「各々へ申し触れて大名どもに女房を呼び寄せ小田原へ来るように申し触れた。
このように長陣を申し付けたそれゆえ淀殿を呼ぶのでお前の方からもしっかり申し付けてくれ」
「小田原城に坂東八国の者どもが籠ってますが、干殺して奥州まで〜行く末までも、天下の御ために
良いようにするつもりですから、今回は手柄を奮い長陣をして、兵糧や金銀も出してのちに名前が残るようにする」
このように小田原城には八カ国の兵が集まって篭城してるし、
秀吉は大名の妻まで呼び寄せて長陣するほど戦況も余裕だったし兵糧もふんだんにあった。

71人間七七四年2013/09/08(日) 11:51:03.27ID:QrcZu6Bs
ここに例のアンチ秀吉の反日キチガイがいたのか。
レスするところを間違えちゃったなぁ。
歴史ゲーム板の毛利を語ろうスレをログ速で読んで
秀吉擁護 ID:OLS/uK1Hとお前であるアンチ秀吉 ID:7zgWFRNPを読ませてもらったよ。
相変わらずキチガイだねぇ。下記のレスをしたからよろしく。

そのスレをログ速で読んでみたが、反日の何でもかんでも
悉く秀吉を徹底的に無能だと捏造歪曲しまくる鬼気迫る狂いっぷりは怖いな。。。
反日勢力の工作による歴史コリエイトはいろんな板に飛び火してるし、
やつらはそれが職業だからどんなに長い時間でも書き込みし続けるよな。
とりあえず、秀吉擁護派に援軍レスを書いておくか。

などと秀吉は書いていて秀次を大垣に派遣した目的を
池田家中が怒って騒いでいる元凶である秀次の失策で恒興親子を死なせた償いとして、
秀次を罪人同様に縄目の恥をかかせたのでうれしく思ってくださいと書いている。
ちなみに岡山大学付属図書館では秀次への縄かかりを兄弟への罪滅ぼしとしてさせることと訳している。
この書状からも秀吉の作戦の失敗というよりも秀次の判断ミスであるのは明白。

これにもアンチ秀吉のヤツがケチをつけているようだから下記の文章をテンプレに入れて欲しいところだな。
東京史料編纂所の所属だった染谷氏の訳は「兄弟からその失態によって縄で縛られることでしょう」と訳している。


つかそもそも秀吉は小田原城を干してから会津へ向かう宣言してるのに兵糧不足なわけがなかろうwww辻褄があわねぇwww
前年10月に長束へ蔵入米20万石を清水へ廻送するように命じ、さらに金一万枚で伊勢・尾張・三河・駿河で商品米を買い上げを命じ
2月末に加藤・九鬼・脇坂の水軍が山中城のある伊豆の目と鼻の先の清水湊

これにもアンチ秀吉のヤツがケチをつけているようだから下記の文章をテンプレに入れて欲しいところだな。
4/13の秀吉→おねの侍女である五さ宛て書状(形式的なもので実際はおね宛)でも
「各々へ申し触れて大名どもに女房を呼び寄せ小田原へ来るように申し触れた。
このように長陣を申し付けたそれゆえ淀殿を呼ぶのでお前の方からもしっかり申し付けてくれ」
「小田原城に坂東八国の者どもが籠ってますが、干殺して奥州まで〜行く末までも、天下の御ために
良いようにするつもりですから、今回は手柄を奮い長陣をして、兵糧や金銀も出してのちに名前が残るようにする」
このように小田原城には八カ国の兵が集まって篭城してるし、
秀吉は大名の妻まで呼び寄せて長陣するほど戦況も余裕だったし兵糧もふんだんにあった。

72人間七七四年2013/09/08(日) 19:17:30.34ID:1b7qLv27
>>天正12年4/11 秀吉→養徳院(信長乳母で池田恒興の母)孫七郎(秀次)参らせ候 そこ元下々騒ぎ候わんと存じ、御城(大垣城)の留守居に遣わし参らせ候
>>孫七郎めも、命助かり候も、せめて三左衛兄弟(輝政・長吉兄弟)の為に(首に)縄かかりにて候と、御うれしく思い参らせ候
>>などと秀吉は書いていて秀次を大垣に派遣した目的を池田家中が怒って騒いでいる元凶である秀次の失策で恒興親子を死なせた償いとして、
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる

秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。

>>166
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ

>>秀次を罪人同様に縄目の恥をかかせたのでうれしく思ってくださいと書いている。
秀次は縄目の恥なんて書いてねーよボケ

73人間七七四年2013/09/08(日) 19:19:21.03ID:1b7qLv27
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるという
かなり縦長の陣容だったがこの時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。柏井にいる一柳宛書状に
『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる。しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに軍事的才能がなさすぎる。敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としか
いいようがない。池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
あらしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
>>秀吉は書いていて秀次を大垣に派遣した目的を池田家中が怒って騒いでいる元凶である秀次の失策で恒興親子を死なせた償いとして、
>>秀次を罪人同様に縄目の恥をかかせたのでうれしく思ってくださいと書いている。
秀吉が自分の戦術ミスで徳川方に大敗したのを池田家からの非難を恐れて無理矢理秀次に押し付けてるだけじゃねぇかアホ
秀吉が池田隊や秀次隊に無謀な行軍中入りを命じたのは>>509のように明らかだろうがタコ
秀吉が自分の作戦失敗を部下になすりつけるのは滝川の蟹江合戦の時とかいつもの事だしな(蟹江から眼前の大垣にいながら滝川を見捨てた)
>>ちなみに岡山大学付属図書館では秀次への縄かかりを兄弟への罪滅ぼしとしてさせることと訳している。
>>この書状からも秀吉の作戦の失敗というよりも秀次の判断ミスであるのは明白。
秀次は実際には縄かかりにはなってないし陣立書や書状から、美濃大垣に入り8/19に犬山8/27に楽田とちゃんと後詰部隊として動いてる
>>つかそもそも秀吉は小田原城を干してから会津へ向かう宣言してるのに兵糧不足なわけがなかろうwww辻褄があわねぇ
小田原で現地調達するつもりか、後からさらに届けさせようとしたんじゃね
>>前年10月に長束へ蔵入米20万石を清水へ廻送するように命じ、さらに金一万枚で伊勢・尾張・三河・駿河で商品米を買い上げを命じ
>>2月末に加藤・九鬼・脇坂の水軍が山中城のある伊豆の目と鼻の先の清水湊
山中城守備の松田康長の3/21付け書状の「敵陣中は兵糧不足で山芋を掘って食べており、米一升が鐚銭100文もしてるが、
それも底を尽き雑炊一椀が10文になっていおり長陣は無理」の書状があるな

>>4/13の秀吉→おねの侍女である五さ宛て書状でも「各々へ申し触れて大名どもに女房を呼び寄せ
>>小田原へ来るように申し触れた。このように長陣を申し付けたそれゆえ淀殿を呼ぶのでお前の方からもしっかり申し付けてくれ」
>>「小田原城に坂東八国の者どもが籠ってますが、干殺して奥州まで〜行く末まで天下の御ため
>>良いようにするつもり 今回は手柄を奮い長陣をして、兵糧や金銀も出してのちに名前が残るように
秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない

74人間七七四年2013/09/08(日) 19:20:30.27ID:1b7qLv27
>4/13の秀吉→おねの侍「各々へ申し触れて大名どもに女房を呼び寄せ小田原へ来るように申し触れた。
>このように長陣を申し付けたそれゆえ淀殿を呼ぶのでお前の方からもしっかり申し付けてくれ」
むしろ長陣覚悟で、長期戦を想定してたんだからいかに小田原征伐が苦戦だったかがわかるだろ。実際忍城1000小田原1000
韮山500などに手も足も出てないし一柳・前田重臣・堀尾嫡男・平岩弟・依田が戦死し氏家も負傷。
小牧長久手の時の茶会とかと同じで秀吉は苦戦しまくってもパフォーマンスで一夜城作ったり茶会やったりして中身のないパフォーマンスやったり
苦戦しまくってても隠蔽して楽勝みたいに捏造しまくるのはいつもの事だからな
6月の時と同じでガチンコで東駒野・戸木・松の木・二重堀・河波など砦みたいな小城郡を全く落とせず
苦戦しまくっていた雑魚秀吉お得意の中身のないパフォーマンスだろ。11月の時だって全く勝利の糸口がつかめず
諦めて大阪に納馬しようとしてたら信雄のヘタレ降伏に助けられただけだし
本願寺顕如に和睦斡旋してもらってやっと和睦にこぎつけただけだしそれなのに秀吉は9月に信雄が種種懇望してきたが断ってやったとか大嘘吐きまくってるし
小牧長久手時も秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてるが大嘘で信雄のヘタレ降伏による
秀吉のウルトラスーパーラッキーパンチでの停戦(秀吉の勝利でもなんでもない)まで2か月も経ってるな。
大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。
しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため
苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
>>「小田原城に坂東八国の者どもが籠ってますが、干殺して奥州まで〜行く末までも、天下の御ために
>>良いようにするつもりですから、今回は手柄を奮い長陣をして、兵糧や金銀も出してのちに名前が残るようにする」
むしろ米20万石&金1万両を容易しながら、わざわざその後に兵糧や金をふんだんに出してなどと書いてるんだから、
金や兵糧を出さないといけないような状態だったって事だろ。豊臣方は那須記や榊原書状によれば50万もいたようだし
20万石も容易させながら3か月程度でなくなりかけてたんだから。
>>このように小田原城には八カ国の兵が集まって篭城してるし、
集まってねーよアホ。豊臣作成の北条家人数覚書や関東八州諸城人数覚書から小田原には1000しかいなかったとわかるし
兵力を集中してた下総や北武蔵・上野の拠点を家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが落としてくれたおかげで
秀吉ははっきりいって何もやってない。
そんな雑魚諸城攻防で20〜80倍もの兵力で攻め込んで落とせず大苦戦し一柳・堀尾嫡男・前田重臣など多数戦死し
4か月だってもガチンコで落とせず徳川や伊達に見捨てられてただでさえ抗戦・和議で割れていて乏しかった
戦意が0になったおかげで助かっただけなのが秀吉
豊臣軍は北条以外全て味方で、しかも北条からは会戦開始早々皆川ら下野勢が寝返ったりしてるし
豊臣にぜめられた山中城や本拠小田原も内通者がいた上に氏勝は逃亡。
松田・笠原など重臣まで篭絡されてる有様だったし別に実力で負けたわけじゃない。

あと小田原城は落ちていない。ただ自軍の味方がいない状況で抗戦しても無駄だと判断して開城しただけで、
兵糧物資がなくなってるわけでも豊臣方に内部まで侵攻されたわけでもないしただ圧倒的大軍に攻囲されて反抗を諦めただけ
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる

>>秀吉は大名の妻まで呼び寄せて長陣するほど戦況も余裕だったし兵糧もふんだんにあった。
秀吉が苦戦しまくっててもハッタリパフォーマンスするのは小牧長久手の茶会とか見りゃ一目瞭然だし確か高松城攻囲のときとかもやってるはず。
逆に妻まで呼び寄せて戦意高揚させないと危うい戦況だったとも解釈できるな。兵糧どうこうは上記の理由で不足が確認されるし
小田原市史の久保田氏もちゃんと書いてる。

75人間七七四年2013/09/09(月) 09:20:18.03ID:Me1oaqYT
アンチ秀吉の基地外織田朝鮮人は、
不利になるとすぐコピペ爆撃荒らしに走るから分かりやすい。

76人間七七四年2013/09/09(月) 12:15:38.94ID:QaPK4+QS
そりゃあ、あれだけ完全に秀吉に信雄が包囲され王手に至ってんだから
その状況になるまで、なすすべなく傍観していた家康が悪いに決まってるだろ。
そして当初は家康と石川だけが人質を出す条件だったのに、結局酒井まで人質を出す羽目になる。
家康単独で秀吉に敵うわけもなく、家康には従うしか選択はないのが現実。
あとは信雄を間に挟んで条件闘争をするしかない。
>>秀吉の納馬の先が大阪ではなく縄生
伊木、池田・荒尾どころか土蔵や11/18利家にまで秀吉は語ってんじゃんよ完全にに周知の事実だw
そもそも11/6に実際に加藤嘉明に縄尾(縄生)・桑部の両所に譜請を申しつけてる。
だいたい南伊勢戦線は戸木城が兵糧尽き、東美濃戦線でも圧倒的有利に秀吉が展開してたし、
上杉も信濃戦線に参加したから木曽をはじめ離反大会になりつつあり家康の信濃戦線はもはや崩壊前夜じゃねぇかw

そもそも秀吉がまじかに陣を構築して家康を小牧に押し込めてる状態じゃんよ(4/10付書状)
しかも北国勢も合流予定と圧倒的戦力差を秀吉は見せ付けてる。
顕如上人貝塚御座所日記でも敗軍したが、「秀吉の覚悟が堅固なのでやがてもちかためられ」
などと書いていて秀吉がまったく動揺せずに将帥としての威厳で纏めてしまったために
家康は勝利の戦果の拡大に失敗してる(勝利に酔い上洛の言葉まで家康は出して策もなく無為に過ごす・・・)
しかも顕如は1万余り討死の報は間違いで、のちに3000討死とわかったと訂正を入れてる。
(兼見卿日記4/13に尾州表から注進があり9日に秀吉敗戦したとのこと。
しかし追って注進があり秀吉在所も問題ないとのことで京都での騒動も終わったと書いてある)
(つか関が原の戦いで両軍併せて17万〜20万が投入された際の戦死者ですら6000〜8000なのに非現実的すぎるわwww)
4/13付けでも細川配下の松井も池田らの戦死ごときでは「此表御よわみにもならない」と書いてるし、
稲葉も「討たれたものの、はたもとのささわりには少しもならない」と楽観してる。
それどころか同時期には秀長や筒井勢によって伊勢の松か島城が降伏して伊勢でさらに劣勢になってるのが家康と信雄。
秀次敗戦でもまったく秀吉陣営の圧倒的優勢ぶりに変化はない。
秀次を秀吉は若輩者と呼んでるし、秀吉本軍との綿密な連絡をせずに
無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは非難されて当然だろう。
(4/11付で岩崎城攻め大勝利のところ、即、岡崎面へ深々に相動いたので勝利を失ったと敗戦理由を書いてる)

77人間七七四年2013/09/09(月) 12:16:46.90ID:QaPK4+QS
天正12年4/11 秀吉→養徳院(信長乳母で池田恒興の母)
孫七郎(秀次)参らせ候 そこ元下々騒ぎ候わんと存じ、御城(大垣城)の留守居に遣わし参らせ候
孫七郎めも、命助かり候も、せめて三左衛兄弟(輝政・長吉兄弟)の為に(首に)縄かかりにて候と、御うれしく思い参らせ候
などと秀吉は書いていて秀次を大垣に派遣した目的を
池田家中が怒って騒いでいる元凶である秀次の失策で恒興親子を死なせた償いとして、
秀次を罪人同様に縄目の恥をかかせたのでうれしく思ってくださいと書いている。
ちなみに岡山大学付属図書館では秀次への縄かかりを兄弟への罪滅ぼしとしてさせることと訳している。
東京史料編纂所の所属だった染谷氏の訳は「兄弟からその失態によって縄で縛られることでしょう」と訳している。
この書状からも秀吉の作戦の失敗というよりも秀次の判断ミスであるのは明白で、
池田家中を納得させるためには敗戦を呼び込んだ秀次に対するケジメが必要だった。
5/2に秀吉は犬山を加藤光泰、羽黒を山内一豊、楽田から春日井郡の戦線を掘秀政に、尾口西南を稲葉に委任して
2万を置いて納馬し帰っていったのに、それでも手が出せないほど劣勢なのが家康・信雄。
秀吉が帰る理由も5/2の隆景書状には小牧山要害に家康らが籠もって出てこないから無為に過ごすのも無駄なので
2万置いて帰り、秋に再度手立てに及ぶと書いてあり、秀吉が秋からの軍事行動で決着をつけるスケジュールなのがわかる。
しかも信雄・家康軍は香曽我部に15000討ち取ったと捏造戦果を書いて長宗我部の畿内出陣を願ってるほど追い詰められてる。
酒井忠次に至っては2万討ち取りなどと吹聴している始末で、超誇張戦果吹聴で騙して味方を増やそうと必死な情報操作w
5/5には加賀野井城が攻められ、松ノ木城では外構えを放棄して本城籠城するように命じるなど
信雄・家康勢は圧されっぱなしで、5/6に加賀野井城を落とされ(池田の弔い合戦と秀吉は言ってる)
続いて竹鼻城が包囲されてるが信雄・家康は援軍の口だけ約束でヘタレぶりを晒してるだけ。
秀吉ははやく加賀野井城に後詰めに来ないかな〜叩き潰してやるのにwと余裕ぶり。
5/7になっても香曽我部に池田らを討ち取り1万討ち取ったから(前回は15000と書いてたのにw)
はやく摂津・播磨へ討ち出るように言っていて、かなり家康・信雄勢が追い詰められて
戦局を逆転するには長宗我部が毛利・宇喜多らに襲われるのを無視して
秀吉の背後を襲ってくれることしか道が見えないことが判明する。
5/14にも長宗我部に援軍を哀願し、5/24には包囲された竹鼻城への後詰めに関して
北条から援軍が来たら秀吉を敗北させるからなどと家康はついに白昼夢の夢物語を語り始める始末。。。
6/2には竹鼻城の注進は虚偽に違いない(水攻めのこと?)、松ノ木城は本城が小さいから援軍出さないなどと豹変するし。
6/3には竹鼻城は降伏していいと言って完全に打つ手なし。この戦況により信雄の本拠地長島城攻略が視野に入ることになる。
この圧勝ぶりから秀吉は6/4に佐竹に書状を書いてる。
そして秀吉は住吉屋宗ニや山上宗ニや津田宗及を招き美濃墨俣で茶会を開いて豪遊。

78人間七七四年2013/09/09(月) 12:23:27.36ID:VWYUXZzC
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太

また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ

79人間七七四年2013/09/09(月) 12:24:00.77ID:6vSJ8Ak7
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉の下記のようなデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな

80人間七七四年2013/09/09(月) 12:24:34.39ID:C9Fl6eJ1
むしろそのくらいじゃないと説明つかないわな
何せこの後は8倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
    →伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる

上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから

81人間七七四年2013/09/09(月) 12:25:42.43ID:Fva4hGXS
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々
これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした

つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから
家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと

顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人 4/10家康書状一万人 4/11家康書状一万人 4/13北条氏政・氏直書状1万人 5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人 5/7織田信純書状一万人 家忠日記1万五千余り 顕如日記1万人余り イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人 当代記2万人 池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる 3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ

京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから

82人間七七四年2013/09/09(月) 12:26:25.45ID:Fva4hGXS
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じる
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12秀吉→八重羽・富田・津田 木造の城がいまだ落ちず小島と相談して砦を4つ設けるよう指示
田丸・榊原・小島に申し付けるよう指示したので相談するように指示
4/12秀吉→榊原・小島・田丸 木造の砦は2箇所は小島、一箇所は田丸、一回書は榊原が申し付けるよう指示
各自相談し城中の者を一人も逃さないよう普請を堅固に申し付ける事を指示
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが敵に数多手負い死人が出た
4/23信雄→吉村 今尾口へ秀吉方兵力が出撃してきた旨を了承 吉村へ必ず加勢を申し付ける旨を伝える
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
信雄→吉村 秀吉が其の表(松ノ木)出兵してきたため信雄より加勢を使わす事を約束。伊勢方面の事を申し付けるため
本日(5/3)信雄が小牧より長島へ帰った事を伝える
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/5 信雄→吉村 松ノ木の加勢と防衛について詳細に命じる
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である

83人間七七四年2013/09/09(月) 12:27:50.44ID:ZeJXE0cq
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々
これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
>>いかに家康らが不利な状況だったかがわかる
>>必死な政略的宣伝工作かがわかる。
なら佐竹その他書状でデタラメハッタリ誇大喧伝まで書き入れまくってる秀吉はめちゃめちゃ不利な状況だったってことだな
顕如日記の数はただ秀吉が敗北をひたかくしにしたから
異常に少なく見積もられてるだけだろ
実際諸大名あてに大した事はないだのなんだのいいつくろってたしな
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした
つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから
家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと
顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
>>実際、一万討死なんて非現実的過ぎるアホな数字だよな。いかに家康らが不利な状況だったかがわかる 必死な政略的宣伝工作かがわかる。
>>しかも不必要なまでにしつこく長期間にわたり吹聴して同盟諸将に繰り返し書き送って決起を呼びかけ秀吉の背後を襲うように言ってるからな。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
>>当時の家康は長宗我部が秀吉の背後を突いてくれないと八方塞りで敗北必死だったから誇張宣伝を繰り返して長宗我部に決起を促していた。
>>しかし長宗我部は逆に秀吉の要請で毛利の侵攻が開始される始末。
>>そうなると家康は北条が援軍に来るなんて非現実的なことを言って
>>友軍の離反を繋ぎ止めてるが、もちろん秀吉は佐竹を使って北条を牽制してるし
>>新発田との争いを止めさせた上杉も参戦してきたから家康は完全に追い詰められてた。
圧倒的大軍がありながらわずか8分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
秀吉は佐竹や毛利にデタラメばかり書いて必死に友軍離反をつなぎとめる事に必死だったのが「わかる」

84人間七七四年2013/09/09(月) 12:29:14.06ID:ZeJXE0cq
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉の下記のようなデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな

尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定w
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないw
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは2人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるしそれ以外のやつもほとんど織田信雄分限帳で生きてるのがわかるのにwww
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね。なぜ今更付け城の話を????
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記・織田信雄分限帳など)
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)w→いやはやこれは笑うしかないw3月上旬に留守居兵ろくにいなく、陥落した犬山を4月ってw
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→2人を除いて生き残ってる

尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分w これが本当なら防衛どころじゃないw
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンwギャグがすぎるだろwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るw
9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しい?
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
9月時点での懇望を断ったのに11月では容認 明らかにデタラメ

85人間七七四年2013/09/09(月) 12:30:07.06ID:cXYyUb2B
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じる
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12秀吉→八重羽・富田・津田 木造の城がいまだ落ちず小島と相談して砦を4つ設けるよう指示
田丸・榊原・小島に申し付けるよう指示したので相談するように指示
4/12秀吉→榊原・小島・田丸 木造の砦は2箇所は小島、一箇所は田丸、一回書は榊原が申し付けるよう指示
各自相談し城中の者を一人も逃さないよう普請を堅固に申し付ける事を指示
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが敵に数多手負い死人が出た
4/23信雄→吉村 今尾口へ秀吉方兵力が出撃してきた旨を了承 吉村へ必ず加勢を申し付ける旨を伝える
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
信雄→吉村 秀吉が其の表(松ノ木)出兵してきたため信雄より加勢を使わす事を約束。伊勢方面の事を申し付けるため
本日(5/3)信雄が小牧より長島へ帰った事を伝える
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/5 信雄→吉村 松ノ木の加勢と防衛について詳細に命じる
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である

86人間七七四年2013/09/09(月) 12:30:41.18ID:VWYUXZzC
むしろそのくらいじゃないと説明つかないわな
何せこの後は8倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
    →伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる

上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから

87人間七七四年2013/09/09(月) 12:31:23.84ID:6vSJ8Ak7
>>実際、一万討死なんて非現実的過ぎるアホな数字だよな。いかに家康らが不利な状況だったかがわかる必死な政略的宣伝工作かがわかる。
>>しかも不必要なまでにしつこく長期間にわたり吹聴して同盟諸将に繰り返し書き送って決起を呼びかけ秀吉の背後を襲うように言ってるからな。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと

88人間七七四年2013/09/09(月) 12:31:55.05ID:C9Fl6eJ1
>>徳川・織田連合軍は秀吉によってどんどん領地を奪われていき
>>空手形の発行をする始末だからねぇ。
尾張の木曽川筋をチョコっと攻め取っただけでガンガンとか言われても
>>三河の竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために
>>在地社会が激しく荒廃し疲弊したと記しており
会戦当初から徳政連発と貧国のために窮困状態
小牧長久手の戦いの時はむしろ大方の兵力は北条の変心と上杉の信濃出兵のため残されており
さらに夏には少ない兵力の半分を返している家忠日記当代記
>>当時の家康は長宗我部が秀吉の背後を突いてくれないと
>>八方塞りで敗北必死だったから誇張宣伝を繰り返して長宗我部に決起を促していた。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
>>そうなると家康は北条が援軍に来るなんて非現実的なことを言って友軍の離反を繋ぎ止めてるが、
秀吉は佐竹や毛利にデタラメばかり書いて必死に友軍離反をつなぎとめる事に必死だったのが「わかる」
>>20万人が戦った関が原の戦いですら旧日本軍参謀本部が日本戦史・関原役において討死数を
>>8000人としているわけだし。
全く違う戦いあげて根拠にするとか意味不明
ただ逃散兵が多かっただけだろ
>>一次史料である9月20日付の近衛前久書状では4,000〜5,000人としている。
>>顕如日記の3000討死ってのが現実的だろうね。
顕如日記は秀吉の過小歪曲フィルターがかかった捏造情報があとからもとらされただけ
>>家康の策源地である三河からして完全に崩壊してるのが現実だし。
>>三河渥美郡にある常光寺の日記4/17には本拠地三河の渥美まで秀吉が派遣した100隻の軍船で襲撃されてるなど
織田徳川羽柴の書状にも見られないような局地戦と家康も無視している状況あげられて三河
が崩壊とか馬鹿ですか? むしろこの戦いでも攻略失敗なんだから秀吉の負け
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして 圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々 これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
>>いかに家康らが不利な状況だったかがわかる 必死な政略的宣伝工作かがわかる。
なら佐竹その他書状でデタラメハッタリ誇大喧伝まで書き入れまくってる秀吉はめちゃめちゃ不利な状況だったってことだな
顕如日記の数はただ秀吉が敗北をひたかくしにしたから 異常に少なく見積もられてるだけだろ
実際諸大名あてに大した事はないだのなんだのいいつくろってたしな 長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした
つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから 家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと
顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない。アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと。顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる

89人間七七四年2013/09/09(月) 12:33:13.55ID:Mz4JMcP3
小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
信雄は伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる。完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉

90人間七七四年2013/09/09(月) 12:34:37.50ID:Mz4JMcP3
>>潰そうと思いさえすれば徳川にしろ毛利にしろ簡単に潰すことは出来た
史実で上月防衛戦の熊見川で3000人戦死の大敗・徳川どころか織田家で最も無能な信雄相手に敵の8倍の135000の大軍で挑みかかって
1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北し
結局寝返りだらけで崩壊状態の信雄領国を尾張半国すら自力で切り取れなかったのに潰すことができたとか寝ぼけてんじゃねぇよボォケwwww
>>家康が北条のように上洛して臣従することを拒んでいたら間違いなく滅ぼされていただろう
史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない

享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実
>>家康を倒すことが主目標ではない
お前は>>481-487のまともによめねー馬鹿だな
>> 家康は局地戦ではいくつか戦術的勝利をしたが、
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
>>その後秀吉軍に尾張の加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城を落とされても後詰めすら出来ない
なんで自軍の8倍もある135000の豊臣軍が、家康の地理不案内な、しかも木曽川挟んだ川に挟まれたデルタ地帯に不用意に飛び込んで
秀吉が佐竹や木曽などにあてて『必家康後巻可仕儀にて候間』 (毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛
と秀吉の思惑通り無謀に寡兵で飛び込まないと腰抜けになるんだタコw
秀吉の方が本陣の目前で蟹江前田下市場長久保などが攻められてるにもかかわらず雑魚信雄にビビリまくって味方を見捨ててよっぽど腰抜けだろうがクズw
>>その後、伊賀、伊勢は連戦連敗でほとんど占領されてしまい
お前は時系列を何もわかってねぇな。伊賀は2月〜3月初旬段階でさっさと抗戦することなく秀吉に降っているし
伊勢は三月の攻防のみ。 神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉

>>結局、信雄は伊賀と伊勢の半国を割譲して秀吉の主人という立場から臣下になり
割譲なんてしてねぇよクズw秀吉が端から棚ボタ的に留守居泥棒した所がそのまま秀吉方占領地として残っただけだろうがタコ
>>その後の家康の臣従は、信長ばりに妹を家康にくれてやったのになかなか上洛して臣従しようとしないので
>>家康を滅ぼすため、上杉や前田等の諸大名に出陣の準備を命じたら
時系列の誤り乙。家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる)

91人間七七四年2013/09/09(月) 12:35:44.38ID:Mz4JMcP3
>>そもそも秀吉がまじかに陣を構築して家康を小牧に押し込めてる状態じゃんよ(4/10付書状)
そんな状況で全く攻められず攻めたら大敗したのが秀吉
>>顕如上人貝塚御座所日記でも敗軍したが、「秀吉の覚悟が堅固なのでやがてもちかためられ」
>>などと書いていて秀吉がまったく動揺せずに将帥としての威厳で纏めてしまったために
覚悟が堅固とか言ってる割に急いで楽田修築やら砦普請で防衛ガチガチに固めて
思いっきり持久戦体制に入ってる。圧倒的兵力差がありながら。それほど負けが痛かった証拠
顕如がいたのは思いっきり秀吉領国だから秀吉に都合いい捏造のフィルターで歪曲された情報が入っただけだろ
>>家康は勝利の戦果の拡大に失敗してる(勝利に酔い上洛の言葉まで家康は出して策もなく無為に過ごす・・・)
そんなもん我彼の圧倒的戦力差ってだけだろなんせ兵力比7倍くらいだからな
>>しかも顕如は1万余り討死の報は間違いで、のちに3000討死とわかったと訂正を入れてる。
>>(兼見卿日記4/13に尾州表から注進があり9日に秀吉敗戦したとのこと。
>>しかし追って注進があり秀吉在所も問題ないとのことで京都での騒動も終わったと書いてある)
なぜ最初の注進が間違いで後の沙汰(噂(堀氏訳は噂であって注進ではない))が本当なのか不明
しかもこれ以外の史料はこぞって戦死者1万人多くて2万としてるし
秀吉側に都合いい情報ばかり捏造して書かれるイエズス会年報や日本史などでも1万
また秀吉同盟者の小早川書状でも1万。そもそも家康は身内にあてた手紙でも1万といってるわけで
3000等と歪曲して書かれてるのは顕如日記のみ
>>4/13付けでも細川配下の松井も池田らの戦死ごときでは「此表御よわみにもならない」と書いてるし、
そんなもん弱気な言葉書く馬鹿がいるかアホw士気にかかわるだろうが
>>稲葉も「討たれたものの、はたもとのささわりには少しもならない」と楽観してる。
そら13万もいればそのうち1万死んでもまだ圧倒的優勢な兵力に変わりないってだけだろ
秀吉は9/23羽柴秀吉訓戒書で木下兄弟戦死残りの連中の討ち死にが大変迷惑だと書いている
外聞迷惑、於秀吉非可失面目儀候間、手討に可致候と秀次に怒りをぶつけており
自分の失態を秀次になすりつけているが(滝川の蟹江合戦も同じ)それだけ敗戦の精神的実質的損害は大きかったという事
>>それどころか同時期には秀長や筒井勢によって伊勢の松か島城が降伏して伊勢でさらに劣勢になってるのが家康と信雄。
松ヶ島は三月に崩壊した伊勢戦線の続きで長久手合戦と直接の関係も糞もないのに何が「それどころか」だ
神戸田丸信包関など地元諸将の帰参と家康の尾張転進で楽に蹂躙できただけの続きの戦だろうがw
>>秀次敗戦でもまったく秀吉陣営の圧倒的優勢ぶりに変化はない。
兵力比の差ってだけだろ
>>秀次を秀吉は若輩者と呼んでるし、秀吉本軍との綿密な連絡をせずに
>>無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは非難されて当然だろう。
>>(4/11付で岩崎城攻め大勝利のところ、即、岡崎面へ深々に相動いたので勝利を失ったと敗戦理由を書いてる)
深々は別に非難のニュアンスはない。家康も長州我部あてに深々と働く事肝要とか言ってる
あと深々と働いた「ので」敗戦したとは書いていない。深々と働き敗戦したとは書いてる。因果関係を直接文中に見出す接続詞はない
4/8秀吉→丹羽長秀  池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる

92人間七七四年2013/09/09(月) 12:36:42.28ID:Mz4JMcP3
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるという
かなり縦長の陣容だったがこの時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。柏井にいる一柳宛書状に
『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる。しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに軍事的才能がなさすぎる。敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としか
いいようがない。池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
あらしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
>>5/2に秀吉は犬山を加藤光泰、羽黒を山内一豊、楽田から春日井郡の戦線を掘秀政に、尾口西南を稲葉に委任して
>>2万を置いて納馬し帰っていったのに、それでも手が出せないほど劣勢なのが家康・信雄。
は?楽田から敗走して加賀野井・竹鼻攻撃に移ってるのに何が納馬なんだ?馬鹿か?
>>秀吉が帰る理由も5/2の隆景書状には小牧山要害に家康らが籠もって出てこないから無為に過ごすのも無駄なので
>>2万置いて帰り、秋に再度手立てに及ぶと書いてあり、秀吉が秋からの軍事行動で決着をつけるスケジュールなのがわかる。
例のごとく信雄に大敗した話はひた隠しで都合いい情報しか書かれてないのが秀吉書状
正確には家康を攻めたら1万も損害だして圧倒的大軍があるけど自分じゃ戦闘がゴミカスレベルに弱すぎて攻められませんってのが正解。
家康は城から出てこないどころか蟹江合戦でも長久手合戦でもちゃんと動いている
>>しかも信雄・家康軍は香曽我部に15000討ち取ったと捏造戦果を書いて長宗我部の畿内出陣を願ってるほど追い詰められてる。
捏造戦果を書くことが追い込まれてる証拠なら秀吉は家康の百倍追い込まれてる証拠なのが佐竹その他宛書状でわかる
>>5/5には加賀野井城が攻められ、松ノ木城では外構えを放棄して本城籠城するように命じるなど
>>信雄・家康勢は圧されっぱなしで、5/6に加賀野井城を落とされ(池田の弔い合戦と秀吉は言ってる)
間宮らの反撃や蟹江の敗戦など含めると一進一退だろ。松ノ木や戸木も結局落ちなかったし
木曽川以西の家康が寡兵で後詰行動起こすには危険な地域を圧倒的大軍を使ってこれ見よがしに攻めてただけなのが秀吉
続いて竹鼻城が包囲されてるが信雄・家康は援軍の口だけ約束でヘタレぶりを晒してるだけ。
>>秀吉ははやく加賀野井城に後詰めに来ないかな〜叩き潰してやるのにwと余裕ぶり。
なぜ後詰誘引に失敗し二重堀でも大敗した秀吉が余裕なのか意味不明
>>5/7になっても香曽我部に池田らを討ち取り1万討ち取ったから(前回は15000と書いてたのにw)
>>はやく摂津・播磨へ討ち出るように言っていて、かなり家康・信雄勢が追い詰められて
戦闘では寡兵なら援軍なしに抗戦無理だろ。

93人間七七四年2013/09/09(月) 12:44:23.58ID:6vSJ8Ak7
>>5/14にも長宗我部に援軍を哀願し、5/24には包囲された竹鼻城への後詰めに関して北条から援軍が来たら
そりゃ圧倒的兵力が劣るから単独で後詰なんて無理だろ。楽田で留守居兵も残されてるんだし
>>6/2には竹鼻城の注進は虚偽に違いない(水攻めのこと?)、松ノ木城は本城が小さいから援軍出さないなどと豹変するし。
単に信雄の情報収集能力が劣っていたか兵力が集まらなかっただけだろ
>>この戦況により信雄の本拠地長島城攻略が視野に入ることになる。
長島なんて伊勢方面から攻め立てればいいだけだからはじめから視野に入ってるだろ
>>この圧勝ぶりから秀吉は6/4に佐竹に書状を書いてる。
圧勝ってただ家康がでてこれない木曽川流域わずか3城をこれみよがしに圧倒的大軍で攻めただけじゃん
蟹江敗戦・二重堀敗戦・松ノ木敗戦・戸木敗戦で完全に尾張方面の拡張は滞っているのに。
>>そして秀吉は住吉屋宗ニや山上宗ニや津田宗及を招き美濃墨俣で茶会を開いて豪遊。
小田原合戦の時と同じでただのパフォーマンスだろ
>>そして秀吉は滝川が勝手に行動してるのを無視して帰って行った。
滝川は秀吉の意思だろ。そもそも家臣なんだから勝手に行動するわけないし単独行動なら九鬼がついてくるわけないし
蟹江から秀吉陣の大垣なんて寸での距離だし谷口氏や愛知県史資料編も秀吉の敵地分断作戦
や尾張方面の攻撃の前哨戦と位置づけているし秀吉は三河方面攻撃計画を諸大名あてにつづってるし
長島も東西から攻撃可能になるし滝川退城で秀吉は三河方面攻撃を断念して延期してるし
>>お前の書いてることは家康擁護にはまったくなってないぞwいかに秀吉が戦略レベルで家康の動きを完全に封じてしまってるかを
>>よく知らしめることしか書いてないw 家康は長宗我部が秀吉の背後を襲ってくれない限り、戦局の打開への道がまったく見えてない。
戦略も糞もない。当初から7倍もの圧倒的兵力差&信雄領国寝返りの続出&家康徳政で困窮状態で戦ってたんだから
そんな半月で瞬殺できそうな状況で1年費やして自力では尾張半分すら切り取れず信雄のヘタレ具合に助けられただけなのが秀吉
>>しまいには北条の援軍がもうすぐ来るからなどと妄言で、味方を繋ぎ止めてる始末。
そら長宗我部が敵になったら大変だからそのくらいするわ
>>上杉相手にも苦戦して信濃諸将の離反を食い止めるのに必死の家康が
>>秀吉とまともに戦うなんてことは不可能で楽田に秀吉がいる時は小牧山で籠城。
秀吉のまともに戦えないような圧倒的兵力差で秀吉に1万もの圧倒的損害を与え1年一杯粘ったのが家康と信雄
>>伊勢に秀吉がやってきたら、清洲で引きこもるだけじゃん。
ゲームじゃあるまいし7倍ほどの圧倒的兵力差で戦えるわけないだろアホ
>>秀吉は秀長とニ軍で有機的結合した軍事作戦が展開できるが、信雄と家康は合同して一軍を形成して引きこもりしてるだけ。
んでそれが何がすごいの?兵力に圧倒的に恵まれながら苦戦しまくりって最高に雑魚だろ
>>一方の秀吉は開戦と同時に、今戦役の集結を見通している。
実際にその8か月後に終結した戦闘でいかに秀吉の見通しが楽観的なのかがわかる事だ
>>戦いは開始した時点である程度の終戦構想が見えてないと泥縄的になってしまう。
終戦構想を妄想していたがそれが現に妄想と化し信雄のヘタレという幸運に助けられただけなのが秀吉
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康が怖くて出てこれなかっただけ。大体20町ほどの至近距離で7倍もの圧倒的兵力差でまともに攻められない秀吉が
蟹江後詰なんかできるわけがない
>>これも一次史料にまったくない細川家の自称捏造。
家忠日記にあるし神子田がこの後名前がなくなるから史実
>>「其外軍兵一万余討死則敗軍、然共筑州覚悟堅固之故」の真横に「已後ノ沙汰ハ三千討死ト云々」って
長久手町史資料編には書いていない。しかも真横に書いてる時点で書き足しがミエミエ
>>噂レベルの話の場合は顕如日記には雑説と書くが、この文にはそんなことは書いてない。
沙汰を噂とアンチ家康の堀氏ですら訳している。注進などと妄想するのはお前だけ。
注進という時は注進と書かれているのが普通。家康書状信雄書状秀吉書状でもそう
>>違う場所へ転戦しただけだろw
どこに転進したのは史料をもって詳しく

94人間七七四年2013/09/09(月) 13:03:32.49ID:6vSJ8Ak7
>>などと秀吉は書いていて秀次を大垣に派遣した目的を池田家中が怒って騒いでいる元凶である秀次の失策で恒興親子を死なせた償い
秀吉が自分の無謀な敵地への放火・苅田・城攻め・諸城普請などを行いながらの遅い行軍で、徳川軍に気付かれ、秀次軍が奇襲食らって大敗し、しかも
徳川方の動きを把握していながらすぐに軍を出さなかったために負けた事を認識してなかっただけじゃん。
単純に別働隊の大将を秀次に命じてその別働隊が負けたから秀次のせいと無理矢理理由も考えず池田家からの非難を恐れて敗戦責任を押し付けてるだけだろ。
滝川の時も眼前で敢闘する滝川に対して家康にビビッて後詰も出さず負けたのを無理矢理滝川のせいにして押し付けるクズっぷりだからな。
>>秀次を大垣に派遣した目的を池田家中が怒って騒いでいる元凶である秀次の失策で恒興親子を死なせた償いとして、
>>秀次を罪人同様に縄目の恥をかかせたのでうれしく思ってくださいと書いている。
秀吉が自分の戦術ミスで徳川方に大敗したのを池田家からの非難を恐れて無理矢理秀次に押し付けてるだけじゃねぇかアホ
秀吉が池田隊や秀次隊に無謀な行軍中入りを命じたのは>>509のように明らかだろうがタコ
秀吉が自分の作戦失敗を部下になすりつけるのは滝川の蟹江合戦の時とかいつもの事だしな(蟹江から眼前の大垣にいながら滝川を見捨てた)
>>ちなみに岡山大学付属図書館では秀次への縄かかりを兄弟への罪滅ぼしとしてさせることと訳している。
>>この書状からも秀吉の作戦の失敗というよりも秀次の判断ミスであるのは明白。
秀次は実際には縄かかりにはなってないし陣立書や書状から、美濃大垣に入り
4/14秀吉→一柳・伊藤や4/16秀吉→一柳で美濃の青柳に派遣されてるし
8/19に犬山8/27に楽田とちゃんと後詰部隊として動いてる
>>この書状からも秀吉の作戦の失敗というより秀次の判断ミス
秀次は判断ミスなんてしてねーよアホ
秀吉の指令通り途中で築城城攻め苅田放火などを行いながら行軍してたから背後の備えが手薄になり徳川方に襲撃されただけだし
秀次軍の背後にさらに後背の警戒部隊を置くなり秀次とある程度離れてさらに2万か15000くらい中入りさせるなりすりゃいいだけだろうが。
敗戦当日早朝に秀吉はすでに徳川方の動き把握してたのが一柳宛書状でわかるが、すぐに軍を出さなかったために負けたし100%秀吉の戦術ミスだろうが。
わずか10町15町の距離にいる敵に対してしかけた軍事作戦が秀吉の失態じゃないなら秀吉の功責となる戦なんて一つもねーよクズ

95人間七七四年2013/09/09(月) 17:16:29.18ID:ASN97Z2I
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉の下記のようなデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな

尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定w
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないw
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは2人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるしそれ以外のやつもほとんど織田信雄分限帳で生きてるのがわかるのにwww
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね。なぜ今更付け城の話を????
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記・織田信雄分限帳など)
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)w→いやはやこれは笑うしかないw3月上旬に留守居兵ろくにいなく、陥落した犬山を4月ってw
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→2人を除いて生き残ってる

尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分w これが本当なら防衛どころじゃないw
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンwギャグがすぎるだろwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るw
9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しい?
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
9月時点での懇望を断ったのに11月では容認 明らかにデタラメ

96人間七七四年2013/09/09(月) 17:18:06.46ID:ASN97Z2I
>>さらに6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
>>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
この戦いは3/13の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3/22渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4/8の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる


7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰めと家康への討伐意思と行動が読み取れる

97人間七七四年2013/09/09(月) 17:19:18.72ID:ASN97Z2I
>>目論見も何も開戦当初の伊勢侵攻計画の規定路線を秀吉が冷静にやってるだけだよ。
>>たまたま池田が犬山城を奪取したから、冒険的に岡崎直撃をやる突発的な行動をして尾張東部へ攻め込んだだけ。
当初も糞も最初から最後まで徳川討伐と三河遠州への侵攻意思表明してるのにたまたまも糞もない
>>いやいや別に木曽流域に行く必要ないでしょ。秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
攻められてる地域無視してなぜ他の地域転進するのか意味不明。しかも楽田に留守居部隊2万も残されてるのに
>>長島城が危機的になり敗北確定になるまでなんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。
傍観というかそもそも1万足らずの兵力じゃ何もできんだろ
>>加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。
加賀野井を後詰したら危険な敵地&木曽川流域で秀吉の大軍に潰されてアボーン
>>その結果、竹鼻まで水攻めになる。竹鼻が救援できないのは完全に加賀の井を
失策も糞も最初からまともに会戦できる兵力差&状況じゃねーわアホ
>>7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
戸木城は敵地のど真中で敵占領地の奥深くに孤立した地域にあるのに海使わないと兵糧搬入
なんてムリなんだから風吹いたら搬入できるわけねえだろカス
>>5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。
兵力差が圧倒的なんだから当たり前
>>6月10日に竹鼻城が落ちてから(家忠日記)実際は6/8には話がまとまっていたので秀吉は墨俣で茶会やってる。
話がまとまってたなんて史料はない
>>6/28顕如書状で6/27の夜に秀吉が大坂へ帰り、次ぎの出陣日が談合で8/10となったと書いてるし
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と書いているが秀吉の蟹江合戦失敗により延期になり8月に持ち越される

98人間七七四年2013/09/09(月) 17:20:08.45ID:PWAUZz9w
>>この地域での秀吉の優勢を示す、
尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で 終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
>策の無い清洲で震えていた家康は彼らを支えることに失敗し、
震えていたなんて史料は存在しない
>>士気が崩壊した信雄軍
元々寝返りばかりで領国なんて困窮状態だがそんな信雄も自力では攻略できず
ヘタレ信雄の降伏に助けられただけなのが秀吉
>>秀吉の戦略通り
秀吉の戦略は一貫して三河方面の攻撃と家康討伐なので戦略でいえば大敗といえる
>>この戦いに秀吉はなんら関わってない滝川が独断で失敗してる
愛知県史資料編表題部や長久手町史通史編の谷口氏が領国分断作戦の一貫と書いてるし
秀吉がいたと思われる大垣と蟹江なんてすぐだし秀吉は滝川退城により三河侵攻を中断・延期してるから
三河方面への足がかりと容易に想像がつくしそもそも滝川は秀吉の同盟者でも何でもなく家臣なんだから独断での行動なら証明が必要
直接のソースはなくても上記のように秀吉の作戦なのは自明
>>(多聞院も蟹江城を滝川の調略でと書いてて、秀吉の戦略ではない)
その滝川の調略が本人の意思なのか秀吉の戦略なのかは別問題
>>当然のように危険極まりない行為をした
秀吉陣がいる尾張や美濃から蟹江なんて程近くなのに危険どころか大チャンスとしか言いようがない
>>16日夜に入城したものの18日には家康に即襲撃
その間に秀吉が後詰せずまた楽田方面からも軍勢出さなかったから負けただけ
そもそも滝川と九鬼って同盟者でも臣従関係でもないのに秀吉の意思がなかったら
九鬼が兵出すわけないだろ。伊勢の楠本に26日大阪に28日で其の前ずっと佐和山に
いたんだから位置的に余裕で後詰できたのにな 家康が怖くなって逃げ出しただけだろ
>>二重堀合戦はいつ?細川家記が5月朔日
細川家記の日付が間違ってるだけだろ。家忠日記に楽田筋へ働きどうこうって4/26にある
>>信雄が攻め寄せ木村や長谷川らと混戦になり神子田が戦わずして敗走したことが原因で羽柴方が追い崩され秀吉の不興に思い細川が奮闘して信雄勢を追い返したと細川家マンセー話を捏造し
神子田がいなくなったんだから史実だろ。三鬼氏もそう書いてるし

99人間七七四年2013/09/09(月) 17:21:08.47ID:PWAUZz9w
>>6月10日に竹鼻城が落ちてから(家忠日記)実際は6/8には話がまとまっていたので秀吉は墨俣で茶会やってる。
話がまとまってたなんて史料はない
>>6/28顕如書状で6/27の夜に秀吉が大坂へ帰り、次ぎの出陣日が談合で8/10となったと書いてるし
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と書いているが秀吉の蟹江合戦失敗により延期になり8月に持ち越される
>>7/5に秀吉は7/3に滝川親子が敗れたのを聞いたと書いてる。
蟹江から眼前の大垣近辺にいたのに滝川の軍事行動しらないわけねえだろアホ
>>さらに秀吉の8/11大坂出陣は9/2に和議の条件交渉に入り、攻撃中止されてる。
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
と書いていて秀吉の家康への敵意と討伐意思と行動がよみとれる。和議による条件交渉ではなく
普通に攻撃失敗して攻略できなかっただけ
>>城攻め攻防の成否がなんで醜態ぶりなんだ?戦略的影響もなく普通に秀吉圧勝して終わったじゃんよ。
そら信雄がたまたま秀吉の示威行動にビビッて和議結んだからなんとかなったってだけだろ
尾張半国すら切り取れないのに圧勝も糞もない
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけ。滝川が降伏したのは7/3でこれも単に秀吉が後詰にこず単独で抗戦不可になっただけの可能性高い
>>秀吉はその戦況を無視して帰ってる。竹鼻城を手に入れたからそこを南下する戦略で
三河方面への侵攻計画書状で書きまくってるのに信雄討伐以外視野に入っていないわけねーだろアホ
>>滝川なんて見捨ててるのが現実。なんせ6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで何の準備もないし
ようは家康が怖かっただけだろ。新たに楽田留守居部隊も追加されてるし
>>すぐ家康が駆けつけ虎口を奪ったのは家忠日記でわかる
そら眼前にいた秀吉から何の支援も得られなかったってだけだろ

100人間七七四年2013/09/09(月) 17:22:03.54ID:PWAUZz9w
>>さらに6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
>>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
この戦いは3/13の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3/22渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4/8の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる


7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰めと家康への討伐意思と行動が読み取れる

101人間七七四年2013/09/09(月) 17:24:10.30ID:ZeJXE0cq
豊臣家は徳川家に滅ぼされた。
徳川家は北条家に諏訪高島で潰走させられた。
秀吉は滝川に伊勢で蹴散らされまくった。
北条は滝川瞬殺した。
普通に史実の戦績で本多500>>>>>秀吉軍20000(小牧長久手時の後詰妨害の攻防)
織田徳川16000〜17000>>>>>>秀吉軍100000(決戦しかけたら1万人戦死の大敗)
滝川6000〜8000>>>>>>>秀吉軍60000(天正11年の伊勢の攻防、ゲリラ戦で苦しめられまくり7月まで篭城、柴田・信孝の降伏で勝ち目なく降っただけ)
だから滝川破った氏直は秀吉の20倍くらいの戦闘力はあるだろうな

事実小田原合戦で235000対34500の普通なら半月くらいで瞬殺されて終わりそうな兵力比で
一柳・堀尾嫡男・前田重臣が戦死するなど苦戦しまくり忍城1000や小田原1000に手も足もでなかったし

秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
氏直が2倍程度の兵力で瞬殺した滝川(6000そこそこ)に5〜6万で挑んでゲリラ戦で苦しめられ蹴散らされてたし

神流川の戦いはガチンコ決戦だね。
合戦の最中寝返りが出たとか講談にしかないデタラメだし
上野国衆勢はむしろ緒戦で敢闘して氏邦勢を撃退してる
本戦で氏直の偽退却戦術にかかって滝川軍18000のうち6000も戦死し重臣もことごとく死ぬなど
決定的に戦術で負けただけ。ようは実力で勝負がついただけの戦。
あと信長が死んでボロボロになったのではなく
元々弱くてボロボロになっただけ。
森なんか本能寺前ですら四面楚歌状態の上杉に長沼攻防で敗北してるし
信玄横死後、斉藤道三・義龍横死後でも
美濃信濃甲斐遠州は草刈場にならなかったのに
信長横死したら甲斐信濃上野は大混乱で徳川上杉北条の独壇場。
いかに織田が雑魚だったかわかる事例

北条>>>>>織田

102人間七七四年2013/09/09(月) 17:25:04.82ID:VWYUXZzC
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした 『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。
6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる 六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。
8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
>>蟹江合戦が滝川の単独行動
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る 6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発 6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた 6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った 三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し

103人間七七四年2013/09/09(月) 17:25:38.79ID:6vSJ8Ak7
>>この地域での秀吉の優勢を示す、
尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で 終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
>策の無い清洲で震えていた家康は彼らを支えることに失敗し、
震えていたなんて史料は存在しない
>>士気が崩壊した信雄軍
元々寝返りばかりで領国なんて困窮状態だがそんな信雄も自力では攻略できず
ヘタレ信雄の降伏に助けられただけなのが秀吉
>>秀吉の戦略通り
秀吉の戦略は一貫して三河方面の攻撃と家康討伐なので戦略でいえば大敗といえる
>>この戦いに秀吉はなんら関わってない滝川が独断で失敗してる
愛知県史資料編表題部や長久手町史通史編の谷口氏が領国分断作戦の一貫と書いてるし
秀吉がいたと思われる大垣と蟹江なんてすぐだし秀吉は滝川退城により三河侵攻を中断・延期してるから
三河方面への足がかりと容易に想像がつくしそもそも滝川は秀吉の同盟者でも何でもなく家臣なんだから独断での行動なら証明が必要
直接のソースはなくても上記のように秀吉の作戦なのは自明
>>(多聞院も蟹江城を滝川の調略でと書いてて、秀吉の戦略ではない)
その滝川の調略が本人の意思なのか秀吉の戦略なのかは別問題
>>当然のように危険極まりない行為をした
秀吉陣がいる尾張や美濃から蟹江なんて程近くなのに危険どころか大チャンスとしか言いようがない
>>16日夜に入城したものの18日には家康に即襲撃
その間に秀吉が後詰せずまた楽田方面からも軍勢出さなかったから負けただけ
そもそも滝川と九鬼って同盟者でも臣従関係でもないのに秀吉の意思がなかったら
九鬼が兵出すわけないだろ。伊勢の楠本に26日大阪に28日で其の前ずっと佐和山に
いたんだから位置的に余裕で後詰できたのにな 家康が怖くなって逃げ出しただけだろ
>>二重堀合戦はいつ?細川家記が5月朔日
細川家記の日付が間違ってるだけだろ。家忠日記に楽田筋へ働きどうこうって4/26にある
>>信雄が攻め寄せ木村や長谷川らと混戦になり神子田が戦わずして敗走したことが原因で羽柴方が追い崩され秀吉の不興に思い細川が奮闘して信雄勢を追い返したと細川家マンセー話を捏造し
神子田がいなくなったんだから史実だろ。三鬼氏もそう書いてるし

104人間七七四年2013/09/09(月) 17:31:02.56ID:C9Fl6eJ1
信雄がそんな追い詰められてるなら家康が美濃方面に石川派遣して秀吉方を攻撃するわけないし
あと秀吉の納馬の先が大阪ではなく縄生だというソースは?
ただ程近くの場所に一時退却するだけで納馬なんていわないだろ
あと当代記や三河物語でも信雄が勝手に和議を結んだので家康もそれに従うほかなくなったと書いている
講談だろうとなんだろうと成立年代も木造記と同じ
木造側に不利な要素だからといって木造の軍記を引用してた馬鹿に
秀吉側に不利な要素だからといって秀吉軍記引用がどうとか突っ込まれる言われはない
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状の事か。
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけだろうが
実際秀吉の予定とは全く別 何の根拠にもならんよ
楽田留守居部隊放置して東美濃やら多方面にただでさえ少ない兵力さいて
転進したら楽田留守居部隊や美濃方面留守居部隊に追撃されて撃破されるか
小牧山やら清洲陥落させられてゲームオーバ。美濃なんて高木や遠山・小里など一部除いて秀吉方
で背後の木曽も春に秀吉に寝返ってる状況
木造記って別名木造軍記ともいうものなんだが?ソースは伊勢北畠氏の研究 木造記成立の論考
>>土蔵や11/18利家にまで秀吉は語ってんじゃんよ。
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
>>信雄と家康がすでに追い詰められているのを
>>秀吉は知っていたからもうすぐ、この戦いはじき終わると終戦までのビジョンを
>>持っていて、見通しが付いていただけの話。そしてきっちり講和条件に秀吉は人質を取ってるし。
>>家康らに戦局を挽回する力はまったくないのだから。
小牧山や戸木や松ノ木ですら圧倒的大軍&周囲砦でガチガチな状況で落ちなかったのに
なぜ砦築いただけで勝ったかのように語るのか不明
>>だからさぁ、それ砦をたんまり構築して桑名表を制圧して長島を威圧してる体制を構築したから納馬すると言ってるだけで
>>信雄を完全に八方塞りにしてんじゃんよ。秀吉は信雄を追い詰めてんだよ。
敵中孤立の戸木や周囲砦ばかりの小牧山や松ノ木ですら攻め崩せなかったのに
桑名や浜田や長島落としてもないのに制圧とか追い詰めてるとかアホかと。
>>あとは放置してても信雄は降伏するしかない状況で王手してる。
信雄が降伏したのは勝手にヘタレただけで降伏するしかない状況という根拠は全くなく
長島なんて秀吉が落とせなかった上記3城よりも遥かに堅固だから防戦なんて余裕
>>11/13には長島にも押詰城々数ヶ所と書いてて完全に包囲してる。
包囲しただけで城が落ちるなんて妄想もいいところ。三木に2年も要した雑魚秀吉じゃ尚更
>>しかも納馬先として大坂ではなく、伊勢国の縄生城で秀吉が越年する姿勢に信雄が恐れて懇望してんのがわかる。
秀吉が越年するなんて秀吉が本心で考えたかどうかではなく秀吉からみた信雄の考えってだけだろ
信雄が秀吉が越年して城を攻める「様子」を見て取ってなどと秀吉が法螺ぶいているが丹羽宛では大阪に兵を納めるといっているし
>>そして信雄の実子や有楽斎の実子など人質に取る条件だし。
信雄が勝手に和議結んだから当たり前
>>つうか太田牛一の書いた太閤記は軍記であり、自分の仕えた秀頼の正当性を強調して
>>秀次を貶しまくるなど曲解を平気で書いててまったく史料として扱えない糞講談なのも知らんのか?
木造記を引用する馬鹿に言われたくないわ
>>家康は長島救援のために秀吉軍を引き付けるために軍事行動を東美濃で起こすことすらできずに
>>清洲城で震えて信雄の降伏を傍観してただけなんだから。
なぜ攻められている長島を無視して他地域に転戦するのか不明
ただでさえ圧倒的の大軍の秀吉は一部隊を東美濃に派遣して余裕で対応だろ
んで家康の後詰の心配のなくなった秀吉は長島攻略に専念できる絶好の状況創出だな
震えていたなんて史料は全く存在しない
>>まぁ家康の妄想どおりに北条軍が援軍に来たら
仮想敵国なのに来るわけねえだろアホ
>>伊木、池田・荒尾どころか土蔵や11/18利家にまで秀吉は語ってんじゃんよ。
>>完全に周知の事実だよ。
>>そもそも11/6に実際に加藤嘉明に縄尾(縄生)・桑部の両所に譜請を申しつけてる。
秀吉の書状は伊勢で越年し長島を攻略する、ではなく伊勢で越年し長島を攻略する様子を信雄が見て取って
等と信雄の目線を秀吉が勝手に推測してるだけで秀吉は納馬する予定なのが実際
そこにたまたま信雄が和議にのったから助かっただけ

105人間七七四年2013/09/09(月) 17:33:57.05ID:ZeJXE0cq
お前相当馬鹿だな。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

石川は小牧長久手の頃から秀吉に半分篭絡されつつあったし、小笠原が石川の人質連れて秀吉の元に逃げたから
離反しただけ。翌年も家康は秀吉に従うどころか、諸城普請とか浜松会議とか北条との同盟強化とか対秀吉に備えて動きまくってたし
秀吉も天正13年中頃から天正14年初等まで上杉や真田などに天正14年春の家康討伐計画細かく書いてるが、いざその頃になるとビビリまくって信雄を家康の元に送って仲介させたり、
母と妹人質に出して「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座してきたから、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。

>>朝日姫は天正14年の話で、それ以前に佐々や長宗我部や紀州衆ら家康の同盟者は
>>秀吉に潰されまくってたのに、秀吉にビビって家康は見捨ててるから
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ

>>家康の味方だった信濃衆も秀吉側に離反して

木曽なんか天正12年時点で離反してるし真田も小笠原も天正壬午の時の空手形や北条との領土交渉
など信濃内での領土問題で家康に不満もって離反しただけなのに無理矢理家康の天正13年の行動と結びつけるとか相当馬鹿だな
ウザイからさっさと出てけよクズ野郎

看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。
当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。
看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別

主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...

関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐

106人間七七四年2013/09/09(月) 17:34:33.18ID:C9Fl6eJ1
小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
信雄は伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる。完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉

107人間七七四年2013/09/09(月) 17:37:13.35ID:C9Fl6eJ1
>>策の無い清洲で震えていた家康は彼らを支えることに失敗し、
震えていたなんて史料は存在しない
>>士気が崩壊した信雄軍という状況は
元々寝返りばかりで領国なんて困窮状態だがそんな信雄も自力では攻略できずヘタレ信雄の降伏に助けられただけなのが秀吉
>>秀吉の戦略通りに事態は遂行されていった結果だといえる。
秀吉の戦略は一貫して三河方面の攻撃と家康討伐なので戦略でいえば大敗といえる
批判も糞もない。徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
>>策の無い清洲で震えていた家康は彼らを支えることに失敗し、
震えていたなんて史料は存在しない
>>士気が崩壊した信雄軍という状況は
元々寝返りばかりで領国なんて困窮状態だがそんな信雄も自力では攻略できずヘタレ信雄の降伏に助けられただけなのが秀吉
>>秀吉の戦略通りに事態は遂行されていった結果だといえる。
秀吉の戦略は一貫して三河方面の攻撃と家康討伐なので戦略でいえば大敗といえる
批判も糞もない。徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)

108人間七七四年2013/09/09(月) 17:37:51.97ID:ZeJXE0cq
>>そもそも秀吉がまじかに陣を構築して家康を小牧に押し込めてる状態じゃんよ(4/10付書状)
そんな状況で全く攻められず攻めたら大敗したのが秀吉
>>顕如上人貝塚御座所日記でも敗軍したが、「秀吉の覚悟が堅固なのでやがてもちかためられ」
>>などと書いていて秀吉がまったく動揺せずに将帥としての威厳で纏めてしまったために
覚悟が堅固とか言ってる割に急いで楽田修築やら砦普請で防衛ガチガチに固めて
思いっきり持久戦体制に入ってる。圧倒的兵力差がありながら。それほど負けが痛かった証拠
顕如がいたのは思いっきり秀吉領国だから秀吉に都合いい捏造のフィルターで歪曲された情報が入っただけだろ
>>家康は勝利の戦果の拡大に失敗してる(勝利に酔い上洛の言葉まで家康は出して策もなく無為に過ごす・・・)
そんなもん我彼の圧倒的戦力差ってだけだろなんせ兵力比7倍くらいだからな
>>しかも顕如は1万余り討死の報は間違いで、のちに3000討死とわかったと訂正を入れてる。
>>(兼見卿日記4/13に尾州表から注進があり9日に秀吉敗戦したとのこと。
>>しかし追って注進があり秀吉在所も問題ないとのことで京都での騒動も終わったと書いてある)
なぜ最初の注進が間違いで後の沙汰(噂(堀氏訳は噂であって注進ではない))が本当なのか不明
しかもこれ以外の史料はこぞって戦死者1万人多くて2万としてるし
秀吉側に都合いい情報ばかり捏造して書かれるイエズス会年報や日本史などでも1万
また秀吉同盟者の小早川書状でも1万。そもそも家康は身内にあてた手紙でも1万といってるわけで
3000等と歪曲して書かれてるのは顕如日記のみ
>>4/13付けでも細川配下の松井も池田らの戦死ごときでは「此表御よわみにもならない」と書いてるし、
そんなもん弱気な言葉書く馬鹿がいるかアホw士気にかかわるだろうが
>>稲葉も「討たれたものの、はたもとのささわりには少しもならない」と楽観してる。
そら13万もいればそのうち1万死んでもまだ圧倒的優勢な兵力に変わりないってだけだろ
秀吉は9/23羽柴秀吉訓戒書で木下兄弟戦死残りの連中の討ち死にが大変迷惑だと書いている
外聞迷惑、於秀吉非可失面目儀候間、手討に可致候と秀次に怒りをぶつけており
自分の失態を秀次になすりつけているが(滝川の蟹江合戦も同じ)それだけ敗戦の精神的実質的損害は大きかったという事
>>それどころか同時期には秀長や筒井勢によって伊勢の松か島城が降伏して伊勢でさらに劣勢になってるのが家康と信雄。
松ヶ島は三月に崩壊した伊勢戦線の続きで長久手合戦と直接の関係も糞もないのに何が「それどころか」だ
神戸田丸信包関など地元諸将の帰参と家康の尾張転進で楽に蹂躙できただけの続きの戦だろうがw
>>秀次敗戦でもまったく秀吉陣営の圧倒的優勢ぶりに変化はない。
兵力比の差ってだけだろ
>>秀次を秀吉は若輩者と呼んでるし、秀吉本軍との綿密な連絡をせずに
>>無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは非難されて当然だろう。
>>(4/11付で岩崎城攻め大勝利のところ、即、岡崎面へ深々に相動いたので勝利を失ったと敗戦理由を書いてる)
深々は別に非難のニュアンスはない。家康も長州我部あてに深々と働く事肝要とか言ってる
あと深々と働いた「ので」敗戦したとは書いていない。深々と働き敗戦したとは書いてる。因果関係を直接文中に見出す接続詞はない
4/8秀吉→丹羽長秀  池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる

109人間七七四年2013/09/09(月) 17:38:31.60ID:VWYUXZzC
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるという
かなり縦長の陣容だったがこの時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。柏井にいる一柳宛書状に
『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる。しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに軍事的才能がなさすぎる。敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としか
いいようがない。池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
あらしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
>>5/2に秀吉は犬山を加藤光泰、羽黒を山内一豊、楽田から春日井郡の戦線を掘秀政に、尾口西南を稲葉に委任して
>>2万を置いて納馬し帰っていったのに、それでも手が出せないほど劣勢なのが家康・信雄。
は?楽田から敗走して加賀野井・竹鼻攻撃に移ってるのに何が納馬なんだ?馬鹿か?
>>秀吉が帰る理由も5/2の隆景書状には小牧山要害に家康らが籠もって出てこないから無為に過ごすのも無駄なので
>>2万置いて帰り、秋に再度手立てに及ぶと書いてあり、秀吉が秋からの軍事行動で決着をつけるスケジュールなのがわかる。
例のごとく信雄に大敗した話はひた隠しで都合いい情報しか書かれてないのが秀吉書状
正確には家康を攻めたら1万も損害だして圧倒的大軍があるけど自分じゃ戦闘がゴミカスレベルに弱すぎて攻められませんってのが正解。
家康は城から出てこないどころか蟹江合戦でも長久手合戦でもちゃんと動いている
>>しかも信雄・家康軍は香曽我部に15000討ち取ったと捏造戦果を書いて長宗我部の畿内出陣を願ってるほど追い詰められてる。
捏造戦果を書くことが追い込まれてる証拠なら秀吉は家康の百倍追い込まれてる証拠なのが佐竹その他宛書状でわかる
>>5/5には加賀野井城が攻められ、松ノ木城では外構えを放棄して本城籠城するように命じるなど
>>信雄・家康勢は圧されっぱなしで、5/6に加賀野井城を落とされ(池田の弔い合戦と秀吉は言ってる)
間宮らの反撃や蟹江の敗戦など含めると一進一退だろ。松ノ木や戸木も結局落ちなかったし
木曽川以西の家康が寡兵で後詰行動起こすには危険な地域を圧倒的大軍を使ってこれ見よがしに攻めてただけなのが秀吉
続いて竹鼻城が包囲されてるが信雄・家康は援軍の口だけ約束でヘタレぶりを晒してるだけ。
>>秀吉ははやく加賀野井城に後詰めに来ないかな〜叩き潰してやるのにwと余裕ぶり。
なぜ後詰誘引に失敗し二重堀でも大敗した秀吉が余裕なのか意味不明
>>5/7になっても香曽我部に池田らを討ち取り1万討ち取ったから(前回は15000と書いてたのにw)
>>はやく摂津・播磨へ討ち出るように言っていて、かなり家康・信雄勢が追い詰められて
戦闘では寡兵なら援軍なしに抗戦無理だろ。

110人間七七四年2013/09/09(月) 17:40:01.33ID:VWYUXZzC
>>5/14にも長宗我部に援軍を哀願し、5/24には包囲された竹鼻城への後詰めに関して北条から援軍が来たら
そりゃ圧倒的兵力が劣るから単独で後詰なんて無理だろ。楽田で留守居兵も残されてるんだし
>>6/2には竹鼻城の注進は虚偽に違いない(水攻めのこと?)、松ノ木城は本城が小さいから援軍出さないなどと豹変するし。
単に信雄の情報収集能力が劣っていたか兵力が集まらなかっただけだろ
>>この戦況により信雄の本拠地長島城攻略が視野に入ることになる。
長島なんて伊勢方面から攻め立てればいいだけだからはじめから視野に入ってるだろ
>>この圧勝ぶりから秀吉は6/4に佐竹に書状を書いてる。
圧勝ってただ家康がでてこれない木曽川流域わずか3城をこれみよがしに圧倒的大軍で攻めただけじゃん
蟹江敗戦・二重堀敗戦・松ノ木敗戦・戸木敗戦で完全に尾張方面の拡張は滞っているのに。
>>そして秀吉は住吉屋宗ニや山上宗ニや津田宗及を招き美濃墨俣で茶会を開いて豪遊。
小田原合戦の時と同じでただのパフォーマンスだろ
>>そして秀吉は滝川が勝手に行動してるのを無視して帰って行った。
滝川は秀吉の意思だろ。そもそも家臣なんだから勝手に行動するわけないし単独行動なら九鬼がついてくるわけないし
蟹江から秀吉陣の大垣なんて寸での距離だし谷口氏や愛知県史資料編も秀吉の敵地分断作戦
や尾張方面の攻撃の前哨戦と位置づけているし秀吉は三河方面攻撃計画を諸大名あてにつづってるし
長島も東西から攻撃可能になるし滝川退城で秀吉は三河方面攻撃を断念して延期してるし
>>お前の書いてることは家康擁護にはまったくなってないぞwいかに秀吉が戦略レベルで家康の動きを完全に封じてしまってるかを
>>よく知らしめることしか書いてないw 家康は長宗我部が秀吉の背後を襲ってくれない限り、戦局の打開への道がまったく見えてない。
戦略も糞もない。当初から7倍もの圧倒的兵力差&信雄領国寝返りの続出&家康徳政で困窮状態で戦ってたんだから
そんな半月で瞬殺できそうな状況で1年費やして自力では尾張半分すら切り取れず信雄のヘタレ具合に助けられただけなのが秀吉
>>しまいには北条の援軍がもうすぐ来るからなどと妄言で、味方を繋ぎ止めてる始末。
そら長宗我部が敵になったら大変だからそのくらいするわ
>>上杉相手にも苦戦して信濃諸将の離反を食い止めるのに必死の家康が
>>秀吉とまともに戦うなんてことは不可能で楽田に秀吉がいる時は小牧山で籠城。
秀吉のまともに戦えないような圧倒的兵力差で秀吉に1万もの圧倒的損害を与え1年一杯粘ったのが家康と信雄
>>伊勢に秀吉がやってきたら、清洲で引きこもるだけじゃん。
ゲームじゃあるまいし7倍ほどの圧倒的兵力差で戦えるわけないだろアホ
>>秀吉は秀長とニ軍で有機的結合した軍事作戦が展開できるが、信雄と家康は合同して一軍を形成して引きこもりしてるだけ。
んでそれが何がすごいの?兵力に圧倒的に恵まれながら苦戦しまくりって最高に雑魚だろ
>>一方の秀吉は開戦と同時に、今戦役の集結を見通している。
実際にその8か月後に終結した戦闘でいかに秀吉の見通しが楽観的なのかがわかる事だ
>>戦いは開始した時点である程度の終戦構想が見えてないと泥縄的になってしまう。
終戦構想を妄想していたがそれが現に妄想と化し信雄のヘタレという幸運に助けられただけなのが秀吉
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康が怖くて出てこれなかっただけ。大体20町ほどの至近距離で7倍もの圧倒的兵力差でまともに攻められない秀吉が
蟹江後詰なんかできるわけがない
>>これも一次史料にまったくない細川家の自称捏造。
家忠日記にあるし神子田がこの後名前がなくなるから史実
>>「其外軍兵一万余討死則敗軍、然共筑州覚悟堅固之故」の真横に「已後ノ沙汰ハ三千討死ト云々」って
長久手町史資料編には書いていない。しかも真横に書いてる時点で書き足しがミエミエ
>>噂レベルの話の場合は顕如日記には雑説と書くが、この文にはそんなことは書いてない。
沙汰を噂とアンチ家康の堀氏ですら訳している。注進などと妄想するのはお前だけ。
注進という時は注進と書かれているのが普通。家康書状信雄書状秀吉書状でもそう
>>違う場所へ転戦しただけだろw
どこに転進したのは史料をもって詳しく

111人間七七四年2013/09/09(月) 17:41:03.87ID:C9Fl6eJ1
>>そこには二重堀なんて出てこないぞ。
二重堀と書いてなくても敗北の体にて撤退といってるから二重堀の敗戦が史実だと容易に想像がつく
>>それで秀吉側を見れば5/9の書状によれば秀吉は小牧の家康がぜんぜん出てこないから
小牧山から出て池田勢を思いっきり撃破しただろうが。小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境 。それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したから
攻められなくなったのに家康が取り合わないって馬鹿妄想もいいところだな
>>付け城を三箇所申し付けた
あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
>>加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
>>秀吉の攻勢を家康らは引きこもって無策なまま、
間宮らが南伊勢で反撃しまた蟹江でも二重堀でも大勝。松ノ木・戸木も秀吉軍撃退
>>ひたすら長宗我部の援軍に秀吉背後を襲って貰いたくて必死に自軍有利の捏造を書いてるだけで
自軍有利な情報書いてるだけなの秀吉書状だろ
>>信張の言ってることがまるでデタラメなのがわかる。
普通に家康討伐しにきて1万人も戦死者出す大敗して退却なんだから全然デタラメじゃないだろ
>>むしろ家康が消極的でビビっている反面、信雄の方が秀吉にビビってない。
そして信雄以上に信雄に対してびびってるのが秀吉
>>だいたい秀吉は体調が悪く大坂へ帰ったのも虫気の治療のためで(腹痛の一種)
そんな史料ありません。見舞いの事なら陣中見舞いってだけだろ
大体大阪に帰る理由に滝川退城を秀吉書状であげてるじゃねぇかw蟹江で敗戦して諦めて帰っただけだわ
>>8/2には摂津有馬で一週間ほど湯治してるのが顕如日記でわかるのに
湯治なんて病気の時以外でも健康維持のために行うだろ。家康でも。
>>「秀吉が負けた」からと池沼のように曲解の連続連呼。
実際に蟹江で負けて諦めて退却してる
>>家康は追い詰められ完全に絶望的だったのが現実。
そんな絶望的な状況で自力では尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
>>秀吉にガンガン侵食されていくばかりで
尾張の木曽川筋をチョコっと攻め取っただけでガンガンとか言われても
>>ちなみに8月には筒井勢が駒野を攻撃していたようだが、11/5には高木貞利の居城だった東駒野城も陥落してる。
取り詰めに攻め落としたなんて意味はない。乗っ取り、落居などという時が攻め落とした時の言葉。
ちなみにこの書状を東駒野「城」が落ちたなんて妄想解釈してる馬鹿はお前だけで
東大史料編纂所HPや史料編纂やら愛知県史資料編網文やら小牧長久手の戦いの構造時系列データベースでも城が落ちたなんて解釈していない
11/10にはちゃんと吉村が長久保を落として忠義を示してるのに。
>>しかし高木貞利の敗北と福田の降伏という流れは
高木は敗北なんてしてないし福田は降伏ではなく寝返り

112人間七七四年2013/09/09(月) 22:17:21.85ID:yhJm/SJq
歴史をコリエイトするアスペルガーだが

113人間七七四年2013/09/09(月) 22:37:56.44ID:RXb+iIMU
どのスレでも妄想を悉く打ち砕かれてはまたしばらく忘れた頃になると
同じ妄想垂れ流す秀吉厨の頭の悪さは神レベル

114人間七七四年2013/09/10(火) 02:06:04.59ID:alhQ/q2Y
>>秋に再度手立てに及ぶと書いてあり、秀吉が秋からの軍事行動で決着をつけるスケジュールなのがわかる。

この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
と書いていて家康に対しての討伐意思の表明とその実行が行われている

115人間七七四年2013/09/10(火) 02:07:55.47ID:alhQ/q2Y
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康相手に大敗して1万人も大損害だしたから怖くて近づけなかっただけ
大垣から蟹江なんてすぐだからな。いこうと思えばいつでもいけた
二重堀合戦が史実な証拠として神子田が改易され、信雄から感状もでてる

愛知県史資料編867〜869で滝川が蟹江から退去した事で秀吉は出陣日を改める事を伝えてるんだろうが
蟹江が何も意味ないなら出陣日改める必要なし
蟹江を落とせれば清洲と長島の分断&北だけでなく西からも長島を包囲可能
蟹江は秀吉がいた大垣から眼前の距離
谷口氏の論文や愛知県史資料編が位置づけているとおり蟹江合戦が秀吉の三河侵攻計画や
領国分断作戦の一貫の証明だろうが
大体滝川はただ協力してるだけじゃねえだろうが
前年に秀吉に降ってれっきとした家臣だろうが
独断で行動してたとするならそれこそ証明が必要
>>秀吉の戦略は下記であり、滝川の行動は秀吉の戦略外だ。
>>6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
>>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが

この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる

116人間七七四年2013/09/10(火) 02:09:19.24ID:alhQ/q2Y
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
>>蟹江合戦が滝川の単独行動
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い

117人間七七四年2013/09/10(火) 02:13:54.47ID:GejM5S0X
>>曲解してるだけだろ。
お前がな
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
お前は史料もまともに見取らんチンカスだから一から出直せこのタコ
楽田近辺に2万以上秀吉方留守居兵置かれてた状況無視して暴論だな
信雄がそんな追い詰められてるなら家康が美濃方面に石川派遣して秀吉方を攻撃するわけないし
あと秀吉の納馬の先が大阪ではなく縄生だというソースは?
ただ程近くの場所に一時退却するだけで納馬なんていわないだろ
あと当代記や三河物語でも信雄が勝手に和議を結んだので家康もそれに従うほかなくなったと書いている
講談だろうとなんだろうと成立年代も木造記と同じ
木造側に不利な要素だからといって木造の軍記を引用してた馬鹿に
秀吉側に不利な要素だからといって秀吉軍記引用がどうとか突っ込まれる言われはない
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状の事か。
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけだろうが
実際秀吉の予定とは全く別 何の根拠にもならんよ

楽田留守居部隊放置して東美濃やら多方面にただでさえ少ない兵力さいて
転進したら楽田留守居部隊や美濃方面留守居部隊に追撃されて撃破されるか
小牧山やら清洲陥落させられてゲームオーバ。
美濃なんて高木や遠山・小里など一部除いて秀吉方
で背後の木曽も春に秀吉に寝返ってる状況
木造記って別名木造軍記ともいうものなんだが?ソースは伊勢北畠氏の研究
木造記成立の論考
>>土蔵や11/18利家にまで秀吉は語ってんじゃんよ。
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
>>信雄と家康がすでに追い詰められているのを
>>秀吉は知っていたからもうすぐ、この戦いはじき終わると終戦までのビジョンを
>>持っていて、見通しが付いていただけの話。そしてきっちり講和条件に秀吉は人質を取ってるし。
>>家康らに戦局を挽回する力はまったくないのだから。
小牧山や戸木や松ノ木ですら圧倒的大軍&周囲砦でガチガチな状況で落ちなかったのに
なぜ砦築いただけで勝ったかのように語るのか不明
>>だからさぁ、それ砦をたんまり構築して桑名表を制圧して長島を威圧してる体制を構築したから納馬すると言ってるだけで
>>信雄を完全に八方塞りにしてんじゃんよ。秀吉は信雄を追い詰めてんだよ。
敵中孤立の戸木や周囲砦ばかりの小牧山や松ノ木ですら攻め崩せなかったのに
桑名や浜田や長島落としてもないのに制圧とか追い詰めてるとかアホかと。
>>あとは放置してても信雄は降伏するしかない状況で王手してる。
信雄が降伏したのは勝手にヘタレただけで降伏するしかない状況という根拠は全くなく
長島なんて秀吉が落とせなかった上記3城よりも遥かに堅固だから防戦なんて余裕
>>11/13には長島にも押詰城々数ヶ所と書いてて完全に包囲してる。
包囲しただけで城が落ちるなんて妄想もいいところ。三木に2年も要した雑魚秀吉じゃ尚更
>>しかも納馬先として大坂ではなく、伊勢国の縄生城で秀吉が越年する姿勢に信雄が恐れて懇望してんのがわかる。
秀吉が越年するなんて秀吉が本心で考えたかどうかではなく秀吉からみた信雄の考えってだけだろ
信雄が秀吉が越年して城を攻める「様子」を見て取ってなどと秀吉が法螺ぶいているが丹羽宛では大阪に兵を納めるといっているし
>>そして信雄の実子や有楽斎の実子など人質に取る条件だし。
信雄が勝手に和議結んだから当たり前
>>つうか太田牛一の書いた太閤記は軍記であり、自分の仕えた秀頼の正当性を強調して
>>秀次を貶しまくるなど曲解を平気で書いててまったく史料として扱えない糞講談なのも知らんのか?
木造記を引用する馬鹿に言われたくないわ
>>家康は長島救援のために秀吉軍を引き付けるために軍事行動を東美濃で起こすことすらできずに
>>清洲城で震えて信雄の降伏を傍観してただけなんだから。
なぜ攻められている長島を無視して他地域に転戦するのか不明
ただでさえ圧倒的の大軍の秀吉は一部隊を東美濃に派遣して余裕で対応だろ
んで家康の後詰の心配のなくなった秀吉は長島攻略に専念できる絶好の状況創出だな
震えていたなんて史料は全く存在しない
>>まぁ家康の妄想どおりに北条軍が援軍に来たら
仮想敵国なのに来るわけねえだろアホ

118人間七七四年2013/09/10(火) 02:16:10.36ID:YM1+QLZI
>>伊木、池田・荒尾どころか土蔵や11/18利家にまで秀吉は語ってんじゃんよ。
>>完全に周知の事実だよ。
>>そもそも11/6に実際に加藤嘉明に縄尾(縄生)・桑部の両所に譜請を申しつけてる。
秀吉の書状は伊勢で越年し長島を攻略する、ではなく伊勢で越年し長島を攻略する様子を信雄が見て取って
等と信雄の目線を秀吉が勝手に推測してるだけで秀吉は納馬する予定なのが実際
そこにたまたま信雄が和議にのったから助かっただけ
>>お前の書いてることは家康擁護にはまったくなってないぞwいかに秀吉が戦略レベルで家康の動きを完全に封じてしまってるかを
>>よく知らしめることしか書いてないw 家康は長宗我部が秀吉の背後を襲ってくれない限り、戦局の打開への道がまったく見えてない。
戦略も糞もない。当初から7倍もの圧倒的兵力差&信雄領国寝返りの続出&家康徳政で困窮状態で戦ってたんだから
そんな半月で瞬殺できそうな状況で1年費やして自力では尾張半分すら切り取れず信雄のヘタレ具合に助けられただけなのが秀吉
>>しまいには北条の援軍がもうすぐ来るからなどと妄言で、味方を繋ぎ止めてる始末。
そら長宗我部が敵になったら大変だからそのくらいするわ
>>上杉相手にも苦戦して信濃諸将の離反を食い止めるのに必死の家康が
>>秀吉とまともに戦うなんてことは不可能で楽田に秀吉がいる時は小牧山で籠城。
秀吉のまともに戦えないような圧倒的兵力差で秀吉に1万もの圧倒的損害を与え
1年一杯粘ったのが家康と信雄
>>伊勢に秀吉がやってきたら、清洲で引きこもるだけじゃん。
ゲームじゃあるまいし7倍ほどの圧倒的兵力差で戦えるわけないだろアホ
>>秀吉は秀長とニ軍で有機的結合した軍事作戦が展開できるが、信雄と家康は合同して一軍を形成して引きこもりしてるだけ。
んでそれが何がすごいの?兵力に圧倒的に恵まれながら苦戦しまくりって最高に雑魚だろ
>>一方の秀吉は開戦と同時に、今戦役の集結を見通している。
実際にその8か月後に終結した戦闘でいかに秀吉の見通しが楽観的なのかがわかる事だ
>>戦いは開始した時点である程度の終戦構想が見えてないと泥縄的になってしまう。
終戦構想を妄想していたがそれが現に妄想と化し信雄のヘタレという幸運に助けられただけなのが秀吉
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康が怖くて出てこれなかっただけ。大体20町ほどの至近距離で7倍もの圧倒的兵力差でまともに攻められない秀吉が
蟹江後詰なんかできるわけがない
>>これも一次史料にまったくない細川家の自称捏造。
家忠日記にあるし神子田がこの後名前がなくなるから史実
>>「其外軍兵一万余討死則敗軍、然共筑州覚悟堅固之故」の真横に「已後ノ沙汰ハ三千討死ト云々」って
長久手町史資料編には書いていない。しかも真横に書いてる時点で書き足しがミエミエ
>>噂レベルの話の場合は顕如日記には雑説と書くが、この文にはそんなことは書いてない。
沙汰を噂とアンチ家康の堀氏ですら訳している。注進などと妄想するのはお前だけ。
注進という時は注進と書かれているのが普通。家康書状信雄書状秀吉書状でもそう

119人間七七四年2013/09/10(火) 02:17:35.08ID:cPUDp7P6
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康相手に大敗して1万人も大損害だしたから怖くて近づけなかっただけ 大垣から蟹江なんてすぐだからな。いこうと思えばいつでもいけた
二重堀合戦が史実な証拠として神子田が改易され、信雄から感状もでてる
愛知県史資料編867〜869で滝川が蟹江から退去した事で秀吉は出陣日を改める事を伝えてるんだろうが
蟹江が何も意味ないなら出陣日改める必要なし 蟹江を落とせれば清洲と長島の分断&北だけでなく西からも長島を包囲可能
蟹江は秀吉がいた大垣から眼前の距離 谷口氏の論文や愛知県史資料編が位置づけているとおり蟹江合戦が秀吉の三河侵攻計画や
領国分断作戦の一貫の証明だろうが 大体滝川はただ協力してるだけじゃねえだろうが
前年に秀吉に降ってれっきとした家臣だろうが 独断で行動してたとするならそれこそ証明が必要
>>秀吉の戦略は下記であり、滝川の行動は秀吉の戦略外だ。
>>6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
>>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした 『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる 六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。

120人間七七四年2013/09/10(火) 10:39:42.75ID:vxfJzo51
※都合が悪いレスが書かれると、それを打ち消すように織田厨による要領を得ない駄文爆撃コピペ大量降下が始まります。

121人間七七四年2013/09/10(火) 10:59:04.05ID:RzXfiIpY
すでに決着した内容をグダグダもう一度書いてたら何日あっても足りんわ

122人間七七四年2013/09/10(火) 11:08:04.28ID:4XZXPJyI
秀吉厨の頭の悪さは神レベル

123人間七七四年2013/09/10(火) 11:53:33.53ID:vxfJzo51
決着wwwwただ単にお前が24時間体制でひたすら永遠と粘着レスを続け、
他の用件があるのでレスをやめるのを待ち続け
最後にレスした者が勝つ脳でひたすらループさせてるだけだろ。

124人間七七四年2013/09/11(水) 17:45:16.59ID:p/ssjx4P

125人間七七四年2013/09/23(月) 07:02:33.58ID:boh32KSo
来年の大河ドラマは軍師黒田官兵衛。
備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
http://mirai660.net/castle/

126人間七七四年2013/09/28(土) 23:23:45.42ID:dhphAZ1C
信玄は死んだ時期が良かっただけだよなあ。
ちょうど坂を上りきったところで頓死。
あのあと長生きしても史実の勝頼と同じように織田&徳川にボコられる末路しか見えない。

127人間七七四年2013/10/03(木) 20:12:21.63ID:w9jf9wI1
>>126
んなことはない。信玄がガンガン攻めていた頃は、織田方から寝返り多数。
信長の織田のお艶だけでなく、安藤守就なんかも信玄と通じていた。

信玄の動きがおかしくなったから、摂津で和田惟長が高山右近に殺されたり、
荒木村重と中川清秀が池田家を乗っ取ったりした訳で、信玄が健在であれば
どうころんでいたのかはわからんよ。
三河と西遠江の安堵という条件で家康が寝返っていたかもしれんぞ。

信玄の死と摂津衆の信長方転向を受けて、播磨で印南野合戦も起こっているし、
信玄の危篤を知らずに足利義昭が暴走して幕府滅亡に至ったから、信玄の死は、
日本史のそれなりの重要事項。

128人間七七四年2013/10/03(木) 21:13:39.50ID:1Xeq7COY
菅沼は間違いなく寝返ってたな

129人間七七四年2013/10/04(金) 12:39:29.21ID:iSLWDuD6
3月に入ると山崎離宮八幡宮が信玄に諸役免除と禁制発給を求めるなど摂津〜山崎間の勢力も信長を見捨てる。
山崎の八幡宮の神人は中世日本最大規模の油座である大山崎油座であり、畿内経済の主要勢力である。
(荏胡麻から作製した油を広範囲に渡って独占販売した特権商人)
彼らの経済力が巨大なもので、本能寺後に死守しようとした山崎の地に、
清洲会議後に秀吉は城を作り、大坂城が完成するまでは、ここを拠点に全国統一事業に邁進していた要路。

130人間七七四年2013/10/04(金) 14:24:48.40ID:TfKL0dHa
127だけど
>×信長の織田のお艶
 ○信長の叔母のお艶

129のいうように、はじめは「信長やばい」という世論だったのが、
伊丹等を除く摂津衆が信長方に転んで、元亀4年3月29日には
荒木村重が信長に臣従を誓うように、流れが変わっている。

信玄の危篤を知らない足利義昭が折れないため、4月2日〜京都周辺の
焼き討ち、上京焼き討ちを経て、4月7日に帝の介入で和睦成立という流れ。
丹波の内藤ジョアン等、義昭につく勢力もいたのはいたけど、一気に畿内が
信長派に切り替わってしまう。

摂津に隣接する播磨でも、反信長派の小寺政職を討つため、4月〜5月に
かけて、別所氏が御着・姫路城外を攻撃。

信玄が死んだと聞いて、「聞いてないよ〜」という連中が多かったろうね。

131人間七七四年2013/10/04(金) 18:47:16.80ID:iSLWDuD6
元亀2年8月に荒木が、和田惟政が新たに築いている2城を
荒木はあれは俺を攻撃するためのものだと突然、義昭・信長合同政権へ謀反して
和田惟政や茨木重朝を殺す。
元亀3年4月交野城救援のために和田惟政は義昭・織田軍に参加している。
荒木の立場は反信長である。

元亀4年2/23の細川宛信長書状は、信玄が野田表から撤退したこと
よって蜂屋・柴田・丹羽に出陣をさせ近江の一揆を蹴散らすために
琵琶湖を渡らせることをを告げている書状だが、
その中で和田惟長が信長へ忠誠を誓うことを申してきたが、
若者なので細川幽斎が後見するように信長は命じており
どうも細川が荒木を説得調略をかけているのか、
信長は荒木に対して忠節を励むべくするのは尤もだと細川へ返事している。
信長は荒木の悪事をすべて不問にしてでも味方に加えないと滅亡確定なまでに追込まれている。

2/26の細川宛信長書状では、信長は細川への指示で、
荒木や池田に対して粗略なきように彼ら一味の衆へ、細川が才覚を発揮するのが肝要だと
荒木への配慮を強く全面に出して味方に確実に付くように説得している。
というのも、織田軍はそうとうに追い詰められており、
荒木軍4000が味方にならないと上洛することも不可能なほど状況が悪化していた。
また摂津の情勢は悪化の一途であり、摂津の織田方諸城は壊滅に近づいていた。
(荒木は信長の意向も無視し池田知正追放・和田惟長殺害など、自由気ままに謀反殺戮を繰り返していた)

3/7の細川宛信長書状でやっと荒木が信長の味方になったことがわかり、
村井・塙らを上洛させて義昭とやっと強気の交渉することになる。
というのも摂津の中嶋城が27日落城し信長はさてもさても惜しきと悔しがっていて
畿内諸侍が誰が味方で誰が敵かも見分けられず、通路もまた同じ状況で、
ついに摂津の賀嶋まで伊丹の離反が原因で落城してしまい、絶言語と信長は絶望している。
さらに宇津や福地が義昭側になってしまい
石成や内藤も離反するんではないかと細川に信長は打ち明けている。
だが謙信がこちらの味方だから安心しろと意味不明な終わり方である。
あきらかに織田側の劣勢は明らかである。
信長は上洛した際に荒木軍を合わせて1万しかいなかった。
そのため、荒木を見た信長は異常なまでに大喜びして贈り物を贈りまくった。
7/10細川宛でこのたびの細川の貢献を高く評価した信長は
山城国桂川以西の一職支配を褒美にしている。
また追い詰められた挙句、背反著しい荒木を不問にしたことで
信長はこののち攝津一円大規模無反を喰らうのであった。

132人間七七四年2013/10/04(金) 22:12:06.07ID:kt1s1GEs
摂津は石山本願寺が実質支配してたから、
全域が反織田だよ。
しかも三好や松永らも信玄と協調していたし。
当時の荒木なんて孤立化しきってたでしょ。

133人間七七四年2013/10/04(金) 22:25:01.07ID:qvRpJQa4
菅沼君や、こんなところで荒らししてる暇あったら勉強しようね

134人間七七四年2013/10/05(土) 00:52:14.69ID:dFwU1V/y
なんか勘違いしてるようだが、
義昭がいた二条城が堅固で落とせない信長が朝廷に土下座して哀願したから、
義昭と信長の和睦を取り持ってやったんであって、
義昭は信長に降伏したわけじゃない。
むしろ六角と一揆に背後を封鎖された信長は絶体絶命の危機的状態にあって、
家康に至急援軍を懇請していたほど。
朝廷の和睦を速攻でまとめてもらうと即、六角と一揆を攻めにUターンしたほど。

135人間七七四年2013/10/05(土) 11:17:44.30ID:Y7q2ONpJ
信長が味方だと思っていた丹波守護の
内藤ジョアンが3000を引き連れて
二条城篭城に参加してしまったから
鉄砲隊の雨あられの中で信長が二条城を落とせる可能性が皆無になっちゃったからね。

136人間七七四年2013/10/06(日) 13:22:50.22ID:Vrim/7NG
10月に山城御牧を落とし、山城まで進出して、淀城に石成友通が入っている(天正元年8月落城)。
唯一の信長派高屋城畠山昭高は同年4月(6月とも)三好派家臣遊佐・安見に殺されてる。
畿内の状況は圧倒的に反信長方だったと考えるべき。

荒木村重は元亀元年6月主君池田勝正を追放したけど勝正が将軍義昭を頼ったため、
2年8月に池田勝正・細川藤孝らの攻撃を受けている。 単に荒木が孤立に追い込まれただけ。
畿内で孤立した状態だったので、結果として信長に賭けるしか生き残る術がなかった。
南山城は真木島昭光ら義昭配下、木津川辺は松永支配。淀周辺は岩成友通。

天正元年には慈敬寺文書によれば有岡城(伊丹城)を荒木に奪われていた
伊丹親興も織田に挙兵し京都西岡地方(幽斎の所領)でも土一揆。
三好康長や篠原自遁は12月に長岡京のある大山崎で禁制を発布してるし、
桂川の渡河先の淀城には石成友通がいる。
10/2付け六角承偵書状の内容には義昭側近六角義堯からの話として
信玄西上開始の秘密情報と共に三好甚五郎に四国衆の渡海を命じてるなど
三好勢も大規模上陸軍の編成をしてるようで総力あげてる。
(三好神五郎政長の子である三好政勝?姉妹は池田信正の正室だね。その子が池田長正でそのまた子が勝正)
よって幽斎が勝竜寺城を維持できている可能性はゼロ。京の西側はすでに三好勢力圏。
荒木と幽斎はすでに家無き子になって信長の上洛にやってきていたと考えるべき。
その後の伊勢攻撃でも帰陣中に一揆勢に先回りされて襲撃され豪雨で鉄砲が使えず林が討死し
夜間を信長は大垣まで敗走する中で多くの兵が凍死したし。
その後に越前が再び一向宗の手に落ちるわ、勝頼に明智城や高天神城を落とされるは踏んだり蹴ったりでしょ。

137人間七七四年2013/10/08(火) 10:29:00.88ID:5DTzg+QI
 君主個人の能力では元就がずば抜けているだけであり、信玄も充分過ぎるほど
優秀でしょ。氏康信長謙信義元家康などと比べても信玄は頭一つ上を行っていると思うよ。

 俺は判官びいきなので信玄びいきだが、元就はいくら信玄でも相手が悪すぎるでしょ。
悔しいが元就は真の天才。

138人間七七四年2013/10/08(火) 10:47:57.86ID:2cFuMLiR
>>137
>>君主個人の能力では元就がずば抜けているだけであり
>>元就は真の天才

で、その結果に至った根拠はまだなの?何かの読書感想文ですか?

139人間七七四年2013/10/08(火) 15:05:59.01ID:UD/zJe//
大友に大敗し、
尼子残党の脅威にビビりつつ、
毛利滅亡を憂い死んでいった元就…
尼子残党に苦戦し元就の葬儀すら出席出来なかった元春…

140人間七七四年2013/10/18(金) 11:43:55.78ID:hz0WLdSj
武田厨必死だなw
誰も興味ないのにw

141人間七七四年2013/10/18(金) 14:57:39.87ID:S7OV0F3K
逆恨みから織田厨が武田貶しでスレ立てしてる時点で
織田厨の必死さが粘着偏執ストーカー級。

142人間七七四年2013/10/21(月) 00:20:06.62ID:S99DlIgg
>>139
うちの尼子を使って毛利を叩くな。
毛利元就はいい将だった。
なんの争いか知らんが迷惑千万。

143人間七七四年2013/10/23(水) 07:24:34.76ID:RVtZ7LHI
●菅沼速い!殺人コピペ連投に歴ゲー仰天
●菅沼豪弾15発!歴ゲー住民コピペ停止指令
●ド迫力の新助っ人菅沼、信長罵倒任せろ
●秀吉罵倒任せろ!菅沼、甲斐の虎の魔よけや!!
●誹謗中傷も合格点!菅沼、織田厨叩きイケるやん
●自演で安心「コピペ・中傷」菅沼“一発合格"
●死角なし!菅沼遼太、戦国板でも25発
●巨体菅沼が大連投!ド迫力コピペで一気dat落ち
●運営・削除人、菅沼の活躍に太鼓判!
●ドドドドドッ怒・菅沼、走る荒らしや
●運営唸った!“連投"菅沼が歴ゲー殺した
●運営不敵!特定歓迎、菅沼の流出情報探して

144人間七七四年2013/10/27(日) 20:36:07.48ID:5+Rn+9sC
毛利は最終的に天下とってるんだから武田、織田、徳川を超えて最強だろ

今の阿部首相だって毛利の家臣の血筋なわけだし

145人間七七四年2013/10/28(月) 08:26:10.64ID:uXpP03sn
武田系の政治家といえば金丸信か・・・・
「今信玄」と言われ自身も信玄信者で一時はブイブイいわせていたが
汚職で逮捕され全てを失ってしまい失意のうちに死亡
そのあまりにも情けない終わり方は武田滅亡と重なるな

146人間七七四年2013/10/28(月) 10:16:54.47ID:bdPeZTmw
村上義清を雑魚とか>>1が言ってる時点でこのスレは終わってる

147人間七七四年2013/10/28(月) 15:57:22.69ID:CJTXh89M
誰がなんと言おうと信玄公は甲斐の国や甲府の名を全国に知らしめた英雄!!
知名度だったら全国区だろ

148人間七七四年2013/10/30(水) 22:44:57.06ID:khDBnGxi
誰が優れて誰が劣るか…

どうでもいい話だ

149人間七七四年2013/12/01(日) 12:02:57.55ID:ZnaAz+/d
なるほど

150人間七七四年2013/12/03(火) 16:09:56.28ID:d1768vTN
>>147
どっちかと言えば
勝頼さんが信長に滅ぼされたことで、勝頼さんを貶す過程での信玄公人気もしくは
信長スゲェの為の信玄公人気
じゃね?
武田自体は頼朝公の時代にはすでに結構な勢力だったんだし

151人間七七四年2013/12/15(日) 23:13:47.21ID:t8eyuVbD
>>39
>>112
なんでもかんでも障害者のせいにするゴミクズ
史んでしまえ蛆虫

152人間七七四年2013/12/19(木) 19:35:52.46ID:qbJdFk4l
三行にまとめろよ

153人間七七四年2013/12/19(木) 23:23:56.63ID:lwTuvRfL
信玄だけををやたら神クラス扱いするのは結局は主家裏切って織田徳川に『時勢を読んで』くらがえしたいいかえれば裏切り旧臣の子孫が
先祖の行いを正当化するための行為と思ってるわ江戸からこっちの武田氏研究とやらの流れみてると
山梨長野には絶対行かないw人間悪そう

154人間七七四年2014/01/03(金) 23:46:33.62ID:eJc+kPtZ
うn

155人間七七四年2014/01/04(土) 14:52:58.20ID:6UGXGF5e
>>『時勢を読んで』くらがえしたいいかえれば
それほとんどすべての大名家に言えることだろアホw

156人間七七四年2014/01/22(水) 20:11:01.12ID:VvbYEpdc
丸馬出の武田の城、諏訪原城の城ラマ。
http://mirai660.net/castle/suwaharajyoh_model.html

157人間七七四年2014/02/07(金) 23:59:13.89ID:t1vv2695
武田信玄は織田信長以下の実績しか残してないからな

Sランク 徳川家康・豊臣秀吉・織田信長
Aランク 北条氏康・毛利元就
Bランク 今川義元・三好長慶
Cランク 上杉謙信



ゴミクズ 武田信玄

これが世間一般の評価

158人間七七四年2014/02/23(日) 13:51:33.15ID:npERWvAJ
厳島合戦以降、周りほとんど主だった敵がいない中国地方統一に明け暮れた
だけの元就など問題外
信玄のように生涯周り敵だらけな状況で勢力を伸ばす方が実力は上に決まってる
毛利オタは北条オタ同様戦国乞食の集まりwwww
200戦無敗という大捏造軍記物はどうした?(笑)

159人間七七四年2014/02/23(日) 14:22:46.67ID:w3aAiql7
○織田対上杉  謙信生前…1万8000程度の寡兵で柴田&織田家オールスター武将4万以上に正面衝突で大勝
謙信死後…  御館の乱やその後の内戦・新発田の乱につけこんで圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で能登・加賀・越中を火事場泥棒したのに
越中中部で天正8年から天正10年半ばまで2年も足止めされた挙句土肥・小島・須田などに大苦戦しロクな防備もなかった平城の松倉の枝城にすぎない魚津城攻防で上杉が信濃に
派兵した隙をついて 居留守泥棒的に行ったにもかかわらず大苦戦。松倉の須田に手も足も出ずに苦戦し撃退
新発田は完全に新潟から排除されて下越で包囲され逼塞
連発した内戦による瓦解・信濃5000・越中加賀能登越前飛騨(美濃の諸将も援軍に来てた)55000・下越2000・奥州(?)・上野(20000)
から総兵力8万そこそこで動員兵力5000〜8000そこそこの上杉に信濃長沼で敗北越中中部で苦戦した織田軍
上杉37万石程度(御館の乱や新発田の乱で極端に瓦解)に 伊達・芦名・新発田と共同戦線で9倍の兵力差でもって
2年も越中中部〜魚津・松倉のわずかな区間で進めず立ち往生
金森ら飛騨口部隊も松倉に手も足も出ず 森は長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北 新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞
上杉5000〜8000に対して総勢8万そこそこで廻りから総勢で攻め込みまくって勝てなかったのが織田家トップの柴田

武田対織田…
上村合戦…武田の圧勝。東美濃攻防戦…武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方ヶ原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間・平手・滝川・水野・前田兄の大軍2万が敗走、平手・前田兄戦死
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり
長篠の戦い…「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
○武田と徳川…三方が原の戦いで織田の大軍2万&徳川8000を見事正面衝突で敗走させられる
勝頼時代も大いに苦戦し田中城に手も足も出ず高天神城に大苦戦
○織田と徳川…織田は大軍で寡兵の浅井に苦戦し当時の織田四天王の息子の坂井久蔵戦死。
徳川は寡兵で大軍の朝倉に勝利し、瓦解した織田軍を救って引き分けもで持っていく

秀吉…小牧長久手で家康より遥かに戦下手で織田家で最も無能で伊賀攻めに失敗し信長の勘気蒙り縁を切られそうになるアホ信雄に135000の大軍で挑んで
1万人殺される大敗。その後の攻防も二重堀・蟹江・前田・下市場・松ノ木・浜田・長久保・東駒野・河波・神戸攻防で敗北
二重堀合戦では防衛戦にもかかわらず1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられる
蟹江・前田・浜田・下市場・長久保・神戸は秀吉方本陣から程近い距離にあるにもかかわらず見事に寡兵の信雄に奪回される


以上をまとめると上杉>>武田>>>>>>>>徳川>>>>>>織田>>>>>>>>>>豊臣

160人間七七四年2014/02/23(日) 14:23:54.85ID:w3aAiql7
豊臣…徳川家に滅ぼされる 信長&織田家…光秀に滅ぼされる 徳川家…天下を取る  
武田家…織田・徳川軍に勝ちまくり両家ともに滅亡寸前にまで追い込む 
上杉…武田に大勝する。織田を半分以下の兵力で瞬殺し1800人討ち取る
秀吉…織田で最も雑魚な信雄やアホ輝元に10000人&3000人殺される。滝川に伊勢で蹴散らされまくる 本多500に20000の大軍で敗北する 
北条…滝川18000を瞬殺し6000人ぶち殺す

史実の戦績で本多500>>>>>秀吉軍20000(小牧長久手時の後詰妨害の攻防)
織田徳川16000〜17000>>>>>>秀吉軍135000(決戦しかけたら1万人戦死の大敗)
滝川6000〜8000>>>>>>>秀吉軍60000(天正11年の伊勢の攻防、ゲリラ戦で苦しめられまくり7月まで篭城
(3/4柴田→填島書状、滝川事書本多氏論文)柴田・信孝の降伏で勝ち目なく降っただけ)
だから滝川破った氏直は秀吉の20倍くらいの戦闘力はある

信長や秀吉は畿内・美濃に大苦戦。 家康は瞬殺した。その家康は諏訪高島で北条相手に敗走。
秀吉は信雄相手に7.5倍以上の圧倒的兵力で1万人以上ぶち殺された。
氏直は信雄より遥かに勝る家康相手に諏訪高島・乙骨で勝利し、全体でも引き分けした。
秀吉は6万の大軍を伊勢で滝川に蹴散らされまくり大苦戦。北条は三万で滝川18000を瞬殺し6000人討ち取った。
豊臣家は家康に滅ぼされて滅亡
北条家は江戸期も存続。旧臣らは家康配下で重宝され、統治システムも豊臣ではなく北条家の物が受け継がれた

小田原合戦時の陣立書で全国から215000&佐竹結城里見宇都宮ら2万で235000。
北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。秀吉書状で2、3万。兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前
そんな戦闘で重臣一柳や堀尾の子、前田重臣、平岩弟が戦死し、氏家行継負傷。韮山500に大苦戦し小田原1000程度や忍1000に手も足も出ない。
勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが北条方の兵力が集中した上野・武蔵・下総の諸城落としたおかげ(ちなみに勝ってない。講和開城しただけ)
北条側は主戦派抗戦派割れるなど戦意0で松田大道寺皆川北条氏勝など寝返り・抗戦意思なしで降伏する者ばかりの戦意0の状況
享禄以来年代記によれば豊臣軍は29万。また榊原書状や那須記など50万の大軍。にもかかわらず忍小田原韮山など1000〜500そこそこの拠点も落とせず
兵站維持できるギリギリのところまで追い込まれる

北条>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉

×武田が実力で信長に滅ぼされた
○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒
こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無 今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな

以上をまとめると武田>>>徳川・北条>>>>>>織田>>>>>>>>豊臣

161人間七七四年2014/02/23(日) 14:24:57.66ID:w3aAiql7
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長  姉川
謙信>>>>柴田  手取川
謙信>>信玄    川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉  84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉     しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉      伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉   小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉            尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川            神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族   中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津       九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦       鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直            天正壬午
仁科>>>信忠  高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀     二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部     戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、
豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない)
にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ
武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も
出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく
やられまくった毛利

162人間七七四年2014/02/23(日) 14:26:12.29ID:w3aAiql7
これらをもとに能力をつける 
 天下人の家臣団 
   政治  統率  知略 
家康  110 114 108
本多  77 105 80 
酒井  87 95 93
井伊  85 94 93
榊原  50 94 70
大久保 47 83 76
氏康  120 105 108
氏政 96 83 84
政宗  107 97 96
盛氏 86 99 95
元就 96 107 120
小笠原 73 78 60
依田 47 82 86
大須賀 58 82 64
天下人を苦しめた武田家臣団
信玄 97 110 96
馬場 80 93 79
山県 70 99 74
香坂 78 96 85
内藤 79 88 85
秋山 58 85 83
仁科 60 88 69
そのライバル上杉
謙信 87 120 76
景勝 83 100 86
本庄 70 99 59
斉藤 82 93 85
柿崎 30 97 12
須田 78 82 85
山浦 50 86 70
天下人の踏み台にされた雑魚共

       政治  統率  知略
信長(笑)    90 71 86 
秀吉(大 爆 笑)89 13 89
光秀       85 79 80
滝川       70 77 83
柴田       60 83 52

贔屓目にみてもこんなもん
他の連中はこれ以下のカス
織田厨の大好きな
信忠(笑)   50 28 30
蒲生(笑)   60 55 68
丹羽(笑)   70 15 67

カス武将の集まり織田軍

163人間七七四年2014/02/23(日) 14:27:45.40ID:w3aAiql7
信長や秀吉は畿内・美濃に大苦戦。
家康は瞬殺した。
その家康は諏訪高島で北条相手に敗走。

秀吉は信雄相手に7倍以上の圧倒的兵力で1万人以上ぶち殺された。
氏直は信雄より遥かに勝る家康相手に諏訪高島・乙骨で勝利し、全体でも引き分けした。

秀吉は6万の大軍を伊勢で滝川に蹴散らされまくり大苦戦。
北条は滝川を瞬殺した。

豊臣家は家康に滅ぼされて滅亡
北条家は江戸期も存続。旧臣らは家康配下で重宝され、統治システムも豊臣ではなく北条家の物が受け継がれた

小田原合戦時の陣立書で全国から215000も動因してる上にこれに佐竹結城里見宇都宮など反北条軍2万
が加わるから235000。
それに対し北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。
秀吉書状で2、3万。
兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前

そんな戦闘で一柳や堀尾の子、前田重臣が戦死し、氏家行継負傷。韮山500に大苦戦し
小田原1000程度や忍1000に手も足も出なかったのが秀吉。
はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方だったおかげ。

しかも北条側は主戦派抗戦派割れるなど戦意0で松田大道寺皆川北条氏勝など寝返り・抗戦意思なしで降伏する者ばかりの戦意0の状況

北条>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉

小田原合戦時の陣立書で全国から215000も動因してる上にこれに佐竹結城里見宇都宮など反北条軍2万
が加わるから235000。
それに対し北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。
秀吉書状で2、3万。
兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前

そんな戦闘で一柳や堀尾の子、前田重臣が戦死し、氏家行継負傷。韮山500に大苦戦し
小田原1000程度や忍1000に手も足も出なかったのが秀吉。
はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方だったおかげ。

しかも北条側は主戦派抗戦派割れるなど戦意0で松田大道寺皆川北条氏勝など寝返り・抗戦意思なしで降伏する者ばかりの戦意0の状況

北条>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉

享禄以来年代記によれば豊臣軍は29万。また榊原書状や那須記など50万の大軍。
にもかかわらず忍小田原韮山など1000〜500そこそこの拠点も落とせず
兵站維持できるギリギリのところまで追い込まれた雑魚豊臣軍

秀吉は伊勢で滝川に蹴散らされまくる(3/4柴田→填島書状、滝川事書本多氏論文)
北条は滝川を瞬殺。6000戦死の壊滅的大勝

豊臣家は家康に滅ぼされて滅亡
北条家が江戸期も存続

北条>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉

164人間七七四年2014/02/23(日) 19:13:05.47ID:auaSI604
あのね ソ連もベルリンの戦いでドイツ軍以上に死者が出たけど、
勝ったのはソ連 ヒトラーは自刃した

死者がどんなに出ようが、当初の目的を果たしたほうが勝ちなんだよ
わかった?

165人間七七四年2014/02/23(日) 19:29:13.64ID:O5dhDyb1
つうか犠牲者が多い方が負けって敗者の言い訳だしな
太平洋でもアメリカは多大な犠牲者を出してるが
アメリカが負けたなんて言ってる奴は1人もいないしw

166人間七七四年2014/02/23(日) 21:29:10.48ID:w3aAiql7
日本がそれ以上に殺されたからだろ

167人間七七四年2014/02/23(日) 21:31:04.43ID:4Yq1E0X0
信長は最終的に光秀に殺されて負けたじゃん
弱体化しきった斉藤や内訌で分裂した北畠に負けまくり対浅井の敗戦や観音寺騒動でよわりきった六角、統制が取れずバラバラな三好などを
火事場泥棒して版図広げるも光秀との戦いに敗れ信長殺されて滅亡、
結局棚ボタの連続で領土が一時的に広がっただけだから光秀にあっさり殺されて死んだだけ
秀吉も織田家を一時火事場ドロして勢力広げたけど結局徳川に大敗して滅ぼされたし

168人間七七四年2014/02/23(日) 21:32:22.84ID:ECNwx1Rw
>>162
織田や豊臣は負けてばかりいたし結局滅ぼされたから低評価でも仕方ないと思う
ただ西日本や畿内は経済力が圧倒的だったしそこが動乱の影響で分裂・弱体化・内訌の隙をついて
棚ボタ火事場ドロするのをどう表現できるかだね

169人間七七四年2014/02/23(日) 21:33:15.00ID:W/EfFkMH
光秀に殺されて死んだ信長w

最貧国甲斐から上杉北条織田徳川など国力に勝る相手に領土切り取りまくり150万石まで広げた信玄w
結果でいえば信長は能力0だからなぁ
経過をちゃんと考慮して石高なんぞで比べず状況や運やら地理条件考慮するってのならわかるが

170人間七七四年2014/02/23(日) 21:34:14.47ID:ECNwx1Rw
信長や秀吉って史実では圧倒的大軍を寡兵の雑魚的に蹴散らされて滅亡しただけだからな

一時畿内が動乱の影響で疲弊して幕府が助けを呼んだ隙に棚ボタ的に領有した時期もあったが
結局実力で切り取ったわけじゃないからあっさり殺されて滅ぼされただけだし

171人間七七四年2014/02/23(日) 21:35:03.62ID:Q2NihLOV
大局的に見た場合信長や秀吉は光秀に殺され家康に滅ぼされただけ。

一時動乱の影響で疲弊しきった畿内を先代からの異常な遺産で棚ボタ的に奪っただけでアホみたいに過大評価されてるからね

172人間七七四年2014/02/23(日) 21:35:39.08ID:4Yq1E0X0
最大石高なんて自国の周辺国が弱体化・分裂してたり自国の国力に比べて弱小かどうかってだけの話じゃん
なんで比べる基準が「最初〜最後までの結果」あるいは「最初から最後まで経過や状況考慮した個々の戦闘や外交や内政などの考察」
ではなく「最初から最後までのある特定時点での比較(経過・状況等も無論無視)」なのか意味不明
そんなんがありなら本能寺時点で広範な領土があった織田家は信長が殺され結果的に大きく版図が減少したから
一代で失った石高ランキングでダントツトップだからダントツ最下位クラスだなw
まあ最大石高なんてある一時点での考察にすぎないし結果だけでみるなら光秀に殺されて死に織田家を木っ端微塵にされた信長は能力0だしな

173人間七七四年2014/02/23(日) 21:38:35.05ID:f4USNMUt
確かに。
比べる基準が「最初〜最後までの結果」あるいは「最初から最後まで経過や状況考慮した個々の戦闘や外交や内政などの考察」
ではなく「最初から最後までのある特定時点での比較(経過・状況等も無論無視)」なのかが非常に不可思議。

そんなんがありなら本能寺時点で広範な領土があった織田家は信長が殺され結果的に大きく版図が減少したから
一代で失った石高ランキングでダントツトップだからダントツ最下位クラスだなw

まあ最大石高なんてある一時点での考察にすぎないし結果だけでみるなら光秀に殺されて死に織田家を木っ端微塵にされた信長は能力0だしな

光秀に殺されて死んだのが信長


結果でいえば信長は能力0だからなぁ
経過をちゃんと考慮して石高なんぞで比べず状況や運やら地理条件考慮するってのならわかるが

174人間七七四年2014/02/23(日) 23:33:54.67ID:O5dhDyb1
見事に単発IDの嵐wwww
こんなバカだから住所と電話番号まで流出させちゃったんだよね・・・・

175人間七七四年2014/02/27(木) 01:46:35.24ID:65SOp1az
武田と毛利のその後を見れば一目瞭然だろ
織田に速攻滅ぼされた最弱武田軍を作り上げた信玄
つーか、織田家の嫡男と婚約関係にあったのに
死ぬ半年前に同盟裏切って東美濃侵攻とかボケ入ってただろ

176人間七七四年2014/03/06(木) 15:42:01.09ID:A79Dox44
>>175
織田領攻め込まずに徳川だけ虐めりゃよかったのにな。
「HEY織田!徳川なんて貧弱BOYは捨てて俺とやらないか?」

177人間七七四年2014/03/22(土) 16:48:09.72ID:0D5Wcx9N
【高根城(静岡県浜松市)】
http://mirai660.net/castle/takanejyoh_model.html

178人間七七四年2014/03/22(土) 17:05:17.56ID:+7WiNT9Y
今で言えば毛利元就は田舎の従業員数=身内の数の超零細企業からスタート。
信玄は田舎選出の代議士クラスからスタート。

毛利さんに一票

179人間七七四年2014/03/22(土) 17:26:51.01ID:pe8FhRH8
甲斐武田氏は何度も断絶してるし、逸見氏や跡部氏といった守護代の専横に敗北してるから
代議士なんて身分スタートなわけがない。落ちぶれてナメられまくられて甲斐に入国することすら
もう勘弁してほしいって泣きを入れて在京を続ける駄目当主が甲斐武田。

毛利は土着化に成功し地元安芸や備後の周辺国人の支持を得て一揆の首領として、
一揆仲間を統合して幕府や大内に数の論理で要求を通すヤリ手ヤクザ。

180人間七七四年2014/03/23(日) 08:35:05.87ID:Z2VA1xCP
毛利は反上位権力国人一揆のリーダーとしてその婚姻関係をフルに使っている為に
保護者である大内も尼子も一目を置かざるおえない強固な立場で両天秤にかけてちょくちょく加増してもらう楽な立場。
そもそも毛利は安芸に鎌倉時代から割拠して代を重ね、1404年一揆契約においては
総領光房以外に毛利は4人も連署に加わったほどの発言力で安芸一揆の盟主の地位が毛利家。
毛利光房・平賀妙章の一揆中心人物が義満の一揆討伐軍派遣を逃れる為に降伏交渉しており
山名氏を通して降伏し七通の赦免の御教書を出してもらう予定だったが時期に恵まれず
特に毛利光房がたびたび懇願していたのにも関わらず義満が死去で沙汰止み。
ちなみに元就マンセー論では一揆を対等な同盟と捏造してるが
本来は首謀者がわからないように傘連判の形式にしているだけ。
渡邊世祐氏によれば1517年の毛利所領は40余りの荘を保有し判明している7荘だけで5700貫に上るとしていた。
毛利家文書151・252号によれば1475年備後国伊多岐・重永・山中など世羅台地にも毛利は3000貫を獲得し備後国にも発言力を持っている。
つまり毛利の3000貫しかなかったってのはそもそも大ウソなんだよw
そんで大内と尼子の間をくるくると渡り歩いては加増してもらってる。
安芸最大勢力の傘連判一揆は、代表の毛利と通じて直接、幕府に意見を言えるし、
一揆で結合して、上位者の大内へ意見を言ってくるので、大内もそれを無視できない。

安芸可部七百貫・温科三百貫・深川上下三百貫・玖村七十貫等の地を
大内から加増してもらった大恩を忘れ大内を裏切り元就が晴久と義兄弟にまでなっている事実・・・
1541年大内から佐東や安南に合計1000貫の所領をもらい
翌年には武田の一族判氏の遺領である判の地も貰い武田の佐東川川口の川内衆水軍をもらう。
(大内は備後北半七郡直接支配は元就に委ねている)
陶の謀反に同調した元就は陶が厳島接取した同日8/20金山城(武田の主城である佐東銀山城)を手に入れ、
陶から己斐河以東の左東郡を与える約束をしてもらっている。
また9月には義隆側の孤立無援の西条槌山城も手に入れる。
(大内が安芸東部支配の牙城にしていた西条鏡山城を廃して新たに築城した)
周防16・長門13
備後18・安芸19
だもんな。しかも陶は周防からしか動員できないし。
そもそも中国地方なんて石高の低いしょぼい戦しかないだろ。
鴨川氏も港湾収入なんて、それまでの徴収者が据え置かれてるから
港湾地域を支配に加えても毛利の収入はそれほど増えなかったとしてるし、
瀬戸内海での港湾からの上がりも期待できなかっただろうし。

181人間七七四年2014/03/23(日) 11:55:28.24ID:p4KwOZQx
一目置かざるを得ない、な
一目置かざるおえない、じゃなくて

182人間七七四年2014/03/29(土) 04:25:44.52ID:17mFQUYB
毛利元就にきまってんだろ

183人間七七四年2014/03/30(日) 20:56:37.82ID:oNk3czD2
大岡城の城ラマ来てるね。
http://mirai660.net/castle/ookajyoh_model.html

184人間七七四年2014/03/31(月) 01:16:07.07ID:dAQU1NDd
毛利厨はあちこでスレを荒らしまくているそうですね。

ヘタれ。

185行断2014/04/11(金) 06:07:33.14ID:fBQJWvHc
輝元は平凡な男らしいぞ。
元春と隆景のいうことだけを聞いていた。
ただ、恩情に熱い人間だったみたいだな。
大河ドラマでは、元就は、愛妻家で、優柔不断で、心優しき男だったけど、そんなことあるはずないよな。
元就画を見てもメチャクチャ悪そうな顔しているじゃないか。
武田信玄も、大河ドラマでは、良き領主だけど、山賊の親玉みたいな男だったらしいから。
元春は、武闘派で、信長と戦うつもりだった。
知将隆景が、輝元を抱き込んで、和睦した。
まあ、でも、毛利のその後を考えると、元就以降、大物がいなかったんだな。
ところで、長州は、幕末、怒る感情しかないようだったけど、やはり元就がそうだったのか!?

186人間七七四年2014/04/25(金) 16:35:48.18ID:kpEi54W7
関ヶ原で毛利一族を統率出来なかったのは一概に輝元のだけのせいって訳でもないけどね
まぁ中国を統率する器じゃないわな(´・ω・`)

187人間七七四年2014/04/26(土) 20:08:18.10ID:RX3l1rUj
>>186
内部分裂してるやつを叩いたら大きくなっただけで、結局自分たちも同じ運命だもんなw
何一つ学習してないwww

188人間七七四年2014/06/02(月) 09:27:14.36ID:34TZvxC3
毛利ってバカしかいないからな。

189人間七七四年2014/12/05(金) 23:09:15.25ID:riTWEyjZ

190人間七七四年2015/01/30(金) 01:15:06.91ID:52d2hSoU
毛利の関ヶ原も大概酷いが、名門甲斐源氏を滅ぼす原因を作った信玄勝頼はそれ以上の無能
大国を纏める器がなくても小国を纏める器はあったが、武田はそれすらなかった

191人間七七四年2015/02/18(水) 12:15:57.64ID:eOSktrp0
・今川が討たれたら同盟者の弔いと称し直ちに自軍+今川の残存兵力で
織田に攻め入れば織田今川の領土もろとも手中に収められたのに
全くアクション起こさなかった。
・家康の才能・将来性を見抜けずいじめ続けた孕石元泰を配下に加えた。

猛田真幻は見事なまでに無能

192人間七七四年2015/05/02(土) 07:39:47.96ID:is+AcUZd
づjど

193人間七七四年2015/05/02(土) 21:43:49.66ID:e79EkkBq
元就が関東甲信越で信濃勢や北条や上杉とのシーソーゲームに勝てるとは思えないんだが
毛利と武田で状況が違うし

194人間七七四年2015/05/05(火) 15:59:33.54ID:NwC8u9cJ
元就の場合火事場泥棒はうまいので上杉や北条と表面上仲良くして、互いに争い出したら漁夫の利作戦だろう

195人間七七四年2015/05/06(水) 00:40:14.47ID:PDetmCDM
それ以前に甲斐という穀類しか満足に育たない不毛地帯を本拠地に元就が火事場泥棒やれるまで国力蓄えられるか疑問
近隣の大国である北条、上杉、今川はみんな海と港持ってるし
後、野戦で家康に勝つのも無理だと思う。まぁ元就は上洛は考えない気がするけど

196人間七七四年2015/05/08(金) 08:50:17.50ID:Ekk0wL1H
>>193
いや逆に信玄が毛利のところに置かれても
尼子大内を潰す未来が見えないだろ
大内の腰巾着として生きる未来しか見えん

197人間七七四年2015/05/08(金) 12:33:31.91ID:19r3G3gl
「毛利元就が甲斐にいても上杉・北条に・・」とか言っている人は、
元就が、上杉・北条以上に巨大な大内・尼子を滅ぼし、山名らを侵食した事実を見ようぜ

198人間七七四年2015/05/08(金) 13:25:05.83ID:4VYonDcZ
大内と尼子はすぐに滅びた
上杉は江戸末期まで、北条は戦国末期まで死線はあれど最大勢力として残っている
武田を凌ぐこの二家よりも、西国で漁夫の利や新興勢力に潰された戦国中期までの家が巨大とは片腹痛い

199人間七七四年2015/05/13(水) 00:54:40.64ID:TOFV+hsB
大内は巨大だろ。上杉の全盛期(山内上杉時代)を凌ぐんじゃないのか?

200人間七七四年2015/06/02(火) 19:21:34.05ID:oR06FpsR
いやいや大内より山内上杉顕定の方が超巨大。
長尾景春の乱のときは、山内上杉への援軍に越後上杉軍と扇谷上杉軍も集結してきて
三軍合同軍を動員して長尾景春にぶつけてきてるんだぜ。。

201人間七七四年2015/06/06(土) 12:47:58.23ID:WjgY6uX0
大内義隆尼子晴久死後の両家なら
信玄余裕でr滅ぼせたと思うよ

202人間七七四年2015/06/13(土) 15:14:50.34ID:X13vJz/I
安芸で瞬殺され、若狭ではゴミ扱いされた武田の地元居残り組の落ちこぼれが優秀な筈がないだろ

203人間七七四年2015/06/24(水) 07:49:07.18ID:UAy+ozLL
家督を継いだ時の勢力や家の家格が違うだろう。

武田は甲斐の国を支配してて、代々守護の家だから圧倒的に有利。
毛利は名門(大江氏)とは言え、安芸の国の国人でしかなく、まず、守護の武田氏を滅ぼさないといけなかった。

204人間七七四年2015/08/02(日) 18:41:50.36ID:p691cD+s

205人間七七四年2015/08/02(日) 19:18:35.89ID:nn2Xz3gP
>>197
国力あっても大内と尼子の戦争の強さなんかその小田原北条や越後上杉には到底及ばないよ
結局は国力や権威だけに胡座かいてるから下克上されるわけです
山内上杉も大内も尼子も細川も山名も斯波もね
そもそも北条の伊豆と小田原は謀略で奪った国だし

毛利元就なんて野戦で徳川に勝つ謀略巡らす事すら難しいだろ。陶みたいな浮わついた重臣は徳川にいないし、家康はそういう無謀で失墜する政治はしてない
直接対決苦手な信長にとってもむしろやりやすい方
明智や村井が統制してる織田軍に毛利が楔打ち込むまで何年かかるやら
武田が包囲網の時に猛進撃出来たのは信玄自身が兵法家であり兵隊も強かったから
武田は奸系なんか使わなくても勝てるんだから

206人間七七四年2015/08/02(日) 19:29:48.37ID:eomOFij3
誤字脱字だらけで酷すぎる。ちょっと落ちつけ。

207人間七七四年2015/08/12(水) 23:49:00.02ID:w4Xs/OmU

208人間七七四年2015/08/12(水) 23:50:12.21ID:w4Xs/OmU

209人間七七四年2015/08/22(土) 12:18:37.19ID:K6Q0n2bv
守護が次々に滅亡しているように
守護が生き残る方がたいへん。
まず褒美に与える土地が残ってない。
同族系家臣団それぞれにたんまり領地を持ち発言力も強く宗家が傀儡にされてて実権がない。
守護代と組んだ下々の人間が一揆同盟を作り対抗されると妥協しないとやっていけない。

210人間七七四年2015/08/23(日) 05:30:48.39ID:wyU3mE7S
信玄は雑魚だから大体の群雄と比べると劣る
圧倒的に数に劣った家康を倒しただけでも万々歳
そして死のタイミングも完璧
武田信玄という男の評価はこの時点で完成された
上洛だの天下だの、余分なものをつけるのは無粋というものである

211人間七七四年2015/08/24(月) 01:13:11.25ID:yfUflkIA
>>210
大方同意だけど、
三方が原の戦いの兵数は互角、もしくは、
織田・徳川連合軍が多かったという説が最新。

212人間七七四年2015/08/24(月) 01:37:20.10ID:KSWMNVeW
>>210
ほんと死んだタイミングが絶妙だな。信玄が生きてれば長篠も勝てたとか戯れ言抜かす馬鹿いるけど
生きてても織田、徳川連合にボコボコにされてた未来しか見えないわw

213人間七七四年2015/08/24(月) 08:32:02.59ID:xIFum2CS
>>211
流石に織田徳川の方が多いはないと思うが
というか、織田徳川の方が多いなら織田はどれだけ
総兵力抱えてるのかってなってしまう。
全兵力あわせたら武田の4倍くらいあったのか?

214人間七七四年2015/08/24(月) 09:41:02.27ID:BPDuxrHx
三方が原の敗戦後は岐阜に引きこもりしてたし
信玄が三河から撤兵した後の信長が
入京した際は細川荒木と合流してやっと1万にしかならなかったしな。

215人間七七四年2015/08/25(火) 00:23:52.96ID:LnMhOJ1A
また菅沼のデタラメか

216人間七七四年2015/08/26(水) 02:20:12.21ID:D+RvrdeA
>>213
正確には織田、水野、徳川連合軍だったんだよ。
美濃、尾張、三河の軍勢かき集めれば武田の2万ぐらいは軽く超えると
考えられる。

217人間七七四年2015/08/26(水) 06:53:41.76ID:12bV9mtU
美濃尾張の全兵力かき集めるなら
長篠みたいに信長自ら出るわなw

>>215
菅沼遼太は京に攻め入った軍勢1万を
なぜか織田の総兵力だと強引なアスペ解釈してるからなw

菅沼遼太史観によると武田信玄は美濃を調略して
今すぐにでも織田領国に入れる状態になってるにも関わらず
なけなしの兵を全て動員してなぜか足利を攻める信長www

218人間七七四年2015/08/26(水) 08:31:28.22ID:8V2t3O8z
1万で二条城を攻めあぐね、
フロイス日本史でとても落とせそうにないと書かれ、
その理由は信長が丹波の内藤が味方してくれると淡い期待が裏切られたこと。
さらに六角に背後を閉じられ、袋のネズミになり
家康に援軍を出してくれと土下座したのが信長。

219人間七七四年2015/08/26(水) 12:27:11.86ID:aiQ/B/qH
たった一万で大逆転した信長は戦の天才でいいよね?菅沼君

220人間七七四年2015/08/28(金) 18:25:49.80ID:e2gwMuEp
>>217
仮に濃尾総動員したとしても信長は三方原に行けない
武田信玄より目下の浅井長政のが問題なんだから

221人間七七四年2015/08/28(金) 23:37:20.55ID:iJpyJJ4E
浅井長政は秀吉が完全に抑えているから大丈夫。

222人間七七四年2015/08/29(土) 14:15:10.73ID:5CFpULDk
秀吉が浅井を抑えられるなら織田徳川連合は武田に勝ってる

223人間七七四年2015/08/29(土) 18:45:03.00ID:PlO6/sZN
柴田負傷、滝川は一向衆に敗北。

224人間七七四年2015/08/30(日) 19:11:36.78ID:rO7BiSe/
飢餓状態で降伏した百姓にすら大敗する最弱織田軍。

225人間七七四年2015/08/31(月) 17:43:26.16ID:5pvUyD2B
>>219
それな
武田厨って現実見えてないよなw

武田厨や菅沼遼太の言い分が正しければ、織田軍1万(+降伏寸前の徳川軍数千)VS反信長連合12万(+6万の大軍を率いる武田軍)で
既に信長が圧倒的不利で瞬殺されてもおかしくない状況。

信玄みたいな病気でノロノロ行軍するような足手まといなどいなくとも
朝倉なり足利なり三好なり浅井なり六角なりが信長の首を取って
三条河原あたりに信長の首が晒されていただろうw

なにせ武田厨が言うには既に武田が圧倒的優勢にもかかわらず
信長は浅井や朝倉や足利に連敗を繰り返すような雑魚なのだからw
まさか信玄が死んだくらいですぐにこいつらが瞬殺されるなどとありえないことが起こるはずもないだろうなw

226人間七七四年2015/08/31(月) 22:48:37.82ID:IPDYmZwA
菅沼遼太また涙目脱糞敗走wwww

227人間七七四年2015/09/01(火) 01:21:52.78ID:44YSz6BB
>>225>>226
菅沼文太くんちーすw

228人間七七四年2015/09/04(金) 13:44:59.86ID:t05OisXd
織田厨は常に大うそつきだから無視推奨。

>>667
>>信長は織田配下になった浦上に播磨・美作・備前の領地を認めてたのに
毛利は裏で宇喜多支援して播磨浸食していったように

元亀3年9/12の時点で毛利は宇喜多を支援して、
美作の三星表に兵糧を送ったり、備前にも鉄砲衆だけでなく
弾や火薬もどんどん増援するって輝元が元春や隆景に言ってるところからも
信玄の西上作戦開始前は織田支援の浦上・尼子を相手に
美作や備前で一進一退の攻防している毛利・宇喜多は
信玄の死から数ヶ月で播磨での戦いにまで戦線を一気に前進させることに成功してる。

それに伴い三村への背反行為でもある宇喜多と毛利の連合を容認させるべく
毛利派の三村親成による三村内での調整が、信玄死後の織田の西国への派兵による
軍事バランス変化が原因で破綻し三村が毛利を離反し織田と結ぶや
天正2年に備中兵乱が起き、毛利が三村を滅亡させ備中を支配すると

天正3年9/7に輝元への書状で秀吉が
「信長が義昭を上洛させるために義昭の側近の上野秀政らも異議はないから調えたい」と言ってきてるが、
天正3年5/13の時点で輝元が義昭を奉ずることに対する返書が義昭から出てるし,
翌年には義昭が備後の鞆にやってきてる。
織田と毛利は本音と建前がまったく違う反面で毛利と秀吉の間柄は親密になってきてる。
信長はおそろしい上司といった感じの秀吉だが中国大返しでの毛利の協力の下地が出来てきている。
6/7には織田へ転んだ山名に対して元春が因幡へ再出陣するのが確定しているようで
同陣を願っていた八木但馬守が許可され
11/24にはそれに伴い八木へ元春から誓詞が出されているようで返書を出してる
翌天正4年5/7の八木→元春書状によれば因幡の鬼城も開城され平定してる。
これは信玄死後に朝倉を滅ぼし越前一向一揆を鎮圧して帰ってきての
天正4年1月における丹波征討の光秀の大軍が
赤井直正への呼応による波多野秀治の裏切りによる大敗における
丹波攻略失敗による秀吉の孤立によるところが大きい。
越前一向一揆の壊滅は加賀越中一向一揆と謙信の協調体制につながり、
謙信による上洛作戦の開始に繋がり天正5年の手取川における謙信による織田の排除になる。
このことは信玄の上洛の時よりもさらに信長を窮地に追い詰めるも
翌年に謙信や赤井直正が相次いで死去した超ラッキーのおかげで最大の危機だった天正6年を乗り切ることができた。

229人間七七四年2015/09/06(日) 12:43:09.39ID:wH1gNh4/
>>228
>元亀3年9/12の時点で毛利は宇喜多を支援して、
比定が間違っているんじゃね?

宇喜多直家が浦上宗景から離反したのは天正2年(1574年)3月。
それまでは、浦上・宇喜多連合軍vs毛利かと。

230人間七七四年2015/09/06(日) 13:00:43.79ID:wH1gNh4/
>信玄の西上作戦開始前は織田支援の浦上・尼子を相手に
>美作や備前で一進一退の攻防している毛利・宇喜多は
>信玄の死から数ヶ月で播磨での戦いにまで戦線を一気に前進させることに成功してる。

浦上宗景は備前から西播磨に勢力を持っていて、その勢威を元に信長から天正元年12月に
備前・播磨・美作3カ国の朱印状を貰っているのだから、元亀3年9/12の時点で備前を失い
播磨まで攻め込まれているとは考えにくい。
元亀3年9/12の根拠となる史料は何か教えて欲しい。

231人間七七四年2015/09/08(火) 12:12:47.13ID:5UYL5ufI
所詮菅沼遼太の捏造歪曲史観だから相手にするだけ無駄
純然たる結果として織田は勝ち武田は敗れた
そして武田及び他の反信長連合軍に勝ち目などなかった

これは歴史が証明している。
信長と全面対決して無事で済んだのは上杉と毛利のみ
両方とも本能寺で信長が死んだおかげで助かった、いわば幸運の産物。
それ以外の勢力は武田浅井朝倉三好斎藤六角と無惨な結果で滅んでいる。
本拠を追われただけで済んだ足利や本願寺もまだマシな方だな

232人間七七四年2015/09/08(火) 22:32:50.27ID:BDhYIgcH
>>230
元亀3年と天正3年と間違えたんだろう。
菅沼氏は漢字読めないから。

233人間七七四年2015/09/09(水) 02:46:50.16ID:b8scflUY
年号間違いとかダサすぎるなw

234人間七七四年2015/09/09(水) 09:30:48.81ID:m17A23KK
足利義昭が対織田の芸備和睦の交渉を開始したのが元亀3年初頭。
宇喜多は毛利と和睦するのをいち早く同意。
浦上は難色を示していて、それでも元亀3年10月には毛利・宇喜多・浦上の3者同盟が成立。
そんなことも知らない相変わらず超無知を晒す織田在日だった。

235人間七七四年2015/09/09(水) 11:31:41.56ID:+4k7NR0E
なんだただの妄想か

236人間七七四年2015/09/09(水) 12:35:12.18ID:VBjtxfID
哀れ織田朝鮮人w

237人間七七四年2015/09/09(水) 16:16:51.76ID:fC8yz90N
>>211
>三方が原の戦いの兵数は互角、もしくは、
>織田・徳川連合軍が多かったという説が最新。

どういう史料に基づいて誰が言ってるのこれ

238人間七七四年2015/09/09(水) 17:58:40.22ID:5UCne7cw
三方原において兵数なんか大した問題じゃないでしょ
大事な事は当時の日本で最大勢力の織田徳川連合が武田には下馬評通り負けたって事
兵力が武田のが多いにせよ少ないにせよ、攻めてって勝ったんだからそれ以上の戦果はない

239人間七七四年2015/09/09(水) 22:03:37.25ID:7d1avz3u
>>234
>元亀3年10月には毛利・宇喜多・浦上の3者同盟が成立
これ、228と全く正反対のこと言っているぞ。
そもそも織田支援の浦上・尼子って天正元年12月以降じゃないのか?

現時点の定説は、
元亀3年10月(信玄の西上作戦開始)前は、
毛利VS浦上、宇喜多、尼子

元亀3年10月以降は、
毛利(停戦)VS浦上、宇喜多(停戦)

天正元年12月以降は、
毛利、宇喜多VS浦上、尼子、織田

自分で気付かないのか???
明らかに>>228はおかしい。
>信玄の西上作戦開始前は織田支援の浦上・尼子を相手に
>美作や備前で一進一退の攻防している毛利・宇喜多は
>信玄の死から数ヶ月で播磨での戦いにまで戦線を一気に前進させることに成功してる。

240人間七七四年2015/09/09(水) 22:50:15.58ID:3bwxFo+q
>>211
これまでは武田の兵力は徳川の2倍程度と考えられていたけど、
最新の説では3〜4倍と武田が圧倒的だったみたいだ。

241人間七七四年2015/09/09(水) 23:32:50.80ID:VBjtxfID
1685年頃成立の『織田軍記』の三方ヶ原の戦いの織田3000の援軍記述は根拠が怪しく前橋酒井家旧蔵聞書によれば織田の援軍は2万。
家康が江戸時代に「神格化」されたため、ほぼ同兵力での合戦で家康が信玄に大敗したことを書くことは「隠ぺいされた」と磯田氏は指摘。
ソースは読売新聞2013年11月27日朝刊、29ページの磯田道史「古今をちこち−『家康大敗』の真相は」

242人間七七四年2015/09/09(水) 23:40:53.36ID:SMuHAQ+P
徳川に援軍2万も送れるような総兵力ならどのみち武田に勝ち目無いだろ

243人間七七四年2015/09/10(木) 00:53:29.19ID:sBjYx7nY
やっぱり年号間違いだっったかw
織田厨にも毛利厨にも論破される菅沼くん惨めw

244人間七七四年2015/09/10(木) 01:19:19.77ID:txuHWQKa
磯田氏の説でも織田2万は岡崎から浜松までの城に分散配置されてて
三方ヶ原の戦いまで来た援軍は少ないって書いてあるんですけど…

245人間七七四年2015/09/10(木) 01:31:36.80ID:LBeVAfQF
磯田道史ってBS番組で「織田軍が覇権を握ったのは兵農分離のおかげ」って話に全乗りしてたやばいやつじゃん

246人間七七四年2015/09/10(木) 03:53:49.86ID:JKDVaHTd
菅沼遼太よりヤバイ奴なんていないだろw

247人間七七四年2015/09/10(木) 10:32:22.69ID:WyYFcebE
素人歴史好き一般大衆向けTV番組でのコメントでは、要求されるレベルが違うだろ。
他人のコメントに対して真っ向から否定しないのは大人の作法だし

248人間七七四年2015/09/10(木) 13:52:07.21ID:WyYFcebE
正反対?どこにも矛盾ないし。
ちゃんと読めよ。日本語大丈夫か?

和平に反対していた浦上宗景がついに義昭に実子を人質として出したことを受けて
元亀3年10月に毛利も
今度、芸備和平の儀 本意に非らずといえども
京都御下知の条 違背にあたわず
などと言っており浦上・宇喜多・毛利が義昭によって対織田の一大勢力に纏められている。

249人間七七四年2015/09/10(木) 15:12:43.41ID:vEsBEwLv
1569年8月から9月にかけて宗景は義昭・信長の派遣した池田勝正や別所安治の攻撃を受ける
池田や秀吉により此隅山城を落とされた山名惣領家の但馬守護山名祐豊は逃走し、
まもなく京で信長に一千貫の礼銭で但馬復帰を許されてる。但し竹田城主の太田垣氏の生野銀山は織田直轄。
毛利方の武田高信に因幡を奪われ但馬に逃げた山名豊国は尼子と織田に擁立され因幡守護の家督を継いだ。
山名豊国を後援する織田方の但馬芦屋城の塩治高清を毛利方の高信が攻撃するも撃退。
1570年4月姉川の戦い。また信長が赤井直正に丹波奥三郡の安堵を以って丹波平定完了していた。
12月信長が朝倉浅井らに屈服(志賀の陣)
1571年に織田方の山名祐豊が丹波国氷上郡の山垣城を攻撃したので赤井直正と対立し
祐豊は竹田城や此隅山城を直正に奪われたので有子山城に居城を移す。
(信長と義昭の関係の破綻が本願寺や丹波国人の離反につながっていたと言う)
1572年毛利方の高信は尼子党と山名祐豊に大敗し鳥取城を山名豊国に奪われる。
1573年4月信玄が陣中で死去。8月朝倉義景が自刃。9月浅井長政も自刃。
12月浦上宗景が信長から備前・播磨・美作3カ国の朱印状を与えられる。浦上配下になった小寺や別所が織田に反感。
この間元春が但馬南部の灰吹法導入し始めた生野銀山を狙って親将軍義昭の反織田派を糾合しつつ東進を続けており
山名祐豊は対赤井対毛利で信長に支援を求めたが義昭や本願寺らの織田包囲網の影響で支援できず
太田垣輝延が吉川に降伏したこともあり但馬守護の山名祐豊も降伏し吉川が1575年5月まだには但馬平定してる。
(因幡山名豊国と但馬山名祐豊が毛利が高信を切る条件で尼子と織田から離反しには毛利に付き高信不審死。
こういうことを普通にやる毛利に三村や南条や宇喜多らが毛利への不信の元になった)
1575年5月長篠の戦。長島一向一揆を昨年ようやく潰したのに続き8月に越前一向一揆も平定し明智を丹波征討へ。
丹波赤井直正から吉川へ太刀や馬が贈られ救援依頼が来ていたが明智の丹波攻略軍にビビって援軍に行かなかったw
6月に毛利は三村を切り捨てる条件を呑み浦上に謀反した宇喜多と組んで三村元親を攻め滅ぼす。
1575年末になり支援に来ない吉川への不信感から山名氏が織田との接触を始め芸但和睦破綻。
1576年1月に丹波の赤鬼の渾名ある赤井直正は
波多野秀治の明智への謀反もあり大勝利を得ることで山名も毛利に再接近。7月第一次木津川口の戦い。
7月吉川元春の命を受け山田重直が山中幸盛&羽柴秀吉との内通疑惑のある
福山茲正を羽衣石城下で暗殺したことを契機に伯耆南条元続が毛利を離反。
(山田が1582年羽衣石城を落城させた際の毛利の恩賞は恩賞の先行給付の濫発で土地が無く久米郡内僅か28石w)

250人間七七四年2015/09/10(木) 23:16:02.25ID:iKNH0hlk
>>248
>信玄の西上作戦開始前は織田支援の浦上・尼子を相手に
この時点で完全にニワカだな。
永禄12年(1569年)に浦上宗景が義昭・信長の派遣した池田勝正や別所安治の
攻撃を撃退したことも、信玄の西上作戦開始前に浦上と阿波三好が同盟関係にあって
反織田陣営だった事も知らないとみえる。
織田支援の浦上・尼子とか、後付け設定丸出し。

251人間七七四年2015/09/11(金) 07:04:33.85ID:iWVhiqB9
浦上はかなり態度をくるくる変えてるし、
和戦両用の構えを示してる。
それに義昭と信長が対立前には義昭側=信長側だから間違いではない。

252人間七七四年2015/09/11(金) 12:06:37.16ID:9p9cllzX
菅沼遼太はおとなしくノブヤボで信玄プレイでもやっておけばいい

253人間七七四年2015/09/11(金) 18:37:02.36ID:mSBP34OS
元就は大改革もなしにあの版図を築いたのが凄いわな
システムに頼らず自分の手腕で全部やってのけた
有能に支えられたから生き延びた信玄なんかとは比べものにならない

それが後々の両川ゴタゴタに繋がるのが難点だけど

254人間七七四年2015/09/11(金) 19:31:23.51ID:tVst6Fs4
大内と尼子を両天秤にかけて利益をひきだしていただけ。
たまたま大内と尼子が内紛で自壊したから火事場泥棒できた。
両天秤にかける手法は両川による対立構造として温存され
首謀者かつ総大将でありながら保険をかける壮大な愚行を行い関ヶ原で大失敗する。

255人間七七四年2015/09/12(土) 00:18:59.26ID:sCtDubAl
>>251
義昭は篠原討伐を小早川に命じている。
(元亀二年)六月十二日小早川文書

つまり、毛利=足利=織田vs浦上=阿波三好の関係。
君の言っている事は、毎回毎回根本的に間違っている。

256人間七七四年2015/09/12(土) 00:25:37.73ID:tPUdBT3H
バッカ。三好と浦上の協調関係は西国におけるものであって
対織田の同盟じゃねぇよ。

257人間七七四年2015/09/12(土) 00:37:17.47ID:ySL7JoHv
え?もしかして菅沼君は元就と信長の同盟関係も知らないの?

258人間七七四年2015/09/12(土) 01:07:39.73ID:ZFtDsgxL
>>254
お前の論理だと
武田勝頼は、武田信玄の残した負の遺産のせいで次々と離反されて滅びた
というのを認めることになるぞ

まあ武田滅亡の原因はこれで正しいんだがな
織田の持ちかけた同盟を破棄、御館の乱で役立たずの景勝に寝返り、新府城の建設で重税
これは勝頼の落ち度だが、家臣からの不信と四面楚歌の状況は
紛れもなく同盟を反故にして侵略に勤しんだ信玄のせい

259人間七七四年2015/09/12(土) 03:56:03.92ID:Pce4ZosO
なるほど
ここで論破されたから菅沼遼太は各所で暴れてるのか
クソホモ山賊信玄に慰めて貰って黙れよ

260人間七七四年2015/09/12(土) 08:21:18.03ID:n875n+I3
毛利厨にものすごい滅多斬りにされてるな。菅沼、虫の息。

261人間七七四年2015/09/12(土) 17:43:22.88ID:IUei+m/w
おかげで越後スレや東軍スレが荒れてるというね
>>259が文太とか認定されて押されてる
昔なら菅沼スレを建てられたものだけど即dat行きだし、どうしたものか

262人間七七四年2015/09/12(土) 17:59:18.97ID:IAEdUt6j
>>261
クソホモ山賊信玄とか菅沼スレ建てるとか、頭大丈夫???

263人間七七四年2015/09/12(土) 18:23:27.51ID:4U5rLCBl
定期的に板で悪名高い菅沼遼太を援護する>>262のレスが現れる
恐ろしいことだな

264人間七七四年2015/09/12(土) 18:26:48.43ID:BH7YK/a1
>>253
両川体制は優れた体制だったと思う。徳川家の御三家に通じる物があるかと。
しかし、どんなに優れた体制も駄目な人間が複数揃うと破綻する。

265人間七七四年2015/09/12(土) 18:31:28.75ID:BH7YK/a1
>>263
ちょっと落ち着きな。
客観的に見て文太というキャラもとても擁護できる人間じゃない。
262のツッコミも当然かと。

266人間七七四年2015/09/12(土) 19:00:19.02ID:4U5rLCBl
>>265
文太は遼太が批判をかわすために作った架空の存在
削除依頼を出した遼太(別名うんこ)とは一線を画している

267人間七七四年2015/09/12(土) 20:09:12.77ID:BH7YK/a1
落ち着けないのならもう黙ってなよ。

268人間七七四年2015/09/12(土) 22:26:44.58ID:wfe8uxp1
なお落ち着いていないと考えた根拠はない模様

269人間七七四年2015/09/13(日) 00:58:02.93ID:nokk8awN
菅沼文太黙れw

270人間七七四年2015/09/13(日) 02:46:49.98ID:rdiuOdjD
>>264
両川って、単に輝元があまりに暗君だから後世から見て結果的にそういう体制になっただけでしょ
輝元が先代、先々代みたいな優秀な君主だったら両川もさぞ楽だったろう

271人間七七四年2015/09/13(日) 04:46:22.32ID:11nWUQm9
菅沼遼太

272人間七七四年2015/09/13(日) 13:32:08.77ID:OkgZ6MG0
年号ミスを誤魔化すために、文太文太言ってるのは流石に哀れだな
菅沼遼太本人が言うには、「織田厨が菅沼遼太連呼するのは持論を論破されたからだ!(キリッ」
っということらしいが、今の菅沼遼太がまんまこの状況なのは流石に笑える

273人間七七四年2015/09/13(日) 20:10:59.21ID:UnW0nPQD
菅沼って名乗る奴は馬鹿が多いな。全員さっさと消えろ。

274人間七七四年2015/09/13(日) 22:04:28.57ID:NnKZz8K5
>>273
馬鹿なのは菅沼遼太ひとりだけ
テメェは全世界の菅沼さんに一生詫びろ

275人間七七四年2015/09/13(日) 22:15:32.05ID:D3xSQ/k4
こいつ、頭狂ってるのか???

276人間七七四年2015/09/13(日) 22:59:42.32ID:2eyU5WSv
>>275
どうしたいきなり
発作か?

277人間七七四年2015/09/14(月) 22:48:26.90ID:g4ZobSLe
>>274
文太先輩ちーすw 少し落ち着きましょう!

278人間七七四年2015/09/15(火) 03:15:43.32ID:Glx2QK7x
という落ち着きなく文太をていちゃくさせようとする>>277なのであった

279人間七七四年2015/09/15(火) 13:32:02.68ID:LAuKwNFq
ただのゴリ押しだけどなー
菅沼遼太本人はこれで「菅沼文太こそキチガイ」が定着してると思ってるんだろう
それこそ文体と意図でバレバレなんだから、手口変えればいいのになー

280人間七七四年2015/09/15(火) 16:04:40.32ID:CgWYLpif
菅沼文太ってやつも菅沼遼太ってやつも両方、毛利の話は知識がなくてできないのか?

281人間七七四年2015/09/15(火) 16:21:04.98ID:lN55cGlp

282人間七七四年2015/09/15(火) 21:22:17.06ID:Uh5XRbgF
菅沼遼太ってホント使えねーな^^

283人間七七四年2015/09/17(木) 01:14:43.44ID:v61U678B
源平1 広島武士、平治の乱で瞬殺される ミ ⌒ 彡
源平2 広島武士、伊予の盟友を裏切り土下座降伏 彡 ⌒ ミ
源平3 広島武士、変わり身の早さを嫌われ社職追放 ミ ⌒ 彡
南北朝 北関東の小豪族に北中国一帯を占拠される 彡 ⌒ ミ
室町 平賀ら広島武士、九州勢に蹴散らされる ミ ⌒ 彡
戦国1 鳥なき陸の中国で無人の荒野を行くが如く領土拡大 彡 ⌒ ミ
戦国2 東九州の大友にぼこられ涙目敗走 ミ ⌒ 彡
戦国3 天下分け目の関ヶ原で引きこもり領土削減 彡 ⌒ ミ
戦国4 毛利家、暗黒の地広島から脱出 ミ ⌒ 彡

284人間七七四年2015/09/17(木) 08:31:02.22ID:nakekGDV
>>255
おいおい元亀2年はまだ義昭と信長は対立前じゃん。

285人間七七四年2015/09/17(木) 22:39:26.32ID:ytwikQGb
>>284
菅沼君さ
当たり前のこと言ってどうしたの?
もしかして『=』の意味が分からなかったとか?
この場合、同じ側って意味だよ。

286人間七七四年2015/09/17(木) 23:05:08.23ID:kpsqrq1M
=って6歳で習う全世界共通記号

287人間七七四年2015/09/18(金) 14:51:05.80ID:OVpFTmNM
中2数学の教科書をAmazonでポチってしまう菅沼遼太に
=の正しい意味や表記方法など習いたてホヤホヤの知識だから混乱しちゃってたんだろw

288フジヤン2015/09/18(金) 21:01:11.44ID:d/2FJFa4
だがの主張

信長の功績→すべて運がいいだけ。

信玄の功績→すべて信玄公の実力

こんな論理じゃ誰もついてこないよね

289人間七七四年2015/09/19(土) 00:14:31.67ID:+zHaCVWM
論理とかの問題以前に、年号も漢字も記号も読めていない、
書いたら書いたで誤字脱字の連発、彼の言っていることの9割方は意味がわからん。

290人間七七四年2015/09/19(土) 20:48:07.00ID:Qsf0toRY
だがアホ

291人間七七四年2015/09/23(水) 17:44:46.87ID:WzhaIblK
どちらにしても
明治維新後の外交戦略が戦国時代の毛利と似ているという点は面白いよね
毛利って自国領内の絶対領域があって
織田VS毛利でも自国外で戦いをやめて停戦(ほぼ負け)をした
こういう自国を蹂躙されるぐらいならに先に降伏しようって考えと
こっちから先に安全を確保しようって考えが
大日本帝国の日清日露戦争そして第二次世界大戦の領土拡張とほぼ合致してる
まあただのリアリストなんだけど
日本には珍しいタイプな考えだと思う

292人間七七四年2015/09/23(水) 21:34:09.60ID:Og2tszly
日清日露までは長州閥だったけど、太平洋戦争になるとほとんど残ってないよ。

293人間七七四年2015/09/24(木) 21:40:56.61ID:0VSRJwDI
>>284
残念ながらウリナラファンタジー脳の織田在日には時間軸が理解できない。

294人間七七四年2015/09/25(金) 05:12:01.45ID:rxpUS7OM
=のわからなかった菅沼遼太が話題転換に必死すなw

295人間七七四年2015/09/26(土) 00:24:44.79ID:wWEuhqin
>>293
時間軸という単語を菅沼くんはやっと覚えたのかね、素晴らしい。
で、何を言いたいのかね?

296人間七七四年2016/04/04(月) 12:50:04.81ID:7FCLUrKD
毛利はあれ以上の継戦能力がない
備中高松は高天神に等しい意味を持つし織田方はそこから1年も待ってくれない
そして甲州征伐の結末を見たばかりだからね
戦い続けてたら早晩、内部から瓦解する
講和の申し出は当然で、完全に足下見られてると思うよ

297人間七七四年2016/04/22(金) 19:43:22.79ID:b7usjZCa
2007年代付近じゃあるまいし、まあだアホでマヌケな毛利オタなんて存在してんのかよ(笑)
名将がいなくなってしょぼい中国地方を、20年以上かけてやっとまとめただけだろ元就なんて
信玄のように、互角の力持った名将相手に領土を広げたわけじゃないからなあ

298人間七七四年2016/04/22(金) 19:45:29.92ID:b7usjZCa
200戦無敗(笑)wwwwwwwwwwwwwww

↑↑↑↑↑↑これ、ガチで信じ混んでいたんだよな、こいつら毛利オタって
ただの創作でしか戦国の知識を得られないバアカ

299人間七七四年2016/04/22(金) 20:00:46.35ID:dNME5/3L
でも元就はかなりのハイレベルだと思う。ほとんど国人領主から始まっての終わりはあれだからな。凡人じゃできない

300人間七七四年2016/04/22(金) 22:46:44.50ID:T86iw/vS
菅沼遼太はかなりのハイレベルだと思う。ほとんど嘘吐きから始まっての終わりはあれだからな。狂人だからできる

301人間七七四年2016/04/25(月) 00:46:47.52ID:FlX183do
>>300
菅沼文太はなんで毛利厨に喧嘩売ってるの?遼太みたいにボッコボコにされちゃうよw

302人間七七四年2016/04/25(月) 04:27:06.81ID:73yoMZB/
唐突に「毛利厨に喧嘩売ってる」とか言い出すとバレるぞ遼太

303人間七七四年2016/04/29(金) 15:05:13.93ID:FdDiPf/O
>>297
言うほど村上や諏訪って信玄と互角か?

304人間七七四年2016/04/29(金) 15:11:15.78ID:ev9pv7zB
村上+小笠原で武田と互角か、やや上の国力なのに
信玄はうまいこと各個撃破したな

305人間七七四年2016/05/03(火) 02:16:47.05ID:5yJNI6w8
むしろ調子に乗ったせいで上田原と砥石崩れ招いて
重臣クラスゴロゴロ死んでるじゃないか
もっと上手くできただろ

306人間七七四年2016/05/03(火) 15:08:08.36ID:w5GZ1+pA
>>305
信玄も
調子に乗って
九州多々良と備前児島と大敗して
自分の死期まで反乱静められなかった毛利元就に言われたくないと思うぞ

307人間七七四年2016/05/04(水) 06:07:20.27ID:O3dZM/Zi
毛利は秀吉と同じで大内織田から権力を奪っただけよ
尼子だって晴久が病死するまで手を出せなかった

308人間七七四年2016/05/04(水) 08:49:45.59ID:0iH043bD
>>306
史実として
廃嫡、妾腹の子供への相続をやらかさなかっただけで、毛利元就が有能だろ

309人間七七四年2016/05/06(金) 22:02:57.16ID:twuYVOPd
尼子晴久って何気に凄くない?
大内の大軍撃退したり、元就から石見銀山奪って存命中は全く寄せ付けなかったり

310人間七七四年2016/05/07(土) 08:01:46.78ID:v+xk7FH/
>>309
石見ってそもそも、尼子(ていうか京極)の領地だろ?
一度でも奪った元就スゲェじゃね?

311人間七七四年2016/05/07(土) 09:19:36.63ID:EtCTXp3q
元就から奪われたけど合戦で大勝して奪い返し、晴久存命中に元就は奪還することはできなかった
石見銀山の攻防に関しては晴久の勝ち

312人間七七四年2016/05/07(土) 21:20:37.16ID:Wo7QirWW
最近は再評価もされてきて見たいだけど
尼子晴久と言えば
どうしても郡山の敗戦のイメージが強いからな

313人間七七四年2016/05/07(土) 21:34:47.40ID:nB6yaXBg
晴久もわるくわないが、元就のが上手だったって事だよね。
尼子好きなんだけどな、新宮党とかいいじゃんね

314人間七七四年2016/05/07(土) 21:51:11.49ID:EtCTXp3q
晴久が元就に劣ってるなんて全然そんな事はない
むしろ互角以上にやり合ってるよ
忍原崩れ、降露坂の戦いで2度に渡って元就に大勝してるからね

315人間七七四年2016/05/07(土) 21:56:36.52ID:EtCTXp3q
第一次月山富田城の戦い、降露坂の戦いでは元就が危うく討ち死にしかけたほどだし

316人間七七四年2016/05/13(金) 16:15:30.28ID:6RM6cgGg
東の方の山がちでろくな産物もない貧乏な地域は兵が強く自主自立の心も強い。
西の方は鼻くそほじっててもまぁまぁ食えるからアホの弱兵で阿諛追従。
上は謙信信玄下は元就。
比べられないかなw

317人間七七四年2016/05/13(金) 17:31:02.37ID:pWJbdcDH
>>316
>兵が強く
武田騎馬軍団(爆)

318人間七七四年2016/05/14(土) 21:29:16.62ID:tgnDIQ71
 信       ∩∩      *           。            V∩  戦
  玄   *   (7ヌ)              +   ∧_∧     *   信       ∩∩      *           。            V∩  戦
  玄   *   (7ヌ)              +   ∧_∧     *    (/ /  国
おた +    / /  ∧_∧  。 ∧_∧  _(´∀` )   ∧_∧   ||  正
いん     \ \( ´∀`)―--( ´∀` ) ̄      ⌒ヽ(´∀` ) //    一
でも    。   \       /⌒   ⌒ ̄ヽ、秀吉 /~⌒   ⌒ /       位
よ早         | 元就  |ー、 信長「 / ̄|    // `i      /        同
  く   *      |     | |    / (ミ   ミ)  |家康 |        盟
  こ         |    | |     | /      \|    |
  っ      。   |    | )    /   /\   \|      ヽ
  ち         /   ノ | /  ヽ ヽ、_/)  (\   ) ゝ  |
  に       + |  |  | /   /|   / レ   \`ー ' |  | / 

319人間七七四年2016/06/02(木) 04:08:19.47ID:UDQCeHGQ
21 自分:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/01(水) 18:58:50.93 ID:rgLsAanX
もうりもとなり逮捕!
http://mainichi.jp/articles/20160601/k00/00e/040/246000c

320人間七七四年2016/06/04(土) 18:05:27.26ID:zJoJlMSB
兄の子を殺したのだから仕方が無いだろう

321人間七七四年2016/06/05(日) 10:07:02.44ID:QZKySffv
>>308
息子に背かれて怖くなって勝頼が武田を継ぐ用意を出来なかったのが痛すぎる
結局それが最後の最後に響いたな

322人間七七四年2016/06/14(火) 00:49:03.58ID:lc1x4fWh
甲斐15万石
信玄はまるまる受け継ぐ

安芸20万石
小早川、吉川、高橋、宍戸、熊谷、武田、他・・・
そして毛利、元就は出発点が厳しい

323人間七七四年2016/06/15(水) 20:08:02.94ID:2cBZG2n/
>>308
元就は長男(隆元)を毒殺しただろ

324人間七七四年2016/06/15(水) 21:31:33.10ID:LFp3EPEZ
>>323
理由は?

325人間七七四年2016/06/21(火) 08:31:32.38ID:HkO3JO0A
>>324
晴信義信と同じじゃね?

326人間七七四年2016/06/21(火) 22:23:54.31ID:Xj7ShTJ6
大河の毛利元就では隆元暗殺の描写してたよね
確か食事中だったか酒飲んでた隆元が元就の前で吐血して
それを元就が冷ややかな目で見てた

「悪く思うなよ」みたいなw

事前に何度か親子が口論するシーンも描いておいてフラグも立てててあったね

327人間七七四年2016/06/21(火) 23:13:58.03ID:UMRbuKlG
>>326
大河での隆元暗殺は尼子方によるもので元就もその場にいなかったはずだがなにをいってるんだ

328人間七七四年2016/06/23(木) 16:43:12.27ID:Zwk9Xq6S
大河で毒殺されたのは晴久じゃん

329人間七七四年2016/07/21(木) 00:27:33.59ID:kQqqdmc/
毛利元就は陣代だったんだよな。勝頼に元就くらいの才覚があればな。

330人間七七四年2016/07/22(金) 10:01:40.43ID:MV0MvU1K
>>329
積極的に、(武田に対する織田ほど)毛利を滅ぼしたがってた勢力なんて無いだろ
そういう理由で元就と勝頼を比較しても無意味なだけ。
比較するなら元就が出来た、大内、尼子、武田を巻き込んだ生き残りゲームを何故、晴信は出来なかったんだ?ってとこだろ

331人間七七四年2016/07/22(金) 22:01:50.66ID:oR+Roj63
いみふすぎる
上杉、北条、今川を巻き込んだ生き残りゲーム出来てたじゃん?

332人間七七四年2016/07/22(金) 22:08:40.70ID:ptd52Ncd
実際、中国はレベルが高い
そこの覇者元就は最強といえる

333人間七七四年2016/07/22(金) 23:18:56.29ID:wKqcvTMt
>>330
安芸武田なめんな

334人間七七四年2016/07/22(金) 23:31:13.29ID:FM/BgXI+
安芸20万石
備後20万石
http://samuraiworld.web.fc2.com/castlesinaki.htm
初期においては備後はあまり関係ないけど・・・

335人間七七四年2016/07/23(土) 06:41:43.25ID:72dCTwL1
330は勝頼と晴信を間違えて書いたな

336人間七七四年2016/07/23(土) 07:34:09.28ID:Yklevkyu
>>331
+1の領国を手に入れる前に上杉と不毛の戦争をやらかしてる時点で(元就と比べたら)無能だろ
元就に例えれば、安芸武田生存中に尼子と全面戦争してるようなもの
信濃に出たいなら、後北条を切る。
後北条が怖いなら村上には手を出さず、細々と信濃を削る。
どっちかだろ

337人間七七四年2016/07/23(土) 08:06:21.86ID:iEIkLxQH
元就に例えるなら晴久が死んでない尼子とやり合う状態
元就が尼子を飲み込めたのは晴久が死んだことによる幸運

338人間七七四年2016/07/23(土) 08:07:04.58ID:2tPERRnI
>>336
第一次川中島の時点では、上杉じゃなくて長尾な
で、長尾と後北条が何だって???アホか

339人間七七四年2016/07/23(土) 08:51:31.27ID:2tPERRnI
長尾景虎
19歳 天文17年(1548年)兄を追い落とし守護代となる
22歳 天文20年(1551年)越後統一
24歳 天文22年(1553年)第一次川中島の戦い

こんな実質的に無実績の若僧を、戦う前に戦争の天才と見抜けとか無理がありすぎる。

340人間七七四年2016/07/23(土) 09:33:32.32ID:G8G1MEqp
信玄の北進は越後まで見据えた壮大な計画だよ
川中島なんてその通過点にすぎない
最大の誤算は謙信が想像以上に強かったことだけ

341人間七七四年2016/07/23(土) 13:15:56.84ID:fpkjG6p6
>>340
壮大も何も北信以外選択肢が無いよ(・∀・)カエレ!!

342人間七七四年2016/07/23(土) 14:53:16.58ID:1MgvguJQ
元就は尼子を裏切って2度滅亡しかけたんだよな
同じ陣代でも能力が違うと生存能力の差が凄い

343人間七七四年2016/07/24(日) 03:10:08.71ID:a58l3DiY
元就の躍進は高橋を滅ぼした後からだな

344人間七七四年2016/07/25(月) 16:14:59.47ID:fMNWO7sF
若くして死んだ元就の兄の興元、享年24。
跡を継いだ興元の子の幸松丸、9歳で他界。
棚ぼたで元就が毛利の当主に就任。

345人間七七四年2016/07/25(月) 17:51:40.37ID:8yYEywzG
幸松丸殺したの元就だったりして

346人間七七四年2016/07/25(月) 19:50:50.72ID:rK0Tg5QO
それは普通にありえるやろ(・∀・)

347人間七七四年2016/07/26(火) 21:58:06.06ID:kMLL0q1s
人望と実力があれば誰も文句は言わない

348人間七七四年2016/07/26(火) 23:14:23.69ID:HmP7gIw2
家中では弟の相合元綱を推す声あり
元就は急襲して弟を討ち取る

349人間七七四年2016/07/27(水) 22:23:57.41ID:7trS8Qt7
>>342
冒険して130万石の元就。冒険せず130万石の信玄
強運ありでようやく信玄と同じくらいの石高だよ毛利は

350人間七七四年2016/07/27(水) 22:33:32.59ID:Q6/JBiFe
>>349
武田信玄は冒険してるし、毛利元就は冒険なんかしてないな。

351人間七七四年2016/07/27(水) 22:38:08.69ID:GdlJeuY8
厳島の戦いは、陶2万、毛利5千と言われてるが・・・陶は1万じゃね

352人間七七四年2016/07/28(木) 23:08:14.45ID:yXpA8y2a
安芸武田を倒したのが40歳過ぎか。遅咲きだな

353人間七七四年2016/07/28(木) 23:35:16.21ID:N1otK5wv
>>350
毛利元就は戦国大名の中でも死線を超えてる回数が多い
悪く言えばギャンブル狂。

354人間七七四年2016/07/28(木) 23:42:53.72ID:qMKN2Tw4
実際に何回ぐらい?

355人間七七四年2016/07/29(金) 07:23:43.79ID:orF4EdYf
>>352
ていうか安芸武田を滅ぼせたって時点で大したもんだろ?

356人間七七四年2016/07/30(土) 10:30:53.33ID:IuRUJLW2
>>349
独立大名で甲斐一国の信玄と安芸吉田しかなく尼子や大内の傘下をだった元就じゃ
最初の手持ちが全然違うだろ。

357人間七七四年2016/07/31(日) 12:23:06.24ID:svsBUTWW
「いま都知事選の候補者である小池百合子は、水俣病の患者切り捨てをした人間だ」ということを、水俣病の患者さんに話しました
https://twitter.com/tok aiama/status/755195613298384896


増田寛也はこんなヤツ
■前日まで東電取締役
■舛添もびっくりのファーストクラス出張三昧
■岩手県知事を務めた12年の間に公債費を1兆2000億円強に倍増させ岩手を捨てて逃げた
https://twitter.com/kitahamamikiya/status/754484014552010753


慶応の学生です。大学の教授が今回の選挙についておかしい部分が多いとツイートしています。
500の束のバーコードを他者に振り替えていると考えられると言っています。
例として幸福実現党は都内に信者がある程度いるはずなのに、3区以外はすべて0票。犬丸氏も同じだったと言います。
また、娘さんが練馬区で三宅氏に投票、他知り合いが3人も入れたのに、0票。 池袋、渋谷で0票もおかしいと書いています。
明らかにム サシの機械での操作があった可能性が高いと書かれています。

実は、非常に奇異な点があるのだ。それは、区によって、「票があるところ」と「まったくゼロな区」があるのだ。
三宅洋平の得票では、豊島区ではなんとゼロ票 中央区ではゼロ票。江東区ではゼロ票、荒川区ではゼロ票 足立区ではゼロ票 通常、こんなことは考えられない。


特別会計を暴いた石井紘基議員
2002年10月25日自宅で殺された

政界を震撼させるネタ疑惑を国会で追及する準備中だった

日本が自滅する日 石井紘基 著
第二節 究極の”裏帳簿″特別会計
闇の世界で330兆円を動かす特別会計
https://twitter.com/neko_aii/status/759380913109147648

358人間七七四年2017/02/18(土) 01:20:08.59ID:r3opT152
そんなことはない

359人間七七四年2017/02/24(金) 21:42:30.10ID:jj/KR4MQ
>>340
実際には積極的に越後を手に入れようとは思わないでしょ。元々京へのルートとして今川の居る南の選択肢が無く、北信さえ抑えておけば良い筈だった。

謙信が上越に居なければ北信を手に入れた時点で、
京へ抜ける道を確保出来た。

360人間七七四年2017/05/19(金) 11:29:27.54ID:6tgZS5j0
空城計も見破れないなんてアホだと思う
神がかった武将ならすぐ見破れるからね。
秀吉や謙信なら、あんなのは空城計だ
この機を逃さず攻め込め、でしょ。

361人間七七四年2017/09/06(水) 20:21:18.63ID:A0GbCF56
☆ 日本の核武装は早急に必須です。総務省の、『憲法改正国民投票法』、
でググってみてください。現在、衆参の両議員のそれぞれで、改憲議員が
3分の2を超えています。私たち日本人の、日本国憲法を改正しましょう。
憲法改正国民投票法、でググってみてください。お願い致します。☆☆

362人間七七四年2017/10/03(火) 23:39:58.55ID:PQQbOlsn
まだ当主じゃなく猿掛城主だったころの元就のもつ全兵力…150余…

363人間七七四年2017/10/28(土) 09:38:34.71ID:Wu4z5JBa
心理学にもあるように、「捨て切れない」性格は、悲劇を生む
さしずめ、まことは、ハッキング、遠隔操作で、自ら、底無の悲劇に
引きずりまれているというところか

364人間七七四年2017/10/28(土) 21:12:00.32ID:ay7ulK2i
>>340
強かったというか倒せなかったから強かった、と見られてるだけ

365人間七七四年2017/11/01(水) 09:40:43.03ID:Au4h00xy
当時の上杉謙信は武田信玄より勢力としては弱かったから、謙信自身が強かったのは間違いない
信玄と同列どころか信玄より格段に強いが

366人間七七四年2017/11/08(水) 22:14:33.65ID:2a04EA6C
「最強の戦国武将」は結局、誰だったのか?「武勇、知略、動員力…」総合力は、この武将だ
http://toyokeizai.net/articles/-/173620
山岸 良二 : 歴史家・昭和女子大学講師・東邦大学付属東邦中高等学校非常勤講師

367人間七七四年2017/11/12(日) 19:38:56.18ID:8MsHE2Ij
尼子は倒されたから強く見られてない
上杉は倒されなかったから強く見られている

その地域の覇者になれた人となれなかった人の差は大きいのに何故か後者の方が評価されている戦国時代

368人間七七四年2017/12/12(火) 04:06:19.28ID:Xdi0I+Lc
毛利オタ???ただのゲーム脳の猿だから


・200戦無敗というただの講談を信じ込む
・政治や外交を駆使した戦略を軽視して、単純に合戦だけでしか大名の実力を判定出来ない
・ゲームみたいに信濃から美濃へと簡単に大軍を送れると勘違いする

369人間七七四年2019/01/24(木) 17:47:55.21ID:4vNxlQLy
>>1
村上は強かった・・・。

370人間七七四年2019/01/26(土) 03:42:32.85ID:rbb/gprq
>>366
なんか古い内容だね…

371人間七七四年2019/01/26(土) 08:11:23.32ID:7ZpyCngy
そりゃ信長は武田とは戦いたくないだろ
甲信なんて不毛な土地に侵攻する意味がない

372人間七七四年2019/01/26(土) 12:47:53.55ID:IuX3iF3d
>>371
>不毛な土地

その一言が大変説得力がありました。

373人間七七四年2019/02/23(土) 12:18:31.02ID:ZX7JUsEb
司馬の小説だと信長は信玄を怖れまくって贈り物しまくっていたとか

374人間七七四年2019/02/26(火) 14:08:12.53ID:qJ0fUvzt
上杉が立場が上の濃越同盟(上杉が立場が上の盟約、それに準じるもの)なら分かるが、武田に貢ぐ意味不明

375人間七七四年2019/04/22(月) 13:16:47.93ID:02/hGHTS
信玄が死んだのは52でしょ、75で死んだ毛利より23年未消化を考えているのかな?
毛利は2大勢力に愛想振りまいて自滅したら呂布みたいに勝手にがらあき同然の城を乗っ取っただけでしょ?
陶興房と晴賢じゃ役者が違いすぎるし、主君ころした晴賢に人がついてくるわけがない、主君殺すって大変なことよ
その時点で勝敗はついていたと考えるのが妥当。尼子も新宮党粛清事件でほとんど自滅(毛利の調略ではない)

高坂弾正に匹敵する家臣いるの?弾正は無敗でしょ?
「むかで隊」 のような情報収集能力あるやついるの?
鬼美濃のような忠勝に並び武の持ち主いるの?
大内義弘/陶晴賢・尼子晴久/義久 vs 北条氏康・上杉謙信・今川義元・織田信長
じゃ比較にならんでしょ

376人間七七四年2019/04/28(日) 09:14:53.62ID:gNVR7tCU
雑魚しかいない信濃って山岳戦のエキスパートばかりじゃぞ信濃の兵は
真田の兵ばかりと思っていい、そら強いわ

後継者の育成という面では雑魚と言われてもしょうがないがな
上杉も武田も織田も後継者育成はうまくいかなかった

377人間七七四年2019/04/28(日) 15:02:36.24ID:E61hpRmA
元就は織田信長と比べても凄いけど
信玄は裏切りまくりのクズ野郎って認識しかないな
今川義元死後に息子の氏真を助けて信長と戦ったら良かったのに

378人間七七四年2019/04/29(月) 12:28:38.62ID:OSOeOEWI
信玄のいう人は「石垣・人は城」の家臣を裏切り粛清しまくりの毛利には勝てませんよ

379人間七七四年2019/04/30(火) 00:08:33.67ID:4KqV4qVq
まー 裏切りとかクズとかは一先ず置いといて
今川を攻めたのは愚策だったかもね

380人間七七四年2019/04/30(火) 14:53:39.49ID:6cJsLy7B
飯富は義信が泣き崩れるからやむなく謀反に加担 それに加えておいの山県に謀反を事前にいうしな

一方、毛利は積極的に家臣が反乱し粛清している これは自分や身内重視の方針
つまり自分中心に大名の運営がされなければ
気が済まない性格
信玄の方がいい人材は来るわ
手柄を立てた家臣はその日に評価してた記録があるしな
井上元兼や桂や渡辺や相合や鬼吉川も高禄で召し抱えられそれ相当の活躍をしてたに違いない

381人間七七四年2019/05/01(水) 19:12:02.34ID:qtoqTS1e
毛利の家臣はなんで雑魚ばかり?
上杉の直江兼続や武田の山本勘助のような大名級のスター選手がいない
有力家臣は因縁つけられて誅殺されるのかな?
信玄は今でいうフレックス制度や温泉などの福利厚生が充実し
天下に轟く家臣ばかり集まるな
この違いは大きいぞ

新着レスの表示
レスを投稿する