吉田兼見・勧修寺晴豊・近衛前久・覚恕 P35

1人間七七四年2013/10/10(木) 10:31:26.05ID:Z1Ug+wFm
細川藤孝の従兄弟で吉田神社当主の吉田兼見
誠仁親王の妃と姉妹の勧修寺晴豊
太政大臣の近衛前久

2/25 竹内殿(信長に焼き討ちされた比叡山延暦寺166世天台座主の准三宮曼殊院覚恕で信玄を官軍に、信長を朝敵にした人)
による天神講(3/2夜執行?)に勧修寺晴豊が出席(延暦寺の大ボスと勧修寺の秘密会談。信長への叛意相談か)

こいつらグルだろ!

2人間七七四年2013/10/11(金) 01:33:36.86ID:OHTpU0LH
勧修寺晴豊といえばいわゆる三職推任問題の日記「晴豊公記」

3人間七七四年2013/10/14(月) 08:14:03.30ID:uyw2oJHV
日本人すべてから恨まれていたから破滅した信長。

4人間七七四年2013/10/14(月) 18:43:07.10ID:2+szlAJZ
兼見卿記6/15 吉田兼治が帰宅した際に 吉田兼見に向州事秘定と言った。
そもそも光秀は天皇と義昭を奉じていたんだが。
だいたい光秀は日のもとの土地で天皇の土地でないものはないと書いているくらい尊王。
光秀は天下=天皇という言葉を出してたり、義昭の帰洛を考えていたりとさまざまな動きをしている。

5人間七七四年2013/10/15(火) 15:14:07.89ID:O343kyS0
アスペ信長は全ての人たちから嫌われ過ぎ。

6人間七七四年2013/10/15(火) 19:11:51.33ID:aYk1dagq
菅沼遼太

7人間七七四年2013/10/19(土) 14:01:24.68ID:otVmQmf6
菅沼遼太はウンコ

8人間七七四年2013/10/20(日) 13:24:32.62ID:TdPMCxxP
>>1
勇気の告発だな。
この時を越えて訴えられた想いに答えて
信長を断罪することこそ歴史学の重い責任だよな。
無辜の民草を残虐に殺すことは中世であっても許されない。
そんな怒りが伝わってくる瓦だな。

9人間七七四年2013/10/21(月) 09:20:26.35ID:yia50YQ0
信長は日本史上、唯一の恐怖と虐殺を礎に王朝を築き上げようとした
大陸中国人的専制独裁君主なんだよな。
だから猜疑心が異常に強く、
行き着いた終着駅はカルト宗教の神になって崇拝を強要し権力だけでなく新たな権威を備えようとした挙句に自滅。
朝廷も異常なまでに恐怖し、家格も前例も段階も踏まずに一気に位階官職を引き上げようとしてるくらい媚びへつらい朝廷存立の危機感を持ってたが、
それすらも拒絶して朝廷秩序の枠外に出てしまった日本史上、唯一の暴君。

10人間七七四年2013/10/21(月) 10:35:15.04ID:i0Ij33G0
だがチョンの捏造理論

信長は日本人を大量虐殺したから英雄。
昭和天皇は太平洋戦争で日本人を多く戦死させたから朝鮮の英雄
こう言ってるようなもんだなw

日本からも朝鮮からも嫌われた在日朝鮮人の最後は
自らの基準で日本人を洗脳すること
自らの居場所を確保し自らこそ正しき日本の国民であると言い
都合の悪い存在を闇に葬ることで同調圧力による言論封殺を強いる

民族浄化の完成である

11人間七七四年2013/10/27(日) 16:01:34.93ID:qDvj+7UP
勧修寺晴豊の書いた晴豊公記には、
嵯峨野に逃げた近衛前久と勧修寺尹豊を非據の罪状で信孝が討ち取りに来たがうまく逃げることができたと書いてある。
非據とはやってはならないあり得ないことという意味。
しかしのち近衛の非據は隠蔽され逃げ隠れたのは信長を弔う為の行為に捏造された。

12人間七七四年2013/10/28(月) 21:07:47.87ID:XTtnZLZd
信長は逆賊だから名誉ある自刃は許されず焚刑で殺された。

13人間七七四年2013/10/30(水) 07:49:44.56ID:bPNpOi1h
>>1
朝廷が信長暗殺の首謀者なのは間違いないね。

14人間七七四年2013/10/31(木) 18:16:36.03ID:nVFlm2md
すべての人々から嫌われ抜いた逆賊信長の肉体は
少しも現世に残すことを許さない苛烈な刑罰であった。

15人間七七四年2013/11/03(日) 15:35:43.37ID:wVgUIAx+
本能寺の変を聞いて柴田ら北陸軍は大喜びで放生津へ撤退の途中に大宴会をした・・・・

放生津とは
畠山尚順から為景が任じられて以来の越中東部新河郡守護代を兼ねる謙信は
天正4年末に越中において領主のいない闕所地を直轄領とし、
放生津と伏木浜を港湾自由都市にし、
放生津は特に楽市化し町人の諸役を三ヵ年免除
津料、渡役も免除し都市の振興保護政策を推進している。
これを越後の港湾都市府内と柏崎の直轄化を放生津で行い
越中を越後同様に豊かにする政策だと市村氏は論じてる。

16人間七七四年2013/11/03(日) 16:10:41.17ID:wVgUIAx+
多聞院は天正15年10月の北野大茶湯を、
信長の時代で言えば、京での馬揃えに相当すると書いている。

信長は天皇を威圧し恐れさせていたが、
秀吉は大茶会を開いて君臣上下が睦まじく親しむ会を催したのだ。
朝廷は信長を暗殺し、秀吉を引き上げ政権の正当性をあげた。

17人間七七四年2013/11/03(日) 17:41:25.29ID:wVgUIAx+
津田信澄は光秀の娘婿にして勝家の養子

6/19付け直江兼続宛湯原国信書状では津田信澄・明智光秀ら七人の主だったものが謀反
織田信孝と丹羽の大坂駐屯軍を、いち早く信長死亡の情報をリンクさせ瓦解させた下手人なので誅殺された。


柴田勝家一門衆 柴田勝全
山崎の合戦で敗北後に秀吉に降伏し、にち堀の先鋒になる。
妻は光秀の家老斎藤利三の姉妹。姉死没後に妹が後妻になる。
『近江仲島文書』に名がある柴田勝定と同一人物と考えられている。

上記連絡人と密接に連携を取り柴田勝家は本能寺の変の翌日に魚津城を落城させる調整をしていた。
これは秀吉が毛利との和睦日を調整して中国大返しをしようとしたのと同じ行動。
萩藩閥閲録によれば光秀や津田信澄、柴田勝家らがしめしあわせて挙兵

18人間七七四年2013/11/05(火) 15:46:31.24ID:007Q2EvW
ここはお経のスレですか?

19人間七七四年2013/11/05(火) 20:04:59.14ID:aVVOPshV
はい
見ても意味がないと思うので適当にスレごとあぼーん推奨です

20人間七七四年2013/11/05(火) 22:49:11.88ID:/SxhI6/+
>>18>>47
織田チョン涙目乙w

21人間七七四年2013/11/09(土) 20:55:13.41ID:Mc/4eOae
>>1
信長暗殺に吉田神社が絡んでいたのは間違いないね。

22人間七七四年2013/11/19(火) 12:07:23.59ID:ENZKREgT
信孝が本能寺の変の下手人として吉田や勧修寺や近衛を逮捕しようとしたが、
秀吉が信孝に圧力を加えて揉み消した意図はどこにあるんだろう。
彼らが追求されると秀吉にも不都合な事実が出てくるからか。
また柴田の一門が明智に協力していたのに、
柴田が不問になっているのは何故なのか?

23人間七七四年2013/11/19(火) 21:48:32.53ID:e9rXCucq
書き忘れたけど、
譲位と新帝即位は天正14年(文禄元年)のことね。

24人間七七四年2013/11/20(水) 12:28:06.40ID:dO9hTE0l
5/17に信長が中国出陣を決め、光秀がその先鋒をする為に近江坂本へ帰城。
5/19に秀吉が朝倉一門で柴田勝家の与力になっていた溝江長澄に
戦況話をしている。
信長を通さず家臣が家臣に連絡するのは珍しい出来事であり、
信長には知られてはマズイ話があったのだろうか。
光秀の信長虐殺実行日を示し合わせていたのか?
しかも中国備中から北陸越中への長距離連絡であると同時に、
明智支配地を通過していて連絡を取っていた可能性が高い。
本能寺の変が起きるとすぐ毛利と和睦できた秀吉と、
変の翌日に魚津城を攻略できるよう調節していた勝家。
賤ヶ岳の戦いの後に溝江は秀吉の馬回りに取り立てられている。
朝倉家の恨みが果たされた溝江は本能寺の変をどう思っただろう。

25人間七七四年2013/11/20(水) 13:16:27.07ID:dO9hTE0l
ちなみに溝江長氏が正式名で、
秀吉の部下だが魚津城攻めに柴田への援軍として参加していたとする説もある。
もともと溝江からの書状への返信のようで、
秀吉は備中高松城を水攻めを開始しうまくいっており、
10日もあれば落城させられると楽観視している内容である。
10日後は本能寺の変が勃発しており、
この書状内容は本能寺の変決行日に影響を与えていると同時に、
毛利の大軍がきて信長に援軍要請していた秀吉とは思えない楽観的戦況である。

26人間七七四年2013/11/20(水) 14:56:41.05ID:Vgzj6pTb
調べてはいるようだけど中途半端やね
ヒントとしてはもっと毛利のこと詳しく調べた方が良いと思うよ

27人間七七四年2013/11/20(水) 17:00:42.78ID:WnyHmsPx
>>25
溝江氏はどうも光秀と接点があったようだ。
光秀は美濃を出奔したのちに
越前国坂井郡の長崎(坂井市丸岡町)に住んでいて
称念寺近くによく顔を出していたとか。そのころ貧困だったあそうで
光秀が後年思い出して石ころのような身分だったと評していた時代は
この時期のことを指しているといわれている。
三国町雄島にある大湊神社には光秀が詠んだ漢詩が遺され、
いまは漢詩の石碑が建てられているそうだ。
そして坂井郡を統治していたのは加賀一向宗との戦いの最前線にいた溝江氏だったので、
ある程度、光秀の生活を援助していたのだろう。
朝倉氏滅亡の際に溝江氏が一緒に潰されずに
逆に信長に仕えることができた謎は光秀の口利きがあったからだそうだ。

28人間七七四年2013/11/20(水) 22:36:38.67ID:sAyP3abR
光秀はかなりの勤王だったからねぇ。
誠仁親王から近々、子供が生まれると聞いた光秀は、
天正8年10月6日に丹波山國荘の貢租をプレゼントしたし、
誰であれ他人は全て見下す信長とは大違い。
光秀の財政援助で誠仁親王は男児出産を願い、
10/25の第三王女誕生に続き、
12/15に勧修寺の娘から和仁王子(後陽成天皇)が無事に生まれた。

29人間七七四年2013/11/21(木) 08:16:53.23ID:UimDDhod
信長は性格が悪過ぎて家臣団や家康ら全てから見限られたんだろうな。
勤王の光秀が貧乏くじを引いただけで。

30人間七七四年2013/11/21(木) 16:29:24.29ID:s17UwsEC
>>28
光秀死去後に丹波山國荘を横領した細川に対して
秀吉が朝廷のために動いたんだよね。
光秀と秀吉は勤皇だったのは間違いない。

31人間七七四年2013/11/22(金) 20:31:38.98ID:ssjfn6eH
秀吉も京の鬼門にある比叡山延暦寺再興に1万貫を出してるし勤王だね。

32人間七七四年2013/11/22(金) 20:48:46.83ID:VgVMTFFO
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。

33人間七七四年2013/11/24(日) 10:02:27.69ID:sEjJO/OL
アンチ秀吉のキチガイ織田半島人が、
またスレ潰しコピペ爆撃か。
この狂人は、どんだけスレ潰す気だよ。

34人間七七四年2013/11/27(水) 08:52:00.09ID:yERaneZQ
大義名分無く、あちこちで虐殺して回るパワハラ基地外信長なんて、
皆が早く死ねやカスって思ってた。
光秀は一死を以って朝廷の空気を読んだだけ。

35人間七七四年2013/11/27(水) 11:49:44.64ID:KPKeSkWy
光秀の娘と婚姻している
細川忠興や筒井定次らは最初からグルなんだよ。
なにせ妻をまったく処分しようとしてないし、
秀吉も家康もそれを問題視してない。
それは家康も秀吉もグルだったからに他ならない。
一般常識で言えば、連座の罪を問われるのは当たり前だし。
他にも母が光秀の娘だった織田昌澄(信澄の子)も普通に豊臣家で仕えてるし。

36人間七七四年2013/11/27(水) 12:48:11.02ID:yERaneZQ
信長に謀反した荒木村重の嫡男も正室は光秀の娘、もしくは養女とされる明智倫子だけど、
荒木も秀吉に普通に仕えているしなー。
信長に敵した人達を秀吉は積極的に再評価してあげてるよな。

37人間七七四年2013/11/30(土) 14:14:15.45ID:BfwoVLR9
桐野作人は「だれが信長を殺したのか」PHP新書で、それまでの朝廷黒幕説から光秀単独犯説へと変節した。
主な理由は、信長と朝廷との間に深刻な対立など無かったと確信したからだそうだ。

確かに四国問題とか遠国に飛ばされるとか、理由を述べているが、
謀反の決定的理由にはならん。

単独犯なら、妙覚寺の信忠を完全無視し、全軍挙げて本能寺を襲撃したりはしない。
信忠が逃げないよう、注進の使を捕捉する兵を通りに配置し封鎖している筈だ。
つまり、この事実は、本能寺襲撃の時点で、光秀は妙覚寺の信忠は全く眼中に無かった証明になる。

要するに、光秀は入京当初、信忠在京を知らなかった訳で、これに拠り光秀単独犯説は完全瓦解する。

信忠は明智軍襲来より先に本能寺襲撃の報を得ているので、信忠がその気なら電光石火で京から脱出できたのだから、
信忠憤死は偶発的付随的事件にすぎず、光秀が当初から信長信忠父子を狙っていたなんて、お粗末な絵空事にすぎん。

38人間七七四年2013/12/19(木) 11:02:09.17ID:S3L2DYkj
日本人すべてから叛かれた信長…

39人間七七四年2013/12/27(金) 13:31:39.57ID:oPBVb4Id
>>あまりにも見事かつ完璧に秀吉に敗北した事を意味した。
家康に土下座和睦して後ろの心配をなくした上に上杉や毛利や宇喜多や木曽らの力に頼りまくって
雑魚イジメした事の何が敗北なんだよアホ
>>紀伊惣国一揆を従属させた秀吉は彼らの船を総動員してすぐさま四国に攻め寄せ圧倒
これも信雄や家康が怖くてビビリまくって、和睦した隙に、少しでも敵領土を削って味方を強大にするために雑魚イジメしてただけじゃん。
>>秀吉が天才と呼ばれる所以は高野山を速攻で制圧
当時の秀吉の領土は畿内一円に、毛利・上杉・宇喜多・木曽・信雄。
高野山なんて10万石いくかいかないかわからん雑魚なんていじめて何が凄いんだよタコ
>>第二陣として出陣してきた信雄と秀康らの軍が雑賀に着陣してきた時にはすでに平定してしまっていた程の巧者
はぁ?秀吉軍畿内総結集すれば15万くらいいくだろ。
5000もいくか怪しい高野山なんて、馬鹿でも叩き潰せるわwこんな指揮采配能力と全く関係ない雑魚イジメで
将の資質や戦のうまさなんてとわれねーよクズ。

40人間七七四年2013/12/27(金) 13:39:50.97ID:66VBMhM4
そもそも豊臣政権自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)

41人間七七四年2013/12/27(金) 13:40:52.84ID:UG2GTiHf
吉方のは135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ

42人間七七四年2013/12/27(金) 13:41:55.49ID:gaTzv4UR
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな

43人間七七四年2013/12/27(金) 13:42:44.03ID:gaTzv4UR
>>家康は信雄に秀吉との和睦をすがった
全くすがっていない。家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる

44人間七七四年2013/12/27(金) 13:53:32.57ID:fyr9+PyH
さしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。

45人間七七四年2013/12/27(金) 21:49:50.41ID:9RLHbGfs
またアンチ秀吉のキチガイ織田チョンが暴れているのかよ。
ガチうぜぇ。だいたい秀吉は天正12年戦役の結果、
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww

46人間七七四年2013/12/27(金) 22:54:06.32ID:9RLHbGfs
ガチうぜぇ。だいたい秀吉は天正12年戦役の結果、
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww

47人間七七四年2013/12/27(金) 22:54:26.77ID:UG2GTiHf
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから

48人間七七四年2013/12/27(金) 22:57:04.21ID:H+s7tgna
小牧長久手が秀吉圧勝とか馬鹿堀に毒されたアホがまた暴れてるな
135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

49人間七七四年2013/12/27(金) 22:58:19.09ID:9RLHbGfs
ガチうぜぇ。だいたい秀吉は天正12年戦役の結果、
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww

50人間七七四年2013/12/27(金) 23:00:35.79ID:v/fKR9PS
直接対決で家康どころか信雄相手に135000も動員してわずか20000そこそこの織田徳川相手に
長久手で1万戦死者だす歴史的大敗
その後の攻防も二重堀で大敗戸木で負け松ノ木で負け東駒野で負け蟹江で負けと何一ついいところなく
1年かけて尾張半分すら切り取れず諦めて大阪に納馬しようとしてたら
たまたま信雄が和議にのってくれただけじゃねぇかww
しかも天正13年に石川木曽小笠原水野真田が徳川から離反し軍事機密露見
天正大地震と天正11年からの徳政連発で徳川領国がめちゃめちゃになったのに
秀吉はビビリまくって母と妹人質に出す醜態っぷりじゃねぇかw

51人間七七四年2013/12/27(金) 23:01:51.23ID:gaTzv4UR
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし

52人間七七四年2013/12/27(金) 23:02:21.94ID:/00OvY7R
秀吉自体が土下座と棚ボタと謀略で成り上がってきただけの人だから純粋な戦がゴミみたいに弱いのは仕方がない。
雑魚の毛利に連戦連敗するアホなんてそうそういないよ。
毛利なんて5万石程度の南条にすら攻略失敗したり20万石そこそこの宇喜多にも野戦でガチ大敗するくらい弱い軍隊なのに

53人間七七四年2013/12/27(金) 23:03:08.03ID:gaTzv4UR
さしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。

54人間七七四年2013/12/27(金) 23:04:38.68ID:v/fKR9PS
秀吉は織田家で最も無能な織田信雄より遥かに戦下手。

信雄相手に8.5倍の兵力で挑みかかって1万人ぶち殺された上に

木造・高木・吉村など千貫そこそこの雑魚領主に敗北した。

55人間七七四年2013/12/27(金) 23:07:23.89ID:gaTzv4UR
六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
それを秀吉のアホ作戦で台無しにして奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのにそれをさせないあたり軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。

56人間七七四年2013/12/27(金) 23:07:35.22ID:9RLHbGfs
ガチうぜぇ。だいたい秀吉は天正12年戦役の結果、
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww

57人間七七四年2013/12/27(金) 23:07:59.84ID:fyr9+PyH
秀吉が過大評価されるのは徳川時代の講談とプロバガンダの影響だろ。
一時的に政権持ってただけの奴を天下人だわなんだわと奉るからこうなった。

実際公家とかが名目上諸大名を従わせてるのと同じで天下なぞ取っていない

58人間七七四年2013/12/27(金) 23:09:02.12ID:/00OvY7R
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな

ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし

59人間七七四年2013/12/27(金) 23:09:27.54ID:66VBMhM4
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

60人間七七四年2013/12/27(金) 23:10:07.71ID:fq/b+h7e
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ

61人間七七四年2013/12/27(金) 23:10:44.29ID:7Ofl1QBR
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし

62人間七七四年2013/12/27(金) 23:11:55.47ID:66VBMhM4
>>秀吉が好意で家康からの人質を養子とした
いやそもそも家康は人質として息子を秀吉に指し出していない。人質として出してたというなら
翌年の両軍の冷戦状態なんてありえないし両陣営とも戦争の準備進めまくってたが秀康は切られず
佐々攻めの際の織田信雄の書状でも秀吉は秀康を人質としては扱ってないと書いてる。

家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

63人間七七四年2013/12/27(金) 23:15:51.65ID:cZsqXK5s
尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉

64人間七七四年2013/12/27(金) 23:18:36.93ID:9RLHbGfs
ガチうぜぇ。だいたい秀吉は天正12年戦役の結果、
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww

65人間七七四年2013/12/27(金) 23:18:49.89ID:/00OvY7R
散々こき使われまくり同盟とは名ばかりの援軍なし放置状態(しかも大国と交戦中なのに)の、
恨みばかり残ってもおかしくない状況で織田家を再興してやったのが家康。
恩を受けまくり、信長のおかげでトップにたてたといってもおかしくないくらいなのに
主家を崩壊簒奪し、役に立たなくなったと思ったらポイ捨てしたのが秀吉。
だからこそ、織田家は江戸期でも細々とながら残り、豊臣家あっさりは滅亡し、家康が天下取れたんだろうな。

66人間七七四年2013/12/27(金) 23:27:44.32ID:9ikwl+J7
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)

6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるしそこからスタートと考えればかなり善戦した方だろ。

67人間七七四年2013/12/27(金) 23:29:05.58ID:9RLHbGfs
ガチうぜぇ。だいたい秀吉は天正12年戦役の結果、
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww

68人間七七四年2013/12/27(金) 23:34:09.86ID:fyr9+PyH
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

69人間七七四年2013/12/28(土) 10:38:41.07ID:9NF1dq2C
>>臣従の証として家康の上洛を要求
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな

70人間七七四年2013/12/28(土) 10:39:12.31ID:FLfB6di1
さしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。

71人間七七四年2013/12/28(土) 10:58:02.90ID:mRs8pq2S
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?

72人間七七四年2013/12/28(土) 15:07:32.67ID:LHFmAveR
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな

ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

73人間七七四年2013/12/28(土) 23:42:50.68ID:nGhnwW9O
看羊録

家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。

74人間七七四年2013/12/28(土) 23:47:07.05ID:nGhnwW9O
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。

75人間七七四年2013/12/30(月) 15:16:03.03ID:+HrKN6Hi
なんだよ、このアンチ秀吉朝鮮キチガイ荒らし。
スレ違いとか全く気にしないで爆撃コピペすんなや。

信長は二条、万里小路、徳大寺に娘を嫁がせていて、
あきらかに近衛や勧修寺を排除する計画なのがあからさま過ぎてたからな。
そりゃ信長暗殺を計画するだろな

76人間七七四年2013/12/30(月) 20:06:34.59ID:7uk578ev
本願寺と講和交渉した近衛、勧修寺、佐久間を信長は内通してたと思っていたんだろう。
本能寺の変前夜で一番やばかったのは勝家。
能登に前田利家、
越前府中に信長の娘婿の利家の息子の利長なので、
家老勝家は信長側近衆の前田によって包囲されている。

77人間七七四年2014/01/18(土) 10:29:39.20ID:nEA1oOzk
信長による朝廷の危機を救い、朝廷を立て直した功績で、
秀吉は豊臣姓が与えられた。
これは中臣鎌足が朝廷を救ったことで藤原姓が与えられたのと同じ朝廷中興の業と認定されたことにある。
藤原一族や豊臣一族は天皇の信任を得たのは、
皇位を奸臣の専横から守ったから。
蘇我や織田は逆臣。

78人間七七四年2014/01/18(土) 10:31:16.78ID:+d5QFYo+
なお提唱者は菅沼遼太

79人間七七四年2014/02/12(水) 07:58:41.91ID:kzjlNFWw
上京を焼き討ちして略奪虐殺した信長をどうやって信じろと?
フロイス日本史にも天皇に会いたいと申し出た時に信長は、
あんなもん何の力も無く、会っても無駄。
なぜなら俺こそが内裏だからだ!
などと宣言してるからな。

80人間七七四年2014/07/12(土) 08:21:53.92ID:uK0g/AxX
大河 本能寺の変age

81人間七七四年2014/08/29(金) 19:52:32.39ID:eymYv176
朝廷黒幕で間違いないな

82人間七七四年2014/08/29(金) 20:21:16.67ID:hXKfOPn6
朝廷黒幕(を持ち出す人は無知)で間違いないな

83人間七七四年2014/11/03(月) 06:54:01.21ID:puNQTob3
>>1
その人たちは天皇を信長から救った英雄だね。

84人間七七四年2014/11/03(月) 15:56:54.70ID:8A5jOZY2
まあ上の四人整理してみた
 吉田→親光秀(光秀にとっちゃ唯一親しい公家(でも公家の中ではかなり身分低い))
 勧修寺→真ん中
 近衛→親信長(信長とは仕事仲間、九州の休戦斡旋も一緒に仕事(公家の中でもかなり身分高い、サラブレッド))
 覚恕→まず兄と仲良かったか悪かったかここポイント(歴代天皇は長年、延暦寺座主から脅迫されてきた歴史がある)

こうやって見ると分かりやすいな
まず吉田が光秀の信長暗殺を黙視したのは、自分の朝廷での身分上昇を期待したからと思われる。
でももともと身分ある勧修寺近衛にとっちゃ迷惑、天皇にとっても光秀のせいで奈落の底へ… 史実はこれでしょ。

85人間七七四年2014/11/03(月) 19:30:14.76ID:oqeIMiUz
よくそんな間抜けな考え思いつくなw

86人間七七四年2014/11/07(金) 21:36:30.69ID:GhdieX7H
勧修寺晴豊
晴豊は『日々記』の作者である。
 本能寺の変の記事が二条城にいた誠仁(さねひと)親王関連が多く、それが最重要問題であったことを伺わせている。
そしてこの大政変にいたって信長への弔意、光秀への怒りを表していない。だから事前に察知していたのではないか。
また京都が大混乱の中「大さけ」を催している。(『日々記』)つまり信長の死を全く悼(いた)んでいない。
もう一つ光秀重臣・斎藤利三が戦後、引き回されるのを見て「かれなと信長打談合(だんごう)衆(しゅう)也(なり)」と記していることを指して、
本能寺の変からわずか半月後に光秀家中の謀議の場面を晴豊がこう書くのは不適当で、晴豊が計画を承知していたに違いない。

87人間七七四年2014/11/07(金) 21:38:22.82ID:GhdieX7H
太政大臣・近衛前久
本能寺の変後、嵯峨(さが)に隠れた前久が討手に追われ、山崎の戦いの7日後になっても前久成敗が触れられ、
『日々記』にも「近衛殿今度非挙事外他」(近衛殿今度挙げないこと事の外だ。p.34参照)とあり、
晴豊は前久の関与を知っていた事を挙げている。また本能寺の変当日、光秀軍は二条城攻撃の際に近衛邸から攻撃をしたこと、(『信長公記(しんちょうこうき)』)
信長の甲州征伐に随行したが信長から罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせられた事(『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』)などを挙げている。
前久は信長から知行を与えられていたが厚遇されたからといって翻意を抱かないとは限らない。
足利義昭、荒木村重(あらきむらしげ)、明智光秀は厚遇されても謀反を起こした、という例を挙げている。  そして近衛前久について「疑惑は確定的」と論じている。

88人間七七四年2014/11/08(土) 18:17:16.26ID:hAzYm3dR
朝廷に謀殺された史上初のマヌケ信長確定じゃんwww

89人間七七四年2014/11/10(月) 17:31:43.72ID:aBx5SVt6
信長の譲位要求の脅迫では仙洞御所すら造ろうとしない悪魔のような所業だけど、
秀吉は家康と戦っている最中であっても、正親町天皇が譲位の思召を伝えると
すぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してるからなー。
譲位と新帝即位は天正14年(文禄元年)
正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく、
秀吉は母を10/18に三河岡崎に送り、11/1に家康がやっと上洛してきて、
秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に正三位に任じてもらい、7日に譲位と新帝即位式典と間に合わせた。
家康がグダグダ言ってたから母を送ってまで、後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉はやはり凄いよ。
11日、秀吉は大友支援で筑前に入った黒田や小早川と吉川の陣に検使として森吉成を派遣、
12日には前日に岡崎に着いた家康が早速、井伊直政を護衛に秀吉の母を大坂に送ってる。
新天皇の威令を広める為に自分の母を公を優先し人質に出す秀吉の忠勤の姿勢は素晴らしい一方、
私を優先するヘタレびびり家康の天皇への不忠っぷりは非難されるべき。

90人間七七四年2014/11/10(月) 20:15:37.57ID:Z1k6pT/p
仙洞御所を作ると正親町上皇による影響力が生まれるから、
信長が好きなように壟断できないからね。
仙洞御所を作り、諡を贈り先皇の徳を讃えるなんて
信長がやるはずがない。
諡のない無号の乱逆無道の極悪正親町を糺した信長公としたかったのだろう。
だから勧修寺や近衛は朝廷破滅の危機を感じたのだろうね。

91人間七七四年2014/11/10(月) 23:46:01.19ID:Z1k6pT/p
蘇我氏から朝廷を救った→藤原姓
織田氏から朝廷を救った→豊臣姓

92人間七七四年2014/11/11(火) 01:24:02.06ID:YdEXcYxJ
また菅沼遼太史観か

93人間七七四年2014/11/12(水) 23:52:44.28ID:huwNtPBr
武田信玄を官軍に任命した天皇に怒り、
京洛で大虐殺と大略奪をした信長。
もう両者はどちらかが潰れるまで気分はすっきりしないだろうね。

94人間七七四年2014/11/13(木) 11:50:12.29ID:S2JEYTNi
あげくに東夷として討伐された武田w

95人間七七四年2014/11/13(木) 15:44:41.63ID:MS0zBZB1
>>93
>京洛で大虐殺と大略奪
明智光秀「私もやりました、なのに上京軍団からは足止め食らいました」

96人間七七四年2014/11/13(木) 22:38:17.08ID:02Gn70f5
もしもの時に天皇が避難できるように
兼見が自分の吉田山に避難所を作らせてと信長に申し出たら、
柴田に「そこは避難所を作れるような場所じゃない」と言わせて拒絶した信長
あからさまに天皇が避難する場所を作らせないように囲い、
いつでも殺せるようにしていたために、天皇は恐れていた。

97人間七七四年2014/11/14(金) 12:22:26.84ID:CzoPQY7i
歴史っていうのはそれを語る人の性格がもろに出る。

なにかと物事を悪い方に考えがちな人
 信長はあからさまに天皇が避難する場所を作らせないようにした。
なにかといい方に考えがちな人
 吉田山は本気で不適切な場所だったので、天皇の安全を心配した信長は兼見に拒否返答。

98人間七七四年2014/11/14(金) 21:44:52.47ID:ZqyBFTDX
兼見に許可を出さないばかりか
代わりの地を与えたり、
候補地探しすらしない時点でお察し。

99人間七七四年2014/11/15(土) 02:37:55.53ID:ITb//+Ub
だって自分こそが内裏そのものだから、
天皇に会う価値は全くないって宣教師に宣言してるんだから
信長は天皇否定and朝廷解体をめざしていたでしょ。
志賀の陣や石山本願寺との和睦など戦局劣勢の時に
天皇と朝廷にすがるために存続させてきただけで。

100人間七七四年2014/11/15(土) 10:26:31.50ID:I4X+m+t+
信長の嘘にあっさり騙される純朴な人々w
政治家というのは嘘つくものなんです

101人間七七四年2014/11/15(土) 20:45:15.15ID:ITb//+Ub
悪辣だな。信長はまるで超劣化版曹操だ

102人間七七四年2014/11/21(金) 11:23:39.55ID:KbQdv/aP
石山本願寺を隠れ蓑のように矢面に立たせてるけど、
実際の黒幕は紀伊惣国一揆だからね。
だから血判状を差し出し屈服した信長は傍観している目の前で、
反織田軍事組織が安全に高野山戦線に移転していっただけ。
信長は憎き惣国一揆軍事組織にバカにされながらも、
指を加えて眺めているしか無かった。
信長はそうとう悔しかっただろうね。
結局、高野山戦線で信長は苦戦しまくった挙句に謀反で死んだ。
比叡山延暦寺を弾圧した足利義教が謀反で殺された同様の犬死だった。
そして信長が死ぬや早くも比叡山延暦寺の本格再建と、
本願寺の復権が天皇により発令されて、
畿内は急速に民心安定に向かった。

103人間七七四年2014/11/21(金) 12:28:48.40ID:N519lJva
>>102結局、本願寺も比叡山も武装解除されちまうんだから
同じやん

しかも信長の後継いだ 秀吉家康の統制下に入って国政に関与出来なかったし

足利義教の話が出たが当時の宗教界が
義教と比叡山のどっちについたか考えたら比叡山の勝ちには程遠いよ

104人間七七四年2014/11/21(金) 13:29:52.62ID:Z5h0Wz/4
【根切り】信長と一向一揆【虐殺】
57 :人間七七四年[]:2013/12/25(水) 09:22:36.17 ID:rsfdII22
実は顕如をぶっ殺そうとしていたら本能寺の変で信長アボンしてるしなw
信長は本願寺との和睦は計略であり、
殺したかったが時を得ず堪忍してきただけで、
いまやっと思いのままらに滅ぼせる時節だと喜んで、
丹羽に本願寺の家の断絶を命令してる。
6/2早朝に堺を出陣し 鷺の森 へ向かい、
夜には包囲完了し、
本願寺も急いで防備を固めようとしたが急すぎて200人しか集まらず、
3日早朝には顕如も教如も死を覚悟した。
しかし信長と信忠が死んだことを知った丹羽は撤退して信孝と合流するも、
信孝を見限る兵が続出し、80騎しかいなくなり、
本願寺に治安維持に協力を願い出て土下座してんだよな。

105人間七七四年2014/11/21(金) 19:08:54.74ID:N519lJva
そもそも、近衛前久が比叡山と組むとか あり得なくね

関連寺社が園城寺
吉田神社 日蓮宗と 比叡山の敵対組織ばっかなんだが

一時期は犬猿の仲の本願寺と取引してたし
むしろ信長共々 足利義教のシンパだろ

曾祖父同様

106人間七七四年2014/11/21(金) 22:20:15.97ID:ZFlMUV3Z
前久から信長への熱いレター
「君の死は、嘆いても名残の尽きない涙である、なおも慕われる亡き面影…」

107人間七七四年2014/11/21(金) 23:24:55.38ID:Whd+iGRM
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし

108人間七七四年2014/11/21(金) 23:27:57.47ID:9lTfJqeq
敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている

109人間七七四年2014/11/21(金) 23:30:59.81ID:9lTfJqeq
秀吉は直接対決で135000対16000というハンデありまくりのヌルゲー合戦で
家康よりも遥かに弱い雑魚の信雄に10000人殺される大敗を喫したからな
信雄に大敗した後はビビリまくって、家康や信雄から逃げ回って木曽川筋の家康や信雄が出てこれない城をコソドロするのがやっとだったし
二重掘合戦では信雄1000に奇襲食らって、楽田から叩きだされる無能っぷり。
蟹江城、前田城、下市場城、長久保城、浜田城などを奪回されてるし

110人間七七四年2015/07/16(木) 08:13:06.30ID:dO8Xzq01
信長暗殺はこいつらの共謀なのは間違いない

111人間七七四年2015/07/16(木) 08:32:32.35ID:8sp1G9nB
あほ

112人間七七四年2015/08/27(木) 06:08:56.19ID:GyipdWIJ
結局、信長は荘園不法占拠を繰り返した為に
真言宗と天台宗を敵に回した為に際限ない無限一揆謀反地獄の業火に身体を焼かれたんだよな。
しかし秀吉は金銀本位体制と石高制を作り上げ金融政策による社会安定と新体制を作る中世との決別と近世創業をやり遂げ、
その過程で重層的かつ複雑な荘園の権利体系を検地を通じて整理再構築し中間搾取層を排除して土地を百姓に与えて、
水利争いなどを解決し一揆や惣村対立を根絶したことで門徒一揆と惣村一揆の共闘根拠を失わせ、
検地による収入による土台を上に軍事革命を達成することで
位攻めと言う3万を超える一戦線大軍集中を行える兵站力を可能にして高野山攻めどころか朝鮮攻めまで可能な軍隊に昇華した。
しかし家康が秀吉のやり遂げた体制を改悪し劣化コピー体制に退化させた。
これは西国の志向である大船の艦隊を作って博多商人と協調し東アジア貿易で巨万の富を得るという志向が家康には理解できなかったのと
豊臣恩顧大名を西国に集中して左遷させて西国に興味を持たなかったことによる。
家康はあくまで関東の志向である蝦夷征伐と東国支配の志向のまま海禁政策という事実上の鎖国をしたことで理解できる。

113人間七七四年2015/08/28(金) 23:28:07.83ID:iJpyJJ4E
真言宗と天台宗と朝廷が信長暗殺の首謀者。

114人間七七四年2015/08/30(日) 02:37:23.82ID:Hkik/0EJ
天正十年夏ノ記

115P35 ★NGNG
P35.cgi (Perl,SJIS) 2015/11/18 FOX.
>&ft;1 元のスレ
../sengoku/dat/1381368686.dat
P35 吉田兼見・勧修寺晴豊・近衛前久・覚恕
422052 -> 53626 (バイト)
P35 テストに夢中。これ以降書いても消えちゃうかも

116人間七七四年2015/12/08(火) 22:27:09.49ID:8Gi1qfL1
近衛前久ら公卿たちの男色史談を語って下され。

117人間七七四年2015/12/22(火) 17:17:08.89ID:dS7BPhVR
http://ninkyou.blogspot.jp/?m=1
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118人間七七四年2016/12/29(木) 22:12:57.94ID:j0HQNFMC
保守

119人間七七四年2017/10/15(日) 10:43:55.42ID:p/c0/RlS
良スレ

120人間七七四年2018/05/17(木) 00:38:41.59ID:7YF+HM5+
曼殊院覚恕法親王は元亀元年に天台座主にはなったが儀式費用が足らず
翌年5月に信玄に資金援助を要請している
結果元亀3年7月に曼殊院覚恕法親王の吹挙で権僧正に叙される

権僧正になったのが余程嬉しかったか信玄は身延山に延暦寺移転の計画立てたと

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