桶狭間合戦の真実

1人間七七四年2013/12/29(日) 10:51:18.71ID:WoKpCiox
桶狭間合戦は2万5千の大軍今川義元軍をたった3千の織田信長軍が打ち負かしたと言われています。
最近では桶狭間合戦は奇襲ではなく正攻法だったという説もありますがどうなのでしょうか?
改めて桶狭間合戦についてみなさんで検討してみましょう。

2人間七七四年2013/12/29(日) 11:20:59.70ID:nPLrOalr
2万5千というのは今川の総勢力で、実際には分散していた。織田の3千は砦の守備兵を除いての機動部隊じゃないかな。
だから2万5千対3千というのは、わかりやすいが厳密には間違っていると思われる。

織田の3千の機動部隊が今川の本陣5千に突っ込んでいって勝てたという程度のことだと思われる。

3人間七七四年2013/12/29(日) 14:49:25.50ID:nPvtWtp/
最近は正攻法という説もあるようだがあれは奇襲といえば奇襲だね

4人間七七四年2013/12/30(月) 09:03:16.90ID:9VcxDBfP
動員力の差はこの程度だと思う
    織田:1 vs 今川:2
或いは
    織田:1 vs 今川:3

5人間七七四年2013/12/30(月) 09:16:01.54ID:9VcxDBfP
佐久間の少数でのお突撃は作戦かもしれん
あれで本陣が手薄になった

6人間七七四年2013/12/30(月) 09:25:45.77ID:UVwoxHF6
>>4
三河までが今川の勢力範囲としたら、そんなもんじゃ無いんじゃね
勿論、動員力の差がもっとあったとしても攻め手側も拠点防衛は必要だから結局は倍までは無いんだろうけど

7人間七七四年2013/12/30(月) 15:38:37.56ID:LahdJ2DG
今川はいきなり織田の拠点撃破に動かなくても、織田を引きずりだして決戦を挑めばよかったんだよな。一度大打撃を与えた
あとに各個撃破に動けば勝てたんだよ。それを一大決戦をせずにいきなり各個撃破したもんだから、無傷の織田軍が出てきて
今川の弱いところをついただけなんだよな。

8人間七七四年2013/12/31(火) 00:52:08.94ID:apNGafRH
信長は天才だからどうすれば勝てるかわかっちゃうんだよ。
「お前らどうしてわからないの?こうすれば勝てるのに」みたいな。

9人間七七四年2013/12/31(火) 09:43:58.05ID:wdb0YS0S
信長を買いかぶりすぎだよ。家臣の間でも篭城策と城から打って出るっていう意見で分かれていたんだから、家臣の中にも
同じ意見はあったんだよ。信長一人がひらめくわけないだろ。

10人間七七四年2013/12/31(火) 18:12:33.88ID:yzrvHGze
尾張はけっこう三河から攻め込まれてる
だから作戦方法は練りに練ったものが幾つかあるはず
その中の1つである本陣強襲策を採用したんだよ

11人間七七四年2013/12/31(火) 18:31:57.25ID:IMIJKvGU
義元が休憩をとったのは桶狭間だけど、信長が豪雨の後、強襲した時ってもっと沓掛城寄りの地だったよね?
あれって要するに大高城に対する織田方の砦を落とした後、目的を果たして沓掛城に戻る途中だったんじゃないの?
一見、家康を先に派遣し、二つの砦を落とした後、義元が悠々と沓掛城を出陣したように読めなくもないけど。

12人間七七四年2013/12/31(火) 21:33:28.26ID:DZ3qJh2n
始皇帝のように将軍を育てて駿府城から指示だけ与えてれば良かったんだと思うよ

13人間七七四年2014/01/01(水) 02:05:09.66ID:MGW6ITHp
清洲城
 |
 |
 |
鳴海城-----------------沓掛城


沓掛城から鳴海城までは縦列での行軍だろ
本陣の横っ腹を強襲されたな

14人間七七四年2014/01/01(水) 18:59:12.94ID:nQ/m/8Wu
現場主義

15人間七七四年2014/01/01(水) 20:11:38.56ID:LtGdXUQF
ダウンバーストの直撃で義元の首が飛んだ天災だよね

16人間七七四年2014/01/01(水) 22:19:25.31ID:nVTyTmBo
カマイタチかよ

17人間七七四年2014/01/01(水) 23:33:11.29ID:Y6HqLTSf
義元は陣中で病死した説はどうだろうか。病死したのだから、本陣で指示を出すものがいなくなり、おろおろしていた。信長は今川の本陣が動く気配がないため、急襲した。
当然義元は死んでいるので逃げることはできない。死んでいる義元の首を取って、信長が勝った勝ったと宣伝すれば、討ち取られたことになるよね。義元陣中病死説。

18人間七七四年2014/01/01(水) 23:45:00.94ID:N78FSj3q
菅沼遼太理論じゃん

19人間七七四年2014/01/02(木) 01:39:29.00ID:47a/l2eL
でも、あの戦いで今川義元が親征する必要があったの?
後世の人は義元本人が親征したから上洛途中だったんだと解釈したけど
最近は上洛論は影を潜めてるでしょ?
鳴海〜尾張侵略だけなら信頼置ける武将に任せるだけで十分でしょう。

20人間七七四年2014/01/02(木) 10:25:35.40ID:/qg0pu5q
>>16
スカイフィッシュだよ

21人間七七四年2014/01/02(木) 10:52:00.81ID:1hxs9PRg
違法駐車  これは許されない犯罪です
http://www.city.minokamo.gifu.jp/home/kouhou/IHAN/2.html

犯罪一族、塩木容疑者!!年末年始特別警戒中の犯行

12月30日 駅前ロータリーに一晩違法駐車
12月31日 自宅前路上、駅前ロータリーに計3台違法駐車
1月1日   総勢6台もの大群で私有地を占拠!!

22人間七七四年2014/01/02(木) 11:46:56.38ID:Lj1xsxkc
>>6
尾張の東部・南部も今川家の勢力範囲だったわけで
信長は尾張の半分程度の所領で、犬山の織田や長嶋の服部家(一向宗)も
いたからな。

23人間七七四年2014/01/03(金) 09:29:20.09ID:0fuU+qF8
>>19
そこが不可解なところですね

24人間七七四年2014/01/03(金) 10:02:57.24ID:e39FVDyw
確かその頃には既に家督を氏真に譲り駿河遠江の統治は任せ、自らはより強固に統治すべく直接三河に乗り込んできてたんじゃなかったっけ?
西方伸張に力を集中する現れじゃないの?

25人間七七四年2014/01/03(金) 13:42:23.35ID:P7tqV+ZP
大坂夏の陣で幸村の突撃が成功しちゃって家康の首がとられたようなものか

26人間七七四年2014/01/03(金) 16:55:59.92ID:R3gBKNWI
一次史料皆無で架空話をする馬鹿ばっかwww

27人間七七四年2014/01/03(金) 18:59:50.33ID:e39FVDyw
一次史料どころか二次史料すらなく、更には逸話レベルすら無い義元病死説を唱えていらっしゃる方ですか?

28人間七七四年2014/01/04(土) 12:29:58.52ID:/ZBQbIXP
もう史学界もいい加減、桶狭間の戦いなんて無かったと認めるべき時がきてるね。
ぶっちゃけ天文19年8月に今川義元が駿河・遠江・三河の5〜6万の大軍を率いて
知多郡の織田へ攻めてきたが、信秀が国境を支えて侵攻を許さず12月には今川軍を撤退に追込んでる。
その後、信秀主導で今川と織田は無事を結んで(朝廷は御所修理費などが欲しくて、将軍も三好と戦うために近江・美濃・尾張・駿河の無事を願った)
天文21年に信秀の死を挟み信長が弘治2年3月に今川攻めするまで平和だった。
信長公記は信秀死去を前にずらして天文21年に信長によって桶狭間の戦いが起きたことに順序を逆にしてる。
桶狭間の戦いは信秀によって起されたものであるのは明らかで、
公記は今川の侵攻年と信秀の死去年を交換して調整してる。
現代の史学者は公記の天文21年を書き間違えただけで、実際は永禄3年と書くつもりだったなどと
大きく改変してまで桶狭間の戦いで信長が勝ったなどとウソにウソを重ねて史学者として恥ずかしくないのかねぇ。

29人間七七四年2014/01/04(土) 12:36:34.17ID:YCU0CJGI
王って大きく分けると君主型と将軍型に分かれるね

@君主型・・・始皇帝、島津義久、源頼朝、後醍醐天皇
(自らは根拠地で地盤を固め将軍に戦いを任せる)

A将軍型・・・劉邦、織田信長、ジンギスカン、豊臣秀吉、ナポレオン、今川義元
(親征が基本で自らが陣頭指揮に立つ)

大抵の権力者は国が大きくなるにつれてAから@へ移行する例が多い
Aは実際に何度も命を失いそうになってる常に安泰だった人は居ない。
なぜか日本の戦国時代は権力者になってもAのまま終える例が圧倒的に多い。

今川義元は北条、武田、尾張と3方向に割合大きな敵を抱えた大国だったわけだし
本来は秦のように政治体制と内政充実と将軍育成をさらに図り
より早くから師団方式を取るべきだったかと思う

30人間七七四年2014/01/04(土) 13:48:19.21ID:txe8wK74
>>28
その義元の侵攻と信秀の防衛成功を、
越中の僧の誤情報からくる誤伝だとする見方もあるよね。
でもそれが桶狭間の戦いの元ネタに採用されたとする意見では共通しているけど。

だから事実とする人も
誤伝とする人も、
それが桶狭間の戦の元ネタだと共通の結論を出してるんだよね。

31人間七七四年2014/01/04(土) 21:51:24.41ID:pm4uQy80
>>29
取れる訳がない
そこまで恵まれてたのは大内と甲斐武田と後北条くらいじゃね

32人間七七四年2014/01/05(日) 05:21:59.57ID:GygGskUB
>>29>>31
お前らとてつもなく、無知で頭悪いね。

33人間七七四年2014/01/05(日) 08:28:30.99ID:NAiin2ul
また「今川義元は病死だったぁ」が湧いた?

34人間七七四年2014/01/06(月) 10:20:54.04ID:JenM9LTG
じゃあ儀雲和尚法語にある「庚申五月十九日討死」の天沢寺殿とは一体何者なんだ?
永禄三年六月十日の佐久間信盛書状にある「義元御討死」とは一体どういう意味なんだ?

35人間七七四年2014/01/06(月) 10:36:42.30ID:7ue0SGFp
>>34
原本無しの写しの偽書状。
後世に合戦譚に沿った捏造文書はよく作られる。
この場合、文書形式ですらなく、
ただの写し形式で、さらに信憑性無い。

36人間七七四年2014/01/06(月) 11:23:46.65ID:SI/dDCZV
そもそも儀雲和尚法語なんて一次史料じゃないやん…

37人間七七四年2014/01/06(月) 11:30:11.35ID:vkz+EJ5i
儀雲和尚って1457年に林泉寺を作っていたのに、
1560年の桶狭間まで生きているわけ無いと思うが、どういうこと?

38人間七七四年2014/01/06(月) 12:56:24.96ID:XSqY2+Hl
ここの人たちは義元の話してるのに「戦国遺文今川氏編」も手元に置いてないんですか?
あれは写ではありませんが

39人間七七四年2014/01/06(月) 12:59:16.23ID:XSqY2+Hl
>>36
佐久間信盛文書からも目を背けるんですねw

40人間七七四年2014/01/06(月) 13:13:30.26ID:XSqY2+Hl
「道家祖看記」
ひとささえもささへずしてどつとはいぐん、義元首を
毛利新助とる、折節西より大風吹、あられふり、
大たか・くつかけの大木ふきころひ申也、
五月十九日巳の刻首数五千斗打とり大利をえさせたまふ、
信長廿七歳也、


「三河物語」
義元ヲバマうり新助方ガ、場モサラサセズシテ打取、

41人間七七四年2014/01/06(月) 13:28:01.21ID:YMHiP1Ij
佐久間信盛書状は写だろw
ウソ言うなや!

42人間七七四年2014/01/06(月) 14:30:25.61ID:pOxSudkt
信盛の花押は唯一、熱田浅井文書でしか分から無いから、
それは写しで間違いない。
また「道家祖看記」の著者は1563年生まれで、
父の尾張守が信長に仕えていた聞いた話だとするが尾張守なんて信長家臣にいない。
また三河物語の著者は1560年生まれなので、
桶狭間の戦いの年の生まれ。
兄たちから聞いた時には、すでに義元急死を信長が討ち取ったとする情報操作を疑う者がいなくなっていたのだろう。

43人間七七四年2014/01/06(月) 14:44:00.12ID:ExadcLwn
どこまで酷い珍説を真面目に議論してるんだ

44人間七七四年2014/01/06(月) 15:02:51.41ID:pOxSudkt
義元を討った大功績をあげたはずの
服部一忠や毛利良勝が全く出世してないのは、
そもそも義元を討っていないから。
彼らより、義元急死をいち早く信長に通報した者が褒章されたのだろう。

45人間七七四年2014/01/06(月) 15:07:01.56ID:sxA8dGFJ
てか義元が病死とか事故死なら葬儀の記録とか、墓とか残ってるだろ。義元の墓は何ヶ所かあってよく分かっていない

46人間七七四年2014/01/06(月) 16:57:36.95ID:ocTpuWmy
そもそも服部や毛利が全く出世してないなんて言う時点で問題外だからな
逆に義元が彼らの手で討ち取られていなければ佐脇や山口みたいに追放されるのがオチだし
石高至上論で決める奴は織田政権下で勢力No.2と重鎮だった佐久間があっさり追放され家臣に見捨てられた事実を知らんのかな

47人間七七四年2014/01/07(火) 08:32:38.91ID:QID75+ih
>>38
ウソ吐き織田チョョョョョンwwwww

48人間七七四年2014/01/07(火) 12:13:14.86ID:NrE/kIfF
信長公記首巻に出てくる、
信長が戦った合戦に関する一次史料はすべて偽書状とされてしまい、
もはや首巻に書かれる信長の戦いはすべて架空話になっちまってるからな。
桶狭間だけはあったなんて都合が良い話が認められるわけが無い。

49人間七七四年2014/01/07(火) 12:42:50.93ID:np7/t22d
逆に、違うという一次資料ってあるのかな?
ないから違うというのなら、逆もしかり。

50人間七七四年2014/01/08(水) 11:09:05.81ID:rVaQ2XUE
久々にきたが、桶狭間がなかった、というのはすごいな。
元ネタはどこらへん?

51人間七七四年2014/01/08(水) 11:28:51.00ID:SLrIncH2
桶狭間がなかったら家康が独立できたのは何故なんだ?
アホと違うか

52人間七七四年2014/01/08(水) 11:30:01.99ID:kpJCtsck
>>50
日本中で菅沼君だけがそんな戯言を言っている

53人間七七四年2014/01/08(水) 12:24:43.82ID:rVaQ2XUE
>>51
いや、年次が違ってパパ信秀の戦いだった
とか言うんでしょ。

54人間七七四年2014/01/08(水) 12:30:53.97ID:ZNhRxvDU
桶狭間の戦いを機にやっと家康が岡崎支配を開始なんてのもウソで
事実は今川がノリノリで後援してくれたので、
永禄2年5/16に家康は三河の家臣団へ向けて家中の掟を明示して、
のちの自立に向けての支配統治を開始してる。
そこに義元急死、
遠州総劇が勃発し、
駿河と三河の連絡線が切断されたことを良いことに家康が自立し、火事場泥棒で三河を盗んだだけだし

55人間七七四年2014/01/08(水) 13:03:11.25ID:MKBolC17
そういう論文が出るの楽しみだねー

56人間七七四年2014/01/08(水) 22:59:29.48ID:H8sq5gR0
いっそのこと菅沼が実名込で論文出したらいいんだけどな

57人間七七四年2014/01/09(木) 00:52:57.54ID:0rzRT0l4
まあ、そもそも清洲同盟自体からして大ウソだからなあ。

58人間七七四年2014/01/09(木) 08:28:26.76ID:zWBM6B/h
桶狭間に清州同盟がどう関連するのか疑問だけど、清州同盟として語り継がれて
いる事柄はなかったんじゃないかと最近言われているね。
まあ、普通に考えて大将同士が清州で会議するとは思えないw

59人間七七四年2014/01/09(木) 19:47:29.08ID:gT/LVTj3
というかそもそも織田信長は実在したの?
最近は聖徳太子やキリストが実在してなかったとかいう説が出てね?

60人間七七四年2014/01/10(金) 12:24:09.17ID:sqs3E+UP
家康が清洲に出かけたという一次史料がない
というのを、同盟がなかった、というように拡大解釈してるわけね。
両者の関係は普通に同盟と言えるものだろうし
なんでも、なかった!、というのが流行りなんかなぁ。

61人間七七四年2014/01/10(金) 12:43:00.40ID:lfnIsAwk
>>59
聖徳太子は昔から言われてなかった?
実は見た人がいる記述がないとかなんとか。

>>60
>>58だけど、別に同盟が無かったと言っている訳だはないよ。
ただ、清州会議として語り継がれている事柄ややり取りはなかっただろう
と言っているだけ。
普通に使者(代官)がするものでしょ、って事。

62人間七七四年2014/01/10(金) 13:24:11.38ID:/aCKDS6X
使者(代官)がしたとい一次史料はあるのですか?

63人間七七四年2014/01/10(金) 13:25:50.56ID:3m73rMtf
いや、あれは従属同盟であり、
対等同盟かどうかも怪しいって話だ。
そもそも国力差がハンパない。
またその関係も、義昭の第一次上洛戦に向けた義昭側による働きかけにより成立したと見るべき。
そしてその失敗により義昭が若狭へ逃亡したのちも、
関係は存続していた。
だからこそ天正2年に家康は信長に内緒で、
義昭の使者と会談し、
徳川武田同盟の話をしていたのだろう。
その義昭との関係を切ったのが徳川北条同盟成立による信康殺害だろう。

64人間七七四年2014/01/10(金) 13:45:33.54ID:sqs3E+UP
>>61
清洲会議、というと映画になった本能寺後の
ほうとごっちゃになっちゃうな。

聖徳太子もそうだけど、一般で言われてる事柄について
「なかった!」というのは単に言葉遊びで
あまり意味がないんだよね。

ところで、信長ー家康の清洲会議?として
語り継がれてる事柄、というのはどういうのを指すの?

65人間七七四年2014/01/10(金) 18:00:29.85ID:bXll+Jz4
>>64
おそらく、「家康が清洲城に赴いて信長と対面して同盟がなった」辺りだと思うが、少なくともそういう記述は信長公記にはないね。

66人間七七四年2014/01/13(月) 08:32:49.06ID:VpMFmRcH
記述もないし、徳川の専門家の家康行動史にも
そういうのはでてこない。
ちなみに、織豊と徳川のそれぞれの専門家って
案外違うこと言ってるし、横の関係もない。
徳川から見ると初期の初期であまり意味はないかもしれないが
織豊からするともう少し参考にしてもいいと思うけどな。

67人間七七四年2014/01/13(月) 12:40:00.49ID:coVnNXhG
だから、義昭を後援する近江の御本所様と河内畠山氏と越後上杉同盟による上洛作戦戦略の一環として、
織田と徳川と北畠と斎藤の協調体制を成立させたんだよ。
だけど信長が同盟者斎藤義興を騙し討ちしようとして逆に大敗し、
三好に攻められた義昭は信長の背反を怒りながら越後上杉を頼ろうと若狭経由で越前に逃げた。

68人間七七四年2014/01/14(火) 00:11:06.73ID:XjQsmIZN
清州会議って織田家の会議でしょ
なんで家康が出席する権利があるの?
来てたら変じゃない?

69人間七七四年2014/01/14(火) 08:27:30.43ID:ab9XD6N4
>>64
ああ、そうだね。清州会議じゃなく、清州同盟か。
言い訳させてもらうと、個人的には同盟ってのは基本対等だと思っているので
なんか同盟ってのには抵抗があるんだ。


言葉遊び的なところは確かなのだけど、そこから真実に近い意見も出てくるので
一概に切り捨てることは出来ないと思う。
あ、でも浅間山噴火で家運が傾いたってのはどうかと思うw

>語り継がれてる事柄、というのはどういうのを指すの?
よく言われている、
・二人で会っての同盟
・家康の返答次第では殺そうと思い、武者を待機させていた
とかかな。
よくこういう会話があったとかあるけど、実際その場にいる人間が安易に口外
する事はしないだろうし、言ったら殺されるでしょ。

しかし、その後徳川の徹底した織田家従属はどういった約定があったんだろう。
もしくは、何もなく、ただ家康が不利と悟って従ったのだろうか。
まあ、このスレには関係ないか。

70人間七七四年2014/01/14(火) 11:30:42.38ID:XjQsmIZN
「大坂の陣で豊臣家が幕府軍に勝利する方法スレ」から抜粋

アンチ信長キチガイたちの主張

・信長以外の武将が尾張にいたら、尾張で今川を迎撃するどころか自力で自分から攻撃して三河を攻略してるだろ。
・織田信長の支配基盤は、今川義元より遥かに強固
・織田信長の動員兵力は17000、今川義元は21000程度
・信長は尾張や三河の水野分や身のの大垣城分もあるので初期段階で75万石
・信長は義龍によって尾張の半分を奪われてしまった
・超デタラメな桶狭間の戦いって捏造軍記
・桶狭間合戦前の織田家は博多を押さえさらに中国との貿易をしていた大内ですらカスレベル

71人間七七四年2014/01/14(火) 14:50:32.83ID:2oAheZvy
test

72人間七七四年2014/01/15(水) 04:06:40.06ID:WSXxlsV7
>>69
清州同盟は対等同盟だろうね

  尾張<三河・遠江・駿河
  尾張・三河>遠江・駿河

尾張 vs 駿河 の力関係の中心軸は三河にある
信長にしたら三河を取り込むかどうかで天国と地獄の差がある
徳川の低姿勢従属は単に信長の力が飛躍的に伸びた結果でしょう

73人間七七四年2014/01/15(水) 17:24:50.02ID:TPombuGQ
足利義昭の力で、家康と信長が同盟したってことか。
つまり、家康が姉川の戦いを必死に戦ったので、
信長なんてどーでもいいけど義昭の御為に戦ってたんだな。
だから京で略奪物の奪い合いで、徳川軍が織田軍を大破して、
あわてて信長が土下座して、家康と和解したんだな。

74人間七七四年2014/01/16(木) 13:13:48.00ID:5aj3FbUA
>>69
約定とかはなかったんじゃないかな。
婚姻関係結んでるし普通の近所付き合い
なんだけど両方とも利用価値が高かったし
旧拡大しちゃったから、結果的に何か特別なように
考えてしまうだけで。
徳川の方がうまくやったようには思えるけどね。

75人間七七四年2014/01/17(金) 04:12:45.38ID:XriDwj/6
60年代の段階で武田や今川とかは徳川は織田の家臣あるいは属国とみていたようだけど。

76人間七七四年2014/01/18(土) 18:42:25.40ID:63DBMbJQ
その時点では規模には差があったからね。
両者が手を結んだとしても当然対等ではないようには
思えるでしょな。

77人間七七四年2014/01/19(日) 06:46:45.18ID:ItjwLKoU
徳川としても運がなかったな 最初の頃は対等同盟でも戦う相手が弱い織田は勢力拡大できたからな
織田と徳川の位置が逆なら織田は武田に滅ぼされてたろうにw

78人間七七四年2014/01/19(日) 08:23:33.60ID:C4Sab8Rk
武田が滅ぼされるの間違いでしょw

79人間七七四年2014/01/19(日) 15:18:08.36ID:q462d3g3
徳川より弱い織田が武田に勝てるって?ないない

80人間七七四年2014/01/19(日) 16:33:59.79ID:1oRBC+KJ
徳川より弱くても武田より強ければ問題ない
武田なんて村上ごときに苦戦する雑魚中の雑魚だし

81人間七七四年2014/01/19(日) 20:22:34.87ID:N/7db2dP
徳川より弱くて武田より強いなんてありえないから アホ織田厨

82人間七七四年2014/01/19(日) 21:17:56.38ID:9H4U/pgW
国境紛争トーナメントじゃないし。国力がすべて

83人間七七四年2014/01/20(月) 04:18:18.40ID:2nw5RsTj
徳川より強い武田はなんで滅亡したん?

84人間七七四年2014/01/20(月) 22:13:01.92ID:UhNFvSZE
織田より弱かったんだろ

85人間七七四年2014/01/21(火) 06:45:08.22ID:7EspHz7x
仮にその強い弱いが正しかったとする。
するとどういうことが言えるかというと、結局のところ戦争に強いとか弱いなんて大して意味が無いということ。
意味のないことを誇るって悲しいね。

86人間七七四年2014/01/23(木) 08:26:27.50ID:q75AW5+6
>>70
>織田信長の動員兵力は17000、今川義元は21000程度
信長の動員力17000はちょっと・・と思うけど、今川にしても全動員数を連れて
行くわけでもないから、言われているほどの兵力差はなくて、実際の桶狭間が
の合戦があったとすれば、数千の兵力差であったと思う。

>>72>>74
ああ、なるほど。
信長が飛躍的に伸びたから、結果を知っている自分たちはそう思ってしまうって
言うのは納得できる。
しかし、位置的に武田を相手にしなければならなかった徳川はつらかっただろう
なぁw

>>85
まあ、兵が強ければ統一出来るものでもないからね。
兵の強さだけでいいなら、世界最強と言われるコサック兵が世界征服して
いるw
全体的な見方や、国力、運も必要だよね。

87人間七七四年2014/01/23(木) 11:32:02.58ID:sWIlPGn1
>>86
>数千の兵力差
仮に9000として、今川方を21000とすれば
織田方は12000となる。
倍までは無い。
此処までは算数の問題で小学生でもわかる

今川義元は出てないって前提でも無ければ、義元の自爆テロじゃないか?
寄せ手が倍まで無いのに「前?」頭首が出るって異常だろ?

桶狭間が長らく信長の奇襲の成功とされるのは、そうでも無ければ義元を外征先で倒すって合理的な状況が起こり得ないからだろ

88人間七七四年2014/01/23(木) 13:35:19.71ID:CKLw9yFS
とまあ史料を使わないと何でもありになる
そのうち肥えに落ちたとか言い出す

89人間七七四年2014/01/23(木) 13:56:27.27ID:Cwb3fROa
まあ織田厨は史料は使わず、
ひたすら屁理屈と妄想を武器に執拗に粘着するのが昔からの伝統だからいまさらだな。

90人間七七四年2014/01/23(木) 14:16:56.61ID:CKLw9yFS
自己紹介がお得意なようで

91人間七七四年2014/01/23(木) 15:18:25.84ID:5YYYCwgF
信長は尾張一国57万石や三河の水野分や美濃の大垣城分もあるので初期段階で75万石くらいあるでしょ
だから単純計算で今川と同等以上の兵力は動員可能だと思う。
支配基盤でいっても、今川より直轄領多くて遥かに堅固じゃね

92人間七七四年2014/01/23(木) 16:39:39.45ID:CKLw9yFS
相変わらず根拠無いね

93人間七七四年2014/01/23(木) 17:19:53.06ID:1UHhlTNv
織田軍による大垣奪取が信長公記の首巻にしかないしな
しかも大垣にいる間に信秀の本拠が包囲されて絶体絶命のピンチだったし
同じ二次史料では後で斎藤方に奪い返されてる

94人間七七四年2014/01/23(木) 18:51:41.20ID:Cwb3fROa
しかし残念ながら斎藤道三が大垣城を維持していた証拠が一切無いけどな。

95人間七七四年2014/01/23(木) 22:09:11.45ID:sWIlPGn1
>>91
なる程、今川家は類い希なる狂人の巣だったんだ
それならわかる。

96人間七七四年2014/01/23(木) 23:10:00.91ID:1UHhlTNv
信秀が奪ったという証拠がまず拙いし
道三が持っていなかったから信秀が持っていたはずだなんて極論でしかない
他の無名豪族が維持していたのやもな

97人間七七四年2014/01/24(金) 07:38:49.18ID:Q7lUh/5l
そもそも あったの?何かの伝聞 噂が捻りに捻れて ひとつの物語になっちゃった みたいな

98人間七七四年2014/01/24(金) 07:54:46.43ID:ENGUiZpt
>>91
尾張の南部・東部はすでに今川家に切り取られてるし、
北東部の犬山はまだ信長に屈服してないし、
西南部の服部一族は一向宗徒で反信長

やはり尾張半国あるかないかだろーが

99人間七七四年2014/01/24(金) 08:30:35.09ID:ErcmcQ/Y
>>87
ごめん、言っている事の半分も解釈出来ないでいるのだけど、何となく解る
範囲で話す。
個人的な双方の兵士数を予想すると、ここで言われている尾張75万石として
勢力圏としているのは4分の1程度なので、20万石程度だと思う。
しかし、津島や熱田を抱えており、金銭的に裕福な事を鑑みると、石高で
4000〜5000、税のあがりで2000、合計7000程度が信長の兵士数、対する今川
は、駿河遠江で60万石、三河入れて動員数は20000程度と考える。
全部連れて行くなんてゲームだけなので、約半数の12000程度なんじゃないかと
思う。
信長も当然全部連れて行くわけではないので、動かせるのは約半分の4000から
5000、その内各砦に1000〜2000割くとして、動かせるのは大体3000程度が限界
じゃないかと。
今川の方は攻め手なので、砦攻略にもっと手数が必要なのでその3倍(城攻めは
攻め側が3倍必要と言うのを応用するとして)6000を割く。
そうすると、兵力差は3000対6000になる。
が、言われているように義元は先頭にたって合戦をするタイプでもないので通常
での戦死は確率的には低いと思われる。
そう考えると、どういった状況で義元が討たれる事になったのか、凄い興味が沸く
よね。
たまたまはまったのか。

100人間七七四年2014/01/24(金) 08:37:34.09ID:XRNME2qm
>>99
長いw
興味がわくwってより素直に前提が狂ってるって話だろ

101人間七七四年2014/01/24(金) 09:06:08.07ID:VBSnAhTX
駿河から遠江にかけては結構栄えてたんだけどな、海上輸送で
織田の熱田はよく言われるけど、今川のそれはあまり指摘されないっていうね
あと富士山観光か
具体的にどんなもんだったかは知る術もない、無論熱田どころか戦国大名のバランスシートなんかね

102人間七七四年2014/01/24(金) 12:06:24.29ID:iJrqlOJj
税金2億五千万ちょろまかしたクズ
舛添

103人間七七四年2014/01/24(金) 12:23:19.69ID:ErcmcQ/Y
>>100
??
言っている意味がよくわからないので、もうちょっと詳しく。

>>101
栄えてる、富士山信仰があったと言っても、尾張と比べると人口の絶対数が
が違うと思うんだよね。
今でこそ電車も高速もある時代なので行くのにそうでもないけど、富士山な
んかは、一生かけて行ければ良い場所だったんじゃないかな。
その辺で人口が多い熱田との違いがあるのではないかと。
海上輸送も結局、人がいなきゃそれなりの規模でしかない。
ただ、個人的にはそう言った理由で入れなかったのだけど、言われる通り実際
に知る術はないよね。
タイムマシーン出来ないかなw

104人間七七四年2014/01/24(金) 12:44:55.06ID:/OaCvOgX
>>96
特に否定するに足る一次史料が無い部分まで否定することは無いだろ…
まず否定する根拠になる一次史料を出してから打ち消せよ。
それが史学の常識だぞ。
はっきり言って何の根拠もなく盲目的に否定するんじゃ、
お前の都合が悪いから信用できないって言うだけの動機しかみえてこない。
結果、お前がバカなのしかわからない。

105人間七七四年2014/01/24(金) 12:57:09.16ID:k0StZAeb
源頼朝の妻の出自先でもあった熱田神宮には古来から遺している書状は多く、
門前町があり伊勢湾通商圏とも接続し、あきらかに繁栄を匂わせるが、
門前町すら無かった富士山の浅間神社には大した書状は残ってない。
あきらかにそこに利益が集まるような何かがあったようには思えない。
また遠江灘の問題で良港も無く今川の海上通商も全く盛んでは無い。

106人間七七四年2014/01/24(金) 13:46:20.81ID:XSUgs9KP
>>104
別に否定はしてないがw

・信秀が大垣城を奪った
・斎藤が大垣城を奪い返した

これは両方とも二次史料の話
だからおまえのように一次史料しか信用しない奴にとっては
この2つの事項はないも同然
それとも「俺が気に入らないから因縁つけて信秀が持っていたことにしよう」とでも
考えているのかな菅沼遼太君w

107人間七七四年2014/01/24(金) 14:23:22.19ID:k0StZAeb
信長公記は一次史料じゃないが、
一級史料なんだから、
一次史料による否定根拠が特に無いなら、
それを肯定してるのが史学者の現状だろよ。
気に入らない内容だから信長公記を否定するなんてバカな態度は、
アンチ織田の人々すらやってないし。
やっぱり信長信者は狂信的だなあ。

108人間七七四年2014/01/24(金) 17:06:12.30ID:XSUgs9KP
>信長公記は一次史料じゃないが、
>一級史料なんだから、
>一次史料による否定根拠が特に無いなら、

日本語でおk 朝鮮人か?

一次史料のみで採択するなら

・信秀が大垣城を奪った
・斎藤が大垣城を奪い返した

これらは一次史料にないので両方とも採択せず
二次史料を含めて考慮するなら

・信秀が大垣城を奪った
・斎藤が大垣城を奪い返した

両方とも二次史料に記載はあるので両方とも採用する。ただそれだけ

史学会は菅沼遼太君のように都合の悪い記述は採用しないなんてしないのよw

109人間七七四年2014/01/24(金) 17:08:34.71ID:XSUgs9KP
ああ、一級史料って言ってるのね、把握
でも残念なことに信長公記の首巻は江戸時代の作だから
信長公記の首巻は信長公記とは同一視されないのよ
事実池田本は首巻がない全15巻だけど信長公記認定されてるから

110人間七七四年2014/01/24(金) 17:09:24.16ID:XSUgs9KP
あ、建勲神社本でもいいね

111人間七七四年2014/01/24(金) 17:19:31.93ID:8RrUNO5k
史学会では信長公記の記述が信憑性あるって結論がでてるんだろ

いろいろ桶狭間の本読んでも信長公記を否定してるのはほとんどないよ

112人間七七四年2014/01/24(金) 17:32:25.09ID:gCb+9r3v
学会系は公記を信用しないと生活
できないからね。
他に確認できないのだから
そんなに盲信するのもアレとは
思うのだが、そんなこと言ったら
相手にしてもらえない。
だからみんなで信用しあってるというだけ。
金子の調査ではあんまり成果が出てないのかなぁ。

113人間七七四年2014/01/24(金) 17:44:45.05ID:VBSnAhTX
次は陰謀論かよ

114人間七七四年2014/01/24(金) 17:45:46.11ID:WlxNnOsu
>>112
そんな妄想ストーリー作ってまで公記を否定されてもw

115人間七七四年2014/01/24(金) 17:49:01.98ID:swfcOBI/
>>109
つまり桶狭間の戦いは首巻にあるので、
全く信用性のないウソと言うことで、
織田厨も同意したと言うことだよね。

116人間七七四年2014/01/24(金) 18:25:46.30ID:gCb+9r3v
>>114
自分たちで言ってるんだが、なにか。

117人間七七四年2014/01/24(金) 22:16:36.42ID:+zgltoqh
>>115
桶狭間の戦いが信長公記の『首巻にしかない』のであれば、そうなるなw
で、桶狭間の戦いって信長公記のみの記載だったっけ?w

118人間七七四年2014/01/24(金) 22:29:48.16ID:StypLkqt
屁理屈たれんなw
どっちにしろ首巻が元ネタだろw

119人間七七四年2014/01/24(金) 23:04:55.24ID:8U/mvwt2
桶狭間の戦いは甲陽軍鑑にも載ってたはずだが
そのあたり菅沼君的にはどうなのかね?

120人間七七四年2014/01/24(金) 23:09:24.72ID:FEx84spV
>>112
だよね

121人間七七四年2014/01/24(金) 23:55:41.55ID:+zgltoqh
桶狭間の戦いは甲陽軍鑑のみならず三河物語すら確認できるからな
しかもご丁寧に織田信長、今川氏真双方の書状まで残っている
今日の桶狭間合戦はこれら全てに共通する事項を
できる限り追って推認されたものが桶狭間と言われているだけ
つうか信長公記首巻はむしろ桶狭間研究では異端扱いで
学者の藤本が取り上げるまで誰も見向きもしなかったじゃんw

122人間七七四年2014/01/25(土) 07:47:24.44ID:7gsa+BAI
首巻からパクられた内容じゃんあれ。
あきらかに桶狭間の戦いネタは徳川幕府が、
今川への忠義者家康の止むを得ない自立ストーリーとして利用したのが丸わかり。
家康が義元の仇討ちを願い出たりと、
主家への忠義が強調されるネタに利用され、
義元の妹の娘である瀬名姫を妻にする程に優待し、
義元は家康に家掟を岡崎に発布させる手助けをするなど、
家康自立に向けて協力してくれるなど大恩ある人だからな。
それを裏切り侵略した家康の自己正当化にちょうど良いネタ。
そしてそれを信憑性あるものにする為に偽書状や写書状が作られたに過ぎない。
原本確認できる一次史料には義元が不慮の死としか書いてないしな。

123人間七七四年2014/01/25(土) 08:14:19.12ID:A3krbX+Y
三河物語書いた大久保忠教が生まれたのは、
桶狭間の戦いがあったとされる年だから、
実際に見たわけでも無いし、
甲陽軍鑑が本当に春日虎綱の口述筆記だとしたら、
なんで甲斐にいたのに尾張での戦いを知ってるんだ?って話だからな。
信長が義元急死を、討ち取ったと、
のちに自慢気にデッチ上げたんだろなあ。

124人間七七四年2014/01/25(土) 09:35:08.62ID:J8LAeEzJ
>>121
桶狭間研究ってか、どうやって少数が勝てたか
みたいな状況は首巻にしか載ってない。
だから研究もしようがなくてそのままになってたのを
織豊の専門家でもないのが、もし100%信じれば、
という前提で論じただけ。

その結果がテレビ的な信長天才説などを
否定する方向だったからアカデミックでは同意で
特に相手もしなかったのだが、それがいつのまにか
正面攻撃説は学会でも認められてる、になってしまった。
ま、藤本が自分で言ってるだけだが。

だからあくまでも、首巻だけからの判断、という
前提がつくのだよね、藤本論は。

普通に読めば、雨が降ったり止んだり
得意の大音声とか見てきたようなナントカが
並んでるだけなんだよなぁ。

125人間七七四年2014/01/25(土) 22:44:16.47ID:tzh7wRrR
しょーじき三河物語の桶狭間の戦いって、
いい加減なテキトー話を書いてるようにしか読めない。
今川軍は小田原評定並みに答えの出ない議論を永遠にしてる超絶バカ低脳で、
しかも全く戦わずに逃げてるし。
不可解と言うか意味わからん。

126人間七七四年2014/01/27(月) 21:21:18.69ID:AADiQxxv
相変わらず菅沼遼太が自演で
寝言垂らしているんだなw
信長公記首巻には
桶狭間『山』という名称が
使われているから
信長公記首巻を
100%信用するなら
「桶狭間山の戦い」とするのが
普通なのに、そんな名称は一切
使われていないし、しかも
信長公記首巻の信長は
「小軍なりとも大敵を怖るるなかれ
運は天にあり、此の語は知らざるや」と
明らかに神頼みでイチかバチかという
悲壮な決意を固めているのに
そんなことは昔の桶狭間定説では一切語られていない
>>123
甲陽軍鑑では
今川方に武田の間者がいて
桶狭間は武田間者による
信長を利用した義元暗殺劇と言う
むちゃくちゃ展開だけどなw

127人間七七四年2014/01/29(水) 04:27:03.26ID:1o6jwYrx
織田信秀の場合は戦国大名としては、まだ確立していたわけでもなく
尾張のリーダー的立場だったと思う。例えば学校のクラスの学級委員のような
それが息子の信長の代になり、同僚を家来化させていき
クラスの先生という立場になり戦国大名になった

今川義元先生率いる隣のクラスから何度も攻撃を受けたが
信秀の時は同級生を説き伏せ、何とか戦に出るよう催促したが
なかなか言う事を聞いてくれない同級生も多かった
信長の場合は、先生に言われるので仕方なく出陣する
言う事なかなか聞いてくれない不良の生徒もいるが
学級委員の声と先生の声では、他の生徒への影響力は全然違う
信長は桶狭間前夜のドラマで見るような悲壮感は、さほど無かったと思う
先代の委員長時代の尾張では、裏切りが続出する可能性高いが
クラスをまとめ先生になった信長の尾張は、そう簡単に今川先生に奪われるようにはならんでしょ

西隣の美濃は若輩の頼りない先生に代変わりし学級崩壊し、生徒がバラバラになって負けてしまった

128人間七七四年2014/02/12(水) 00:01:49.96ID:dDaVZJ72
謎過ぎる…
義元は愚物じゃないんだし敵地に行軍するのに物見・斥侯を放ってなかった訳ないよな
善照寺砦から出陣したのなら鷲津・丸根の今川先鋒隊の目の前を通ってるじゃないか
一体何故義元は織田本体の動きを察知できなかったんだ!

129人間七七四年2014/02/12(水) 00:22:10.57ID:GuMsxtYb
通信機も拡声器もない時代なら物見を放っても対応が遅れることぐらいあるだろう

義元が織田本体と認識できてたかも微妙じゃない?

130人間七七四年2014/02/12(水) 01:06:35.07ID:dDaVZJ72
馬鹿なそれでは物見の意味が無い。報告を受けて出陣するのが普通だろう。
まさか信長が野戦に打って出くるとは夢にも思わず全く油断してたのかと言うとそれも違う。
善照寺砦に到着した信長佐々隊3百が今川勢に早速討ち取られて義元はこの報告を受けている。
そして、鷲津の朝比奈、鳴海の岡部は織田隊を静観したままやり過ごしている。
この辺から意味不明になっているな。沓掛城から進軍している義元本隊との遭遇は充分予想できた筈なのに…

131人間七七四年2014/02/12(水) 07:24:04.78ID:kzjlNFWw
そもそも公記の内容では、
低い地にいる寡兵の織田軍が、
高地にいる大軍の今川軍に対して、
正面から堂々と突撃して義元本陣にたどり着き、
速やかに義元を発見したことになる謎。
これに困惑かつ不可解に思った大日本帝国陸軍参謀本部は、
きっと側面からの奇襲だったんだよ!これは陸戦における奇襲戦の理想的見本であり手本であると賞賛する愚行で、
米軍に対するバカな奇襲が行われた。
戦後、甲陽軍鑑の記述に今川兵が乱捕りしていた記述を奇貨として、
今川の大軍はみんな乱捕りに夢中で、
義元本陣は誰も守る兵がいなかったに違いないなどとまたまたアホなことを言い出す始末。
どう考えても頭が悪過ぎるのが織田研究者。
そんなバカバカしいことを真面目に主張すんなwww

132人間七七四年2014/02/12(水) 08:19:30.30ID:SwFJ0QYM
病死だのよりよっぽど説得力あるよ
それが証拠に病気でしんだなんて唱えてる人間見たことないからw

133人間七七四年2014/02/12(水) 08:59:20.62ID:L/eS8NdN
「緩緩」と書いてあるのだから
油断してたのは間違いないだろう。

134人間七七四年2014/02/12(水) 09:15:38.22ID:426WYpbM
現在は崖を登っての正面奇襲というわけわからん説明をしている体たらくだからなw

135人間七七四年2014/02/12(水) 16:47:19.71ID:mOgWNONN
義元を討ち取る役目を果たした二人がそもそも死ぬまで出世できず冷遇されていて、
義元を討った褒美すら貰ってない件。

136人間七七四年2014/02/12(水) 16:57:00.79ID:mNy93W2l
旗本側近として本能寺の時も織田親子と一緒にいたんだから
十分な優遇だよなぁ義元の首1つだけでその地位にいるんだから
逆に佐脇良之をはじめ信長に従ったのに桶狭間でもそれ以降でも
目立つ功なく最後は家康のところへ厄介払いされた連中を指して
普通は「冷遇」と呼ぶんだよなぁ

137人間七七四年2014/02/12(水) 20:11:18.98ID:dDaVZJ72
これはねえ陸軍が迂回攻撃説を唱えたのも分からなくはない
公記は今川勢4万5千と書いている
大将が前線にいて兵隊がその後ろにいるような馬鹿な事はないから当然義元は一番奥に居る
とするとだな織田2千は今川兵の海の中を泳ぎきらないと義元には辿り着かん
まあ4万が2万でも状況は大差ないだろ
信長はこの状況を見て「突撃!」と口では言いながら北の山中に逸れて行ったんだろうな
それに家臣団も続いたと
そして闇雲に山中からふらふらと当てもなく行軍してたら丁度桶狭間で休憩してた義元本陣と
あらまびっくり鉢合わせと言うことだろう
ラッキーな小僧だよ全くw

138人間七七四年2014/02/12(水) 20:26:16.11ID:mNy93W2l
今川軍が密集していたとは書いてないけどな

139人間七七四年2014/02/12(水) 22:35:24.35ID:LaKNyHN0
桶狭間の戦いは非現実的過ぎる。

140人間七七四年2014/02/13(木) 08:50:51.91ID:uMt1LNfG
歴戦の義元があんな素人丸出しな死に方するとはとても思えない。
龍造寺隆信が鍋島の内応で殺されたように、
甲陽軍鑑に書かれる武田の密偵に義元が暗殺されたとする方がまだ納得出来る。
それなら不慮の死って理由が暗殺ってことで自然だし、
三村家親を銃撃で暗殺した宇喜多直家みたいな例もあるから珍しいことでもない。

141人間七七四年2014/02/13(木) 16:20:27.22ID:KSkljrmU
武田が今川義元を暗殺する理由がないし
実際には織田方の間者に殺されたんだろうな
織田は今川との戦況が信秀存命期から不利だったし
義元が出張ってきたときに暗殺に走るのは至極当然の流れ
信玄も松平記だと徳川方の間者に致命傷を負わされたことが
死亡原因になったと書かれたし
甲陽軍鑑は武田をマンセーするために織田の手先を
勝手に武田間者認定したんだろうな

142人間七七四年2014/02/13(木) 17:08:28.44ID:dOQyda8K
織田チョン得意の鸚鵡返し我田引水www

143人間七七四年2014/02/13(木) 19:36:55.34ID:KSkljrmU
事実を言われとっさに妄想人格否定に走り出す菅沼遼太w
チョンの血がうずいておるのぉw

144人間七七四年2014/02/14(金) 08:13:57.47ID:p1TPDtdt
事実もなにも、
他人のレスの内容をそっくりパクり朝鮮脳なだけじゃん。
織田チョン恥知らずだな。

145人間七七四年2014/02/15(土) 16:34:01.69ID:tIj3mb0y
日本語でおk

146人間七七四年2014/02/16(日) 23:26:49.01ID:p7jyumUO
結局国力から考えて織田贔屓に見積もっても兵力差は2倍程度だったんじゃないだろうか。

147人間七七四年2014/02/17(月) 02:16:59.02ID:KMO4Hfta
三河から尾張に攻め込む大将は不可解な死に方をしてるな
家康の親父と爺さん、そして今川義元

148人間七七四年2014/02/17(月) 06:27:01.79ID:ZhgxjIN4
>>146
織田の兵力が今川の2分の1はありえんだろう
まず尾張国の東側は今川の介入を受けまくってるし
有名どころでいえば大高城は今川領でこれ以東はほぼ今川勢力
これだけでも織田はせいぜい今川の3分の1から4分の1くらいだと思われる
今川2万と織田5千はわりと理に適っていると思うけど
個人的には今川が1万5千〜1万、織田は3千〜5千くらいが正しい数だと思ってる
万石250人計算や背景含めると大体こんなもん

149人間七七四年2014/02/17(月) 08:23:24.64ID:kS1rJ23y
義龍に尾張半国を奪われてるから、
信長の兵力が少ないのは納得。
そして義元が突然死というラッキーさ

150人間七七四年2014/02/17(月) 09:12:04.06ID:xdQiGt+B
尾張の東が今川義元の所持で
尾張の半国が斎藤義龍で
織田信長の領地はどこにあるのかな?w

151人間七七四年2014/02/17(月) 09:20:14.64ID:IX4ddELT
神奈川県 秦野市 鶴巻温泉 めっちゃいいよなー
神奈川県 秦野市 鶴巻 にあって 東海大学 にも近い
あそこチョーいきたい マジで マジマジ
ダチがその近くの 第3みどりハイツ ってとこに住んでてさ
チョー羨ましかったっす ワラ
年取ったら 神奈川県 秦野市 鶴巻温泉 が近くにある 鶴巻 に住むのが 老後の夢 さ

152人間七七四年2014/02/17(月) 10:37:03.60ID:UpLRGuCd
下記がウソじゃん。

尾張の東が今川義元の所持

153人間七七四年2014/02/17(月) 20:00:07.70ID:KMO4Hfta

154人間七七四年2014/02/17(月) 20:57:45.67ID:ZORaqAV2
斎藤義龍が尾張半分って
快川紹喜とかいう怪しい坊さんが
書いた手紙にしかないしな
実際地形上から見て
尾張半分をどう取っていたのか
全く予想できない

155人間七七四年2014/02/17(月) 21:36:55.46ID:RZZwntv4
むしろ今川が蟹江とか尾張西部にも影響力あったんじゃね

名門の力は侮れない

156人間七七四年2014/02/17(月) 22:07:32.70ID:4POQjxP4
あの和尚の手紙はちゃんと信用できるのか?

157人間七七四年2014/02/17(月) 22:44:50.20ID:rncxA6qT
今川が愛知郡東部を実効支配していたとする証拠になる安堵状なり禁制なりを示して下さい。

158人間七七四年2014/02/17(月) 23:29:26.19ID:FvwiG09m
では今川以外が支配していたことを示す証文をどうぞ

159人間七七四年2014/02/18(火) 08:23:50.64ID:Em9azX/I
2chならではの返しw
普通はできん

160人間七七四年2014/02/18(火) 11:07:29.62ID:WGg59IAt
今川は八事まで来てたというし
織田は挙母まででかけてるし
結構ユルユルだったんだろなぁ。

161人間七七四年2014/02/18(火) 13:03:12.73ID:Kx5joTVy
つまり織田領に今川が統治をしていた事実は見つけられないってことですよね。

162人間七七四年2014/02/18(火) 13:53:28.81ID:WGg59IAt
永禄二年の義元感状は?
大高城の知行を認めてるけど。

163人間七七四年2014/02/18(火) 19:48:35.27ID:ZKSgcryU
大高城以外取られてないでしょ。

164人間七七四年2014/02/18(火) 19:57:15.80ID:WGg59IAt
織田領内に統治してた場所があるというだけで
161はどうこたえるんだろ。

165人間七七四年2014/02/18(火) 22:57:03.45ID:g0SU7QUm
熱田の権力も関係あるかも

166人間七七四年2014/02/19(水) 20:37:23.26ID:yMsMH2q6
>>162
へっ?
それ写の偽書状じゃんよw
現在知られる義元が発給した書状なんてほとんど原本あるのに、
しかも義元は内政に力をいれていたからむちゃくちゃたくさん遺ってる。
しかし、なぜか桶狭間の戦いに決定的に関連する書状は写ばっかって言うwww
さすが架空戦記に沿って写書状を制作しただけあるなw

167人間七七四年2014/02/19(水) 23:24:45.22ID:1NJuWxn7
偽書って根拠は写しってだけですかいそうですかい

168人間七七四年2014/02/20(木) 00:38:52.66ID:g32Im2RZ
桶狭間の戦いって信秀の戦いを信長の戦いに作り変えただけでしょ。
信秀が今川の侵攻を排除して尾張に入れなかったって書いた越中の僧の書状は原本だし。
そもそも公記が信秀のこの戦いを隠蔽してる時点で操作してるの確定でしょ。

169人間七七四年2014/02/20(木) 01:02:16.06ID:Qu+CGzyk
写じゃなくても桶狭間そのものは一次史料原本にあるんだよなぁ
まあ織田軍に暗殺されたじゃ格好突かなくて
なんとか義元は頑張ったよアピールを今川軍がするために
歴史がゆがめられた可能性は否めないがw

170人間七七四年2014/02/20(木) 08:16:22.17ID:w7yPF/ua
>>169
今川が発給した感状だろ。
あきらかに今川が勝ってたが、義元急死になって退却しただけの証拠にしかならんから、
巷で言う桶狭間の戦いとは全く違う話だわな。
だいたい敗戦した織田には信長発給の感状一つ無いじゃないか。

171人間七七四年2014/02/20(木) 08:37:29.78ID:RD8OkKAO
こんなとこでいきまくより日本歴史にでも論文投稿してみたらw

172人間七七四年2014/02/20(木) 11:11:37.26ID:c5cS7jwT
信長本人が義元を討ち取っていたら感状の必要もないな

173人間七七四年2014/02/20(木) 19:29:57.29ID:vAt5b9aT
>>166
確か豊明市史に載ってたが
偽書状なのは間違いないんだね。
聞いてみるわ。

174人間七七四年2014/02/20(木) 21:56:19.86ID:hmGpcqsr
写しとか案とかでもちゃんとしたものであれば普通に一次史料なのに……
そんなこといったら武田関係の一次史料も大幅に減るわ。
一度各県史の資料編とか戦国遺文でも読んでみる事をお勧めする。

175人間七七四年2014/02/21(金) 07:33:32.11ID:An4p8e41
写しにちゃんとした根拠があると言うのは、
それがどういう経緯で写しとられ、どういう理由で現在のような形で所有者に渡ったか。
また軍記譚を元に作成された疑うがないか?
花押の形まで正確にちゃんと写し取られてないか?
花押の形の変化の推移と出された年が一致しているか?
と言う精密な判断が必要不可欠なのも知らない無知織田チョンwww

176人間七七四年2014/02/21(金) 07:43:56.09ID:j4NSGkyD
菅沼遼太理論では気に入らない書状は全て偽書状

177人間七七四年2014/02/21(金) 08:09:36.76ID:Ggw6zyfY
今川は鵜殿・梁瀬・平野・菅沼・松井・後藤・尾上らに
恩賞と感状を相次いで出してるので、桶狭間の戦いは今川の勝利の可能性が高い。
織田は感状を一切出してないのに義元の急死を良いことに勝ったと歪曲した。

178人間七七四年2014/02/21(金) 08:14:27.57ID:Ggw6zyfY
425:人間七七四年 12/19(月) 19:06 sQKuajvU [sage]
岡崎城の北に位置する賀茂郡松平郷を発祥地とする松平氏にとって
加茂郡寺部城の鈴木氏は家康の祖父の松平清康の宿敵
義元は家康の初陣に今川軍の援軍を付け岡崎へ送り
祖父以来の敵を討たせ寺部城攻略を成功させる演出をしている。

加茂郡名倉船戸橋城は奥三河に位置しており、
そこまで織田信秀の勢力圏が伸びていたのがわかる。
信秀は三河国加茂郡一円も領地に加えていたと見るべきだろう。

>>寺部城攻略
実は織田方にすぐ奪回されてるっぽい。
城に砦を築いて寺部城を攻撃してる匂坂長能が今川の将だし。
落とせないためか、それで来年(永禄2年)の義元出馬が書かれてるけど、結局出馬してない。

179人間七七四年2014/02/21(金) 08:22:14.94ID:brc3fTzp
俺も実際は暗殺だったんじゃないかと思う。
家康と信長が共謀して義元を暗殺して
ゴタゴタの内にそれぞれ地盤を固めたんじゃないだろうか。

180人間七七四年2014/02/21(金) 08:26:10.30ID:H39xShHd
IDwww

181人間七七四年2014/02/21(金) 08:39:30.62ID:Jj/YV0j1
>>177
そうだとしたらさすがに徳川あたりの記録に残るんでね?

182人間七七四年2014/02/21(金) 09:10:32.06ID:r5R2/Tqr
そもそも桶狭間が今川の勝利なら織田の勢力なんてなくなってるしな
当主は氏真なんだから義元が死のうが指揮官が無事なら動けるし
実際義元死後に岡部五郎が単独で刈谷城を攻撃している
それだけ今川の方が戦力が多いんだから
義元が急死したところで他の連中が協力してやればいい話

となるとやはり義元は暗殺されたのは間違いない
>>179のように徳川勢が協力した可能性も否めないな

183人間七七四年2014/02/21(金) 09:18:04.32ID:+g+ubgOj
三河にある寺部城すら攻略できない今川軍が、
尾張にある大高城を落とせるわけが無いな。

184人間七七四年2014/02/21(金) 13:04:34.54ID:r5R2/Tqr
ソースは?

185人間七七四年2014/02/21(金) 15:06:13.86ID:f8wTjjQH
>>184
永禄元年4/26付け義元→足立右馬助宛
今川方が寺部へ出陣した際に寺部と広瀬が共同して向かってきたので、
岡崎と上野の今川方が一戦に及び、
右馬助の兄が鉄砲に撃たれ討死。

書状では勝ったと自称してるが、寺部城が奪回できたとは書いてない。
それどころか岡崎まで不安定化する。

閏6/20
朝比奈→大樹寺宛
岡崎雑説出来候処、無別儀無事候間、可為御大慶候、何様来秋必可令参陣候条

結局、不安定な岡崎への出陣はなく、
かわりに義元の妹の娘と婚姻していた家康の
岡崎での自立を今川がバックアップする方向での
岡崎の安定を目指す政策へ変更される。

永禄2年5/16 家康が朝比奈の補佐を受けて岡崎での家中の掟を発布する。

11/28
家康が幡豆郡大浜郷の寺社へ所領返付の判物給付。

186人間七七四年2014/02/21(金) 15:14:43.64ID:f8wTjjQH
名倉船戸橋城の戦いでは美濃の岩村城勢が
今川を討つべく援軍にやってきている。
信秀が大垣城だけでなく、
信秀の姉妹おつやの方が嫁いでいた岩村城も織田領に組み込んでいたのがわかる。
しかしこの後、岩村城は信長を見限り離反することになる。

187人間七七四年2014/02/21(金) 19:19:35.94ID:QNhC5SuF
織田の影響を受けているのは事実だろうけど織田領とは言えないんじゃないか?
何年か前に出た武田氏研究の論文にその辺は詳しく載っていたけど。

188人間七七四年2014/02/21(金) 23:37:35.07ID:MmP4unVb
織田に対して国力の劣る今川という現実を認識していた義元は焦っていたからね。

189人間七七四年2014/02/22(土) 08:48:04.55ID:JHaY743p
>>187
岩村から三河へのすげー長距離を考えたら、
領国動員令としか考えられない距離だぞ。
善意で援助したいレベルで行ける距離じゃない。

190人間七七四年2014/02/22(土) 12:09:44.20ID:el/xgKXv
それじゃ尾張国+美濃大垣城+三河水野分=75万石じゃなくて、
さらに美濃岩村遠山一族分も含めたら80万石くらいになるね。
そりゃあ不安定な岡崎直轄化を諦めざるを得ない状況に陥った義元も
織田の勢力との彼我戦力差があまりに拡大していて恐れ焦るわけだな。

191人間七七四年2014/02/24(月) 00:34:01.39ID:od6CNt6v
>>189
いや恵那と設楽は関係が深くもともと協力し合うような関係
そうすることで半独立状態を維持していた

192人間七七四年2014/02/24(月) 11:53:48.64ID:CUalFCCX
まともな人に聞きたいんだが奥三河と岩村の関係ってどういうこと?
あと何年か前に出た武田氏研究の論文ってどんな内容?

193人間七七四年2014/02/24(月) 13:05:09.58ID:nbNZTGln
恵那と設楽は関係が深い


上記を証明する一次史料は?

194人間七七四年2014/02/25(火) 00:43:14.44ID:+bi+bD8k
お互い兵を出し合っているからだろ
小川氏の論文じゃ名倉船戸橋城の戦いで岩村勢が援軍に来た事とか根拠にしていたと思うが
まあそうでなくても山を挟んで隣同士なんだから交流あるのは当然といや当然だけどな

195人間七七四年2014/02/25(火) 01:57:22.53ID:J2FOUYi8
武田氏研究の47か。
50年代初めは織田斉藤が協力して東美濃・奥三河を支援することで
今川武田の西進に抵抗。
東美濃・奥三河の勢力も武田の侵攻に面従腹背していたが、
道三死亡により織田斉藤が争うようになり、東美濃・奥三河への支援は不可能となり、
東美濃は武田の影響下に、今川は奥三河北三河へ侵攻、今川の影響下に。

更に中濃の関(金山?)一帯を支配する長井が斉藤家から離反、
長井は武田と組み、武田は長井に援軍を出して斉藤家と戦う、
その援軍後の書状で必要なら兵糧などの支援に、更なる援軍の用意、
信玄自身が長井のもとへ援軍として出陣すると述べている。
またこの長井の離反により東美濃は斉藤家から切り離され武田領へ。

とかこんな感じの論文だったかな。

196人間七七四年2014/02/25(火) 02:00:06.89ID:J2FOUYi8
この時が一番美濃に食い込んでいたなと思う。
信濃ばっか攻めて川中島で無駄にとか、
さっさと美濃を攻めれば良かったのにとかいう意見を2chで見る事あるが、
ちゃんとやることやっている。

197人間七七四年2014/02/25(火) 08:37:28.07ID:D9MyCMON
柴が織豊研究の方で武田関連文書の
年次比定をいくつか修正しようとしてるけど
武田氏研究の方ではそれはどうなってる?
こっちの図書館には武田氏関連は
あんまりないんだよね。

198人間七七四年2014/02/25(火) 10:53:34.91ID:ongjJdch
>>195
長井隼人宛の書状で
何で武田と組んで斉藤と戦っているのか背景が掴めなかったがそういうことだったのか。

>>197
柴の年次比定というと、1571年の勝頼山県関連の書状を75年に修正したやつ?

199人間七七四年2014/02/25(火) 11:40:14.61ID:9qqq+H5k
桶狭間で順当に今川が勝っていたら、
武田も今川と足並み揃えて美濃侵攻を本格化させたかもしれなかったのか

200人間七七四年2014/02/25(火) 18:16:46.28ID:V2yW2lvh
で、結局のところ恵那と設楽は関係が深い


上記を証明する一次史料は?

だいたい山や谷が長く続き、いくつもの峯を越え、
いくつもの土着勢力のエリアを通過し奥深く進軍し国境を越え三河側へ出るために
進軍するリスクを考えたら、隣同士の間柄とか馬鹿馬鹿しい発想自体がありえないわ。

永禄2年〜3年の今川の奥三河北三河への侵攻は織田の援軍に出てきた東美濃勢によって失敗してるし。
それが原因で家康の岡崎独立を今川が後援するはめになるし、
織田を見限り東美濃が武田の影響下に入ったのは永禄6〜7年前後からだし

言ってることがデタラメ。

201人間七七四年2014/02/25(火) 23:15:18.56ID:aUEyX87q
>>198
それもだし、他にもあることね?
日本史研究とか
手元に無くて悪いが。
結構でかい話もありそうだからち〜っと
気になってたりしてる。
平山あたりがどうしてるのかなっと。

202人間七七四年2014/02/26(水) 02:03:35.23ID:hUbkxYer
>>200
昔のことだが田舎の爺さんに聞いたことがある
明治の頃まで山は道だったんだってさ
山から山に渡り歩くと言うんだ
山頂から次の山頂を目指す
現代のように道が整備されていない時代の知恵さ

203人間七七四年2014/02/26(水) 08:12:21.14ID:1x9hJV9h
>>200
歴史は一次資料で出来ている訳ではないからなぁ。
あまりつきつめてもしょうがないんじゃね?

204人間七七四年2014/02/26(水) 08:35:03.95ID:FS9hUMln
国衆の越境する外国からの排他性と団結力と難路険峻さを理解してないとか。
軍隊が他勢力の道を借りるなんてリスクあり過ぎだぞ。
借りて通過した地域が織田騎下だから問題無かっただけで、
今川方の調略が入っていたら待ち構えて山道の前後を封じられ殲滅だぞ。

205人間七七四年2014/02/26(水) 11:44:18.95ID:5CwH87Sa
>>204
そんな状況ならそもそも織田領であろうと援軍になんていけない

>国衆の越境する外国からの排他性と団結力
だから協力して外国である今川と戦っているんだろ

206人間七七四年2014/02/26(水) 14:52:35.49ID:CNw4Aymc
ちゃんと整備された道はなくても獣道くらいならたくさんあっただろ。
地元の住民を雇って案内係にすれば良いだけの話。
そうした案内係が大手柄を認められて取り立てられた事例もあるし。

207人間七七四年2014/02/26(水) 21:19:32.46ID:d1ra2rKo
獣道を軍隊が通過できるわけないし、
案内人にたばかられたら全滅するようなリスクはとらんわ。

そもそも案内係が大手柄を認められて取り立てられた事例とやらの一次史料を出せよ。

208人間七七四年2014/02/26(水) 21:46:12.97ID:hUbkxYer
岩村から三河までは山で繋がってるとみるべき
というか山間の勢力と捉えればいいよ
そんなに高い山ではないしね

209人間七七四年2014/02/27(木) 08:05:31.86ID:mHEy+MnB
>>204
戦国期は、隣村、国人が敵だったり、その向こうが自領だったり、勢力圏が
かたまっている訳ではないので、そういう事は頻繁にあったんじゃないかなぁ。
事前に通達して許可をとったりと、通過儀礼的な事はあったとは思うけど。
輝宗の件も、元々は援軍をしてくれた縁で起こったものだし、松田氏(相模本家)
が、近江の分家に援軍を送ったりしているみたいだし。

210人間七七四年2014/02/27(木) 08:24:59.17ID:nOLWhTlu
ただ単に織田勢力下だったから動員に応じて、
織田勢力下を通過してきて、
織田勢力下の戦闘エリアで今川が敗北し、
敗勢を挽回する切り札として家康を独立させて岡崎絶対国防圏を構築したのが今川ってことだろ。

211人間七七四年2014/02/27(木) 09:28:55.26ID:3sU4+NB/
家康を独立させた、というのはどうかね。
具体的に対立した時期にも諸説あるが
永禄4年4月以降が一般的だろう。

212人間七七四年2014/02/27(木) 10:47:36.81ID:EBbiHx1x
>>200
弘治3年に秋山らが東美濃の明智、串原落とし
永禄2年に木曽に高森を守るよう書状出してるし、この辺までは武田の勢力圏
桶狭間は苗木から織田に援軍が出てるから木曽は守れずに遠山が失地奪回したのか

213人間七七四年2014/02/27(木) 10:53:29.05ID:EBbiHx1x
家康は今川が独立させたのではなく謀反
義昭も今川に戻るよう家康に命じている

214人間七七四年2014/02/27(木) 11:22:59.57ID:3sU4+NB/
清洲同盟の記録が無いのも
謀反だから残せなかったんだろなぁ
という意見もあるもんな。

215人間七七四年2014/02/27(木) 12:22:26.97ID:EBbiHx1x
菅沼、鱸、広瀬ら奥三河の小勢を義元ですら鎮圧できないなら
遠山と同程度の地位は得られると家康は確信してたからこそ
氏真に叛いて朝廷、義輝、義昭、信玄、氏康の使者を拒否できた

216人間七七四年2014/02/27(木) 13:23:56.50ID:K0bPfY2V
菅沼は人に史料請求するなら、いい加減
長篠の戦いで
>勝頼が書状で今回の戦いを危ぶむ者がいる
これのソースをはっきりさせろよ
もう年単位で逃げ続けてるだろ
でみなが忘れたころにソース無しでまた言い出すの繰り返し

217人間七七四年2014/02/27(木) 17:04:44.56ID:MUbAQjnN
>>212
日付はいつ?
誰から誰に宛てた書状?

218人間七七四年2014/02/27(木) 17:14:16.46ID:Dcslnmci
お次は原文転記しろ、か?w

219人間七七四年2014/02/27(木) 20:25:50.40ID:fIpo4s3X
出せないのかよw

220人間七七四年2014/02/27(木) 20:33:23.70ID:4lumrJ59
それは秘密ニダ

221人間七七四年2014/02/27(木) 20:44:05.19ID:We6998wI
     _______                     __
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   | |     ___ // ̄ヽヽ // ̄ヽヽ (( ̄))   | | // ̄_>>
   \ヽ、   |l | |    | | | |    | |  ``( (.  .| | | | ~~
      `、二===-'  ` ===' '  ` ===' '  // ̄ヽヽ |__ゝ ヽ二=''
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222人間七七四年2014/02/28(金) 02:27:15.03ID:2acF4MrB
そういや史実かは怪しいが上村合戦でも遠山と奥平らが協力し合っていたな

223人間七七四年2014/02/28(金) 08:20:07.74ID:hR9PjHyo
しかし、スレには関係ないけど、あれだけ厚遇を受けていた家康が、あの時期
に独立を決心させたものはなんだったんだろうね?

224人間七七四年2014/02/28(金) 08:35:21.41ID:Z9kW7HwK
一説10万石ともいわれる岡崎松平氏の実力

225人間七七四年2014/02/28(金) 09:11:45.16ID:hMFsA7WU
>>223
直接には信長による攻撃だろうけど
桶狭間のその場にいて、弔い合戦もしない
ヘタレよりは信長の方が強そうに見えるだろなぁ。
家康18の春。

226人間七七四年2014/02/28(金) 11:07:50.14ID:0b/s+RAC
安定した職場にいても、「会社を興したい」とか思う人もいるしなー

227人間七七四年2014/02/28(金) 12:28:48.13ID:Ja5/yQiH
それいったら光秀とか何でってなるし、やっぱ野心かね?

228人間七七四年2014/02/28(金) 14:59:39.24ID:hMFsA7WU
家康が厚遇されていたというのもな。
桶狭間では最前線なんだから
逆にウラミも少しはあったかもしれん。
あの時はよく助かったもんだと思うわ。

229人間七七四年2014/02/28(金) 15:46:56.24ID:VRa2wLJ4
信長公記首巻なんて小豆坂合戦での勝利とか捏造だらけだし
信長公記基準だと1553年に桶狭間合戦があったと書いてるくらいいい加減なものなのに
都合のいい記事だけ盲信して桶狭間合戦の根拠として用いるとか相当アホだよな

230人間七七四年2014/02/28(金) 17:21:17.84ID:YWl+n9IZ

231人間七七四年2014/02/28(金) 17:40:09.01ID:PGMx+4LV
一番槍って名誉じゃねえの

当初の織田との戦いで今川の衰退を見て、おだに鞍替えって感じじゃね

232人間七七四年2014/02/28(金) 17:54:13.57ID:WJmniT3D
鞍替えも何も、清洲同盟なんて一次史料に無いし。

233人間七七四年2014/02/28(金) 17:56:40.00ID:hMFsA7WU
人質交換、婚約、という史実があるから
この前に何らかの両者の接触が
あったのはまちがいなかろう。
同盟はなかった、というのは
直接会った記録が無い、というのを
部分的に拡大解釈したおかしな言い方ではあるな。

234人間七七四年2014/02/28(金) 18:16:27.35ID:PGMx+4LV
232
そっすね


ただ織田にとってメリットとなると疑問なんだ
投手死んだだけの美濃と遠征で打ち取った今川なら今川に向かって良さそうなもんなのに

235人間七七四年2014/02/28(金) 18:20:31.76ID:hMFsA7WU
今川をとっても、さらに北条や武田あたりとの
戦闘が予想される。
ってか、三河に向かって美濃から攻められたら
元も子もない。
それを家康がかわりにしてくれるなら
自分は美濃へ向かえるから利害は一致する。
そんなに疑問はない、普通の利害の一致じゃないのかな。

236人間七七四年2014/02/28(金) 19:56:01.37ID:nyI2KSPh
>>232
無くても家康は信長のパシリ扱いだったし

237人間七七四年2014/03/01(土) 00:24:41.44ID:I/DuxMwz
巨大な敵と戦うより小さなところを吸収して力を蓄えるって方が自然じゃないか?
ドイツがフランスにハッタリかけてオーストリア取ったように
今川を取る頃にはかなり巨大な勢力になる
美濃も取れればいいけど、それよりはせいりょくのげんたいした今川に向かうだろうと

238人間七七四年2014/03/01(土) 00:47:13.02ID:BjFTCjBL
桶狭間では最前線って言っても当時は敵対相手と隣接している者が先陣務めるのは割と自然なことじゃ

239人間七七四年2014/03/01(土) 08:58:21.28ID:8/jIVsbb
隣接、というのがわからないけど
大高に兵糧運ぶなんて相当なリスクの高い仕事。
今川にいいように使われたのは間違いあるまい。

240人間七七四年2014/03/01(土) 09:44:01.22ID:FuyCfnUu
岡崎周辺の領土を今川の力を借りて切り取るチャンスだろ。
今川としても混乱する岡崎周囲を安定統治できるようにするために姪を嫁がせてまでして家康の自立を進めていたんだから。

241人間七七四年2014/03/01(土) 11:20:51.27ID:zsEo6iYk
分からなくなってきた
すまんが、自立とはどのような状態を想定しているんだ?

242人間七七四年2014/03/01(土) 11:27:56.81ID:gP1LDSSU
今川の力も何も桶狭間の後は
今川が撤退した西三河を自力で
開拓してたんだが。
そこに目をつけたのが信長なんだが。

243人間七七四年2014/03/01(土) 16:16:53.92ID:I/DuxMwz
239
リスクがあるからこそ手柄になる

242
桶狭間前の話って読んでてわからなかったなら教えてあげる

244人間七七四年2014/03/01(土) 16:50:06.28ID:h0djITly
清洲同盟が信長公記にすら記されていない以上は捏造逸話以外のなにものでもない。
などと言いたいところだが、さて信長公記が隠蔽する時は必ず理由がある。
信長公記において家康がすでに同盟者となっていては都合が悪いのだ。
そこで思い出されるのは、信秀死去寸前に今川と和睦してることを隠蔽して、
信長の立場が不安定だと捏造してる公記だが、
家康との共同作戦で思い出される史実で、公記が完全隠蔽してる事件がある。
それを隠蔽してる以上は家康がすでに同盟者であっては困る。
あくまで家康は永禄11年の義昭上洛戦以降の同盟者でなくては都合が悪いのだ。

さて以下がその隠蔽である。

永禄9年に信長は近江矢島の義昭を上洛させるためと称して
義昭に斉藤龍興との和睦を申請し義昭が喜んで和睦を斡旋したし
龍興も義昭を「公方様」と呼んで快諾して誓詞を細川藤孝に提出してる。
義昭は信長に藤孝を下向させ上洛の打ち合わせをし、
7月には能登七尾の畠山義綱や大和の十市遠勝にも
来月22日に信長が出陣するから上洛の供をするように命じてる。

これにより尾張・三河・美濃・伊勢四ヶ国の兵を率いて上洛軍を催すこととなった。
しかし出陣当日になると臆した信長が突然出兵できないと言い出す。
これには龍興18歳も信長が臆したと嘲笑し、義秋も信長を糾弾し天下の物笑いとなった。
これにキレた信長が8/29に同盟軍の美濃攻めを突如開始し
木曽川の河野島へ渡川進撃。奇襲に怒った龍興も
すぐさま応戦し河野島へ渡ってきたので織田軍は敗走し川を挟んで対陣。
その翌日から風雨激しく洪水になり閏8月8日の明け方に奇襲を敢行した
龍興側に織田軍は大敗。勝利した斉藤に義昭は改めて上洛を願うが
織田の動向が心配なので上洛は難しいと言われ
翌8月3日に織田と上洛戦を企んだと知った三好長逸3000が
近江坂本へ義昭討伐にやってくる。
8/29は暗夜だったのを幸いに側近4、5人で琵琶湖を渡り
若狭武田の下へ義昭は逃走した。

9/13の義昭は謙信へ向けて「京表儀 織田尾張守出勢相違故 
江州矢島儀 弥三好・松永計策共候間 難成安座候之条 若州へ相越 
去八日至越州敦賀退座候 義景馳走候」
などと信長を名指しで非難している。

245人間七七四年2014/03/01(土) 20:56:05.20ID:JSc9zvWy
成る程、永禄9年に義昭の仲介によって、
信長と家康が同盟したのか。
これは勉強になった。

246人間七七四年2014/03/02(日) 00:35:24.25ID:rIP0+bbf
勉強になるねこのスレ。

247人間七七四年2014/03/02(日) 01:05:45.59ID:7KIyQjBq
いかにアホが多いかがね…

248人間七七四年2014/03/02(日) 03:55:56.86ID:E+hmH2vo
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249人間七七四年2014/03/02(日) 09:39:04.42ID:q/aTwSO/
天下を取った家康が、
超大嫌いで唾棄すべきゴミ屑信長と、
自分との間の書状を集めて破棄したから一切残って無いんだろ。
そりゃそうだ。
六角も朝倉も武田も実質、
家康の力で勝っただけだからな。
戦下手信長は足を引っ張ってただけ。

250人間七七四年2014/03/02(日) 12:03:55.28ID:3F2DEUNU
>>249
人間、食わなくても生きて行けたら戦上手が天下を取ってたかもね。残念だったね♪

251人間七七四年2014/03/02(日) 18:36:52.43ID:fau/GyEP
今川軍は強く、永禄3年以降、感状がたくさん残っている。
むしろ感状と褒美を次々に出したゆえに、財政破綻で破綻したと言える。
それを象徴しているのが、
永禄4年4/11の夜に牧野平左衛門入道親子が逆心して敵方へ逃げた事件を契機とした
牛久保合戦における今川軍の大勝利の裏側に垣間見える。
この時、牛久保城には兵糧がまったく無かった為に、
今川家臣の牧野定成と岩瀬雅楽助が五百俵を立て替えた。
岩瀬はさらに塩硝鉛百斤を援助している。
牧野定成は自分の家臣である稲垣長茂の武功に対して6/7に早速、
領地を与えて恩賞で報いている。
もちろん今川も牧野の部下である稲垣親子に6/11に所領を与えて忠節を讃えている。
また6/17「に岩瀬雅楽助に対しても今川は代官職を与えて忠節を讃えている。
もちろん兵糧を肩代わりした功績だけでなく、牛久保合戦の勝利の武功に対しても、
匂坂長能などに所領を今川は与えまくっている。
当時、今川が去年からの吉田雑説(豊橋城)を代表とした
三州錯乱と呼んでいた大規模な国人反乱が起きていたという理由もあるのだが、
7/20の書状で米五百俵の即時返済すらできない財政状況なのが露呈。
今川はその後も三河乱国の情勢で一揆や謀反の討伐を進め、褒美を出したり、
帰参を許した際には本領返付を行いまくった。
今川直轄領がほtんど底を尽きて破綻していく姿が見える。
今川が強過ぎたがゆえに、武功への表彰が致命傷になった。
守護大名である大友が財政破綻した挙句に、キリスト教を掲げ寺社を破壊し、
ついには大友菩提寺まで破壊して寺領を没収し家臣に与えたように、
守護大名は元々、直轄領がほとんどないので破綻崩壊したのであろう。

252人間七七四年2014/03/02(日) 18:53:47.82ID:rbXkeZNj
五徳婚約のあたりで同盟は
成立してるだろうに。

253人間七七四年2014/03/02(日) 19:26:48.19ID:fau/GyEP
>>252
何年に五徳婚約したかを証明する一次史料はまだなの?

254人間七七四年2014/03/02(日) 20:15:43.27ID:E+hmH2vo
21 :菅沼遼太:2013/10/01(火) 15:05:14.00 HOST:g229.115-65-140.ppp.wakwak.ne.jp<8080><3128><8000><1080>[115.65.140.229]対象区分:[個人・三種]優先削除あり
削除対象アドレス: http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1380092620/92
削除理由・詳細・その他: 個人の取り扱い
三種
 上記2つに当てはまらない全ての人物
三種:
 誹謗中傷の個人特定が目的である・文意により攻撃目的である

誹謗中傷
三種:
 個人を完全に特定する情報を伴っている。

22 :21:2013/10/01(火) 15:10:35.88 HOST:g229.115-65-140.ppp.wakwak.ne.jp>>21も削除していただきたいです。

23 :不動 ◆HpcRk2ELiM @削除明王 ★:2013/10/01(火) 18:41:44.52 0>>21-22
却下。名前だけなら削除対象ではなく、削除する理由なし。

#名前との組み合わせで削除対象になる記述がありません。
#予備知識のない第三者には個人を全然特定できない上に、
#誹謗中傷として扱う記述もありませんでした。
#なお、もし当スレの21を正式に削除依頼しても、削除する理由がないので却下あるのみです。

24 :うんこ:2013/10/01(火) 20:53:49.39 HOST:ntaich067177.aich.nt.ngn.ppp.infoweb.ne.jp>>23
却下
じゃねぇよボケ
ちゃんと仕事しろよクズ野郎

25 :21:2013/10/01(火) 21:10:10.04 HOST:g71.124-45-254.ppp.wakwak.ne.jp>>23
手前ら無能な運営の不手際で個人情報が漏れてクレカ変更までやって手間取らせておいて
個人情報晒しも却下とかどんだけ身勝手なんだよクズ

255人間七七四年2014/03/02(日) 21:16:51.06ID:quWG1tTH
成る程。吉田雑説が原因で、
今川軍は桶狭間の戦いに勝利後に撤退したのか。
吉田は東三河最大の拠点だから、
無視など出来ないからな。

256人間七七四年2014/03/03(月) 00:59:40.25ID:B7JQA9nS
永禄が始まった辺りから、
三河や遠江の国人達は騒乱を起こしての、
反乱ビジネスによる錬金術に気付き、
自作自演の一揆や鎮圧や帰順で今川を喰い物にしたからね。

257人間七七四年2014/03/03(月) 08:11:04.71ID:DebZbctX
義昭が仲介した、という記録が織田徳川に残ってるのか。

258人間七七四年2014/03/03(月) 09:05:06.63ID:1KhoJ1Np
義昭が上洛の為に細川と和田を信長や家康に派遣してるじゃん。
それ以前の織田と徳川は赤の他人で接点が全くない。

259人間七七四年2014/03/03(月) 18:16:54.83ID:DebZbctX
徳姫婚儀の前には接点があったろう。
推測でいいなら、永禄四年四月に信長が徳川を攻め
それと同時に徳川は今川に本格的に反抗してる。
普通に考えればこのあたりで両者の接点があったろうね。
徳川改姓も義昭に関連させて解釈してる研究者もいるが
義昭はどこにでも手紙出してるから
なんでも、義昭黒幕、になってしまう。
徳川の記録に残らないのは、裏切りだからだろう、とする
研究者が多いし、公記に残らないのは秀吉時代だから
やっぱり書きにくかったんだろう。
隠蔽した、というとダガの仲間になってしまうからアレなんだが。

260人間七七四年2014/03/03(月) 19:09:54.37ID:RhHAZn1N
隣国で散々戦争してる相手と接点がない???

261人間七七四年2014/03/03(月) 22:22:34.62ID:M+GLsKUt
今川の財政破綻か・・・
だとすれば三国同盟後の今川の鈍い動きに合点がいく
尾張侵攻をする余裕がないにも関わらず大高・鳴海が包囲されてしまったもんだから止むに止まれず尾張侵攻をしたというわけだな

262人間七七四年2014/03/04(火) 08:23:51.53ID:kJsIXEaZ
今川家の財政破錠かぁ。
なかなか興味深い視点だ。
確かに財政的には織田家の方が上だろうけど、武田と後北条はそこに付け込まった
のだろうか。
三国同盟が結構強かった?

263人間七七四年2014/03/04(火) 08:28:51.59ID:LXDt2Ybw
義元は三河安定化に必死だったから尾張どころじゃ無かったよね。

264人間七七四年2014/03/04(火) 17:55:06.89ID:+J1QgcE4
信長、謙信と上洛してるから
義元もこれに呼応したんじゃないかな。
前二者の上洛は理由が不明なんだけど
謙信にとっては国をある程度危機にさらしての
上洛。
義元もある程度境界をけちらせば
織田は配下にできると思ったんだろう。

265人間七七四年2014/03/05(水) 08:39:20.93ID:Euj0OaHR
>>260
相変わらず織田厨は無知だなあ。
水野氏がいるのも知らんのかよ…

266人間七七四年2014/03/05(水) 17:49:33.42ID:PmdVVy9J
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267人間七七四年2014/03/07(金) 21:13:19.79ID:vU7th1ip
ふとなんで今川義元が尾張に出陣してたんだろう?って考えてて思い当たったんだが、
1560年に義元の代理で総大将出来る人物っていたの?

それまでは太原雪斎や朝比奈泰能が総大将になってることが多かったみたいだけど、
二人とも死んでるし、朝比奈泰朝、岡部元信、家康にしてもまだ若いし、
ちょうど世代交代期で義元が出陣するしかなかったように思うんだが…

268人間七七四年2014/03/07(金) 22:00:30.75ID:WsnJbjAT
氏真

269人間七七四年2014/03/07(金) 23:01:41.41ID:vU7th1ip
てことは義元が出陣というのは、今川方としては最良の指揮官を選んだってことか
今まで義元が出たから上洛か、国境争いよりは上のレベルの戦いだったんだろう、と思ってたけど
単に指揮官がいないから義元が出陣せざるを得なくなった、という解釈もありなのか

270人間七七四年2014/03/07(金) 23:19:47.57ID:WsnJbjAT
規模の問題じゃねえの
義元自ら出ても三河勢しか招集してないなら小競り合いとも言えるし
逆に義元出てなくても領国全体から動員かけるなら相当の意気込みと狙いがあるだろうし

271人間七七四年2014/03/08(土) 02:27:50.15ID:aXDvHihk
なので、義元である必要があった。
上洛目的だった、という論はあるわな。

272人間七七四年2014/03/08(土) 09:06:58.04ID:3Z8a5RPz
で、義元本人が尾張国内に侵攻していたことを証明する一次史料はいまだに出てないの?
現状では義元は三河国内で後方指揮に徹していたとしか解釈出来ないんだよね。

273人間七七四年2014/03/09(日) 08:16:24.90ID:4Gz474uR
そりゃ後方の東三河において吉田雑説が起きているほど三河騒乱中なのに尾張に行くわけが無い。
それが理由で西三河安定化のために姪と婚姻させた家康をバックアップして岡崎自立策まで打ち出してるほど三河統治失敗寸前だったんだし。

274人間七七四年2014/03/10(月) 09:55:55.43ID:0UH5ie2f
三河雑説?自立策?
独自研究の成果が多すぎてついていけない

275人間七七四年2014/03/11(火) 04:55:16.36ID:wgJRoLIc
菅沼遼太理論は本場仕込のウリナラファンタジー

276人間七七四年2014/03/11(火) 21:11:11.83ID:5gzqTpDi
死体があったという一次史料がないから
信長は生きていた、ってぐらいか。

277人間七七四年2014/03/11(火) 23:28:45.39ID:xRB5PJSH
あれ?菅沼君は桶狭間は今川の大勝って主張していなかった?
相変わらずバレバレの自作自演が笑えるけど、頑張ってるねえ。

278人間七七四年2014/03/14(金) 04:19:25.06ID:SIYw7bez
今川の大勝クソわろ

279人間七七四年2014/03/15(土) 22:40:55.40ID:Nz9Y3ylS
この間BS歴史館で桶狭間についてやってたなー
漫画家の江口さんが出てた

280人間七七四年2014/03/15(土) 23:59:05.50ID:d0d/y3BA
江川達也は自分で世界一桶狭間合戦について詳しいって言ってたね。
「桶狭間合戦の真実」っていう漫画本も出版してるし。

281人間七七四年2014/03/16(日) 00:44:08.77ID:PAbb0K7u
>>280
渡辺真理さんのほうばかり見て話してたねw
「信長は天才だから凡才の周りの人を理解できなかっただろうね。俺も絵を描けない
人のこと分からないしw」みたいな事言っててあんまり良い印象じゃないw

282人間七七四年2014/03/16(日) 00:54:48.65ID:4BG88mdB
マジレスすると、信長が理解できなかったのは、秀吉だけ。
だから、ぶち殴って顔面麻痺にしてやったんだろうが。

283人間七七四年2014/03/16(日) 09:29:11.84ID:S68CS6Ps
史料もないのになんに詳しいんだろう。
トンデモ説に詳しいってことか?

284人間七七四年2014/03/17(月) 06:30:50.02ID:ABMUdrUm
>>283
江川さんは桶狭間の近くで育ったらしい
だから桶狭間の戦いには色々思うところがあったんだと思う
世界一詳しい、は言い過ぎだと思うケド(まわり少しひいてたし)

285人間七七四年2014/03/17(月) 09:01:50.89ID:ZyWn4Buc
>>179
論破されまくった挙句に、
織田厨が泣きながら出した窮余の解答がそれかwww
もはや織田厨も義元が敗死したとは思ってないんだな。

286人間七七四年2014/03/17(月) 16:33:47.24ID:68mDqGr2
忘れたころに勝利宣言するあたりが菅沼遼太

287人間七七四年2014/04/27(日) 13:22:43.81ID:bncsu6ql
人質にされた織田家から合戦までやって家康を救い出し、
自分の姉妹の娘を妻にして一族に加えてくれた
慈悲深い義元様。

288人間七七四年2014/04/27(日) 21:13:02.39ID:thEI0eae
織田信長の桶狭間の戦いでの勝因を、「民家への略奪行為で油断する今川方を急襲したから」とする説を、
黒田日出男東京大学名誉教授が唱えている。
勝因について、明治時代には陸軍を中心に迂回奇襲説が、
近年では『信長公記』に基づいて正面攻撃説が主流である。
だが、黒田は『甲陽軍鑑』に着目し、
「記憶違いはあるが、悪意の捏造はなく、体験に基づく良質な史料」と断定した。
そして、当時武田氏と今川氏は同盟していたため「敗因を間違えるとは考え難く、
第三者が敗者から得た信頼できる情報に基づく」とした。『甲陽軍鑑』には
「その日の(事前にあった別の)戦いに勝ったと思った今川軍が略奪に散る中、
織田軍が味方のように入り交じり、義元の首を取った」とあり、
また別の史料で徳川家康が「今川軍が略奪し、油断していた」と証言したのも確認した。
黒田は略奪を"乱取り"と呼び、新説を「乱取り状態急襲説」と名付けた。

289人間七七四年2014/04/27(日) 23:52:03.56ID:I1rmPkcb
>>288
>今川軍が略奪に散る中、織田軍が味方のように入り交じり、義元の首を取った

忍びの仕業じゃね

290人間七七四年2014/04/28(月) 00:53:04.87ID:ug/RiLBr
>>288
>織田軍が味方のように入り交じり、義元の首を取った
これはともかく、今川軍が略奪に散る、油断していたってのはあるだろうな

291人間七七四年2014/04/28(月) 07:33:38.85ID:+vUPcIHM
>『甲陽軍鑑』に着目し、
>「記憶違いはあるが、悪意の捏造はなく、体験に基づく良質な史料」と断定した。

この時点でマトモな学者じゃないことがよく分かるな
勝頼周辺とか悪意に基づく捏造だらけなのに

292人間七七四年2014/04/30(水) 06:22:31.05ID:QwbroW4y
>>290
当時の統制力がどのくらいだったか解らないけど、本陣の旗本まで油断はとも
かく、略奪とかしていたのだろうか。
そうだとしたら、以前話題になった今川氏の波状ってのが真実味が出てくる気
がする。

>>291
甲陽軍鑑は、時代的な経緯がどうだったの参考にするにはいいが、「体験に基
づく良質な史料」とは、個人的には思わないなぁ。

293人間七七四年2014/04/30(水) 09:43:04.82ID:ACrnKTc7
というか当時は小氷河期でどこの国、とりわけ東国大名は
地元の口減らしのために戦争やってるようなもんだからな
略奪で糊口しのいでたんだからやらない方が不自然

294人間七七四年2014/05/02(金) 01:03:54.99ID:btdF1K2p
>>293
>>当時は小氷河期
これ嘘だから。
足利義持時代に長雨が続き飢饉が続いていたが、
(調子こいて朝鮮軍が対馬に攻めてきて瞬殺されてるが)
その後、大規模な飢饉がまったく起きてないし。

295人間七七四年2014/05/04(日) 09:39:36.05ID:F0clBPs/
>>293
戦争するための食料やそのた諸々準備したほうが大変じゃないか?
まさか、戦争に行くのに何も準備せずに行く前提?

296人間七七四年2014/05/04(日) 10:23:13.30ID:c5h+Sn7F
虐殺強奪恐喝に依存する現地調達型は本国に戻る必要性がない。
上杉や武田がわざわざ本国に戻るのは兵站線確保による補給型だから負荷がかかる為。

297人間七七四年2014/05/05(月) 08:34:33.70ID:nJ1G/WQG
へ?

298人間七七四年2014/05/05(月) 09:09:07.74ID:AI+XxDWx
信長は略奪虐殺による亡国政策を興福寺に非難された。

299人間七七四年2014/06/01(日) 18:47:15.15ID:dNQ/PpFi
のぶなが

300人間七七四年2014/06/02(月) 07:21:55.32ID:0TcZLl91
信長は既に当時潤沢な資金を持ち経済的に大国を治めてた
尾張の石高は高く特に信長が治めてた地域は商業が発達し
その経済力が後に勢力を拡げる原動力になったと言われている

当時今川は総勢では2万5千人かもしれないが非戦闘員は3割〜4割
つまり実質は1万5千ほどの軍勢だった
その1万5千人を各城や砦攻略に向かわせているので義元本隊は5千人
ぐらいの戦闘員+非戦闘員といった構成だったと思われる

信長は逆に戦闘員のみを3千人引き連れ義元本隊に奇襲をかけた
但し、当時の信長の経済力、石高など考え更に各城に割り振った兵数
を考えると信長も5千人ほどの軍勢だったのでは無いかと思われる

砦などには数十人〜百人ぐらいしか配置せず今川の軍勢をバラけさせる
作戦で信長は義元本隊に狙いを定めてたいた

各城も簡単に落ちて織田勢は清洲に篭城し出撃してくる事は無いと油断
していた義元本隊に戦闘員のみ引き連れて強襲をかけた信長
いきなりの奇襲に陣形もとれずに混乱し義元目掛けて突入してきた
織田勢が襲い掛かり義元は討たれたと

桶狭間はこんな感じだと思う

301人間七七四年2014/06/02(月) 08:02:45.41ID:go9n/6C8
戦力比はだいたい1対2〜2.5ぐらいだったろうね。
織田のホームゲームってことを考えれば今川もそう楽勝ってこともなかったかと。

302人間七七四年2014/06/02(月) 09:25:37.22ID:mPDslQQ4
今川より織田の方が兵力多かったんじゃないか。
今川は70万石
織田は尾張57万石+美濃大垣城+刈谷の水野20万石で計80万石くらいになるし
織田は直轄支配地ばかりだが
今川は間接支配や国人の自立支配地ばっかりだし。

303人間七七四年2014/06/02(月) 09:40:18.61ID:pQkro7ff
信長が相続したのは尾張57万石+美濃大垣城+刈谷の水野20万石+信秀の妹がとついだ美濃岩村城

304人間七七四年2014/06/02(月) 10:26:00.78ID:Ach1ZqnB
菅沼遼太理論だと今川領の大高城や鳴海城は尾張ではないらしい

305人間七七四年2014/06/02(月) 10:46:12.55ID:pQkro7ff
>>304
信秀が死去し信長が相続した時点で、大高や鳴海が今川領だった根拠を出してみろよwwwwwww


>>信秀は今川に尾張半分を奪われてた
信長領だった鳴海が今川方になったのは弘治元年(1555年)2/5付書状で証明されてる。
しかし、それ以外は取られてない。半分が今川とかアホだろw
その書状の中で信長が鳴海に同心したら領地没収の話を出してる。
そもそも弘治元年から2年に渡り三河全域で反今川勢力が蜂起して
今川勢と各地で戦ってたのは岡崎市史で指摘されてて、 今川にはこれ以後、余裕がまったくない。
信秀が死んだのは天文21年3月(1552年)で鳴海が今川へ寝返った時期は、
信秀死去からすでに3年も経過してるから、信長が相続した時点では鳴海はちゃんと引き継いでいるし。

306人間七七四年2014/06/02(月) 11:16:13.07ID:0TcZLl91
当時の尾張は

約領土の半分近くを今川に奪われていた
しかし、経済の中心とも言える津島を織田が抑え
今川は奪った尾張の半分は石高に換算すると10分の1程度だった

これは歴史検証でもそうだと言われている

307人間七七四年2014/06/02(月) 12:44:00.15ID:Ach1ZqnB
また菅沼遼太が脳内織田厨と会話してるのか
桶狭間の話をしてるんだろ?w

308人間七七四年2014/06/02(月) 12:45:51.43ID:Q7Ctijeu
>>306
脳内願望妄想ソースはチラシ裏に書けよカスゴミチョン

309人間七七四年2014/06/02(月) 13:23:31.23ID:mPDslQQ4
大高城以外取られてないだろ。
大高城周辺なんて尾張の中じゃ貧困な地域じゃね?

310人間七七四年2014/06/02(月) 14:23:50.40ID:go9n/6C8
水野20万石って三河の7割水野かよ。
松平の土地ないじゃん。
なんでこんな単純なところでボロ出すかなあ。

311人間七七四年2014/06/02(月) 14:29:50.40ID:go9n/6C8
美濃の大垣が織田領だったのは信秀の最盛期。当時はとっくに斎藤領だボケ。
この当時は美濃との国境沿いは掌握しきってない土地も多い。
石高ベースで換算すると信長の支配率は6割から7割ってとこかな。
甘めに見積もって織田40万石対今川70万石ぐらいの国力差が妥当かと。

312人間七七四年2014/06/02(月) 15:22:47.21ID:mwYGkYIC
現在でも名古屋市の中心地相当なんだが

313人間七七四年2014/06/02(月) 15:24:57.20ID:mwYGkYIC
あ、大高城の周辺な

314人間七七四年2014/06/02(月) 16:35:17.54ID:go9n/6C8
いや流石にそれはない。>大高周辺が名古屋の中心
現在、名古屋の中心地といったら名古屋駅周辺から名古屋城周辺にかけて。
当時だったら熱田周辺。
緑区は流石に名古屋の中では僻地に属する。

315人間七七四年2014/06/02(月) 18:33:48.55ID:UvbB2Fzs
>>311
へぇ〜斎藤が大垣城を奪ったとする一次史料は?w
斎藤と織田が同盟し信長の後見役やってた道三が信長を攻めて大垣城を奪ったのかなwww

316人間七七四年2014/06/02(月) 18:49:25.55ID:go9n/6C8
その縁組決めた時点で斎藤側の武将が城主になってるよ。
桶狭間当時は氏家が城主。

317人間七七四年2014/06/02(月) 18:53:02.93ID:go9n/6C8
信長を攻めるもなにも信秀の代のときにとっくに引き渡し済みやねん。
安城を今川にとられたんで美濃にまで首突っ込む余裕がなかったから。

318人間七七四年2014/06/02(月) 18:58:41.95ID:go9n/6C8
で、水野20万石についての弁明は?
三河の七割も敵対勢力が持ってたら先にそいつ潰してからじゃないと
尾張に早々攻め込めないよね。

319人間七七四年2014/06/02(月) 20:23:27.43ID:A6TSLdH/
そもそも大垣や岩村を領有していたとまで言える根拠あるか?
一時的に織田家側に属した味方したとかならまだわかるが

320人間七七四年2014/06/03(火) 08:12:20.65ID:3v0OqoMD
>>315
ちっとは自分で調べたほうが良いんじゃね?
ってなくらい変な反論なんだが・・。
歴史好きならその辺調べてるだろに。
にわかならしらん。

321人間七七四年2014/06/03(火) 08:21:47.04ID:5CkcSCzC
>>316
そんな一次史料ないわデタラメ書くなよw
水野は実高表記されてんだろ?
例えば別所氏なんかも小和田が実高30万石って書いたりしてるし。

322人間七七四年2014/06/03(火) 14:22:07.56ID:AnoGv+q/
>>311
道三の大垣城攻撃から信秀が守りきった→信長と濃姫の婚姻→道三の信長後見
この流れでいつ大垣城が道三に襲われて奪い取られるんだよ。妄想もいい加減にしとけ。
信秀は天文18年春あたりから体調を崩してから(美濃国諸旧記)
信長への権力移譲を少しずつ開始していて後見役として、自分が死んだ後も信長が安心して統治ができるよう
親心として内外の問題を解決する方針に変更していた。
美濃では婚姻同盟を結び、北条とも通信し、
美濃と尾張の協調を背景に三河戦線では今川に同盟したいなら刈谷城を水野に返すように迫り
朝廷が和睦するように申し出ても拒否していた今川だったが、信秀の恫喝の前には城を差し出す
これで岡崎が動揺して東条松平家の甚二郎が織田方になっちまって、あわてた岡崎城代たちは甚二郎の弟を引き上げて兄跡職を給与してる。
美濃では大垣を確保し稲葉山城を牽制する状況で道三を折れさせて濃姫を人質に同盟
三河では水野氏を以って三河西部に足がかりを残し、信長は万全の体制のまま引き継いでる。
(今川は北条が駿河や遠江の国人と内通していたりと地盤が弱い)

323人間七七四年2014/06/03(火) 16:37:18.53ID:PhhGqiAt
>>319
ないよ
そもそも織田が大垣を領有していたというのは信長公記首巻にしかないが
織田信秀は道三相手に大苦戦していて、『美濃国へ乱入し五千討死の事』では
『備後殿御舎弟織田与次郎・織田因幡守・織田主水正・青山与三右衛門・千秋紀伊守・毛利十郎・
おとなの寺沢又八舎弟毛利藤九郎・岩越喜三郎を初めとして、歴々五千ばかり討死なり。』とあるように
斎藤道三相手に大敗北を喫している。

この後『大柿の城へ後巻の事』では『霜月十七日、織田備後守殿後巻として』と信秀が
斎藤道三に包囲された大垣城を助けるために行動するが、続く
『上総介殿形儀の事』では『霜月廿日、此の留守に、尾州の内清洲衆、
備後守殿古渡新城へ人数を出だし、町口放火侯て、御敵の色を立てられ侯。』とあり、
織田信秀が留守にしている間に居城が包囲されて『翌年秋の末、互に屈睦して無事なり。』とあるようにかなり苦戦を強いられている。

324人間七七四年2014/06/03(火) 17:28:23.35ID:ntbNwKno
大垣城後巻きでは信秀が迅速な行軍でお手柄をあげて武名をあげたし、
その時に出払って留守の隙と言う大チャンスに、
古渡に新たに築城を開始していた新城の町口に放火できたレベルのことしか出来なかったのが清洲側じゃんw
どこに苦戦なんて表現があるんだよw

325人間七七四年2014/06/03(火) 19:28:04.77ID:PhhGqiAt
「翌年秋の末、互に屈睦」と戦争解決に1年近くかかってるのは苦戦と言わないらしいな

326人間七七四年2014/06/04(水) 08:48:12.13ID:uGSpuGZl
ただ単に交渉してただけじゃん。
そんなん苦しい戦をしていたとは言わんわ。
信秀が尾張一国の主と朝廷も六角も斎藤も今川も認識していたのは、
外交文書をみれば歴然としているのに、
デタラメ吐くなよwww
むしろ尾張の他の誰も外交文書なんて全く出してないしなw
清洲側なんて全く書状すら出してないから存在自体が疑われているレベル。

327人間七七四年2014/06/04(水) 12:08:54.47ID:C43/4BGe
なぜ交渉をする必要があるんだ?
瞬殺できるなら相手を速攻で追っ払って終了だろ
事実織田信秀と斎藤道三の戦いでは「歴々五千ばかり討死」とか、合戦の記録がすぐに出ている
しかも「翌年秋の末、互に屈睦」だから1年間も交渉していたことになる
戦争できずに1年間交渉していたことは菅沼遼太理論では苦戦にならないらしい
この間大垣城はどうなってたんだろうな

328人間七七四年2014/06/04(水) 15:50:32.32ID:gAtiSl6/
そもそも織田が大垣もってたら墨俣の一夜城なんて作り話すら生まれる余地がなくなる。

329人間七七四年2014/06/04(水) 17:55:41.53ID:nIrBw61Z
妥協点を見出す作業で一年なんて早い方だろ。
尖閣諸島やパレスチナの交渉をみれば、
いかに交渉で妥協を見出すのが難しいかわかる。
まあ引きこもりには実社会がわからんだろうが。

330人間七七四年2014/06/04(水) 18:17:21.45ID:nIrBw61Z
妥協点を見出す作業で一年なんて早い方だろ。
尖閣諸島やパレスチナの交渉をみれば、
いかに交渉で妥協を見出すのが難しいかわかる。
まあ引きこもりには実社会がわからんだろうが。

331人間七七四年2014/06/04(水) 20:01:33.45ID:fLZRJEfL
そういや越相同盟も、最初の交渉から内容を決めそれが実行されるまでかなり時間かかっているな。

332人間七七四年2014/06/04(水) 21:53:21.66ID:C43/4BGe
自己紹介するのは結構だけど瞬殺できずに交渉の場に入った時点で
普通はそれを「苦戦」と言うんだよね
圧倒的優勢なら交渉なんてせずとも軍を出して追い払えばいいだけだし

333人間七七四年2014/06/05(木) 08:20:16.95ID:OYcfjR5g
留守中に放火しか出来なかった奴に苦戦とかw
ただの待遇改善の条件闘争レベルの話し合いじゃんw

334人間七七四年2014/06/05(木) 13:53:09.87ID:AV3b5unw
相変わらず菅沼遼太は原文見ずに知ったかしてて笑えるw
『御敵の色を立てられ侯。此の如く侯間、備後守御帰陣なり。是れより鉾楯に及び侯へき』
と明らかに戦争状態に突入しているのを全く無視する菅沼w

335人間七七四年2014/06/07(土) 10:34:36.45ID:Oh5rUYaF
美濃からもどってきた信秀が鉾楯に及び侯へきと圧倒してしまおうとしてたら
清洲側が詫びてきたんだろwwwww
清洲側としては大垣を攻撃して斉藤勢が信秀を引き付けてくれていると思い込んでたら
圧勝してすぐ戻ってきたんだから衝撃的だったろw

336人間七七四年2014/06/07(土) 11:45:49.17ID:QZx8yYK+
候へきと圧倒しようとした???
また珍訳してるなw
ちゃんと訳してご覧w

337人間七七四年2014/06/07(土) 18:06:46.97ID:oEVjv54i
菅沼はまたわけわからん訳し方をしているのか。
こんなだからお前の主張するソースはどんどん信用されなくなっていくんだろうに。

今となってはお前が一次史料にあると言っても他の誰かが原文を確認しないと、
お前がどんな誤訳しているかわかったもんじゃないとみんなに知れ渡っているじゃないか。

338人間七七四年2014/06/07(土) 18:19:33.10ID:Oh5rUYaF
そもそも一次史料をみる限り、どう考えてもすでに清洲城に織田敵対勢力なんぞいないわw

清洲城で傀儡になっていた尾張守護斯波義統は天文13年に稲葉山城攻撃中の信秀の援護射撃で禁制を出したのを最後に消え去るので間もなく死去と思われる。
清洲城主尾張下郡守護代織田大和守信友は架空人物。
岩倉城主尾張上郡守護代織田伊勢守信安や子の信賢も江戸期の軍記の架空人物。
織田信清も軍記の架空人物。ただ犬山城は金山城などと共に斎藤氏が信長から奪って支配していた可能性が高い。
織田信光は名古屋城で信長に暗殺されたっぽい。


永正8年・10年と尾張守護の斯波義達が今川氏親と戦っているが
なんと大和守・伊勢守の両織田守護代家は一切協力しておらず
完全に実権喪失している事実。
織田両守護代家にとり斯波は象徴的存在に過ぎなくなっていた。
西尾張が根拠地の信秀の東尾張平定たる天文7年の名古屋城攻略と
今川氏豊の追放により尾張南半分を支配下においたわけだが
すでに守護代織田達勝も信秀の行動を応援是認し
10月に名古屋の性海寺への免除書状で支援している。
そして根拠地を自らが文書発給し支配していた
西尾張の勝幡城から信秀は本拠地を名古屋に移転して西三河へ目を向ける。
天文9年には伊勢神宮へ700貫寄進し、朝廷から三河守に任じられ
三河から圧迫を受けていた尾張は信秀の名古屋攻略とともに
劣勢から攻勢に転換し、尾張をほぼ安定化させたため
天文日記10年7/27でも斯波義統が信秀の威信をアテにして
本願寺に対して越前まで討ち入り越前を回復するから
加賀門徒の協力依頼までしているほどの評価が尾張の外へ轟いている。
次に長尾為景が越後守護上杉定美傀儡政権運営していた時と酷似していた状況が一変したことを示す権力変化の証拠がある。
天文12年2/21の達勝安堵状には「弾正忠申調られ出置く上は」と書かれ
天文8年までの従来、東尾張において達勝→信秀と出されてきた発給文書が、
ついに信秀→達勝に順番が逆になってしまう。この逆転現象は巨大な衝撃である。
謙信政権でも苦悩していた守護による政治機構が簡単に解体されていく姿が尾張に生じているのである。
(結局、後継者なく定美が亡くなり、関東管領に就任し上杉を継ぐまで越後統治の正当性が得られなかった長尾氏)
また天文13年の信秀の美濃侵攻では守護斯波義統が禁制を出すなど、信秀支持の姿勢を示している。
9月に美濃立政寺へ禁制を出した織田寛近は岩倉伊勢守の一族であり
守護斯波は言うまでも無く尾張国の大半が信秀の美濃侵攻を支持していたのは間違いない。
ここに信秀による尾張統一が達成されたのである。

熱田神宮寺座主も、いままでは大和守の判物を手にいれて満足していたはずなのに
信秀を当殿様と呼び信秀判物を手に入れようとした。
信長公記系に記される信秀に従い出陣し稲葉山の戦いで戦死した清洲三奉行の織田因幡守の子で信友が
守護代大和守の養子として清洲城(斯波氏を傀儡にしてる)へ入城し天文16〜17年・21年に信秀・信長と対抗?
そもそも大和守達勝は天文19年12/17の熱田神宮の書状で存命が確認されるのでデタラメ。
しかも達勝の後継者は勝秀であり、もう何言ってんのかわかりませーんw
そもそも信友なんて一次史料には一切出てこない架空人物としか思えないし。
つうか斯波氏を傀儡にしている大和守を傀儡にしてる信友を
さらに傀儡にしてる孤立してる清洲城の坂井・川尻・織田三位ら重臣達ってストーリーかよwww
ちなみに尾張北を支配していた岩倉織田伊勢守も天文6年に広高が当主であったのが確認できるが
その後、まったく消え去り史料上から消え去っている。信安を追放した信賢とか江戸期の捏造話で存在確認できない。
公記系によると永禄2年に信長が岩倉城を数ヶ月包囲して信賢を降伏させたとするが
言継卿記によるとその時期の信長は上洛して義輝に謁見し、堺・奈良見物してる最中w
つまり公記の記す信長の尾張での内戦話がほぼデタラメなのがわかるのである。

339人間七七四年2014/06/07(土) 22:39:51.58ID:w0kxMu2z
>>337
『霜月廿日、此の留守に、尾州の内清洲衆、備後守殿古渡新城へ人数を出だし、
町口放火侯て、御敵の色を立てられ侯。此の如く侯間、備後守御帰陣なり。
是れより鉾楯に及び侯へき。平手中務丞、清洲のおとた衆坂井大膳、坂井甚助、
河尻与一とてこれあり。此の衆へ無事の異見数通侯へども、平手扱ひ相調はず。
翌年秋の末、互に屈睦して無事なり。』


どこにも「圧倒してしまおうとしてたら」( >>335 )とは書いてないんだよな。

ちなみに「信長公記はデタラメだ」とあるが、織田方による大垣奪取が書かれているのは信長公記のみ。

つまり信長公記を否定しちゃうと「大垣城は終始斎藤もの」となってしまう八方塞がり

340人間七七四年2014/06/07(土) 23:47:13.73ID:FaaDRcds
はっ?斉藤が大垣を支配したこと自体が、
一次史料どころか公記にすら全くないじゃん

341人間七七四年2014/06/08(日) 01:43:48.15ID:QomeRok+
文章なのに「はっ?」とか言うのはアスペルガーだがの特徴です。

342人間七七四年2014/06/08(日) 03:41:03.41ID:s7YUIgZx
菅沼遼太は早く>>335の釈明をすべきだなwww

http://www26.atwiki.jp/dagamatome/pages/73.html

妄想珍訳事件とは、2014年5月に発生した事件
アスペルガーだがが自らの珍訳を正当化しようとし、
スレ住民に盛大に突っ込まれて自爆した事件

343人間七七四年2014/06/08(日) 14:07:59.15ID:dQSJkFV7
坂井大膳、坂井甚助、 河尻与一
いずれも一次史料で存在が確認できない架空人物

344人間七七四年2014/06/08(日) 14:59:09.89ID:guBqRL31
鉾楯に及び候へきと圧倒してしまおうとした
なんて日本語は成立しない、架空の文章

345人間七七四年2014/06/08(日) 16:34:40.76ID:UfQTmK/c
斉藤を討って全軍を清洲に向けてきた信秀軍に怖いもんなんかないやろw
あとは条件闘争で少しでもよい待遇を得る交渉をする以外ないわな。
もっともこの当時の清須城なんて朽ち果てて誰も住んでなかったと思うがな。

346人間七七四年2014/06/08(日) 17:32:43.04ID:MJlJaLqR
斉藤が討たれた???
いつ?????

347人間七七四年2014/06/08(日) 18:56:14.43ID:2kaTnGoY
菅沼遼太はまた架空史観をふかしてるのか

348人間七七四年2014/06/09(月) 08:48:20.98ID:dSonpW61
大垣攻めてきたの斎藤じゃん。
斎藤じゃなかったら誰なんだよw

349人間七七四年2014/06/09(月) 16:00:09.09ID:5HTbb2Si
>>348
そんなこと言ってるからアスペルガー呼ばわりされるんだよ。

350人間七七四年2014/06/09(月) 21:31:33.76ID:wF54nY5c
>>349
じゃあ誰が大垣を攻めたの?

351人間七七四年2014/06/09(月) 22:17:14.36ID:eI1t0XiK

352人間七七四年2014/06/10(火) 15:27:53.59ID:Z4QVBP02
教科書にリアル信長の肖像画載せたらどうなるだろう?

353人間七七四年2014/06/10(火) 17:47:23.73ID:hAHDyZJ3
桶狭間と関係ないな

354人間七七四年2014/06/10(火) 19:18:26.50ID:rF2ndsST
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355人間七七四年2014/08/08(金) 08:51:50.34ID:sL8pbmY3
だいたいあの辺の砦を攻撃されてるころには
今川本隊があの辺にいるだろうから(前線部隊の後方10km地点で観戦してるはず)、
進撃速度による所要時間が前に測ったときはこのくらいなので

今川本隊とあの辺で合戦にできるはず。

この時点で数パターンに絞られる、あとは敵地に近づくごとに補正していって
さらにパターンを絞って、効果的な敵陣突入方法を考えると。

桶狭間は信長が奇襲に成功したというより、
「今川がなぜ奇襲の備えができてなかったか」
「警戒すべき奇襲の発見がなぜできなかったか」が重要だろ。
敵地を一番知ってるのは敵軍なわけで、
斥候部隊があまりに足りなかったか、資料通りに雨が本当に降っていて
危険を知らせるのろしも上げられず、ホラの声すら聞こえなかった最悪のタイミングということか、

第二次大戦でも索敵失敗・索敵を軽視で監視の隙間から奇襲攻撃くらって戦力差が逆転した例は多い。
十分な索敵と周囲警戒をしていれば、だいたい戦力差通りの結果になるはず。

356人間七七四年2014/08/08(金) 09:05:15.35ID:sL8pbmY3
谷間がどうこうじゃなくて、
たんに本陣配置図の欠陥だろ。

関ヶ原で家康本陣が数方向がら空きなのと同じ。
無検知で攻撃されて30分で突破される陣なら、死ぬに決まってる。

ただし、全周囲を数段階の陣で警戒するコストは高いから
「薄い方向」はどうしてもできるが、それでも今川は本陣が薄すぎたのが敗因。
信長が天才だったとか上手かったとか、全然ないな。

357人間七七四年2014/08/08(金) 09:11:07.58ID:sL8pbmY3
・事前検知ができなかった=陣形が悪い
・防御陣形ができないまま攻撃された=どんな軍隊でも最弱の状態。
・大将の退却が遅かった=天候問題+地形

信長の功績というより、今川義元の過失が100%だな。

358人間七七四年2014/08/08(金) 10:03:19.40ID:MkqgOc42
>>357
いや、信長の動きは手に取るようにわかっていたろ。

359人間七七四年2014/08/08(金) 13:02:15.02ID:waIXO2je
未だに奇襲説を唱える人間がいるとは・・・・
信長の野望とかがイベントを変えていないのが原因なのか?
ゲームやアニメなどからすれば演出がしやすくてよいのだろうけど。
近年では桶狭間の合戦は正面衝突だとする説が有力。


信長自身がのこのこ出てきたわけだ。
これを討ち取ってしまえば合戦終了、清洲城とかの城攻めもしなくて済む。
兵数も義元本隊の半数ぐらいとなればそのまま戦闘を開始してもおかしくない。
更に今川軍付近の軍勢を呼びよせられるが、織田は援軍の可能性なし。

360人間七七四年2014/08/08(金) 14:07:58.48ID:sL8pbmY3
>>358
陣形がないと分からんです。
「めくら」と同じで、敵軍に触れて分かる接触レーダーです。
焼きごてを押しつけられれば(信長の分隊と接触)いやでも分かるし、
伝令が即座に今川本陣に飛ぶ。

索敵のためにも、時間稼ぎするためにも広範囲な複合的な陣形が必要。
そのための大軍運用

「陣形を速攻で突破された」という大将の討ち取られ方はあるが
「陣形を作ってなかった」という失態が今川の過失

そもそも数千の部隊が来てたら陣形立て直すか本陣ごと逃げるだろ。
攻めてる前に逃げりゃ今川軍がいたわけで、

完全に本隊を捕捉されて、完全にそれに気付いてなかった(10分前まで)のが大問題

361人間七七四年2014/08/08(金) 14:21:29.51ID:MkqgOc42
>>360
いや、信長公記によると、信長が善照寺に到着すると佐々と千秋が兵三百ほどで今川勢に攻め込んで討ち取られる様を信長・義元双方が目撃してる。
そして、その後信長は「今川勢から丸見えだから」と止めようとする家臣の諌めを振りきって中島に移動してる。
要するに双方が目指できる範囲に在陣してるわけで、義元が信長の動きを見失ったとするのは無理がありすぎる。

362人間七七四年2014/08/08(金) 14:21:36.69ID:3+rQ6dya
未だに正面衝突説を唱える人間がいるとは・・・・
信長の野望とかがイベントを変えていないのが原因なのか?
ゲームやアニメなどからすれば演出がしやすくてよいのだろうけど。
近年では桶狭間の合戦は義元の奇襲説とする説が有力。

363人間七七四年2014/08/08(金) 14:33:05.88ID:sL8pbmY3
陣形が取れてない=オムツしてないのと同じ

陣形の削り合いの攻防戦が合戦なのに
陣形がないんだから、合戦にすらなってない。
なんでそんな凡ミスしたのかがむしろ謎

そんで攻められた義元は真っ先に逃げたんじゃないかなー。
陣形取れてない=パンツ履いてなかったんだから、義元は戦うという概念はないだろ。
また本陣は「大将を逃がす」のが最大の存在理由

不意打ち食らった(なんで食らうんだ?)義元は逃げて「その先でやられた」ってのなら可能性は高い。

「金ヶ崎撤退戦で信長が最後の最後の京辺りで待ち伏せ食らって討ち取られた」パターン
本陣攻められて逃げまくって、その先で大将の周りがすごい寡兵になるのは非常によくある。

多重伏兵があったら、1度目で逃げられてもかなり義元の生存率は落ちる。

当然桶狭間で攻められたら沓掛城に逃げるわけで、
桶狭間から沓掛城の間に信長が伏兵を適切に分散させて待機していたら、
義元はものすごく死ぬ確率が高まる。

364人間七七四年2014/08/08(金) 14:39:51.82ID:sL8pbmY3
>>361
だから陣形が取れていれば、索敵は目で見るまでもないんだが。
味方の断末魔の「ギャッ!」で敵の侵入方向と威力が分かるんだよ。

「殺されるときに声を出す目覚まし時計」を周りに多数しかければ
どこから敵が来て、今どれくらいやばいか分かるだろ。

雷と同じだろ。雷鳴の大きさでやばさが分かる。
そんでそのやばい音が近づくまでに本陣の親衛隊は大将をそこに居させるか
避難させるかを決めるだけ。

戦争だと慣れると耳だけで何がどうなってるか全部分かるんだよ。
敵の大砲の種類とその距離とか全部見分けがつくのがプロ。

慣れた兵士なら75mm迫撃砲がどんだけの距離から飛んできてて、今自分に当たるかどうかとか、
150mm榴弾砲が来るとか音だけで分かります。

それと同じで陣形突破されたら、その騒音だけで分かります。

365人間七七四年2014/08/08(金) 14:54:19.73ID:sL8pbmY3
それを欺瞞するいろんなパターンも考えられる。
200の兵力が来てると思って対応してたら2000だったら
陣形突破されます。

陣形とらなかった義元がアホだった
今川親衛隊の責任者がアホだった。周辺警戒を判断するのは親衛隊隊長の役割(とくに指示されなくても責任は重大)
今川親衛隊が織田軍精鋭部隊より猛烈に弱かった。
今川親衛隊は弱くないが、準備が全然できてなかった(具足を脱いでた?)

アメリカ大統領警護と同じ。周辺警戒してないのは親衛隊の過失。
つうか本陣に到達されてる時点で大失態だけどな=それだけで戦死判定受けてもいい

366人間七七四年2014/08/08(金) 19:41:49.62ID:+ro9JjYP
>>365
もうちょっと勉強してから来いよ

367人間七七四年2014/08/08(金) 19:43:17.54ID:waIXO2je
>>361
俺もその記述で奇襲否定派になった。

仮に奇襲の要素があれば織田本隊から分離させた横槍用の小部隊が
旨い事発見されないで突っ込んだとかだけ。

横槍成功していたら流石に褒賞されていると思うんだよね梁田とかと一緒に。
だけどそんな記述はないしなー。

368人間七七四年2014/08/08(金) 19:51:42.39ID:waIXO2je
>>364
慣れた兵士なら75mm迫撃砲がどんだけの距離から飛んできてて、今自分に当たるかどうかとか、
150mm榴弾砲が来るとか音だけで分かります。

陸自の友人に昔同じような質問を訊いたらアホか漫画の見すぎだと笑われたよ。

369人間七七四年2014/08/08(金) 21:08:03.95ID:sL8pbmY3
>>368
太平洋戦争のときのアメリカ兵・日本兵なら常識のテクニックだが。
着弾音をどんだけ長い間聞き続けると思ってるんだ
見分けつくに決まってる。
38式とガーランドの音が一緒とでも?

戦況とそのときの危険性が音だけで全部分かるよ
ガーランドの音だけしたら安全だし、38式の音が近づいてきたら危険だろ。
雷と同じです。

陸自のやつは最近の軍隊はアメリカ式の兵器で統一されてるから分からんだけだろ。
あと自分に向かって大砲の弾が飛んできたこともないわけで。

370人間七七四年2014/08/08(金) 22:13:16.10ID:qIqyI45f
>陸自のやつは最近の軍隊はアメリカ式の兵器で統一されてるから分からんだけだろ。

371人間七七四年2014/08/09(土) 04:26:02.77ID:SfQVJJ6T
陸自みたいな75mm迫撃砲同士で同じ砲弾なら分からんだろ。
陸自が分からんのは当然。
あと今の陸自隊員が自分の方に雨のように砲弾が飛んできたのを経験してないから分かるわけがない。

違う種類なら分かるのは当然。風切り音も違う。
迫撃砲は秒速200メートルなので音速以下だし
雷より遅いから音でだいたいの着弾が分かったのは当然。
音速以下なら、「音が先で着弾が後」
大砲は音速以上もあるが、その場合でも「初弾命中」でない限り数発の時間差なわけで
一瞬で把握するのは当然。
大砲と爆弾の音も当然違う。
「どこから何が飛んできて、自分がどれくらい危険なのか」は音で分かります。

当時の日本軍とアメリカ軍の手榴弾は爆発音が違う
M1ガーランドの射撃音と38式は当然違う。38式がセミオートのわけがない。
機関銃の音も違う、
「MG42ドイツ機関銃ヒトラーの電動のこぎり」の音と米軍の機関銃の音も違う。
-------------------------------
「音で分かる」は生死を分ける技術だから戦時中なら当然ですけど、それが何か?
今のマッハで初段命中する兵器は知らんがな。

桶狭間でミサイルが飛んできたわけじゃなければ、
音で判断して本陣の危険度認定するのはそんなに「ありえない」ことか?

372人間七七四年2014/08/09(土) 04:37:02.44ID:SfQVJJ6T
今の米軍の兵士でも狙撃されたら音が違うから分かるだろ。
「7.62mmの単発射撃音=狙撃」「方向は3時」
を一瞬で理解して逃げる。
当然だろ
狙撃の有無と方向すら分からないで突っ立ってるデブなら死ぬだけです。

「ウギャー」遠くでいきなり殺される断末魔聞こえて義元が逃げないのか?
「殺される音」が目覚ましアラームなんだから、いっぱい配置するのが当然だろ。
本陣防衛の陣形が取れてなければ、音もしないし、即座に侵入されるし=陣形がないんだから当然
逃げる時間が少なくなる。

「防御陣形を破る陣形」もある=攻撃力重視の突入陣形とか
分かってて防げないこともあるが、
桶狭間の陣系図をみる限り、逃げる時間があまりない陣形にしか見えない
=陣形構築時点のミス

親衛隊=馬廻が猛烈にアホだったとか、そんなのだろ。
オバマ大統領がどこそこに行く=これだけでできる親衛隊なら、すべての箇所を適切に言われなくても防御するのが当然です。
義元の失態=陣形をどこを厚くするとかの初期配置もそうだが
馬廻の失態も大きい。

新説でもなんでもない常識を言ってるだけですが、

373人間七七四年2014/08/09(土) 06:59:03.04ID:exM1HmQ0
まあ今川がそんななら
武田や北条などの東国の大名はそれぐらい戦下手だったってことだろうな

374人間七七四年2014/08/09(土) 08:17:02.67ID:NXe/0Jaf
その陣形図ってどれだけ信用できるの?

375人間七七四年2014/08/09(土) 12:41:07.59ID:49vVWcxq
>>373
論理的帰結というやつだね

菅沼はどうしていつも結果として信玄をdisるのだろうか

376人間七七四年2014/08/09(土) 18:07:40.56ID:6UpW2lGT
600年も違う時代を比較例として持ち出す時点でアフォ確定。

377人間七七四年2014/08/09(土) 18:20:02.65ID:6UpW2lGT
>>372

とりあえず此処に自説を投稿して確認してくれ陸自のHPだ

http://www.mod.go.jp/gsdf/mail/index.html

378人間七七四年2014/08/09(土) 19:45:02.62ID:0FiaXrvt
現代と比較つっても現代の例からして間違ってるわけだが
まぁどうでもいいな

379人間七七四年2014/08/09(土) 20:51:54.58ID:BOYKAALy
>>372
長文野郎は何故間違った知識をいつもひけらかすのだろう?

380人間七七四年2014/08/17(日) 15:10:29.36ID:2Cd7u35Y
今川軍1万弱

佐々が突っ込んで討ち死に

今川軍の主力が前かがりになり本陣と距離が出来る

織田主力が今川本陣に突っ込む


織田は小一時間稼げれば十分

381人間七七四年2014/08/18(月) 08:29:54.81ID:7afYERYE
>>380
織田の目的としてはそんなところだっただろうね。
義元の死は偶然に偶然が重なっただけなんだろう。

382人間七七四年2014/08/31(日) 20:34:23.74ID:MmwLIHLR
桶狭間の真実

土砂崩れで今川軍壊滅

383人間七七四年2014/09/01(月) 09:35:08.13ID:4TgBCpO1
てっぽう水で義元の首が織田軍の目の前に

384人間七七四年2014/09/01(月) 19:21:24.96ID:8yiOitIT
義元本隊の動きなんだけど、桶狭間合戦当日の19日になって沓掛城を出立してるということに一般的にはなってるけど、おかしくね?
出立して数時間で休息ってどういうこと?

19日明け方から始まった尾田方の丸根砦・鷲津砦への攻撃に義元本隊も参加してた。
で、両砦を落としたので引き上げる途上、桶狭間山で休息を取ったとした方が動きとして自然に思える。

家康の記事も単独で両砦を落としたことを記したものではなく、先駆けとして大高城に兵糧を入れ、続いて両砦攻略に参加したことを記しただけ。

信長公記の記述だけからの読み取りだけなんで、他の史料にどう書かれてるかまではわからんけど。

385人間七七四年2014/09/03(水) 01:34:32.17ID:oRg5hO0n
本当は暗殺なんだけどね
義元を確実に討つなら暗殺だろ

386人間七七四年2014/09/07(日) 15:35:22.56ID:dyPD0Bez
抜け駆けした佐々と千秋が討死
佐々&千秋隊の敗残兵は逃走を図る
今川本陣の左右を守る井伊&松井隊が追撃に出て、離れる
今川本陣の守備は手薄になる
織田本隊が今川本陣を直撃

それにしても今川本陣が崩壊した理由が謎
豪雨は今川軍だけを狙い撃ちしたわけじゃないだろうに

387人間七七四年2014/09/22(月) 03:55:36.56ID:cqQC32OR
>>384

それで義元はすごい疲れた感じだったんだ〜

388人間七七四年2014/09/22(月) 07:37:13.81ID:/MbHi/xl
今川義元の最期 桶狭間の戦いはなかったver
丸根と鷲津の砦を落とした今川軍は
城の前に捕らえた百人程の捕虜を横並びに並べると後ろから襲い掛かる。
今川兵壱「てこづらせおって!食らえっ!!」
織田兵壱「ぎゃあああっ!しっ尻が裂けるうっ!?」
今川兵弐「ふんっ!ふんふんっ!!」
織田兵弐「痛いっ!痛いーっ!!うっ動かないで・・・っ!!」
総大将の今川義元も敵城主佐久間盛重の尻に夢中になっていた。
義元「田舎武士の汚い尻もたまに味わう分にはいいものじゃ、ふんっ!ふんふんっ!!」
盛重「うあっ!ズンズンくるうっ!?」
だが・・・
織田軍「わあああああっ!!」
そこへ信長率いる織田軍3千人が玉砕覚悟で攻めかかってきた。
義元「おわっ!敵じゃ、早く下穿きをはかねば・・・・」
そのまま戦っていれば今川軍の数の優位は揺るぐことはなかったが、
しかし身なりや礼節を重んじる彼らはフルチンで戦うことをよしとしなかった。
織田兵参「参るぞ!覚悟!!」
今川兵壱「ちょっとまて、今竿を綺麗にして服を着るからな」
織田兵参「何を抜かしやがる!とりゃーっ!!」
今川兵壱「ぎゃああああっ!!」
かくて今川軍は大混乱。
義元「おのれ!下穿きをはいている最中に襲い掛かるとは卑怯千万!!」
新助「御大将に一番槍!食らえ!!」
義元「うぎゃああああっ!槍が尿道に刺さったっ!!!」
今川軍はほとんど抵抗らしい抵抗も見せぬまま大将を討ち取られ壊滅した。

389人間七七四年2014/09/22(月) 10:53:02.23ID:20zBAHjw
>>385
> 本当は暗殺なんだけどね

現場にいたのかよw

390人間七七四年2014/09/22(月) 14:38:38.60ID:kBpMPDRZ
今川が討たれたら何で信玄は即座に行動起こさなかったのか
漁夫の利で今川領も織田領も全部取り込めたと思う

391人間七七四年2014/09/22(月) 21:53:28.57ID:URqgoEaN
>>386
豪雨による土砂崩れは
現代だって大惨事になるのだから
謎と言う程でもなかろう
安全な場所に避難していた信長を褒め称えるべき

392人間七七四年2014/09/25(木) 13:37:48.10ID:YJ7eQgin
>>390
当時は氏真が建て直すと思ってたんだろ
氏真は凡将だと確信したのはもっと後

393人間七七四年2014/09/28(日) 03:57:31.10ID:6lo1oRUk
>>384
これ面白い指摘だと思う

丸根砦・鷲津砦の戦いってなんか小競り合いぐらいのイメージされてるけど、
実はここで本陣を消耗させるほどの大会戦があったんじゃないか
元々尾張を3/4ほど手中に収めてた信長なのに織田軍の数が少なすぎる、って言われてた
でも、丸根、鷲津に1万近い兵力を割いてたんだとしたら話は変わってくる

394人間七七四年2014/09/30(火) 03:17:09.62ID:uHV07B6y
「桶狭間偶然説」を唱える人って豪雨を過大評価してると思うんだ

395人間七七四年2014/09/30(火) 08:10:24.35ID:77nwC564
義元が桶狭間で休止してたのは服部友貞の動き待ちとかあったりするのかな?

396人間七七四年2014/10/05(日) 22:57:12.84ID:d90sKYL1
明石散人の説について誰か解説してくれ
信長が「降伏するから会ってちょ」とか嘘ついて騙し討ちにしたっつう説
んなアホなと思ったんだが

397人間七七四年2014/10/28(火) 15:48:45.10ID:TpcFQzwU
戦況や推移なんて一次史料が全くないのだから、
すべて織田在日の願望妄想自慰オナニーでしかない。

398人間七七四年2014/10/28(火) 22:01:32.53ID:h2XSlL/L
また菅沼遼太

399人間七七四年2014/10/28(火) 22:45:04.36ID:nYNrVF8K
今川は鵜殿・梁瀬・平野・菅沼・松井・後藤・尾上らに
恩賞と感状を相次いで出してるので、桶狭間の戦いは今川の勝利の可能性が高い。
織田は感状を一切出してないのに義元の急死を良いことに勝ったと歪曲した。
今川軍は強く、永禄3年以降、感状がたくさん残っている。
むしろ感状と褒美を次々に出したゆえに、財政破綻で破綻したと言える。
それを象徴しているのが永禄4年4/11の夜に牧野平左衛門入道親子が逆心して敵方へ逃げた事件を契機とした
牛久保合戦における今川軍の大勝利の裏側に垣間見える。
この時、牛久保城には兵糧がまったく無かった為に、
今川家臣の牧野定成と岩瀬雅楽助が五百俵を立て替えた。
岩瀬はさらに塩硝鉛百斤を援助している。
牧野定成は自分の家臣である稲垣長茂の武功に対して6/7に早速、 領地を与えて恩賞で報いている。
もちろん今川も牧野の部下である稲垣親子に6/11に所領を与えて忠節を讃えている。
また6/17「に岩瀬雅楽助に対しても今川は代官職を与えて忠節を讃えている。
もちろん兵糧を肩代わりした功績だけでなく、牛久保合戦の勝利の武功に対しても、
匂坂長能などに所領を今川は与えまくっている。
当時、今川が去年からの吉田雑説(豊橋城)を代表とした
三州錯乱と呼んでいた大規模な国人反乱が起きていたという理由もあるのだが、
7/20の書状で米五百俵の即時返済すらできない財政状況なのが露呈。
今川はその後も三河乱国の情勢で一揆や謀反の討伐を進め、褒美を出したり、
帰参を許した際には本領返付を行いまくった。
今川直轄領がほtんど底を尽きて破綻していく姿が見える。
今川が強過ぎたがゆえに、武功への表彰が致命傷になった。
守護大名である大友が財政破綻した挙句に、キリスト教を掲げ寺社を破壊し、
ついには大友菩提寺まで破壊して寺領を没収し家臣に与えたように、
守護大名は元々、直轄領がほとんどないので破綻崩壊したのであろう。
成る程。吉田雑説が原因で今川軍は桶狭間の戦いに勝利後に撤退したのか。
吉田は東三河最大の拠点だから無視など出来ないからな。
永禄が始まった辺りから 三河や遠江の国人達は騒乱を起こしての、
反乱ビジネスによる錬金術に気付き 自作自演の一揆や鎮圧や帰順で今川を喰い物にしたからね。
今川の財政破綻か・・・ だとすれば三国同盟後の今川の鈍い動きに合点がいく
義元本人が尾張国内に侵攻していたことを証明する一次史料はいまだに出てないの?
現状では義元は三河国内で後方指揮に徹していたとしか解釈出来ないんだよね。
そりゃ後方の東三河において吉田雑説が起きているほど三河騒乱中なのに尾張に行くわけが無い。
それが理由で西三河安定化のために姪と婚姻させた家康をバックアップして
岡崎自立策まで打ち出してるほど三河統治失敗寸前だったんだし。

400人間七七四年2014/10/29(水) 00:30:59.03ID:5wIYxEdx
義元を討ったやつが全く出世できてない時点で大ウソと気付けよ…

401人間七七四年2014/10/29(水) 01:11:04.37ID:AIBd+0sG
菅沼史観やからねぇ

402人間七七四年2014/10/29(水) 06:55:57.62ID:oTGGa87l
大将首取ってもその場では表彰されるだろうけど
それで領地や部隊任されるかはまた別の話

403人間七七四年2014/10/30(木) 17:06:09.47ID:RJhehzy1
上洛とかじゃないし

織田から今川に寝返った鳴海城や大高城を織田方から救援する為の戦い
それらの城を封鎖するように織田方は鷲津などの砦を築いてた

そもそも今川は2万5千もの大軍だったのかどうか怪しい
信長公記は誇張だろう 1万そこそこの軍でしかも先鋒に数千割いてたら
今川本隊はそこまでの数じゃない

その上に信長は国力考えれば5千ぐらいは動かせる

信長がとった作戦は陽動部隊を繰り出して今川勢をそっち側に向けておきながら
横から突撃かました結果今川勢が大崩して義元が討ち取られたと

404人間七七四年2014/10/30(木) 18:03:54.86ID:cQh0oE7n
>>402
主君直属の部隊で重用されてるんだから
むしろ大出世レベルなんだけどな
会社で言えば、本社直属の重役。
勝家や秀吉のような地方役員クラスより待遇はいいかもな

>>403
この時点の今川方は既に尾張にも領地を持っている。
鳴海城や大高城のことを考えると、かなりの領土は持っていたと考えてもいい。
かたや織田方は岩倉織田家がつい前年滅びた後。


双方の推定石高数は太閤検地から考えると

今川:70万石から80万石(駿河・遠江・三河の大半、尾張の一部)
織田:30万石程度(尾張の一部、支配力はお察し)

程度となり、今川は計算上2万近く、尾張への距離考えて大動員かければ2万5千はそこまで不可能じゃない
織田はまあ、5千くらい動かそうと思えば動かせるが・・・・

405人間七七四年2014/10/30(木) 20:16:39.62ID:+XmS87D6
また織田チョンのデタラメ妄言が始まったかwww

406人間七七四年2014/10/30(木) 22:57:42.94ID:terQDMew
今川の尾張での勢力圏は荒れ地ばかりで石高ベースだと大したことないよ。
国力比でいうなら>>404よりはもうちょい織田よりの比率かな。
状況的には織田からするとここを落すと長期的にはジリ貧になるけど
すぐさまどうこうって話ではなかったと思う。<桶狭間

407人間七七四年2014/10/31(金) 17:28:41.68ID:K3Fcd04A
知多郡の石高は他の郡と比べてもそれほど大差ないよ
ただ伊勢湾を利用した海運の盛んな地域でもある
他に今川の影響がありそうな春日井郡愛知郡は尾張の中じゃ石高は上位

石高ベースで大したことが無いのは海西郡
当時服部支配なのか織田家の支配なのか判断下すには史料不足だが

408人間七七四年2014/11/01(土) 13:13:39.34ID:bEcMA2Me
などと大ウソを吐く織田チョン。

409人間七七四年2014/11/03(月) 17:59:19.51ID:ctSgWP8W
一次史料皆無で語る愚か者織田在日

410人間七七四年2014/11/03(月) 22:46:21.07ID:jRWLWPrI
菅沼遼太、必死の二連投

411人間七七四年2014/11/08(土) 18:24:56.13ID:hAzYm3dR
今川には感状が多数発給されているが、
織田は全く感状が発給されていない時点で勝敗は判明してんだよなwww
今川滅亡したから死人に口無しで捏造三昧織田チョンwww

412人間七七四年2014/11/08(土) 21:05:18.88ID:rNdMe/ZB
勝った今川が寸土も領地を取れずに滅亡一直線
負けた織田がなぜか勢力を伸ばし美濃まで取ってしまう菅沼遼太史観

413人間七七四年2014/11/08(土) 21:05:35.34ID:CK1JYzw0
負けたからこそ家臣の忠誠を得るために大量の感状を出すという可能性

414人間七七四年2014/11/08(土) 21:29:21.61ID:6oXKYkb1
>>413
そもそも感状は戦争で功のあった家臣を褒めるためのものだから、
戦争の勝ち負けは感状に関係しない。

極論、勝ち戦でも「てめぇら使えねー」って主君が思えば感状なんか出るわけない

415人間七七四年2014/11/08(土) 21:32:03.32ID:9d3KR7ce
信玄は川中島のとき信濃の武将に感状送ってないことから
川中島当時は彼らを動員させるだけの力がなかったとも言われている

416人間七七四年2014/11/08(土) 22:38:11.10ID:UUkMdVZC
桶狭間の戦いでは信長が今川を破ったことになっているが
その時の信長の主戦力は森可成だと思う

信長公記では作者の太田が柴田勝家の家来だったこともあり柴田ひいきで書いているが
その一年前には柴田は信長を殺そうとしていた反乱軍の首謀者でしばらくは重い任務は任されていない
その柴田勝家を破ったのが森可成

そのころの織田の中核は森可成で、前田利家を桶狭間の戦いに信長の意見無視で招き入れている

何が言いたいかというと家督争いから美濃攻略まではほぼ森可成のおかげで信長軍は急成長したという事
しかし、上洛後に信長のためにすぐに死んだので忘れ去られてあまりにも評価が低いという事が言いたい

森可成を評価したのは一緒に戦った信長で森乱こと森蘭丸はそのせいで信長に可愛がられた

417人間七七四年2014/11/08(土) 23:51:52.16ID:hAzYm3dR
だからね、今川が弱体化したのは遠江錯乱によって
三河と駿河が分断されたことで、
三河が無政府状態になり吉田で叛乱頻発。
それに乗じて家康も独立したの。
だいたい信長が勝ったのならなんで三河を侵略できなかったわけ?
長篠でも痛み分けだから勝頼を追撃できずに、
謙信に言い訳の弁明してるよねwww
それと首巻は太田が書いたものじゃないの。
その程度も知らない無知が織田チョン。

418人間七七四年2014/11/09(日) 00:33:54.77ID:VSHTtIvD
遠江錯乱なども森可成やその手下によってなされている
森可成も単に突っ込むだけじゃないんだよ?

秀吉張りの情報戦を秀吉以前から展開していた
織田側の今川への情報攪乱工作もあったのを知らないわけ?
森可成は早死?にしたけど織田軍では柴田や秀吉以前の中核だったと思う

419人間七七四年2014/11/09(日) 01:32:52.55ID:YtuEVah+
>>418
それの一次史料のソースください。

420人間七七四年2014/11/09(日) 02:25:29.31ID:Xc+vMo9s
>>418は森版菅沼みたいな人だから相手にしないほうが…。
ドラマ板や史板で持論展開しては論破されとるw

421人間七七四年2014/11/09(日) 03:47:57.07ID:VSHTtIvD
>>420
カスが口はさむなw
いつ俺が論破されたのだw
アホか?

422人間七七四年2014/11/09(日) 03:52:19.74ID:VSHTtIvD
>>419
甫庵太閤記にのっているよ

Xc+vMo9sのようなゴミカスの言う事は嘘だから信じないように

おい、カスXc+vMo9sは俺様にきちんと誠意ある謝罪入れろよw

423人間七七四年2014/11/09(日) 05:30:52.24ID:Xc+vMo9s
甫庵wどこが一次wアホかw

424人間七七四年2014/11/09(日) 06:28:08.32ID:55CNPkGW
>>417
戦争に勝ったのに遠州錯乱が起きる菅沼遼太史観wwwwwwwww
戦争に負けたはずの織田が何事も無くのうのうと居座る菅沼遼太史観wwwww

425人間七七四年2014/11/09(日) 07:07:52.48ID:fEGmk8rB
尾張内の今川勢力が一掃されてるんですがそれは無視ですか?

426人間七七四年2014/11/09(日) 08:59:05.06ID:YtuEVah+
そもそも鳴海城しか
今川方の城は尾張国内にはなかったでしょ。

427人間七七四年2014/11/09(日) 09:19:43.31ID:fEGmk8rB
沓掛城とか大高城は?

428人間七七四年2014/11/09(日) 11:15:24.57ID:J17rwCWF
>>423
いいだろうが
甫庵はお前みたいに盛るところはあるが
当時の資料を基に書いているのだからよ

429人間七七四年2014/11/09(日) 11:20:57.50ID:J17rwCWF
それに小瀬甫庵の時代はまだ戦国の生き残りがたくさんいたから当事者から直接聞ける話も多かった
だから中には話を盛る奴が出てくる
それも含めて本にしただけだろうが

430人間七七四年2014/11/09(日) 11:54:21.79ID:fEGmk8rB
で、どこが盛った部分でどこが盛ってない部分かの判定は誰がするの?

431人間七七四年2014/11/09(日) 12:51:44.21ID:59hYH0NL
そりゃ429大先生に決まってるじゃないか

432人間七七四年2014/11/09(日) 13:55:29.15ID:LT09eIKV
>>417
遠江錯乱は家康が独立(永禄四年)後、東三河を巡って
松平と今川ががっつり係争している最中に生じている
永禄六年だ
時系列認識に間違いがある

そもそも吉田は良将(?)小原鎮実が抑えており、
三河で頻発した叛乱(三河錯乱)の当事者にはなっていない
三河錯乱の内容は東三河北部の豪族である菅沼氏等の離反や
東三河西部の豪族間の紛争だ
吉田駐留部隊はその制圧に出動している

デタラメを前提に珍妙な推論を導いてみせたところで、
説得力は皆無な上、ただただつまらないホラ話にしかならない

433人間七七四年2014/11/09(日) 15:34:06.37ID:LP1Z6i/A
それに森可成もたくさんの書状を書いて出しているし文盲ではない
井口城の明渡し要求でも森可成を竹中半兵衛に遣わし交渉している
節目節目で森可成を利用している

434人間七七四年2014/11/09(日) 15:41:09.89ID:LP1Z6i/A
森可成が初期の織田の中心的な武将だったというのは信長公記からでもわかる
桶狭間以前からな
それをこともあろうに他の信長ファンが野次るのだけは許せん
森家は最初から最後の蘭丸まで信長ののために命をかけていたのに
それを野次るとか信長ファンとは言えんな

435人間七七四年2014/11/09(日) 15:48:53.73ID:LP1Z6i/A
野次るんだったら信長の天下取りを最後の最後に妨害し裏切った明智光秀だろうが
そういう常識ない所が好かんわ
1万以上の兵に逃げ隠れもせずに命を懸けて守った蘭丸を責めるとかありえんわ
秀吉にしても中国大返しからの山崎の戦いの仇討合戦は立派だったわ
そんな忠義の心を理解する奴が少なくて本当にがっかりだぞ

436人間七七四年2014/11/09(日) 16:02:34.25ID:fEGmk8rB
誰も森可成をヤジってないよ
菅沼くん並の知恵遅れの君のことを馬鹿にしてるだけだよ。

437人間七七四年2014/11/09(日) 20:09:25.93ID:9lsVTmK+
>>436
菅沼ってなんだよw
知恵遅れ朝鮮人の新しい造語なのか?

438人間七七四年2014/11/09(日) 20:34:40.71ID:VStwx0Bb
菅沼遼太のことだろ

439人間七七四年2014/11/10(月) 16:58:41.12ID:aBx5SVt6
天文22年閏正月13日に信秀が外交を委任していた平手政秀が信長に悲観して自殺するや
道三は信長の大叔父玄蕃允秀敏に信長の悪行を心配している書状を出してる(浅井家文書)
そして同じく後見役とされていた林も信長を見放す。
しかし道三は娘を人質にされてるためか、信長を見放さず、
水野の小川城に対抗して岡崎衆が村木に砦を築くや天文23年正月に安藤伊賀守の軍勢を派遣し
小川城で水野信元と会談後に砦を落として帰っている。
明らかに信長がどうしようもない馬鹿で尾張が分裂していっただけで、
信秀は万全の体制で信長へ引き継がせてる。義龍によって尾張反語句を奪われたのは信長の糞アスペ人格が原因。

道三が織田家臣へ愚主信長を見限らないように心配する書状を出していたり
後見役の道三が死去するや、英傑な義龍に尾張半国を奪われるほどの馬鹿アスペが信長。
天文22年閏正月に平手が信長のアホぶりに失望し自害。
結局、信秀が死後を心配し信長の後見につけた4人の側近団は崩壊。
尾張統一されたもんを引き継ぎながら道三が死んで後見が失われるや
信長自身の悪政を義龍に付込まれて尾張が謀反三昧にされただけだろw
まぁ平手まで自刃するほどのキチガイ信長じゃしょーがねぇけどな。


信長は信秀の遺産として三河国碧海郡を中心とした水野氏+尾張国+美濃大垣+信秀姉妹の美濃岩村を領土としていた。
他に婚姻関係の下に斉藤道三の後見と
信秀の献金力を背景として朝廷と六角氏の圧力で今川義元が土下座して織田との同盟を結んでいた。
今川も朝廷の強力な支持を持つ織田の外交力&斉藤と織田の同盟と戦う不利を悟っていた。さすが信秀である。

鳴海が今川方になったのは弘治元年(1555年)2/5付書状で証明されてる。
(鳴海を今川が調略していた証拠はなく、ただ単に信長が見限られ離反されただけ)
しかし、それ以外は取られてない。半分が今川とかアホだろw
その書状の中で信長が鳴海に同心したら領地没収の話を出してる。
そもそも弘治元年から2年に渡り三河全域で反今川勢力が蜂起して
今川勢と各地で戦ってたのは岡崎市史で指摘されてて、
今川にはこれ以後、余裕がまったくない。
信秀が死んだのは天文21年3月(1552年)で鳴海が今川へ寝返った時期から
すでに3年も経過してるから、信長が相続した時点ではちゃんと引き継いでいるし。


そもそも一次史料をみる限り、どう考えてもすでに清洲城に織田敵対勢力なんぞいないわw

清洲城で傀儡になっていた尾張守護斯波義統は天文13年に稲葉山城攻撃中の信秀の援護射撃で禁制を出したのを最後に消え去るので間もなく死去と思われる。
清洲城主尾張下郡守護代織田大和守信友は架空人物。
岩倉城主尾張上郡守護代織田伊勢守信安や子の信賢も江戸期の軍記の架空人物。
織田信清も軍記の架空人物。ただ犬山城は金山城などと共に斎藤氏が信長から奪って支配していた可能性が高い。

440人間七七四年2014/11/10(月) 16:59:34.90ID:aBx5SVt6
桶狭間の戦いを機にやっと家康が岡崎支配を開始なんてのもウソで
事実は今川がノリノリで後援してくれたので、
永禄2年5/16に家康は三河の家臣団へ向けて家中の掟を明示して、
のちの自立に向けての支配統治を開始してる。
そこに義元急死、 義元がかろうじてまとめていたものだから
吉田雑説→遠州総劇と叛乱が拡大勃発し、 今川が急速に弱体化していく
(桶狭間の戦いのせいで今川が弱体化したって論法も大ウソ)
駿河と西三河の連絡線が切断されたことを良いことに家康が自立し、
火事場泥棒で三河を盗んだだけだし 清州同盟も作り話だしな。
あきらかに桶狭間の戦いネタは徳川幕府が、
今川への忠義者家康の止むを得ない自立ストーリーとして利用したのが丸わかり。
家康が義元の仇討ちを願い出たりと、
主家への忠義が強調されるネタに利用され、
義元の妹の娘である瀬名姫を妻にする程に優待し、
義元は家康に家掟を岡崎に発布させる手助けをするなど、
家康自立に向けて協力してくれるなど大恩ある人だからな。
それを裏切り侵略した家康の自己正当化にちょうど良いネタ。
そしてそれを信憑性あるものにする為に偽書状や写書状が作られたに過ぎない。
原本確認できる一次史料には義元が不慮の死としか書いてないしな。


現在知られる義元が発給した書状なんてほとんど原本あるのに、
義元は内政に力をいれていたからむちゃくちゃたくさん遺ってる。
しかし、なぜか桶狭間の戦いに決定的に関連する書状は写ばっかって言うwww
さすが架空戦記に沿って写書状を制作しただけあるなw
今川軍は強く、永禄3年以降、感状がたくさん残っている。
むしろ感状と褒美を次々に出したゆえに、財政破綻で破綻したと言える。
それを象徴しているのが、
永禄4年4/11の夜に牧野平左衛門入道親子が逆心して敵方へ逃げた事件を契機とした
牛久保合戦における今川軍の大勝利の裏側に垣間見える。
この時、牛久保城には兵糧がまったく無かった為に、
今川家臣の牧野定成と岩瀬雅楽助が五百俵を立て替えた。
岩瀬はさらに塩硝鉛百斤を援助している。
牧野定成は自分の家臣である稲垣長茂の武功に対して6/7に早速、
領地を与えて恩賞で報いている。
もちろん今川も牧野の部下である稲垣親子に6/11に所領を与えて忠節を讃えている。
また6/17に岩瀬雅楽助に対しても今川は代官職を与えて忠節を讃えている。
もちろん兵糧を肩代わりした功績だけでなく、牛久保合戦の勝利の武功に対しても、
匂坂長能などに所領を今川は与えまくっている。

441人間七七四年2014/11/10(月) 17:01:44.34ID:aBx5SVt6
当時、今川が去年からの吉田雑説(豊橋城)を代表とした
三州錯乱と呼んでいた大規模な国人反乱が起きていたという理由もあるのだが、
7/20の書状で米五百俵の即時返済すらできない財政状況なのが露呈。
今川はその後も三河乱国の情勢で一揆や謀反の討伐を進め、褒美を出したり、
帰参を許した際には本領返付を行いまくった。
今川直轄領がほとんど底を尽きて破綻していく姿が見える。
今川が強過ぎたがゆえに、武功への表彰が致命傷になった。
守護大名である大友が財政破綻した挙句に、キリスト教を掲げ寺社を破壊し、
ついには大友菩提寺まで破壊して寺領を没収し家臣に与えたように、
守護大名は元々、直轄領がほとんどないので破綻崩壊したのであろう。

成る程。吉田雑説が原因で、今川軍は桶狭間の戦いに勝利後に撤退したのか。
吉田は東三河最大の拠点だから、無視など出来ないからな。
三河や遠江の国人達は騒乱を起こしての反乱ビジネスによる錬金術に気付き、
自作自演の一揆や鎮圧や帰順で今川を喰い物にしたからね。
今川の財政破綻か・・・ だとすれば三国同盟後の今川の鈍い動きに合点がいく
尾張侵攻をする余裕がないにも関わらず鳴海が包囲されてしまったもんだから止むに止まれず尾張侵攻をしたというわけだな
今川家の財政破錠はなかなか興味深い視点だ。
確かに財政的には織田家の方が上だろうけど、武田と後北条はそこに付け込まった
のだろうか。 三国同盟が結構強かった?
義元は三河安定化に必死だったから尾張どころじゃ無かったよね。
で、義元本人が尾張国内に侵攻していたことを証明する一次史料はいまだに出てないの?
現状では義元は三河国内で後方指揮に徹していたとしか解釈出来ないんだよね。
そりゃ後方の東三河において吉田雑説が起きているほど三河騒乱中なのに尾張に行くわけが無い。
それが理由で西三河安定化のために姪と婚姻させた家康をバックアップして
岡崎自立策まで打ち出してるほど三河統治失敗寸前だったんだし。

442人間七七四年2014/11/10(月) 19:41:36.34ID:iGYTQk9F
ごみ菅沼遼太

443人間七七四年2014/11/10(月) 19:46:42.85ID:j2CInV3l
信長協奏曲でも見て落ち着きなよ菅沼遼太くん

444人間七七四年2014/11/11(火) 03:34:14.42ID:2mwaaLcR
そうそう菅沼君が大嫌いな信長や織田家臣団がこれでもかと
いうぐらいに茶化してるから。

445人間七七四年2014/11/11(火) 19:01:06.14ID:DMKZtSna
今日は暇だったので桶狭間の検証を一人でしてきた
古戦場公園の東がけっこう小高い丘で(標高7〜80m?)
ここがおけはざま山で義元の陣はった場所で確定ここは
地図上豊明市 信長本隊が義元の旗本に襲いかかって
大高城方向に崩れたのが公園方面でここが通称田楽坪地図上は緑区
よって戦いの舞台はおおよそ豊明市 義元の討ち死に場所は
名古屋市緑区と自己完結
異論は認めない
以上

446人間七七四年2014/11/12(水) 08:16:34.01ID:dAbcOJ8U
異論どうのより、ちょっと日本語がおかしくないか?

447人間七七四年2014/11/12(水) 10:14:03.87ID:xLxHKZS+
現地レポを必死に文章にしたためようとしたんだろ
わかってやれ

448人間七七四年2015/01/04(日) 12:46:50.20ID:+n8NjE8l
保守あげ

449人間七七四年2015/01/17(土) 01:20:36.03ID:QWvndDrt
動員力を1万石あたり150人とすると信長公記における織田勢の数が合う
そして今川勢の数は誇張が入ってると考えられる
信長公記は秀吉によって作られたものだから織田勢の数は割と正確なんじゃないかな〜

450人間七七四年2015/01/19(月) 20:59:18.51ID:/FauLT92
>>29
おっそいけど劉邦は君主型で項羽が将軍タイプだろ

451人間七七四年2015/01/27(火) 06:16:38.72ID:3YrX/Th8
ついこないだまで内乱で戦争していた織田と
東海道の主要国領有していて順調に領国経営している今川が同じ動員力と考える方が不自然だろう

452人間七七四年2015/02/09(月) 01:27:19.96ID:KiNVsA2x
義元公が所持していた左文字を追えば事実が見えてくる

453人間七七四年2015/02/12(木) 09:16:59.12ID:udJ8KTCO
>>451
今川は天文22年あたりから守護使不入地の廃止をやったので
国人一揆謀反だらけになって
順調な経営なんてまったくしてねーよ。
だから家督を氏真に譲って、義元本人が駿河在住しないようになった。

454人間七七四年2015/03/24(火) 16:18:33.75ID:vNUfGW6p
反乱続発してるのに若い当主に本国任せて三河乗り込んだのか
素晴らしい先見の明だな義元
凡人な俺なら本国の安定を最優先させるけど

455人間七七四年2015/04/30(木) 12:52:01.89ID:nUgxMqGh
桶狭間合戦が始まるとき、信長の馬の首元に家老が取り付いて
「1列でしか行けない狭い道なので、味方が少勢であることが敵にわかってしまいます」
と言っているのだから、
桶狭間合戦では、織田軍の方が少ないのは確実だろうよ。戦闘員の数が互角でもない。織田が少ない。

456人間七七四年2015/04/30(木) 12:56:43.63ID:nUgxMqGh
信長か勝てたのは、熱田神宮の神軍による加勢があったから。
そう明記されているし、当時の兵はそう思っている。

横殴りの雨風が、織田軍の背中を押したのだから、突撃突撃だろうよ。
ただ、「空晴れるをみて」と記述があるものだから、雨も(風も)止んでから攻撃した、
と拡大解釈するものだから、横殴りの雨風の効果を無視する話になってしまう。
急変の突風の雨風のときは、まだ降っていても空に晴れ間が見えるのはよくあること。

457人間七七四年2015/05/04(月) 13:46:45.79ID:cAEGKM9W
たまたま暇つぶしにネットサーフィン(死語)してたら
藤井尚夫氏が歴史読本に掲載したという仮説が出てきて中々面白かったので書き込んでみる

1.信長は水野信元を誘って大高城を包囲した。義元はその救援にやって来た。
2.義元の大軍にビビッて水野は撤退。大高城南側(正光寺、向山、氷上山の砦)はがら空きとなる。
3.御陰さまで元康は易々と大高入城に成功。
4.ぶち切れたノブサマ、丸根と鷲津からの撤退を許さず見殺しに。
  必死で逃げてきた千秋、佐々に至っては特攻を命じて二人とも討ち死に。
5.上々の戦果を挙げ目的も果たした義元がさぁ、帰ろうとした所にノブサマ殴り込み。

まぁ、こんな感じの内容でこの時の事を恨まれた水野は15年後に武田との内通を理由に殺されたとか

で、この仮説を拡大解釈したものとして水野の離反は偽装で
撤退した水野勢は秘かに今川軍の後方に回り込み退路を遮断、義元はノブサマと水野に挟撃され大敗したと
岡部が撤収途中に刈谷城を襲ったのはその報復の為だったとか

信憑性はともかく、中々興味深い仮説ではあると思われるが

458人間七七四年2015/06/04(木) 07:16:29.07ID:I82ZKtRy
信長ってどうやって今川義元の首獲ったんだろう?
あれだけの大大名の大将の首が戦場で獲られた合戦も珍しい。
いろんな説があるけどこの合戦本当に気になるなあ。

459人間七七四年2015/06/04(木) 12:56:46.66ID:A9zLORAS
>>458
織田方の侍が指を食いちぎられながら、首を取ったんだっけか?
好きな前提に合わせた結果を選べば良いんじゃね?

今川の頭領が親政するのにたった2万5千しか連れて行かない、迎え撃つ京に挨拶まで行った織田の殿様がたった5千で迎え撃つ
そんな前提で今川の頭領を頃すんなら、
一天俄にかき曇り…的なイベントが起きたって考えるのが常識的だろ(笑)

460人間七七四年2015/06/06(土) 14:40:02.60ID:kiyG472H
>>457
刈谷水野氏については、今川に与するふりしておいて、織田が東北(義元本陣の後方)から迂回攻撃するのを助けた。
岡部が帰路に水野信近を攻め殺したのは、裏切りへの報復――という説もある。迂回奇襲説のバリエーションとも言える。

461人間七七四年2015/06/07(日) 17:27:03.23ID:krj9Df8O
水野の裏切りというか、松平・水野の裏切りでは?
松平は、兵糧を夜に盗んで大高城に運び込んで、兵糧攻めの準備をした。
それで、義元は清洲城攻めを止めて大高城へ向かった。
隊列が東西に延びて、北から信長が横やりを突こうとしてることを知り、
急遽北に進路を変えて信長に正対
そこを後方から松平・水野軍が攻撃

462人間七七四年2015/06/15(月) 16:04:10.56ID:l4RkRdpU
>>466
当時の大名は殆ど田舎者だ
甲斐の武田や駿河の北条もそうだし
駿河の今川も田舎者の一人
田舎者扱いされるのがいやで都人風に振る舞ってただけのこと

463人間七七四年2015/06/15(月) 21:41:48.30ID:n4rqONxy
たいがい在地だった武田さんが特殊で
守護大名はもともと在京で人脈持ちが普通

464人間七七四年2015/06/16(火) 18:11:36.56ID:ztH49fey
昨日今日で、伊勢崎市の突風で、屋根が剥がされ、建ったままの家にも壁に木片が突き刺さった、
という猛烈なダウンバーストが今も報道されているが、
桶狭間のときも、織田軍から今川軍に向けて、超猛烈な風が吹いた。
いくら織田勢が小数であっても、風下側の今川軍はひとたまりもないわな。
季節は、桶狭間もちょうど今頃だったか。

465人間七七四年2015/06/16(火) 18:14:06.50ID:ztH49fey
「桶狭間の戦いは」永禄3年5月19日だが、
西暦年は1560年ですが1560年5月19日でなく
1560年6月12日らしいです。ちょうどぴったし今頃だな。

466人間七七四年2015/06/17(水) 07:44:28.87ID:2S45B+o8
グンマーと尾張を一緒にするな(ρ_;)

467人間七七四年2015/06/18(木) 02:27:33.11ID:BGyMIIvu
そう言えば愛知とグンマーを一緒にしたとか言う理由で、
上野スレを荒らしまくってた奴が居たな。

468人間七七四年2015/06/19(金) 16:30:24.77ID:yUZOVJB2
まったくの第三者が、「まことって誰?」と質問して、
必死になるわけがない。
まことは、嘘つくアスペルガーであり、嘘の証拠さえ
出なければ、本人とバレないと思っている。

469人間七七四年2015/06/23(火) 21:03:40.53ID:PY4wrNm+
徳川の世では
今川も織田も仲良く高家
両家とも戦国室町の名流であったと思われる

470人間七七四年2015/06/24(水) 09:50:32.31ID:SJjhKCNW
>>469
単純に家康が義理堅かっただけだろ
両家とも子供の時に世話になった家じゃないか

471人間七七四年2015/06/24(水) 18:48:18.53ID:wsluUY/V
子供の時に拉致られたのを世話になったというのかにゃ
世話になったのは独立してからだろ

472人間七七四年2015/07/02(木) 00:46:05.75ID:Udk0peBe
指を食いちぎられながら、義元の首を取った、というのは、
背後から、手で義元の顔を押さえつけてのけぞらせながら、義元のノドから刀で切断した。そのとき
指をかみちぎられた、ということを示している。
アラブの方で、首を切られた日本人がいてその動画が流されたから、見たい人は見ればいい。香田証生さんだったか。

473人間七七四年2015/07/19(日) 15:26:26.85ID:VatREnzD
もし、文面を読まずに反論したら、どういうことになるだろう。
まず、空気に合ったことを発言しなければいけない。
ところが、まことは、話に関係のない反論ばかりするのである。

474人間七七四年2015/07/21(火) 08:34:48.20ID:+PPDOJjT

475人間七七四年2015/07/24(金) 00:03:16.83ID:bkq5TawW

476人間七七四年2015/08/27(木) 06:20:35.09ID:gyapD32Y
結局迂回したの?正面攻撃したの?どっち?

477人間七七四年2015/08/27(木) 06:55:32.09ID:GyipdWIJ
天候は晴れ。織田軍は低い土地から高い土地にいる今川軍に
正面から崖みたいな坂をよじ登って攻めていった。
おそらくモーゼの海割れのように、今川兵割れの奇跡が起きた。
信長が大声をあげただけで勝った戦いや
信長が渡り終えたらすぐ水位が異常に高くなって追撃を免れたりと
信長には奇跡を起こす力が信長公記にはたびたび記されている。

478人間七七四年2015/08/27(木) 10:57:22.55ID:D2Ffb5AX
迂回だろ
正面攻撃は他の奴がして戦死しているし
それに山と言っても馬がそのまま駆け上がれる低い小山と言うか丘
だから桶狭間の伝承地は二つある
実はどちらも戦場だった

479人間七七四年2015/08/27(木) 10:59:11.69ID:D2Ffb5AX
それに正面には今川の大軍がいた

480人間七七四年2015/08/27(木) 11:02:03.90ID:k2MYaQIY
奇襲や迂回攻撃は日本陸軍参謀本部の願望妄想だから。

481人間七七四年2015/08/27(木) 13:00:31.69ID:yOxPgJQt
日本陸軍参謀本部とか関係ないから
それ以前から迂回説は主流だし
地元にも桶狭間古戦場伝説地や碑や史跡あるから

482人間七七四年2015/08/27(木) 13:15:31.45ID:GyipdWIJ
それ以前から迂回説は主流←ソース出してみ?
信長公記を読めばそんな話には絶対にならないしw

483人間七七四年2015/08/27(木) 21:09:23.46ID:UjZ1kyQk
まじかwそんな事も知らないのか?
近くに大きな図書館ないのか?
しかも信長公記のどこに真正面から突入したと書いているんだw

484人間七七四年2015/08/28(金) 06:24:04.42ID:M3MLttvx
>>477
織田信長は神か

485人間七七四年2015/08/28(金) 16:14:06.18ID:luWGYkPm
片岡愛之助のやつによると、現地の桶狭間研究会は迂回説唱えてるらしいな
上手く谷際移動して伏兵伏兵で本陣に近づいてったって

486人間七七四年2015/08/28(金) 23:10:15.51ID:iJpyJJ4E
公記を読む限り迂回や側面攻撃をしている可能性は皆無ですね。

487人間七七四年2015/08/29(土) 01:33:36.68ID:Juj/e2qj
信長公記の桶狭間の戦いは記憶があいまいで省略の部分が多いとしたら
迂回説もありだと思うけどね

488人間七七四年2015/08/29(土) 01:38:12.13ID:Juj/e2qj
大田牛一は本隊に遅れ気味だったので
正面攻撃とも取れる本隊とは少し異なる正面攻撃説に近い経路を取ったようにも読めるし

489人間七七四年2015/08/29(土) 02:19:23.36ID:v0fLSKQV
信長公記の記述だと中島砦までは詳細に経路を記しているが、
その後はいきなり山際(と沓掛の峠の松・楠)まで飛んでその次はいきなり今川本陣まで飛ぶ。
道程の半分がほぼ不明で且つ今川前衛との戦いの描写も無くこれでは正面攻撃説は成立しない

490人間七七四年2015/08/29(土) 23:53:39.12ID:BoVmYWCr
菅沼遼太完全敗北

491人間七七四年2015/08/31(月) 21:02:32.66ID:7T2MCuKx
>>489
いきなり山際まで飛んだのはその山際が沓掛の峠ではなく
現在の緑区役所あたりの漆山だとすればあながち正面攻撃説は否定できんぞ
義元が布陣したとされる桶狭間山は諸説あるが、そのひとつに挙げられているのが漆山で
中島砦からは数百メートルの至近距離にある
>>488が指摘してるように牛一が本隊に遅れ気味で
信長本隊が今川前衛を突破した後、戦闘に参加してたとすれば今川本陣まで飛んだ記述も不思議ではない

492人間七七四年2015/08/31(月) 22:04:55.16ID:RZ0FbhM5
漆山説は裏づけが乏しく不備が多すぎだろ。
正面攻撃説を証明する前にまず漆山説を証明せなあかんし
北西に備えた今川軍を織田軍は東に突撃して破ったという方角の問題も解決しない

493人間七七四年2015/09/01(火) 00:35:45.99ID:7780Uvzg
信長公記の記述に適合するのは漆山かその近辺ぽいが沓掛の峠がネックやねぇ

494人間七七四年2015/09/04(金) 20:13:40.15ID:EjlRA/Ly
信長がもともと義元本隊への攻撃を意図せず
迂回して鷲津砦を取り返そうとしていたとしたらどうよ?
雨に紛れて今川本隊に気取られる事なく鳴海大高間の連絡を遮断でき
今川軍の後方に浸透できる
しかし、豪雨の為に進路を見失い漆山西側で今川本隊と鉢合わせしたのでは?

495人間七七四年2015/09/04(金) 21:56:32.76ID:paApGUks
地元で迷子ですか。へぇ

496人間七七四年2015/09/04(金) 22:01:05.93ID:EjlRA/Ly
地元でも視界が利かなきゃ簡単に迷うだろ

497人間七七四年2015/09/14(月) 18:56:06.38ID:el6Y7h69
織田が絡むスレはもれなくアレが暴走してるんだな

498人間七七四年2015/09/21(月) 20:07:29.99ID:dUvEJK+z
漆山のあたりに神社があったろ。有松神社だ。
神社が建てられる場所というのは、それなりに良い場所が選ばれる。義元本陣はここじゃね?。
ただ今の有松神社からは、木が多くて邪魔すぎて眺望がきかないという。

499人間七七四年2015/10/04(日) 11:14:39.34ID:WWbNoCkb
>>459
>>一天俄にかき曇り…的なイベントが起きたって考えるのが常識的だろ(笑)
 賛成。

500人間七七四年2015/10/04(日) 13:44:19.78ID:WoQWMlfm
静岡新聞で今連載されている「家康」に、義元は知立に二泊し、
沓谷には向かわず大高に向かったという説が主流とある。
また、先手に松平元康と水野信元が命じられており
初めて聞くことで驚いている。

501人間七七四年2015/10/13(火) 13:23:40.48ID:WMoXjQYB
この戦いに勝敗の理由を探ろうとしても、"運"ぐらいしか見出せない。
たまたま信長が勝ち、運悪く義元は首を取られた。
戦いは常に強い者が勝つとは限らないのである。

502人間七七四年2015/10/20(火) 08:04:52.93ID:TN2iM1uA
>>500
水野が?。朝比奈じゃないのか

503人間七七四年2015/10/21(水) 14:33:21.65ID:nGKl2eJ1
丸根砦鷲津砦も小高い丘陵地にあって森の中の閑静な住宅街
独りで史跡巡りする私は傍から見たら完全なる不審者に候

504人間七七四年2015/10/21(水) 16:28:38.17ID:0T3kdJC4
城跡巡りなんて、いまはどこもそんな感じじゃないの?
小さいとこなんか私有地も多いし

505人間七七四年2015/10/22(木) 07:24:50.56ID:4PJ+DStj
ふつーに正面から突撃 根性で勝った

506人間七七四年2015/10/23(金) 15:51:29.77ID:upLibb9M
中島砦なんかモロ民家の庭だもんなあ

507人間七七四年2015/10/23(金) 22:13:32.11ID:Ap6PCaCW
10年ぐらい前 清須城を見学→熱田神宮参拝→旧東海道を下って善照寺砦
(現在は公園)中島砦をすっとばして→桶狭間古戦場公園のルートをクルマで
移動して自分なりにシュミレーションしてみたけど半日がかりだった
信長の神速ぶりに驚嘆したわ

508人間七七四年2015/10/23(金) 23:51:20.57ID:jPPTvevx
>316 名前:名無しさんの次レスにご期待下さい@転載は禁止[] 投稿日:2015/10/23(金) 23:16:36.80 ID:e33V10gv0
>>307
> 困ると質問くんか

> 雑魚は失せろ

> 歴史板なんて5年前に俺様が全員論破して焦土にしてやったわ

> 舐めるなよ

歴史板の住人を全員論破したID:e33V10gv0が桶狭間の真実を語ってくれるそうです

さあ どうぞ

509人間七七四年2015/10/24(土) 15:37:57.75ID:Au3FY3XS
>>504
「今はどこもそんな感じだよねー」で良いのになぜ殺伐とさせようとするのか

510人間七七四年2015/10/24(土) 21:00:22.44ID:mzz3B7pM
>>507 砦から、今川軍の動きを注進で何度も
清洲の信長へ報告しているから、半日かかるのはさすがに時間がかかりすぎる。
が、清洲の兵が信長を追って、走りに走っても、桶狭間につくころにはへとへとになってしまう
んじゃないかと心配になってしまう。

511人間七七四年2015/11/07(土) 15:28:12.76ID:cWV+ASRV
大雨で迷子になった織田軍がたまたま今川本隊と鉢合わせていったん引いて態勢立て直そうとしたら
あそこに義元がいるぞーと所在がばれ死に物狂いで突っ込んできた織田軍に討取られたというのが一番正しいのではないだろうか
さすがにそれじゃあお客様が満足しないので、いろいろ後付で整合性のあるというか、何とか納得のできる理由を考えたんじゃなかろうか

512人間七七四年2015/11/07(土) 15:47:42.58ID:Asno2uDm
今川軍ならともかく地元の人間が迷子にならんだろ。

513人間七七四年2015/11/07(土) 16:43:29.53ID:id4814N6
迷子というのは、表現が悪かったですね、では大雨で本来の目的だった部隊を捕捉しそこない今川本体と鉢合わせてしまった
というのでどうでしょう
あと、当時は桶狭間近辺は今川領だったので地元の土地勘ある人を雇えたので
地理に関してはそれほど両軍差はなかったのではないでしょうか
鳴海、大高の2城は今川方の城でそれが付城を築かれピンチになったので救援に赴いたというのが桶狭間の発端だったはず

514人間七七四年2015/11/07(土) 18:10:35.24ID:Asno2uDm
とりあえず迷子(仮)を示すあるいは匂わせる史料の一つでも出さないと議論のしようもないのでは

515人間七七四年2015/11/08(日) 16:39:10.63ID:CLl+PaUE
とりあえず迷子(仮)になったというのは私の妄想です
大雨振るとよほどきちんと道が整理されていないと方向感覚狂うタチなので
今後、私の発言はスルーしてください
すいませんでした

516人間七七四年2015/11/08(日) 19:53:29.23ID:sBjHp21Y
迷子になったのは、今川の兵だろ。湿田に逃げ込んでしまって水しぶきあげつつ、首きられた

517人間七七四年2015/11/09(月) 08:24:55.63ID:JHMJrQ6N
>>515の妄想迷子説は、あながちハズレではない。なぜなら、桶狭間は
「おけはざまと云ふ所は、はざまくみて、深田足入れ、高みひきみ茂り、節所と云ふ事、限りなし。」
とまで表記されているからだ。わかりづらい場所であったことは確か。

518人間七七四年2015/11/28(土) 12:28:58.02ID:FGmUq5vY
織田軍に追い討ちをかけられた今川の兵が豊明の前後に戦人塚として
葬られているのだが緑区が主張する古戦場跡とはちょい離れてるな

519人間七七四年2015/12/14(月) 23:31:47.19ID:oF4yRVFA
生首は手柄に持ち帰っても、胴体は重過ぎるわけよ。ヨロイとかは
はぎとっても、胴体などは近くに埋められる。だから
塚として葬られているのは、その近くで戦いがあったとみても
大きな間違いではない。

520人間七七四年2016/02/07(日) 15:35:02.00ID:lmvCNMID
迂回奇襲説か直進説か本当に興味深い

521人間七七四年2016/04/12(火) 04:00:42.10ID:1sHNxU6x
今の桶狭間周辺に土地勘がある人の意見を聞きたいな

522人間七七四年2016/04/13(水) 20:14:22.75ID:IM1GmK1u

523人間七七四年2016/04/16(土) 21:09:35.39ID:ivQYpWPw
実際には、こういう勢力図だろうね。

[三好長慶側]
リーダー:三好長慶
同盟者:織田信長

[今川義元側]
リーダー:今川義元
同盟者:六角義賢
同盟者:細川晴元
同盟者:畠山高政
同盟者:斎藤義龍
同盟者:朝倉義景?
擁立:足利義輝?

信長もヤバかったが、同じぐらい三好長慶もヤバかった。
信長が踏み潰されれば、こんなそうそうたる大軍と対峙しなければならなかったからな。
そして、桶狭間の勝利で三好長慶は油断し、自滅への道をひた走った。

524人間七七四年2016/06/09(木) 18:59:51.39ID:ztb9Fi/s
大阪本願寺攻めで、信長は鉄砲に撃たれてしまったので、そこで戦死していてもおかしくなかった。
信長を討ち取ったのは本願寺の一揆の一人、ってか。

525人間七七四年2016/06/09(木) 20:49:48.14ID:du3PB/xQ
これよんだ?
マロの戦国 ‐今川氏真上洛記‐
「戦国最大のおのぼりさん」今川氏真の上洛を活写する戦国文芸観光蹴鞠小説!
信長「との」蹴鞠を含めた天正三年(一五七五)今川氏真上洛百日の全行程と知られざる人間模様を、上洛中に氏真が詠んだ二百種以上の和歌と共に描き切る怪作!
http://ncode.syosetu.com/n5953di/ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be20a4887bc3d3353f527d3636c44e3)

526人間七七四年2016/06/23(木) 14:58:48.22ID:FnUcMTfb
豊明はしょっちゅう桶狭間合戦ageしてんな緑区の方は皆無に等しいのにな
まあフジパンと競馬場しかないからな

527人間七七四年2016/06/23(木) 17:00:15.02ID:jukPoBn1
今川さんよりも俺のおじいちゃんの方がうえ
https://www.youtube.com/watch?v=n38mMv8TF3M

528人間七七四年2016/06/23(木) 19:14:11.88ID:kbRL3bhs
あれは情報戦だよ。信長が義元軍の情況を報告させたときほぼ敗戦ムードだったの。でもねばってたらたまたま義元が桶狭間で休んだわけ。桶狭間って細長い所だったらしい。そのわずかな一瞬をついたの。

そこ以外だったら討死にだよね。

529人間七七四年2016/06/23(木) 19:24:21.77ID:PjWNH4er
以下、視点は今川軍からである。

織田方の2つの砦を攻め落として、次はいよいよ中島砦、と偵察しているときに、
熱海神宮の方から黒い雲が急速に流れてきて、ゴウゴウ!と大木でさえ倒木するほどの
超猛烈な風が向かい風となってきたら、そのとき織田軍が追い風に乗って突っ込んできたら?。

かなうわけないだろ。

530人間七七四年2016/06/23(木) 20:34:54.94ID:JbKK3SRv
家康が内応してた可能性がある
内応といっても日和見的なものだと思うがね
織田が勝ったら独立、今川が勝ったらそのまま今川の下で働くという二段構え

531人間七七四年2016/06/23(木) 20:53:16.11ID:PjWNH4er
>>530 家康が内応してたかどうかはともかく、でも家康の親戚が
内応していた可能性は大変高い。
というのも家康の三河は、織田と今川の間にはさまれていた、という事情があるからだが、
家康の実母は、実家がさらに織田の領地に近い!。
水野家というが、実際に織田と松平家の間をいったりきたりしていたので、内応の可能性は
充分あるし、というか水野家は桶狭間合戦のときは織田方に属していた。
大高城の南方の砦を守っていたようだが、今川にあっさり寝返って義元が討ち取られた直後に
また素早く織田方に寝返った、ということをやったらしいと指摘がある。

532人間七七四年2016/06/24(金) 12:36:04.36ID:u3FQ5fkn
信長軍が正面突破 気合で勝ったでいいだろ

533人間七七四年2016/06/25(土) 01:45:16.60ID:xD6gog47
意外と正面突破で勝った気がする
現実的に考えれば義元が25000を率いたってのも
70万石の大名がそれだけの遠征軍を構成できるわけないし、
動員してもいいとこ15000くらいだろ

534人間七七四年2016/06/25(土) 17:59:28.47ID:BbqhGi2s
概算70万人の領民から2.5万人の成人男性を抽出できないというのはどういう根拠で?

535人間七七四年2016/06/27(月) 21:24:42.96ID:rNrqXbyP
>>533
軍紀物は基本的に数字が盛られるからなあ

>>534
1万石で250人〜300人の兵力が当時の常識
それに戦国大名は近世大名ほど権限を持ってたわけじゃないから
あまりに無茶な軍役を惣村に掛けられない

536人間七七四年2016/06/27(月) 21:41:34.74ID:6PIpvDgX
信長もそれに比例して動員力の見積もりは減るわけでして

537人間七七四年2016/06/27(月) 22:01:12.95ID:WegUX//a
250人〜300人の軍役だって別に普遍的なものでもない

538人間七七四年2016/06/27(月) 23:18:27.73ID:ItUXrBgW
それを加味しても25000は多すぎる。領国の防衛にも最低5000は必要だし
全軍合わせて30000は必要。一万石辺り400人以上の動員数だぞ

539人間七七四年2016/06/27(月) 23:25:43.42ID:WegUX//a
小田原合戦の徳川の一万石辺り700人に比べたらたいしたことない

540人間七七四年2016/06/27(月) 23:53:41.65ID:0f/7nnrO
石高から動員力が一意的に定まると考えてるならもう改めた方がいい

541人間七七四年2016/06/28(火) 21:46:10.70ID:bxVjmT/D
日本が人口当たり動員率5%を超えるようになったのは
近代化後の明治時代から。鉄道の普及、機械の導入で生産効率が
飛躍的に上がり、5%以上の動員を行っても
社会と経済がそれに耐えれるようになって以降
それ以前は人口当たりの動員率は2%〜いいとこ3%程度

542人間七七四年2016/06/28(火) 23:19:18.60ID:0KWAW9z9
当時の今川の人口とか解る資料とかあるの?

543人間七七四年2016/06/28(火) 23:35:58.88ID:iOe6CPC8
是非とも明治前後での動員数を比較分析した資料が知りたいわあ

544人間七七四年2016/06/29(水) 00:42:09.55ID:peHArVze
>>542
石高
1石は1人が1年間に消費する米の量と言われてる
戦国末期の動員力は100石あたり2.5人とされてるから人口比率でいうと2.5%

545人間七七四年2016/06/29(水) 00:48:17.20ID:peHArVze
>>540
>石高から動員力が一意的に定まると考えてるならもう改めた方がいい

理由なしかよ

546人間七七四年2016/06/29(水) 03:23:51.92ID:uuooJmdU
とりあえず一万石につき250人〜300人の軍役は他国に遠征する一線級の部隊の基準
これに足腰の衰えた老兵や傷兵の二線級部隊は含まない
二線級の部隊に拠点の防衛を任せるんで領国の防衛兵力は250人〜300人の軍役から除外される

547人間七七四年2016/06/29(水) 09:45:31.28ID:FqzPSBE/
一万石につき250人は大坂の陣、300人は上杉征伐の東国勢の軍役ってだけで別に普遍的なものでは無いよ

548人間七七四年2016/06/29(水) 11:40:20.10ID:iGQwvepJ
>>547
普遍性(笑)のある数値を、お前は出せるのか?

戦国時代に国単位の決算書や戸籍があったという話は聞いたことが無い
であれば、参考になる数値をどっからか引っ張ってくるのは妥当だろ

25000で今川義元が攻めて来てるの織田信長が3000で迎え撃つなんて非常識な話を見直すんなら、
まず、兵数の真実を探るのも筋だろ

549人間七七四年2016/06/29(水) 12:14:37.73ID:FqzPSBE/
>兵数の真実を探るのも筋だろ
しごくごもっともな話ですが軍役定数は複数家、複数戦役で残されていてその都度家や状況により違う訳です。
いつもの壊れたスピーカーで250人〜300人繰り返すだけでは解答に近づかないと思いますよ。

550人間七七四年2016/06/29(水) 12:39:04.98ID:iGQwvepJ
>>549
つまり、物差しになる数字は無いということか
じゃあ、兵数からの見直しは現在じゃ無理だってことだな。

後は、今川義元が何をしに桶狭間まで行ったのかを検討するくらいか

551人間七七四年2016/06/29(水) 13:11:37.96ID:FqzPSBE/
大坂の陣250人、上杉征伐300人はたまたまその時の状況に沿った軍役数でしかない訳ですが
史料上で軍役定数が分かる代表例をあげれば
小田原合戦の徳川軍役は一万石辺り700人東国勢は600人、唐入りの九州勢は500人
上杉家が家臣に掛けた軍役を参考にすれば豊臣政権下大名の本役は一万石辺り600人
明智家軍役は600人、北条武田軍役は換算比率によるが結構きつく約600人+小物陣夫
史料が全て桶狭間以降の物、史料数、蔵入地等の空除分等のをひとまず置いといて単純化すれば
今川でも一万石辺り600人は考え方的な極最大値として参考になるでしょう。
後は年代的統治機構深化度や当時の状況でどれだけ差っ引くかという所です

552人間七七四年2016/06/29(水) 18:00:29.85ID:OzqDvftU
>>546が言ってることだが・・・二線級部隊
太閤秀吉が刀狩をやっただろ
これは守備側の動員力を下げるためでもあると思う
籠城する場合など守備側は平素動員されない輩まで刀を持って集まってくる
さながら映画「7人の侍」のように百姓総出でこられたら10万石大名でも1万や2万の兵を集めるのも可能となる

桶狭間での織田主力2千だが、これは少なすぎる
守備側がこんなに少ないはずはないし当時の織田の力からしても少なすぎる
明らかになんらかの意図があって信長公記は脚色されてる

553人間七七四年2016/06/29(水) 18:20:49.56ID:zIJbp/ne
>>552 言われてみれば、尾張一国を統一したばかりなので、
織田主力2千というのは少な過ぎるわな。
尾張一国だけで50万石はあったそうだが、統一直後ということで仮に50万石として、
1万石あたり250人という例の動員数を使うと、
今川の領地100万石として、2万5000人。(信長公記では4万5000人だが。)
織田の領地 50万石として、1万2500人。最前線には2000人ほどしかいないと
いうのは変ではあるが、鷲津、丸根の砦の守備兵もいたことだからそれを加算しても
5000人か。やはり少ない。

554人間七七四年2016/06/29(水) 18:48:27.12ID:FqzPSBE/
信長公記でも信長に直属し義元軍へ攻撃を掛けた部隊の兵数が2千ちゅうだけで全軍とは言ってませんね

555人間七七四年2016/06/29(水) 19:21:35.17ID:zIJbp/ne
やはり、前夜の作戦会議?で、家老たちへ総動員の号令をかけずに
おしゃべりだけして解散してしまったせいかなあ?。
朝になって信長だけ突っ走ってきても、人数が足りなかったか?。
総動員をかければ農民を足軽として、1万人ぐらい揃うだろうけど、そんな農民上がりの兵は
今回、信長はアテにしなかったのか?

556人間七七四年2016/06/29(水) 20:40:45.42ID:6SY9tsaD
>>551
小田原征伐時点での徳川家の石高は140万石
一万石辺り700人って徳川だけで10万近くの軍勢を率いてしまうことになるが・・・

557人間七七四年2016/06/29(水) 21:11:11.71ID:FqzPSBE/
蔵入地の空除分があるので減りますが軍を2つに分けても次々に城を落とせていけるだけの大軍ではあったのはたしかでしょう

558人間七七四年2016/06/29(水) 22:26:42.04ID:EbP7cFJr
小田原の陣で根こそぎ動員した北条でさえ一万石辺り400〜500程度
攻め手は兵糧調達等の制限があるので守り手より動員率は低い

559人間七七四年2016/06/29(水) 22:33:46.35ID:OzqDvftU
織田が1万で今川が2万ならこんな感じ


丸根 、鷲津砦など    佐々の突撃部隊           信長主力
■■2千          ■■■3千               ■■■■■5千
□□□□□5千      □□□□□□□□□□1万     □□□□□5千
松平等の攻城軍     今川主力                義元本陣

560人間七七四年2016/06/30(木) 00:04:40.35ID:wH6RRXLY
倍の相手に同数の戦いにまでもっていった素晴らしい戦術って言いたいのかな?
織田に関して厳しいよなあ
逃げ遅れた奴が討たれた手取川は織田の主力全部負けたみたいに言われるのに

561人間七七四年2016/06/30(木) 07:34:01.82ID:FKEmH3TI
>>546の 老兵や、傷をして身体が不自由になった兵 というのは、
城に守備兵として配備しておくもので、人数のあたまかずはあっても
隣国への遠征や奇襲に使える兵ではない。
織田軍の2000は精兵といったところか

562人間七七四年2016/06/30(木) 21:13:15.05ID:PXSs7FKY
>>559の続き
織田信長は戦力の逐次投入をやったわけだ
本来なら愚かな戦術だが敵兵力を一時的に分散させる効果がある

最後の5千対5千でも戦力の逐次投入をやったかもしれん

5千対5千


第一陣        敵が第一陣に喰らいついたら移動   更に移動して最後の突撃部隊
■■2千       ■1千                     ■■2千
□□□3千      □1千                     □1千
今川は負けじと                           義元の残り兵力
多く出してくる   

563人間七七四年2016/06/30(木) 22:02:15.45ID:FKEmH3TI
現場にいた織田軍の家老たちが、「兵が(今川よりも)少ないのがわかってしまいます」といって
細い道を進むのを嫌がっただろ。5千対5千という設定は無理。

564人間七七四年2016/06/30(木) 23:00:00.55ID:j0uTSAqT
信長公記は桶狭間の戦いを天文廿一年とか書いてんだよな
明らかに間違ってんじゃん

565人間七七四年2016/06/30(木) 23:32:28.90ID:1OctjyR8
石高的に考えれば、お家の一大事という名目で根こそぎ動員を行える信長は
2万近く兵力を徴兵することは難しいことじゃない。
ただそれだと軍紀物としては面白くないから1万以下ということにしたんだろうな

566人間七七四年2016/06/30(木) 23:47:09.24ID:j0uTSAqT
良質の史料とされる信長公記が年号の間違いをしてる一方で甫庵信長記は桶狭間を永禄3年として正確な記述がなされている謎
信長公記の桶狭間部分はそのまま鵜呑みにして引用するには注意が必要

567人間七七四年2016/07/01(金) 00:04:29.10ID:a8J5EL+l
そもそも信長公記首巻って牛一が書いたものじゃないだろ
信長生誕〜1567までは怪しさ満点

568人間七七四年2016/07/01(金) 05:08:15.79ID:US1hT5t0
信長公記 首巻って牛一が書いたものじゃない
という珍説が登場か?
自筆本が見つからず、全て他人が書き写したものが現存しているけどな。

569人間七七四年2016/07/01(金) 06:09:02.01ID:Dg+devry
信長公記の桶狭間の間違った年号の記述はなぜか強調して三回も書かれてて、もはや写し間違いとかそういった類のものじゃ無いよね

570人間七七四年2016/07/01(金) 06:35:01.19ID:US1hT5t0
信長公記の首巻って、「一、…」と始める箇条書き
で書かれているから、
メモ書きからの集大成なんだろうけど、
首巻でも、さらに後年になってから書き写された首巻では(天理本の首巻)
間違った年号の記述のうち二回は削除されている。残った一回は削除モレか。

誤った記述の年号は、他人が書き加えたのだろうという説もあるがそれでは都合良過ぎる解釈だ。
ただ、桶狭間の年号だけでなくその前後の記事もまとめて年代がズレてしまっているから、
メモカードの整理間違えで、牛一の勘違いの可能性はある。

571人間七七四年2016/07/01(金) 06:51:08.13ID:US1hT5t0
信長公記の桶狭間の間違った年号について
http://yogokun.my.coocan.jp/okehazama.htm

572人間七七四年2016/07/01(金) 11:46:54.76ID:dCEZFJIB
今川は領土支配してからが長いし、検知も出来てるぐらい権力が強い
対して織田は尾張平定から間も無く検知も出来てないし、戦乱で荒廃してるのは明らか
今川の動員力と同列には置けない
で、平定したばかりの土地でみんながみんな織田のために動くわけ無いし、美濃に対する防衛もある
紙切れ一枚とはいえ今川は後背を同盟で固めてる

太閤検地との比較で言えば、織田は差出検地で現状追認、太閤は権力を確立してからは土地所有関係を整理して支配を強めてる
尾張一国程度の権力と太閤のそれじゃ同じに見れない
だから当然織田の動員数も今川の動員数も割り引かないとならない

言われてるような二千だか五千対二万五千三万という規模は否定されるけど、比率はそんな変わらんのじゃないか

573人間七七四年2016/07/01(金) 12:27:50.75ID:Dg+devry
1600年人口分布では尾張一国で駿河、遠江、三河と同等かそれ以上の人口がいるよね
尾張は経済力にしろ人口にしろ全国トップレベルの豊かさ

574人間七七四年2016/07/01(金) 20:30:50.95ID:fzwkPrTW
織田軍10000vs今川軍15000くらいだろ

575人間七七四年2016/07/02(土) 07:29:50.46ID:Z7SQmxOL
>>574
敵はそんなにいるのに、攻め手はそれっぽっちで今川義元が親征したの?
そんな、とんでも資料があるの?

576人間七七四年2016/07/02(土) 07:48:56.75ID:BADtWmmx
あるには・・・ある。三河物語な。
偵察にいった兵が、織田軍の兵士は少ないと報告したが、
高所から低地をみると、相手の人数が少なく見えるものだと、
たしなめるシーンが書かれている。
織田軍は意外と人数が多かったので、織田軍の先頭の兵が2、3人ずつ
(今川軍が布陣している)山際を登り出したのを見て、
「急いで退却しろ!」と言い、クルマの水跳ねみたいな横殴りの向かい風の風雨も
あったので、逃げろ逃げろの大合唱になって総崩れを起こした記述になっている。

ただ、この三河物語はあまり資料としては信用されていない。信長公記に比べるとな。
奇襲迂回のほあん信長記を読んでそれを三河物語に反映させたのではないかと疑惑があるシーンだ。

577人間七七四年2016/07/02(土) 07:49:34.28ID:XQJvugft
脳内脳内

578人間七七四年2016/07/02(土) 08:38:10.67ID:kcJawX+J
>>573
その調査の段階ではそうだったんだろう
桶狭間時点では話は別だけどな

579人間七七四年2016/07/02(土) 08:44:42.93ID:cpEqIU6d
大規模な人口の移動もないし大体は同じだろ

580人間七七四年2016/07/02(土) 12:42:44.06ID:s63+8af1
>>576
資料としては信用されて無いかもしれんが
状況を考えると充分説得力がある描写だな

581人間七七四年2016/07/02(土) 14:08:44.35ID:b9JyihsF
津島湊とか熱田湊もあるしな
もしかして太平洋側の東北から東海にかけての物資を、
京に運び込む前の集積地だったりもしたのかな尾張って

582人間七七四年2016/07/02(土) 14:14:41.47ID:b9JyihsF
581は573、578、579のレス

583人間七七四年2016/07/02(土) 22:11:10.47ID:ARfxvhS6
義元から織田軍に攻め込んで討ち取られた説はまだか

584人間七七四年2016/07/02(土) 23:28:06.87ID:BADtWmmx
義元は織田軍の動きをみているから、かなりの最前線に居たことは確かだ。
一方の信長は陣頭指揮しているほどだから、両大名ともにかなり近い位置にいたことになる。

585人間七七四年2016/07/03(日) 20:15:50.77ID:LgtTlp5O
>>581
太平洋側の東北地方から物資を運ぶ際は日本海側を航行し、
敦賀市に卸してから琵琶湖経由で京都に運んでた

586人間七七四年2016/07/03(日) 20:40:22.69ID:6o/qSF94
遠州灘と熊野灘は海路の難所で有名だったからな

587人間七七四年2016/07/04(月) 01:12:51.09ID:alzE4xYE
東北に米を売りに行く船を北条が捕まえて米を買い上げてる
この船、少なくとも関東以西から来てるけど、帰るときにまさか空荷で帰るわけじゃないだろう
という事は、太平洋の海運も少なからずあったということ
ついでに言えば海賊がいた事も、海運が頻繁だったことを示す

588人間七七四年2016/07/04(月) 20:21:43.66ID:x+ehfemp
東北に米を売りに行く船

って何だよ?。コメの生産地に米を売りに行くのか?。
米じゃなくて、海外からの輸入品とか関西方面からの文化の調度品とかだろ。
関西からの船が江戸まで(徳川家康が来る以前の江戸)往来していたことは判明している。

589人間七七四年2016/07/05(火) 09:02:54.07ID:1q4qgJ/o
東北じゃなくて品川湊だったわ

東北は今でこそコメの生産地だけどな
http://www.reigai.affrc.go.jp/zusetu/reigai/kako/history.html
新潟の越後もか
不足して需要が高まって価格が跳ね上がってる東北に太平洋側の米がいかないはずあるまい
現に難所があるはずの太平洋経由で西国の米が関東に行ってるんだし

590人間七七四年2016/07/05(火) 22:21:13.09ID:vN0tn42a
西回り航路の方が安全で近いのに
なんでわざわざ危険で遠い太平洋側を通るんだよ?

591人間七七四年2016/07/06(水) 10:29:22.55ID:oY3B37zb
何でってそっちの方が儲かる人がいたからでしょ
イスラムに香辛料ルート抑えられた欧州勢がアフリカ回って東南アジア行き着いたみたいにね

592人間七七四年2016/07/06(水) 10:51:52.60ID:isKXWEFJ
日本海側に比べて港使用料が半額だったりしたからな
半額じゃないと通ってもらえない程度ともいえるが

593人間七七四年2016/07/06(水) 12:39:55.08ID:zrM0mQfI
何の話だよ?

594人間七七四年2016/07/06(水) 16:50:16.26ID:55wXx5Qx
奥州から京都へ、陸路じゃなくて海路のときは、日本海ルートを使う。
夜間航行は当時あぶなかったが、茨城や千葉は砂浜が長くつづくので、
港につかないうちに夜になってしまって危険だから。北西の風に吹かれて岸沿いから
遠く沖合まで運ばれてしまうと、遭難してしまう。
その点、日本海ルートなら縄文時代からすでに青森まで通じていたから、そっちの方がはるかに
安全。

595人間七七四年2016/07/06(水) 17:43:27.13ID:oY3B37zb
>>592
太平洋側の大名領内の巨大な市場の需要を満足させるために以前よりも商人という存在が必要になった
対して日本海側はあまり巨大な市場が無いから既存の供給システムで満足していたわけですよ

>>594
なら関東からのコメは来れるね

596人間七七四年2016/07/06(水) 18:01:37.67ID:9KG2C8Qa
桶狭間合戦から離れすぎ

597人間七七四年2016/07/06(水) 22:45:44.13ID:yrdG/PPx
>>595
当時は日本海側の大名家の領地がメイン市場だよ
東北の太平洋側に位置する大名はせいぜい北から
南部、大崎、葛西、相馬くらいしかいない。
あとは小勢力の豪族が割拠してただけ

598人間七七四年2016/07/07(木) 00:33:39.56ID:mJ15krSI
>>596
これ関係ないようでいて関係あるよたぶん…

599人間七七四年2016/07/07(木) 01:54:13.14ID:jEfEn5Pz
千葉を跨ぐと効率が悪い
>>594の言うとおり太平洋側ルートは千葉で分断されてる

600人間七七四年2016/07/07(木) 12:52:26.89ID:mJ15krSI
尾張がなんであんな豊かだったのか、港の収入も大きかったと思うんで、この話題むちゃくちゃオモロい

千葉より北、今の福島宮城辺りの物資を京に運ぶ時はどうしてたのかな?
海路の場合津軽半島ぐるりと回ってたん?

601人間七七四年2016/07/07(木) 13:01:16.37ID:3Z6jNwbu
>>600
普通に考えて
@出羽に出る
A上野経由陸路
じゃね

602人間七七四年2016/07/07(木) 14:11:11.04ID:vz0cp2j4
>>597
そっちじゃなくて
今川北条織田あの辺ね
元は太平洋での海運も盛んだったが発端だから
関東から東北は憶測
でもコメが高く売れるなら移送するよなあって
んでコメなんかかさばるから船使うよなあって

>>599
喜望峰ルートも効率悪いけど実際やってたよね

603人間七七四年2016/07/07(木) 16:25:58.83ID:jEfEn5Pz
戦国時代の関東
http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-89-99/hosoyataichan/folder/651900/92/19563992/img_0
川が多い湿地帯だから関東内は河川交通が発達してたんじゃないのか?

604人間七七四年2016/07/07(木) 17:39:20.12ID:ifLAH715
今川は大高城鳴海城の後詰めと同時に熱田津島の織田の資金源も
断ちに来たと考えられるね

605人間七七四年2016/07/07(木) 21:45:36.21ID:8Fz8RNw1
徳川家康が入る前の江戸には、伊勢屋という店が多くあった。伊勢すなわち尾張の国から来た
商人が船で江戸と行き来してたわけ。
秀吉が家康に江戸を本拠地とするよう指図したのは有名だが(小田原じゃなくて。)、
伊勢湾や大阪湾での流通について詳しい秀吉なら、江戸が便利な土地だということは
現地に行ったことが無くても、地図を見ただけですぐわかっただろう。
家康は岡崎城だの浜松城だので、運河や河川交通については疎かったしな。

6066002016/07/07(木) 23:18:33.92ID:mJ15krSI
>>601
なるほどサンクス
出羽に出るのは山道大変だし、上野へは行く先々でその地の国人に邪魔されそうだけど、
運送ルートとして一応はあったっぽいね

607人間七七四年2016/07/08(金) 09:50:41.55ID:IMiMl9Jr
福島/宮城辺りの物資を京に運ぶ時は、定期航路は無かったが、
たまに貢ぎ物を運ぶくらいなら太平洋側回りでも行くには行けた。
大きな船を使う必要があり、小舟とかは無理。戦国時代なら東南アジアのシャムまで行くくらい
だから、九十九里浜や鹿島灘くらいなら難所とはいえまだ容易な方。
ただ大きな船を使う必要がある。
銚子港の整備は家康の時代なので、それまでの時代でも銚子の地の有用性はわかっていた。
北畠親房は家伊勢国大湊から海路東国へ渡ろうとするが、暴風にあって常陸国へ上陸。
たんに人間が京都まで行くだけなら、船ではなく徒歩で行く。東海道よりも、中山道の方が近い。
前田けいじが京都から会津若松まで行ったときも中山道。

608人間七七四年2016/07/08(金) 12:48:35.71ID:M+C7K4UL
ここのスレオモロいな〜 あとみんなよく知ってるな〜 感謝感謝

609人間七七四年2016/07/08(金) 23:45:55.49ID:xa2z1Sj3
戦略物資の米を輸出してまで大名が欲しがった物って何?
未開の東北にそんなものがあったの

610人間七七四年2016/07/09(土) 00:00:28.05ID:qoV6K8hb
普通下りは米を換金して買い物して持って帰るもんやろ

611人間七七四年2016/07/09(土) 12:12:41.72ID:zj2drtQ4
東北からの輸出品は、金銀やコメだな。
コメが豊かだからという意味ではなく、農民に食わせなくても取り上げて、京などで換金する。
行く途中でもコメ食うからな。宿場町などはまだ整備されていない。

帰り道では、京などで品物を買い込む。欲しいものはいくらでもあった。

612人間七七四年2016/07/09(土) 12:15:47.21ID:zj2drtQ4
桶狭間と話題が離れ過ぎているが、大高城は港をおさえる城な。
http://www.mb.ccnw.ne.jp/t-kids/wakuwaku/sozai/okehazama_map.gif

613人間七七四年2016/07/09(土) 17:59:34.48ID:46fjY0eT
1551年 鳴海城の山口教継が今川に寝返る
1560年 桶狭間

如何せん義元の動きが遅すぎる
どうせ信長なんか大したことないと高を括っていて、信長に迎撃能力が備わってしまってから慌てて大軍を率いてきた感があるぞ

614人間七七四年2016/07/09(土) 18:38:30.05ID:zj2drtQ4
信長は永禄2年(1559年)ごろに鳴海城の周囲に丹下砦、善照寺砦、中嶋砦を築いて封鎖
したので、永禄3年に桶狭間合戦は起きたので、義元は迅速。

615人間七七四年2016/07/09(土) 18:48:54.74ID:8EpDDbf5
別に、義元は鳴海城を放置してたわけでもないし、
鳴海城が手に入ったからといって織田潰しが発動するわけでもないし、
鳴海城を失った当時の信長に迎撃能力が無かったわけでもないし

桶狭間の戦い勃発は、信長の鳴海城への攻勢に対するカウンターとして
義元が大軍を出動させたことによるわけだから、
その年に発生したのは信長の行動がもたらした結果であって、
義元の都合じゃない

616人間七七四年2016/07/09(土) 19:18:16.68ID:zj2drtQ4
でも>>613は結果的にするどい指摘になっている。桶狭間合戦について信長公記が
天正21年と誤記している件についてだ。その年と大変近くなる。
桶狭間は永禄3年5月19日で、信長公記は天文21年5月17日だとされてて8年の差がある。

>>1551年 鳴海城の山口教継が今川に寝返る (天文20年)

山口教継が義元に殺害されてて、義元はそんな態度だから天罰がおきたのだ(つまり山口を
大事にしろと言ってるわけ)と、牛一は2カ所にわたって同文を掲載しているから、
このあたりの事情により、天文21年の記載は他人が間違えて追記したのだろう、という説がある。

617人間七七四年2016/07/09(土) 19:41:27.95ID:Y/YftH02
>>614で否定されちゃうけど

618人間七七四年2016/07/09(土) 20:47:49.77ID:46fjY0eT
駿府は遠すぎた
義元が岡崎あたりに居城を移してれば尾張の内輪もめ状態がつぶさに解ったものを・・・
例えば信長が清洲城を囲んでるときに兵を送れば容易に尾張で主導権を握れた
タイミングが命さ
信長・秀吉・家康らは必要に応じて居城を動かしてる
義元の敗因は駿府から居城を移さなかったことだな

619人間七七四年2016/07/09(土) 21:43:52.36ID:ns9rk5/h
藤本正行は軍が崩れたときに退却せず義元が旗本を自ら指揮してその場に踏みとどまれば勝負は互角、あるいは逆転したと思われる、としてるな

620人間七七四年2016/07/09(土) 21:56:54.78ID:WDW+VzwZ
>>609
関東以西では手に入れにくい、昆布とでかい馬と季節物の鮭

621人間七七四年2016/07/13(水) 15:19:34.28ID:iKBw21V9
中国の侵略が深刻なのに、首都を沖縄に移転しない現行政府ってバカ?

622人間七七四年2016/07/13(水) 16:21:56.96ID:E2FRBu/V
>>621
クスリ飲んで寝ろ

623人間七七四年2016/07/13(水) 20:30:13.40ID:TBeW/wn4
>>621
それやると今度は北海道が侵略される
つかすでにもう、中国人移民が北海道に大量に住み着き、人口侵略始まってるらしいけど

義元が居城移さなかった理由はこれと被るんじゃね

624人間七七四年2016/07/14(木) 03:22:57.64ID:EqWsSGvG
義元は浜松より西に居城を移すべきだった。。。
http://iup.2ch-library.com/i/i1676417-1468434104.jpeg

625人間七七四年2016/07/14(木) 07:28:11.46ID:gsTyxJTG
>>624 それはそうなんだけど、武田は北信濃に兵を進めつつも本拠地は甲府のままだし、
北条は上野(群馬)方面に領土を拡張しつつも、居城は小田原のまま。
義元はむしろ一般的な判断だろう。
例外は、本拠地をちょこちょこ変えまくる信長ぐらいだろう。

626人間七七四年2016/07/14(木) 07:37:54.91ID:oerIXM9N
本拠地移転は信長だけがやったことじゃない
用途に応じて移転は他の大名も普通にやってますな

627人間七七四年2016/07/14(木) 09:35:21.20ID:3+jGo4Dy
直近のレスだけ見てると、
織田の守備兵力だけを見て、僅かな兵で尾張征服の親征を実施したバカ義元が前提なのか?

尾張征服が目的なら前線基地と言わず、拠点毎移動もありだろうが
足利幕府開府以来の今川の拠点を移動するなんて常識的には不可能だろ

628人間七七四年2016/07/14(木) 09:37:11.20ID:n76eXAwS
きちっとした本拠地がある守護系は本拠地動かすメリットがリスクより少ない

629人間七七四年2016/07/14(木) 12:16:58.59ID:gsTyxJTG
では、義元・北条・武田以外で、本拠地そのままの有力大名。
上杉謙信 春日山城のまんま。
佐竹 常陸太田の従来からの城のまま。(水戸城移転は末期)
会津若松 伊達は移動してるわな。
朝倉 先祖代々の地のまま
毛利 これは移動してる。
長宗我部 高知の城のまま
島津 そのまま

領地をどんどん拡張している大名は移転しがちだが、拡張しても移転しない大名の方が多いな

630人間七七四年2016/07/14(木) 12:23:06.61ID:aP4CPMQM
島津は貴久の時に移転してる

631人間七七四年2016/07/14(木) 12:45:21.24ID:LZK5iOab
鳴海城周辺の織田軍を後退させる作戦を
尾張征服とは言わない

632人間七七四年2016/07/14(木) 15:13:23.00ID:gsTyxJTG
鳴海城も大高城も包囲されてしまっている。助けにいかなくちゃ落城してしまうだろ。
今川軍が出動したのはそれが原因。

信長が尾張を統一したので、それまで勢力を拡大してた今川軍は
逆に劣勢の立場になっていた。

633人間七七四年2016/07/14(木) 15:53:59.98ID:LZK5iOab
>>624
それなあ、現在の地図に重ねてるから、
桶狭間の戦いまでの政情を考察するのに不向き

当時は未だ、浜松は要地ではない
分捕った遠江の領国経営の中継は二俣を通していた
元々の遠江の中心都市・見付を領有しているのは堀越氏、
浜松を領有しているのは飯尾氏、どちらも花倉の乱では義元の敵になった家
義元は彼らに信用を置かず、味方だった二俣の松井氏を重用した

三河経営の中継拠点は吉田。現在の豊橋
今川公国の首都が駿府なら、二俣と吉田が副都
今川の領国全体の中枢が置かれたわけではないにしろ、
吉田には三河一国を経営する機能が集約されていた

松平広忠が今川傘下に入ったことから、
今川本来の領地から随分と西ばかりに勢力が延びたが、
西方をないがしろにしていたわけでも感心が低かったわけでもない

634人間七七四年2016/07/14(木) 18:03:35.62ID:3+jGo4Dy
>>632
じゃあ、たかが救援の為に、本拠地を三河に移せなんて書いてる人がいるの?


で、義元自ら出陣して討ち死?
実は、今川家ってその頃既に破綻寸前?
もしくは、義元は通説通りのバカ?

635人間七七四年2016/07/14(木) 18:10:59.41ID:EqWsSGvG
武田は山の中を彷徨
北条は広い関東平野
今川の目標は尾張、ただただ西に進むだけ

636人間七七四年2016/07/15(金) 21:37:55.07ID:SNuD3sL0
>>629
逆に言えば移転をしなくてもいい立地を有してるから勢力を伸ばせるわけで

637人間七七四年2016/07/19(火) 18:41:12.83ID:OkJBoJUJ
負けた武将はみな無能呼ばわりするのはどうかと思う。それと二代目も。

638人間七七四年2016/07/19(火) 18:58:14.41ID:qn9FxXa4
>>637
信長スゲェ信長マジ神の反動だろ
信長が普通であるなら、どう贔屓目に見ても、今川義元は無能以外に手加減した言い方が無い
朝倉義景、浅井長政あたりは、戦争が向いてない
武田勝頼は信玄の財産を食い潰した無能(勝頼が無能なら今川義元は虫螻以下というのはおいといて)
相対評価でしかない人間社会において凡人に劣るのは無能以外の何者でもない

639人間七七四年2016/07/20(水) 20:25:42.44ID:2gXQhhxp
信長が付け城を築く

義元が救援のために沓掛城に入る

義元が沓掛城を出て先遣隊と合流を図る

信長 「くるっとまるっとお見通しだぜ桶狭間」

640人間七七四年2016/07/21(木) 12:33:44.16ID:sIAMw4/U
>>639 信長が付け城を築く

の前
信長、何が理由なのか今川に経済制裁
(今川は京の物資を尾張経由で仕入れてたから、信長に物流止められた途端物不足)
  ↓
困った今川、熱田に進出を試みる

どっかで見た説だけど、これ本当だったら、完全に信長の方から仕掛けてるよな
信長が用意した罠にまんまと嵌っちゃった義元公ってことになるんかな?

641人間七七四年2016/07/21(木) 12:53:33.37ID:qW3Qtzb/
信長が仕掛けるも何も親父の代からいがみ合ってるじゃん

642人間七七四年2016/07/21(木) 18:28:46.41ID:6fRcOhsQ
宮下漫画だと今川が三河の諸城を攻略して尾張を経済封鎖してた感じに描かれてたけど

643人間七七四年2016/07/21(木) 18:35:59.27ID:ff/4iI/E
漫画がどうしたって

644人間七七四年2016/07/21(木) 19:02:34.25ID:sIAMw4/U
宮下漫画すごいんだけど、所詮漫画は漫画ってことなんかな
実際の尾張は、今川に経済封鎖されたところで痛くも痒くもないってことだろうね

645人間七七四年2016/07/21(木) 20:49:25.26ID:fAw5sGvj
今川も織田も、それぞれ海路を重視してたしなあ

646人間七七四年2016/07/22(金) 10:20:50.62ID:MV0MvU1K
>>644>>645
それで?
三河を押さえた上での経済封鎖を事実とするなら、信濃経由の陸路も斉藤のいる美濃経由しかなくなるし、
上総経由の海路は完全封鎖だろ
尾張の農産物を京都に売りさばくことは出来ても、それだけだろ
話としては纏まってる

647人間七七四年2016/07/22(金) 12:57:19.13ID:TtjH/5ZZ
尾張は自国の農産物京で売る→京で手工業製品買う→生活必需品全部揃って尾張安泰

これじゃダメなの?
ただそれならそれで、尾張の商人は美濃をどうやって通過してたんか分からんけど

648人間七七四年2016/07/22(金) 18:01:31.55ID:MV0MvU1K
>>647
織田が自給自足で交易なんて必要としない国家ならそれで良いだろうな
陸路で伊勢に持ち込んで終わりだから。
農家のあがりだけで、金満織田が成立するわけないだろ

美濃に関しては、美濃の総意が、今川と組んでの織田殲滅にあれば、経済封鎖に参加するだろうが、
現実似非斉藤じゃそこまでコントロール出来ないだろ
尾張が海路と三河を封鎖されたなら、美濃商人は逆にビジネスチャンスだと思うんじゃね?

6496472016/07/22(金) 22:22:47.10ID:TtjH/5ZZ
>>648
ん〜わるい、話がよく分からない
まず京尾張間で売買あったら、その時点でもう自給自足じゃなくね?と思ったり、
尾張が三河封鎖されて困ること(そっち方面から調達したい物ってどんなのがあったん?と思ったり…

まあ織田がリッチだったのは確かに農作物だけでなく、港の収入(どういう船が入港してたかは分からん)、
あと元神官家の名残で、油座管理人?座主?(今風にいえば中部電力本社がある感じ?)
としての収入も莫大だったって話は見たことある

650人間七七四年2016/07/30(土) 07:22:32.17ID:MRnRzpnJ
疲労した部隊と誤認して攻撃したら義元本陣だったって話
信長の戦況判断の誤りが幸運で大勝に化けただけの合戦

651人間七七四年2016/07/30(土) 11:55:35.10ID:pLESF3RX
1551年 信長が家督を相続する。鳴海城の山口教継が今川に寝返る。
1552年 山口教継を攻めるが勝敗つかず。鳴海城を一旦諦める。
1555年 清洲城を手に入れ下四郡の主になる。
1559年 織田信賢を攻め上四郡も手に入れ尾張を統一。
 同年 鳴海城と大高城の付け城を築く。
1560年 桶狭間の戦い。


桶狭間の戦いは尾張を統一した信長が仕掛けた戦いだな。
義元はおびき出されたんだ

652人間七七四年2016/07/30(土) 16:34:23.84ID:3S1/upjJ
それは結果論

付城を築いたのは鳴海城や大高城を奪取するためであって、
義元をおびき出すためではない

653人間七七四年2016/07/30(土) 23:29:47.12ID:pLESF3RX
付城を築いたってことは長期戦
義元の救援は十分考えられるし信長は考えなければならない
義元が鳴海と大高を見捨てれば信を失い離反者が出てくる
救援に来なければ来ないで信長の勝ち

654人間七七四年2016/07/30(土) 23:39:46.03ID:pjvsbVRh
付け城が築かれる前から今川は織田を攻める予定でいたよね

655人間七七四年2016/07/31(日) 08:10:46.55ID:PQ8Hl6kn
>>102

この当時、このレスした人を私は虚言癖のあるバカだと思っていました。
今思うと、無知だったのは私でした。

>>102氏にお詫びします。 ごめんなさい。貴方が正しかった。
案外、桶狭間も下らない説が正解のような気がするから不思議だ・・・。

656人間七七四年2016/07/31(日) 08:16:05.69ID:/kJloSKm
つまり、馬にも乗れない公家かぶれのボンクラ義元が、
上洛中に、戦場であることも忘れて一服してて殺されたと?

657人間七七四年2016/07/31(日) 20:22:28.27ID:FFsB8ldq
当時信長が尾張をどの程度支配していたのか、石高はどのくらいだったのか、
本当のところ信長は軍勢をどのくらい集められたのか。

658人間七七四年2016/07/31(日) 20:48:41.08ID:yzm9L0zP
>>657 自分で答えを書いてみ?。ただのつぶやきか

659人間七七四年2016/08/01(月) 19:43:53.28ID:Cu2Qijbr
それでは書かせてもらいます。信長の尾張での石高は40万石程度で軍勢は1万石で
300人として12000人ぐらい。

660人間七七四年2016/08/01(月) 20:04:23.96ID:i4ZzxsQW
>>659
まだ統一したばかりで奪ったばかりの地域から兵は召集出来ないだろうし
そもそも統治がまだ 行き渡っていない
従って、尾張各地に兵を配置しないといけない

信長が動かせた兵は3000程度だと思われる

661人間七七四年2016/08/01(月) 20:47:55.93ID:EUedSONa
>>660
ケチが付けたいだけだろ?
控えめに40万て数字を出してるって宣言してる相手に、貫高の根拠も出さずに3000だとか

今川義元が、とてつもない能無し、
或いはキチガイで戦場で指揮権を自分に集中させ、異常時には自殺するよう臣下に徹底した上で
自身が自殺したとでも言う気か?

662人間七七四年2016/08/01(月) 21:54:10.54ID:XPGMOTjt
牛一も織田の兵数を少なく見積もりたいもんだから天文21年に起きたと嘘の強調してるよね

663人間七七四年2016/08/01(月) 23:02:52.83ID:FvgIvCFH
織田方の砦が短期間で落ちてることを考えれば、今川方の方が戦力で優位に立ってたのは否定できないと思うが。
戦力が拮抗してる、ってなると、砦を見殺しにして家臣を無益に死なせた信長は無能って話になる。

664人間七七四年2016/08/01(月) 23:08:27.73ID:Cu2Qijbr
ストーリーとして考えるならば、少数の軍勢で多数の敵を倒すというのが
面白いのだろうが、3000ということはないだろう。1560年の桶狭間の戦いの
あと同じ年に信長は斎藤義龍と戦っているのだから。

665人間七七四年2016/08/02(火) 04:21:59.08ID:4PuT9YHh
>>664
敵は今川だけじゃなく斉藤もいたわけよ
桶狭間に出兵出来た兵数は対斉藤や西の豪族などへの守備兵を引かなあかん

松平と同盟し、伊勢の豪族と結んで対斉藤に集中した出兵数と同じな訳がない

666人間七七四年2016/08/02(火) 07:18:40.17ID:6HrxYlRX
木曽川から清洲城まで10kmちょっと1日勝負とみていた戦ならギリギリまで引き抜ける

667人間七七四年2016/08/02(火) 07:21:56.25ID:6HrxYlRX
それに小城の1つや二つ斉藤に落とされても今川に勝つことが優先される
信長は優先順位の見立てがずば抜けてる

668人間七七四年2016/08/02(火) 09:18:37.71ID:EbtPf8po
むしろあの地形だと兵数は少ない方がよかったのでは?

669人間七七四年2016/08/02(火) 10:05:24.06ID:k7LRjBGO
尾張の兵だけでなく苗木勘太郎なんかも織田方として参戦してたりするしね

670人間七七四年2016/08/02(火) 12:51:13.41ID:oyoANvVX
>>667 >優先順位の見立て
すごい同意
物事の処理能力やたら高かくて日本統一まで近付いたのも、きっとこれ

671人間七七四年2016/08/02(火) 14:06:09.81ID:s4AMs44u
運と経済力です

672人間七七四年2016/08/02(火) 18:23:58.43ID:4nNi8w5b
信長は今川相手に全力を傾けた。義龍まで気にしていなかったし、桶狭間のあとで
斎藤に戦いを仕掛けたのは信長のほうだ。桶狭間の戦いは織田方もかなりの戦力を
もっていたと推定できる。それにその当時は松平との同盟関係はなかった。

673人間七七四年2016/08/02(火) 19:20:14.91ID:oyoANvVX
桶狭間の時もかなりな戦力って、どっから来た兵隊さん?

674人間七七四年2016/08/02(火) 20:19:06.96ID:glEkUCpQ
1万前後の動員は可能だっただろうが
既に書かれているように対斉藤の備えや出兵に消極的な豪族も居ただろうから
いきなり全兵力を投入できたとも思えない
3000は信長が直接指揮した直属部隊で後続部隊が居たとも考えられる

江川達也の漫画で桶狭間の話を読んだ事があるんだが、
その話では続々と織田の後続部隊が現れた為に恐れをなして今川が退却を始め
それを信長が追撃し、総崩れになったという風に描かれていた
ありえない話では無いと思うが

675人間七七四年2016/08/02(火) 21:24:40.70ID:oyoANvVX
フムフム

676人間七七四年2016/08/03(水) 19:20:35.07ID:8b+qjceN
消極的なのも嫌嫌なのも織田、今川双方にいただろう。

677人間七七四年2016/08/04(木) 07:41:14.46ID:kfD42Jl/
善照寺砦は「要害」とあるので、他の砦に比べれば拠点としては充実しており、多くの兵がいた。
信長は清洲の城という後方にいたわけだが、国全土から総動員をかけたわけではなく、
熱海神宮でいったん集結したあと、善照寺砦に入って前線の兵と合流。
つまり、総力をあげれば1万前後の動員は可能だっただろうが 、諸事情からそれはせず、
信長の直属部隊と前線に配置した兵だけで、押したり引いたりの機動戦をやろうとしただけだろう。
だけどたまたま強風豪雨の追い風があったうえに、義元の本陣がすぐ近くに居たものだから
押したり引いたりどころか猛烈な全力攻撃になっただけ。

678人間七七四年2016/08/04(木) 07:51:58.66ID:kfD42Jl/
『信長公記』では、潮の干満時刻をうまくねらって丸根・鷲津攻めに活用されていることから、
織田の本体が援軍にやってきたらやべえ!と今川勢が思っていたことがわかる。つまり

織田軍が来ると困る=織田の後詰めは兵力が多い=今川軍は兵力がじつは不足している

と判断できるからだ。現に三河物語では織田軍は5000人としてあったはず。

679人間七七四年2016/08/04(木) 11:57:00.82ID:nQqPrnnk
留意すべき点がある

本来、義元の本陣を守る役の松井・井伊隊が、
本陣から離れ、義元本陣が手薄になった絶妙なタイミングで
信長の襲撃が発生したこと

織田方の佐々・千秋隊が抜駆けで義元本陣に挑み、
返り討ちに遭って潰走。松井・井伊は佐々・千秋の敗残兵を追撃に出ていた

質問掲示板などで、この展開を信長の作戦ではないかと疑義する信長信者がいるが、
作戦説は完全に否定されている
佐々・千秋とも将は討死しているにも関わらず、
両部隊の生き残りに対して信長は後に叱責している
信長自身、偶発的な展開だったと評している

680人間七七四年2016/08/04(木) 14:13:15.52ID:VVItbMXr
>>679
その説から見ると信長の作戦じゃないのは確かで
義元側の作戦って思うのが普通なんだろうな

義元を囮にして、信長方を釣り上げて殲滅をかけようとしたら、
信長方の将士が今川方とは比べ物にならないくらい強かったってヲチかな

681人間七七四年2016/08/04(木) 15:04:33.86ID:bYBreA8r
いや信長の戦況判断の間違いがたまたま勝ちにつながっただけだよ
藤本正行の信長の戦争あたりでも読んだらいい

682人間七七四年2016/08/04(木) 16:31:01.66ID:kfD42Jl/
>>679 ウム。
>>義元本陣が手薄になった絶妙なタイミングで 信長の襲撃が発生したこと

確かにそのとおりだ。松平元康(徳川家康)はコメを大高城に運び入れて、砦の攻略も徹夜で
やっていた。そのため疲労して、この大活躍した部隊は、大高城に入って休憩していた。
そして、信長は、その疲れた部隊をねらって攻撃を仕掛けるつもりだったが、目の前にいたのは
疲れた部隊ではなく、元気な部隊だったがその代わり人数が少なかった。今川先手主力部隊は
大高城で休憩中。つまり、手薄になった絶妙なタイミングで
信長の襲撃が発生したことは事実だろう。

>>信長自身、偶発的な展開だったと評している

そんな証言あったかなあ?。聞いたことないぞ?。

683人間七七四年2016/08/04(木) 18:54:00.53ID:AGoPNG0a
歴史番組で小国尾張の領主織田信長という照会が複数あったと思うが尾張は面積は
小さいが今も昔も豊かな地域であるからけして小国ではない。

684人間七七四年2016/08/04(木) 19:50:23.93ID:kfD42Jl/
当時すでに50万石以上あるし、商業や流通が盛んな場所だから、小国ではないね。
というか、織田家は先祖代々が正式な守護大名ではない。
美濃の斎藤家と同じく、元の守護の権力を乗っ取ったし、信長の父が死んで分裂はしていた。

685人間七七四年2016/08/04(木) 23:03:51.83ID:1eH1imrE
>>682
やけくそで佐々と千秋が突っ込んでいったとどっかで見たな

686人間七七四年2016/08/04(木) 23:44:53.24ID:ALZGZDsc
信長公記読んでないのかな
信長は義元本隊を
宵に兵粮つかひて、夜もすがら来なり、大高に兵粮を入れ、鷲津、丸根にて手を砕き、辛労して、疲れたる武者なり
と疲弊した部隊と勘違いして攻撃してんだよね

687人間七七四年2016/08/05(金) 03:05:59.51ID:4+7jmA6g
信長公記に書いてあることが全部本当とは限らないからな

688人間七七四年2016/08/05(金) 06:18:07.23ID:6XsrJX6D
最近は信長公記の記述が通説になってんだけどね

689人間七七四年2016/08/05(金) 10:24:45.56ID:c+i+UBD9
信長公記でも義元本隊が疲れてるなんて言ってないよね

690人間七七四年2016/08/05(金) 12:23:53.69ID:mKDfudCC
誰の部隊かは分からないが疲労してると部隊だと戦況判断を誤って、攻撃した部隊がたまたま義元の本隊だったってだけのこと

691人間七七四年2016/08/05(金) 12:59:25.34ID:FmHpujA6
なんか散発的な敵襲があったけど、松井と井伊が追い散らして、
戦線は急速に遠のきつつあるなぁ(緊張急降下)

にわか雨が降り出した。雨具を用意しなくては
(緊張底値。ついでに雨音の所為で、信長本隊の接近に気付かない)

692人間七七四年2016/08/05(金) 13:01:17.82ID:FmHpujA6
と書いてみると、死亡フラグっぽく見えてくる

693人間七七四年2016/08/05(金) 19:05:12.42ID:LNbGmJUK
大将が討たれた戦は他にもある
久米田の戦いで大将である三好実休が主力から切り離されて討たれた

694人間七七四年2016/08/05(金) 19:05:40.00ID:rk97Jy4V
佐々と千秋と信長らが一緒に突っ込んでいったら、信長も討ち死に。おしまい。

695人間七七四年2016/08/06(土) 10:48:37.03ID:f8BE/adh
討ち死にするとは限らん
命を落とす前に撤退するかもしれん

696人間七七四年2016/08/06(土) 11:16:55.16ID:2oNPmXaE
そもそも沓掛城から鳴海城・大高城へのルートが悪い
横っ腹を織田にさらし続ける

697人間七七四年2016/08/06(土) 12:12:44.18ID:zpeHIL3F
鳴海城、大高城のある地域は尾張でも不毛地域と聞く。

698人間七七四年2016/08/06(土) 12:14:15.98ID:zpeHIL3F
間違いた、鳴海でなく沓掛。

699人間七七四年2016/08/06(土) 15:13:41.29ID:BzcqbrpF
>>672
気にできなかった、という方が正しいと思う。
逆に、斎藤義龍は今川の上京軍(反長慶連合軍)に合流する気満々だったぞ。
今川が信長に苦戦した時を見て、斎藤が今川に佐太刀を出し、
高く売りつけるつもりだった。斎藤義龍の不覚は、今川が織田に
葬られる点を考慮しなかったことか?

700人間七七四年2016/08/06(土) 15:58:02.07ID:OvVCD0yM
義元と義龍が誼みを通じてたなんて聞いたことないけど書状とか残ってるの?

701人間七七四年2016/08/06(土) 18:45:21.11ID:2oNPmXaE
沓掛城から鳴海城・大高城へのルートは信長に読まれてる
てか、付け城を築いた段階で今川への迎撃策が出来上がってたんじゃね

702人間七七四年2016/08/06(土) 23:34:21.28ID:CFE9dNO3
>>700 聞いた事ないねえ。書状もなし。
ひょっとして創作した話を戦国板に載せて、かく乱して楽しむ?奴がいるってことかもね。

703人間七七四年2016/08/07(日) 07:56:47.49ID:VOTAK9Cy
斉藤も難しいところなんだよな
織田が今川に潰されたら次は自分
かといって織田に組することもできない

704人間七七四年2016/08/07(日) 16:32:52.42ID:1tW8chkW
>>700
自分も聞いたことない

一向宗や六角家のように、信長と争った勢力の中には
今川義元と誼を通じていた勢力がいくつかあることから、
それらと斎藤義龍が混同されてしまったのではないかなぁ

705人間七七四年2016/08/07(日) 16:52:34.62ID:nJ2AcruE
適当こいただけやろ

706人間七七四年2016/08/08(月) 08:12:11.72ID:RkHuCDT7
今川軍が織田を攻めれば、美濃の斎藤家でも
今川軍の反対方向から織田軍を攻めて、自領の拡大を計るだろう。
今川家から何も相談がなくても、自家にとって得になることだからだ。

南近江の六角家が、北近江の浅井氏を抗争をしたときも、六角家は斎藤家と組んで
浅井家を挟み撃ちにした。窮地の浅井家は織田家と組んで、斎藤家を挟み撃ちにした。
今川と斎藤が織田家を挟み撃ちにしたという文献はないが、織田と斎藤は敵対状態だったからな。
(道三の娘と信長は結婚していたが道三の死後は、交戦状態に突入していた)

ひょっとして、今川が攻めてきているというのに、信長が清洲城に朝までいたのは、
美濃方面を気にしていたのかもしれない。

707人間七七四年2016/08/08(月) 13:52:58.27ID:qJqMfSSH
残ってないだけで斉藤側の動きもあったと仮説立てれば
美濃側の城や砦に守備兵を配置しなきゃいけないだろうし
信長が動かせた兵は2000〜3000程度だろうな

尾張統一しても遠征じゃなく自国に攻められた場合従属しただけの国人や豪族を信用して召集したのかも怪しい

今川からの調略で内通しつつ日和こいてた豪族とか普通にいただろうし
当時は大名と従属していただけの豪族という関係で忠誠心とかないしな

708人間七七四年2016/08/08(月) 13:59:31.75ID:RgfemTSW
斉藤が動くとしたら織田と今川が戦ってヘトヘトになったとき
そこで信長は短期決戦を仕掛けたんじゃね

709人間七七四年2016/08/08(月) 14:08:02.83ID:MAVoiJjo
全部憶測
何の価値もなし

710人間七七四年2016/08/08(月) 14:11:22.22ID:RgfemTSW
憶測厳禁にしたら過去は紐解けない

711人間七七四年2016/08/08(月) 14:57:16.93ID:RkHuCDT7
背後を付くのは、最も一般的な戦法だぞ。
今川は三国同盟をしてあるから背後は大丈夫だけどな。

712人間七七四年2016/08/08(月) 15:03:39.73ID:MAVoiJjo
信長の立場をより困難に演出したいだけだろ
牛一と一緒

713人間七七四年2016/08/08(月) 15:06:44.50ID:lJCdxhAW
でも戦国時代って戦略的な挟撃が成功した事例って滅多にないよね
信長包囲網も失敗したし、越相同盟も失敗したし

714人間七七四年2016/08/08(月) 19:38:09.11ID:YOazEXh8
当時の連絡手段じゃ有効な連携は取れないからな
信長包囲網なんてその最たるもの

715人間七七四年2016/08/08(月) 19:57:35.61ID:qJqMfSSH
信長包囲網は朝倉がちゃんとしてたら成功した

義景があまりにもボンクラ

716人間七七四年2016/08/08(月) 20:39:48.21ID:RkHuCDT7
信長包囲網で、実際に京都近くまで攻め込んだのは、朝倉軍だけなんじゃね?。
毛利は大阪止まり、武田は三河どまりだし、上杉はぜんぜんだし、
朝倉はまだ実行力と地の利がある方だろうよ。義景がボンクラなのは認めるが。

717人間七七四年2016/08/08(月) 23:30:06.73ID:Yjh+PFWI
これからって時に包囲網のキーマンが死んだからね

718人間七七四年2016/08/09(火) 00:37:07.59ID:Uwror1BN
第1次包囲網に上杉と毛利を取り込めなかった時点でダメだと思う。
つか、朝倉・浅井が信長を釘づけにしてる間に何もしてない信玄が一番のボンクラ。

719人間七七四年2016/08/09(火) 03:22:29.19ID:4zRWjH2R
岩村取った時点で中濃、西濃に兵を出しておけばって何度も言われてるな

720人間七七四年2016/08/09(火) 07:35:09.12ID:G/ZdjdOL
今川軍は4万5千人(信長公記)という大人数であることをわざと織田家に伝えて
進軍しているから、
斎藤家も当然知っているはず。
実際には今川軍はそんなにいなかったから、よしみを通じてなくても
斎藤軍が木曽川を越えて同時に尾張領へ侵攻してくれれば、今川軍としても助かる。

721人間七七四年2016/08/09(火) 18:17:47.28ID:gOSOYLSx
今川は尾張を取るつもりでいるのに、斎藤が尾張に侵攻したら撃破するでしょう。
本当に今川が大軍で、織田が少数だったら余計なことはしないし、どちらが勝つか
わからなければ様子見ということ。

722人間七七四年2016/08/11(木) 11:57:36.57ID:ig2dIdot
松井、井伊が義元本陣から離れたからには、
別の残留部隊に周辺警戒を引き継がせねばならないところだが、
天候の急変で遅れが生じた(←これは個人的な推測)
今川本陣に無防備な瞬間が生まれ、
その最悪のタイミングで敵襲があった
(襲撃する側にとっては最良のタイミング)

義元本陣は不意を突かれた形になるため、結果としては奇襲されたことになる
信長は奇襲する作戦を立てていたわけではないため、奇襲戦ではないことも事実

明治時代の陸軍は、とにかく信長を戦術の天才として祀り上げることを目的として、
信長が奇襲作戦を立てただの、義元本陣は桶狭間ではなくて田楽狭間に陣を置いただのと
史料記述を捻じ曲げ、先に結論ありきの都合良い分析結果を発表してしまった

国家機関絡みの捏造論文が真っ当な研究を数十年に亘って遅延させた
また市井レベルでは、義元本陣では酒宴が行われていたという、
鍋島直茂による今山奇襲戦を採り入れたようなバリエーションストーリーまで
考案されるに至った

723人間七七四年2016/08/11(木) 12:49:40.07ID:BMQdj1tO
>>722
天候の急変で遅れが生じた、というよりも、信長の援軍自体が来ないので(遅れていて)、
今川軍も大軍で迎撃する準備をしていなかった、休憩させていた、というのは事実だろう。

なにしろ、信長が城の後詰めに来たのは、鷲津丸根の両方とも落城してから、という遅さ。
通常なら前夜のうちに重臣たちと協議していた時点で、造園を決定していれば
もっと早くから後詰めに来られたはずだが、結果的に遅くきたことで、義元本陣は不意を突かれた形に
なった。

724人間七七四年2016/08/25(木) 10:33:57.35ID:Nq1LLDEc
        【ゲスヨク対サヨク】   自民の時代はほとんど終わっている。間もなく起こる出来事が、国民を解放する。   【株トレーダー対NEET】


   ∧,,,∧
  (´・ω・`) < 近い将来、欧米で株式市場が破綻すれば、マイト レーヤは直ちに出て来られるでしょう。
  (|   |)
   し--J


最初になくなるのは世界の株式市場でしょう。

差し迫る株式市場の暴落は、他の人々が飢えている間にお金を儲けることの結果です。彼らはただ座って待っているだけです。世界を餌にして生きており、何も還元しません。


日本から始まる世界的株式市場の大暴落

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抑制のない成長に基づく現在の経済の終焉を見るでしょう。

日本国民はどう対処すればいいのか。新しい政権は民意を反映し、適切な食糧、住宅の供給、健康管理、教育が最も重要な責任となるでしょう。そして最後に防衛です。
国民の意志を裏切ることは、極端な場合、自殺や殺人にまでつながります。民衆の指導者は職業的政治家ではない人々から見つかるのです。

725人間七七四年2016/09/04(日) 13:06:52.58ID:HOUtv0Fv
>>723
義元本陣の旗本たちまでも乱捕りに夢中になってて
本陣を空けていたのも大きい

726人間七七四年2016/09/04(日) 13:34:09.45ID:F8k8fOha
甲陽軍鑑基準の乱取り強襲説ねえ

727人間七七四年2016/09/06(火) 18:25:08.91ID:q30ychgP
歴史は勝者によって作られる。さしずめ桶狭間の戦いなどはいい例だ。

728人間七七四年2016/09/12(月) 03:44:01.78ID:Rljo8vi7
桶狭間で突撃した先発隊は千秋李忠と佐々政次と岩室長門守の300。
井伊、松井隊が深追いしたのは岩室隊が残存しており、これを掃討する必要性があったから。
彼等は岩室隊に誘い込まれた。
また、この戦いの実績によって岩室長門守は「隠れ無き器用の仁」と評されることとなる。

729人間七七四年2016/09/12(月) 14:45:17.43ID:eSjKvW3t
・鳴海城が織田の砦に囲まれてピンチだった
・今川軍の兵糧もピンチだった
・当時の今川領内は飢饉で同時に大軍を動かせなかった
・まず遠江三河の先方隊が数千程度でまず鳴海城と大高城の救援に向かい今川本体行軍の準備をする
・遠江三河の先方隊が仕事を終えて帰還、義元率いる駿河本体7000が(駿河の最大動員数)の兵糧輸送開始
・駿河本体が無事、大高城に兵糧を入れる
・義元、大高城を出る。なぜかその情報が織田に筒抜け。(家康が流したか?)
・駿河7000の兵を分けて各城を攻めている織田の砦を強襲する準備開始
・実際は義元軍3千〜5千程度vs織田2千の戦いだったの思われる

いままで読んだことのある情報をまとめて推測した結果がこれ

730人間七七四年2016/09/12(月) 20:01:03.10ID:qQesQp2/
義元本体は大高城に兵糧は入れてない
実際に兵糧入れたのは家康
信長は義元本体の動きなんか掴めてない

731人間七七四年2016/09/12(月) 22:23:33.00ID:SnDVgY9z
兵糧も用意できてないのに尾張に侵攻したの?

732人間七七四年2016/09/12(月) 22:25:32.24ID:BBC0j9Np
今川義元も大高城に入って、そのあとで中島砦を攻めるため
桶狭間山の陣地に移動した、という説は見たことがある。

733人間七七四年2016/09/12(月) 23:18:33.65ID:U0NMgj2v
地元の桶狭間研究会の調査によると、織田信長は暴風雨の中、釜ヶ谷の森の中に軍を隠し、
今川義元本隊の位置を斥侯にさぐらせたとある。地元の郷土史研究会の調べによると、
義元本隊の位置を察知して攻めかかった可能性が高い。

734人間七七四年2016/09/12(月) 23:31:47.21ID:qQesQp2/
何を元に調査したのか知らないけど信長公記の記述では信長の戦況判断の誤りが生んだ奇跡でしかない

735人間七七四年2016/09/13(火) 00:45:04.64ID:0JLJTmdT
桶狭間で今川が敗北するも義元は生還
この場合、その後の展開はどうなったのかな

736人間七七四年2016/09/13(火) 01:06:15.98ID:Zn0C5hXi
どうでもいい

737人間七七四年2016/09/13(火) 08:33:48.38ID:TpMIdp4R
>>733 今川義元本隊のすぐ前にいた部隊を、徹夜で兵糧運びをして疲れた兵だと
信長は言ってたくらいだから、
信長が持っていた情報は、誤っていたと言わざるをえない。

738人間七七四年2016/09/13(火) 20:46:05.94ID:qMZ+bGVm
>>733
その調査結果の根拠を知りたいな
なにか陽の目を見なかった文献でも出てきたのか
もし、そうなら謎だらけの桶狭間の事がいろいろ解明できそうだな

739人間七七四年2016/09/13(火) 23:49:16.33ID:+jEAoNJ4
>>738
桶狭間古戦場保存会の
梶野渡氏の論文だね。

740人間七七四年2016/09/14(水) 01:43:39.56ID:42vWeM0z
ぱっとネットで調べようがないけどそれはインターネットが悪いんだもんな仕方がないなw

741人間七七四年2016/09/15(木) 08:53:16.13ID:6dXIGK5V
長篠や桶狭間も
現地で記録された書籍が
意外と創作だらけだしな。

742人間七七四年2016/09/16(金) 03:58:01.55ID:0M5uQ6Lb
今川家の格の違いを、見せつけてやるのじゃ!

743人間七七四年2016/09/16(金) 13:40:31.03ID:ptTspJS7
家康(元康)が内通していたと考える珍説、ナンセンスにも程がある

744人間七七四年2016/09/17(土) 23:21:06.39ID:S+gIxHNe
家康の親戚の水野家は、内通していたかもしれない。大高城の南方。
大高城は、実際は包囲されていたが、鷲津丸根だけでなく、南方にも砦があった。
それは水野家がからむ。家康の母親が水野家にいた。内通で砦から兵を退去させたらしい。
のちに家康が天下をとったため、牛一は遠慮して書かなかった。

745人間七七四年2016/09/18(日) 20:53:41.47ID:hMoeRhBW
家康の母が当時いたのは久松家じゃないの?

746人間七七四年2016/09/19(月) 07:09:09.06ID:6pd5ka0f
桶狭間の合戦で、家康は実母と会ってたらしいよ。何やってんの家康。

747人間七七四年2016/10/31(月) 19:47:13.90ID:069FFAJA
面積が広いから今川が大国に見えるが、三河遠江駿河合わせても
せいぜい70万石程度といわれてて、一方尾張は肥沃で50万国はあったとされる。
尾張は海運商業も盛ん。
国力差は思われているほど大きくない。
信長は常備軍を編成してて(職業軍人。情報部隊なども組織)、それゆえ
コストがかかるから数こそ少ないが非常に強力で組織的な軍を備えてる。
今川は旧態依然の軍事的にも脆弱で戦意もそれほど高くない農民徴用兵が主体。
信長とその家臣団は、はじめから勝利を確信してただろう。
運よく勝ったのではない。

748人間七七四年2016/10/31(月) 20:02:27.22ID:J5q0h3tq
新説が来ましたよ

749人間七七四年2016/10/31(月) 20:38:13.73ID:WyQ8PFCN
常備軍()はともかくその強力な馬廻りを最初に組織したのは実は今川。

750人間七七四年2016/11/04(金) 07:23:12.30ID:ABgi/9uj
>>747
尾張は石高高いのはわかるけど50万石は多過ぎ。
そして三河遠江駿河が70万石というのも少な過ぎ。
それに3千対2万5千では兵力が違い過ぎる。

751人間七七四年2016/11/05(土) 08:16:02.46ID:B1fEgmbo
尾張と三河を合わせた地域が現在の愛知県
戦国時代と現在、人口比では大差ないと思うんだ

日本の人口1億2千万人
愛知県の人口750万人

愛知県/日本:1/16

江戸初期の日本の総石高1800万石

尾張と三河で112万石

752人間七七四年2016/11/05(土) 08:17:21.31ID:B1fEgmbo
ちょっと補正
現在の人口比で計算した尾張と三河の石高が112万石

753人間七七四年2016/11/05(土) 08:21:13.82ID:B1fEgmbo
追加
同じ方式で美濃を現在の人口比で計算すると30万石

754人間七七四年2016/11/05(土) 15:32:52.38ID:9s8XxWjP
駿三遠で80万石弱、そして今川は尾張の一部を取っていたので90万石弱化。
信長は40万石ぐらい。どちらにしても3千対2万5千というのはありえない。

755人間七七四年2016/11/06(日) 00:21:29.44ID:0Kzi1W5m
史料などを読むと駿河三河遠江で70万石弱かもしれない。

756人間七七四年2016/11/06(日) 08:04:14.56ID:MFT1nNK3
石高は三河>遠江>駿河なんだよな
駿河の石高低すぎ

757人間七七四年2016/11/06(日) 10:32:18.81ID:7L1PpWp7
静岡の半分の山と海に挟まれた狭い方だからしょうがない
重商主義やってそらもう増収に必死ですよ。桶狭間も航路確保説があるくらいに

758人間七七四年2016/11/06(日) 17:07:06.28ID:eOaiTWuo
野次馬だけど、石高=兵力って、金山等や商業力や人口も含めて兵力を考えたほうがいいんじゃないの?

759人間七七四年2016/11/08(火) 00:52:48.45ID:PUVNLMCl
>>757
実は、三河半島と鳥羽を抑えて、九鬼水軍などを配下に収め、伊勢湾を経済封鎖
する選択肢も今川にはあったんだけどね。意外に効果はあると思うよ。

760人間七七四年2016/11/08(火) 14:14:19.49ID:qgSc53fg
ゲーム脳かな

761人間七七四年2016/11/12(土) 19:47:57.25ID:QlXTBePP
地の利は織田に有り
義元は信長の罠に誘われ飛び込んできたんじゃね

762人間七七四年2016/11/23(水) 05:36:14.75ID:dcND+3j0
「先陣と勘違いしてた説」なんか定着しつつあるけど、
「兵糧を入れた部隊」ってそりゃそのまま大高城に滞陣するでしょ
桶狭間から大高城まで3キロ。目視で確認できる距離。その間にも面々と部隊はいただろう
「あいつらは兵糧を入れた軍団だ」ってのは今川軍全体指すのが自然じゃないの

きっかけとなった藤本正行さんの本2回ぐらい読んだけどその辺りの説明ってどうされてた?覚えてないわ

763人間七七四年2016/11/23(水) 09:21:26.25ID:fRWdHM4A
初めて聞いたわ

764人間七七四年2016/11/23(水) 18:27:09.67ID:14aZu323
信長公記にも大高城に兵糧入れてそのまま滞陣したのは家康の部隊ってはっきり書かれてる
藤本氏もそのように言ってる

765人間七七四年2016/11/23(水) 19:48:52.32ID:bwkiIcSS
>>762
実際に大高城に行った事ある?
あそこから桶狭間〜鳴海方面は大高緑地公園の丘陵地帯に阻まれて見通しは利かないぞ
目視で確認は無理

766人間七七四年2016/11/24(木) 01:25:25.21ID:67gvRJ3N
桶狭間の戦いで本当に活躍したのは忍びだったけど忍びだから名前が出せないってこの前のアニメ「信長の忍び」で放送してた

767人間七七四年2016/11/24(木) 23:30:38.72ID:sorsmlwI
信長公記の記述では信長の勘違い攻撃だったことしか読み取れない

768人間七七四年2016/11/25(金) 01:29:04.99ID:JXLq0ZSM
と言う事にしたくてしょうがない菅沼

769人間七七四年2016/11/25(金) 18:32:03.04ID:ZTJoEgQ7
藤本正行は菅沼だったのか

770人間七七四年2016/12/12(月) 23:19:25.07ID:msssbrfl
信長公記に、「突撃前に沓掛のクスノキが雷で倒れたという描写があるから、別働隊が奥地の沓掛まで迂回していたんだ」
って説があるらしいな。無理があるけどでも気になる描写ではある

771人間七七四年2016/12/13(火) 21:42:02.65ID:HXGkHa9l
まったく無理があるとも言い切れないだろう
中島砦から沓掛手前の二村山まで距離にして10キロも無い
二村山は鳴海、大高、岡崎まで視界が確保できる要所だから
兵力を分散させても押さえておきたいと信長が考えても不思議はない

772人間七七四年2016/12/17(土) 23:51:44.52ID:apKu/4T4
藤本正行「桶狭間の戦い」読んだけど、やっぱり藤本説よう分からん
この人は他人の説を打ちのめすときは生き生きとする割に、自説の主張がほんと曖昧で困る

「偶然突っ込んだら偶然旗本に突き当たった」って主張がとにかくしたいらしくて、
まえがきで「私の説では、なぜ少勢の信長が今川の大軍を正面から破ることができたのか、図式的な説明がしにくい」
って自分で書いておきながら結局曖昧。

・今川軍の先陣が崩れてそれが旗本に波及した
・決戦が当時の通例と違って午後に行われたから今川軍は油断した

ってのが辛うじて読み取れる主張なんだけど、
「少勢の信長が今川の大軍を正面から破ることができた」理由の説明としてはちょっと弱すぎる
しかも、「兵力差以外と無かった説」も棄却してて、「織田2千対今川2万」の構図のままでだからね

あと、よく言われる、
「信長は砦を複数築き、今川軍を分散させるのを狙った」
って俺はそう考えてるんだけど、その主張に対しては、
藤本「分散させるにしては丸根と鷲津が接近しすぎているから違う」って、よう分からん

773人間七七四年2016/12/18(日) 10:33:40.47ID:KxNG/5L3
信頼できる資料が少なすぎるからな
結局は欠落してる情報を想像で補う他に無いから
他の人からの批判を避けようと思ったら曖昧にせざるを得ない

分散させるにしては丸根と鷲津が接近しすぎているってのはあくまで丸根と鷲津だけの話しだしな
大高南方や鳴海を囲む砦群を無視してる

俺はあくまで2000と言う数字は信長が直接率いていた本隊であって
後続部隊が続々と鳴海方面に到着していたんではないかと思っている
そんな状況で戦力を分散させるのはまずいと考えた義元が引き上げにかかったところを
豪雨が襲い、混乱が起こったところを織田軍が強襲したんじゃないかと思っているんだが

774人間七七四年2017/02/27(月) 23:53:51.94ID:xlr/bfpd
信長公記見る限りでは信長の勘違いで攻撃した部隊がたまたま義元の部隊だったとしか読み取れないからね

775人間七七四年2017/03/01(水) 21:23:41.60ID:NflgNfJz
今川義元が海道一の弓取りと言われた大方の功績は太原雪斎の政治、戦の手腕によるところであって
義元の能力、特に戦を直接指揮するような事においては経験値1の素人同然だったんだから
尾張平定で戦いまくっていた信長からしたら
2500対5000だったとしても、2500対25000だったとしても、突撃したらまさになんとなく勝っちゃう事もあり得たんじゃね

776人間七七四年2017/04/03(月) 19:35:34.47ID:aRMxPfXH
今川軍として先鋒として配置されてて、信長の軍勢が細い道を一列になってやってきたとき、
顔面に打ち付けてくる大粒の雨と、木も横倒しになるほどのゴウゴウの暴風雨が
向かい風でかかってきて、その中に織田軍が追い風に乗って突っ込んできたら?。

皆、逃げるだろ。義元の本陣まで一気に破られてしまったのは、向かい風の暴風が原因。

777人間七七四年2017/04/03(月) 20:26:16.69ID:bUw53Twe
そもそも木が横倒しになるほどの暴風の中で戦闘は不可能

778人間七七四年2017/04/03(月) 21:56:41.21ID:WEKhE1pz
追い風だったら突撃の勢いが倍増するのでは

779人間七七四年2017/04/03(月) 22:41:46.15ID:5mTyaYy3
織田勢の兵の勢いが凄過ぎて今川勢の兵が恐くて逃げちゃったんじゃないの?
戦ってるの人間だからな。

780人間七七四年2017/04/03(月) 23:16:03.17ID:UyJvw5Mc
木が倒れる程の暴風の中で人は立ち上がる事も儘ならんというのが分からんとは…
木より先に人間が吹っ飛ぶから

781人間七七四年2017/04/04(火) 14:18:53.72ID:hxrbWjAS
吹っ飛びながら突撃したのでは

782人間七七四年2017/04/04(火) 16:39:15.95ID:mFd4Qx8B
ファンタジー桶狭間

783人間七七四年2017/04/29(土) 19:07:26.29ID:3wju+6Bs
今川の兵は、水をまくるが如く、後ろへくぱっと崩れなり。
くぱあとね。

784人間七七四年2017/05/26(金) 04:48:50.91ID:j8cjvz8V
「桶狭間非奇襲説」って、藤本正行と小室直樹が割と同時期に発表してるようなんだけど、
どっちが先に言ったの?

785人間七七四年2017/05/26(金) 10:54:38.59ID:wOrI13sx
小室圭

786人間七七四年2017/05/26(金) 17:09:22.87ID:j8cjvz8V
読み返したら「最近、奇襲迂回を否定する説が出てきてる」って小室直樹の方の本に書いてあったから、
少なくとも発端ではなかったわみなさんありがとうございました

787人間七七四年2017/05/30(火) 07:49:50.23ID:O4gDFWmE
信長は地元だから雷雨の移動パターンは知ってただろう、義元本陣に移動するのに賭けたのでは
俺の住んでるところだと南西から雷雨雲が地上へ黒い雨を降らしながら迫ってくる

788人間七七四年2017/06/09(金) 22:47:42.65ID:p4C9/SeG
雷雨の移動パターンは、たいてい 西から東へ だろ。
でもそんな天気を予報してそれに賭けるかなあ。外れたら死ぬから
やらんだろ。

789人間七七四年2017/06/11(日) 11:08:40.82ID:LBoed8oz
義元本陣はおけはざま山
本陣を置くぐらいだから当然見晴らしもよかっただろう

790人間七七四年2017/07/09(日) 09:36:21.21ID:f+qiuL9H
戦前の帝国陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史 桶狭間役』で桶狭間の戦いは奇襲攻撃だったなんて勝手に書いちゃったもんだから桶狭間=奇襲説が今でも通説としてまかり通ってる。
『信長公記』には奇襲なんて一言も書いていなくちゃんと正面攻撃したって書いてある。

791人間七七四年2017/07/09(日) 09:54:35.69ID:IMg5PVdp
奇襲は奇襲だよ
夜まで続いた軍議では信長は一切出陣すると告げずに、
いきなり深夜にわずかな供回りだけで清州城を出陣したんだから

792人間七七四年2017/07/10(月) 02:07:24.12ID:nLBQOGTr
奇襲は奇襲なんだろうけどルートが迂回攻撃か正面攻撃かが問題だな

793人間七七四年2017/07/10(月) 05:20:40.16ID:wlBqWMTc
ただのヤケクソ突撃

794人間七七四年2017/07/19(水) 07:04:06.37ID:wZSWlbkp
https://video.twimg.com/ext_tw_video/887192253428449280/pu/vid/720x720/kOKftqkNwurS1yhk.mp4

今川軍は左側。右側から織田軍が追い風にノって突っ込んできた。

795人間七七四年2017/07/23(日) 23:41:27.59ID:4GpUyDPl
もったいないから簡単に書くね
桶狭間の合戦の勝因は完全なる情報戦
ただ単なる運任せの奇襲による奇跡的な勝利ではなく、見事な戦略的勝利なんだよね

796人間七七四年2017/07/30(日) 22:11:44.42ID:Exwyg46d
>>795 ふーん。じゃあ、あの武者どもは
徹夜で食糧運びした兵だと
勘違いして味方の兵に教えた件はどうなるんだよ。

797人間七七四年2017/08/15(火) 13:39:22.85ID:8Ou7Nsfy
>>796
休養充分の元気な敵に突っ込めと言われるよりも疲れた敵に突っ込むぞと言われた方が勝てそうな気がしない?

798人間七七四年2017/08/15(火) 22:07:08.63ID:/3iYifzB
NHK教育を見て53366倍賢く桶狭間の戦い(c)2ch.net
http://nhk2.2ch.net/test/read.cgi/liveetv/1502797690/

799人間七七四年2017/09/04(月) 14:28:32.17ID:k89VeiSL
兵数が間違ってるんだろうな
織田軍は実際には10000いて、今川は15000だったと考えるのが妥当だろう
いくら大将を倒したと言っても、22000の兵力差があったら残存兵力にかき消されてしまう
指揮系統が乱れてたと言っても残存兵力も死にとうないし、物理的に追撃の手が足りない
主だったネームドまで尽く討ち死になんて考えられないね

800人間七七四年2017/09/04(月) 21:48:00.57ID:aeDUO9Vq
今川は荷駄・輜重隊(運送部隊のことね)も入れて2万5千くらい。織田は戦闘部隊だけで5千くらいと考えるのが妥当でしょう。

801人間七七四年2017/09/04(月) 21:56:58.81ID:3rmoyr/J
織田には六角の援軍がいたとか最近話題になってなかったっけ?

802人間七七四年2017/09/04(月) 22:30:33.13ID:st50f2Xp
なにそれ

803人間七七四年2017/09/04(月) 22:34:09.41ID:SkjDDDkN
まだ一向宗門徒が合力したっていうほうが現実味がありそう

804人間七七四年2017/09/04(月) 22:40:27.92ID:3rmoyr/J

805人間七七四年2017/09/04(月) 23:21:26.48ID:SkjDDDkN
>>804
織田六角同盟の証拠が義昭上洛のための書状だってことだけど、それこそ義昭を上洛させるためだけに手を組んだんじゃないのかなあ
上洛前まで実際に手を組んでいたなら美濃攻めにも力を借りていそうな気もするが

てか、義昭のwiki見てビックリしたんだけど、織田と浅井の縁組みを義賢が和田惟政に斡旋させてるんか

806人間七七四年2017/09/04(月) 23:41:26.50ID:st50f2Xp
義昭の上洛するから協力しろ書状なんて誰彼構わず発給してそう

807人間七七四年2017/09/04(月) 23:50:41.45ID:3rmoyr/J
>>805
ここら辺の尾張・美濃・近江・越前の関係性は奇々怪々
一応援軍の戦死者の記述とか書いてあるけど亀山から桑名経由で援軍が来たことになるけど桶狭間の時すら織田と長島ってあんまり関係良くないはずなんだよなぁ

808人間七七四年2017/09/05(火) 19:21:17.34ID:GoJpLong
結果としての奇襲
信長は奇襲を掛けるつもりは無かった
義元はタイミング悪く、不意を突かれた
奇襲作戦ではなかった
飽くまでも結果

809人間七七四年2017/09/05(火) 19:40:45.78ID:58c0faYJ
>>804
面白いと思うが遠国で272人も討ち死にするほどの義理が六角に無いよなw

810人間七七四年2017/11/23(木) 11:16:26.65ID:3zTuxiiQ
272人も討ち死にしたなら、名のある武将が数名いるはず。
その武将の名前が本当であるかどうか調べれば真偽はすぐわかるわな。

今川方の武将名はすでにネット上で出ている。
久野氏忠、井伊直盛、松井宗信など46名
六角の武将の名前が出てないのは、もうすでに充分怪しい。名前だしたらバレるからな。

811人間七七四年2017/11/23(木) 11:35:18.70ID:3zTuxiiQ
ただ、桶狭間合戦当日、信長が朝まで清洲城に居たのは、
美濃国とは交戦状態にあったためもある。また尾張一国を統一したとはいえ、
尾張と美濃が接するあたりは織田の一族に任せてあるとはいえ、信長とは仲が
よくない。その一族からは桶狭間に援軍を出してもらってないし、後年、追放
(織田信清)。
だから桶狭間合戦のとき、信長は清洲城にて西方の勢力(六角含む)とも何らかの
関わりや考慮があったとは一考できる。

812人間七七四年2017/11/24(金) 08:01:27.98ID:5cFQJ6kB
>>488
大田牛一は桶狭間に参戦したかどうかは
信長公記を読んだ限りでは、参加したようにもとれる。
「あの武者ども、宵に兵糧」と信長が訓示したときは
近くで聞いているようだし、泥田の中で水しぶきをあげるのを
若武者が追いかけて首をとる、とかは見たようである。
大田牛一は敵兵の首は穫ってない。

813人間七七四年2018/02/11(日) 13:33:40.49ID:Pk2QzkR/
美濃斉藤道三は織田の後ろ盾になってなかったか?
織田斉藤連合なら今川と互角、
今川義元が討ち取られたからって
武田も容易には弔い合戦に出られないだろう

814人間七七四年2018/03/09(金) 12:08:05.54ID:SAq35awg
容易には弔い合戦に出られないってwww

そもそも同盟してるからってなんで
武田が弔い合戦しなきゃなんねーんだよwww
腹いてぇww
本当におもしれェ奴いるよなww

815人間七七四年2018/03/11(日) 11:35:01.92ID:c0VYWXZk
ま、普通に考えれば誰でも分かる話だが

家康が独立を条件にはなから織田信長と通じてただけなんだがな。
作戦通り、大高城より信長に義元の場所を教える→義元討たれる→
イの一番に戦地を離れ浜松に逃亡する。
そのままどさくさにまぎれて独立する。最初からこの手はずだったわけだ。
信長、家康にとって双方多大なメリットしかない作戦。

のちの腹黒タヌキ親父と言われる男、雪斎の弟子で一番頭が切れる男。
300年帝国の家康はやはり伊達ではない。

義元は家康の能力を買ってたから
まさか寝返ってるとは思ってなかったんだろうな・・・

816人間七七四年2018/03/17(土) 06:23:24.92ID:DTSr/uv8
まことには、自演癖が染み付いており、もはや普通の書き込みと
自演の区別がつかなくなっていた

817人間七七四年2018/03/28(水) 18:53:50.36ID:AFPyZB+R
警察、創価と在日マフィアによる集団ストーカーの模様
(車両ナンバー付き)
https://www.youtube.com/watch?v=gTOBN1AkSz0
https://www.youtube.com/watch?v=bbPcpPwO3ug
https://www.youtube.com/watch?v=de1jeSPGGNo

^怖ろしくておもらししそう´・ω・`

818人間七七四年2018/06/02(土) 09:33:38.62ID:JjsESOa+
>>815

義元討死後、松平家中は一枚岩ではなく親今川派もいたらしい

話は変わるけど
第1回太閤検地で織田領だった尾張の石高は57万2千石
今川領だった駿河・遠江・三河の石高は計69万6千石
20数年前の1560年の桶狭間の戦いの時点でも大差はなかっただろうし
もしかすると通説の義元本隊5千を、信長が2千の兵で奇襲ではなく
信長軍の方が大軍だった可能性もあると思う

819人間七七四年2018/06/09(土) 12:15:37.92ID:+9JUzdOt
石高だけでなく鉱山、特産品、港湾や関所等の税収、兵の練度、団結力とか含めたトータルが国力だと思う
そういうの詳しい研究家いないかな

820人間七七四年2019/03/01(金) 21:58:16.17ID:aDqIYCF6
織田信長は、今川義元の首奪い、夜盗のごとく逃げ出したではないか。

その、どこが悪い。

821人間七七四年2019/03/10(日) 03:41:53.01ID:w2xYLWX1
勝ち目ない方は敵の大将の首だけ狙う戦術よくやるけど、
めったにない成功例ということか

822人間七七四年2019/03/24(日) 14:44:59.91ID:E4DC9TZV
ルーズベルトの首はとったけどな

823人間七七四年2019/03/24(日) 18:10:44.03ID:kTkwqpn1
真言立川流の大手柄やな

824人間七七四年2019/10/09(水) 14:48:58.53ID:mRoUV+z/
兵力二倍だから動員可能兵力二倍でなく、城や所領の防備にも残さなければならないこと考えると、石高、兵力が増えると、動員可能兵力は放物線カーブで増えていく
実際織田方の動員可能兵力は二千程度、今川は国元に2万残しても一万五千動員できたという史実で大体正しいと思うよ

825人間七七四年2019/10/09(水) 14:55:28.26ID:mRoUV+z/
家康って本当は今川で厚遇されてたんじゃないのか?
人質のわりに太原雪斎を教育係につけてたし、義元の姪を嫁にくれるなんて相当期待されてたと思うよ
まあ、織田に恭順したらそんなこと言えないから今川の悪口になるだろうし、今川の体制が整わないうちに武田と挟み撃ちで今川叩いたのも武田に全部取られるよりっていう思いもあるだろが、狸親父の兆しここにありだろうな

826人間七七四年2019/10/09(水) 14:56:30.18ID:mRoUV+z/
家康って本当は今川で厚遇されてたんじゃないのか?
太原雪斎を教育係につけてたし、義元の姪を嫁にくれるなんて相当期待されてたと思うよ

827人間七七四年2019/10/09(水) 14:57:55.25ID:mRoUV+z/
まあ、織田に恭順したらそんなこと言えないし、今川の悪口言わなきゃならないし
今川の体制が整わないうちに武田と挟みうちにしたのも、武田に全部取られるよりはってのもわかるけど

828人間七七四年2019/10/09(水) 14:58:18.85ID:mRoUV+z/
狸親父の兆しここにありだろうな

829人間七七四年2019/10/09(水) 14:58:41.21ID:mRoUV+z/
狸親父は若い頃から狸親父なんだな

830人間七七四年2019/10/09(水) 14:59:05.55ID:mRoUV+z/
タヌキオヤジは若い頃からタヌキオヤジなんだな

831人間七七四年2019/10/09(水) 14:59:42.99ID:mRoUV+z/
タヌキオヤジってNGワードなのか?
管理人は何を恐れてるんだ?

832人間七七四年2019/10/09(水) 15:00:19.71ID:mRoUV+z/
た、ぬ、き、オヤジの兆しここにありだろうな

833人間七七四年2019/10/09(水) 15:01:27.53ID:mRoUV+z/
た、ぬ、きオヤジ
って普通に書くとNGワードなんだな
管理人は何を恐れてるんだ?
どこにしっぽふってるんだ?

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