秀吉はどの辺りで織田家を顎で使うようになったの? [転載禁止]©2ch.net

1人間七七四年2015/08/01(土) 11:28:35.03ID:/9QsRg5x
清州会議辺り

2人間七七四年2015/08/01(土) 12:14:37.68ID:mrxfHatc
家康が源氏姓を称するのが天正16年4月。
天正18年8月関東移封。
これは関東地方では源頼朝以来の源氏の伝統があったため家康が源氏を称することにより
関東支配を円滑にすすめさせようとする秀吉の政策が見える。
それゆえに関東入部以前から源氏姓を称する必要があった。
つまり東国平定の成功が征夷大将軍任官と関わりがある。
無位無官の平民羽柴秀吉が家康に勝利し臣従させたことを認めた朝廷は
東国平定の武功を称え天正12年10/16秀吉は天皇に将軍任官を勧められたのである。
このことで秀吉は朝廷から公認され身分が向上したことで
織田家を臣従させているため下克上にはならないのである。
また秀吉が義昭に断れたので征夷代将軍を諦め関白を狙ったとする捏造ですが、
これは堀氏によればたまたま起こった関白職を巡る二条と近衛の相論に乗じた「たなぼた」でした。

信長の譲位要求の脅迫では仙洞御所すら造ろうとしない悪魔のような所業だけど、
秀吉は家康と戦っている最中であっても、
正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してるからなー。
譲位と新帝即位は天正14年(文禄元年)
正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、
家康を朝廷に帰服させるべく、
秀吉は母を10/18に三河岡崎に送り、
11/1に家康がやっと上洛してきて、
秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
7日に譲位と新帝即位式典と間に合わせた。
家康がグダグダ言ってたから母を送ってまで、
後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉はやはり凄いよ。
11日、秀吉は大友支援で筑前に入った黒田や小早川と吉川の陣に検使として森吉成を派遣、
12日には前日に岡崎に着いた家康が早速、井伊直政を護衛に秀吉の母を大坂に送ってる。
新天皇の威令を広める為に自分の母を公を優先し人質に出す秀吉の忠勤の姿勢は素晴らしい一方、
私を優先するヘタレびびり家康の天皇への不忠っぷりは非難されるべき。

3人間七七四年2015/08/01(土) 15:13:15.03ID:fR0FJvlj
「近世成立期の大規模戦争」
陣立書とは、秀吉が決定した陣形に大名クラスの家臣名とその軍勢を書きつけた指令書であり、戦局の推移に応じて作成・発給された。
戦国大名の段階でも、たとえば武田信玄の旗本を対象とした陣立書はあったが、軍勢全体を把握したものではなかった。
これに対して信長は、検地によって石高に昭応した軍役を家臣団に課し始めた。
秀吉はそれを徹底すべく、本能寺の変ののち自領や服属地での検地を通じて、軍役や普請役の統一的な賦課基準を確立させた。
特に機内とその周辺では、小牧・長久手の戦いの時期に、戦争と並行して厳格な検地が行われていた事が注目される。
それをもとにした陣立書は、従来の一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に、命令系統と上下秩序を持ち込むものであり、戦争史上の画期といいうる。
このようにして、明らかに中世の軍隊とは段階を画する抗議の軍隊が誕生したのである。

秀吉がかつて一向宗の要害の地であった大阪に築城したことは、政治的・軍事的な意義が大きく
自ら「五機内之廉目能所に候之間居城相定」と述べているように、機内先進地域の権力的掌握を意味していた。
それは農業生産力をはじめ、鉄砲鍛冶等にみられる手工業や、堺を仲介とする外国貿易・外来技術を取り入れ、
周辺の在町との分業体制を基軸として、中世以来の伝統的な商工業の把握と、近江の知行改から全国的な城割計画を表明しており
その中に領域的支配権を超えて統一権力への脱皮をはかるものである

4人間七七四年2015/08/01(土) 15:14:50.45ID:fR0FJvlj
・清州会議時に丹波を直轄領として手に入れて10/22時点で5畿内の配下の悉くから人質を徴収してる

・天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と 同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。

・三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる

・清州会議の後に秀吉は摂津衆の池田・中川・高山に加えて筒井ら大和衆、三好康長に加え、
若江三人衆といわれた池田教正・多羅尾綱知・野間康久らの河内衆から人質を取って陣営内に取り込み、軍事再編を行った。

・大阪築城の際に秀吉は池田を摂津から犬山城に転封命令出して池田もこれに従ってる

秀吉は陣立書の導入、五機内の諸将からの人質招集、さらに旧織田家臣に対する国替え、書状による直接的な命令伝達と
部下の直轄領化と直属化を完了させてる
秀吉は陣立書に直轄家臣として組み入れてる上に人質も悉く招集し、国替えするほどの権限持ってて
書状で自分の手足のように自由に家臣を動かしてる

5人間七七四年2015/08/01(土) 15:24:48.43ID:fR0FJvlj
http://iup.2ch-library.com/i/i1477998-1438410228.jpg

秀吉がかつて一向宗の要害の地であった大阪に築城したことは、政治的・軍事的な意義が大きく
自ら「五機内之廉目能所に候之間居城相定」と述べているように、機内先進地域の権力的掌握を意味していた。
それは農業生産力をはじめ、鉄砲鍛冶等にみられる手工業や、堺を仲介とする外国貿易・外来技術を取り入れ、
周辺の在町との分業体制を基軸として、中世以来の伝統的な商工業の把握と、近江の知行改から全国的な城割計画を表明しており
その中に領域的支配権を超えて統一権力への脱皮をはかるものである

6人間七七四年2015/08/01(土) 15:30:51.54ID:fR0FJvlj
http://iup.2ch-library.com/i/i1477998-1438410228.jpg

秀吉がかつて一向宗の要害の地であった大阪に築城したことは、政治的・軍事的な意義が大きく
自ら「五機内之廉目能所に候之間居城相定」と述べているように、機内先進地域の権力的掌握を意味していた。
それは農業生産力をはじめ、鉄砲鍛冶等にみられる手工業や、堺を仲介とする外国貿易・外来技術を取り入れ、
周辺の在町との分業体制を基軸として、中世以来の伝統的な商工業の把握と、近江の知行改から全国的な城割計画を表明しており
その中に領域的支配権を超えて統一権力への脱皮をはかるものである

7人間七七四年2015/08/01(土) 15:35:23.46ID:fR0FJvlj
http://iup.2ch-library.com/i/i1478010-1438410774.jpg
秀吉は本能寺以前の織田家みたいな与力制の間接統治ではなく軍閥化・軍制改革に取り組んで
直轄支配・直接支配体制に変革させて陣立書によって今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。

http://iup.2ch-library.com/i/i1478012-1438410774.jpg
天正10年9/18と9/20において行われた秀吉と丹羽長秀との会談において秀吉が養子としていた織田信長5男秀勝を施主として
10/15に信長の葬儀を挙行するという決定した

これは長秀が軍勢を率いて近江坂本城から上洛し 堀や長谷川も交えての会談で決定したものである
会談翌日の9/21には秀吉自ら「信長御仏事」のために同寺に向かった。
これは信雄・信孝をないがしろにするものであり
彼らに大きな衝撃を与えた。
秀吉は丹羽長秀の三男仙丸を実弟秀長の養子にして羽柴ー丹羽体制の構築を測った。

秀吉はかねてより入魂だった摂津衆の池田・中川・高山に加えて筒井ら大和衆、三好康長に加え、若江三人衆といわれた池田教正・多羅尾綱知・野間康久らの河内衆から人質を取って陣営内に取り込み、軍事再編を行った。

8人間七七四年2015/08/01(土) 17:24:38.59ID:4yJoOIxZ
そもそも事の始まりは信孝が三法師を安土に戻さず
美濃尾張の境の争いを始めて信雄と対立し始めたことだな。
そして旧織田家臣団も誰から領地安堵の発給を受けるのが
一番信用でき安心できるか?という切実な要求が発生した。
そこで万人に支持を受け領地を強力に軍事的に保証してくれる人物として
秀吉から発給を受ければ安心という人望があったことが
秀吉が織田家内で一歩抜きん出た存在に成長した証左であろう。
それを嫉妬から織田家壟断と敵視したのが織田家家老の柴田であるが、
信長直臣にはそもそも織田家家老に従う理由がないどころか
家老への目付役として監視していた存在が直臣の役目であった。
信孝は神戸氏から織田に復姓し家老柴田と組み三法師を拉致し織田政権後継を自認。
北畠信雄は木造氏が政権を専断している為、
北畠は織田より家格は遥かに高く征夷大将軍より上の鎮守府大将軍となり政権開くのも可能だが、
織田家臣団にとっては
信長勢力にとっては保証して頂く対象にはなれなかった。
そのために織田家への忠誠が無く信長にしか忠誠する対象がないが人望ある秀吉による強力な後ろ盾が必要とされた。
これにより織田代々の家老と織田信孝、成り上がりである旧信長直臣と北畠信雄の対決になっていった。

9人間七七四年2015/08/01(土) 17:57:27.06ID:fR0FJvlj
http://iup.2ch-library.com/i/i1478093-1438419326.jpg
http://iup.2ch-library.com/i/i1478092-1438419326.jpg
清州会議後、五機内の主要な武将から人質を招集した上で
天正10年9/18と9/20において行われた秀吉と丹羽長秀との会談において秀吉が養子としていた織田信長5男秀勝を施主として
10/15に信長の葬儀を挙行するという決定した

これは長秀が軍勢を率いて近江坂本城から上洛し 堀や長谷川も交えての会談で決定したものである
会談翌日の9/21には秀吉自ら「信長御仏事」のために同寺に向かった。
これは信雄・信孝をないがしろにするものであり
彼らに大きな衝撃を与えた。
秀吉は丹羽長秀の三男仙丸を実弟秀長の養子にして羽柴ー丹羽体制の構築を測った

10人間七七四年2015/08/03(月) 02:25:14.69ID:S8AcI9BN

   ̄ヽ、   _ノ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     `'ー '´
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   l:,;'"`'、,     ‐=・-;  -・=‐ ;〈           
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    l;゙、',.::l;;;i     ゚人,,__,,人:..   l,      と思う菅沼遼太であった
    l;;;;`‐;;;;;ヽ     , __ij..__ 、:  l;;;,,  
. ,、rイ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ゝ    `Zエlフ'´ , !;;;;:'
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11人間七七四年2015/08/03(月) 08:43:23.46ID:WwTjs7Ay
>>10
上に画像up までされてるのにむなしくないか

12人間七七四年2015/08/03(月) 08:49:26.91ID:WwTjs7Ay
http://iup.2ch-library.com/i/i1479229-1438559307.jpg
http://iup.2ch-library.com/i/i1479230-1438559307.jpg
http://iup.2ch-library.com/i/i1479231-1438559307.jpg
天正10年9/18と9/20において行われた秀吉と丹羽長秀との会談において秀吉が養子としていた織田信長5男秀勝を施主として
10/15に信長の葬儀を挙行するという決定した

これは長秀が軍勢を率いて近江坂本城から上洛し 堀や長谷川も交えての会談で決定したものである
会談翌日の9/21には秀吉自ら「信長御仏事」のために同寺に向かった。
これは信雄・信孝をないがしろにするものであり
彼らに大きな衝撃を与えた。
秀吉は丹羽長秀の三男仙丸を実弟秀長の養子にして羽柴ー丹羽体制の構築を測った。

秀吉はかねてより入魂だった摂津衆の池田・中川・高山に加えて筒井ら大和衆、三好康長に加え、若江三人衆といわれた池田教正・多羅尾綱知・野間康久らの河内衆から人質を取って陣営内に取り込み、軍事再編を行った。

清州会議後、五機内の主要な武将から人質を招集した上で
天正10年9/18と9/20において行われた秀吉と丹羽長秀との会談において秀吉が養子としていた織田信長5男秀勝を施主として
10/15に信長の葬儀を挙行するという決定した

これは長秀が軍勢を率いて近江坂本城から上洛し 堀や長谷川も交えての会談で決定したものである
会談翌日の9/21には秀吉自ら「信長御仏事」のために同寺に向かった。
これは信雄・信孝をないがしろにするものであり
彼らに大きな衝撃を与えた。
秀吉は丹羽長秀の三男仙丸を実弟秀長の養子にして羽柴ー丹羽体制の構築を測った

13人間七七四年2015/08/05(水) 15:39:36.02ID:QQIHb5bt
>>8
>>旧織田家臣団も誰から領地安堵の発給を受けるのが一番信用でき安心できるか?という切実な要求が発生した。

易姓革命に似てるところがあるんだよね。
人望や実力が権威を上回り下克上を経ずして
あくまで下々の選択による要求で主人の変更がなされるという。

天文12年2/21の守護代織田大和守達勝安堵状には
「弾正忠申調られ出置く上は」と書かれ
天文8年までの従来、東尾張において達勝→信秀と出されてきた発給文書が、
ついに信秀→達勝に順番が逆になってしまう。
この主客転倒した逆転現象は巨大な衝撃である。
熱田神宮寺座主も、いままでは大和守の判物を手にいれて満足していたはずなのに
信秀を当殿様と呼び信秀判物を手に入れようとした。
下々が上位権力を信用できず、今の世の中においてこの人物なら
自分の領地や相続を保証してくれるに違いないと認めることで世間公認の政権交替が発生する。

長尾為景が越後守護上杉定美傀儡政権運営していた時は
「何様御屋形様御定りの上、継目の御判、追って申し沙汰すべきもの也」
などと上杉による御判が後で出されるので安心してください」
という文面があり最後まで上位権力を凌ぐことができず、
続く謙信政権でも知行安堵書状に「御屋形様御判の儀は追って申し成すべく候」
と上杉氏による最終保証がないと家臣団は納得しないのである。
長尾政権が長く苦悩していた上位権力による政治機構が簡単に解体されていく姿が
織田信秀により尾張に生じているのである。
(一方、後継者なく定美が亡くなり、関東管領に就任し上杉を継ぐまで
越後統治の正当性が得られなかった長尾氏)

天文16年(1547年)に義輝が斯波氏を廃絶して、斯波邸を自らの邸にして
事実上、斯波氏はこの時をもって滅亡している。
ちなみに一次史料上では清洲城で傀儡になっていた尾張守護斯波義統が
天文13年に稲葉山城攻撃中の信秀の援護射撃で禁制を出したのを最後に
消え去り尾張国における斯波氏の活動は消え去りいち早く信秀により滅亡させられたと考えられている。

清洲城主尾張下郡守護代織田大和守信友は架空人物。
岩倉城主尾張上郡守護代織田伊勢守信安や子の信賢も江戸期の軍記の架空人物。

14人間七七四年2015/08/05(水) 15:48:38.43ID:QQIHb5bt
当時の当主は北畠具房(具教の嫡男)であり
まず北畠具教と木造具政(晴具三男・具教の弟)の内訌において
木造が織田の力を借りて内訌を有利に運ぼうとしたことが挙げられる。
北畠に苦戦した織田は義昭の和睦調停において茶筅を人質に出して安全撤退した。
(北畠は人質を出してない)その時に茶筅の安全を守るため織田家から津田一安が付けられ、
木造からは滝川雄利(木造一族)と拓植三郎左衛門(木造重臣)が警護に付けられた。
さて成長し茶筅が「具豊」と名前を改めて文書発給を開始したのは天正元年9/20が初見。
天正4年12月には津田一安が滝川雄利と拓植三郎左衛門らの讒言で誅殺され
伊賀攻めで拓植三郎左衛門が討死すると木造一族の滝川雄利の独裁体制が敷かれ、
織田信包などに指示を出すほどの権勢を持つようになる。
これにより当初からの目標であった木造氏による北畠氏の乗っ取りが完了し、信雄は傀儡化されてしまうのである。

北畠信雄の清華家の家格を上回るために秀吉は藤原氏の養子にならないといけなかったくらいだからね。
実際、北畠氏の家格は征夷大将軍と並ぶ鎮守府大将軍として地方政権を樹立できる資格も余裕で持ってるからね。
そりゃあ北畠の名前にすがってれば高貴な殿上人としてどんな大罪であろうと
死一等免除の遠罪レベルにしてもらえるんだから信雄だって織田なんてクソに戻りたくはないだろうよ。
天正12年戦役で信雄家康が秀吉に負けたから鎮守府大将軍として政権を立てられ無かったが、
秀吉に勝ってたら朝廷から任じられ北畠政権が樹立できただろうね。
実際は信雄と家康が一方的にフルボッコされ、家康は清洲、信雄は長島で、蛇に睨まれた蛙のように恐怖で固まってただけ。
家康らから人質を取る約束も成立し信雄と家康が土下座したので、 講和してやり11/21に近江坂本を発して帰京するや、
11/22日には東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任じて武功を讃えた。

15人間七七四年2015/08/05(水) 15:50:52.94ID:QQIHb5bt
織田軍の秀吉軍団→一職丸投げにより秀吉家中の形成への道が切り開かれる。
養子織田秀勝が成長し天正8年になると長浜近辺で判物・掟書を秀吉に代わり発給するようになり
長浜から秀吉権益が奪われ始め、最終的に養子にすべて持ってかれる道筋がたつ。
天正10年3月ついに秀勝が初陣し権力移譲が徐々にはじまる。

秀吉の自己防衛対抗策
織田軍団から秀吉家中形成による藩閥自勢力化。
但馬では弟秀長、因幡では宮部へ権力分掌し分国形成と支配強化。
天正8年には黒田へ秀吉が宛行状を発給するなど信長を通さず直接の封建的主従関係構築。
摂津の中川と兄弟の契りを結んだり、池田と秀吉甥の秀次の婚姻同盟。

信長生前における養子による全権剥奪に対抗しての秀吉分国自立化への動きは
信長死後において後継者となった信雄ではなく、秀吉から知行宛行を取得する事例が続発する結果を招いた。
これは信雄が信長から付随された津田一安を粛清する一方で木造氏の滝川雄利の家中支配を容認したため
信雄政権が信長時代に形成された所領・地位などを保障する主体として問題があり、
織田家中から十全な支持を得られなったのである。

16人間七七四年2015/08/05(水) 16:39:56.17ID:qoQ+MrCn
池田恒興が死んだあたりから織田家を軽視!!

17人間七七四年2015/08/05(水) 19:18:16.04ID:O72Pdmj6
結局のところ織田家臣団にとって権益の保証人として
秀吉が一番信用できると一致したため
秀吉政権が要望されたんだなぁ。

18人間七七四年2015/08/05(水) 22:53:29.96ID:gPzH7fvq
>>14
>天正12年戦役で信雄家康が秀吉に負けたから鎮守府大将軍として政権を立てられ無かったが、
>秀吉に勝ってたら朝廷から任じられ北畠政権が樹立できただろうね。

信雄家康は秀吉に圧勝したじゃん。135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

>実際は信雄と家康が一方的にフルボッコされ

いつ信雄と家康がフルボッコにされたんだ?
実際は秀吉軍は135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
吉川元春の書状でも秀吉軍はみな討ち取られたとしっかりかいてるし
4/23熊谷信直書状でも羽築方衆合戦候て数多落度の由としっかり書かれてる。
4/12松井康之書状でも池田森堀木下助左、同勘解由、此衆手をわけて一戦にでて
池田森木下兄弟此の衆討死候、堀と秀次が異議なく撤退し、其の他諸卒大方うたれ申し候と書いてる。
別働隊の兵数は4/8丹羽宛書状で24000〜5000で其の中の諸卒が大方打たれたんだから、戦死者は2万人くらいいないとおかしい
長久手合戦後に京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる 。

さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね。
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから

>家康は清洲、信雄は長島で、蛇に睨まれた蛙のように恐怖で固まってただけ。

小牧長久手合戦後も家康や信雄が雑魚の秀吉を蹴散らしまくってるよ

4/30日〜5/2頃
二重堀合戦が起こり、信雄1000が秀吉50000を奇襲して楽田から叩きだす(家忠日記)
6/19信雄が秀吉の尾張下市場城攻略(家忠日記)
6/23信雄が秀吉の尾張前田城攻略(家忠日記)
7/3信雄が秀吉の尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10信雄が秀吉の伊勢浜田城攻略(7/14秀吉→津田)
11/10信雄が秀吉の尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)

4/12には秀吉が吉村氏吉に敗北(信雄→吉村書状)
秀吉はそれ以外でも5/5に小浜・間宮に伊勢の生津・村松で敗北してる(5/5家康→小浜・間宮)
また、3月から戸木城
4月から松の木城、東駒野城
6月から河波城、
などを攻略していたが
いずれも落ちずに撃退されてる
6月は特に信雄から吉村などへ感状ラッシュで度々秀吉軍を撃退した功績を賞賛されてる

19人間七七四年2015/08/05(水) 22:57:02.41ID:gPzH7fvq
>>家康らから人質を取る約束も成立し信雄と家康が土下座したので、 講和してやり

実際には土下座したのは秀吉だよ。
敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。

20人間七七四年2015/08/05(水) 23:03:33.27ID:gPzH7fvq
>>16
恒興が生きてる間から織田家を軽視しまくりだろ
池田や蜂谷などは秀吉の都合だけで摂津からどいなかの美濃に転封させられてるし
五機内の旧織田家臣は清州会議後に理由なく人質を秀吉に取られてる。
さらに清洲会議時点でも丹羽への叱責の意を表す書状を書いたり池田の領分にまで介入してる始末。
その上蒲生や堀や筒井などもいつの間にか取り込んでて
細川とは血判状交わして臣従関係結んでる
三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる

21人間七七四年2015/08/05(水) 23:10:20.29ID:oMvnJbMx
伊井直政と本多忠勝の四天王による働きが大きい

22人間七七四年2015/08/06(木) 02:50:35.01ID:tTuXWF3J
まーたアンチ豊臣政権の織田在日キチガイの
捏造歪曲信雄マンセーコピペ爆撃か。
先祖が鼻を削がれたからって400年前の話で
生々しいまでに恨の気持ちを子々孫々に至るまで維持し
秀吉と三成がどんだけ憎いんだよw

23人間七七四年2015/08/06(木) 11:36:06.52ID:HJCCR2d1

24人間七七四年2015/08/06(木) 11:41:53.65ID:HJCCR2d1
>>22
兵力比が135000VS16000にもかかわらず
長久手合戦前は信雄から家康に次々に寝返る諸侯ばかりだったが
長久手合戦の後は二重堀砦を襲撃されて敗走したり
戸木城  秀吉が撃退される
松の木城 秀吉の本陣ほど近くの城だが撃退される
東駒野城  秀吉が撃退される
河波城   秀吉が撃退される
蟹江城   秀吉が信雄に負けて奪回される
前田城   秀吉が信雄に負けて奪回される
浜田城   秀吉が信雄に負けて奪回される
下市場城  秀吉が信雄に負けて奪回される
長久保城  秀吉が信雄の家臣に奪回されて撃退される

と秀吉は負けまくってるからな

小牧長久手合戦後の出来事

4/30日〜5/2頃
二重堀合戦が起こり、信雄1000が秀吉50000を奇襲して楽田から叩きだす(家忠日記)
6/19信雄が秀吉の尾張下市場城攻略(家忠日記)
6/23信雄が秀吉の尾張前田城攻略(家忠日記)
7/3信雄が秀吉の尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10信雄が秀吉の伊勢浜田城攻略(7/14秀吉→津田)
11/10信雄が秀吉の尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)

4/12には秀吉が吉村氏吉に敗北(信雄→吉村書状)
秀吉はそれ以外でも5/5に小浜・間宮に伊勢の生津・村松で敗北してる(5/5家康→小浜・間宮)
また、3月から戸木城
4月から松の木城、東駒野城
6月から河波城、
などを攻略していたが
いずれも落ちずに撃退されてる
6月は特に信雄から吉村などへ感状ラッシュで度々秀吉軍を撃退した功績を賞賛されてる
信雄が伊勢浜田城を攻略
http://iup.2ch-library.com/i/i1481150-1438828799.jpg
信雄が前田城攻略
http://iup.2ch-library.com/i/i1481152-1438828799.jpg
信雄が蟹江城攻略
http://iup.2ch-library.com/i/i1481151-1438828799.jpg
信雄が長久保城攻略
http://iup.2ch-library.com/i/i1481153-1438828799.jpg
信雄が下市場城攻略
http://iup.2ch-library.com/i/i1481154-1438828799.jpg

25人間七七四年2015/08/06(木) 11:46:29.48ID:HJCCR2d1
そもそも豊臣政権自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)

26人間七七四年2015/08/06(木) 11:57:02.03ID:HJCCR2d1
秀吉は天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。

27人間七七四年2015/08/06(木) 11:57:28.98ID:rH88oxEl
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな

28人間七七四年2015/08/06(木) 11:57:41.49ID:HJCCR2d1
さしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。

29人間七七四年2015/08/06(木) 11:58:24.50ID:rH88oxEl
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
秀吉自体が土下座と棚ボタと謀略で成り上がってきただけの人だから純粋な戦がゴミみたいに弱いのは仕方がない。
雑魚の毛利に連戦連敗するアホなんてそうそういないよ。
毛利なんて5万石程度の南条にすら攻略失敗したり20万石そこそこの宇喜多にも野戦でガチ大敗するくらい弱い軍隊なのに

30人間七七四年2015/08/06(木) 11:58:38.06ID:HJCCR2d1
信雄方は6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。

秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし

31人間七七四年2015/08/06(木) 14:10:05.77ID:fcT+tkjz
うぜぇ…信雄マンセーの織田在日がスレ崩壊させて戦国板を過疎化させるばかりだな。

32人間七七四年2015/08/06(木) 15:56:38.82ID:/DKGzAq7

   ̄ヽ、   _ノ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     `'ー '´
      ○
       O

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      ,r'         `' 、
     /             ヽ
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   ,,'  ;    ,、、,_  ニニ  ,、」、    
   l.  :;;;i    ´ .._`ー   ‐''"....|     
   l:,;'"`'、,     ‐=・-;  -・=‐ ;〈           
.   ';i l :::i;;,, ::'   ` ̄,:     ̄´ .:゙,   
    l;゙、',.::l;;;i     ゚人,,__,,人:..   l,      と思う菅沼遼太であった
    l;;;;`‐;;;;;ヽ     , __ij..__ 、:  l;;;,,  
. ,、rイ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ゝ    `Zエlフ'´ , !;;;;:'
'.:.:.l ll ;;;;;;;;;;;;;;;;;' ,rニン" ` ̄´´ `ノ;;;;;`-、
:.:.:.| l.l  '';;;;;;;;;;;;;;'         ,イ l'''  l `
:.:.:.:| ','、  '''''''''   , ‐---,ェr'".l.|  |  |
:.:.:.:|  ゙、゙、       `''''''''"",ノ l l  .|  |        

33人間七七四年2015/10/01(木) 18:34:19.93ID:Xwc87tQN
信長の先祖は越前国・織田剣神社の神官。
北陸を手に入れた信長は、勝家に命じて先祖の地である剣神社を手厚く保護させた。
しかし信長の没後、剣社社領を根こそぎ削った恩知らずの織田家旧臣が居た。
その男こそ秀吉である。

34人間七七四年2015/10/01(木) 19:21:45.28ID:mYWOiFT8
>>33
一次史料のソースを教えてねw

35人間七七四年2015/12/22(火) 17:21:22.79ID:dS7BPhVR
http://ninkyou.blogspot.jp/?m=1
ヤクザグッズなら当店にお任せ下さいませ。
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画像を御覧くださいませ!!

36人間七七四年2016/01/09(土) 13:19:18.36ID:qKrclJbv
>>1
清州会議辺りというか、
清洲会議の後からだな

37人間七七四年2016/02/15(月) 00:39:29.48ID:PAskrcJD
まさかのキチガイスレだった

38人間七七四年2017/01/22(日) 01:37:20.65ID:tzm2f2Bt
おばんです

39人間七七四年2017/03/09(木) 06:19:06.62ID:f6ouHZDT
age

40人間七七四年2018/03/18(日) 00:31:55.97ID:/E5M5UJU
sage

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