【無名】東京の武将たち【知りたい】 [無断転載禁止]©2ch.net

1人間七七四年2016/08/02(火) 15:33:35.60ID:DfuO35GJ
古くはレジェンド東京”武蔵武芝”、
時は過ぎて、その後の”戦国時代”、
武蔵国の内の多摩郡、荏原郡、豊嶋郡、足立郡、葛飾郡
に関連が深い東京武将たちを語りたい。
1千葉利胤
2三田綱秀
3吉良頼康
4太田康資
5大石定久
6宇田川定氏
7宮城政業
8牛込勝行
9板橋親棟
控え
豊島康保、豊島胤定、板橋忠康、小田朝家、小山田弥三郎
平山氏重、渋川義基、舎人経忠、舎人孫四郎、梶原助五郎
the北条
北条綱高、北条康種、高橋氏高、高橋高盛、南条重長、
遠山綱景、富永直勝
the徳川
板倉勝重、豊島信満、etc.

よろしくどうぞ。

2人間七七四年2016/08/02(火) 21:49:53.88ID:DfuO35GJ
東京武士の流れ

笠原直小杵(国造一族)が南武蔵(亀甲山古墳や芝丸山古墳など)
に拠点。その後、武蔵国造の乱で敗北。
→多氷屯倉(武蔵国多摩郡)が朝廷直轄領に。
→无邪志(むさし)と知々夫(ちちぶ)の領地が合体。
武蔵国多摩郡(府中市)に国府設置。
→武蔵武芝(足立郡司)

支配
武蔵武芝→平将門→平将恒
→豊島氏・江戸氏→扇ガ谷上杉・太田道灌
→北条→徳川

3人間七七四年2016/08/16(火) 16:52:37.13ID:h7+ISljr

4人間七七四年2016/08/16(火) 18:57:38.21ID:1sPu1VuQ
八王子の八王子

5人間七七四年2016/08/18(木) 10:49:35.87ID:qt4fcuz1
吉良=世田谷御所

6人間七七四年2016/08/20(土) 22:16:38.12ID:OVztGa/5
一応武蔵千葉は北条から優遇されてたみたい

7人間七七四年2016/08/22(月) 19:50:00.77ID:qwb8dnlZ
吉良の館は二子玉川にあったらしいな
高島屋の向かい側あたりに案内板があった気がする

8人間七七四年2016/08/23(火) 20:32:17.69ID:dgrqypVZ
そうなんだ
知らなかった
高島のどっち側だろ?

で喜多見(江戸)一族もよろしく

9人間七七四年2016/08/25(木) 22:53:44.25ID:IttD/4XC
あぁ喜多見藩は大事だ。
喜多見重政が生類憐れみの令に物申して改易されたって今は主流?

10人間七七四年2016/08/27(土) 20:42:55.38ID:w6FSTxMq
太田資正

11人間七七四年2016/08/29(月) 06:27:15.05ID:nG4iNlvi
豊島氏って戦国時代何やってたのかいな

12人間七七四年2016/08/30(火) 07:05:07.28ID:4C7PpGNP
頑張れば今川氏真・品川高久親子も東京かな

13人間七七四年2016/08/31(水) 12:36:02.69ID:aVglisUl
【関東】鎌倉・古河公方を語るスレッドU【擾乱】
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1155293770/l50

14人間七七四年2016/09/01(木) 07:43:57.87ID:QO5jTWbK
織田有楽斎

15人間七七四年2016/09/01(木) 21:55:14.84ID:MIya3X4m
大石氏が武蔵守護代で実質支配してたんじゃないの?

16人間七七四年2016/09/02(金) 05:41:00.04ID:X51X199q
>>15
僕はあんまり知識ないけど、
一時長尾氏が守護代になって、景春のときは景春、豊島、武蔵千葉、大石が
義兄弟、太田道灌いとこになり、太田が台頭し……
でも実質ってことなら争いが争いを呼ぶ中、
淡々と大石氏が支配してたのかなぁ
それとも西東京が大石、東東京が太田って感じなのかな。
でも定久は結局守護代で東の葛西城に別の大石氏がいるし、
やっぱり大石氏かな。
あと別の話だけど、定久の墓の並びに豊島勘解由左衛門尉康保と宗忠の
墓があるんだけど、船橋に夏見豊島勘解由左衛門尉胤定の記録もある。
道灌に追われた豊島氏は北に行ったのか、東(千葉、府川豊島氏もいる)
に行ったのか、はたまた西、大石氏に囲われたのか?

17人間七七四年2016/09/02(金) 21:58:57.09ID:yZ6KYEft
太田の台頭は太田道真からじゃないか?

18人間七七四年2016/09/02(金) 23:28:39.26ID:X51X199q
>>17
本当に知識ないけど
親父さんは相模守護代で道灌は武蔵守護代みたいだから。
その前は景信が武蔵守護代のようで。そういう意味で

19人間七七四年2016/09/03(土) 07:32:57.42ID:3SHL+uD8
武蔵武芝より大伴宮足じゃねぇか?

20人間七七四年2016/09/04(日) 17:36:00.86ID:CsTTvAmC
太田康資の兄の景資って康資離反後に江戸太田の当主になってんだな
んでひ孫の茂連が鍋島直茂の養女もらって佐賀藩の家老になってんのな
知らんかった

21人間七七四年2016/09/05(月) 12:02:30.37ID:eaDiCGDZ
宇田川定氏……天文2年(1533年) - 元和6年(1620年)
は後北条氏の家臣である。品川生まれ。通称は喜兵衛(きへえ)。
扇谷上杉家・上杉朝昌の子、扇谷上杉家当主上杉朝良の兄、
宇田川郷右衛門親定(東永)を祖とする一族。
宇田川喜兵衛定氏は江戸川区の葛西地区(宇喜田・北葛西・東葛西)や
ニ之江、港区の一部(旧称:芝宇田川町)を開発した。 by wiki

22人間七七四年2016/09/09(金) 14:13:28.84ID:Fi8bUHB9
名前も聞いたことないのしかいないな

23人間七七四年2016/09/12(月) 19:35:49.32ID:ybxGf8TO
重正もお梶の方も太田康資の子じゃないんでしょ?
まぁそれでも大名として江戸太田氏が残ったのはすごいね

24人間七七四年2016/09/22(木) 02:05:05.61ID:EBmMjeaf
大石定久の弟だか息子だかの憲重が太田資正の家臣の
大石石見守だって話あるけど、どなたか知ってる?
あと三田綱秀の三男の三田五郎太郎とまた太田資正の家臣の三田五郎左衛門
が同一人物って話も。
そうだとしたら浪漫があるね。

25人間七七四年2016/09/22(木) 23:03:37.97ID:/t0+T44+
武蔵守護は山内上杉氏だから、大石氏は扇谷じゃなくて山内系の重臣なのかな?

26人間七七四年2016/09/23(金) 08:01:07.29ID:MJK4y/fR
葛西氏の一族も東京にいたな。葛西の橋のあたり。

27人間七七四年2016/09/23(金) 13:46:14.02ID:k9Ql4VSH
北条二十将の行方弾正こと「行方直清」が入ってない
あと武蔵千葉は「利胤」じゃなくて「胤利」だろ
利胤だったら普通に下総千葉氏じゃん

28人間七七四年2016/09/25(日) 01:58:19.18ID:6bNQgqkv
☆室町時代後期
太田道灌→俺が扇谷をここまでにした→暗殺
☆戦国時代
太田康資→江戸城主じゃねーのかよ→離反
    →里見氏の家督争い巻き込まれ→死亡
☆江戸中期
太田資胤→水戸家老、地味に財政立て直しと民政の改革→致仕すると頓挫
☆幕末
太田資始→水野忠邦なんかクソ→徳川斉昭利用するぜ
    →お断り&水野にだだもれ→老中から罷免
    →老中再任したぜ、井伊よ、尊王倒幕志士弾圧はあんまり…
    →再び老中を罷免→再々々老中だぜ→在職1ヶ月で辞職
    →再々々々老じゅ…→話がまとまらないうちに死亡
太田資春→水戸家老、諸生派……

なんか惜しいぜ、太田氏

29人間七七四年2016/09/27(火) 06:54:38.91ID:84AfnlQb
1590年、私達内田氏の先祖は、板倉勝重とともに江戸へ入った

30人間七七四年2016/09/29(木) 16:31:31.67ID:9pZB2dqH
板倉勝重のじいさんが蕨城(東京ではないが埼玉最南部)の城主で
おじさん系統が継いで北条傘下に、武蔵千葉や江戸太田の所領近辺。
ひいじいさんは渋川義鏡
庶流が板倉

本人は愛知三河出身だし、蕨は東京じゃないけど
武蔵国新座郡、豊島郡に1000石をもらって、関東代官、江戸町奉行
だしギリ戦国東京関連武将かな

31人間七七四年2016/10/05(水) 20:33:48.39ID:5ZMvKMJp
牛込勝行→子の勝重が幕府旗本、子孫は長崎奉行の牛込重忝

32人間七七四年2016/10/13(木) 08:56:11.30ID:vq34zxoh
季龍周興

33人間七七四年2016/10/14(金) 00:22:59.26ID:T/J/X29e
太田資正はあえて抜いてるの?

34人間七七四年2016/11/08(火) 23:05:05.22ID:s7g+3YHI
島津忠貞…島津貴久の義伯父
流れて北条に。島津孫四郎が東京

35人間七七四年2016/11/09(水) 01:04:08.38ID:X1BEuDxD
【太田資正】さいたま〜の武将【成田長泰】
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1149995235/

36人間七七四年2016/12/13(火) 15:02:04.73ID:rZzXIi2a
上杉憲幸、長崎重光、師岡将景、布施出羽守、
仙波次種、由木左衛門尉、田村安清、山口高忠
山口氏は埼玉だったかな

って東京の無名武将に興味ある奴なんていないだろ

37人間七七四年2016/12/14(水) 18:42:27.98ID:axX3Af54
>>33
江戸の太田武庵斎日高がいるかね

38人間七七四年2016/12/14(水) 18:43:29.41ID:axX3Af54
>>37
訂正
>>33
江戸の太田武庵斎日高がいるからね

39人間七七四年2016/12/17(土) 00:18:47.49ID:uSyasDcA
里見八犬伝
犬塚信乃⇒武蔵大塚生まれ
犬川荘助→伊豆生まれ⇒武蔵大塚
犬山道節⇒武蔵国豊島郡生まれ
犬飼現八→安房洲崎生まれ→実父の糠助⇒武蔵大塚
犬田小文吾→武蔵国で船虫、犬坂毛野と出会う…w
犬江親兵衛⇒葛飾郡市川生まれ
犬坂毛野⇒武蔵千葉氏の重臣・粟飯原胤度の妾の子
犬村大角はなし。

ついでに曲亭馬琴は江東区出身

40人間七七四年2016/12/17(土) 20:53:07.47ID:k9fXrIrw
個人的には優良スレだわココ

41人間七七四年2016/12/18(日) 02:25:04.01ID:lQLV3E1E
>>37
三楽斎も豊島郡の石浜宗泉寺、
荏原郡の品川本光寺、同妙国寺に制札発行してるよん。

あんまり話題にならない&関係ないけど太田資正の三男で家督を継承した
太田安房守資武は結城秀康に仕え、松平忠直のもと大坂夏の陣の
越前勢の軍奉行をしたよん
案外幸村のライバルかもよん
あぁあと松平忠直の弟の松平忠昌は徳川頼房と振姫と共に
英勝院の猶子となってるよん、重正の子である太田資宗は養子だよん
やるね太田氏

42人間七七四年2016/12/19(月) 00:09:26.86ID:VDXv2iXN
>>41
案外幸村のライバル?
それはないだろw

こんなんあった
真田昌幸と太田資正はどっちがすごい?
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1473586602/

43人間七七四年2016/12/20(火) 11:46:39.81ID:nbLU2yoV
たしか旗本でその周辺の領地も持ってた人たち
中山照守横田尹松大岡清勝藤枝重家大久保長重

44人間七七四年2016/12/20(火) 23:16:21.16ID:ALWYXyzi
講談・軍記でしか確認出来ない非実在武将ばっか

45人間七七四年2016/12/21(水) 06:53:08.71ID:sBTGhJMQ
吉良成高

46人間七七四年2016/12/23(金) 10:51:57.28ID:DJsL5sWS
東京周り
八条兵衛尉景光(惟茂)…埼玉県八潮市八條、渋江氏の末裔
           葛飾郡の新方次郎太夫頼希と争う
伊達房実…太田氏、後北条氏の家臣。
     徳川氏に召し抱えられ江戸三番町角屋敷と
     武蔵国足立郡(埼玉県さいたま市見沼区)250石を与えられた。
伊奈忠治…武蔵小室藩主伊奈忠次の次男。
     関東代官職
     武蔵国赤山(埼玉県川口市赤山)
高城胤吉…千葉県松戸市
     葛飾郡東部一帯を支配

47人間七七四年2016/12/23(金) 10:52:33.64ID:DJsL5sWS
話はそれて、なんとなく東京って府中市の国府の影響圏と
国府台の国府の影響圏の間(当たり前に今は地理的に
府中市を中心とした東京なんだけど)だと勝手に思うんだけど、
だから国府台とかものすごく魅力的で、明戸古墳とかいいよね
スレチかな

4812016/12/24(土) 06:59:09.23ID:PmZ5Nwec
古くはレジェンド東京”武蔵武芝”や ”大伴宮足”、
時は過ぎて、その後の”戦国時代”、
武蔵国などの内の多摩郡、荏原郡、豊嶋郡、足立郡、葛飾郡
に関連が深い東京武将たちを語り合いたい。
1千葉胤利
2三田綱秀
3吉良頼康
4太田康資
5大石定久
6宇田川定氏
7宮城政業
8牛込勝行
9板橋親棟
控え
太田資正、豊島康保、豊島胤定、板橋忠康、小田朝家、小山田弥三郎、
平山氏重、渋川義基、舎人経忠、舎人孫四郎、梶原助五郎、
上杉憲幸、長崎重光、島津孫四郎、伊達房実etc.
the北条
北条綱高、北条康種、高橋氏高、高橋高盛、南条重長、
遠山綱景、富永直勝、高城胤吉、行方直清etc.
the徳川
板倉勝重、豊島信満、伊奈忠治etc.

少し修正しました。
よろしくどうぞ。

49人間七七四年2016/12/25(日) 21:32:36.60ID:kZPo/Fsj
武将じゃないけど
江戸の三甚内
・高坂甚内…風魔小太郎のライバル
・庄司甚内…吉原の仕切
・鳶沢甚内…江戸の古着商

50人間七七四年2016/12/26(月) 11:07:13.10ID:7NZ3t+al
>>26
葛西氏っておいやられたとき残った庶流とかいなかったのかな?

51人間七七四年2016/12/27(火) 13:22:10.19ID:0f9BXryZ
後北条がもっと評価されれば注目があがる人もいるかもね

52人間七七四年2016/12/27(火) 13:23:37.84ID:0f9BXryZ
ほいっ

【早雲】後北条家総合スレッド 其の五【氏直】
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386581460/l50

53人間七七四年2016/12/27(火) 13:34:45.60ID:vg6mAgeR
>>50
奥州の葛西氏なら大きくわけて2通り
・伊達に割といい身分で仕官できた連中。
・葛西大崎一揆で戦死もしくは謀殺。
割といい身分で伊達家臣となったか、一揆で死んでるので流浪派は少数

54人間七七四年2016/12/27(火) 21:24:32.12ID:0f9BXryZ
>>53
横からだがたぶん豊島氏から別れたての奥州行く前の葛西氏だと
思うぞ。葛飾に残らなかったのかという

55人間七七四年2016/12/28(水) 16:36:01.06ID:rwMY9T4J
>>48
もうちょい一人一人説明してほしい

56人間七七四年2016/12/29(木) 23:57:58.08ID:G4wI8JCA
徳川家康

57人間七七四年2016/12/30(金) 02:46:24.31ID:EO8QJMuB
安得虎子の新たな原本の話が他スレでも話題になってるけどさ、
安得虎子は後北条氏の書出写とかなんてのもあって
このスレも恩恵を受けれるかもね

58人間七七四年2016/12/30(金) 02:50:10.09ID:ZBs/ns1R
まあ今の東京なんて地方出身者の集まりなんだから気にするな

59人間七七四年2016/12/31(土) 17:15:25.89ID:p7mb7kao
こないだ松月院行ってきた。

60人間七七四年2017/01/03(火) 10:44:44.28ID:f2jRCnD7
【無名】吉田兼見の武将たち【知りたい】

61人間七七四年2017/01/03(火) 10:45:34.61ID:f2jRCnD7
誤爆

62人間七七四年2017/01/03(火) 11:32:28.54ID:6jZq3o5t

63人間七七四年2017/01/04(水) 07:58:28.67ID:kSglKqaf
北条氏照

64人間七七四年2017/01/05(木) 01:00:12.45ID:ayylq4V2
本田正勝… 太田康資家臣。葛西城を少数の忍と共に奪う。
(またはその子正家)
葛西城とは(大石→道灌・扇谷→北条→太田資正→北条→徳川)
下総に対して重要な城。

小田原衆所領役帳
赤沢千尋… 太田康資家臣。江戸衆。
恒岡弾正忠… 江戸衆。
竜崎文四郎
平塚藤右衛門
中村平次左衛門
中田藤次郎

あと牛込氏って大胡氏と江戸氏がいるのね

65人間七七四年2017/01/06(金) 03:30:15.76ID:575IFeYh
亀戸の小曽川小五郎

66人間七七四年2017/01/07(土) 00:43:33.29ID:VP2hZU+5
吉良成高
享徳の乱の時代、扇谷上杉持朝の女を妻とし、太田道灌と共に活躍。
「吉良閣下」、「吉良殿様」と呼ばれた。

吉良頼康
北条氏綱の娘を妻に迎える。
鶴岡八幡宮の造営に吉良頼康も協力した。このときの支援規模から
吉良氏の財力が相当なものであったことが分かる。
頼康もまた「吉良殿様」などと呼ばれる。
頼康は1560年に家督をゆずるまで北条に取り込まれながらも独立し、
かつほとんど戦をしない珍しい戦国大名である。

喜多見勝忠
吉良氏家臣、武蔵江戸氏。
小田原征伐後、徳川の家康の家臣となり改姓。
その後功績を重ね、孫の喜多見重政が喜多見藩主に。
(幕府の足元である江戸郊外、現在の東京23区に該当する地域内に
本拠地となる藩庁が設置されていた数少ない藩。)

67人間七七四年2017/01/07(土) 02:25:27.65ID:/WKBP1cO
牛込勝行の父大胡重行っていうか大胡氏って
わちゃわちゃしてるよねw
上泉信綱の上泉氏に、同じ一族の益田氏、
長野業正を輩出した上野長野氏やキタ条氏も絡んでくるし、名乗るし
その名の大胡城も城主が入ったり出たりで忙しいw

68人間七七四年2017/01/07(土) 02:56:47.69ID:0pPOf8V6
やっぱりキーパソンは太田資正だろ。
大石は義父、宮城は家臣、三田、康資は資正のもとへ逃げ込み。
武蔵千葉は石浜関連で絡んでるだろうし。
ここからはムリクリ……
宇田川は主君扇谷……吉良は道灌関係………牛込は…太田資清の連歌会で
………大胡氏が…やっぱ無理だな。
板橋親棟は……存在自体知らん。
でもキーパソンは太田資正だな。

69人間七七四年2017/01/07(土) 07:13:14.68ID:NR6fYET2
>>68
キーパソンってなんだよ
さておき確か大胡重行は扇谷上杉家臣だったはず

70人間七七四年2017/01/08(日) 02:53:37.87ID:5ELcz8G2
江戸の浅草鍛冶 近藤万栄

71人間七七四年2017/01/09(月) 10:31:10.61ID:jTTmZB0o
水を差すようで悪いが、「武蔵」は当時としては小説上のみに存在する国名。関東甲信越は甲斐と信濃しかなかったと思う。
現東京都は江戸時代の初めはほとんど人がいなかったと思う。あと、高橋とか明治時代のフリー苗字。北条は存在しない。「○田」は「○畳」の変え名字で「○畳」で意味が通じなかったら完全に偽物。
それと、武畳(今の武田)の熱心な配下。ちなみに京都に存在する名字「東条」は「武畳」が小説上で「むじょう」と呼ばれる頃の創作苗字。
他、出鱈目だらけ。解説略。

72人間七七四年2017/01/09(月) 16:42:44.31ID:Ia0FFLi9
>>71
その小説売れるといいな。映画化されたらまた情報くれ。

73人間七七四年2017/01/09(月) 22:19:16.64ID:yccpbZTN
北条綱高
父に高橋高種、弟に高橋氏高とされる。子に康種。
北条五色備の赤備え。
牟礼(三鷹市)に砦を構える。
江戸城城主も務めた。

北条康種
母は南条重長の妹。子に北条氏資(高橋種資)。

高橋種資
母は太田資重の娘。父ともに牟礼に移住し、その地を開墾。
諸々あり福島正則に従って関ヶ原の戦いに参戦。
最後はまた牟礼に帰郷した。

高橋氏高
烏山(世田谷)に砦を築く。
氏直に従い高野山に入山、氏直の死後に
帰郷し、武州烏山の砦に住む。

綱高、氏高の父の高橋高種は高橋長種の兄で、長種は高橋鑑種を養子にし、
その後高橋鑑種が家督を剥奪されると高橋紹運が名跡を引き継いだ。

南条重長
北条氏康から兎々呂城と深沢郷(世田谷区)に所領を与えられ、
その地に深沢城を築城。
元々この地は吉良氏の重臣、大平清九郎が領主であったが
永禄初期に氏康の直臣になり南条氏が入部した。

74人間七七四年2017/01/10(火) 07:20:10.62ID:UqmJgDsb
>>16
>>船橋に夏見豊島勘解由左衛門尉胤定の記録もある。

たしかそこら辺に千田千葉氏がいたはずだから、通字の「胤」も使われてるし
…と思って地図見たら同じ船橋でも遠かったわ。でも千葉氏関係だと思われ

75人間七七四年2017/01/10(火) 20:06:07.61ID:Z/gkknS1
北条綱高(爆笑)五色備(大爆笑)

76752017/01/13(金) 22:00:24.43ID:A517aVsJ
我ながら酷いレスしたもんだ

南条氏って一次史料では北条氏規の家臣じゃないっけ

77人間七七四年2017/01/14(土) 00:08:26.89ID:Yy4kK1IG
重長は北条分限帳だと伊豆衆みたいだよ
南条昌治披露状の南条昌治は北条氏規の家臣みたい
三崎衆とは別なんじゃないかな?

78人間七七四年2017/01/15(日) 21:39:22.22ID:oyCmQErX
堀江重次

79人間七七四年2017/01/15(日) 21:56:56.67ID:u37d23sJ
古河公方足利氏の本城は古河城、扇谷上杉氏の本城は河越城
山内上杉氏の本城は平井城、宇都宮氏の本城は宇都宮城
小山氏の本城は祇園城、那須氏の本城は烏山城
佐竹氏の本城は太田城、小田氏の本城は小田城
結城氏の本城は結城城、千葉氏の本城は本佐倉城
三浦氏の本城は岡崎城

つまり戦国時代までは

茨城>群馬>埼玉>栃木>千葉>神奈川>>>>>東京

80人間七七四年2017/01/16(月) 00:51:37.50ID:cqTzK/3v
>>77

あと南条氏って小田原衆にもいたんじゃなかったか?

81人間七七四年2017/01/17(火) 22:33:22.90ID:csJtXusn
>>68
埼玉の武将がキーパーソンって切ないな

82人間七七四年2017/01/18(水) 19:22:40.21ID:s0jpaYpO
会田幸久が小笠原長時→太田資正→北条氏康の家臣で江戸衆。

83人間七七四年2017/01/19(木) 22:13:33.10ID:Ql3Ou/+R
>>79
古河城と祇園城って北条氏照の管理下じゃん

84人間七七四年2017/01/20(金) 00:34:10.37ID:zx68aZaq
埼玉マンセー!

85人間七七四年2017/01/20(金) 01:33:06.93ID:bnKLPTNS
群馬>神奈川>茨城=栃木>埼玉>東京>千葉

>>79はつまり戦国時代まではと言ってるが
永享の乱、享徳の乱をあんまり意識してない気がする
あと東京の府中と品川湊、特に品川湊は割と誰もが押さえようする
重要拠点だよ、だから鎌倉府、上杉氏ともども押さえてる
千葉は安房里見氏は戦国からだし
下総千葉氏は一応公認当主は台東石浜で
下総自体は岩橋さんに乗っ取られたり崩壊してる

86人間七七四年2017/01/20(金) 16:19:06.99ID:gmx1op5U
>>83
なぜ後期だけで考えるのか

87人間七七四年2017/01/20(金) 23:05:20.14ID:U/8fXR9+
長井広直

88人間七七四年2017/01/21(土) 00:51:50.06ID:BN7qbKuM
平山氏重
武蔵七党のうち西党の一族。父政重は山内上杉氏、後に
後北条に属していたと思われる。
先祖が築城した檜原城の城主。
同族の平山光義は関東幕注文で上杉謙信についている。

小田朝家
父は小田氏治の兄、小田朝治。
朝治は小田家を出奔し、北条家を頼り北条氏照に仕えたという。
朝家は北条家滅亡後に松平忠吉に仕えた後、水戸頼房の家臣になったという。
北条に小田野城を任された小田野源太左衛門というものがいて経歴が似ていて
後に名を小田源左衛門と改めている。
朝家は小田源太左衛門なので同一人物の可能性がある。

小山田弥三郎
成瀬城があった地域に北条から他国衆で知行していた。
武田信玄の家臣の小山田信茂の兄で同じく家臣の小山田弥三郎信有がいる。
なぜ武田信玄の家臣が北条から知行していたか、または別人か
不明な点も多い。

89人間七七四年2017/01/21(土) 21:08:43.80ID:PGVqSqVv
>>64
本田は康資の家臣ではなく葛西城を手土産に
北条の家臣になったって説もあるね。

90人間七七四年2017/01/21(土) 21:44:57.65ID:jXA7XRIg
武蔵千葉氏はスルーですか

91人間七七四年2017/01/21(土) 23:37:23.28ID:Z2fsRMd1
割と触れられてね?

92人間七七四年2017/01/22(日) 09:00:36.33ID:bSkzXbyE
武蔵千葉氏か、自胤以降に詳しい人いる?
守胤は実胤の子で臼井氏の養子なったとか
胤利=憲胤で「憲」の字を山内上杉氏からの偏諱を受けているとか

93人間七七四年2017/01/22(日) 14:46:20.30ID:oQQzR6W0
朝倉兵次郎

94人間七七四年2017/01/23(月) 01:00:06.76ID:DQV7urWa
臼井守胤ってあまり聞かないけど…
千葉から養子として来た臼井持胤のことか?
それとも完全に別家か

95人間七七四年2017/01/23(月) 08:09:08.05ID:LFgt0FEz
いや持胤にも似てるんだけど
臼井系図で教胤(持胤の義父)の実子の俊胤の子に守胤がいるらしい
なぜか下総千葉親胤と法名と「武蔵国石浜の総見寺には家臣の砂尾修理が
守胤(または親胤)をまつるために千葉塚を建立した」ってエピが
一緒なんだとか
ただ親胤で石浜っておかしいしね
あと千葉胤富の子の千葉良胤も武蔵千葉氏と
混同されてる可能性があるみたいよ

96人間七七四年2017/01/23(月) 21:35:42.27ID:UeE88fvF
中条出羽守
北条江戸衆
多摩郡府田郷(調布市)274貫30文所領

中条(ちゅうじょう)出羽守と言えば北条の旧臣に中条出羽守持胤がいる
樋口信孝の母が持胤の娘であり、今上天皇のご先祖さまにあたる

97人間七七四年2017/01/24(火) 06:53:20.08ID:3Rz1BAZA
ちゅうじょう出羽守は本姓小野で八田(小田)氏の養子になった中条出羽守の後裔では

98人間七七四年2017/01/24(火) 09:09:28.94ID:uqBXj0VH
宇喜多秀家あぼーん名誉八丈島人

99人間七七四年2017/01/24(火) 11:13:45.35ID:raO+vuxV
家長だよね、藤原中条。
関東にも残った一族もいたようだよね。

10012017/01/24(火) 12:39:49.54ID:IQRowW5t
古くはレジェンド東京”武蔵武芝”や ”大伴宮足”、
時は過ぎて、その後の”戦国時代”、
武蔵国などの内の多摩郡、荏原郡、豊嶋郡、足立郡、葛飾郡
に関連が深い東京武将たちを語り合いたい。
1千葉胤利
2三田綱秀
3吉良頼康
4太田康資
5大石定久
6宇田川定氏
7宮城政業
8牛込勝行
9板橋親棟
控え
太田資正、本田正勝、喜多見勝忠、島津孫四郎、小田朝家、
小山田弥三郎、中条出羽守、豊島康保、豊島胤定、板橋忠康、
平山氏重、渋川義基、舎人経忠、舎人孫四郎、
梶原助五郎、上杉憲幸、長崎重光、伊達房実etc.
the北条
北条綱高、北条康種、高橋氏高、高橋高盛、南条重長、
遠山綱景、富永直勝、高城胤吉、行方直清etc.
the徳川
板倉勝重、豊島信満、豊島忠松、伊奈忠治、大岡忠真etc.

少し修正しました。
よろしくどうぞ。

101人間七七四年2017/01/25(水) 09:43:44.01ID:SaEoPi8s
小田原衆所領役帳なら
東京都港区飯倉で御馬廻衆の大草左近大夫康盛と
江戸衆の飯倉弾正忠、島津孫三郎

102人間七七四年2017/01/26(木) 09:22:06.00ID:qLrSWmfM
間宮綱信、梶原日向守、立川照重、斉藤政賢、細谷資道、
関兵部丞為清、山中内匠助頼次、伊丹右衛門大夫康信、
長井駿河守忠実、近藤出羽助実、小幡勘解由左衛門政勝、
桑原右京亮、上原出羽守、山下治部少輔、蒲田助五郎、
横地監物吉信、狩野一庵、金子三郎右衛門家重、貴志兵部正成、
青木内記庄右衛門、来住野善二郎、藍原孝遠、佐伯道永、有山源右衛門、
永島八兵衛、中島源右衛門、石川土佐守、島崎二郎、
柴田勝重、岡部小二郎

103人間七七四年2017/01/26(木) 09:37:16.03ID:AuXyRzGK
セシウムまみれトンキン

104人間七七四年2017/01/27(金) 11:29:54.10ID:hjqzefXG
太田真清、中条景信、河村弥次郎、小菅信久、興津甚次郎、
越智影好、森康秀、小野兵庫、田中助八郎、窪寺大蔵、平川左衛門、
蔭山大膳、山下治部、鴇田新三郎、牟久新次郎、小日向弥三郎、
綾部惣四郎、吉原新兵衛、石井兼実、萩野九郎三郎、良知弥次郎、
林光政

105人間七七四年2017/01/27(金) 11:45:04.15ID:hjqzefXG
、海老名左近五郎右衛門

106人間七七四年2017/01/29(日) 13:17:32.73ID:3Mxcdo8S
そういや安得虎子はなにか新情報でた?
個人的には六郷殿呼ばれたのは
上杉憲幸か蒲田致重なのかわからねぇかな

107人間七七四年2017/01/29(日) 22:51:03.46ID:NlY4A7np
上杉憲幸って実在しないじゃん

108人間七七四年2017/01/30(月) 12:29:24.90ID:EmIL/nWm
でもそれはそれで六郷「殿」や「殿」町の家格に見合う人物が
謎なんだよなぁ

109人間七七四年2017/01/30(月) 21:10:18.79ID:7pRdA7vg
所領役帳に殿と書かれてる人物に特別な格ないような気がする

110人間七七四年2017/01/30(月) 21:36:03.38ID:STNxmCaW
日本のヨハネストンキン

111人間七七四年2017/01/31(火) 11:43:31.04ID:VZ/cxN3B
じゃあ気分で敬称をつかったのか?

112人間七七四年2017/01/31(火) 20:47:10.92ID:OEKRqhRU
所領役帳で殿と書かれてる人物
北条一門
六郷殿(小田原衆)
武田殿(江戸衆)椎津武田氏
大森殿(江戸衆)
千葉殿(江戸衆)武蔵千葉氏
宅間殿(御家門方)宅間上杉氏

113人間七七四年2017/01/31(火) 20:53:05.69ID:OEKRqhRU
ちなみに
葛西様(御家門方)足利義氏

114人間七七四年2017/01/31(火) 21:13:36.48ID:OEKRqhRU
江戸、川越、入東郡、入西郡、高麗郡、葛西、六郷、稲毛、久良岐、小机、三浦、東郡、中郡、西郡、豆州
所領役帳は郷村が国・郡・領で識別されてるけど
六郷という地域に後世には伝わっていない戦略的な価値があったんだろうか

115人間七七四年2017/01/31(火) 23:04:35.82ID:VZ/cxN3B
もしかしたら品川湊とは別に重要な湊があったとかかな
今は京浜港だし、あとは吉良氏、江戸氏の抑えとか?
まぁ六郷殿が江戸氏なら抑えも何もないけど

116人間七七四年2017/01/31(火) 23:31:31.14ID:e2kZyPqM
六郷って今の六郷とは別のところなん?

117人間七七四年2017/02/01(水) 00:15:42.01ID:0imBfARA
三郷

118人間七七四年2017/02/01(水) 14:39:09.21ID:THsE+mxy
>>116
変わらないと思う。大田区の南のあたりで東京と神奈川の県境。
多摩川(六郷川)の河口の近くだと思う。

119人間七七四年2017/02/01(水) 22:03:59.94ID:V5YYYWdl
大田区の区名の元になった大森・蒲田を含んだほぼ大田区全域

120人間七七四年2017/02/02(木) 00:42:03.82ID:gALwa/aU
港と言えば小田原征伐で江戸朝忠が下田城に援軍としてだされたのは
吉良氏の海賊衆みたいなものだったからみたいだね

121人間七七四年2017/02/03(金) 21:07:14.67ID:HiDEp7M6
グーグルって便利だな
永正年間の山内上杉氏の家臣に六郷左衛門大夫という人物がいるようだ
この六郷左衛門大夫は書札礼の種本(足利政氏や佐竹殿庶子に対する書札礼)を所持していて
近藤山城入道(近山)がこれを書写して里見家の書札礼(里見家永正元亀中書札留抜書)を補ったらしい
所領役帳の六郷殿は六郷左衛門大夫の子世代だろうか
上杉氏や里見氏のスレで詳しい人に聞くといいかも

122人間七七四年2017/02/03(金) 21:17:43.21ID:BD82AqBv
トンキンヒトモドキ

123人間七七四年2017/02/03(金) 21:42:29.19ID:j4pcFBvZ
>>121
六郷氏自体は蒲田氏と同じく武蔵江戸氏の分家にいます。
ただ六郷殿がそのまま六郷氏かはわかりません。

124人間七七四年2017/02/03(金) 22:32:29.18ID:HiDEp7M6
この六郷左衛門大夫って蒲田氏じゃないでしょ?

125人間七七四年2017/02/04(土) 08:58:50.06ID:O8Mioam5
たぶん六郷冬重の子孫かな

126人間七七四年2017/02/04(土) 20:35:33.66ID:jBhdDxyj
誰それ

127人間七七四年2017/02/04(土) 20:58:58.64ID:jBhdDxyj
中田加賀守
小机衆。「所領役帳」では小机川島11貫550文・同矢上3貫870文の計15貫420文を知行。
1572年11月、雲松院の寺領鳥山の検地奉行(中田加賀守)

中田加賀守(〜1590)
足利義氏の奉行、のち小机衆。修理亮か。
1564年5月、公方奉行として野田氏への所領引き渡しに立ち会う(中田修理亮)
1581年カ4月、北条氏光の指示で星川氏に米一人扶持を支給(中田修理亮)
1585年9月、小机領恩田郷の検地奉行(中田加賀守代柴崎但馬)
1590年3月、上丸子郷と沼部郷の境界相論に小机衆の検使として立ち会う(中田加賀)
1590年6月、没(随流院墓碑「昌久道繁居士・天正十八庚辰六月十五日、俗名中田加賀守」)

中田藤左衛門(〜1635)
加賀守の次男という。北条氏の滅亡後帰農し子孫は代々小机領川島村の名主。
1635年6月、没(正観寺墓碑)

中田藤次郎
江戸衆。「所領役帳」では稲毛子母口15貫180文を知行。

中田彦七郎
江戸衆。太田康資の寄子。「所領役帳」では康資知行から稲毛鹿島田借宿2貫500文・同小田中1貫200文の計3貫700文が中田某に給されている。
1561年8月、北条氏尭によって稲毛庄木月郷の彦七郎らの所領が市野氏に与えられた(中田彦七郎幷賀藤分)

128人間七七四年2017/02/04(土) 21:17:16.30ID:jBhdDxyj
興津加賀守
江戸衆。「所領役帳」では江戸落合20貫570文・同桜田30貫700文・同小日向12貫946文の計64貫216文を知行。

興津甚兵衛尉
足利義氏の奉行。「所領役帳」で東郡葛原10貫文の知行に加え御蔵出14貫文を給されている興津殿か。
1564年5月、公方奉行として野田氏への所領引き渡しに立ち会う(興津甚兵衛尉)

興津右近
1562年4月、葛西城攻略で武功を挙げ北条氏政より感状を賜わる(興津右近)

興津加賀守
江戸衆。
1590年3月、上丸子郷と沼部郷の境界相論に江戸衆の検使として立ち会う(興津加賀)

129人間七七四年2017/02/04(土) 21:43:42.01ID:jBhdDxyj
中田藤次郎(1559年頃)→中田修理亮(1564年〜81年頃)→中田加賀守(1585年頃〜)もあるか

130人間七七四年2017/02/05(日) 02:08:59.38ID:yiR4w80d
>>126
六郷四郎冬重は江戸重長の子(この重長は重継の子の江戸氏二代目の重長
とは別人、たぶん三代目忠重のこと、Wikiでは七代目)
兄弟に江戸太郎重盛、木田見次郎武重、丸子三郎家重、柴崎五郎重宗、
飯倉六郎秀重、渋谷七郎元重がいる
六郷氏の祖

蒲田氏
江戸正長の子、蒲田忠武が祖
御北条時代は蒲田致重や孫の重武

応永の頃に紀州熊野神社の御師が書き留めた「武蔵国江戸氏書立」では
六郷殿から始まり、蒲田、飯倉……と続く
この頃は江戸氏の宗家は力を失い、支流が台頭している
さらに後北条時代は蒲田氏が強く活躍している

上杉憲幸、氏幸親子
上杉憲幸は山内上杉氏のもとで武蔵北蒲田にあった城の城代を
務めていたという、妙典寺過去帳の当寺大旦那上杉六郎殿とある
氏幸は御牢人と記されるため、名ではなく敬称の六郷殿と
記されたとされる、ただし二人とも上杉系図にはいない

131人間七七四年2017/02/06(月) 06:09:13.92ID:CaptM42J
でも六郷ってほとんど行方氏が知行してね
まぁこの行方氏も羽田に鎌倉時代からいるだの、山内上杉が常陸から
連れてきただの、扇谷上杉家臣だったの、玉縄にいただの…
ただ行方淡野守幸松が享徳の乱で上杉から感状がでてるみたいだから
北条からって感じではなさそうだけど、客分だし案外六郷殿&
上杉憲幸関連かもね
>>114
六郷神社なんかは平安時代からみたいだし、府中や八王子関連で羽田浦
(蒲田浦)はそれなり栄えてたようだ
あと行方氏は羽田水軍で玉縄衆

132人間七七四年2017/02/08(水) 10:37:39.74ID:LMet2IRC
島津孫四郎は永久になるん?

133人間七七四年2017/02/08(水) 10:38:38.65ID:LMet2IRC
永久(ながひさ)

134人間七七四年2017/02/09(木) 12:32:07.89ID:1MjvOYtN
八丈島
朝比奈六郎知明
朝比奈孫太郎泰知
朝比奈泰寄

板部岡江雪斎

135人間七七四年2017/02/09(木) 21:43:39.91ID:C3wZqwXd
太田康資の寄子入れたら収まった

興津加賀守
江戸衆。「所領役帳」では江戸落合20貫570文・同桜田内平尾方30貫700文・同小日向方12貫946文の計64貫216文を知行。

興津加賀守
江戸衆、太田康資の寄子。右近丞。「所領役帳」では康資知行から江戸下渋谷6貫500文が奥津方に給されている。
1562年4月、葛西城奪取の功で北条氏政より感状を賜わる(興津右近)
1562年カ8月、北条氏政に家屋敷等を安堵される(奥津右衛丞)
1590年3月、上丸子郷と沼部郷の境界相論に江戸衆の検使として立ち会う(興津加賀)

興津甚兵衛尉
足利義氏の奉行。「所領役帳」で東郡葛原10貫文の知行に加え御蔵出14貫文を給されている興津殿か。
1564年5月、公方奉行として野田氏への所領引き渡しに立ち会う(興津甚兵衛尉)

136人間七七四年2017/02/09(木) 23:04:01.06ID:acEMScLM
興津良信
どれかの加賀守の子、1542年生まれ、小田原籠城
子の良次は伊奈忠次に仕えた

太原雪斎の母が興津正信の娘で…
興津氏って今川から流れてきてるのね

137人間七七四年2017/02/09(木) 23:16:17.87ID:IJLtsXvW
ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンスタイン
日本名は耶楊子
耶楊子→八代洲→八重洲
東京八重洲の語源だと
1600年に豊後に漂着

三浦按針じゃない方w

138人間七七四年2017/02/10(金) 00:22:36.55ID:UmVF2iEc
タイトル見て長尾景春の乱あたりの話ばっかかと思ったら
違って草

139人間七七四年2017/02/10(金) 22:37:57.12ID:S9NV2W/g
興津良信(甚左衛門)
興津良次(角左衛門)
検索したらぽんぽん出てきて「おぉ!」て思ったけど
>興津彦十郎(今川義元に仕へ桶狭間合戦に討死)―加賀守(今川氏に仕へ駿州興津に居る、其後北条氏に従ひ江戸城を預かる)―良信(小田原籠城す)
系図がこれだと信憑性低いかなあ
1610年に現役で幕府代官を勤めている甚左衛門良信が1542年生まれの68歳っていうのもどうかと
仮名の甚左衛門は加賀守より甚兵衛尉の縁者っぽいかな

140人間七七四年2017/02/13(月) 21:34:52.59ID:+xceZft9
寛永諸家系図伝の編纂過程であるとか所領役帳が世に出る前に作られた系図だと
桶狭間以前から北条氏に仕えていた興津加賀守は知られてなかったのかも

141人間七七四年2017/02/15(水) 22:07:34.71ID:ghJ70WyL
 幕臣興津氏(1610年より前に幕府に仕えた)
系図「興津彦十郎(今川義元に仕へ桶狭間合戦に討死)―加賀守(今川氏に仕へ駿州興津に 居る、其後北条氏に従ひ江戸城を預かる)―良信(小田原籠城す)」

 尾張藩士行方氏(尾張藩の前身の忍城主松平忠吉に仕えた)
系図「原信濃入道朗意(文明二年八月武州水判土にて逝去)……妹尾下総守蓮意(秀吉之軍と戦ひ武州岩築城二之丸戦死)―妹尾三河守(越前秀康君奉仕、法名信行院殿蓮頂日受)、弟行方修理大夫(武州荏原郡六郷之城主、北条氏政に属す)」

 相馬藩士蒲田氏(1614年より前に土井利勝に仕えたのち相馬藩士となる)
系図「江戸四郎重継後裔江戸新五郎致重武州六郷蒲田に住す 、故に氏を蒲田と称す」「致重(下総守)ー定重(下総介)ー重武(左京亮)ー重吉」
妙典寺墓碑「蒲田下総守致重入道重蓮墓碑・慶長十三年三月二日卒・年九十余。五世孫兵庫重行謹建・元禄十二年五月二日」

 上杉憲幸
妙典寺過去帳「大旦那六郷殿・清天院朗忠日杉・天文十二年壬子十月十四日」

高野山高室院にあった所領役帳が書写して持ち出されたのが1692年(元禄5)だから
これより前に子孫を称した者たちが所領役帳にしか見られない興津氏や六郷殿を知らないのも無理はないんだな
上杉憲幸・氏幸の過去帳が1692年以前に書かれたものなら六郷殿の信憑性高いんじゃない

142人間七七四年2017/02/17(金) 14:14:18.02ID:8qa7OSF2
>>2
東京武士の流れ

笠原直小杵(国造一族)が南武蔵(亀甲山古墳や芝丸山古墳など)
に拠点。その後、武蔵国造の乱で敗北。
→多氷屯倉(武蔵国多摩郡)が朝廷直轄領に。
→无邪志(むさし)と知々夫(ちちぶ)の領地が合体。
武蔵国多摩郡(府中市)に国府設置。
→武蔵武芝(足立郡司)

支配 武蔵武芝→平将門→平将恒→(※)
→☆豊島氏・★江戸氏・△他→扇谷上杉・太田道灌
→後北条→徳川

※鎌倉幕府&鎌倉公方&関東管領
平将恒→平直方・源頼信・頼義(平忠常の乱、頼信平氏に婿入り)
☆豊島氏は源頼義・義家に従う
★秩父重継が後三年の役の後、武蔵江戸郷を領す
→源為義(義家次男の子)
為義は嫌疑の義忠叔父の義綱を捕縛、京へ(義家の三男義忠暗殺事件)
→源義朝(父為義とは逆に東国に下向)・藤原頼信(武蔵守、
嫡男信親と平清盛の娘が婚姻、義朝・義平とも近づく)
→源義平(義朝長男、義朝は上洛)vs源義賢(義為三男)
☆保元の乱で源義朝の配下に豊島四郎
★義平が義賢とその舅の秩父重隆(秩父重継の兄)を討ち取る
△平山季重が義朝軍
→源頼朝(義朝三男、清盛によって義朝、義平、藤原頼信が討たれる)
☆豊島氏は頼朝に仕えた
★江戸氏は初め対立するが最後は畠山氏、河越氏と共に帰伏する
 その後、江戸重長が武蔵の在庁官人や諸郡司を統率して国の諸雑事を
 沙汰する権限を与えられた。

143人間七七四年2017/02/17(金) 14:14:39.51ID:8qa7OSF2
→北条・畠山
☆承久の乱に幕府軍に豊島九郎小太郎、豊島十郎
★畠山重忠の乱で幕府方として参加
→足利尊氏・義詮・基氏・高師直・畠山国清
☆豊島重径、家信が北条仲時とともに自刃
☆★豊島氏、江戸氏など足利義詮の合流に伴って鎌倉攻めに参加
→足利直義・足利基氏・氏満・上杉憲顕・能憲・上杉朝房
☆★武蔵平一揆に参加
→足利氏満・足利満兼・上杉朝宗・上杉憲定
→足利持氏・上杉憲基vs犬懸上杉禅秀
☆★上杉禅秀の乱で豊島氏、江戸氏は足利持氏に味方
★水戸地方に江戸氏の所領が給付
△平山三河守正恭が公方方として活躍
→足利持氏vs上杉憲実(幕府)
☆結城合戦で小幡豊前守の首を豊島大炊介が取る(上杉方)
★結城合戦で江戸八郎の首を長井六郎が取る(結城方)
→上杉憲忠/扇谷上杉持朝・長尾景仲vs足利成氏
☆豊島弥三郎、豊島左近将監が戦功を挙げている
★江戸の地は江戸氏が去った後に太田道灌が進出(江戸氏没落)
→上杉房顕・顕定・扇谷定正・堀越足利政知・渋川義鏡・犬懸教朝
(上杉定正vs渋川義鏡・犬懸教朝)vs足利成氏・長尾景春
☆豊島氏当主泰経が景春に味方し太田道灌に敗れる(武蔵を去る)
→上杉顕定・堀越政知vs足利成氏・扇谷定正・伊勢宗瑞
→上杉顕定(vs上杉定実・長尾為景)・足利政氏vs扇谷朝良・伊勢宗瑞
→扇谷朝良・朝興・上杉憲寛・小弓足利義明・武田信虎vs北条氏綱
(上杉憲寛vs上杉憲政、小弓足利義明vs足利高基vs足利晴氏・北条氏綱)
→上杉憲政・扇谷朝定・今川義元・武田信虎vs北条氏康・足利晴氏
△平山政重が上杉に属す
→上杉憲政・扇谷朝定・足利晴氏vs北条氏康・今川義元・武田晴信
△平山氏は後北条に下り、戦死した政重の遺児氏重が檜原城主となる

144人間七七四年2017/02/17(金) 16:00:07.47ID:3NexAwXO
うちの近辺は徳川が来る前は新藤下総守が治めてたみたい

145人間七七四年2017/02/18(土) 01:50:26.05ID:XtnNOzva
>>141
興津氏って北条でどのくらいの地位なんだ?

146人間七七四年2017/02/21(火) 22:31:37.07ID:ClXAjMyQ
江戸衆で言えば
遠山>富永>太田>島津>伊丹=小幡=朝倉=梶原>興津氏>etc.
って感じじゃね

147人間七七四年2017/02/23(木) 09:33:18.76ID:lh4aVwR1
富永の方が本丸だよ

148人間七七四年2017/02/23(木) 21:06:39.10ID:Zyjhmi21
江戸衆の検地奉行というから中級の実務系なんじゃない

149人間七七四年2017/02/23(木) 23:15:35.27ID:Zyjhmi21
>>143
常陸の江戸氏は那賀氏だよ

150人間七七四年2017/02/25(土) 02:27:23.30ID:TT/wNIaj
右:千葉胤利
中:三田綱秀
三:吉良頼康
一:太田康資
捕:大石定久
DH:宇田川定氏
遊:牛込勝行
左:平山氏重
二:板橋親棟
投:江戸朝忠

控え(18人)
北条氏照、太田資正、遠山綱景、富永直勝、
高橋氏高、行方直清、師岡将景、長崎重光、
中条出羽守、渋川義基、上杉憲幸、本田正勝、
宮城政業、豊島経忠、島津永久、板倉勝重、
伊奈忠治、大岡忠真

151人間七七四年2017/03/02(木) 17:11:20.08ID:4jsZjBtW
武蔵千葉と下総千葉って別れてから仲違いしてたのかな。
胤宗が戦死したとき、江戸衆、小金衆、それから「臼井衆」が河から
攻めてる。
もしかしたら親胤が武蔵下総をつなごうとして暗殺されたとか
妄想してみる。

152人間七七四年2017/03/03(金) 13:33:04.16ID:YhaqvCnl
>>149
申し訳ない
削除)★水戸地方に江戸氏の所領が給付

153人間七七四年2017/03/03(金) 18:21:28.74ID:RG35XdwT
板橋郷土資料館が武蔵千葉氏だしてるな
買って見ようかな

154人間七七四年2017/03/04(土) 00:45:02.01ID:9JeJJgRT
>>153
黒田先生が公演にいらしたんだよ
俺見に行った

155人間七七四年2017/03/04(土) 16:42:56.90ID:tYtxnLqF
>>154
ぶっはっ
うらやましいぃ
どんな話した?

156人間七七四年2017/03/04(土) 17:42:31.70ID:Hll8kKWZ
最近の研究では「よりたね」じゃなく「これたね」

157人間七七四年2017/03/04(土) 21:51:32.45ID:IvE5phUI
>>141
行方氏の本家なのに所領役帳に載ってない妹尾氏が六郷殿かも

158人間七七四年2017/03/05(日) 02:50:31.32ID:5ffBx0RN
舎人氏(足立)
有名なのは大道寺政繁の養子になった大道寺直英の実父で
舎人城主の舎人経忠
それから舎人土佐守重貞?の子?の太田資正の家臣で
資正の命を救った逸話で有名な舎人孫四郎(重長?)
この二人は甥(経忠)と伯父(孫四郎)の可能性あり
資正が氏康から離れたとき二つに分かれたか?
結局舎人の地はどちらが領したか…
舎人の地は両勢力の境のあたりなので…
それから平手政秀の生母が武蔵舎人城主の舎人三河守輝季(輝秀?)
の娘らしい
そして平手政秀の養女が産んだのが舎人八左衛門
この舎人八左衛門は沢庵和尚らしい
まぁよくわからんが…

補足で大道寺氏(直英)は福島正則の養子の正之の子直秀が婿養子になって
さらに津軽信枚の七男大道寺為久が直秀の婿養子になって幕末まで続いた

159人間七七四年2017/03/05(日) 09:20:28.33ID:Cv2h/aVn
妹尾氏って千葉氏の家宰・原氏の末裔で行方氏の本家で北条早雲の親戚なんだね
凄いな
これは六郷殿だわ

160人間七七四年2017/03/05(日) 16:35:10.41ID:C2TJnwxb
太田家にも妹尾兼延や下総守がいたようだね。
行方氏関連では三河守か。
でもなんで早雲の親戚がなぜ太田に仕えるのだろう。
その後は結城氏に仕えるすごい家のようだけど六郷殿は薄いんじゃないか?

161人間七七四年2017/03/05(日) 17:06:13.74ID:rY7tcJFq
>>154
2015年か知らなかった
なにか新しい話とかあった?

162人間七七四年2017/03/05(日) 20:12:07.74ID:Pl7SUMp7
血縁と地縁の兼ね合いだな地元民の意向を無視しては家が成り立たないだろうし

163人間七七四年2017/03/10(金) 07:41:27.84ID:eTnQb05X
匝瑳信利

164人間七七四年2017/03/11(土) 14:35:52.34ID:iLQSXZug
東京は原島って苗字が多いらしい
原島善六郎
原島友安
原島孫二郎
原島新右衛門
原島新三郎
ここら子孫みたい

165人間七七四年2017/03/14(火) 14:05:22.23ID:SIcc3TqT
高坂甚内
甲州流忍者
徳川に雇われ風魔小太郎を捕縛
他に高坂昌信の子、宮本武蔵の弟子とも

166人間七七四年2017/03/15(水) 03:18:28.90ID:tnQO3OJw
そもそも風魔小太郎が架空
徳川に雇われたなんて記述も存在しない
よくコアな知識者があつまるスレでそんなクソみてえな知識を披露できるな

167人間七七四年2017/03/22(水) 08:21:45.08ID:JHiQQGmI
赤塚城に小田原の役で守備についた、松戸将監という武将は、名前以外謎だな。付近に子孫らしき人はいるけど。
あと、大塚某とかいうのがかなり所領持ってたみたいね

168人間七七四年2017/03/22(水) 14:59:50.09ID:8+n07MXd
訂正。将監じゃなく越前守

169人間七七四年2017/03/25(土) 00:05:07.67ID:TvvHl9He
あぁ胤宗の与力ね
あと板橋肥後守だよね
板橋忠康系だと思うけど親棟とは関係ないのかね?

170人間七七四年2017/03/27(月) 01:44:44.45ID:OXlah/e3
曾我祐重…扇谷上杉時代の江戸城代
この頃江戸太田は山内から帰参した頃で江戸にはもどれず
現在の赤羽あたりにいた
曾我神四郎…後北条と上杉の戦いの先鋒

171人間七七四年2017/03/27(月) 13:34:05.52ID:trXJYO/X
東京の戦国時代の本って無いですかね
各区史くらいしか見つからない

172人間七七四年2017/03/27(月) 21:50:20.94ID:84RKVahq
>>171
葛西城に関するものをジュンク堂で見かけた気がする。
あとはこんなんとかどう?

ttp://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/15148/KJ00005098490.pdf

173人間七七四年2017/03/27(月) 23:09:07.89ID:trXJYO/X
>>172
ありがとうございます!
葛西の本は確かに見たことがあります
やっぱり千葉氏秩父氏関連で洗っていくと見つかりやすいのだろうか
論文ってインターネットで結構見つかるんですね調べてみます

174人間七七四年2017/03/28(火) 00:57:23.89ID:GEWHB+qs
黒田基樹
・豊島氏とその時代 東京の中世を考える

175人間七七四年2017/03/28(火) 06:20:57.19ID:8u18z3i3
黒田基樹氏や、加藤哲氏の著作を追うと良いかも

176人間七七四年2017/03/29(水) 14:55:17.35ID:KWHVLSKO
>>172
赤塚郷が勲耕の賞で足利直義→正室渋川頼子→姪幸子→鹿王院に寄進
→武蔵千葉氏が簒奪→鹿王院が抗議って結構おもしろいね
松月院の自胤の妻の墓は別人らしいね、松月院自体は宝持寺として
自胤前からあるそうだ、だから妻とされる墓は尼さんの墓らしい
自胤の墓自体も後世のらしいよ

あと赤羽郷でこんなんあった、武将関係ないけど
http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/10778/1/shigaku_60_wakasone.pdf

177人間七七四年2017/03/29(水) 22:12:15.77ID:4BdPZtzG
鑑定団に間宮主水助宛の氏政感状2通が出てたけど
豊前守康俊系(康信、直元 玉縄衆)
若狭守綱信(氏照の重臣 滝山衆)
武兵衛・造酒丞(甲斐武田氏に寝返る)
主水助系(子孫は丸亀藩家老系と武蔵在郷の杉田氏系、真里谷武田氏が外戚の間宮主水を継いだとも)
無理して一つの家系にしちゃったのか間宮氏も複雑だよね

178人間七七四年2017/03/29(水) 23:27:55.09ID:ZK9iri+F
>>174
そういえばこれ欲しいと思ってたんでした!ありがとうございます
>>175
加藤哲さんは初めて知りました調べてみます
>>176
奉寄進 宝持寺
赤塚郷年貢之内弐拾貫文同谷田之年貢弐貫文并平沼作田伍反同郷内戸田袋野之事永代可有御成敗状如件
延徳四年十一月五日 玄参
宝持寺
という寄進状が区史の資料に載ってました(玄参は千葉介自秀、自秀は新編武蔵風土記稿によると自胤のことらしい)
もと真言宗の宝持寺に玄参が開基になって寄進して曹洞宗の寺院の宝持寺松月院にしたと

179人間七七四年2017/03/30(木) 00:36:52.16ID:IN8kuqI+
>>177
康俊と綱信は信元の子で兄弟?
信元は扇谷上杉から北条に鞍替え?
間宮武兵衛は康次で間宮造酒丞は信高で康俊の子?
合ってる?

主水は信安と長安かぁ、年代的には信元以前で分かれてるよなぁ。
長安の母は行方系のようだ。

180人間七七四年2017/03/30(木) 01:53:24.63ID:TAc5zn1S
湯浅治久曰く
石浜あたり(千束郷)の地は鎌倉時代、千葉氏が関わってた可能性があるらしい
この地は江戸重長が大福長者と呼ばれるいい地でその前の時代は
関東御領で管理が千葉氏だったとのこと
武蔵国浅草大工字郷司しかり今戸焼しかり浅草付近はかなり昔から栄えたっぽい
その地を戦国時代に武蔵千葉氏が大石氏から支配を移したのはなんか灌漑深いね
ちなみ兄は実胤は山内、弟自胤は扇谷って感じらしい
一度成氏が孝胤を取り除き、実胤を下総戻そうとしたけどだめだったらしい
道灌は武蔵から逃げた実胤より残った自胤を評価したけどね

181人間七七四年2017/03/30(木) 08:42:23.77ID:/ehSLSFh
>>180
自胤が入った赤塚城って随分不思議な形なんだよね。
土塁の内側に堀があったり、溜池が水堀がわりになったり。で、北の防御だけやたら厚い。

182人間七七四年2017/03/30(木) 22:11:38.19ID:94SrvYH2
>>179
おおよそそいうことになってるようだけど
康俊・康次・康信が親子で氏康から偏諱貰って弟が綱信だったり
間宮主水の家は甲斐武田の旧臣かつ真里谷武田とも姻戚で康俊の4子信高を養子に迎えたのが造酒丞だとか
どうなんでしょうね

183人間七七四年2017/03/31(金) 00:29:16.90ID:k9DPDhZU
>>182
なるほど。
複雑ですね。綱信は氏綱から…綱信が弟じゃない可能性もありそうですね。
信元の弟とか…
もっと書状とか発見されるといいですね。

184人間七七四年2017/04/01(土) 09:03:49.96ID:Rdq/pcJl
板橋親棟
(いままでなかったようなので)
武蔵国板橋出身、まず扇谷に付いていたが他の武蔵国の者にもれず
北条につく。その後、北条から壬生に客将として仕える。
宇都宮方の板橋城を奪う(板橋郷ならび板橋城は親棟由来らしい)
綱房の没後、その子綱雄が徳雪斎に暗殺されるとさらにその子の義雄
につき徳雪斎や鹿沼右衛門を討ち取った。(徳雪斎は諸説)
壬生氏も親棟も小田原征伐で北条方でやぶれ、衰退、滅亡する。
ちなみに板橋氏といえば子孫が旗本、板橋宿の盟主の忠康が有名なのだが
親棟が武蔵に置いてきた子の流れという説もある。一緒についていった子
行常の子孫は松平康長に仕えたという。

壬生氏独立の立役者であり、北条方としても宇都宮方面で活躍し
義雄の時代も老将でありながら信頼の厚い武将としてその人生に幕をとじた。
まぁ伝によればだけど。墓は両板橋にある。
個人的には小田原征伐前の多気山城合戦(北条vs宇都宮・佐竹・結城)では
かなり活躍したんじゃないかと思ってる。佐竹が何度も攻めた鹿沼には板橋
親棟がいたんではないかとそしてなかなか落ちなかったんだと思う。

185人間七七四年2017/04/01(土) 15:06:01.36ID:kb/ML6eC
>>184
この客将になった経緯がずっと気になってる。
人質とも違うし

186人間七七四年2017/04/01(土) 23:42:57.36ID:Rdq/pcJl
>>185
板橋将監の供養塔には
「板橋氏は武蔵国(東京都)板橋領主の出で、
小田原北条氏の被官(ひかん)であったが、
北条氏と鹿沼城主壬生氏との同盟関係によって、
壬生氏を援助するためにこの地方へ来た。」
と、あるね。
一応…板橋城は永正の頃に遊城坊綱清が築城したようだ。
遊城坊は代々宇都宮氏一族が出家して住職となり、板橋郷等を社領とした。
それから天文年間の頃、鹿沼城主で日光山御神領惣政所の壬生綱房は、
遊城坊綱清が宇都宮氏と結ぶことによって自らの地位を向上させようと、
兵を集めていたことに不安を感じ、北条氏の力を借りることにした。
そこで派遣されたのが板橋親棟で、遊城坊綱清を潰しそのまま
板橋の地を治めた。らしいよ。(ちなみに板橋氏が由来なら
郷も城も元々なんだったんだろう……)
このことから見てもとても戦上手だったんだろうなと思う。

187人間七七四年2017/04/02(日) 01:35:50.49ID:faFl48+6
「国宝松本城を世界遺産に」推進実行委員会事務局のクイズの
7-1のガイドにて
武蔵国に残った親棟の次男坊は「親恒(ちかつね)」だとさ〜
ここで忠康とつながるみたいよ

188人間七七四年2017/04/03(月) 12:05:20.08ID:Jk6R7Sw1
牛込勝行の子勝重の妻は遠山綱景の娘

189人間七七四年2017/04/04(火) 07:37:43.53ID:uSoJBCVj
なら吉良成高の妻は上杉持朝の娘だぞ
…なら!って意味は全然ないけど

190人間七七四年2017/04/05(水) 05:53:03.63ID:ps6oCsyC
>>172-173
ちょい前のNHK高校講座日本史(司会が桐島里菜の時)で戦国期葛西城の特集やってた

191人間七七四年2017/04/05(水) 18:51:16.44ID:ud9bjywL
観てないけど
ttps://www.youtube.com/watch?v=LwjL0RfVUwo
この人のかな?

192人間七七四年2017/04/12(水) 20:12:20.37ID:QCuJiDAH
最近は吉良頼康の肖像とされたものは武田信玄のらしいね
武田信玄とされたものはじゃあ逆に吉良!?

193人間七七四年2017/04/15(土) 13:50:48.54ID:gcgMp5jD
大平清九郎と常磐姫

194人間七七四年2017/04/15(土) 20:29:45.74ID:OXv3dQ0G
吉良頼康像の花菱は子房が4つ描きこまれてるから
武田花菱ではないんじゃない?
信玄像と特定するには弱いと思う
なにより威厳に欠けブサイクだ

195人間七七四年2017/04/16(日) 22:21:44.98ID:InbOjWGS
>>194
ちょい待て
その肖像が吉良でも武田でも最後の文章は
ひどいな
徳川なんて……

196人間七七四年2017/04/17(月) 08:21:05.13ID:leF35+e2
吉良と言えば14世紀に新倉を安堵された吉良亀松がいたなぁ

197人間七七四年2017/04/18(火) 07:15:46.90ID:4zNKMbZD
蔭山家広が吉良の小指南になってるけど
黒田氏の説を採用すれば「指南・小指南」は
指南が格上側、小指南が各下側なんだと。
だとするとこの頃はまだ吉良が格上だったか、または家広は
元々は吉良家臣だったんだな、義氏元服前後で前者か後者かわかるな。
蔭山氏自体、足利の庶流だから後者だと思うが。
その後北条家臣になってるの見るとだいぶ吉良氏から北条氏に家臣が
流れたんだな。

198人間七七四年2017/04/18(火) 13:09:53.79ID:TPxwy2qi
北条は義氏の前に吉良左兵衛佐頼康を関東公方にする気だったみたい
左兵衛佐が公方に繋がるみたいよ(鎌倉公方が左兵衛督)

199人間七七四年2017/04/18(火) 13:43:16.62ID:SV7uaqwZ
山梨の一番東京に近い所から
小山田信有
加藤景忠
たぶん小山田もちろん加藤も東京の最西部には影響を持ってたと
思われ

200人間七七四年2017/04/18(火) 17:21:28.33ID:twaIsZS2
右:千葉胤利
中:三田綱秀
三:吉良頼康
一:太田康資
捕:大石定久
DH:宇田川定氏
遊:牛込勝行
左:平山氏重
二:板橋親棟
投:江戸朝忠

控え(18人)
北条氏照、太田資正、遠山綱景、富永直勝、
高橋氏高、行方直清、師岡将景、長崎重光、
中条出羽守、渋川義基、上杉憲幸、本田正勝、
小山田信有、豊島経忠、島津永久、板倉勝重、
伊奈忠治、大岡忠真

201人間七七四年2017/04/18(火) 23:20:40.42ID:wAP/fhnC
>>199
小山田氏は秩父党だから当然といえば当然だな

202人間七七四年2017/04/19(水) 01:13:12.07ID:uVjfWyPg
>>201
「は」と「、」が抜けてた
訂正 たぶん小山田はもちろん、加藤も東京の最西部には影響を持ってたと
思われ

小山田氏は現町田市あたりの小山田荘からだからね

203人間七七四年2017/04/20(木) 09:04:02.01ID:NiDHZctQ
>>192
有名なハゲ(よく見ると髷を結ってる)でヒゲをたくわえた信玄の肖像画は家紋から能登の畠山氏じゃなったかな
もう1枚ある若い頃の肖像画は武田晴信(信玄)だと思うけど

204人間七七四年2017/04/20(木) 10:53:58.26ID:ssik42OF
じゃあしょうがないから畠山義続の父畠山義総の京都の興臨院蔵の
坊さん姿の肖像画を吉良頼康の肖像にしよう!!

205人間七七四年2017/04/20(木) 12:34:25.93ID:lgr2Fnqy
小笠原貞頼

206人間七七四年2017/04/22(土) 09:18:38.77ID:4O+5S+FO
ここで質問すのがあってるかわからないけど
関東幕注文って大体の地域の境目ってあるのですか?
成田氏、太田氏はわかるのですが三田氏あたりでだしたり出さなかったり
で分かれて、それで上杉方につかなかった面々は迎え撃ったのか、
ただ動かなかったか気になります。どなたかご教授おねがいします。

207人間七七四年2017/04/22(土) 21:59:06.78ID:uGlD9Aht
目ぼしいところには全部出して、参じた者を記したのが幕注文でないの?

208sage2017/05/06(土) 11:53:22.59ID:l1dkBMzq
>>151
俺のまったく根拠なき妄想
まず成氏は山内派だった実胤を千葉家当主にしようとしたが孝胤の抵抗もあり、
実現はなかった。次に臼井持胤はwikiでは孝胤の子とあるがこれを千葉胤将の子
とする。実胤の子守胤は臼井俊胤に養子になったとある。俊胤は自胤と臼井城で
争ったが俊胤は嫡流を重んじた。それで教胤からの家督相続の際固辞し
持胤に譲ろうとした、さらにその後持胤の子幸胤に家督を譲った。
が、幸胤はすぐ亡くなったので、今度は守胤を養子とった、だが守胤は
道灌死後に扇谷上杉が自胤系を廃して守胤を武蔵千葉当主に置いたので
俊胤は守胤の子景胤に継がせた。と見るのはどうか。
そして臼井守胤時代に親武蔵千葉体制が引かれ、下総勝胤は立河原の戦いで大敗した。
ちなみに足立の中曽根城は勝胤が築いたようなので、かなり浸食はしたようだ。
その後臼井氏は小弓方についたので勝胤は高基になじられたそうだ。ただ小弓方と
いうより実は扇谷方、武蔵千葉方だったのではないだろうか。実際小弓&扇谷VS古河
だったはず。それから勝胤の子昌胤は武蔵と下総の境に高城氏を置き、臼井氏を息子に
継がせた。が、まだ名残があり嫡男の利胤と臼井胤寿は争ったのではないか。そして
どんどん妄想は加速するが親胤は実は胤寿の子だったのではないか。結局は反北条だった
親胤は北条に暗殺され胤富が継いだが。ちなみに親胤のバックに胤利に武蔵千葉を継がせた
80越えの守胤がいたとかいないとか…あと胤富の子の良胤は実際は武蔵千葉氏の話と
混ざってしまったのではないだろうか、本当は邦胤と双子ではなく胤宗と双子だった
のではないか。と、まぁダラダラといいかげんなことを書いてしまった。
誰も読まないと思うがとりあえず謝っとく。申し訳ない。

209人間七七四年2017/05/09(火) 07:44:03.32ID:KqODKrMA
いきなりだけど太田康資は正木憲時はたぶん義弘存命時から北条との和睦に関して
反対だったんだろうなぁ
太田資正は政景使って義頼、康資両方と連絡とってて義頼が勝つと
親北条の義頼に祝辞を送るってなかなかの皮肉というか
資正の理知的な嫌な面がみえるよなぁ
まぁ結局義頼は反北条同盟に入るけど勝頼の死亡時期考えると
義重担いだ憲時と結んでたほうがよかった気がする、けど過剰介入か……

210人間七七四年2017/05/10(水) 20:26:30.36ID:2xNtKqn3
北条氏秀

211人間七七四年2017/05/11(木) 17:31:35.11ID:Oa4zqyq2
神後宗治

212人間七七四年2017/05/12(金) 18:03:46.53ID:0LtCZ3AL
>>211
おぉそういや八王子の出身だったな。
上泉信綱の弟子で神後流、
足利義輝、豊臣秀次の剣術師範をつとめた。

213人間七七四年2017/05/12(金) 20:51:33.08ID:u0U1patV
知ってるやつ居たら教えてほしいんだが

埼玉か東京の(武蔵)の武将で頭を金棒でぶっ叩かれて頭が凹んでそのせいで首がとれなかった武将が居たんだがそいつの名が知りたい

214人間七七四年2017/05/12(金) 21:29:52.99ID:U5jqOwxd
太田康資が金棒で舅を殴り殺したって逸話があるから遠山綱景じゃないのかな

215人間七七四年2017/05/12(金) 21:47:02.91ID:0LtCZ3AL
>>214
太田康資が金棒で潰した舅は太田下野守の方

216人間七七四年2017/05/13(土) 09:11:15.99ID:8OSaqmnU
鉄棒振り回したと言えば太田康資だな

217人間七七四年2017/05/13(土) 11:33:14.88ID:02re22ew
武蔵じゃないが金棒と言えばあと三浦道寸や清水康英、
逆に首をねじきった政勝なんてのがいるな

潰された方だともう少しヒントクレナンス

218人間七七四年2017/05/13(土) 11:46:57.99ID:UMYW+heA
>>215
たしか潰したほうは太田康資だよなあと当りをつけて舅探しをしたけどテキトーを言っちゃったか
すまん

219人間七七四年2017/05/13(土) 13:22:57.71ID:F+D6Q2HE
>>217

すまん・・・昔本で読んだ情報でかなり断片的なんだが・・・たしか潰されたほうが潰したやつを煽ったかなんかでブチ切れて頭を叩き潰されたとか・・・

「金棒で叩かれて首がとれないなんてあるのか」と印象深かったんだ。

2人とも武蔵国の武将だ年代は1550年〜1570年代

220人間七七四年2017/05/13(土) 15:13:28.30ID:02re22ew
やっぱり太田康資かな
敵方にいた舅が
「源六ちゃんよ、すげー活躍だけど、馬ごと殺すことないだろう」
って言ったら「あい分かった」って舅を殴って舅がおっちんで
落馬したって話かな
んで北条記で太田康資を語る部分でその力、頭が胴にめり込むって
のがあるから、首を取れないのは胴の中に入り込んだからかなw
まぁ当たり前に誇張だと思うけどね
第二次国府台合戦が1563年〜1564年のあたり

221人間七七四年2017/05/13(土) 17:01:31.08ID:8OSaqmnU
>>220
悪い話スレだかに前書かれてたやつかな

222人間七七四年2017/05/14(日) 11:25:19.61ID:yLZsSsEN
大久保長安
→八王子同心

223人間七七四年2017/05/14(日) 22:45:47.87ID:E6ADoo4Z
あった

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1208.html

奥さんかわいそうになあ

224人間七七四年2017/05/14(日) 22:46:06.47ID:E6ADoo4Z
ごめんageてしまった

225人間七七四年2017/05/15(月) 12:27:06.67ID:Tr8lGtY1
>>223
そうだそうだ
彼だ‼みんなありがとう‼

しかし関東の武者は本当に猛猛しいな、、、まあ坂東の荒武者の面目躍如ってとこか、、

226人間七七四年2017/05/16(火) 06:25:07.45ID:knM1idC9
ちなみに太田下野守いくつかの系統がある。
資正の母方の祖父の家系と康資の義父の家系。
資正系は松山城の戦いの下野守や佐竹の客将になるとき付いていった
太田下野守資叶。
康資系は滝の城城代の太田下野守、関宿城番の太田下野守。
と、書いたものの本当は自分はよく理解してない。

前島康彦の「恒岡氏と太田下野守家系」持ってる人や
詳しい人いれば教えてくれ

227人間七七四年2017/05/16(火) 19:51:12.94ID:MNuXyMWs
北条氏が徳川だかに出す援軍の陣触れに、千葉殿 1騎という記述があったことが、少し前に発見されたと聞いたけど、1騎だけ援軍出せ言われても…だろうな。

228人間七七四年2017/05/16(火) 21:15:34.43ID:cfHg4jrj
>>227
石浜の連中は木内だかに実質取って代わられてなかったっけ?

229人間七七四年2017/05/16(火) 23:05:06.54ID:knM1idC9
>>227
もしかしたら太田氏資の殿軍同様、生きれば存続死ねば乗っ取り
みたいのがあったのかもね
ただ1580年以降の家康との同盟での話なら氏繁の子直胤が引き継いでるから
それはないか

230人間七七四年2017/05/16(火) 23:24:00.41ID:GZTPqGDw
下総千葉に一騎で出てこいって言ったの?
てっきり石浜の武蔵千葉かと思ってた

231人間七七四年2017/05/17(水) 00:03:23.52ID:J8qzycsy
ん?武蔵千葉じゃないのか?
直胤(武蔵)、直重(下総)

232人間七七四年2017/05/17(水) 00:36:20.44ID:mpLUM192
見間違えてた
ごめん

233人間七七四年2017/05/17(水) 18:14:35.24ID:+J9hmlI0
太田康資は原虎胤を撃退させたこともある。
ただウィキペディアの1554年て1553年には黄梅院が北条家に嫁いでるし、
原虎胤が一時北条についてた時期じゃないかなぁ。

ただ私は太田康資はあの原虎胤を撃退させたと信じる。

234人間七七四年2017/05/17(水) 18:48:50.94ID:bUIONMCS
荏原郡の武将は居ないだろうか?吉良氏以外で、、、我が地元には行方氏というのが居るが資料が皆無、南無ー

235人間七七四年2017/05/17(水) 20:45:11.36ID:/fX3LdWR
>>234
荏原郡版武将打線
中、行方直清
右、蒲田致重
遊、長崎重光
投、吉良頼康
二、江戸頼忠
一、南条重長
三、太田景資
捕、大平師直
左、上杉憲幸

236人間七七四年2017/05/18(木) 06:29:03.13ID:ioWP9M9i
小牧長久手じゃなくて三方ヶ原では?

237人間七七四年2017/05/18(木) 19:32:29.41ID:UeVJ0cdI
>>236
誤爆してないか?

238人間七七四年2017/05/18(木) 21:36:48.38ID:ODuLVopS
>>227
なんで?徳川に出す援軍nのうちの1騎でしょ

239人間七七四年2017/05/19(金) 00:34:20.84ID:I9x0jEsF
>>180>>208
実胤は憲実から偏諱をもらったとかもらってないとか…
ただ奥さんは扇谷上杉顕房の娘だし、近年は渋川義鏡によって
追放されたらしいし、晩年は扇谷だと思うぞ

あと良胤は実胤の孫説があるみたいだな

240人間七七四年2017/05/19(金) 07:43:31.84ID:bZNPcFTR
>>238
なに言ってんだこいつ(笑)

241人間七七四年2017/05/19(金) 08:34:40.67ID:B3DHLOEy
>>238
1573年時に駿河すら領土にしてなかったのに出せるわけ無いだろ(笑)北条の隣はその当時は武田だよ(笑)

仮に徳川に援軍だすなら武田が滅び黒駒合戦以後だから


ここは専門スレだからゲームやアニメの知識程度ならレスしないほうがいいよ

242人間七七四年2017/05/19(金) 11:55:39.46ID:wDCOE3dI
どこへの援軍を出すときの書状なの?

243人間七七四年2017/05/19(金) 22:25:33.96ID:LiCfRvIH
>>240-241
>>227を根底から否定か

244人間七七四年2017/05/19(金) 22:57:02.73ID:I9x0jEsF
まぁまぁ>>227の「…だろうな。」の本意が分からんとな
んでこの板はどのスレも共有で本人が次いつ登板するかわからないから、
熱くなってもな…と、なだめてみる

245人間七七四年2017/05/19(金) 23:43:17.19ID:wDCOE3dI
1574年に氏繁の子が胤宗の跡を継いでるから徳川はあり得ないってことか
後の時代でも北条一族の直胤に一騎はないだろと

246人間七七四年2017/05/20(土) 08:25:49.48ID:bB9rTPen
徳川に援軍をってのは現実的ではない

北条と徳川が相対した初めての場は武田滅亡後だよ、、武田が滅んで初めて徳川、北条の領土が隣近所になったわけだし。

天正壬午の乱で争った後に同盟結んだんだぜ?

247人間七七四年2017/05/20(土) 08:55:26.96ID:C6GctQ5Z
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170519-00010002-fukui-l18

太田資正の三男資武の骨壺発見のニュース

248人間七七四年2017/05/20(土) 12:31:44.55ID:vyM902+C
>>247
おぉっすごいね!
火葬じゃなかったらDNAとれたのにーw

249人間七七四年2017/05/20(土) 21:29:01.28ID:9smySFqU
千葉殿の所領x貫文に軍役として一騎課せられただけで千葉殿本人に一騎で行けって意味じゃないでしょ

250人間七七四年2017/05/20(土) 22:13:49.21ID:aiTeOQ9a
右:千葉胤利
中:三田綱秀
三:吉良頼康
一:太田康資
捕:大石定久
DH:宇田川定氏
遊:牛込勝行
左:平山氏重
二:板橋親棟
投:江戸朝忠

控え(18人)
北条氏照、太田資正、足利義氏、遠山綱景、
富永直勝、高橋氏高、行方直清、長崎重光、
中条出羽守、渋川義基、上杉憲幸、本田正勝、
小山田信有、豊島経忠、島津永久、板倉勝重、
伊奈忠治、大岡忠真

251人間七七四年2017/05/20(土) 22:32:59.05ID:2b7xL1yu
小田原衆所領役帳だと475貫文
異本小田原記だと石浜領は4000貫文
千葉の家臣たちは別に所領を与えられていたりしたんだろうか?

252人間七七四年2017/05/20(土) 23:06:03.92ID:0PvQO+lC
例で宮城泰業が284.4貫文で馬8他28で計36
千葉殿は石浜没収前で475貫文で馬一騎ってなんか意味はある気がする
まぁだいたい統一基準とは別に書状で人数を目令することはよくある
みたいだから、ただ軍役が少ないラッキーかもしれないが…

あと軍役って基本はそのものに対してで
そのものが他率いて参加するものではないの?(違ったらごめん)

253人間七七四年2017/05/20(土) 23:09:16.47ID:0PvQO+lC
あっ475貫に石浜入ってないや

254人間七七四年2017/05/21(日) 00:41:43.53ID:S4WUgbAB
井田是政

255人間七七四年2017/05/21(日) 18:11:51.46ID:VDNPqOiP
武蔵国の武将って甲冑はどんな感じだったんだろと常々思ってる

里見家の軍装も気になる、、、
そういうの調べる資料知らぬかね?

256人間七七四年2017/05/22(月) 19:04:22.01ID:EDyBF6E0
原則軍役無しだけど北条から出向させてる分は負担してね
という話なんじゃないの?
古河とか蒔田とか

257人間七七四年2017/05/23(火) 12:20:30.54ID:jeFOj54W
>>255
檜原村の郷土資料館に甲冑の部分部分

それと去年舟渡遺跡から14〜15世紀の面頬がでたそうな

258人間七七四年2017/05/24(水) 11:09:29.57ID:Y+J84ZLq
原胤従

259人間七七四年2017/05/25(木) 01:37:38.22ID:/a/hE7aa
千葉孝胤は自胤に追われ千葉東部まで
引いた。千葉孝胤、長尾景春、豊島氏は両上杉と古河公方の和睦を
認めることはできなく抗った面子…そして所領、もしくは一部を
失うことになる。
では、空いた練馬区や葛飾群下部はどうなったか。
太田道灌は貢献した武士たちの恩賞が少ないともらしたことから、
練馬区はおそらく地理的に難波田が手にしたと思う、だが
葛飾群下部を自胤は手にできなかったのではないか。
勝胤及び原氏、高城氏が入るまでどうだったか。
私が思うに自胤の影響圏ではあったが、実際に入ったのは豊島氏のもの
(嫡流ではないと思う)であったと思う。
2点、1点目は豊島氏は自胤とは長尾氏を挟む義兄弟であるし、
孝胤と豊島氏は同じ景春派、さらに葛西には元々豊島氏の同族の葛西氏が
いた。2点目は1536年に夏見豊島胤定が夏見(船橋市)にいる。豊島の名と
千葉氏の通字を持つ。そしてこれを証明する「長福寺聖観音菩薩像胎内銘」
には円城寺の名がでてくる。
円城寺氏とは武蔵千葉氏に従った一族である。だが1536年の
翌年には高城氏が小金城を居城としてる。
勝胤も山内方につき大敗したり、古河公方と不仲になったり
小弓公方と敵対したりと忙しい身、実は小弓公方との争いの中で
下総側に完全に移行し、さらに高城氏の台頭につながったのではないか
それまでは(高城の完全所領化するので、それからも)
下総千葉氏の完全な所領でもなかったのではないか。
…なんてまた妄想を書いてしまった。

260人間七七四年2017/05/26(金) 06:18:22.78ID:heF9+YXl
師岡秀光

261人間七七四年2017/05/26(金) 10:54:59.78ID:wOrI13sx
モロ師岡

262人間七七四年2017/05/30(火) 15:45:29.56ID:r4lKCMW6
宅間上杉に蒲田、荻窪、足立がいるみたいだから元々は南武蔵は
扇谷が入るまで宅間の領地か?

263人間七七四年2017/05/31(水) 19:53:49.46ID:pDi+L42r
武蔵千葉氏って結局北条側についたのはいつなんだろうな。
勝胤が山内についた1504年立川原戦はまだ扇谷。
1524年の江戸城攻略で板橋氏が板橋で討ち死にし、
ここで赤塚城が落ちたとあるが、まだ葛西城は落ちてない、
深大寺城も落ちてない、近辺の蕨城も川越城戦まで取り合い。
石浜もまだここでは北条についてないとみるね。
葛西城攻略の1537年あたりかなっと。

264人間七七四年2017/06/02(金) 06:17:09.82ID:P2Ji/4mc
>>263
江戸城攻略〜葛西城攻略までの資料ってどんなのある?

265人間七七四年2017/06/02(金) 12:03:35.05ID:YUSQH7uG
金子家長

266人間七七四年2017/06/03(土) 07:41:50.28ID:lS1hwrcz
上杉朝定

267人間七七四年2017/06/04(日) 00:14:00.19ID:3MFbSQXy
志村光安って豊島氏の庶流なのかな?どなたか志村光安ついて知りません?
志村光行の子孫なのかな?光が通字で。豊島玄蕃みたいに下向したのかなぁ
あれ?豊島玄蕃は豊島氏ではないんだっけ?

268人間七七四年2017/06/04(日) 04:14:18.11ID:YnSoHqgd
東京ってのは古来より東夷の住まう未開な地とされていたから、まともな人材はいない
すごいのが現代にいたっても、学問、スポーツ分野では人口の割に世界的に優秀な人材を輩出できてない
武将で評価出来るのは太田道灌ぐらい
まぁ末路は東夷らしく無様だが

269人間七七四年2017/06/04(日) 08:48:33.40ID:FxfzssM8
>>267
質問の答えとは関係ないが出羽の六郷氏も14世紀に元は武蔵国六郷出身の
二階堂道晴が六郷氏名乗ったとか、ないとか
まぁ有力説なのは16世紀の二階堂道行の方のようだけど
結構関東から下向したみたいだしあるかもね

270人間七七四年2017/06/04(日) 18:47:01.82ID:dzjaLiMf
高橋種資の母方の祖父太田資重について。
高橋家と南条家(種資の祖母)の格から見て
太田のただの庶流ではないと思う。
1、太田源五郎(北条&岩槻太田)
→子はいないけど娘がいた?ないな…
2、太田輝資の子(江戸太田)
→兄があれしちゃったし丁度いいかも。
3、太田豊後守系(元足利晴氏家臣)
→所領張系
4、太田下野守系
→滝の城関係か
5、太田大膳亮系、太田新次郎・四郎兵衛・十郎郎兵衛系
まぁこれだとよくわからないからおもしろくないな。

271人間七七四年2017/06/04(日) 19:26:34.09ID:AtyaJ7zo
遅川兵庫

272人間七七四年2017/06/05(月) 20:54:12.42ID:+nN29u44
そういや八王子に家康から流れて北条きた設楽清政がいた
氏照の配下に入って八王子で亡くなった
子孫はその後八王子の代官になった
だから設楽姓は愛知東京埼玉にいるらしい

273人間七七四年2017/06/05(月) 21:20:55.04ID:Lqtqkhkw
>>272
バナナマンはその子孫か?笑

274人間七七四年2017/06/05(月) 22:12:38.89ID:DTA73X2u
設楽氏は関東公方の奉公衆で秩父と東金の2流がありバナナマンは秩父の方
東金の方は本土寺過去帳によく見える

275人間七七四年2017/06/22(木) 07:38:38.49ID:/iIcf1bJ
>>268
田舎もんの僻み怖い(´・ω・`)

276人間七七四年2017/06/22(木) 22:59:30.17ID:n1R5uf2w
>>275
そういうのは触れない方がいいと思うよ。
それに悪言に対して悪言で返すのはよくない。
悪言すなわち悪し様にののしる言葉。
悪し様すなわち相手を実際よりも悪く、
また、いかにも悪いものとして扱うさま。
関東は未開の地というけど今も昔も美しき烏合の衆、
言葉のものさしは己が持つものと感じる。

それはそうと荻窪の中道寺は寛永のときに下総千葉氏の家臣、
宇田川茂右衛門に旧主の菩提のために土地を寄進されたとあるが、
なんか違和感があるなぁ……

277人間七七四年2017/06/24(土) 02:57:36.37ID:UF//GPgG
板橋民部丞
北条家臣 足利晴氏の家臣野田政保との取次役を担った
この野田氏は晴氏を拘束した野田弘朝の先代のよう
(よって板橋民部は1554年頃迄あたりにいい歳)
板橋忠康は天正期に活躍してることから1573〜1593あたりにいい歳か
忠康の子忠政は民部のようで上記の板橋民部は忠康の父か
他に武蔵千葉家臣板橋肥後守や
北条氏資家臣板橋康長なんてのもいる

278人間七七四年2017/06/24(土) 03:57:48.01ID:UF//GPgG
そういや上杉北条の臼井城の戦いで有名な白井胤治の孫娘が
豊島康保系の忠次に嫁いでる そしてその後その系統の白井久俊が
疋田彦四郎の寡婦と再婚 相手が連れてきた娘が江島生島事件で有名な江島
連投すまない 

279人間七七四年2017/07/05(水) 14:49:01.99ID:NW3X6iH1
豊島区の長崎と長崎重光ってなにか関係あるのかな?
所領は太田康資だから関係はないのかな?

280人間七七四年2017/07/08(土) 18:25:02.06ID:CBIfW3WL
>>279
長崎重光は今川から北条に流れてきたみたいだから、
その前に太田が所領してる長崎とは関係ないのでは?
領したのは瀬田だしね。
鎌倉北条の家臣の長崎氏と関係あるかはわからないけど
今川家臣の点からみて両方伊豆長崎郷出なのかもしれない。
豊島区長崎は一応鎌倉時代の長崎氏の領地だったらしい。

281人間七七四年2017/07/15(土) 07:53:59.64ID:pS08GOIg
太田重正って大分臼杵藩主に別人がいたのな
三浦按針見つけた臼杵藩主太田重正と
三浦按針2代目と奉書船貿易を共にした橋本十左衛門の父江戸太田重正
按針つながり

282人間七七四年2017/07/17(月) 23:46:05.69ID:qaXr1Y9b
軍用犬と言えば三楽斎の三楽の入替えなんだけど、
あんまり知られていないので「鹿沼の犬知らせ」というのがある。
…まぁ俺が名付けたんだけど……
壬生家内紛の際、親宇都宮だった壬生周長の家臣鹿沼右衛門は宇都宮氏に
「犬の首に手紙を結んで」助けを呼ぼうとした。
まぁだけど結局板橋親棟勢に見つかり犬は殺されてしまった、
不憫に思った村人は塚を作り犬塚と呼ばれるようになったとさ。
こういう犬話って当時流行ってたのかな。
資正の松山城も本当はすぐ落ちてるしね。

283人間七七四年2017/07/24(月) 09:12:57.53ID:p8BvJgQo
>>263
大石定久は川越夜戦あたりだし、その辺ももうちょっとわかるといいんだけどな

284人間七七四年2017/07/25(火) 14:25:25.79ID:4OhSQD68
石神井(練馬)は豊島→太田→土支田(源七郎)→幕府天領になったようだ

285人間七七四年2017/07/28(金) 16:13:47.52ID:Eqx3IBTI
>>197
蔭山!?もしかしてお万の方の育ての親、義父の蔭山氏広と関係あるのかい?
板部岡の妹かつ田中氏の娘で北条氏尭の養女の母
正木時忠の次男の父頼忠に蔭山氏の義父かぁ…で、家康の側室
ムムム…同じ側室の英勝院は里見義頼と正木頼忠に正木憲時と共に父親殺されてるんじゃ
まぁそうじゃない説もあるけど…そしてお万の子を英勝院に差し出してる
これって結構今の価値観だとえぐいな

286人間七七四年2017/07/29(土) 14:51:05.01ID:DkDUb+oZ
とりあえずこのスレの情報をまとめてみた
東京領地(周辺も)
ttp://i.imgur.com/k3rGZtl.png

時代考証も領地の大きさもざっぱだから間違いや疑問があれば指摘よろしく

287人間七七四年2017/07/29(土) 16:05:18.53ID:DkDUb+oZ
連投ごめん、追加で少し手を加えた
東京領地2(周辺も)
ttp://i.imgur.com/k3rGZtl.png

288人間七七四年2017/07/29(土) 16:06:31.66ID:DkDUb+oZ
間違えた、こっち
東京領地2(周辺も)
ttp://i.imgur.com/BYO0GfM.png

289人間七七四年2017/07/29(土) 18:30:42.82ID:odYzpILM
これは面白いね。豊島郡、葛飾郡だけでもかなり貫高はあるから、国人が割拠しやすい環境だよね。河川も各所流れてるし、道もそれなりにある。

290人間七七四年2017/07/29(土) 19:42:39.64ID:DkDUb+oZ
葛西城については城主が大石石見守だったけど道灌状によると
実胤、自胤時代に「円城寺」が殺害してる 
実胤は葛西城にお呼ばれもされてる
円城寺は武蔵千葉っぽいけど下総の可能性もある
武蔵千葉だとすると庇護してもらったけど山内を裏切って扇谷に葛西城を土産にしたか
そもそもなぜあの場所が所領だったのか 
扇谷が武蔵に流れてきて複雑になったのか……
北条に渡るまで誰が務めていたのか…そのまま大石氏なのかな

ttp://i.imgur.com/O4IOvT7.png
指摘があれば随時更新してくよ

291人間七七四年2017/08/04(金) 03:56:33.14ID:QirHJtwN
武将じゃないけど上の方で書かれてる近藤万栄なんだけど、
船橋拠点や浅草拠点とも言われてるね。
船橋の名の由来は夏見入江からきてるみたい。
近藤万栄はここで商業を営んでいたようだ。
その後なのか北条に買われ家臣として浅草で鉄砲を作り北条領地に補給していた。
近藤万栄は夏見豊島氏の地から浅草の武蔵千葉氏の地に移ってる。
関係があるかわからないけど千葉氏宗家滅亡の時に豊島太郎が死んでることから
元々千葉氏についてる豊島氏はいたんだけどね。
他に船橋の伝説的には豊島刑部秀鏡が里見氏側で名前があがる。
この辺は本当に重要地で所属もいったりきたりだったんだろうな。
個人的には武蔵千葉氏は武蔵にきてから相当頑張って下総の勢力を抑え込んでたと思うよ。
想像するより少し大きな領土を持ってたのかもな。

292人間七七四年2017/08/06(日) 22:51:09.24ID:wjwBAd5H
>>268
平安末
尾張系京都伊豆人源頼朝「日本一の猛者といえば武蔵国住人熊谷次郎直実」
藤原摂関家出身の慈円「武蔵国住人畠山重忠最強伝説」
鎌倉
最強鎌倉武士「下野の足利忠綱怪物伝説」
徒然草の吉田兼好「相州鎌倉住人安達泰盛こそ武士中の武士」
南北朝
武蔵武士系河内国住人楠木正成「ガチンコ決戦なら武蔵相模の二国>その他オールジャパン」
戦国
剣豪将軍足利義輝「剣日本一は上州の上泉信綱、西国一は肥後の丸目長恵」
奈良興福寺「やはり甲斐越後が最強」
三河者の武田家軍師山本勘助「関西侍は下の下」
戦国最強甲斐侍「関東武士は馬上戦闘&長刀、関西武士は下馬戦闘」
越後の豪族北条氏「畿内、中国侍は町人似の弱兵」
尾張の太田牛一「馬上巧者の関東衆西上野小幡党」
宣教師フロイス「島津軍は弓が多く長刀を巧みに操る」
戦国末
薩州島津家当主「信州真田兵が日本一」
ミスター三河武士大久保彦左衛門「上方奉行は口だけの腰抜け」
幕末
江戸本所の暴れん坊勝子吉&信濃の最強力士雷電「江戸の平山先生最強伝説」
豊後中津の天才剣士島田虎之助「幕臣男谷先生を筆頭に江戸の剣客は強すぎる」
陸奥の大剣豪千葉周作「江戸の高柳先生や男谷先生には生涯勝てない」
江戸の幕臣勝海舟「白井(江戸人)の剣は神の領域」
近代
東京出身の文豪芥川「千葉の山田次郎吉先生が最強」
水戸の高野茂義&岡崎の三橋鑑一郎「天下第一の名人は栃木鹿沼の下江先生」
別府の堀「水戸の門奈正最強」
京都の大日本武徳会「技の水戸人門奈、気の水戸人内藤」
昭和天皇「天覧武道大会全制覇の法神流(群馬)」


IOC競技ランク

競泳…エース萩野はじめ代表選手の半数以上が関東出身。関西人は個人メダルなし
体操…九州人と関東人が個人メダル。関西人は個人メダルなし
陸上…唯一の個人メダリストは競歩の長野県民。

バスケ…チームの核は吉田、渡嘉敷の関東人。関西人は蚊帳の外。
自転車、テニス、バレー…関西人除外
サッカー…自陣にゴールを決めた大阪藤春(笑)

バドミントン…唯一の個人メダリストは長野県民。
柔道…男女代表選手に関西人は一人も選ばれず(笑)
卓球…唯一の個人メダリストは静岡県民。男女代表選手に関西人は一人も選ばれず(笑)


レスリング…ゲイビに5本出演のベテラン男優は関西唯一の個人メダリスト樋口君(笑)

293人間七七四年2017/08/06(日) 23:58:25.08ID:cI6Mle5m
>>292
こんな少数しか見てないスレでそういうやりとりしだすと
すぐそっち系に趣旨を持ってかれてしまうから本当のお願いで勘弁してくれです。

>>65
の亀戸の小曽川氏だけど渋口(現川崎市中原区)の遅川氏と関係があると思う。
遅川は小曽川とも書いたらしいから。あと遅川よりは少ないけどこの辺も太田康資が
所領をもって様なので追加よろしく。

294人間七七四年2017/08/07(月) 06:34:03.04ID:AEZ5efND
間違えた。遅川はそのあとで中田藤次郎だった……すまん。

295人間七七四年2017/08/07(月) 12:18:07.56ID:rwcfLlKK
ご指摘サンクス
&追加&修正
ttp://i.imgur.com/LsxUclA.png
またなにかあったらどうぞ

296人間七七四年2017/08/07(月) 12:29:02.12ID:T7+nI+B6
武蔵自体の石高は60万石以上の土地だが

今の東京あたりはどれくらいの石高なんだろうな?
元荒川沿いの春日部や越谷あたりをGoogleアースで見ると一面が畑で驚いたよ、、、

だから埼玉辺りが穀倉地帯としての役割を果たしてたのかね?

297人間七七四年2017/08/07(月) 14:00:02.45ID:rwcfLlKK
本当に雑な計算だけど関八州諸城覚書で遠山氏(東東京)が1000騎
とりあえず3騎で100貫、1貫を2.5石だとすると約8万3千石
それからWikipediaの大久保長安のページの氏照(西東京)9万石を採用すると
足して約17万石じゃないかな
だから埼玉は60万石から引いて43万石ぐらいかなと思うよ
まぁ武蔵でも埼玉の方が普通に石高はあるだろうね
あんまり知識ないけど

298人間七七四年2017/08/13(日) 00:51:19.34ID:kNAurS2I
>>295
いつの状況かわからないけど三田氏って入間と高麗があるから埼玉部分にも伸びるのでは?

299人間七七四年2017/08/13(日) 07:44:07.93ID:3ydtJ2Eg
>>298
ご指摘サンクス
時代については申し訳ない、約16世紀あたりになってしまう
なんとなくこんな感じかぁと思ってほしい
三田氏の家臣は三田氏に統合されてるのと分けられてるがあっちゃうけど、
そこはスマソ
ttp://i.imgur.com/Co3RSDE.png
ここはこうした方がいいとかればまたお願いします

300人間七七四年2017/08/13(日) 21:03:31.87ID:kNAurS2I

301人間七七四年2017/08/16(水) 01:30:32.48ID:TdHCwFVF
>>290
葛西城大石氏と多摩大石氏なんだけど、
まず葛西城大石氏なんだけど上杉清方時代の憲重。
次が景春に味方し葛西城城主の石見守。(1476〜80年)
この石見守が道灌状(1480年)ででてくる石見守だと思う。
それから1525年の氏綱が葛西城を攻めたときの石見守。
そして関東幕注文で太田勢(岩槻衆)で資正のきょうだい婿の石見守。
資正の後妻は定久の弟信濃守の娘(定久の養女)

多摩大石氏なんだけど最近は定久のあと綱周(養子)はさんで氏照(養子)という
説がある。ここでその綱周かもしくはその弟が憲重となる。ではなぜ多摩大石氏の
人物が憲重と名乗るのか?それは私は道灌状で暗殺された石見守に
嫡子がいなかったからではないかと思う。多摩大石から葛西大石に流れたとみる。
つまり1525年葛西城城主で葛西城を奪われた憲重(綱周かもしくはその弟)は
太田氏に逃れた。そして関東幕注文で名が上がる。
その後太田資正は葛西城を取り戻すが、その時は里見の武将が入ったようだ。
そしてまた北条方の本田氏や興津氏によって
1562年4月24日に奪い返されてしまう。
それから本田氏はそのまま葛西を知行することになり、
大石氏がもどることはなかった。と私は考える。

302人間七七四年2017/08/17(木) 00:26:04.72ID:VV40rEGL
>>301
大石綱周について、
私、刀好きなんですけど、戦国期の八王子の刀工に下原康重・照重がいます。
見てわかるとおり北条氏より一字拝領です。
この下原派の初代が下原周重といいます。
大石綱周が氏照の前に大石氏家督であって、一字を与えたと推定できます。

大永年中の史料に憲重の名が、天文弘治年間に綱周の名が見えるそうなので、
定久→憲重→綱周(憲重改名?)→氏照 という流れなのかなと思っています。

憲重と綱周は同一人物と言われるようですが、301氏のおっしゃる兄弟の可能性もあるのかな、
石見守系の「憲重」を名乗っている以上、多摩から葛西へ養子に出した。そのあと綱周が多摩を相続と。

綱周は氏照相続の際どうなったのかわからないのですが、平和的な家督譲渡ができたのだろうか?
石見守も幕注文以降どうなってしまったのか?とても興味があります。

そこで、越後上杉氏に仕えた大石芳綱や大石綱元は、どういう系譜になってるのか調べたのですがよくわかりません。
ただ、大石綱周と綱の字が共通なのが気になります。彼らの親が綱周や憲重、またその兄弟あたりになる可能性は
ないでしょうか。

303人間七七四年2017/09/04(月) 21:47:25.69ID:UnkPVN9T
行方氏ってなめかた氏であってる?

304人間七七四年2017/09/10(日) 21:54:15.05ID:yC9Rc5LJ
>>65
埼玉県越谷市が小曽川という地名があり、
後北条氏の岩槻城にて、家臣だったという記録があり

305人間七七四年2017/09/10(日) 22:25:31.34ID:4BylSTQx
>>303
大掾氏流行方氏ならそうなんじゃないのかな

306人間七七四年2017/09/18(月) 13:07:45.75ID:WIGCP6FE
民進党をやめた木内孝胤は木内氏の子孫らしい

307人間七七四年2017/09/19(火) 18:30:07.66ID:Q/bxoEjw
築城当時の江戸城の貴重な絵図を公開
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170919/k10011147341000.html

道灌や北条の時はどの程度だったのかな?
自然の要塞に館がポツンとあっただけなのかな?

308人間七七四年2017/09/22(金) 17:35:29.55ID:NktBSPBD

309人間七七四年2017/09/23(土) 13:34:57.11ID:zPxdJ8il
>>307
平川門のあたりに鎌倉街道から分岐して浅草に抜ける街道があったらしいんだけど、おそらくその街道を掌握するように江戸城が建てられていたと言われているね

310人間七七四年2017/09/28(木) 05:38:33.72ID:0S7Wq/l+
文化講座「かつしかの戦国 -大河ドラマ時代考証の視点から-」
http://www.shinsei.elg-front.jp/tokyo/navi/procInfo.do?govCode=13122&procCode=10006221

311人間七七四年2017/10/04(水) 08:19:18.81ID:4HeYcjAm
>>270
http://blog.doukan.jp/article/40524774.html
ここに資重の名がでてるな
同一人物だとすると岩付太田の豊後守系で資政の子らしい。
(でもなぜ足利氏に被官してたのか)
そういや江戸太田の資元も佐賀の龍造寺の所行ってるな。

312人間七七四年2017/10/07(土) 14:53:22.35ID:AHbe5a6J
葛西城に入ったとされる里見(正木)家臣の網代大炊允。
網代氏って千葉県にいたのかな?
熱海からきたのか東京都あきる野市の網代か……
大石氏つながりで葛西大石氏にいた網代氏が主君を変えたとかか……
それからこの正木も内房正木氏か外房正木氏か。

正木と言えば三浦氏にこだわってて最後三浦氏名乗るけど、
太田康資と結合すればよかったのに。
太田資高は字から見ると道寸の血を引いてそうだけど。
憲時の時は三浦時高からかな?
そして英勝院と養珠院、北条が滅んでも絡み合う扇谷上杉家臣。
おもしろい

313人間七七四年2017/10/16(月) 18:31:25.97ID:/tjRh8Qj
山木大方っていう氏康の女兄弟が今川の堀越六郎との間に生まれた子供が
武蔵吉良氏継いでるんだな
結局武蔵吉良氏も堀越にって言うより北条に呑み込まれたんだな

314人間七七四年2017/10/17(火) 22:01:51.82ID:JSNpHOGU
氏朝の子から蒔田になり、そこから4代後にまさかの
大石内蔵助のおかけで吉良氏に名前戻せたのかW

315人間七七四年2017/10/17(火) 23:08:12.74ID:XFydsoBF

316人間七七四年2017/10/18(水) 03:30:16.18ID:Yb+HQ6pX
蒔田の吉良歴史研究会
ttps://maita-kira.jimdo.com
括弧でいいから世田谷の吉良氏とも書いて欲しいな〜

317人間七七四年2017/10/19(木) 11:36:42.87ID:kCh326Sv
北区の堀船に梶原政景の屋敷があったらしいよ

318人間七七四年2017/10/21(土) 22:22:52.68ID:dh5oG+Wf
質問なんですが、
第二次国府台の戦いで里見勢が大勝してたら歴史はどのように変わったと思います?

319人間七七四年2017/10/22(日) 00:14:04.84ID:3E944pzv
>>318
反北条勢力が息を吹き返す下総をとられたら武蔵は里見の侵攻を受け続けるだろうね防戦一方で北条は領土拡大は長引く

320人間七七四年2017/10/22(日) 00:16:16.35ID:us2aAxCt
>>318
仮に江戸城とれたとしても、結局反北条連合内で内ゲバがはじまって、
北条が時代をずらして勢力のばしただろう
そうしたら歴史的には秀吉が攻めやすくなったぐらいじゃね?

321人間七七四年2017/10/22(日) 00:58:36.33ID:mW/abBpG
>>319、320
反北条連合は誰かを掲げないとまとまりなさそうですもんね
謙信が中心になるだろうけど、いつもいるわけじゃないし、藤氏は小田原で捕虜。
全員で藤政を掲げるか、里見が晴氏の妻つながりで中心になる感じが一番でしょうか?

322人間七七四年2017/10/22(日) 04:45:10.28ID:MFOFRm2K
推戴なら小弓の後継頼淳が里見に匿われていたでしょ
第二次国府台当時は30くらいかな?
彼でいいと思うわ
もともと北条の支援で家督を簒奪できたのに北条を裏切ったのは小弓に接近したからだし、のちに義康は頼淳を担いで小弓を攻めたもの

323名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!2017/10/22(日) 08:07:38.20ID:mW/abBpG
>>322
里見の正室は青岳尼だし頼淳ありですよね。
ただもしかしたら北関東の大名方は古河系にこだわってたかもですね。
一時期藤政が推されて信玄も加わったのもありますしね。
(たしか里見も藤政推しだったかと)
そういえば両家とも里見に庇護されたときに和解はなかったんですね。
国朝氏姫までもつれてたってのはやっぱり足利は名家ですね。
お互いまだ正統な後継者は譲れないってのでダメだったんでしょうかね。

>>321
訂正)里見が晴氏の娘の妻つながり

324人間七七四年2017/10/24(火) 16:28:47.51ID:1fmeOO7c
>>282
犬牽地蔵尊とはまた別の話なのか。
こちらは親棟が犬を地蔵に括り付けて湖に投げたら、呪いがかかって
坊さんに助けてもらったって話だ。
それにしても親棟は資正と真逆で犬めちゃめちゃ嫌いだったんだな。

325人間七七四年2017/10/27(金) 17:16:05.59ID:YBL1nZNP
白河古事考にでてくる板橋将監って親棟ではないか?
残念ながら根拠は乏しく板橋村の古記ということだけなんだが……
ただそうすると、天正5年(1577年)7月の小峰(結城)義親が白河城を攻め落とたのは、
氏政が佐竹氏を攻めたのに乗じて言われているが、可能性として元々、北条が親棟を
送り込んでいたということになる。地理的にも可能で、時代的には壬生のひと騒動の
一年後ぐらいとなる。北条が親棟を使い北関東を調略してたのではないか。

326人間七七四年2017/10/27(金) 20:05:21.36ID:k59HIr6q
となると、かなりの重臣あつかいだけど、そこまで名が残ってないのは不思議だな

327人間七七四年2017/10/28(土) 15:54:25.64ID:o340UnTj
北条が武勇にすぐれるからよこせとの書状が残る元吉良家臣の
江戸氏、大平氏、中田氏なども、よく分からんし
武蔵国の武将は時代とともに埋もれてんだよなぁ
吉良四天王の関加賀守、大場越後守、宇田川杢頭、白井但馬守とか
格好いい括りなのに全然分からんしなぁ
関兵部丞は関加賀守の近縁かな、宇田川も気になるし、、、

328人間七七四年2017/10/29(日) 10:44:37.12ID:P7t4QNxN
>>299
自胤は渕江郷らへんももってたらしいぞ

329人間七七四年2017/10/29(日) 17:19:37.21ID:lOljjuEe
次に、オレがアクセスする掲示板に、同時間帯に現れる
まことが、ハッキングしていると疑った最初である

330人間七七四年2017/10/30(月) 13:26:09.57ID:EG7mVd/f
岩槻太田氏と江戸太田氏ってどっちが嫡流何だろうか?
あれかな、道灌死後資康は追われて、岩槻は扇谷に残ってるようだから、
ここで扇谷の意向で嫡流が変わった可能性もあるのかな?
自分に従った一族を嫡流にするって考えられるよね?

331人間七七四年2017/10/31(火) 00:07:57.63ID:AwqE0oYz
上杉憲幸と上杉憲寛が似てる
二人は両方とも武田氏が娘を両息子(上杉氏幸、上杉義勝)に娶わせている

332人間七七四年2017/10/31(火) 22:52:36.47ID:W2X0v376
>>330
新井白石は岩槻が嫡流と言ってるな
まぁただゴタゴタもたくさんあったからもはやどちらが嫡流というものでも
ないかもな

333人間七七四年2017/11/01(水) 16:29:55.87ID:TyC/FLnB
そろそろ2020年の大河ドラマ決まるらしいけど、
太田道灌を推してる団体の頑張りは実るかな?
僕的には本当は太田康資と資正のダブル主人公で
国府台の戦いまでを描く大河が見たい
太田一族の異なった歩みとはとこ(厳密には違うけど)が別の道を歩みながらも
影響しあい、最後は手を取り合うという物語……どうかな?

334人間七七四年2017/11/02(木) 06:48:54.48ID:ErjU5QZX
それ以前に北条早雲すら大河になってないのはおかしい

335人間七七四年2017/11/02(木) 07:41:13.53ID:O5HkvxHm
ラスボスが三浦になるしなあ

336人間七七四年2017/11/02(木) 18:09:08.90ID:ySUAfOax
>>334
そうですね、北条も団体が頑張ってるらしいですけどね
私も北条5代はやってほしいですね
ただやっぱり他の県の団体の活動が目立ちますね
ちなみに今回道灌団体は11万人の署名と神奈川県の黒岩知事の署名とメッセージを
ゲットしたみたいです
なので今回は北条より道灌をむさしも国、むさがみ国、ちちぶ国が推してるかもです
たぶん東京オリンピック意識なので早雲よりは下の代がライバルですね

337人間七七四年2017/11/03(金) 00:34:22.05ID:0WMM31B9
さすがに2020年の大河は戦国だ…よな?……

338人間七七四年2017/11/04(土) 05:44:06.55ID:MiRKbg/r
ライバルは立花宗茂と忠臣蔵らしいよ。
立花宗茂は2度目の藩主から400年記念、
忠臣蔵は1964年度東京オリンピックの時に赤穂浪士だったかららしい。
さてどうなるかね。

339人間七七四年2017/11/09(木) 00:11:58.17ID:07Cx0b+Q
武田四天王の内藤昌豊と北条家臣の内藤綱秀につながりを感じてる人、俺以外にいない?
昌豊(昌秀)の父工藤氏が早雲の所に亡命した説、綱秀の父が康行又は景豊で自身も
景豊を名乗った説、昌秀の子昌月も綱秀の子直行も最後は氏直のもとにいること、
そして両内藤とも大和守を叙位されてること。
秀に豊…気にならない?

340人間七七四年2017/11/09(木) 10:39:29.61ID:Ud+Xlxe7
ほう。

341人間七七四年2017/11/09(木) 10:47:46.32ID:Ud+Xlxe7
内藤昌秀(俗説では昌豊とされる。)の父工藤虎豊は信虎に殺されて死亡した、
とされ、その時は1536年であったとされ、
たしかもう、このころには北条早雲は死亡しておりましたし、
1508年に信虎に敗北して早雲の元へ逃れた工藤氏、が虎豊の事であるとされますと
昌秀が生まれるのはそれから14年後、
虎豊は一回北条早雲の元に逃れた後で、また信虎に許されて帰参して、
その後で信虎に殺されて死亡して、また工藤氏は北条を頼ったりしたのでしょうかね?

342人間七七四年2017/11/09(木) 13:30:44.22ID:07Cx0b+Q
>>341
内藤綱秀は分家からの養子とされてる。祖父(?)の朝行は朝定から、
養父の康行は氏康から、子の直行は氏直から、
綱秀はなぜか逆転して氏綱から(不明)。
次に内藤景豊は北条幻庵の三女が1535年に内藤景豊の正室になってるようで、
小田原攻めの際の内藤景豊は老兵か2代目。
内藤綱秀と内藤景豊と同一人物かまたは別人か。(互いに大和守、
家紋に共通あり、ただし親族かも)
ここで、出自が曖昧な津久井内藤氏(一応藤原秀郷系)に内藤綱秀や内藤景豊のときに
甲斐内藤氏(源満季系だとか)が入り込んでないか(秀や豊から)
と、意味を含んだ妄想の文が339。
とまぁここまで書いて、ネットを漁ったらまた新情報(北条方内藤氏は三系統あり)
もあり、北条方内藤氏の謎はまた深まってしまった。
ごめん会話がかみ合ってるかわからんけど一応返信しとく。

343人間七七四年2017/11/09(木) 23:11:06.66ID:i4iaPgp5
>>342
返信と情報提供をどうもありがとうございますね。

344人間七七四年2017/11/09(木) 23:46:26.57ID:07Cx0b+Q
>>343
いえいえ、こちらこそ。

345人間七七四年2017/11/14(火) 02:02:33.45ID:/Muas2pB
興味深いスレですかね。

346人間七七四年2017/11/28(火) 10:27:51.86ID:vEREretA
丹波篠山藩の初代藩主の松平康信の母親は太田輝資の娘紫雲院
輝資は太田康資の弟で北条方に残り太田/北条氏房に仕えた
徳川が入国したあとは仕官を断り現川口で隠居
ただ女系での血は形原松平家で大名として幕末まで存続

347人間七七四年2017/11/30(木) 11:34:47.07ID:9frVxLvp
武蔵千葉氏と下総千葉氏に関して

とりあえず関東を原点からみると
(本当は将門、頼朝、前北条も地続きだと思う)
鎌倉幕府を経て室町幕府初代の足利尊氏直義兄弟後ずっとくすぶっていた
中央と関東の争いからはじまる
もともと鎌倉足利と関東管領上杉は足利兄弟派閥の違いで、ねじれていた
これは尊氏の子足利基氏が尊氏死後に尊氏の思惑と異なり
直義の意向(鎌倉府の独立性)を引き継いだためだという
(直義派の上杉氏を関東管領に復帰させた、だが皮肉なことに上杉は中央寄りになる)

そして鎌倉足利持氏のときに、上杉の権力拡大を疎み上杉禅秀を虐げ、
犬懸と対立関係であった山内を起用した結果、上杉禅秀の乱が起こる
これは中央の支援もあり、犬懸上杉が没落し(子供らは京へ逃げた)
山内がより強くなった
(起用された憲基がすぐ亡くなったため越後上杉憲実が山内を引き継ぐ)
そしてこの争いで活躍したのが関東のフィクサー長尾景仲である
憲実自体も長尾、大石によって擁立されたとみる説もある
ちなみに大石氏も上杉氏の下で大石遠江守信重や
大石能重などを輩出し、上杉禅秀の乱でも
大石遠江守憲儀が活躍し出世していた

348人間七七四年2017/11/30(木) 11:35:15.64ID:9frVxLvp
その後持氏は将軍義持猶子だったため(一説)義持の死後に将軍の野望をもってしまう
そして新しい将軍義教を軽んじた、これにより中央よりの憲実とも対立してしまう
これで中央&上杉vs鎌倉はいよいよ後戻りできなくなる

状況の悪化により持氏は上杉憲実に中央との仲裁を依頼し、
憲実も助力するが持氏は将軍義教によって自害においやられる
憲実は弟清方に託して出家、結城合戦の後
(結城氏が中央に逆らい持氏の遺児を擁立をしようとした戦)
自らの子も出家させ完全に関東管領を弟に回した。
景仲は両戦いを上杉家宰長尾忠政の下で功績あげ、
清方から指名され山内上杉家の家宰を手に入れる
彼は上杉憲実、その子憲忠や長尾忠政と違い、鎌倉公方に対して強行的に行動していく
景仲vs持氏遺児の成氏と構図へ向かう
(中央は上杉一強を恐れ成氏の鎌倉入りを許した)

349人間七七四年2017/11/30(木) 11:35:30.61ID:9frVxLvp
憲忠(景仲よって擁立)は成氏を補佐しようとしたが景仲は成氏派の結城氏などと対立した
景仲は強硬に出て扇谷上杉家宰で婿の太田資清とともに江ノ島合戦を起こす
(資清は憲忠義父の扇谷上杉家宰で景仲の婿)
だが景仲は敗北し所領家宰職没収、憲忠の鎌倉の追放と復帰へて
一度は丸く収まったものの成氏は憲忠と家宰職長尾実景憲景父子を謀殺してしまう
少しズレるが大石憲儀も反成氏派で処分をうけていることから
景仲、太田資清と近い存在だったことがうかがえる
憲忠暗殺の報せを聞いた景仲は憲忠の弟房顕を関東管領に迎え入れると共に
成氏を討伐する事を決め、家宰職に復帰した
分倍河原の戦いにて惨敗してしまったが、成氏も報告を受けて中央から派遣された
今川範忠によって鎌倉を追われて下総国古河城に移り古河公方を名乗った

ここでいよいよ下総では
永享の乱の終盤に上杉方になった千葉宗家胤直胤賢兄弟と胤直の子で
兄胤将の早世で当主だった幼い胤宣を
庶家で成氏派の馬加康胤と重臣原胤房によって攻撃され滅ぼされてしまった
(胤将は父とは逆に持氏派だった)
胤賢の子実胤と自胤は千葉城から市川城、
そして武蔵国の上杉派を頼り葛西城へ逃げ延びたのであった
こうして武蔵千葉氏がはじまった

350人間七七四年2017/11/30(木) 11:35:45.83ID:9frVxLvp
1454年 成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺
千葉胤将死去
古河に公方が移る
武田信長と里見義実が上総、安房に現る
可能性としてこの頃土岐為頼の先祖も現れたか!?
(武田信長は下総前は相模西部を所領していた説あり)
1455年 成氏によって扇谷上杉顕房、武蔵国守護代大石憲儀が戦死
後の武蔵千葉氏vs馬加&原胤房
東常縁が千葉氏の内紛を収めるため下総に下向
酒井定隆も東常縁と一緒に下向したとも
(上総酒井氏の祖の可能性あり)
1456年 東常縁が馬加氏を滅ぼす
道灌家督を継ぐ(この頃には品川湊近辺の館に居た)
1457年 江戸城や河越城を太田道灌が築城
(江戸周りは江戸氏の所領を南下していて、豊島氏が主)
上杉持朝が河越城を居城とする
江戸城の築城において太田道灌の命令で、
宇田川長清が江戸日比谷から北品川に移住する
ちなみに武蔵吉良氏の成高は持朝の娘を妻に迎えた
そのため、上杉方として動いた
1458年堀越公方下向
1459年五十子・太田庄の戦いがはじまり旧利根川挟んで上杉方と古河公方方に分かれる
ここから享徳の乱の謎の中期になる

351人間七七四年2017/11/30(木) 11:35:57.63ID:9frVxLvp
まず、武蔵千葉氏は下総に戻れなかった、
だけれども東常縁は1469年に息子縁数を残し帰国とあるので
下総で古河公方の勢力が強い中でも残っているのである
ではどこにいたのか、自分は古河勢が巻き返し図った際、匝瑳郡まで逃れたことから
今の東総地区にいたと思われる
さらに上記の武田、里見は成氏に呼ばれたとあるが、
堀越公方政知は成氏方の諸将を懐柔することに努めたことや、
東常縁がそのまま存在していることから、実は武田、里見、酒井、土岐氏は
中央側の東常縁と成氏側とをいききしたりなど、
定説通りには動いてなかったのかもしれない
そして大須賀左馬助・国分五郎などは東常縁の味方をしたようだ
逆に酒井定隆は成氏の客将になったという

1462年 武蔵千葉実胤隠居
(堀越公方と扇谷上杉が揉めたため、三浦氏や大森氏とともに隠居)

このことからこの時には立場から見て扇谷で出世してることが分かる
(後に実胤は上杉顕房の娘、自胤は長尾景信の娘で景仲の孫を嫁にしている)
いつごろから赤塚、石浜わからないがこの時には所領していたのではないか
それから隠居に伴い弟自胤が当主になり、宗家の千葉介も公認されている
そして実胤は出奔したと言われる

352人間七七四年2017/11/30(木) 11:37:32.71ID:9frVxLvp
さて時を同じくして下総では馬加氏の庶長子と思われる岩橋輔胤が原氏の所領を
受け継いでいた、だがそれ以外は不明である
ちなみに胤将は父胤直の異母兄弟とする説がある、妄想だが年齢的に子がいてもおかしくない
つまり岩橋輔胤の子とされる孝胤は実は胤将の子ではないか
東常縁もいてまだ下総自体不安定の中で不自然に岩橋氏が千葉氏を乗っ取るというのに
引っかかりがある、そしてこの時期の情報はほぼない
だとすると可能性はかぎりなく低いが考えてしまう
胤将は馬加と同じく成氏派で、父又は兄の胤直の出家に伴い当主になったが、
胤将死後今度はまた上杉派の胤直が口をだしてくると
謀反を起こし、その子息を擁立というのがありうるし、後世の千葉氏の動きとも
大きな矛盾はない、残念なことに胤将に子がいた資料はないが

1463年 長尾景仲死去、ついに関東のフィクサーが死にその息子景信が継ぐ
武蔵千葉氏に赤塚の寺院への返還要求の書状が堀越公方から届いている

実胤ははたしてこの時戻っていたのであろうか

1464年 足利義視が僧侶から還俗
1465年 臼井教胤死去

千葉孝胤の明確な活動時期までまだある、本佐倉城の築城時期も諸説ある
そこから西には臼井城があった、城主は臼井教胤である
死去後実子俊胤が幼いため養子の持胤がついだということだ
そしてこの持胤は孝胤の子だというが、年齢が合わない
この時に14〜20ぐらいだとしてもこのとき孝胤が
6〜21歳ぐらいだということだ
これも妄想だがこれは実胤の子ではないだろうか
ただし実胤も孝胤同様に年齢が合わないが
理由としては伝承に実胤と扇谷上杉の娘の子守胤が臼井俊胤のあとをつぐ
というのがある、世代がずれたと見るのはどうか
持胤=守胤というのもおもしろいと思う

353人間七七四年2017/11/30(木) 11:38:50.20ID:9frVxLvp
1466年 上杉房顕死去

フィクサー景仲が越後国守護上杉房定の子に継がせるよう遺言で残していたらしく、
上杉顕定が関東管領に就任

1467年 応仁の乱が起こる
今川義忠が応仁の乱のため上洛し、伊勢早雲の姉妹と婚姻をする
扇谷上杉持朝が死去、息子の上杉政真が継ぐ
宇田川清勝討ち死に
1468年 東常縁の美濃の所領を奪われる
1469年 東常縁は息子を下総に残し、京都へ上洛し所領を返還される
1470年 現千葉県市川市で原左衛門次郎蓮教
高城氏が松戸市の平賀本土寺に制札が伝わっているが疑いもあり

いよいよ謎の享徳の乱の中期を脱し
応仁の乱の余波で関東もより動きだす
下総においても戦いがいくつもあったとおもわれ所領は確定はしてないように思う

1471年 小山、結城、千葉孝胤が堀越公方を攻めるが、
山内上杉が堀越と合流し、退却するも叩かれ壊滅状態に
景信が古河城を攻め、成氏は孝胤の元へ逃げる
成氏が下総の知行に関し権威を行使して解決させた
上杉氏が小弓に攻めこみ原胤房死去

この頃か定かではないが、実胤は大石石見守に招かれ葛西城に赴き、
密かに成氏と連絡をとり、千葉介を認めてもらい、下総に帰還できるよう頼んだとか、
だが、それを知った孝胤が猛抗議し叶わず、上記の出奔につながるとのこと
美濃の東氏を頼ったとか

354人間七七四年2017/11/30(木) 11:40:07.84ID:9frVxLvp
1472年 古河城を成氏方が取り戻す
五十子で上杉方と成氏方が激突
1473年 上杉政真、長尾景信が死去、扇谷は嫡子がいなかったため
資清など老臣の評定により、政真おじの定正が継ぐ
長尾は上杉顕定の指示で息子の景春ではなく、景信弟の忠景に継がせる

ここで景春の乱につながる、景春は従兄弟の道灌をたったが、道灌は拒否したものの
色々提言したが聞き入れてはもらえなかった、さらにその行動を父資清に𠮟咤された

1476年 今川義忠討ち死に
伊勢早雲が調停のため幕府から遣わされる
道灌が犬懸上杉の血が入る小鹿範満を擁立すべく出向く
この件は和談が成立し、道灌は撤収
景春が武蔵鉢形城に拠って反旗を翻す
大石遠江守房重が戦死
1477年 臼井持胤が俊胤に家督を譲るが、俊胤が実子に譲るべきと拒否、
だが強引に譲って隠居してしまった
景春が五十子陣急襲、顕定と定正は大敗を喫して上野へ敗走した
上杉顕定の重臣として大石定重は武蔵国守護代につく

これにいくつかの関東の武家、国人、地侍が呼応し、景信の娘をもらっていた義兄弟の
豊島氏も景春についた(これまでは南武蔵で防波堤の役割をしていたと感じる)
武蔵二宮の大石憲仲や葛西の大石石見守も景春についたという説もある
太田資忠や上杉朝昌(朝良や東永の父)、三浦高救や自胤、
もちろん道灌の活躍により諸々の武士及び豊島氏、景春をはねのけた
この時江戸城を守備したのは恐らく吉良成高だった
景春は武蔵国鉢形城に逃れ、足利成氏一同が救援に駆けつけため景春は討てず、
顕定と定正はまたも上野に撤退した

355人間七七四年2017/11/30(木) 11:42:26.37ID:9frVxLvp
1478年 成氏が和議を打診
公方と上杉氏との和睦が成立
1479年 臼井城包囲

和議に反対の豊島氏を滅ぼし、鉢形城から景春も追い出し、顕定の居城とした
さらに反対派の孝胤のもとへ太田資忠と自胤とともに攻め込んだ、
境根原合戦経て孝胤を下総から追い出した
この時臼井俊胤が城主の臼井城を攻めた太田資忠が討ち死にした
自胤は城代を置き、武蔵国へ帰国した
ただこのとき海上備中守、武田上総介、武田参河入道が下り、
武蔵石浜へ移った武田入道は、金龍山浅草寺を再建し、ふたたび上総に戻ったらしい
そして定説では孝胤は下総にもどり巻き返し下総を抑えた
一番最後に破壊的な妄想を書く

1480年 景春が日野城及び武蔵国から追い出させられる
1482年 ついに幕府と関東公方が和解
1486年 臼井持胤の子幸胤元服とともに当主になる
定正によって太田道灌暗殺される
足利に人質としてだしていた
道灌の子資康が江戸に戻ったが放逐される
三浦高救(定正の実兄)が定正に代わろうと図って、
養父三浦時高に追放される
太田資康をはじめとした扇谷家臣が離反し山内に下った
太田資康はその後三浦義同の娘をもらう

1487年 顕定と実兄で越後守護の定昌は
扇谷に通じた長尾房清の城を奪い、両上杉の戦いがはじまる
大石憲儀の庶子で大石定久の父とされる大石信濃守定重が
亡父の三十三回忌を供養した
1488年 酒井定隆が勢力を伸ばし上総酒井氏の祖になったという説がある
顕定は実父の上杉房定の支援を受けて、
太田資康や三浦高救とともに鉢形城を攻めた
結果としては顕定は敗走、定正は兄の朝昌居城を奪われた
そして定昌は謎の死を遂げる、その後も攻防が続いた

356人間七七四年2017/11/30(木) 12:21:13.57ID:9frVxLvp
最後に千学集抜粋は災害で多くが失われ、
千葉大系図は邦胤の子重胤が校訂したとされてるみたいだから
鎌倉大草紙も途中で作者が変わったとないとか
割となんでもあり…とはいかないか
本当に不思議な情報があって妄想がすごいことになる
やっぱひどいか

357人間七七四年2017/11/30(木) 12:24:11.05ID:9frVxLvp
1489年 江戸城代の曾我祐重が苦悩手紙を定正に出す
1490年 臼井幸胤死去、再び義理のおじの俊胤が家督を継ぐ
1491年 支配が伊豆1国のみなってしまった堀越公方の足利政知が病死
1493年 武蔵千葉自胤死去
北条早雲が伊豆に侵攻し堀越公方から所領を奪う
北条早雲は定正と手を組んでたいわれる

1494年 扇谷重臣の三浦時高と大森氏頼が死去、両家とも内紛状態へ
定正が落馬で死去
上杉朝昌の子で伯父上杉定正の養子となった上杉朝良が継ぐ
太田資康が扇谷上杉家へ復帰
山内と対立姿勢の景春と和睦を望むその子景英が対立
景英が白井長尾家の当主に取り立てられる
1495年 扇谷朝良が駿河国守護今川氏親に顕定打倒への支援を依頼する
派遣された北条早雲が大森藤頼から小田原城を奪い取る
ただし、すでに大森藤頼が扇谷を裏切り山内に下っていた可能性あり
朝良の了解のもと奪ったのかもしれない

1497年 足利成氏死去

こうしていよいよ後北条氏が関東に侵攻してくることになる

358人間七七四年2017/11/30(木) 12:28:17.11ID:9frVxLvp
そして時代は遡って…
定説では道灌の下総侵攻後、孝胤は下総にもどり巻き返し下総を抑えた
ここからは完全に壊れた妄想だけど、
本当に数か月落ちなかった臼井城が落ちるだろうか
これより後の時代でも上杉謙信が落とせなかった城だから
戻ってきてさぁ落としましたは不自然に感じる
それにせっかく下総に戻ったのに帰るのもなんか違う
和議で討伐流れなわけだし
それはおもうに兄の子にゆずったから

まず、守胤=持胤で、持胤が勝胤に改名で孝胤の養子に入る
そして孝胤は出家で家督を譲る、これで堂々と千葉介を名乗る

359人間七七四年2017/11/30(木) 12:32:20.93ID:9frVxLvp
持胤の伝承で孝胤、勝胤、持胤が山内と扇谷の間で争いがはじまると
山内に味方したが、家臣の原胤隆と木内氏に味方しようとしたために
孝胤が持胤を原胤隆へ送り寝返りさせようとしたとある
持胤=守胤としたとき、時期的に道灌暗殺後であるから
両千葉氏が山内に転じても問題ない、守胤=勝胤でない場合は
両千葉氏は真逆の立場をとるだろう、ただそうすると道灌の盟友は
いくつかの武家が扇谷から離れたときに律儀にのこることなる
残念なことに武蔵千葉氏に関して道灌死後全く資料がない
さらにこのころ葛西城の大石石見守が円城寺氏に殺害されたのは
家臣団の中に扇谷派がいたのかもしれない
そしてもめることなく他の大石石見守が葛西城に入ることから
話がちゃんとついたのだろう
そもそも扇谷の中にぽつんとある山内家臣大石氏も不思議だ

そしてさらに守胤は東常縁や常和とつながりがあり和歌が得意、
勝胤も得意だが本人の和歌は残ってない、それは改名したからかも

360人間七七四年2017/11/30(木) 12:37:15.22ID:9frVxLvp
そして子供は昌胤と良胤、良胤は自胤死後に武蔵千葉氏を継ぐ
これでだいぶあとに出てくる胤富の子の邦胤と双子の良胤を消化できる
良胤は親北条氏と言われる、つまり早い段階で
武蔵千葉氏は北条氏に下ったとも見える
これによりまた下総と分かれた

これからがもっとひどいが良胤の子の胤利と昌胤の子言われる利胤は同一人物で、
実は武蔵千葉氏が父自胤死後、家中の実権を掌握した良胤は胤利の正室に
北条氏綱の娘をもらっており
武蔵千葉氏が千葉殿になったのではないか
川越城の戦いに参加したのも実は武蔵千葉氏ではないか
利胤が元服で千葉妙見宮で行えなかったのは武蔵千葉氏だからではないか

そして昌胤の方は利胤を飛ばして子の親胤が下総を継ぐ
弟の臼井胤寿ともめていたのは利胤ではなく親胤ではないか
他が親北条なのに親胤が反北条だったからではないか
そして兄の胤富によって暗殺される
ちなみに親胤と臼井守胤つまりここでは勝胤=守胤=持胤の
法名と逸話が一緒で守胤は重臣になり(重臣はおいといて)
最後は孫と一緒に自害し、そして家臣の砂尾修理が
守胤をまつるのに石浜総見寺に千葉塚を建てたとさ

361人間七七四年2017/11/30(木) 12:38:26.64ID:9frVxLvp
最後に千学集抜粋は災害で多くが失われ、
千葉大系図は邦胤の子重胤が校訂したとされてるみたいだから
鎌倉大草紙も途中で作者が変わったとないとか
割となんでもあり…とはいかないか
本当に不思議な情報があって妄想がすごいことになる
やっぱひどいか

362人間七七四年2017/11/30(木) 12:39:58.61ID:9frVxLvp
>>356
あー間違えた

363人間七七四年2017/12/02(土) 18:43:59.57ID:7A4oWJcr
所領帳で六郷殿って河越筋脚折(埼玉鶴ヶ島市)に所領持ってた
鶴ヶ島市って言えば正音寺の伝承によると岸田正春は扇谷上杉朝定に仕えていたが
川越城戦のあと正春は孤児になったしまった朝定の子を養子にして岸田和泉正信と
名乗らせ岸田家を継がせたって話らしい
上杉憲幸とは関係あるのかな?少し遠いけど北は東松山だし憲勝も気になるな
資正家臣の宇田川弾正も扇谷系宇田川氏がいるからこれも気になるなぁ
宇田川弾正は浦和だけど

364人間七七四年2017/12/03(日) 14:52:04.90ID:7AXmq5rN
後北条氏に二つ以上の中条氏がいて、
ひとつは国府台もしくは新田金山攻めで討ち死にした出羽守。
この方は北条の重臣で調布に所領を持ってた、
それと真言宗から日蓮宗に改宗してる。
もう一つが1590年頃家臣になった景信の子景正、
景正甥の景定が後を継いで景正子景忠は医者になったって話がある。
樋口信孝の母の中条氏は日蓮宗の中条氏らしい、つまりひとつめの中条氏の一族。
そのまま、その人物が持胤とも考えられる。
中央の中条満秀系か又は熊谷市あたりにいたかと思ってたけど、
永和や永徳の時代にいる中条氏があやしい。
浦和地頭や世田谷代官で名が見えて、もしかしたら武蔵吉良氏の関連の人物かも。

365人間七七四年2017/12/03(日) 15:21:26.18ID:D/I4lzLL
長文が多くて読みにくい……

366人間七七四年2017/12/04(月) 08:16:11.76ID:6QdP+T8L
東京で城めぐりするとしたらどこがおすすめとかある?

367人間七七四年2017/12/04(月) 08:56:10.39ID:YvSVkfB9
多摩に行けば滝山とか状態は良いな
23区なら赤塚が比較的残ってるかな

368人間七七四年2017/12/04(月) 10:00:49.02ID:6QdP+T8L
>>267
ありがとう、じゃあちょっくら行ってみようかな
縄張とかそういうのよくわかってないけど、勉強がてら散策してこようこな

369人間七七四年2017/12/04(月) 14:34:02.19ID:azsyHkNT
>>364
ふたつめの中条氏ってもしかしたらフェニックスのとこから来たのかな?
たしか小田城攻めの家臣に中條出羽守がいたし、そのあたりから北条に助け求めてるし、
ボロボロになりだした小田氏から北条に移ったかな?

370人間七七四年2017/12/04(月) 16:44:46.80ID:IfmbPFPr
所沢から府中にかけて府中街道沿いに新田足利軍と鎌倉幕府軍の戦場がいくつもある

371人間七七四年2017/12/08(金) 07:45:45.67ID:UQEy2iel
遠山綱景の娘を嫁がせた先って
・太田康資
・舎人経忠→大道寺政繁(再婚)
・牛込勝重
あとあったっけ?

372人間七七四年2017/12/08(金) 19:39:03.58ID:UQEy2iel
連投になっちゃうけど
これ
・太田康資→牛込勝重(再婚)
もあったりするんかな?
で法性院の連れ子が氏政の政と勝重の重で重政
うーん

373人間七七四年2017/12/17(日) 02:34:14.97ID:ZB4lamXf
>>360
残念だが横浜市港南区野庭ら辺を開拓した臼井一族の臼居守胤ってのがいるぞ。
千葉守胤が1556年or1537年、臼井景胤、臼井守胤、千葉親胤、臼居守胤が
1554年に没っしたという。臼居守胤は臼井守胤と同一人物と見られてる。
ちなみに臼居守胤は中田加賀守の娘をもらってる。
ただこの話も色々おかしいところがり、かなり混乱されてるのは事実。

374人間七七四年2017/12/17(日) 02:43:42.75ID:ZB4lamXf
>>373
開拓ではなく土着。訂正。

375人間七七四年2017/12/27(水) 09:40:12.89ID:GxX9xfGy
江戸川区開発
・宇田川喜兵衛
・篠原伊予
・田島図書

376人間七七四年2017/12/28(木) 02:47:32.01ID:J9w0YdgV
質問なんですが江戸氏館が江戸城の前身ってどのくらい根拠があるんですか?

377人間七七四年2018/01/10(水) 05:06:31.13ID:Cz55wxfG
>>376
ない

378人間七七四年2018/01/11(木) 15:27:19.39ID:gEvP4v/0
桑原右京

379人間七七四年2018/01/16(火) 07:50:10.96ID:wf/UyoVe
三田氏家臣の野口秀房

380人間七七四年2018/01/31(水) 22:49:50.86ID:LfIX9Kg4
質問ですが、上杉憲勝と宇田川親定は兄弟ですか?

381人間七七四年2018/03/01(木) 02:59:36.92ID:uIgHzcn/
無理に戦国中期にこだわらずに、太田道灌と千葉自胤、豊島兄弟でいいだろ

382人間七七四年2018/03/01(木) 20:44:39.95ID:iC+V7pBR
>>373
こんなところで実家の近くの住所を見るとは
あの近辺って日限山(ひぎりやま)とか馬洗い川とか味のある地名があってなんかいい

383人間七七四年2018/03/14(水) 12:43:38.82ID:CtNGOqB+
資宗が資武から系図の資料集めて、資武が亡くなってすぐ改竄したのかな?資武側は怒らなかったのか?

384人間七七四年2018/03/14(水) 12:44:34.99ID:QKQ2EL7g
【萩原孝一】 聞こえないふりするな  ≪≪ テレパシー ≫≫  聞こえてしまったんだ  【エハン】
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1520993633/l50

385人間七七四年2018/03/21(水) 02:51:24.58ID:iUsfD+9p

386人間七七四年2018/03/21(水) 09:05:43.59ID:JfB7cUBh
まことは、注意をされると必死になる
これも、無教養の証である

387人間七七四年2018/04/24(火) 23:35:22.93ID:BILdylu/
ttp://www.nihon-u.ac.jp/lawschool/wp-content/uploads/2018/03/09homu-kenkyu15.pdf
無理くりだけどおもしろい
重正すげー

388人間七七四年2018/05/10(木) 21:49:21.52ID:eEH6b7HK
宗甫(間宮宗甫)ってどういう人物なんだろう

389人間七七四年2018/05/11(金) 10:50:34.33ID:HrPdRKGt
八王子は山側故に本家の相模や他の地域から塩止めされると夏は特に厳しかった。

其処で裕司公は領民にたいし、常に塩を保存することを命じた。夏のさいは女子供も摂取しやすくするために甘露水にまぜ、水菓子を香料とした甘露水を水瓶に入れるようになった。

其処で某所では水瓶といえばこの甘露水という具合に水瓶は飲料水の代名詞となった。のちに西洋ではこの水瓶を模る星座をアクアリウスと呼ぶのに倣い、裕司公発案の甘露水をあくありう水と呼ばれるように相成った。

390人間七七四年2018/05/11(金) 11:32:25.03ID:+qnilUIM
もう少しらしく作ればいいのに

391人間七七四年2018/05/14(月) 15:35:12.30ID:MeHvTWOq
池袋裕次

1193〜1919年
八王子勢力を武装闘争の発明に導くことで知られていた伊勢佐幕府(1942-1938年)の193回目(一般的には正式摂政、しかし事実上は家の支配者)。

池 袋 裕 次

392人間七七四年2018/05/17(木) 18:07:57.99ID:iUPC6dni
やっべぇ、軍畑スレ民先輩じゃん…話したくねえなぁ

393人間七七四年2018/06/14(木) 00:37:58.27ID:zMPDKSiF
>>371
牛込氏は知らんが、確か伊丹氏にも出してたはず。

394人間七七四年2018/06/18(月) 22:53:47.90ID:pQf02k+y
太田ドーカンあげ

395人間七七四年2018/06/20(水) 23:44:23.45ID:WrV2d+CN
駿河出身っぽい伊丹・興津が江戸近辺にいるのは誰が連れてきたんだろう

396人間七七四年2018/06/21(木) 02:42:19.99ID:NDbW9jAt
早雲じゃないかな?今川からの流れで。あと長崎氏も駿河からじゃないかな。
ただ上杉が衰えて空いたとこ入れたんじゃないか?

397人間七七四年2018/06/21(木) 02:45:54.83ID:NDbW9jAt
あ、あと気になるのが本多氏と本田氏。
本多氏も元々本田氏のようだし、そっちから流れてきたのかも。

398人間七七四年2018/06/21(木) 03:34:48.20ID:uDdGnwCt
丸子氏というのもいる
丸子城のあたりと何か関係あるのかな

399人間七七四年2018/06/21(木) 04:25:02.49ID:NDbW9jAt
丸子氏はたぶん江戸氏系じゃないか?
世田谷の丸子川は丸子という元にあった地名から来てるとみると、
六郷氏同様、地名を名乗った江戸氏かと。

400人間七七四年2018/06/28(木) 06:33:05.03ID:JeidYQ3H
蕨城、岡城、赤塚城、志村城、稲付城など今の東京埼玉の県境に
城が乱立してるのはやっぱりそこにも一時期攻防が多かったと見ていいかな?

401人間七七四年2018/06/29(金) 15:33:22.63ID:eXOJ46YY

402人間七七四年2018/06/30(土) 09:44:26.77ID:vSwbS999
>>400
水運と耕地のある河川沿いに拠点を持つのは自然じゃないかな
あと城北地区付近城は豊島氏を中心に見た方がいい
城東地区というか練馬を中心に豊島方面に勢力を伸長していった豊島への対策はしておかないといけない

403人間七七四年2018/07/01(日) 04:01:46.92ID:JT2+C+8q
荒川の水運利権を握ってたというのが有力だよね

404人間七七四年2018/07/06(金) 00:08:57.63ID:BGO70xEK
いい利権なはずなのになんで物資補給とかで書状が多く残ってないんだろ…
北条時代の城主すらよくわかってないんでしょ?
惜しいよな、、北条って武蔵国の情報が抜け落ちてるのなんでだろう。
一族とほかの家臣ばっか見だってるよな

405人間七七四年2018/07/08(日) 01:16:33.97ID:0Hqi4G0J
当時の荒川は流路が違ったんじゃ。忍城や岩槻城がその流域。
川越から続く入間川(現在の荒川)も重要な防衛ラインだったろうけど

406人間七七四年2018/07/10(火) 08:45:11.03ID:yyowmCpo
中条持胤って名前的には中条満秀とか持家系かな?
想像だけど持家の孫かなと。
叔父の満平が当主になったこと、結城合戦に参加したこと、
関東に分家がいる可能性があることが渋川義鏡に通ずるとこがある。
義鏡が最後関東で隠居してるのと一緒で持家も関東に残ったんじゃないかな。

407人間七七四年2018/07/18(水) 11:41:26.90ID:I0WTqcBM
やっぱ重正って牛込氏と関係ない?
勝重ー俊重ー勝正
抜き取ると重正とお勝、いやむりくりか
でも勝重の妻遠山丹波守の娘気になるんだよな
舎人氏の方は大道寺直英で有名だしな

408人間七七四年2018/07/19(木) 05:00:57.93ID:NniTeCpx
松野大学

409人間七七四年2018/07/20(金) 15:13:45.43ID:S7/ivX+Y
軍畑裕司
軍畑流北條氏筆頭
武蔵国青梅の豪族。193代執権を務めその後194代桃李から1918代相太の相伴役として歴代執権の補佐に回り、次々と早逝したので止むを得ず
回りの推挙もあり1919代執権になり再び世に躍り出る。

193代の頃は度胸試し1919代の頃は御成敗式目を踏襲した根性試し制定により理非曲直の公正な裁判を行うようになり、民衆から離したくねえなあと愛される一方、公家衆には、あすこにあくありう水あるから取ってこいよ。やる気あんのかなどと檄を飛ばす一面もある。

410人間七七四年2018/07/23(月) 12:29:14.46ID:fWnvyc/g
俺は氏綱の娘は武蔵千葉氏に嫁いだと思ってる

411人間七七四年2018/07/28(土) 00:02:17.86ID:tBGiKIts
美男子としても知られる軍畑裕司であるが、ある日ゲイビ社長に一本(一万石)で相手にならぬかと誘われたが、「人間、勃って半畳寝て一畳で十分だって聞こえんかったか?」と啖呵を切り社長をうならせた。傾奇者軍畑先輩を世に轟かせた有名なエピソードである。

412人間七七四年2018/08/19(日) 02:21:33.20ID:t8oQpUCP
軍畑裕司(いくさばたゆうじ)
従一位太政大臣。 青梅源氏嫡流。 龍神三兄弟といわれた夷狄征伐のため1193年に征夷大将軍に命じられる。
大将の一人を打ち取ると落首(らくび)と呼ばれる、敵の生首を蹴鞠に見たてて遊び、相手の戦意を失わせて降伏させた。

これが後のラグビーとなったとも言われる。 その後奥多摩に幕府をひらき、善政を敷いた。

最近まで、ご神体を拝む肖像画が将軍の顔とされていたがあれは側近の 三 宅(しのまえ たく)であることが有力視され、実際は傍系の桃李と思われていた人物が裕司将軍というのが近年の説である。 入道後は愛染和院(あいぜんわいん)と名乗る。

413人間七七四年2018/08/20(月) 04:45:39.42ID:uC3Nldnl
病気

414人間七七四年2018/08/20(月) 21:27:24.94ID:qEKHqjnq
>>413
過疎らせてんじゃねーぞバーカ

415人間七七四年2018/08/20(月) 21:28:11.95ID:ouUSQ1bl
【アメリカの、負けだ】 中国が、米国債を、突如、NY市場で売ると、それは、アメリカの終わり、である
https://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1534644084/

サヨクが勝って世界教師マ1トレーヤが現れる! UFOも!

416人間七七四年2018/08/20(月) 22:24:59.95ID:uC3Nldnl
やはり病気だは
世間に迷惑かける前に病院いけよ?な?

417人間七七四年2018/08/22(水) 10:04:26.19ID:wzSgsuic
大石定久や三田綱秀で霞む小宮顕宗

418人間七七四年2018/08/25(土) 01:16:46.81ID:tCBVIjZO
小柳ルミ子 連載記事

週刊大衆第69回・私は死んじゃったけど昼ドラ見てね!
若いスタッフが「ルミ子のAVで抜いた」という話を聞き、
「AVを非難するつもりはないけど、
アレ(白蛇抄)はAVじゃなくて文芸大作映画だから!」と上から目線。

週刊大衆第72回・夏バテ解消はダンスと焼肉よ!
「オトコの相性はずばり『セックスの相性!』」と断言しながら、
「相手の普段のしぐさからその相性は完璧に見通せる」と自慢話。

419人間七七四年2018/08/28(火) 22:43:21.34ID:NhFzYl37
朝廷から武蔵守と陸奥守を下賜された漢 軍畑

420人間七七四年2018/09/15(土) 14:06:11.47ID:4QQrn99Z
軍畑裕司

元は松坂氏の地頭であったが、身内から"話したくねぇなあ"と言われなき差別や裏切りがあったのと、
関東にて度胸試しを行う正当性をつけるため逝司家に多額のアを献上し、新田源氏末裔の戦畠氏の家系であると帝に言上し、後裔軍畑氏の氏と青梅一帯を支配するための名目である武蔵野守を下賜され、同族の益子氏、宗田氏を従えた。

421人間七七四年2018/09/25(火) 03:34:29.34ID:skkCP55e
いいね

422人間七七四年2018/10/06(土) 18:51:43.62ID:3SeY3Q6o
青梅守護 松坂裕司は 小善は大悪に似たり、大善は非情に似たりという言葉を戒めていた。

大意としては、中途半端な情けはトラブルの元となり、非情のような決断がむしろみんなの幸福となり得るということである。

裕司公はとくに目をかけていた岡田兵部と益子弾正にはあえて度胸試しと根性試しを行い、乱世でイキる術を与えた。

裕司公薨去の際彼らは、離したくねぇなあと言って殉死しようとする家臣を諌め、亡骸を奥多摩の1か2里離れた厠に捨てた。この非情な決断がむしろ家臣たちの裕司公への依存を消し去った。

423人間七七四年2018/10/10(水) 10:14:11.81ID:Zqy3vXzH
ほんと最悪

424人間七七四年2018/10/19(金) 19:19:34.53ID:9gVGASIM
神仏を厚く敬い、戦場にあっても御神体を離さず握りしめながら戦いに臨んだという裕司公

しかしその戦場では鬼神も恐れる猛勇で敵方は「龍が来るぞ!」と異称であった龍神の名を叫び恐れおののいた

そしてその言葉は次第に変化して「龍来る(たつくる)」となり現在の「タックル」の語源になったとされる

425人間七七四年2018/10/19(金) 22:58:28.80ID:Nf5yMXB5
面白くないけどオリジナル?

426人間七七四年2018/10/24(水) 17:06:11.20ID:kPjz4Yyi
やっべぇマジレス先輩じゃん

427人間七七四年2018/11/02(金) 16:42:17.02ID:Sv/O4QLL
話したくねぇなぁ

428人間七七四年2018/11/05(月) 15:22:49.37ID:kCGWuXfV
この前、谷保天満宮に行き、近くに城山という地名があったので行ってみたら、
三田氏の館跡らしく、
今でも、三田さんがお住まいだった。

429人間七七四年2018/11/17(土) 04:02:40.28ID:iknVfbJo
中々武蔵国平定ならず同じ松坂氏の傍系からの裏切り多く、内憂外患が続く裕司公は長きにわかり昵懇であった五摂家の足細氏へ度胸試しやアクエリアス献上続け、

家系のねつ造を頼み、裕司公は青梅源氏でかつて武蔵守だった、かの戰畠(いくさばた)氏の直系ということにしてもらい帝へ奏上してもらい名実ともに武蔵一帯を統べる実力者となり、名を源軍畑裕司(みなもとのいくさばたひろつかさ)に変えた。

のちに松平元康がこれを参考にして徳川性をなのったのはあまりにも有名な話である。

430人間七七四年2018/12/22(土) 21:35:48.49ID:94r3GYsY
山内上杉ー豊島
扇谷上杉ー太田ー宮城

宮城氏の本当の父系って豊島氏じゃなかったりする?

431人間七七四年2018/12/27(木) 12:10:11.56ID:70wn8pcY
どちらかと言えば
関東足利−豊島
上杉−太田
で、豊島氏没落後、庶流が
上杉−太田や武蔵千葉や大石や他−宮城
               −板橋
               −滝野川
               −平塚
ちりじりに生き残ったんじゃないかな
(葛西城の大石氏がいる以上山内扇谷はあんまり関係ないかと)
元々公方上杉対畠山や上杉と公方方の争いの中、着いた相手の勝敗によって
領土没収、返還を繰り返してたみたい
享徳の乱では豊島氏は上杉方だね、
結局は領土を広げた太田に反感持って景春に味方して滅んだけど
だから父系は豊島氏だと思うよ

432人間七七四年2018/12/30(日) 18:03:00.81ID:bKxFx0Tl
宇多重広や石巻康保を歴代に数えているように
豊島氏の系図って胡散臭すぎて
宮城氏以外にも子孫を称す旗本等
実系で繋がってる気がしないんですよね

433人間七七四年2019/01/29(火) 22:59:01.66ID:jXaHx86O
ちょっと雑把な認式だけど1980年に安房側の里見義頼が上総を制圧したとあるけど、
1581年に太田康資が安房の鯛の浦の廃墟を救ってるらしい。
この1578年頃からの里見家督、領土争いの最中だから割とおもしろい。
通説は1581年に正木憲時と一緒に亡くなるだけど、
最近は憲時が反乱を起こしたわけでもなさそうだから、粛清の際、
梅王丸の出家を見守ったあと常陸に追放された(資正のもとを頼った)
ってのも、やっぱりあるんじゃないかな。
梅王丸が殺されなかったことや、甲佐同盟のことを考えると、
上杉や資正にパイプを持ってた康資は殺さないんじゃないかな、と思ったりする。

434人間七七四年2019/01/30(水) 00:42:02.08ID:6q78+7O+
タイムトラベラーかな

435人間七七四年2019/01/30(水) 01:45:23.98ID:0wOo0Isn
>>433
誤、1980年に安房側の……
正、1580年に安房側の……
ごめんよ

436人間七七四年2019/01/31(木) 20:14:23.62ID:vyL2gMcq
何年か前に映画でやった沈黙に登場する井上筑後守の妻は太田重正の娘

437人間七七四年2019/02/04(月) 16:51:50.27ID:nWMR1D17
佐倉孝胤@―勝胤A  ―利胤  ―胤富D―邦胤E―重胤
臼井実胤1―守胤3―昌(雅)胤B―親胤C
武蔵自胤2      ―憲胤4     ―良胤5―直胤

438人間七七四年2019/02/05(火) 17:34:57.83ID:bRSNwaBR
北条家はやたら千葉氏に嫁を送る

439人間七七四年2019/02/14(木) 11:21:54.35ID:j10dAtoK
大石定久が信長の野望大志で扇谷上杉家臣になってる……

440人間七七四年2019/02/18(月) 12:25:01.70ID:WhLInrPL
モノノフが嫌われない理由が無いもん

・ライブ時、強制退場にキレてスタッフに暴行
・氣志團万博にてモノノフ同士の殴り合いの喧嘩、口論、押し合い発生
・その後千葉駅のトイレでモノノフが靴を洗い洗面台や床を泥水だらけにし詰まらせ、注意されても無視
・指祭り前に指原の握手に行き「モノノフなめんな!」と喧嘩を売る
・指祭り本番はモノノフだらけ、ももクロ以外には露骨に声援やコールをサボり微妙な空気に
・神戸で開催されたライブでファンがメンバーに対して痴漢
・ガガ前座時にも自己中な迷惑行為多発でガガファン激怒
・大阪の河川敷の堤防に「れに かなこ しおり」と大きく落書き
・Perfumeのライブで後方から数々のももクロコール
・BABYMETALのSSAライブにモノノフが緑推し完全装備+法被で参戦、しかもサイリウム禁止のアリーナで緑サイを振り回す
・BABYMETALのZeppライブで"ももクロしか見えない"と書いたTシャツを着た男性が危険行為を繰り返す
・新宿バルト9でモノノフがでんぱヲタを装い大声ででんぱ組mixや奇声を上げ一般客が大迷惑
・ベルハーのライブで世界のももクロNo.1コールをしてベルハーに「帰れ!」と言われる
・舞台挨拶の出待ちに大挙して押しかけ歩道を塞ぎ一般人が車道を通る羽目に
・メンバーにストーカー行為
・ライブのたびに会場周辺がゴミだらけに
・オフ会でファン大勢が渋谷駅前で大騒ぎし大迷惑
・更にその後無縁仏の供養塔に全裸で股間をこすりつけるという暴挙

参考動画
https://www.youtube.com/watch?v=VlEHkwaRBlg&t=4420

441人間七七四年2019/03/05(火) 14:45:23.42ID:OGxrweM3
長崎元家と長崎重光ってなにかつながりある?
元家っていつから滝川家臣なんだろう

442人間七七四年2019/03/20(水) 14:39:16.69ID:pyV0vuPx
平成の天一坊事件

桃李と名乗る美男子が、青梅公方の隠し子であると名乗り出た事件。

軍畑裕司公は当世きっての松坂似のイケメンであったことからいろいろな女優やアイドルと浮名を流し、お手つきが多かった。

それに加えその青年が裕司公そっくりであったことから、裕司公自身も 落胤に違いないって言ってんだよ聞こえんかったか?と重臣達に1か2回ほどいった。

しかし、落胤を神輿にして叛旗を翻す分家を恐れた執権の岡田颯汰氏に、それ(落胤の認知)は出来ない、キツイっすと言われ、闇に葬り去られた。

徳川吉宗の時代にあった天一坊事件に似ていることからこの平成の天一坊事件と言われるように相成った。

443人間七七四年2019/04/11(木) 13:13:17.22ID:lxsrWhz3
天正十三年十月二日 北条家御朱印状

遠州へ加勢衆之事

八騎 遠山自身(直景らしい)
一騎 遠山左馬允
一騎 中条
一騎 会田
一騎 本田
二騎 島津
二騎 伊丹
二騎 千葉殿
以上十八騎

十八人 馬の口取
十八本 鑓
二挺 鉄砲
一本 大小旗
以上卅九人

合五十七人

以下、服装や装備についての規定八条

末筆に、羽柴と戦うのに加勢するよ。更に加勢したいなら追加で認めるよ。

みたいなことが書かれてる書状のコピーを手に入れたんだけど、上の方で千葉殿の加勢云々でゴチャゴチャ言ってたやつはこれのことかね

444人間七七四年2019/04/12(金) 16:19:16.06ID:BnlyPpmf
>>443
質問ですが、遠山左馬允とこの頃の千葉殿と中条はどなたですか?

445人間七七四年2019/04/12(金) 21:54:29.36ID:zqtKzN9n
>>444
いや、正直そこまで詳しいことは分からなくて…

そもそも小牧長久手の戦いなら、前年の筈だし、ただの誤記かなとこの辺は思うけど
多分江戸衆なんじゃないかな
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nakajo_k.html
によると
蒔田・大串を治めていた中条氏がいるらしい

千葉殿は直胤じゃなかろうか

446人間七七四年2019/04/13(土) 09:27:39.44ID:UyQhw/aV
>>445
ありがとうございます
調布の中条とは別なんだろうか、でも江戸衆だとやはり国府台で亡くなった中条の一族かな
あと直胤の石浜没収の逸話は信憑性低くなるかもなぁ、まぁこの後に没収されたかもだけど

447人間七七四年2019/04/25(木) 13:45:26.94ID:Hwl/n3Mo
6日まで戦国足立の三国志て特別展やってる
>>445
と同時期に出された北条氏房の書状が展示されてたよ

448人間七七四年2019/06/02(日) 19:19:11.63ID:Iow1rlRy
おちんぽ

449人間七七四年2019/07/21(日) 19:12:11.99ID:gnIVQIc+
>>430
宮城氏の父系は留守家景の弟・宮城四郎家業
宇多重広は和泉国御家人・宇多左衛門尉重広
これに北条家臣・布施勘解由左衛門尉康保も加えて
一つに纏めたのが豊島氏の家系図か

450人間七七四年2019/10/13(日) 00:46:19.64ID:xcAwKXFU
自転車乗りながらの絶叫系淫夢語録は日課

451人間七七四年2019/10/13(日) 06:57:14.53ID:bidIUg+K
堤防が自然堤防の時代なら多摩川の河口が鶴見川に付けかわってたかな

新着レスの表示
レスを投稿する