二重公儀論について考察する [無断転載禁止]©2ch.net

1agetoff2016/08/31(水) 10:53:46.38ID:4LGUqGSJ
笠谷和比古等が主張する関ヶ原後も関白継承権を持った豊臣家が一定以上の権威と大名への影響力を有しており、
公儀は二重体制になっていたという論について色々と考えてみましょう

2人間七七四年2016/08/31(水) 11:09:26.50ID:4LGUqGSJ
私自身の考えをいえば、ちょっと豊臣家を過大評価しているかなって思います

3人間七七四年2016/08/31(水) 17:05:31.22ID:ZiHhzPMV
徳川家康が征夷大将軍として命じたことは、片桐且元は恐縮して承っていたので完全なる一元的徳川公儀政体と解すべきである

4人間七七四年2016/08/31(水) 23:36:12.98ID:3TlTmNQ1
笠谷和比古が「関ヶ原合戦と大坂の陣」で挙げてる二重公儀体制の意義の八項目は

一、秀頼に対する諸大名の伺候の礼

二、勅使・公家衆の大坂参向

三、慶長期の伊勢国絵図の記載

四、大坂方給人知行地の西国広域分布

五、秀頼への普請役賦課の回避

六、慶長十一年の江戸城普請における豊臣奉行人の介在

七、二条城の会見における礼遇

八、慶長十六年の三ヵ条誓詞

だろう

5人間七七四年2016/09/01(木) 11:18:23.28ID:66wbY43n
 
池田糞作のキチガイカルトが政治活動・公明党!

キチガイの集まり・創価学会・公明党!

人殺しの殺人鬼が政治活動・創価学会・公明党!

池田大作・人殺しの殺人鬼・創価学会・公明党!

あやかりドチンピラの池田糞作・創価学会・公明党!

6人間七七四年2016/09/01(木) 15:17:19.45ID:BEgVC1/E
慶長五年に九条兼孝が関白に還任した事によって
秀頼の関白就任の可能性はまだあったにせよ
豊臣家の者が代々継いでいくと言う前提は
崩されちゃったしな

7人間七七四年2016/09/01(木) 17:51:05.70ID:4GdNAwXV
二重公儀論に反対する側の論拠を列記してくれ

8人間七七四年2016/09/02(金) 02:11:58.77ID:q430+IBD
秀頼にはこんな城下町や特産物を作りたいという考えくらいあったの?

9人間七七四年2016/09/02(金) 11:57:51.66ID:crT20gK1
秀頼の時代に道頓堀の開鑿工事が進められている。豊臣政権の認可の下に。
大阪の難波、ミナミの繁栄はその結果と言える。


 

10人間七七四年2016/09/02(金) 15:14:18.71ID:Wsa//APG
>>9
これ出典の江戸時代の「諸由緒」には「公儀」としかなく、また大坂の港の管理を板倉勝重が行っていた点から、
江戸幕府が開削を命じた可能性が高い

11人間七七四年2016/09/02(金) 15:18:13.37ID:Wsa//APG
追記、ただし「安井系譜」には豊臣家に命じられてとあるが、
この中の安井道頓は実在しないと、道頓堀裁判で確認されている

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000104652

12人間七七四年2016/09/02(金) 22:00:17.01ID:ftxWEGGq
>>7
そもそも反対側の代表的研究家って誰?

13人間七七四年2016/09/03(土) 00:11:09.97ID:2A9k2eU2
>>11
正しくは「成安道頓」。彼が豊臣政権の認可を受けて開鑿していたのだが、大坂の陣が始まると、
彼は大坂城に籠城して戦い、豊臣家に殉じて戦死してしまった。
そこで戦後、彼の親類の安井氏が事業を引き継いで完成させた。
戦後に大坂城主となった松平忠明は道頓の功績を顕彰して、この開鑿運河を「道頓堀」と命名したということだそうだ。

  

14人間七七四年2016/09/03(土) 09:49:17.89ID:FU/W1YDW
>>13
豊臣政権が命じ道頓らが私費で開削したというのは『安井家譜』が出典で、安井道頓を安井九兵衛の兄としているが、
これは道頓堀裁判で事実ではないとされている

そして『諸由緒』では開削を申し出たのは「公儀」とあり、また当時は道頓堀ではなく南堀川としている
この辺から道頓堀開削を命じたのは江戸幕府の可能性が高い

15人間七七四年2016/09/03(土) 12:03:07.20ID:xHHqU2gg
>>7
二重公儀論への反論根拠・・ 

ないらしい(笑

     

16人間七七四年2016/09/03(土) 13:26:13.99ID:FU/W1YDW
>>15
片桐且元署名の史料は、果たしてそれが豊臣家の指示か、江戸幕府の指示かという根本的な疑問がある

17人間七七四年2016/09/03(土) 20:16:52.14ID:S/dy38+E
>>3
慶長16年の二条城会見では、秀頼が上座(御成りの間)で家康は下座だったというけど、どうなのよ。

   

18人間七七四年2016/09/03(土) 20:34:55.91ID:FU/W1YDW
>>17
先に秀頼が御成の間に入り、後に家康が入ったということなのだが

19人間七七四年2016/09/04(日) 00:15:19.64ID:3L3EYZt/
>>18
あとから入ってきた家康が座ったのは下段の平間

20人間七七四年2016/09/04(日) 08:11:57.40ID:8R23367m
>>19
それは客を主人が出迎える際のしきたり
秀頼が強く固持して家康が上座に登ったようだが

21人間七七四年2016/09/04(日) 10:53:04.72ID:NMwMA6W8
笠谷和比古・黒田慶一著『豊臣大坂城』で引用された『当代記』
の「慶長十六年三月二十七・二十八日の条」によれば、
「(三月)廿八日辰刻、秀頼公入洛、則家康公の御所二條ぇ御越、
家康公庭上迄出給、秀頼公慇懃礼謝し給、家康公座中ぇ入給後、
秀頼公庭上より座中へ上給、先秀頼公を御成之間ぇ入申、其後
家康公有出御、互の可有御礼之旨、家康公曰ト云共、秀頼公
堅有斟酌、家康公を御成之間ぇ奉出し、秀頼公遂礼給(後略)」

22212016/09/04(日) 11:01:54.09ID:NMwMA6W8
これを笠谷は、「秀頼を御成之間に出した上で平間(下座)の
家康が互いの礼(両敬)を提案した」と読んでいる、
ただ、『先秀頼公を御成之間ぇ入申、其後、家康公有出御、
互いの可有御礼之旨』と平間の家康が平間の秀頼に提案した
とも読める(?)ので要注意。

23212016/09/04(日) 12:16:43.55ID:NMwMA6W8
参考論文:徳川家康の征夷大将軍任官と慶長期の国制 笠谷和比古
http://publications.nichibun.ac.jp/region/d/NSH/series/nike/1992-09-30/s001/s008/pdf/article.pdf

24人間七七四年2016/09/05(月) 00:28:09.91ID:+6MWTCi9
>>22
無理なのでは
『当代記』には「先秀頼公を御成之間ぇ入申」とあるから、秀頼が「御成の間」に通されて、そこに座したことは疑問の余地なし。

また「秀頼公堅有斟酌、家康公を御成之間ぇ奉出し」とあるから、家康が最初は御成りの間にはいなかった。つまり平間であったことがわかる。

笠谷氏の『豊臣大坂城』や『歴史の虚像を衝く』に、両者の座配と、その動きが図示されて解説されている。

25人間七七四年2016/09/05(月) 08:17:07.60ID:cxWk/KwA
>>24
家康が客を迎える主人として下座に座ろうとしたら、上座の秀頼がそれを誇示して、
家康が上座になったとある

普通に儀礼的な話で、特に秀頼が主君だからという訳ではないかと
精々、信長自身が家康に膳を出した安土饗応時の信長と家康の関係でしょう

26人間七七四年2016/09/05(月) 09:49:33.99ID:rGsv5URc
普通には、秀頼は家康に呼びつけられて、臣下の礼をとらされたということになっているけど、
この件はどうなの
  
  

27人間七七四年2016/09/05(月) 10:43:12.44ID:Wc5Yrd2t
大御所は秀頼が現実を踏まえて二条城に赴き、しかも主計頭や紀伊守が蒼くなって止めようとしていた膳物を平然と平らげたところに、
並々ならぬ器量を見てとり、却って目の黒いうちに大坂方を潰さねばならぬと決意したのだ

28人間七七四年2016/09/05(月) 10:48:45.97ID:cxWk/KwA
秀頼の上洛を万民が喜んだという記述をどう受け取るかで、評価が異なると思う

29人間七七四年2016/09/05(月) 10:49:14.49ID:cxWk/KwA
>>27
一から十まで逸話

30人間七七四年2016/09/05(月) 20:54:44.42ID:zE3sCI50
「御成りの間」の意味が分かってないな。
これは単なる客間、応接間とは異なる特別貴賓室。

「御成りの間」に通されるのは主君、ないし主君クラスの者でしかない。

31人間七七四年2016/09/05(月) 23:53:32.53ID:jXOobMAH
>>28
大衆受けするのと政治家として権力、権威があるのかは別物だろう

32人間七七四年2016/09/06(火) 08:42:56.42ID:90sKRwNY
>>31
いや、秀頼が上洛したのを、秀頼人気とみるか、家康に臣従したことで平和が続くことを喜んだとみるか

33人間七七四年2016/09/06(火) 20:38:01.72ID:4bJxUMhD
家康が将軍就任後は家康自身が秀頼に伺候する事がなくなって
秀忠が将軍就任後は大名達が秀頼に伺候する事がなくなったって言うからね
勅使や公家が参向しているって言っても肝心の大名たちがそれではね

34人間七七四年2016/09/06(火) 21:58:22.32ID:OLxydTEv
しかし秀頼が、将軍秀忠に伺候するというのは無いのでは

35人間七七四年2016/09/06(火) 22:03:13.14ID:OLxydTEv
しかも家康とこへ行ったら、臣下どころか主君のような待遇を受けている

36人間七七四年2016/09/07(水) 14:52:24.71ID:vOwxAB4r
二重公儀ってどうしても豊臣だけは秀吉の方針を踏襲した全国的な内政や独自の外交を行えた状態だと思っちゃう

37人間七七四年2016/09/07(水) 15:08:20.35ID:S/NHHTqP
将軍就任以降、ごみずのお天皇せんその儀以外で家康が宮中に参内したことはあるか?

38人間七七四年2016/09/08(木) 09:27:13.49ID:jsRllr94
>>37
何が問題なの?

39人間七七四年2016/09/08(木) 12:49:25.90ID:BDBURq32
>>37
慶長10・11・19年、元和1年に参内している

40人間七七四年2016/09/09(金) 01:10:33.46ID:BxmHZmUP
二重公儀論に反対する側から、有力な議論とか資料とか何か出ない?

   

41人間七七四年2016/09/09(金) 01:35:14.59ID:tEujRKgy
史料が無いのが証拠
二重公儀というほど公儀としての仕事はしてない。後半は全くしてない。って感じかと

気を付けないといけない事は二重公儀否定派は二重公儀自体を批判しているのではなく過大評価を否定してるというところ
よく使われたのある時期(将軍就任等)を境に豊臣が一大名に転落したという表現を行き過ぎとして批判するのはうなずけるが
大坂の陣直前まで公儀性を有したという評価については異議申し上げるといったところ

42人間七七四年2016/09/09(金) 02:27:57.31ID:1pM8Ym0A
徳川の考えであれこれやってるのを「豊臣は徳川と対等以上だった」ことにするのが二重公儀論

43人間七七四年2016/09/09(金) 04:27:09.61ID:eGoni70k
大坂の陣は対等な最終決戦だったと考えていいんだよね?

44人間七七四年2016/09/09(金) 08:43:14.80ID:wql9I+5B
大坂の陣は徳川「おめー何したいの」だからなw
満州事変後の日本を見る列強みたいな感じ

45人間七七四年2016/09/09(金) 12:29:52.74ID:R1e8KnfB
全国の大名 VS 浪人の決戦だろ
豊臣側にまともな大名がいないのに対等は無いな

46人間七七四年2016/09/09(金) 14:46:28.91ID:fVtAfSGi
>>45
加藤清正とか豊臣につきそうな大名たちが相次いで死んだから、ヤスは戦争を仕掛けたんだろう。
死ぬ二年前まで豊臣滅亡に踏み切れなかったのは、豊臣の存在が大きかったことの裏返し。

   

47人間七七四年2016/09/09(金) 15:01:16.99ID:f4OcRIU2
豊臣恩顧の大名なんて全員家康のケツの穴
を喜んで舐めてる状態だったろ

48人間七七四年2016/09/09(金) 15:40:22.08ID:Za6wgsAr
>>47
家康「俺の尻をなめろ」

49人間七七四年2016/09/09(金) 15:44:24.18ID:4RGYX3U1
二重公儀論というのは、京都を境に東国と西国とに分けて統治する東西分治の棲み分け論のことだろう。

50人間七七四年2016/09/09(金) 19:04:05.71ID:ynrVWtCm
関ヶ原も大坂も毛利がヘタれたというか自重したことがアレなんだよね

51人間七七四年2016/09/09(金) 22:32:11.64ID:f4OcRIU2
>>50
そういえば幕末も毛利の殿様はそうせい侯
よばれてあの時点でできるせいいっぱいの
保身をしたな

52人間七七四年2016/09/10(土) 00:16:58.50ID:mhN+75zl
>>51
ドラマで毛利輝元と毛利敬親は同じ役者でできる(笑)

53人間七七四年2016/09/10(土) 09:19:03.29ID:U3nCzB04
家康が豊臣に対して扱いが慎重過ぎたから、変な論が出てくるんだろう
是が非でも豊臣を滅亡させる気ならもっと早くやったろう
家康当時としては大分高齢だったんだから

54人間七七四年2016/09/10(土) 09:27:56.67ID:H6iZcwCC
まぁ、とうに死んでいて不思議でなかったよな

55人間七七四年2016/09/11(日) 08:38:29.08ID:uUOoA3T5
豊臣を潰せるぐらい権力基盤が安定したのが家康最晩年だったという見方もできるわけで

56人間七七四年2016/09/11(日) 10:01:34.26ID:dqcWqygg
豊臣大名をふくむ全国の大名が幕府の法令に従うという服従誓約をするのが、ようやく1611年になってから。
家康と秀頼の二条城会見を経て、はじめて幕府の権力が豊臣家を上回る

57人間七七四年2016/09/11(日) 10:48:41.05ID:C6IO7pRy
大坂の陣まで加藤清正が生きていたって豊臣につくわけないじゃん
徳川頼宣の護衛をしていた二条城の対面の時だって秀頼からの饗応の誘いを断わっている

58人間七七四年2016/09/11(日) 11:30:07.21ID:9LzvtvjL
age

59人間七七四年2016/09/11(日) 11:37:40.42ID:9LzvtvjL
頼宣は秀頼のお出迎えのために家康から伏見まで派遣されただけ。

60人間七七四年2016/09/11(日) 12:07:42.03ID:Wx6RNrkO
浅野幸長も二条城の会見の時は、婿になる徳川義直の御供をしている

61人間七七四年2016/09/11(日) 12:34:46.81ID:yIhycm7o
義直も頼宣も、秀頼の身の安全を保証するための人質だろう

62人間七七四年2016/09/11(日) 12:48:40.38ID:wCcCxENR
清正も幸長も秀頼の護衛。だいたい清正が、秀頼の身は絶対に護るといって淀殿を説得して実現した二条城会見だろ。
その清正が秀頼の護衛をしないなどといったら、会見が成り立つはずがない。

63人間七七四年2016/09/12(月) 21:37:47.59ID:7uB3hzwD
そもそも淀殿が清正や幸長の必死の説得により
秀頼の上洛を承知したとか、清正が終始秀頼の側を
離れなかったって話は何が出典なんだ?
清正が頼宣の幸長が義直の御供をしてたのは
忠興の書状や慶長見聞録案紙にあるけど

64人間七七四年2016/09/12(月) 22:28:41.40ID:VlC0Q83V
俺の妄想だけどあかんのか?

65人間七七四年2016/09/13(火) 13:53:43.81ID:UilexIiO
清正や幸長が秀頼の護衛しなかったら、秀頼の身の安全は誰が護ってくれるのだ。
そんな危ない所に行けるはずがないだろうが。

66人間七七四年2016/09/13(火) 14:00:20.56ID:Y8ZcBngP
徳川のために秀頼を説得する方便だな
身の安全を保障するから徳川の下であることを認めろという降伏勧告だ

67人間七七四年2016/09/13(火) 14:43:58.81ID:nWsMlksb
>>65
で、秀頼や淀殿がそう考えたという史料は?

68人間七七四年2016/09/13(火) 15:47:37.04ID:VXjvx+WQ
>>66
降伏? 降伏した人間が主君の座す「御成りの間」にすわるのか

69人間七七四年2016/09/13(火) 16:07:15.36ID:nWsMlksb
>>68
御成りの間に通されたけど最終的に秀頼は空気読んで臣下の礼とったじゃん

70人間七七四年2016/09/13(火) 16:21:47.02ID:VXjvx+WQ
>>69
臣下の礼? 翌月の三ケ条誓詞にも秀頼は入ってない。依然として特別待遇
家康も先は長くないだろうから、適当に頭下げとけといったところか

71人間七七四年2016/09/13(火) 18:18:37.62ID:mfS0DR+O
臣下の礼はとっていない適当に頭下げただけと言っても、お前以外は皆徳川に服従している状況で
そんな態度とっても自己満足以上のものは得られないんじゃないかい?

72人間七七四年2016/09/13(火) 18:20:24.68ID:fZCyZgMd
正直、豊臣家は自分達にしか通用しない論理で、特別扱いが永遠に続くと思い込んでいたからな

73人間七七四年2016/09/13(火) 19:23:48.46ID:qu8wRKHx
家康が死んでしまった時、あの秀忠で天下は持つの?
無理なのでは。

  

74人間七七四年2016/09/13(火) 20:33:59.66ID:mfS0DR+O
あの秀頼で秀忠に対抗できると?
無理なのでは。

75人間七七四年2016/09/13(火) 21:17:44.96ID:9CReuxyP
秀忠ではとても持たないと思ったから、大坂の陣を仕掛けざるをえなかったということでしょう

76人間七七四年2016/09/13(火) 21:18:30.82ID:fZCyZgMd
>>75
別に徳川家は仕掛けていない
勝手に豊臣がキレただけ

77人間七七四年2016/09/13(火) 21:50:18.57ID:9CReuxyP
≫76
キレた、って何のこと?

78人間七七四年2016/09/13(火) 23:12:09.58ID:fZCyZgMd
>>77
徳川への臣従を求める徳川家に両属する片桐且元を殺害しようとして果たせず追放
その上で浪人を集めて籠城の準備

79人間七七四年2016/09/14(水) 00:00:26.18ID:rGbaG9kz
豊臣内で起こっていたのは、片桐を追放するということ。徳川と戦争することなどは考えていない。

80人間七七四年2016/09/14(水) 00:14:00.19ID:kYrS2Ysn
片桐は追放するにしても徳川の意見も聞かずにやったら攻められても文句言えない

81人間七七四年2016/09/14(水) 00:44:26.27ID:A9UETIJ1
>>80
これが家康の理屈だな。何でもいいから、とにかく豊臣に対して戦争を仕掛けて潰すことしか考えてない。

   

82人間七七四年2016/09/14(水) 00:48:57.42ID:kYrS2Ysn
家康の勝手な理屈と突っぱねる権威ももう残ってない段階だもの

83人間七七四年2016/09/14(水) 04:58:06.99ID:Tq7HWdEM
秀忠は糞将軍、秀頼が関白となって天下を治めるべき
でも家康には逆らえないよ〜家康死んでたら秀頼についてたのに〜って大名は誰なの?

84人間七七四年2016/09/14(水) 06:37:28.66ID:UA5pkqc/
3万の大軍をもちながら上田城一つ落とせず、天下分け目の一戦にも遅刻するようなアホに従うやつ、徳川譜代以外どこにおるか(笑

85人間七七四年2016/09/14(水) 09:39:28.70ID:FuhxBmWs
>>81
両属しているとは言え、自身の家臣を勝手に殺されかけ、追放されたら、
封建制の根幹に関わることでしょ

86人間七七四年2016/09/14(水) 09:40:09.50ID:FuhxBmWs
>>84
第二次上田合戦はありませんし、攻める前に家康から上洛命令が下りました

87人間七七四年2016/09/14(水) 10:03:27.47ID:nvduV/q2
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88人間七七四年2016/09/14(水) 11:22:02.30ID:hk3iF5VH
さっさと攻撃開始しないでグズグズしているからでしょう

89人間七七四年2016/09/14(水) 11:58:49.32ID:FuhxBmWs
>>88
そういうレベル以前で6日に上田へ着いて、8日に上洛命令が届いた

90人間七七四年2016/09/14(水) 12:37:47.32ID:0aJbpUGI
>>89
その間、たんぼの稲刈りやってただけか(笑)

91人間七七四年2016/09/14(水) 13:19:04.93ID:FuhxBmWs
>>90
そこで(笑)を入れるのがあなたの無知
数万の大軍が攻城戦をするのには、それなりの段取りが必要なのだから

92人間七七四年2016/09/14(水) 13:31:10.35ID:OXe+i99w
忠の部隊は9月2日には小諸に着陣してる。それで8日まで上田城に対して
何の攻撃もしてないって。グズにもほどがある。

93人間七七四年2016/09/14(水) 16:29:52.81ID:VbokHOqJ
砥石城攻めてたりしてなかったっけ?

94人間七七四年2016/09/14(水) 16:43:16.64ID:FuhxBmWs
>>92
3日に秀忠が上田に到着したら昌幸が頭を剃って降伏を申し出たが、
4日にそれは嘘と返答したので、5日に上田へ出陣した訳

で、6日は刈田を発端とした小競り合いをしたとされる

95人間七七四年2016/09/14(水) 17:08:20.43ID:IWBbBjWa
>>93
それは単なる真田の出来レース

96人間七七四年2016/09/14(水) 17:12:23.01ID:IWBbBjWa
>>94
要するに、真田にいいようにされてるだけ(笑

97人間七七四年2016/09/14(水) 17:38:42.31ID:FuhxBmWs
>>96
というより程度の低い詐術を真田が行っただけ
あのまま順当に行けば上田城は落ちただろうし

で、昌幸への厳罰はそういう程度の低い騙しも
含まれたと思うので、自業自得

98人間七七四年2016/09/14(水) 18:17:49.02ID:Vg9KXzb+
いくら秀忠を貶めても引きこもりの秀頼よかいいだろw

99人間七七四年2016/09/14(水) 18:30:42.14ID:IWBbBjWa
そんな真田に翻弄されてるだけだからグズいと言われてしかたない

100人間七七四年2016/09/14(水) 18:31:43.66ID:IWBbBjWa
そんな真田に翻弄されてるだけだからグズいと言われてしかたない

101人間七七四年2016/09/14(水) 18:54:26.16ID:Vg9KXzb+
二重公儀論も元々は豊臣家は関ヶ原以降65万石の大名に落ちぶれたといった説への反論みたいなもので
ある程度は理解できるんだけど、そのような特別な地位を維持しておきながら滅ぼされるまでの間特に何もせず
にいた秀頼の無能が目立つだけではないか?

102人間七七四年2016/09/14(水) 20:06:37.86ID:ERqEljfq
秀頼は別に問題はない。秀忠のグズふり無能ぶりは上田城攻めだけに止まらない。
そのあとが、もっとひどい。
家康の使者がようやく届いて、西軍との対決が迫っているから上田をほっといて上方へ急げと言う命令を受けたにもかかわらず、
まだ上田攻めに未練たらたらで、いっこうに上方に急ぐ気配が見えない。
小諸に実に三日も滞留してる。
そのあともチンタラチンタラの行軍で、下諏訪までまた三日もかかっている。
真田が追撃してくるのを恐れて迂回道をとってるらしいのだけれど。

こんなていたらくだから関ヶ原に遅れるのは当たり前。グズを重ねたあげくドジとなるということ。

   

103人間七七四年2016/09/14(水) 20:10:58.29ID:tMxbKag/
はいはい

104人間七七四年2016/09/14(水) 21:03:53.40ID:FuhxBmWs
>>102
そりゃ急に上洛となれば、最低でも中一日は必要

105人間七七四年2016/09/14(水) 21:41:00.07ID:ERqEljfq
三万も軍勢がいるんだから、一万を上田に対する備えとして残して、
さっさと行けばいいものを、このお粗末ぶりだ。

この秀忠部隊のチンタラぶりに愛想つかして、先鋒の榊原康政はさっさと本道を西へいってしまったとさ。
もはや譜代武将からもバカにされてる秀忠

106人間七七四年2016/09/14(水) 22:40:59.63ID:FuhxBmWs
>>105
三万は信濃の大名も含んだ数だから、森忠政を初め一万は残っただろうな
榊原云々は『岩淵夜話』が出典だから話半分だね

107人間七七四年2016/09/15(木) 00:17:30.26ID:X9W75nMn
秀忠部隊がちんたらちんたら行軍してるのは、進行日程から明らか。
東西決戦間近という知らせが既に入っているというのに、このていたらく。
まったく状況判断ができてない。
グズ、ドジと言われても仕方なかろう。実際、グズを重ねてドジ踏んでるのだから。

108人間七七四年2016/09/15(木) 00:36:56.59ID:qJlLdBuA
秀吉・秀頼信者落ち着け
秀忠が戦下手だったとしても天下万民に法の遵守を徹底させ室町中期以来の秩序を回復させた有能な政治家だぞ
天下が治ったにも関わらず己が欲望を最優先させ本来なら暗殺されても仕方がない悪政をした秀吉や時代の流れを読む力が皆無の秀頼とはこの時点で天地の差
教祖がガイジなら信者もガイジだし学者もガイジ
やはり豊臣宗家は滅んで正解
聡明な関白殿下を無実の罪で屠った時から豊臣の運命は決まった

109人間七七四年2016/09/15(木) 01:13:19.04ID:i7ILuy2F
秀忠を無能扱いして秀頼age必死な豊臣信者がいるみたいだけど
当時の記録を見ると、豊臣方は諸大名から御母堂新政、秀頼乳飲み子
扱いされてたみたいだが、当時の諸大名が乳飲み子扱いさててる秀頼に
一族の存続託す気にならないから諸大名は徳川方に付いたんだろう

110人間七七四年2016/09/15(木) 01:45:28.69ID:X9W75nMn
慶長10年に秀頼が右大臣に昇進した時、上杉景勝や島津家久たちは大坂城に赴いて慶賀の御挨拶をしているが、
それは大変目出度く結構なことであったと、当時の関係者の書状に記されている。

111人間七七四年2016/09/15(木) 08:48:38.52ID:lG2GTlV1
>>108
秀忠が優秀なのは認めるが秀吉より有能とか言っちゃうのはなー
秀忠も大坂の虐殺や理不尽な改易の嵐と秀吉と同等レベルには暴君だぞ

112人間七七四年2016/09/15(木) 10:34:00.99ID:ljzaodZ7
秀忠は私意の無い公平な暴君だからな
自分の子や従兄弟にも遠慮しない

113人間七七四年2016/09/15(木) 10:48:57.41ID:ljzaodZ7
>>107
峠越えだ遅いのは当然だし、むしろ家康からは早すぎる行軍で軍列を乱したことを叱られている

114人間七七四年2016/09/15(木) 12:53:25.49ID:0iyHhcjb
>>113
遅いのは峠道だからではない、真田の追撃を恐れてう回路を使ってウネウネ進んでいるから。
3万の軍勢があって、真田の追撃を恐れるか、フツー

それも秀忠が馬鹿にされている理由なんだが、実は最後にきわめつけのアホが待っている。
これが家康の怒りをかった最大理由

ちんたら行軍の秀忠部隊だったけれど、赤坂方面にいる藤堂高虎あたりから、
「何やってるの、戦いが始まっちゃうよ」という知らせを9月14日頃に受けて、
ようやく現状が理解できて(ここまで理解できていなかったというのが無能の証明)
青ざめて、険しい木曽路に入る頃から特急行進に転換する。

急げ急げ! 遅れたらお父ちゃんに怒られるよとばかりに、ふっとばしてやってくるのだが、
当然、合戦は終わったあとの祭り。 で、家康の怒りを買って、ついてくるな顔も見たくないをやられるのだが理由はこうだ。

後先考えずに、木曽路を特急でふっとばしてきたから3万の軍勢の大半は置き去りだ。
自分の他には側近の少勢だろう。そんなんでやって来て、関ケ原合戦がもし西軍勝利となっていたらどうなる。
家康がアウトだけでなく、秀忠までがおあつらえむきの餌食になってしまっただろう。
このアホさ加減を、こっぴどく叱られたというわけ。

これで秀忠は、グズ、ドジ、アホの無能三冠王を達成してしまった。
こんな人間についていこうという武将なんかいると思う?

   


115人間七七四年2016/09/15(木) 13:56:43.40ID:IiyYXfGg
父親の七回忌にも十三回忌にも顔を出さず城に籠りきりで、新恩を呉れるわけでもなく、
それでいて親父の時代の事持ち出してくる奴の味方になる奴がいる?
実際諸大名で味方に付いたのは一人もいなかったわけだし

116人間七七四年2016/09/15(木) 14:33:25.95ID:i7ILuy2F
そもそも大名にしてみれば領土をくれ、
それを安堵してくれる力がある側に付くのが
当然だよな

117人間七七四年2016/09/15(木) 14:44:21.32ID:A9AvE8Lx
議論の筋が違うのでは。
現実の大阪の陣の話しをしているのではなく、
家康が既に死んでしまっていた時、
諸大名は秀忠と秀頼の、どちらを選んだかというシミュレーションの話ではないかと。

118人間七七四年2016/09/15(木) 17:26:50.25ID:ljzaodZ7
>>114
家康江戸出陣と同じ日に秀忠へ即時上洛命令が発せられたから、関ヶ原の合流は当初から家康は考えていない

119人間七七四年2016/09/15(木) 17:40:05.94ID:A9AvE8Lx
>>118
?? どういうこと

120人間七七四年2016/09/15(木) 17:43:48.07ID:jlnkLTd9
秀頼の評価は関係なく、秀忠が凡愚なので付いて行く大名はいないと言うなら、
秀頼の生死に関わらず、家康が死んだあと離反すればいいんだよ。
実際はどうだったのかな?

121人間七七四年2016/09/15(木) 18:28:46.76ID:npD91afX
>>120
それが政治の面白いところ。秀頼か秀忠かという選択になると、徳川方では危機感をもって秀忠ではもたない、誰か代わりをといって秀康だ、忠吉だ、忠輝だという、秀忠降ろしが起こる。
ところが秀頼という徳川にとっての脅威が消滅してしまうと、秀忠でもまぁいいかとなって安定政権となる。このメカニズムは今も昔も同じ

122人間七七四年2016/09/15(木) 18:33:13.25ID:ljzaodZ7
>>119
家康が江戸を出陣する日に、上田にいる秀忠へ上洛を命じる書状を出して、
それを秀忠が受け取り上洛して、関ヶ原で家康と合流できると思う

123人間七七四年2016/09/15(木) 19:53:46.47ID:xLC9jEgk
>>121
小説設定持ってくるのやめよ? >秀忠おろし

124人間七七四年2016/09/15(木) 20:00:51.46ID:VgfE6ApO
>>122
できないとして、どうなるということ?

125人間七七四年2016/09/15(木) 20:09:21.19ID:ljzaodZ7
>>124
家康が秀忠を遅参で叱責することはあり得ない
実際に叱責の理由は無理に急いたことによる軍列の乱れ

126人間七七四年2016/09/15(木) 20:09:35.48ID:xElO37f2
二重公儀まったく関係なくなってるなwどうでもいいけど

127人間七七四年2016/09/15(木) 20:39:07.92ID:E69hzUas
家康が関ヶ原合戦のあと、早く死んでしまっていたとしたら、秀頼の政権が支配したかどうかという話だから、いいのでないの。

128人間七七四年2016/09/15(木) 21:03:46.96ID:jlnkLTd9
秀忠はクズしか言ってなかったでしょ?
家康が早死すれば秀頼に天下が戻ってくるほど他の大名は甘くないのではないか?
クズ秀忠には従えない大名が徳川に反旗を翻すなら第2次関ヶ原になるか応仁の乱の再来か、秀頼が収めることができれば
豊臣政権は維持できるだろうが、そんな器量があればそもそも滅ぼされる事もなかっただろうなと思う。

129人間七七四年2016/09/15(木) 22:36:27.44ID:ORs9tcSs
>>122
家康は秀忠に関ケ原へ来るようにとは言ってない。関ケ原は結果として選ばれた決戦場。
家康が赤坂にいる同盟の豊臣武将たちに充てた手紙では、秀忠は9月9日頃に美濃国に到着するだろうと予測している。

秀忠の部隊は中山道を西へ進んでいるから、上洛進軍すれば中山道の赤坂で東海道方面軍および家康軍と自動的に合流するようになっている。
その合流に失敗したのは、第一に家康の秀忠への使者が川止めで大幅に遅れたこと。
第二に、上田攻めは中止して上洛を急げと指令しているのに、秀忠部隊が上田攻めに未練たらたらで急速西上を怠ったから。

130人間七七四年2016/09/16(金) 09:57:06.31ID:a3yEwCqN
>>129
川止め云々は事実では無いし、秀忠もグズグズしていない急な上洛命令と側面に敵がいる点、
山越えを考えれば十分速い

131人間七七四年2016/09/16(金) 12:44:15.52ID:4L3lxXqS
>>130
徳川幕府の資料はウソをついてると?! (`Δ´)

132人間七七四年2016/09/16(金) 16:07:45.57ID:a3yEwCqN
>>131
ウソというより江戸後期の編纂だから色々と怪しくなっている

133人間七七四年2016/09/16(金) 17:01:38.56ID:7bDoxhKo
>>130
なぜ、事実でないと言える

134人間七七四年2016/09/16(金) 17:26:31.57ID:a3yEwCqN
>>133
その川止めにあったという史料は、8月29日に上洛命令が江戸を発したとあるが、
実際は9月1日に出た

135人間七七四年2016/09/16(金) 19:21:20.15ID:WZOoow59
>>134
江戸から上田まで、なぜ使者が8日もかかるんだ

136人間七七四年2016/09/16(金) 19:41:41.99ID:a3yEwCqN
>>135
理由は知らんが、他の岐阜城の戦いの戦況報告も江戸の家康と小諸の秀忠との
到着時間を検討したら、江戸から小諸まで7日との結果が出た

137人間七七四年2016/09/16(金) 20:41:40.45ID:FaHDPfTq
川止めを喰らってるからだろう。

138人間七七四年2016/09/16(金) 21:14:40.46ID:a3yEwCqN
毎度毎度、同じ期間の川止めを食らっているのはどうかと

139人間七七四年2016/09/16(金) 21:35:50.82ID:/ifppQZb
ここは二重公儀論のスレなんで上田合戦についてはこっちでやってくれないかな

第二次上田合戦の真実

http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1465455095/

140人間七七四年2016/09/16(金) 23:10:28.17ID:3/dqvGJa
加藤・福島健在で家康死亡ということになっていたら
秀忠がはたして大坂攻めを決断できたかというと難しかったんではないかと
千姫との間の子供が元服したら血筋の正当性では家光以上になるし
ややこしいことになったでしょうねー
大坂城には国家予算レベルの蓄財が残されてるし

141人間七七四年2016/09/18(日) 21:07:10.75ID:Oy/pR4h7
豊臣信者は仮定の話ばかりだね
実際に豊臣家は公儀として
徳川家と並ぶだけの権威や諸大名への影響力を
持っていたかを考えるスレなのに

142人間七七四年2016/09/18(日) 21:53:50.99ID:E/n6NYtb
信者とかレッテル貼り鬱陶しい
力関係では徳川>>豊臣でも
豊臣家には依然として公儀としての体裁が残っていたから
力づくで滅ぼすしかなくて
大坂の陣になったんでしょ?
牢人衆も地位回復の望みを持って参加していたということも
その傍証になってるんじゃないの?

143人間七七四年2016/09/18(日) 22:07:09.33ID:LO11/7ef
>>142
豊臣家の公儀としての体裁ねぇ
過去の遺産を除けば、本当にあったか疑問なのだが

144人間七七四年2016/09/18(日) 22:11:06.80ID:ezdCRMo0
>>142
秀頼が幕府に対して謀反を起こしたから大坂の陣になったんだけど

145人間七七四年2016/09/18(日) 22:16:56.26ID:Oy/pR4h7
>>142
諸大名の誰か一人でも味方したなら兎も角
行き場を失った牢人達が味方したから公儀として
体裁があると言われてもねぇ

146人間七七四年2016/09/19(月) 00:02:52.96ID:cOV9q+XN
>>142
末期の豊臣信者ってこう他人がああしたのは豊臣が凄いからだーってばっかだな
この手の人間は滅ぼさず細々残してても豊臣には影響力あるから完全に潰すのが怖かったんだと言ってる

147人間七七四年2016/09/19(月) 00:05:18.03ID:gLkwfnPE
二重公儀って日本のトップは家康だけど、前の将軍徳川家康が偉いのか?豊臣政権の実質トップ、大老徳川家康が偉いのか?って話なのかと思ってたよ。

148人間七七四年2016/09/19(月) 02:08:15.82ID:U040ed/Q
豊臣家が徳川家を相対化できる権威を持っていたかどうかといえば
yesになると言って差し支えないんじゃないの?
戦の結果豊臣家が惨敗しただけで
権力ってのは流動的だから

149人間七七四年2016/09/19(月) 04:05:34.52ID:Nz7T593L
>>145
大坂の陣で豊臣秀頼に味方する大名が一人もなかったということが、徳川絶対論者の根拠になってるようだけど、
だったらナセ゜清正や幸長が死ぬまで大坂攻めを始められなかったかの疑問を説明しなければならなくなるよ。

150人間七七四年2016/09/19(月) 06:03:02.83ID:bHbVksiZ
徳川権力を押さえこめるその二人は一体何者なんだ

151人間七七四年2016/09/19(月) 07:36:13.81ID:mZ5CQ3+c
家康が一番恐れた男、加藤清正と浅野幸長(一人とは言っていない)

152人間七七四年2016/09/19(月) 09:25:59.59ID:fNSqAbO4
家康が清正や幸長が死ぬのを待っていたっていう人がいるけど、結果を見れば家康がその二人より長生きだったわけだが
家康の方がずっと高齢なんだから、二人が死ぬのを待っている間に自分が死んだらどうすんだって話になると思うけど

153人間七七四年2016/09/19(月) 09:51:38.93ID:zzTuZ5XS
>>149
だから徳川が大坂攻めを始めたんじゃなくて豊臣が謀反を起こしたんだって

154人間七七四年2016/09/19(月) 12:14:07.07ID:+WSmlVaH
そう。大阪の陣が起こったのはあくまで豊臣秀頼が徳川大名である片桐且元を
攻めたのが原因。徳川が起こしたもではない。

155人間七七四年2016/09/19(月) 14:52:01.02ID:lHczS9HM
>>154
片桐は茨木城に引きこもっただけ。
それも七手組頭速水の忠告によったもの。

それをいきなり大阪攻めだから。
チョーゴマの藤堂高虎でさえ「早すぎる」といって制止してるほど。

なりふり構わぬゴリ押し戦争

156人間七七四年2016/09/19(月) 14:56:38.36ID:wHVLDAmk
>>155
その前に暗殺されかけた

157人間七七四年2016/09/19(月) 14:58:42.15ID:zzTuZ5XS
>>155
そもそも茨木城に引きこもったのが強硬派が大坂城内で且元を暗殺せんとしたためだし、
秀頼は且元追放令を出しその後茨木城攻めを行う構えまで見せている
幕臣でもあり幕府との折衝役だった且元を追放したから大坂方は謀反と見なされたんだよ

158人間七七四年2016/09/19(月) 18:31:28.02ID:DzjVDZ49
殺す殺さない以前に緊迫時の国交断絶は宣戦布告と一緒
窓口追放でもう話し合いはしないとなれば戦争しかないからね

159人間七七四年2016/09/19(月) 18:36:24.28ID:3ekAxbOT
チョーゴマの藤堂高虎でさえ、フライングと言ってのに(笑)

160人間七七四年2016/09/19(月) 18:52:26.53ID:jxD1SSzA
平山優の「真田信繁」に拠れば当時の大名間で相手国との取次をしてた重臣を
当主が排除したり誅殺する事は相手国に立ちする開戦宣言を意味し
かつて秀吉が主筋である信雄と開戦に至ったのは信雄が秀吉との取次をしていた
三重臣を信雄が誅殺した事が契機だったとある

ところで高虎が早すぎると制止した話って何が根拠?

161人間七七四年2016/09/19(月) 19:27:04.44ID:J89wXeka
徳川が豊臣に戦争をしかけようと思ったら、それまでにもいくらでもあったはず。
関ケ原合戦のあとでも、
秀忠が将軍就任した時、祝いに来るよういったのに拒絶したことでも、
駿府城が丸焼けになって家康があやうく焼け死にになりそうになったときで。

要するに、清正や幸長が健在な限り家康は手が出せなかったということ。
   

162人間七七四年2016/09/19(月) 19:57:06.79ID:zzTuZ5XS
>>161
戦争を仕掛ける気がなかっただけなんだよなあ

163人間七七四年2016/09/19(月) 20:02:08.88ID:wHVLDAmk
>>161
先ずその「徳川は最初から豊臣家を潰す気満々」という認識の再検討を求める

164人間七七四年2016/09/19(月) 21:19:29.52ID:jxD1SSzA
家康が是が非でも豊臣を滅ぼす気だったなら冬の陣で講和せず攻め滅ぼせば良かったし
あるいは夏の陣の前、国替えや牢人達の追放などの条件を持ち出さず
講和の違約をせめて有無を言わさず滅亡させれば良かった
家康が求めていたのは豊臣の臣従であって滅亡ではないから、わざわざ諸大名が訝るほどの
手間をかけている
家康が清正や幸長に何か気にするものがあったとしたら、むしろこの二人ならば秀頼が
徳川に臣従する様に説得してくれるのではないかという期待だろう

ところで高虎が制止した話の出典はどうしたの

165人間七七四年2016/09/19(月) 21:36:06.68ID:U040ed/Q
ぶっちゃけ家康って秀吉に比べたら戦績では月とスッポンぐらいの差があったわけで
大坂の陣で豊臣家を滅ぼしたことでなんとか天下人としての格好がついた形なんだよね
つまりそういうことだ

166人間七七四年2016/09/19(月) 21:38:47.64ID:wHVLDAmk
>>165
はいはいワロスワロス

167人間七七四年2016/09/19(月) 21:49:09.83ID:2aYvHRsH
>>162
で、加藤清正や浅野幸長たちが死んだら急にやるきになった

168人間七七四年2016/09/19(月) 22:31:50.12ID:zzTuZ5XS
話通じねえなこのルーパチage野郎

169人間七七四年2016/09/19(月) 22:53:33.79ID:DzjVDZ49
話通じたら負けを認めるしかなくなるからな。ずっと耳ふさいでるよw

170人間七七四年2016/09/20(火) 00:24:44.21ID:gTN/V2QY
大体、この種の論争的テーマの場合、勝敗のメルクマールになるのは、相手方をののしる悪態スレの数に反比例するという原則

171人間七七四年2016/09/20(火) 01:48:01.77ID:RC5SuA2v
つまりそういうことだっていうのは
なんだかんだいっても真に戦国を終わらすには
戦で最終勝者になるしかなかたんじゃないのってことなんだけどね
関ヶ原は豊臣の家老としての戦いに過ぎなかったけど
大坂の陣で豊臣を超越して名実共に真の天下人となりえたと

172人間七七四年2016/09/20(火) 01:50:43.65ID:khk/a5wJ
>>171
戦国は秀吉の生前にとっくに終わってるわけだが

173人間七七四年2016/09/20(火) 02:38:31.97ID:fBVET21D
唐入りはなかったことになっているのかな?

174人間七七四年2016/09/24(土) 17:05:00.11ID:OHF2Z+x9
後水尾天皇践祚の儀、所司代板倉勝重より、大御所様御臨席を伝奏したところ、朝家には痛くお慶びになったため、
大御所は久々に入洛の運びとなり、豊臣秀頼に対し、践祚の儀には出なくても良いから二条城に挨拶に来いと下命し、織田有楽や浅野幸長、加藤清正らの説得を諒とし、上洛し、家康と対面した。
家康は、加藤清正や浅野幸長が蒼くなって止めるのも気にせず、家康側が用意した膳物に箸をつけた度胸、並びに、秀頼上洛の際、自然発生的に沸き起こった秀頼に対する熱狂的な歓迎は、家康に、強い衝撃を与え、
目の黒いうちに豊家殲滅を謀らねば、徳川の天下は危ういことを、深く認識するに至ったのである。
また、大坂夏の陣後、豊臣時代の盛り土や石垣など縄張りを全く一新し、白亜の徳川大坂城を築きしは、
大坂町民に対し、徳川が作成した大坂の象徴を見せつけることで、豊家の時代は去ったことを視角で分からせんとした証左にほかならない。
このようにして、1620年時点での築城最新技術の粋を結集した徳川大坂城こそ、新たな再建対象として予算に計上すべき時期にきたのであった
(完)

175人間七七四年2016/09/24(土) 19:12:09.93ID:daPoZyN8
相変わらず徳川アンチは自己完結して一人で満足しているよね

176人間七七四年2016/09/25(日) 19:13:00.66ID:s7R1Sdx4
そもそも家康が自分が死んだら、秀忠が秀頼に権力奪われると恐れていたなんて、何の史料的根拠もない話だろう

177人間七七四年2016/09/25(日) 21:26:44.80ID:i27EhkZi
それは小説や講談が根拠の連中だから

178人間七七四年2016/09/26(月) 07:43:49.66ID:w/riWfW2
>>172
権力を奪われるかどうかはともかく
権力基盤が不安定になることは危惧してただろう

179人間七七四年2016/09/26(月) 07:44:11.37ID:w/riWfW2
アンカミス

180人間七七四年2016/09/29(木) 09:20:20.48ID:xu+4jpZG
例えば江戸城普請に秀頼も奉行を出してるとは言っても
あくまで徳川が主体として行ってる事業に派遣してる形だからな
関ヶ原後公儀の仕事として、徳川ではなく秀頼が主体になって
行った事業がどれ程あったのかって事だな

181age2016/09/29(木) 11:34:49.26ID:d7zRq0Hr
>>180
将軍の城の普請を管理監督することが公儀としての仕事では

182人間七七四年2016/09/29(木) 13:02:15.95ID:jUbbutnI
>>181
あれは額面上ではなく、権勢が移ったことを見せ付ける証人じゃない?

183人間七七四年2016/09/29(木) 16:00:42.41ID:Xf4ORt56
見せつけたいなら、見せるだけていいのでは。
奉行という正式の監督として、入ってくる説明にはならない。

184人間七七四年2016/09/29(木) 16:12:54.89ID:jUbbutnI
>>183
そういう見せるだけの職は無いし
それに実際に何かしたとは思えん
その豊臣家の家臣二人がその後の豊臣家中で何かしたとも思えんし

185人間七七四年2016/09/29(木) 20:33:38.88ID:VSN5zlDo
>>184
江戸城の工事現場を見回って監督することが何よりの仕事。

186人間七七四年2016/09/29(木) 21:17:02.86ID:jUbbutnI
>>185
いやいや、普請奉行というのはそういう役割ではない
ちゃんと縄張を考え、大名に配置と作るべきモノを指示し、それを納期まで実現させるように監督するのが仕事で、
そういう能力があれば、豊臣家でも何らかの仕事をしているはずだが、とんと聞かない

というか、関ヶ原合戦後の豊臣家は、そういう仕事について片桐一族以外の者の活躍を聞かないのだが

187人間七七四年2016/09/29(木) 21:35:42.13ID:jZ/dHXST
家康から派遣された普請奉行だって工事現場を見て回って監督するだけだろう

188人間七七四年2016/09/29(木) 21:55:16.23ID:9TxmgvL5
豊臣から派遣された水原義勝と伏屋貞元の二人は摂津、和泉の慶長国絵図の作成に関与した人物らしいから、
おそらく測量の仕事に携わっていたと思うけど、徳川にだって測量家はいるだろうし、豊臣の顔を立てただけじゃないかな

189人間七七四年2016/09/29(木) 22:22:22.32ID:lHoTXbVM
将軍の城を造るという時に、普請奉行をわざわざ呼んで、顔をたてなければならない豊臣家って、いったい何よ。

190人間七七四年2016/09/29(木) 22:29:51.42ID:jUbbutnI
>>188
なる程、そういう活動実績がある人なのですね
家康が将軍を秀忠に譲った翌年の話だから、徳川家の権勢誇示だと思うのだけどね

191人間七七四年2016/09/30(金) 16:54:02.35ID:oeES65Mc
二人の家臣を派遣したことの解釈も見る人次第だしねぇ
駿府城普請の際の五百石夫の解釈も研究者によって意見は様々だし

192人間七七四年2016/09/30(金) 21:38:03.66ID:jEjZ3nsr
江戸城以外の天下普請、例えば名古屋城とか駿府城や彦根城などの普請には関わっていたのかな

193人間七七四年2016/10/01(土) 09:50:52.76ID:JXXTffnu
>>191
渡邊あたりは豊臣も江戸城普請に奉行を出して協力してますよ
駿府城普請では賦役を負ってますよって実績つくりって
「大坂落城」で書いてなかったか

194人間七七四年2016/10/01(土) 13:55:51.15ID:FJorgRmi
アンチ二重公儀説の側から出てくるのは、へ理屈ばっか。
何か目新しい事実をもってきて、反論できないの。

195人間七七四年2016/10/01(土) 15:09:26.93ID:SDe91BKR
>>194
大坂城下の行政支配が、実質的には板倉勝重の指示で行われていたとか

196人間七七四年2016/10/01(土) 16:00:04.17ID:FJorgRmi
>>195
具体的には?

197人間七七四年2016/10/01(土) 17:08:06.95ID:SDe91BKR
>>196
大坂で行われている米の積み出し制限について、浅野長晟が差し押さえに苦情し、
その件を板倉勝重が片桐且元へ申し入れた所、且元が指令書の原案を作成し板倉勝重へ送り、
勝重と米津親勝が署名をしている

なお、大阪城天守閣はこの積み出し制限を、江戸幕府の指示で行われたとしている

198人間七七四年2016/10/01(土) 17:09:21.93ID:DjAAnCeE
大坂城下の徴税、治安に携わったは、豊臣家執権の片桐か、それとも板倉勝重か、はたまた堺政所か、

199人間七七四年2016/10/01(土) 17:38:05.16ID:SDe91BKR
大坂の陣時の大坂町奉行は、例の水原石見守・布施屋(伏屋)飛騨守だそうで

200人間七七四年2016/10/01(土) 20:24:45.29ID:cQfemeFb
>>197
俺はどちらかと言えば二重公儀派だけど、197みたいな反論は生産的だと思うよ。
何の新しい事実関係を明らかにすることなく、ただ屁理屈ばかりこねまわしてイチャモン付けやってるやつがいるだろう。
研究者と称するやつの中にもいるな、そういうヤカラが。

201人間七七四年2016/10/01(土) 20:33:03.03ID:SDe91BKR
水原石見守・布施屋(伏屋)飛騨守が慶長国絵図作成・江戸城普請奉行・大坂町奉行を歴任したとなると、
むしろ江戸幕府が豊臣家が自立できるように彼らを鍛えようとしたとも考えられるし

202人間七七四年2016/10/01(土) 20:50:49.13ID:cQfemeFb
>>201
屁理屈体質は相変わらずだな。屁理屈と言われたくなかったら、そう考えられる証拠を挙げることだ。

203人間七七四年2016/10/01(土) 21:19:51.60ID:whRp0ZRc
江戸時代の初期までは中世と近世の過渡期といって差し支えないわけで
中世的な公儀ってのはかなーり基準が緩いよね
どっちから見るかで評価が分かれるのは当然のことだと思う
自分は豊臣家にも公儀としての権能は十分にあったんじゃないかと思ってるけど

204人間七七四年2016/10/02(日) 00:05:03.45ID:hRtE6LZL
徳川と豊臣による異なる指図や干渉で大名、朝廷、外国などがどうしたらいいか困惑するのが二重公儀だろ
日本語を豊臣に甘く使う方が屁理屈に過ぎない

205人間七七四年2016/10/02(日) 01:43:18.57ID:3o64XhFY
>>204
笠谷先生の二重公儀論というのは、京都を境にする東西分有の棲み分け論。
東は徳川将軍家、西は豊臣関白家をそれぞれ頂点とする、相互不介入の体制のこと。
国家権力がタテに二重にかぶるように受け止めてる人が多いようだけど、それは誤解。

206人間七七四年2016/10/02(日) 02:04:12.07ID:1cQiC8BD
鎌倉幕府執権北条氏(天皇家に任命された事実上の東国支配者)と後鳥羽上皇(権威的・名目上の全国支配者+事実上の西国支配者)の関係が二重公儀←幕府劣勢だがそうとも言える
江戸幕府徳川将軍家(豊臣氏以外の全国諸大名の事実上の支配者+正統摂関家を含む公家を掌握済)と後付摂関家豊臣氏(ただし関白職には正統摂関家が就任=名目上の支配力もなし)の関係が二重公儀←は?
二重公儀を証明するなら豊臣氏がどれだけ地方の諸大名に影響を与えていたか吟味する必要がある
AがBにBのやりたくないことを強制的に遂行させる力・命令することが可能な立場にあることが公儀とすると徳川対豊臣は名実ともに徳川が支配者=二重公儀ではないと言える

207人間七七四年2016/10/02(日) 02:41:43.59ID:3o64XhFY
やりたくない事とは城普請?
江戸城の普請に諸大名を動員しているのは、豊臣から普請奉行を派遣して、豊臣の承認の下に行われている動員という態勢をとることで調和がはかられている。
そのための、豊臣奉行の参加では。

208人間七七四年2016/10/02(日) 07:58:10.06ID:hxfAb+d5
>>207
豊臣からの普請命令があったとする記録は無い

209人間七七四年2016/10/02(日) 16:31:14.33ID:hxfAb+d5
江戸城普請奉行の件は、言い出しっぺは白峰氏で、豊臣家臣の出典は『山内家史料』から

210人間七七四年2016/10/02(日) 21:19:35.76ID:FrhMlrF+
関白継承権を持っている秀頼の権威や影響力を恐れたとかいう話もあるが
慶長5年に九条兼孝が関白に就いたのち大坂の陣までの間に
近衛信尹→鷹司信房→九条忠栄→鷹司信尚と継いでいってる実績があるわけだし
0ではないに知り秀頼が関白位に就ける可能性は低かったんじゃないか

211人間七七四年2016/10/02(日) 21:41:06.55ID:h+pyrgcB
>>210
家康が存命の限りはなさそう。
でも逆に言えば、家康が亡くなればありそう。

212人間七七四年2016/10/02(日) 21:51:50.90ID:nOET/cqF
家康より秀忠の方が朝廷や公家に対して強圧的だし、どうだろう

213人間七七四年2016/10/02(日) 22:40:42.52ID:dDVl9ADk
それも豊臣家が消えてればの話しだからね

214人間七七四年2016/10/02(日) 23:48:00.60ID:+mx+7Fqq
かつて摂関家だった松殿家だと
基房、師家が失脚した後も師家の弟の忠房までは摂関候補になったよね
つまり秀頼は生きてる限りは関白になり得たのでは

215人間七七四年2016/10/03(月) 10:44:38.63ID:VTSnJEY1
秀頼の子供は秀頼の一存で大大名の子とでも皇室の人間とでも結婚させられて相手も幕府に相談しなくていい
いつか千姫との子が生まれようがそれを押しのけて後継者に指名、いやそもそも千姫と子作りする気なんてねえ幕府は口出しすんなってできたんか

216人間七七四年2016/10/03(月) 15:25:19.31ID:JI9WoqYO
秀頼が西国大名の婚姻や世子の承認、家督の相続や官位の任官などに関わっていたのなら
西国を統治していたと言えるけどそういう判断は幕府がしてたんでしょ
それなら徳川家の権威と並び立つようなものではなく昔の誼から一定の配慮がある位の話じゃないの

217人間七七四年2016/10/03(月) 18:55:07.40ID:Ah5oDmxh
それも家康あっての話しなのでは。
家康死んだあと、西国の豊臣大名たちが秀忠の指図をいちいち聞くなんていうのは、とても想像できそうにない。その頃には、秀頼も
関白についてることだろうし。

218人間七七四年2016/10/03(月) 19:45:28.18ID:CXJ8OAqq
その芸風飽きた

219人間七七四年2016/10/03(月) 20:31:05.88ID:DOykFsRW
つか家康存命中に二重公儀状態ではなかったのなら、もうそれで二重公儀論が否定されたことになるような。

220人間七七四年2016/10/03(月) 20:46:31.51ID:dBnX/a8K
>>217
家康が死ねば秀頼は関白について諸大名が従うって前提がまず根拠が無い
朝鮮征伐などで散々苦労させられたり、秀次事件で処罰されそうになったりして
豊臣に嫌気や恨みを持っている大名家も多々いるのに比べて、秀吉の時の様に
城普請に駆り出されるししても、十五年近く安定した政治を行ってきた政権と
どちらを選ぶのが普通か
関ヶ原の恨みと言うが改易された大名を別にすると生き残った大名家の中で
減封処分の大名家は毛利、上杉、佐竹、秋田の四家で、あとは増封か
現状維持だ。改易された大名でも立花や丹羽みたいに復帰させて貰った大名もいるし

221人間七七四年2016/10/03(月) 20:53:27.75ID:ZT7/cYRL
毛利輝元はまだ諦めず、佐野道可を入城させ、墓穴を掘っている

222人間七七四年2016/10/03(月) 20:59:23.27ID:DOykFsRW
歴史にIFを持ち込んでまで二重公儀論を擁護するとか、頭がおかしすぎるだろう

223人間七七四年2016/10/03(月) 21:35:04.49ID:5lei7UfC
>>221
彼は天正17年に出奔したので、唯の浪人

224人間七七四年2016/10/03(月) 22:06:06.97ID:r2S/LamS
>>219
家康の支配力がそれほど強いのなら、関ケ原合戦のあと京都から西に徳川系大名をいっさい入れてないことをどう説明する?

225人間七七四年2016/10/03(月) 22:18:29.79ID:oNdKZH0s
>>224
入れる必要がなかったからだろ。関ヶ原後の戦後処理に関して豊臣に遠慮したわけでも何でもないし。

226人間七七四年2016/10/03(月) 22:24:53.86ID:r2S/LamS
入れる必要がなかったということは、家康は京都から西を支配する必要がなかったということ

227人間七七四年2016/10/03(月) 22:38:35.07ID:2WXq5LrS
>>224
関東近辺の豊臣大名を他に移そうと考えたとき、とりあえず空いている領地は西にしか無かった

228人間七七四年2016/10/04(火) 04:43:18.54ID:WoscLRP7
誰かを持ち上げるのに他人の行動を根拠にする奴はその他人がどんなことをしても結論に合わせた解釈をする
そいつ自身は何も大したことしてないからそのような卑怯な手法を取らざるを得ない

229人間七七四年2016/10/04(火) 08:22:54.17ID:+2F3TT4m
>>224
先ず、京―江戸間を制圧することを最優先としたから

230人間七七四年2016/10/04(火) 21:55:11.50ID:OwWF5Qyd
西国豊臣大名配置したと言っても、養女を含めて娘婿の池田や蜂須賀、黒田などもいれば
秀吉時代増封が全くなく、秀次事件で連座になりそうだったところを家康に助けられた
細川もいるし、家康にべったりな藤堂など親徳川の大名もいるわけだし

231人間七七四年2016/10/04(火) 22:03:09.13ID:qhYza+5Q
家康に恩義を感じてる諸侯も
家康死後に秀忠にそこまで義理立てしたかなってのもあるよね
秀頼は唸るほど金を持ってるんで野心があれば工作資金に使うよ
家康は秀吉死後のどさくさに豊臣家の交易利権や鉱山利権を横領してるのを
秀頼が返還を求める権利はあるんだし

232人間七七四年2016/10/04(火) 22:50:09.75ID:C3OgAb3G
ないない
そもそも二代目として秀頼は何の実績も才能の片鱗を見せ付けたことすら無いんだから
今の安定した地位を捨ててまで秀頼に賭けようかなと思わせる要素が無い
工作を仕掛けて当主が応じたとしても重臣の誰かに幕府に報告されて終わり

233人間七七四年2016/10/04(火) 23:14:18.26ID:7QBaePxS
つまんねIFを延々と垂れ流して白痴か

234人間七七四年2016/10/04(火) 23:27:33.42ID:qhYza+5Q
>>232
安定した地位を捨てて戦してるじゃん

235人間七七四年2016/10/04(火) 23:31:24.74ID:C3OgAb3G
>>234
誰が?

236人間七七四年2016/10/04(火) 23:45:31.35ID:qhYza+5Q
>>235
勘違いしたすまない

この時代はまだ公儀ってのが曖昧で
パワーバランスで引っ繰り返る可能性が十分あったんではないの?
日本全国敵にまわしても戦をできる財力って十分過ぎるほど脅威だよ
大戦の後でもまだ大量に金銀の備蓄があったってんだから

237人間七七四年2016/10/04(火) 23:57:07.51ID:Tx8cAxkh
>>231
豊臣家の交易利権や鉱山利権は三成の謀反を鎮圧した恩賞として豊臣が徳川に払ったものだから
横領なんて言いがかりもはなはだしい
そもそも子飼家臣の謀反を防げなかった豊臣家に一番の責任があるのだから
秀頼に返還を求める権利なんかあるわけがない

238人間七七四年2016/10/05(水) 00:05:15.90ID:i2ZgPCkK
>>236
財力があるのは認めるけどそれだけじゃ無理だよ
兵士が足らなければ糧食も足らないし矢弾も足りない、それらを集めだしたら即座に警戒され
大名を味方に付けようとすれば前田家のように幕府に通報される
十分な戦の準備ができなかったら結局大坂の陣みたいな結末が待っている
かといってじっくり取り掛かるとなると秀吉の記憶は徐々に薄れていって
豊臣家に心寄せる人間は減る一方で徳川の支配体制は強固になっていく

239人間七七四年2016/10/05(水) 00:15:34.65ID:1AgBGvQQ
天下を乱す力と天下を治める力は別だからな
豊臣には金で浪人どもを暴れさせて天下を乱す力はあるだろうけど
天下を治める力はもう豊臣にはない
二重公儀とか主張している人間はこの2つの違いが分からない(というより意図的に無視している)

240人間七七四年2016/10/05(水) 00:16:16.13ID:QLhNukpA
>>237
いやその前から銀山利権を毛利と折半したりしてる

金は貸せば増えるんだよ
確かに時間がたてば秀吉の栄光も風化するけど
家康死んだら戦のまともな実績のない秀忠が跡継ぎだよ
強権で諸侯に圧迫を加えたら
秀頼を頼る大名も出てきかねないよ

241人間七七四年2016/10/05(水) 00:18:15.74ID:i2ZgPCkK
>>240
秀頼に戦の実績が皆無だということを無視してはいけない

242人間七七四年2016/10/05(水) 00:27:32.06ID:QLhNukpA
>>241
でも豊臣家を滅ぼす前に家康が死んでたら
徳川家の求心力は一時的には確実に落ちるよね
家康が偉大で長命だったから
豊臣家を滅ぼして江戸幕府を盤石にできたけど
豊臣家に必ずしも徳川家に対抗する実力がなかったとも言えないんじゃないの?

243人間七七四年2016/10/05(水) 00:41:37.07ID:i2ZgPCkK
>>242
徳川家は親族譜代が多く彼らが外様の有力大名とのつながりを何らかの形で持っているので
秀頼はそれらの親徳川の家から奪わない限り自分に味方してくれる大名に土地を与えることができない
秀頼が徳川家につくより豊臣家を支持したほうがいいという展望を見せることができなければ無理

244人間七七四年2016/10/05(水) 00:45:09.38ID:Ko8fDlSD
関ヶ原が終わってすぐに徳川の権威が確立されたわけではないし
その移行期間の説明として二重公儀論があるんでしょ

245人間七七四年2016/10/05(水) 01:01:17.38ID:QLhNukpA
>>243
どこの藩でも主流派と反主流派がいるし
改易された浪人も世に溢れかえってたんだし
まだまだ流動性はあったかと

IFの話をしたいんじゃなくて
豊臣家にも状況次第ではまだ
天下を二分する実力が残されていたんじゃないのってことね

246人間七七四年2016/10/05(水) 01:05:06.28ID:Vbb9WTrn
秀忠は家康が死んだらその威光すら残されず自身の将軍実績も全て否定されて、秀頼はいつまでも上書きされた秀吉の威光を当てに出来る
なんの根拠があってこんなこと言えるのか

247人間七七四年2016/10/05(水) 01:15:02.98ID:QLhNukpA
>>246
何でもそんな極論に持ってく必要ある?
どっちが勝つかとか強いかを決めたいんじゃなくて
大坂の陣の直前でも両者の力の差が
挽回不可能なほど広がってなかったんじゃないかなってこと

248人間七七四年2016/10/05(水) 01:19:08.76ID:i2ZgPCkK
>>245
派閥争いが存在するような藩はどちらかが必ず徳川に報告するから即座に対応される
徳川の詰問から親豊臣の派閥を守ることのできる実力(兵力)が秀頼には無い
というかそういう実力を秀頼が蓄えだしたら当然企みが露見して討伐対象になる
秀頼は戦以外の手段で挙藩体制で豊臣を支持するに足る何かしらの資質を見せなければならない

249人間七七四年2016/10/05(水) 01:30:09.53ID:r+x1Vjxz
>>246
秀忠は天下分け目の関ケ原合戦で大失態をしでかしたという、「負の実績」がある。
家康亡きのちの政治情勢の中で、諸大名が秀忠と徳川から離れていくだろうというのは決してifの話とは言えない。

250人間七七四年2016/10/05(水) 01:31:30.38ID:QLhNukpA
>>248
近代じゃないんだからそんな簡単なことじゃないって
例えば福島家でお家騒動が起こって討伐軍が来る前に
親豊臣派が藩を牛耳って挙兵したら
各地に動乱が飛び火する可能性は十分にあるし

251人間七七四年2016/10/05(水) 01:42:18.53ID:HWLZFjb6
>>249
げんに史実で起こっていないことはすべてifの話だよ

252人間七七四年2016/10/05(水) 01:52:41.40ID:i2ZgPCkK
>>250
それこそ『簡単』に豊臣派の重臣を勝つのはおかしいし、『簡単』に戦火を飛び火させないでくれという話

253人間七七四年2016/10/05(水) 01:59:39.09ID:r+x1Vjxz
>>251
秀忠は天下分け目の関ケ原合戦で大失態をしでかしたという、「負の実績」があるは、ifの話?

    

254人間七七四年2016/10/05(水) 02:07:02.52ID:HWLZFjb6
>>253
家康亡きのちの政治情勢の中で、諸大名が秀忠と徳川から離れていくだろうというのがifの話

255人間七七四年2016/10/05(水) 02:12:20.61ID:QLhNukpA
>>252
前近代だから普通に有り得るんだってば
後醍醐なんて厳重に監視されてても反乱起こして
遠島されても逃げ出して再起までしてるし

256人間七七四年2016/10/05(水) 02:21:13.90ID:unuAc1od
>>254
当日の武将たちは、運の悪い奴にはついていかないもの。今でもそうだけど。

257人間七七四年2016/10/05(水) 02:24:02.92ID:HWLZFjb6
>>256
確かにそうかもね。
それはそれとして、家康亡きのちの政治情勢の中で、諸大名が秀忠と徳川から離れていくだろうというのはifの話以外の何物でもないよ。

258人間七七四年2016/10/05(水) 02:30:07.67ID:Vbb9WTrn
>>249
実際家康が死んでも離れなかったんだけど
諸大名は秀忠が将軍としていくら頑張ろうが家康が死んで秀頼が生きている場合に限って関ヶ原は取り返しがつかない負の実績と思っていて
普通の大名の仕事も出来てないのに不相応な地位を求める秀頼に負の実績はないと思っている根拠は?

259人間七七四年2016/10/05(水) 02:30:23.30ID:i2ZgPCkK
>>255
秀頼は皇族じゃないし
後水尾天皇かそれに比する皇族を味方につける算段でもあるの?

260人間七七四年2016/10/05(水) 03:11:36.16ID:3lIeYomz
>>258
秀忠は関ケ原合戦で大失態やって「負の実績」を残した。これは厳然たる現実。

秀頼は政治的には未知数の状態。しかし二条城会見では京都の市民から大歓迎され、
二条城では「お成り」の待遇で迎えられ、「御成りの間」に通されている。

これらの「現実」に目をつぶらなければ、それが根拠

261人間七七四年2016/10/05(水) 03:25:34.27ID:HWLZFjb6
厳然たる現実をもとifを語り始めちゃうのが、なんともこっぱずかしいと言いますか

262人間七七四年2016/10/05(水) 03:49:45.25ID:3lIeYomz
>>261
この現実もifと言い張るつもり?

263人間七七四年2016/10/05(水) 03:53:25.04ID:HWLZFjb6
>>262
何度もいうように、家康亡きのちの政治情勢の中で、諸大名が秀忠と徳川から離れていくだろうというのがifだよ

264人間七七四年2016/10/05(水) 03:56:56.30ID:HWLZFjb6
歴史でifを語っちゃう輩って、見てる方も結構恥ずかしいんだよ。
居たたまれないっていうのはまさにこういう感覚なんだろうね。
もう前を向いて歩けない的な。

265人間七七四年2016/10/05(水) 04:11:20.54ID:3lIeYomz
>>264
ここのスレ的にはイエロー・カード(笑)

266人間七七四年2016/10/05(水) 06:31:51.68ID:QLhNukpA
>>259
近世の天皇家の権威なんて秀吉が作った様なもんだよ
それでも強くなった徳川家に靡くんだから
豊臣家が強くなったらそっちに傾くよ

267人間七七四年2016/10/05(水) 06:54:01.00ID:D2n35819
〜たら
〜れば
こんなんばっかじゃねえか
しかもろくに根拠もないときた
妄想で都合の良いをたられば垂れ流すとか痛いだけやで

268人間七七四年2016/10/05(水) 07:00:30.07ID:QLhNukpA
当時の社会情勢を考察するためのたらればまで否定したら
歴史学なんて成り立たん

269人間七七四年2016/10/05(水) 08:58:20.70ID:aF484xcg
秀忠が関ヶ原合戦で犯した失態は、上洛中に無理な行軍をして軍列を乱した「だけ」だよ

270人間七七四年2016/10/05(水) 09:21:33.74ID:Vbb9WTrn
>>260
大名が秀忠排斥・秀頼擁立を望んでいたという「現実」を持って来いって
ここでお前らが負の実績と連呼しようが大名もそう思っていた「現実」がなければ見当外れにすぎないんだよ

>>268
当時の社会情勢じゃなくてお前が豊臣に都合良く動かす架空の世界の情勢だろ?

271人間七七四年2016/10/05(水) 09:22:54.08ID:z3Fi8Qmp
>>267
まあ恥ずかしいやね。
こんなのが実社会で隣に座って語ってたら、俺だったら速攻で席変えて他人のフリをする。

272人間七七四年2016/10/05(水) 09:45:12.27ID:0Anu1vDf
>>269 リプレイだけど

遅いのは峠道だからではない、真田の追撃を恐れてう回路を使ってウネウネ進んでいるから。
3万の軍勢があって、真田の追撃を恐れるか、フツー

それも秀忠が馬鹿にされている理由なんだが、実は最後にきわめつけのアホが待っている。
これが家康の怒りをかった最大理由

ちんたら行軍の秀忠部隊だったけれど、赤坂方面にいる藤堂高虎あたりから、
「何やってるの、戦いが始まっちゃうよ」という知らせを9月14日頃に受けて、
ようやく現状が理解できて(ここまで理解できていなかったというのが無能の証明)
青ざめて、険しい木曽路に入る頃から特急行進に転換する。

急げ急げ! 遅れたらお父ちゃんに怒られるよとばかりに、ふっとばしてやってくるのだが、
当然、合戦は終わったあとの祭り。 で、家康の怒りを買って、ついてくるな顔も見たくないをやられるのだが理由はこうだ。

後先考えずに、木曽路を特急でふっとばしてきたから3万の軍勢の大半は置き去りだ。
自分の他には側近の少勢だろう。そんなんでやって来て、関ケ原合戦がもし西軍勝利となっていたらどうなる。
家康がアウトだけでなく、秀忠までがおあつらえむきの餌食になってしまっただろう。
このアホさ加減を、こっぴどく叱られたというわけ。

これで秀忠は、グズ、ドジ、アホの無能三冠王を達成してしまった。
こんな人間についていこうという武将なんかいると思う?

         

273人間七七四年2016/10/05(水) 09:47:24.15ID:D2n35819
架空戦記なみの自分勝手なたらればを考察とは言わんし
根拠の無いただの妄想が歴史学として扱われる事などあり得ない
あまり歴史学を馬鹿にしない方がいいんじゃないの

274人間七七四年2016/10/05(水) 09:57:17.55ID:0Anu1vDf
>>273
豊臣秀頼の家臣が、工事監督官として江戸城に乗り込んでいるという現実は、率直に認めるということ?

275人間七七四年2016/10/05(水) 10:04:42.75ID:aF484xcg
>>272
同じことを延々と繰り返すのは嫌なので、その手の話はスルーします
秀忠の行動に致命的なものは存在しません

276人間七七四年2016/10/05(水) 10:25:59.81ID:0Anu1vDf
>>275
聞きたいけど、下記のことは事実として認めるの、認めないの?

「後先考えずに、木曽路を特急でふっとばしてきたから3万の軍勢の大半は置き去りだ。
自分の他には側近の少勢だろう。そんなんでやって来て、関ケ原合戦がもし西軍勝利となっていたらどうなる。
家康がアウトだけでなく、秀忠までがおあつらえむきの餌食になってしまっただろう。
このアホさ加減を、こっぴどく叱られたというわけ。」

277人間七七四年2016/10/05(水) 11:09:34.13ID:z3Fi8Qmp
>>273
馬鹿だからしょうがないんじゃないでしょうか。

278人間七七四年2016/10/05(水) 11:09:36.31ID:aF484xcg
>>276
出典の『板坂卜斎覚書』には次のようにある

「十月日を忘れ申候、秀忠公眞田を捨、木曾路を日夜御急御上り大津にて御対面候、
今度合戦に勝候、万一負候ハヾ吊合戦すべしと人数を揃へ上て能候ハんに、
道を急候迚まはらに被上候と御機嫌あしく、榊原式部大輔ハ御機嫌あしきを承り、
御前へも不出直に旗を立、人数を連て伏見へ通り候、」

これを見る限り、家康は概ね同様の発言をしているが、対面はしておらず、当然叱られていない

279人間七七四年2016/10/05(水) 11:53:33.15ID:0Anu1vDf
>>278
「御機嫌あしく」というのが怒られたということ

280人間七七四年2016/10/05(水) 11:54:48.20ID:2s27oiw6
信忠や秀次は生きていたら政権は長持ちしたと言われるのに、実際に生きて政権を長持ちさせた秀忠の扱いの悪さときたら・・・

281人間七七四年2016/10/05(水) 12:36:04.26ID:aF484xcg
>>279
怒ったのなら、「叱り」になる

282人間七七四年2016/10/05(水) 12:57:16.45ID:EP6e+TQI
ところで秀忠が諸大名から馬鹿にされていたというソースは?

283人間七七四年2016/10/05(水) 13:47:06.21ID:wVm2JG4Y
>>281
『板坂覚書』は人に見せるために書かれている覚書。
いやしくも将軍様が、ひどく叱られたとは書けないのでは。
これでも、ずいぶんと控えめな表現

284人間七七四年2016/10/05(水) 14:40:56.42ID:z3Fi8Qmp
痛々しい二重公儀論者はまだ諦めていないのな

285人間七七四年2016/10/05(水) 14:41:36.96ID:aF484xcg
>>283
当時の秀忠側近が江戸留守居に宛てた書状でも、秀忠は草津からそのまま伏見へ向かうとある
つまり秀忠が大津で諸将のいる中で家康に叱責された事実はない

286人間七七四年2016/10/05(水) 14:46:40.30ID:Z2vg5x2b
>>285
『板坂卜斎覚書』の記述は?

287人間七七四年2016/10/05(水) 14:49:44.35ID:z3Fi8Qmp
>>286
それが>>278なんじゃ?

288人間七七四年2016/10/05(水) 15:01:44.23ID:aF484xcg
『板坂卜斎覚書』の記述は前半面会したようにも読めるが、榊原康政が取次しており、後半の記述からも結局は会ってなさそう

289人間七七四年2016/10/05(水) 15:09:06.58ID:Z2vg5x2b
会ってないでしょう。面会拒絶状態

290人間七七四年2016/10/05(水) 16:00:10.79ID:aF484xcg
つまり大名がいる前で叱責はされなかった
ならば悪評も立たない、実際にそのような記録も無い

秀忠は特に悪評も無く、家康の後継者として征夷大将軍として
江戸幕府を運営していた訳だ

291人間七七四年2016/10/05(水) 16:11:33.75ID:n0qBjtYy
>>290
面会拒絶状態というのは誰が見ても明らかなのでは
叱られるより、もっと深刻そう

292人間七七四年2016/10/05(水) 16:51:33.46ID:aF484xcg
>>291
別にそれで何らかの噂が立った事実は無い

293人間七七四年2016/10/05(水) 16:57:37.27ID:6ACZMv66
忠興が淀を御袋専制、秀頼を乳呑み子と言った史料ならあるね

294人間七七四年2016/10/05(水) 17:52:42.77ID:0Anu1vDf
>>292
いちいち語る必要もないほど明白だから。

いちいち語るというのは、一般的には常識とはなってないから。

面会拒絶の状態を見たら、それが最大のメッセージ

295人間七七四年2016/10/05(水) 17:57:34.56ID:aF484xcg
>>294
以前から不仲ならそうだろうが、突然不仲と認識されれば噂になるし
不仲ではなくなったのなら、それついても話が出て来る

そういう家康・秀忠間の不仲に関する当時の噂・話は一切、確認できない

296人間七七四年2016/10/05(水) 18:15:54.71ID:z3Fi8Qmp
結局、家康亡きのちの政治情勢の中で、諸大名が秀忠と徳川から離れていくだろうことを示す材料は何一つ出てこなかったね。

297人間七七四年2016/10/05(水) 18:29:11.95ID:aF484xcg
10年以上の「徳川の平和」という武器

298人間七七四年2016/10/05(水) 18:30:01.89ID:i2ZgPCkK
結局、秀頼に天下の輿望に応えるに足る要素が見つからないから秀忠を貶すことで終わってしまうんだよな

299人間七七四年2016/10/05(水) 19:04:05.63ID:DwhxKG2A
秀忠を堕とすような、まるで乳呑み子あしらいのようなことを申されるが、たとい秀頼が主筋であろうが頭を撫でて貰いにいくことは、秀忠はせぬ。

300人間七七四年2016/10/05(水) 20:26:04.92ID:UJqeXw/1
>>295
板坂の覚書に家康は「御機嫌あしく」と書いてあるのが理解できないの。
榊原康正が、家康が怒っていて、会うとまずいと判断して会わずに伏見まで直行したと書いてあるのが理解できないの。

史料を無視してあれこれ言っても無価値ということが分からないの。

301人間七七四年2016/10/05(水) 20:28:57.69ID:EP6e+TQI
>>300
で、諸大名が秀忠を侮っていたという話のソースはいつ出すのお前

302人間七七四年2016/10/05(水) 20:31:36.90ID:aF484xcg
>>300
会えば、公的な叱責になるから、会わずに康政から家康が自身の行いで機嫌を悪くしたと伝えられ、
その上で伏見へ直行した
深いを表すにも色々と方法があり、この場合は表に出ず、後に凝りを残さないものであるということ

303人間七七四年2016/10/05(水) 20:55:32.46ID:UJqeXw/1
>>302
支離滅裂な古文解読(笑)
アンチ二重公儀論者でも理解不能では。
誰か別の人、助け船を出して

304人間七七四年2016/10/05(水) 21:03:56.50ID:HWLZFjb6
>>300
まあいいんだけど、それと家康亡きのちの政治情勢の中で、諸大名が秀忠と徳川から離れていくだろうことがまったくもって繋がらないのですよ。

305人間七七四年2016/10/05(水) 21:06:05.29ID:gOIwRA7i
ゴミみたい議論が延々と続いてるな

306人間七七四年2016/10/05(水) 21:09:20.02ID:HWLZFjb6
もはや何を目的に議論していたのか分からなくなっている馬鹿が一匹混じっているからな。

307人間七七四年2016/10/05(水) 21:54:14.39ID:UJqeXw/1
史料の正確な解読を求めているのに、それをゴミみたいな議論だって。
そんなレベルの人しかアンチ側にはいないの

308人間七七四年2016/10/05(水) 22:15:02.33ID:gOIwRA7i
アンチ()
程度が知れる

309人間七七四年2016/10/05(水) 22:35:48.14ID:jkbXjDLV
秀忠が関ヶ原で家康に叱責を受けていたとしても
家康の死後、諸大名が秀忠を見限って秀頼に付くなんて
根拠が無いって話をしているのに、自分に賛同してくれる
意見しか求めていないからおかしな返事しか返ってこないんだよ
秀吉の晩年失策続きで、政治も軍事も実績皆無で恩賞すら貰った事の無い
秀頼に諸大名が従うと思う根拠を示せって言っているんだよ
秀忠をいくら貶めたところでそれが秀頼に諸大名が付く根拠にはならないって事が
なんで分からないかなぁ

310人間七七四年2016/10/05(水) 22:45:13.94ID:QLhNukpA
二重公儀論は流石に過大評価だとは思うけど
いわゆる上方で豊臣家の権威や公儀性を否定したり過小評価することには
どうしても無理があると思うんだよなー
京・大坂を作ったのも天皇家の権威を最創造したのも豊臣家なんだし
当時隔絶した大都会の京大坂を押さえる場所に巨大城郭を構えて
天文学的な数字の巨万の富を抱え
豊国神社には秀吉が神として祀られてるし
一応摂政関白任官の資格は保持してたし
秀頼の代でも寺社の造営や寄進を盛んに行って庶民人気もある

ここではなんか変な方向に脱線しちゃうけど

311人間七七四年2016/10/05(水) 22:50:54.32ID:aF484xcg
>>310
ガワは良くても内実が伴わない

312人間七七四年2016/10/05(水) 22:51:23.56ID:hTcdjtVG
>>309
それを一番深刻に感じていたのが実は家康。
自分が死んだあと、秀忠では到底もたない。徳川はつぶされる。
だから、反徳川の結集核となる可能性の高い豊臣を滅ぼさなければならない。
これは大坂の陣の発生理由を研究するうえで必要なんだよ。

313人間七七四年2016/10/05(水) 23:02:31.70ID:DwhxKG2A
片諱付与とか津田、羽柴、松平の姓付与は政治的な意味で重要であり、従って、諱を勝手に銘に用いるは不束の謗りを免れない

314人間七七四年2016/10/05(水) 23:17:13.79ID:i2ZgPCkK
>>310
例えば代表的な豊臣恩顧武将である福島正則なんかは実子の忠勝は秀忠から偏諱を賜っているし
一時は跡継ぎだった正之には家康の養女を娶わせてるし自身も後添えに家康の養女を迎えてる
福島正則でさえそうなんだから他の恩顧武将も徳川家の有縁の女性を嫁に貰ったり
城の普請、世子の御目見、隠居願といった申請を秀頼にではなく幕府に対して出している
これらは全て家康の徳川家に対する媚態だったとしても御家安泰の為の投資でもあるわけだから
家康が死んだからといって秀忠の徳川家がこの投資を評価しないということにはならない
そういう諸々の投資を擲ってまで秀忠の徳川に反抗して秀頼の豊臣に尽くす価値があるかというとないだろうということ

315人間七七四年2016/10/05(水) 23:53:59.95ID:EP6e+TQI
>>312
家康がそう思っていたことを証明する史料は?

316人間七七四年2016/10/06(木) 00:05:07.52ID:6RCZO5IT
>>314
でも大坂の陣で福島家から豊臣方に離反者を出してるし
弟の大坂方への内通疑惑もあったよね?
どの組織も一枚岩ではないんだよ
徳川家中だって熾烈な権力闘争をしていたし
権力ってのは流動的なもんだっての
だから反主流派の受け皿となり得る豊臣家を
ムチャ筋で追い込んで滅ぼしたんでしょ

秀忠のやった強権政治って豊臣家が健在では難しかったと思わない?

それはともかくとして
豊臣家にもすくなくとも京大坂では権威や公儀性はあったし
限定的だはあっても公儀としての機能も担っていたことも認められない?

317人間七七四年2016/10/06(木) 00:30:04.25ID:+9zzdGVo
無い

318人間七七四年2016/10/06(木) 00:35:33.62ID:KMmychFB
>>314
それほどに秀忠の時代になっても徳川の支配体制が盤石であるならば、
なぜ家康は豊臣に対して全国の諸大名を総動員した大戦争を始めなければならないかの
説明ができなくなってしまう。

319人間七七四年2016/10/06(木) 00:38:07.23ID:GwfFbJKp
>>316
組織が一枚板では無いからといって反主流派が必ず勝つとは限らない
反主流派は主流派が余程のヘマをして風向きが変わらない限りお鉢が回ってくることは無いの
だからこそ反主流派に甘んじてるわけだからね
秀頼の苦しい点は色々あるだろうけど、本人に政治的軍事的な実績がない点、頼るべき親族譜代の大名も居ない点
徳川家を相手取るには直轄の領地が少なく兵力に不安があり、有り余る資金で浪人を集めても統率できそうな大将が居ない点
大坂の陣でも分かるように、優秀な人材が居ても彼らを信用することができないからね
これらの点で全国的に見て主流派である徳川家との差が有り過ぎて
秀忠がそれこそ秀次事件並の大ポカをして親族全滅譜代も半壊して
外様の反感を買うような事態にでもならない限り非主流派である秀頼に勝ち目は無いと思う
で、秀忠がそんなミスを犯すとかというとないだろうなあと
そもそも敵失に期待しなきゃいけない時点で望みはほぼ無い状態だからね

公儀性に関しては>>216も自分だからそれを見てもらえれば

320人間七七四年2016/10/06(木) 00:47:34.24ID:L3PLK5M7
>>307
どう正確に解読したところで、家康亡きのちの政治情勢の中で、諸大名が秀忠と徳川から離れていくだろうことを示す材料にはなりえないので、
はっきり言って意味のない議論だよ。

321人間七七四年2016/10/06(木) 00:48:43.81ID:WCK59lqH
二重公儀論はどこいったんだ?

322人間七七四年2016/10/06(木) 00:51:21.85ID:6RCZO5IT
>>319
豊臣家が健在で秀忠が強権政治を取りえたと考えられるかって質問に簡潔に答えてくれないかな?

323人間七七四年2016/10/06(木) 00:55:36.34ID:GwfFbJKp
>>322
取れたか取れないかという意味で言うなら取れたと思う
それで秀頼が反乱を起こすなら秀忠としては望むところなのでは
でも強権政治を具体的に説明して欲しいな
案件によっては是々非々というものがあるから

324人間七七四年2016/10/06(木) 00:56:00.12ID:L3PLK5M7
>>321
馬鹿だから忘れている

325人間七七四年2016/10/06(木) 01:03:42.09ID:6RCZO5IT
繰り返すけど
当時はまだ複数の権力主体が相互補完的に公儀を担うのが普通の社会だったと考えられるんだよね
その幾分かを上方においては相当な権威と富を握っていた豊臣家が分担していたと考えるのが自然なんじゃないの?

326人間七七四年2016/10/06(木) 01:04:00.35ID:fS+xBYty
初心に帰ろう、二重公儀論の根拠としては

一、秀頼に対する諸大名の伺候の礼

二、勅使・公家衆の大坂参向

三、慶長期の伊勢国絵図の記載

四、大坂方給人知行地の西国広域分布

五、秀頼への普請役賦課の回避

六、慶長十一年の江戸城普請における豊臣奉行人の介在

七、二条城の会見における礼遇

八、慶長十六年の三ヵ条誓詞

これらの現実にある問題をどう捉えるかだ

327人間七七四年2016/10/06(木) 01:08:22.61ID:fS+xBYty
326に加えて

関ケ原合戦のあとの領地配分で、京都から西には徳川系大名の領地が皆無という問題もありそうと。

    

328人間七七四年2016/10/06(木) 01:18:03.14ID:6RCZO5IT
>>323
たとえば坂崎改易、福島家改易、本多正純改易、どれも理不尽な理由で強行してるよね
はっきりいって正義がないと、当時でも批判されてるけど強権で押し通すことで幕府の権威を絶対的に高めていったんだけど
豊臣家が健在でもやれたかなと
まあ考えてみるのも嫌みたいだから回答は求めないよ

329人間七七四年2016/10/06(木) 01:21:51.12ID:GwfFbJKp
>>328
それできない理由がどこかにあるかな?
坂崎だけは千姫の遺恨が原因だろうから無いと思うが
てっきり皇室に対しての圧迫のことを言ってるのかと思ったけどそうじゃないんだね

330人間七七四年2016/10/06(木) 01:39:52.13ID:L3PLK5M7
>>327
1605年から長崎は幕府天領だったような。

331人間七七四年2016/10/06(木) 01:49:25.42ID:qU5m46tX
この幕府天領というのが問題だ。
正しくは公儀の領地だろう(豊臣でも徳川でもなく)。
それを家康が取り込んで徳川の私物にしてしまった。

332人間七七四年2016/10/06(木) 01:52:22.10ID:L3PLK5M7
長崎も石見銀山もそうだが、徳川家から奉行が出てるぞ。

333人間七七四年2016/10/06(木) 01:58:11.58ID:qU5m46tX
家康が美味しい所をとりこんだからだろう

334人間七七四年2016/10/06(木) 02:04:20.41ID:L3PLK5M7
そうだよね。関ヶ原の直後に思いっきり西国の長崎石見に徳川支配の天領を作っちゃってる。

335人間七七四年2016/10/06(木) 02:16:37.25ID:6RCZO5IT
家康は関ヶ原以前に毛利から豊臣家への銀の運上を横領してるし
豊臣家の外交権を乗っ取るかたちで交易利権にも手を突っ込んでるけどね
例えば豊臣家が持っている真壺の専売権を横領したり

336人間七七四年2016/10/06(木) 02:22:26.37ID:L3PLK5M7
いやまあ、「京都から西には徳川系大名の領地が皆無」どころか天領があって代官送ってるじゃないかということ。

337人間七七四年2016/10/06(木) 03:11:09.24ID:GFmoNa5e
秀頼を関白にしたいのに家康のせいで出来なかった非力な自分が憎いという朝廷の史料はあるの

338人間七七四年2016/10/06(木) 07:42:30.42ID:6UZ7vPji
西国に領地があったかどうかではなく、単純に諸大名に対して賦役や軍事の動員の下命の権限があったかどうかだ。
関ヶ原後の豊臣家には最早なく、実際に下命しても諸大名は動かなかった。
よって、二重公儀体制は否定される

339人間七七四年2016/10/06(木) 08:55:12.59ID:cqArrdjs
なんか実権ばりばりの家老がいて、全部藩の運営を仕切っていて、家臣たちを脅しつけて、殿様の言う事は聞くな、俺様のいう事だけに服従すればいいんだみたいにして藩を支配している状態かな。

340人間七七四年2016/10/06(木) 08:58:30.38ID:dFRuoXHC
昔誰かが言っていた、豊臣家は公儀になりうる存在ではあったが、公儀ではなかったというのが一番的を得ている

341人間七七四年2016/10/06(木) 09:09:29.88ID:bE3J91Wn
>>339
豊臣を殿、徳川を家老に例えているあたり
豊臣が主、徳川を従と見做しているみたいだけど
それが通じたのはせいぜい秀忠将軍就任の時期くらいまでだろう

342人間七七四年2016/10/06(木) 09:33:25.41ID:f6J2wa+i
>>339
多分、実権ばりばりの家老が幕府に申し出て、殿様の代わりに自分が殿様になっちゃった状態だと思う。

343人間七七四年2016/10/06(木) 09:36:06.88ID:+W7b2nrn
>>342
龍造寺と鍋島ですね

344人間七七四年2016/10/06(木) 11:03:28.73ID:cqArrdjs
どの時点で乗っ取り成功?

345人間七七四年2016/10/06(木) 11:46:11.09ID:6UZ7vPji
九州征伐で鍋島が秀吉の窓口になって、色々交渉する課程で結び付きを深め、鍋島をもって肥前佐賀35万石の朱印状が発せられたタイミング、であろうか
あと、わたりとか言う大名も家臣の有馬が引き継いだんだってな

346人間七七四年2016/10/06(木) 12:47:38.58ID:LF9qOIhN
豊臣秀頼の殿様の地位を家老家康が奪って、殿様の地位についたのは、鍋島との比較で言うと、どの段階になるだろうか。

347人間七七四年2016/10/06(木) 23:12:16.27ID:G1U/H3YM
豊臣から関白の地位を奪ったのは秀吉だし
家康が就任したのは豊臣とはまったく関係ない征夷大将軍だろ
そもそも関ヶ原の時点で家康は内大臣として秀頼よりも高い地位にあった
豊臣秀頼の殿様の地位を家老家康が奪ったなんて事実誤認も甚だしい

348人間七七四年2016/10/07(金) 00:09:51.70ID:E1om0sKG
秀吉と織田家との主従関係が逆転したことを是とするなら
家康と豊臣家とのそれも是とせざるを得ないだろう
結局は頼るべき身内を粛清した挙句統治能力の無い秀頼を一人遺して死んだ秀吉が悪い

349人間七七四年2016/10/07(金) 00:28:43.73ID:mki2ffAy
大恩人の秀吉死後に幼い秀頼の後見人の地位を利用して
豊臣政権を乗っ取った手腕は確かに素晴らしいけれど
卑賤な身分から実力で成り上がり織田家の興隆を支え
華々しい大勝利の連続の末に

全国統一政権樹立という未曾有の大偉業を成し遂げ
唐朝鮮との大戦を戦い
全国に豪奢な寺社城郭を残し
勇壮な桃山文化を演出した秀吉に比べたら
どうしても見劣りするよね

350人間七七四年2016/10/07(金) 03:06:06.73ID:ZKBgTsWH
>>347
第一行目は意味不明。
それはともあれ、関ケ原合戦の前は言うまでもないことだけれど、合戦の後でも「太閤様御置目の如く」と言って太閤秀吉の制定した政治秩序が持続しているというのが、当時の通念だった。だから家康の官位がいくら高くても、秀頼の家老・家臣であることに変わりなかった。
だから、家康は実力者で、合戦後の領地配分も家康の判断で行っているけれど、家康の名前で領地朱印状は出せなかった。これは将軍になっからでも一部例外はあるが出してない。外交の朱印状は山のようにあるが、内政ではほとんど見られない。
合戦後の和睦の盃事でも、淀殿と秀頼が上座、家康が下座で主従関係は合戦前と変わってない。
将軍になると主従関係が逆転するかというと、これも難しい。秀頼は同時に正二位内大臣に昇進しているので関白任官資格を獲得しているので、イーブンではないかな。

351人間七七四年2016/10/07(金) 04:06:08.82ID:usfOpP6p
豊臣の領地を豊臣の家臣に分けるのに徳川の名前出すのはおかしくね?
それで権威に限界がある!っていうのは少し違うような
徳川領に徳川の家臣を豊臣の名前で領地与えるとかありえないでしょ
在職2年の家康の内政書状が無いのはわかったけど、秀忠名義の書状も無いの?
名目は秀忠が将軍な訳で、秀忠が出しててもおかしく無いような?

352人間七七四年2016/10/07(金) 07:36:11.03ID:c/5Rtm6N
だから350はそう説明している

353人間七七四年2016/10/07(金) 08:15:43.91ID:yrs2K9lJ
何処が?

354人間七七四年2016/10/07(金) 09:12:49.76ID:QaIsQxcM
家康が別系統の征夷大将軍になったことで豊臣政権は御破算に願いますなのだが、
それを理解しない人が昔も今もいるということ

355人間七七四年2016/10/07(金) 10:58:33.80ID:9HrcGs2P
昔は家康が征夷大将軍になったらオールマイティーみたいに考えていたけど、そうではなかったということが最近の研究で明らかになってきた。

356人間七七四年2016/10/07(金) 11:27:41.16ID:QaIsQxcM
それは昔の理解していない人を、今の理解していない人が取り上げているということ

357人間七七四年2016/10/07(金) 12:26:14.47ID:PmjGt9rR
>>349
家康は秀吉を大恩人という程の恩受けてないだろう

358人間七七四年2016/10/07(金) 13:37:01.68ID:3Sd/2rim
>>356
昔の理解していた人とは?

今の理解している人とは?

359人間七七四年2016/10/07(金) 16:22:56.26ID:QaIsQxcM
>>358
そりゃ家康征夷大将軍=豊臣政権終焉と考えている人

360人間七七四年2016/10/07(金) 16:33:35.30ID:4KyP+qLs
>>359
「何物をも学ばず、何物をも忘れず」(笑

361人間七七四年2016/10/07(金) 20:31:21.78ID:H1viBAiC
>>349
家康が秀吉から受けた大恩とやらを教えて欲しいんですが

362人間七七四年2016/10/07(金) 21:00:02.68ID:c/5Rtm6N
同志よ、君は家康が東海五ヶ国から関東に移封したおかげで、地方国人の土着性を切断し、必要な家臣を必要な場所に、かつ必要な禄高で封ずる契機をひめていたのだ。
かつ、家康が豊臣政府の最高会議幹部会議長に起用され、政治局員候補の石田三成が謀反を起こしても、充分に太刀打ちできる力を蓄えたのだ

363人間七七四年2016/10/07(金) 21:02:33.35ID:327lZG2S
東海甲信150万石から関東250万石に加増されたのは大恩になるか・・・

364人間七七四年2016/10/07(金) 21:40:39.13ID:mki2ffAy
>>361
362氏がほぼ指摘された通りだと思ってるけど
付け加えると当時の東海南信地方は開発余地が少なくて余り美味しい土地ではなかった
対して関八州は武家の聖地鎌倉があり江戸も北条時代には既に都市化が始まっていて決して田舎ではなかったらしい

365人間七七四年2016/10/07(金) 21:49:44.78ID:mki2ffAy
別にアンチ家康ではなくて秀吉と同じぐらい偉大な政治家だったと思ってます、念の為
家康は秀吉がなしえなかった戦国時代を終わらせるという
大偉業を成し遂げたんだから

366人間七七四年2016/10/07(金) 22:10:43.51ID:mki2ffAy
>>361
スレチなんでもう終わりにするけど
上杉・真田・木曽が秀吉についた時点で
家康には戦って滅ぶか従属かのにどちらかしかなかった
討伐令もすでに準備されていた
それでも秀吉は最大限の譲歩をして家康を政権に迎えたんだから
大恩人と言っても言い過ぎではないんじゃない?

367人間七七四年2016/10/07(金) 23:41:24.72ID:sfO+Y+il
>>366
スレチなら最初から書き込まないで欲しいんだけど
秀次を抹殺して政権を不安定にし、徳川政権の礎を築いたんだからある意味大恩人だね

368人間七七四年2016/10/08(土) 10:21:23.95ID:kE+/RVpt
豊臣関白を粛清して空位にしてくれたうえに
誇大妄想の赴くままに死ぬまで海外遠征に入り浸ってくれたおかげで
西国大名を疲弊させて豊臣恩顧も仲違いさせてくれた
秀秋に対しても領地没収を言い渡して家康に取り消させたことで徳川恩顧に返させた
さらに自分が死ねば家康が唯一の大臣になるほど厚遇して筆頭大老として政権に招聘した

秀吉ほど徳川の天下のために尽くしてくれた人間はいないだろう
むしろ江戸幕府の創設こそ秀吉の奉公に最大限の返礼をした結果といえる

369人間七七四年2016/10/09(日) 22:12:30.58ID:u/qDkPCg
結果論から見て大恩人とか言われてもな
関ヶ原後、形式的には豊臣家の面目が立つ様にしてたけど
親父の七回忌にも十三回忌にも大坂城に引き籠もりで
結局諸大名に見捨てられた豊臣家が公儀だったと言われてもなぁ

370人間七七四年2016/10/09(日) 22:15:54.63ID:y5dPu0LS
そういうわけのわからないこと書いてても話にならないから。

371人間七七四年2016/10/09(日) 22:24:53.92ID:T+e4g/Yw
親父の回忌に顔を出したら全然似ていないと思われて逆にピンチになるからな
秀吉が強く思い起こされる場所には逆に秀頼は出て行けないというのが豊臣の弱点だろう

372人間七七四年2016/10/11(火) 23:06:53.46ID:lZmGiUEK
諸大名から見放された豊臣家が徳川家に並ぶ公儀と言われても説得力が無いね

373人間七七四年2016/10/12(水) 19:02:46.50ID:cI+L7eXw
>>102
滅ぼされたら無能でしょう〜?

374人間七七四年2016/10/12(水) 19:46:45.30ID:cI+L7eXw
>>369
普通に考えて欲しいのは、秀吉が死んだ時に秀頼本人にパパと同じくらいの能力がなければ豊臣天下を維持するのは不可能という事。
秀吉だって信長の息子達から権力奪ったやろ。殺して。
だから秀頼無理かな〜?

375人間七七四年2016/10/12(水) 21:28:00.63ID:ktSFSVBB
悲劇の主人公扱いされている割に秀吉の息子以外に、秀頼に諸大名が従いたくなる様な
軍事的逸話も政治的逸話も皆無だからなぁ

376人間七七四年2016/10/13(木) 00:18:35.08ID:cSIcDA7t
>>374
そもそも秀吉に体制構築の能力がまったくないから豊臣は崩壊したわけで
秀頼本人に秀吉と同じくらいの能力があっても無理だろう

377人間七七四年2016/10/13(木) 00:59:13.28ID:ch7TqDRZ
>>375
それどころか秀吉の血を引いてない勘違い野郎(秀吉は愚かな道化)疑惑までかかってるのに
必死に否定するでも開き直るでもなくやり過ごそうとされる

378人間七七四年2016/10/16(日) 21:41:21.44ID:EI/y/m3E
本当に徳川と並ぶ様な公儀だったら諸大名から見捨てられた
例えば伊達政宗から罵られた様な、あんな無様な最期は
迎えないだろうからなぁ

379人間七七四年2016/10/16(日) 21:56:09.42ID:IZw0Nlwk
まぁ冬の陣で真田にビビって再攻撃を尻込みした政宗も大概無様だけどなw

380人間七七四年2016/10/16(日) 22:37:56.05ID:jatjPbdn
夏の陣の間違いだし、その頃の政宗は旗本と片倉隊以外は鉄炮隊しかいない歪な構成だった

381人間七七四年2016/10/18(火) 14:31:44.81ID:Ydq0Atsg
江戸城の普請に豊臣が奉行二人を派遣した事を重視する研究家もいるけど
その奉行二人が派遣されなかったら諸大名、特に豊臣系の大名が
普請に参加しなかったかと言えばそうでは無いだろうし
豊臣との融和や協力体制である事をアピールさせるためのものじゃ無かったのかな

382人間七七四年2016/10/18(火) 19:41:01.24ID:IPpJp0g2
金も人も出さず、ただ単純に形だけの協力姿勢を見せただけじゃない

383人間七七四年2016/10/18(火) 21:13:01.53ID:dNerKNaq
名古屋だかの天下普請で豊臣家の参加を求められた淀が断ったって話あるけど他の西国大名は参加してるし
幕府が豊臣家を通じてそれらの西国大名の参加を要請してるような形跡がなく直接命令してるようなら
豊臣家が西国で統治権を持っていたというのは過大評価ということにならないかな

384人間七七四年2016/10/18(火) 21:19:50.64ID:OUYa5BOQ
二重公儀論って中世から近世への移行期における「公儀」というものの
変遷を考えるのにとても示唆的なのに
なんでどっちが強いとか無能とかの話にもってっちゃうのかね
特に西国では権門体制的なものがまだ根強く残っていたとみるか否かで
豊臣家の影響力がどうだったか分かれるよね

385人間七七四年2016/10/18(火) 21:46:26.25ID:kXwxAuuf
豊臣が中国四国九州に根付いてた物を塗り替えて更に徳川には塗り替えさせないようにしてたことってなんなのさ
豊臣が残した毛利は削って長宗我部は消したよね

386人間七七四年2016/10/18(火) 21:55:31.67ID:PVf8xeNQ
長宗我部って豊臣は寧ろ冷遇してたろ
特に盛親

387人間七七四年2016/10/20(木) 21:29:57.23ID:CZj+BNHd
二重公儀と言うくらいなら徳川の天下普請行為までいかなくとも
何かしら豊臣主体の公儀的行為の事例を示してくれないと
寺社の再建とかにしても、豊臣の財力だけでほぼやってる様な感じだし

388人間七七四年2016/10/20(木) 22:55:03.40ID:jPClmpdb
関ヶ原後の豊臣公儀は豊臣信者の頭の中だけにあるファンタジーなんだから
公儀的行為の事例を示すなんてありえないよ
豊臣信者が信じたいから豊臣公儀が存在したことにされているわけ

389人間七七四年2016/10/20(木) 23:03:35.03ID:Qwp9GqX3
関ヶ原終わって即徳川公儀が確立されたって考える徳川信者も多いけどなw

390人間七七四年2016/10/20(木) 23:15:47.33ID:vmiC7oU6
ラーメン

391人間七七四年2016/10/20(木) 23:18:29.30ID:lRBlRuQQ
ソーメン

392人間七七四年2016/10/20(木) 23:53:14.86ID:CHiFL/C8
わたくしめはイケメンで御座います

393人間七七四年2016/10/21(金) 10:06:10.14ID:oDy6jjxL
>>389
実態はほぼそれだろうに。お前は何を見てるんだ?

394人間七七四年2016/10/21(金) 14:23:59.83ID:Tuliih4z
実態は〜とか実質的に〜とか事実上〜とかの表現がホントに好きだよな徳川信者。

エビデンスを示す訳でもなく、フィーリングだけで誤魔化そうとするところとか特に。

395人間七七四年2016/10/21(金) 20:10:19.97ID:ySgVSjFm
豊臣氏が名目的にしろ完全に徳川に屈服していなかったこと
改易や徳川政権が徐々に強化されていったこと

そういう

396人間七七四年2016/10/21(金) 20:12:50.43ID:ySgVSjFm
途中だった

豊臣氏が名目的にしろ完全に徳川に屈服していなかったこと
改易や天下普請などで徳川政権が徐々に強化されていったこと

そういう状態を二重公儀と言ってるだけで、東西に並び立ってたとか誰も言ってないだろう

397人間七七四年2016/10/21(金) 20:35:02.08ID:CDiffEYU
じゃあ二重とか公儀って言葉を使うなよ
自分勝手な理由で日本の安定化の流れに逆らう反抗勢力とでも呼んどけよ

398人間七七四年2016/10/21(金) 21:03:08.85ID:1ctjaB7n
まぁまぁ落ち着けよ徳川信者w

399人間七七四年2016/10/21(金) 22:22:45.88ID:CNtR4Au9
2chという場所の特性なのかイデオロギー論争みたいなつまらんことするやつ多いんだよな

400人間七七四年2016/10/21(金) 23:42:54.14ID:ySgVSjFm
学者に言えよw

401人間七七四年2016/10/22(土) 08:28:21.36ID:lxmLbGpi
>>387
再建資金が足りなくなって、徳川に補助頼んでいるけどね

402人間七七四年2016/10/22(土) 12:02:48.18ID:SoFkbHub
二重公儀が豊臣を持ち上げる目的で作られたのは間違いないだろう
歴史上権力を奪われた家は山ほどあるが豊臣以外には絶対使わないのだからね
豊臣に比べたらよっぽど勢力を保持して粘っていた南朝に対してさえ二重公儀なんて使わない
豊臣信奉者の豊臣信奉者による豊臣信奉者のための用語であるのは事実だろう

403人間七七四年2016/10/22(土) 14:49:32.70ID:ixH2GYeN
そりゃ南北朝っていう単語自体が二重公儀とほぼ同義なんだから使う必要ないでしょ
わざわざ長文書いて何言ってるの?

404人間七七四年2016/10/22(土) 15:14:47.29ID:5uj5f3RA
堺大樹・足利義維がいた時代を二重公儀というか?

405人間七七四年2016/10/22(土) 17:23:47.62ID:U3+6YOFd
そもそも二重公儀論自体が、関ヶ原合戦直後に即日徳川公儀が確立したという「誤解」に笠谷和比古氏が反論するために作った造語なんだから、豊臣以外に適応されないのは当然じゃないか?
堺公方に適応させたい研究者がいたら相当する造語を作るだろうさ。
何か徳川信者って被害妄想激し過ぎて、物事の順序考えられなくなってないか?
もっと論理的な文章を書く努力をしようよ

406人間七七四年2016/10/22(土) 18:37:16.14ID:5uj5f3RA
その笠谷が「大坂の陣で豊臣家が滅びるまで二重公儀だった」とか寝言ほざいてるから
二重公儀って言葉にふさわしいのは南北朝とか足利義晴・義維の対立時代だよね。馬鹿じゃない?って話になってるんだぞ
物事の順序がわからなくなってるのはどっちかな?

407人間七七四年2016/10/22(土) 19:12:48.88ID:ixH2GYeN
>>405は「1600年〜1615年の徳川・豊臣並立状態」を笠谷が「二重公儀」と定義したんだから
それ以外の時代の状態については定義の範疇外だろって言いたいんだろ?

勘違いしているみたいだが、このスレでいう「二重公儀」は
「二重に公儀が存在する」って意味の一般名詞じゃ無いからな?

仮に「南北朝とか足利義晴・義維の対立時代」の方が「二重公儀」にふさわしいとして、どうしたいの?
笠谷は「二重公儀」って言葉を使うなってこと?
別に使わなくても良いけど、>>1の「豊臣家が一定以上の権威と大名への影響力を持ってたか」
の議論に一切関係ないとこだよねそれ?

「南北朝とか足利義晴・義維の対立時代」を「二重公儀」と言いたいならそういう論文書いたら?

408人間七七四年2016/10/22(土) 20:06:02.89ID:5uj5f3RA
>笠谷は「二重公儀」って言葉を使うなってこと?
そうだよ

409人間七七四年2016/10/22(土) 20:08:49.67ID:5uj5f3RA
まあちゃんというなら
「徳川・豊臣並立状態など存在しない」と
「1600〜1615間の政治体制を二重公儀などという言葉で定義するのは明らかに誤り」かな

410人間七七四年2016/10/22(土) 20:39:02.11ID:b7e6BcIn
豊臣ageの意図がなければ二重公儀という間違った日本語の使い方はしないし造語なんだからいいじゃんとも思わないのを豊臣信者は理解できないの?

411人間七七四年2016/10/22(土) 20:58:44.94ID:ixH2GYeN
>>408
なら本人に言えよww

412人間七七四年2016/10/22(土) 21:17:38.47ID:W81m7nrD
しょっぱい返しだな

413人間七七四年2016/10/22(土) 22:05:54.15ID:SmOruLit
鞆幕府も二重公儀って言われることあるね

414人間七七四年2016/10/22(土) 22:11:39.29ID:W81m7nrD
それは初耳だ。

415人間七七四年2016/10/22(土) 23:13:07.66ID:x3EySABE
>>407
「二重公儀」を「二重に公儀が存在する」という意味で使わないのなら、
誤解を受けないように「二重」「公儀」を使わない呼び名に変えるといんじゃないかな。

そうだな、例えばメニャアとかうぎゃあとか、意味のない単語を当てよう。
二重でも公儀でもないものを「二重公儀」と呼ぶよりはだいぶ分かりやすいだろう。

416人間七七四年2016/10/23(日) 00:17:06.61ID:49nsMb2K
では以降このスレでは「二重」「公儀」は使用禁止で。

なんか「二重公儀」の文字見るだけでアナフィラキシーショック起こしそうな
徳川信者がいるみたいなので。

417人間七七四年2016/10/23(日) 01:26:39.23ID:uRu6lEQp
とっくに終わってる議題だからスレ終わりにするのもいいだろうな

418人間七七四年2016/10/23(日) 02:32:12.36ID:GeNmnvx4
戦国時代は二重どころか多重公儀時代なんだが
公儀って語句が天下人の異名みたいに勘違いしてるような人がいる?

419人間七七四年2016/10/23(日) 04:42:06.13ID:ZzjujD7A
>>418
戦国時代が多重公儀時代であることと関ヶ原後の二重公儀論との間に何の関係が?

420人間七七四年2016/10/23(日) 06:20:18.84ID:GeNmnvx4
>>419
中世には公儀となる主体がごちゃごちゃに多数に分かれてたのが
戦国時代に徐々に収斂されて秀吉によって初めて統一されて
秀吉死後その主体に並び立つ形で徳川という新たな権力主体ができたが
その当初は鎌倉時代の幕府と朝廷のように
ざっくり東西で管轄を分けあってたんでないの?って問いかけでしょ
二重公儀論って

421人間七七四年2016/10/23(日) 11:57:37.75ID:OlfOBSY9
そもそも江戸幕府成立後の豊臣は別に西日本を管轄などしていない
豊臣信奉者の連中が西日本を秀頼が管轄していたことにしたいと願っているだけ
二重公儀の最大の問題点は事実を調査しての結論ではなく
個人の願望が先行して結論を用意してから都合のいい部分だけ取り出して屁理屈を並べていることだよ

422人間七七四年2016/10/23(日) 12:05:46.96ID:ZzjujD7A
>>420
その問いかけはもうスレ中で否定されたよ。

423人間七七四年2016/10/23(日) 12:40:01.25ID:+ohJpknv
猪熊事件のとき全く出てこないけど
その公儀は一体どこで何やってたんだろうな

424人間七七四年2016/10/23(日) 12:46:20.76ID:hN7lB2ix
とりあえずID:GeNmnvx4はWikipediaの公儀のページくらい読んだ方がいい

425人間七七四年2016/10/23(日) 14:51:53.58ID:E3kyJwnw
>>414
藤田達生が、安土政権と鞆幕府は二重体制(二重公儀)だったと著書で論じてる

426人間七七四年2016/10/23(日) 14:56:16.34ID:7HFxCFeo
>>421
「二重公儀」なんて間違った言葉使ってんじゃねーよこの豊臣信者が。

徳川信者の振りして書き込むとかクズだなお前

427人間七七四年2016/10/23(日) 18:55:40.23ID:uRu6lEQp
>>425
ありがとう
ただ藤田ってだけでどうでもいいわ

428人間七七四年2016/10/24(月) 03:58:04.76ID:RGVvgMRk
問題は単純。
豊臣公儀体制はどの段階で消滅したのか、しなかったのかということ。

429人間七七四年2016/10/24(月) 05:38:26.45ID:dzQXc35+
三好政権なんかの例でいうと
細川領国への発給文書には
両者の関係性によって細川と三好が連署してる場合があって
元細川領国においては細川家が持つ公儀性は細川家が消滅するまで残ってたっぽいんだよね
中世の公権力というのは実力や地位だけではなくて
地縁や血縁や前例や由緒など様々な関係性に依拠して成り立っていたんだよ

関ヶ原後の豊臣家も全国政権としての実権は失っていても
少なくとも名目上の公儀性は完全には喪失していなかったと考えられるんだよ
名目上の公儀といっても全く実体がないわけではなくて
儀礼を介して莫大な贈答品を受け取っているし
全国の蔵入地の実権は失ってもそこからの収入の何割かは得ていたみたいなんだよね

二重公儀論はさすがに豊臣家の力を過大評価してるとは思うけど
豊臣家に全く公儀性が残ってなかったと断言するのも
過小評価が過ぎると思うんだね

430人間七七四年2016/10/24(月) 07:59:42.02ID:49S3r9nt
二公儀論は、不完全公儀論としたほうが正しい。つまり徳川政権は、豊臣家の消滅によって完全な公儀を達成したのであり、それまでは不完全な公儀であったとする論である。
その論は、豊臣家の存続が徳川政権の完全な公儀を妨げる程度にあったか否かである。二公儀論は、あたかも二つの公儀が存在したかのような論であるが、それはもはや否定せざる得ない。
しかし完全な公儀を徳川政権がすぐに達成出来たのかは疑わしく、また他の政権をみても完全な公儀に至るまでの過程が存在する。つまりその過程を検証するほうが論理的と思える。

431人間七七四年2016/10/24(月) 08:34:19.45ID:QXzTO8Pe
全国の権力者にとって面倒な存在で括れそう

432人間七七四年2016/10/24(月) 15:22:09.77ID:zNPp0htB
関ケ原合戦のあとも豊臣家が一大名に転落したという旧来の歴史像が誤っていることは、高木昭作氏が指摘していたことだ。
「太閤様御置き目のごとく」といって、太閤秀吉の構築した豊臣公儀体制は関ケ原合戦のあとも持続していたということ。
大老の家康が将軍となって、そこから抜け出して徳川公儀体制を作ったわけだから、二重公儀体制になるのは当たり前といことだろう。

    
      

433人間七七四年2016/10/24(月) 15:27:55.07ID:KdgB42wx
二公儀論が論理破綻しているのは、徳川公儀体制が不完全状態であるのに、豊臣政権を完全な公儀状態とするのは、矛盾する。むしろなぜ徳川公儀体制が不完全状態である期間が存在したのかを考察することで、豊臣政権からの権力の完全移行の意味が理解できる。
二公儀論は、不完全状態な公儀の二次元性を前提としているが、それは不完全公儀論から説明されるべきである。

434人間七七四年2016/10/24(月) 17:26:26.42ID:49S3r9nt
不完全公儀論は、とてもシンプルに説明できる。何故なら公儀状態を完全状態と不完全状態に二元的に処理するから、豊臣家に徳川統治体制が不完全に及んでいたことを不完全状態の公儀と定義できる。
しかし二公儀論は、徳川統治体制が豊臣家に不完全状態に及んでいることに豊臣公儀という積極的意味を主張するが、その論拠が脆弱なだけでなく、論理性もない。
つまり不完全公儀論は、公儀の状態の二元性を認めるが、二公儀論は、公儀そのものの二元性を認めることに論理の飛躍がある。

435人間七七四年2016/10/24(月) 20:54:21.66ID:639t29bb
不完全公儀論の説明はしっくり来るな。

関ヶ原が終わって即徳川公儀が確立されたってわけではないから、徳川と豊臣でざっくり東西で管轄を分けあってたんでないの?
などと言われてもバカジャネーノとしか思わんが。

436人間七七四年2016/10/24(月) 21:06:30.65ID:dzQXc35+
トートロジーの練習かな?
とりあえず不完全公儀をNGワードにしてスッキリw

437人間七七四年2016/10/24(月) 22:35:31.11ID:A54ceQ90
ださ

438人間七七四年2016/10/24(月) 22:51:08.18ID:ekKVSpJE
不完全公儀論という名の不完全公儀論

    

439人間七七四年2016/10/24(月) 23:07:45.32ID:KdgB42wx
二公儀論は、徳川公儀体制の不完全状態を説明しているに過ぎず、それ以上の豊臣公儀体制を示す論拠はない。

440人間七七四年2016/10/25(火) 02:43:15.02ID:LsIxQ9Gb
というか、徳川と豊臣で東西を分けあってたなんて馬鹿なことを言わなけりゃちょっとは聞く耳持ってもらえたかも知れないんだよ。
もう手遅れだが。

441人間七七四年2016/10/25(火) 04:14:50.20ID:2V9Kmsm2
日本全国を東西に分けたのは家康じゃないのか

442人間七七四年2016/10/25(火) 05:07:02.27ID:WlpaX79p
日本を東西に分けて考えるのが当時の普通の感覚だから
地図も西国と東国で分かれて描かれてた
秀吉による全国統一は東西日本の統一という意味もあった
鎌倉時代は東国は幕府西国は朝廷とざっくり統治主体が分かれ
室町時代も西国は室町幕府で東国は鎌倉府と統治主体が分かれていた
西国の新首都大坂に豊臣家が健在で
東国に徳川家が江戸幕府を開府したら
その権力基盤が東西に分かれたと考えてみるのは自然なこと

443人間七七四年2016/10/25(火) 05:27:40.56ID:2V9Kmsm2
日本全国を東西に分けたのは家康じゃないのか

444人間七七四年2016/10/25(火) 06:30:38.14ID:xjKmbkse
またキチソトが現れた

445人間七七四年2016/10/25(火) 07:37:36.49ID:7wZbHJGn
分けると言っても西国を家康、東国を秀忠が統括する体制だけどね。
ま、ザックリとしたもので厳密な線引きはないし、公儀としては一体だから
二重公儀論としては意味ないかも知れんが。

実際の所、関ヶ原直後から九州の国替までも家康が差配してる訳で
豊臣家が関与してる様子はまったくなかったりする。

むしろ景勝の問題が片付くまでは東国の掌握の方が遅れてたくらいだ。

446人間七七四年2016/10/25(火) 07:48:15.53ID:r29Ye31y
考えてみれば、駿府に移るまで家康は伏見にいたから、
そこから西国を支配したと言っても問題は無い

447人間七七四年2016/10/25(火) 07:58:31.06ID:c4ZeI/yT
西国と東国では権力の編成形態が少なからず異なっていて
西国では特に寺社勢力を介した権門体制的な公儀が
江戸時代にはいっても依然としても残っていたという研究がある
そこで豊臣家による積極的な寺社への投資の意味が問われることになる
畿内各地での豊臣家での寺社造営は実は豊臣家が単独で行ったのではなく
豊臣家を中心に全国の大名から資金を徴収して行っていたものなんだ
多くの大名が豊臣家の要請により資金を出している
これはつまり豊臣家の公儀性の表れとみることができる
さらに寺社造営というのは撫民政策の最たるもので
公儀の担うべき最重要政策の一つでもある
圧倒的権力は封建的契約関係を基盤とした徳川政権にあったとしても
豊臣家にもまた違った形での公儀性は残されていたというか
生き残りをかけて権門的公儀に活路を求めていたのではないかと考えることもできる

448人間七七四年2016/10/25(火) 08:59:01.12ID:r29Ye31y
>>447
寺社間の揉め事調停を行い、寺院法度を発したは江戸幕府
後、幕府も寺社造営をしている

何というか上っ面を撫でているだけなんだよね、秀頼

449人間七七四年2016/10/25(火) 09:55:18.70ID:39mwOntf
徳川不完全公儀論というのは体制が二重公儀体制だからだろう。
逆に二重公儀体制論を補強する結果になっているのでは。

450人間七七四年2016/10/25(火) 11:13:11.85ID:7LO8Bi7Q
>>445
家康が差配していたのは関ヶ原前からじゃないの?
政務は家康の仕事だったし

451人間七七四年2016/10/25(火) 11:56:16.02ID:JuZ0+yr1
徳川家と豊臣家がどうこうではなく、徳川幕府と豊臣政権がいずれかの時期まで並立していたのならありそう

452人間七七四年2016/10/25(火) 12:08:11.55ID:xjKmbkse
別に徳川豊臣が東西を分け合っていたなどという世迷い言を言わなければ何でもいいよ。
個人的には、二重公儀論なんて誤解を生む表現を使うくらいなら、めにゃあふぎゃあ論とでもよんだ方がまだしもすっきりするが。

453人間七七四年2016/10/25(火) 12:51:35.21ID:C9HtCYfh
日本全国を東西に分けたのは家康なんだけど。
それが理解できない人がいることが混乱の原因。

454人間七七四年2016/10/25(火) 14:21:25.01ID:3Dufzmxi
外国や宣教師は公儀が2つあってどっちを窓口にしたらいいのかわからんとか言ってたの

455人間七七四年2016/10/25(火) 14:32:59.29ID:TCxWFaOG
論点は、誰かが日本全国を東西に分けたかどうかではなくて、その片割れに豊臣が居たか否か

456人間七七四年2016/10/25(火) 14:40:01.27ID:wgEV9Zk5
東西分割統治にしても、それは過渡的な徳川公儀体制。つまり不完全状態ゆえの現象のひとつであり、豊臣家に公儀制を示すものではない。
これまで徳川統治体制の不完全状態を説明できても、豊臣公儀体制はひとつも説明できないのがファクト。

457人間七七四年2016/10/25(火) 17:57:28.20ID:C9HtCYfh
豊臣公儀体制というのは、関ヶ原合戦のあとも持続してるから、存在するのは当たり前。
何が言いたいの?

458人間七七四年2016/10/25(火) 17:59:06.76ID:C9HtCYfh
豊臣公儀体制というのは、関ヶ原合戦のあとも持続してるから、存在するのは当たり前。
何が言いたいの?

459人間七七四年2016/10/25(火) 18:34:44.49ID:hTon7wwP
だから、上座に座ったのだのそんな話では豊臣公儀体制の論拠にはならないんですよ。少なくとも全国に対する統治体制があったことを示す論拠はなんですか?
卑近な例えならば、沖縄の米軍施政権下においても日本の公儀体制は存続し、一部沖縄に対してのみ統治体制が及んでいないだけで、それは沖縄の公儀制を積極的に意味するものではない。

460人間七七四年2016/10/25(火) 18:56:12.42ID:9k9esIQf
徳川の武将たちや伊達政宗あたりまで、関ケ原合戦のあとの体制を太閤秀吉の定めたとおりと認識しているわけだから、豊臣公儀体制が続いているとしか言い様がないだろうに。

徳川オタクたちはこんな簡単な議論もわからんらしいが・・

      

461人間七七四年2016/10/25(火) 19:20:58.31ID:fOFReFAt
婚姻、世子の御目見、家督の相続、城の建築許可といった御家の大事に関わる問題に
西国大名は秀頼ではなく幕府の許可を得たり鼻息を窺うよう動いていたんだから
豊臣家が西国を支配していたというのは過大評価というもの

462人間七七四年2016/10/25(火) 19:40:39.95ID:r29Ye31y
>>460
その理屈は精々家康将軍就任まで

463人間七七四年2016/10/25(火) 20:00:38.27ID:3Dufzmxi
豊臣政権の権力者であった家康が反乱軍を処分した後に自分名義の政権を作ってそっちで活動し始めても
残った豊臣家で以前の家康と同じことしてた人っているの

464人間七七四年2016/10/25(火) 20:04:04.39ID:xjKmbkse
>>460
バッカジャネーノ?

465人間七七四年2016/10/25(火) 20:35:54.44ID:gVLrrqgC
家康が秀頼を滅ぼす前に将軍に就任したから
こういうややこしいことになるんだろ

466人間七七四年2016/10/25(火) 20:37:57.94ID:si38u7k3
ややこしくないよ

467人間七七四年2016/10/25(火) 21:37:33.59ID:c4ZeI/yT
>>448
その諸寺法度というのが寺社に対する豊臣家の影響力を削ぐための
徳川家からの締めつけを目的として始ったって言われてるの
豊臣家が不利な状況で自らの権益を死守しようと運動するのは当たり前で
徳川家とあの手この手でせめぎ合いをしていたんだよ
結果だけを見て上っ面なでてるだけなんていってやるのは理解が足りないように思えるよ

468人間七七四年2016/10/25(火) 21:48:55.93ID:c4ZeI/yT
全国に及ぶ統一権力というのは秀吉が初めて作り上げたもんだよ
ただ戦時中であったことや後継ぎが幼少であったなどの理由で
残念ながらその死後に権力のど真ん中に巨大な真空空間ができてしまった
幸運にもその空隙にはまり込んで天才的政治手腕でそっくり継承した家康が
秀吉の残した統一政権を秀吉や先人の失敗から学びんで堅実にまとめ
衰えたとはいえ公儀としての復権を狙う豊臣家とつばぜり合いをする中で
より洗練された政権を作り上げていき
最終的に豊臣家を圧倒して滅亡まで追い込んだってことでしょ?

だけど豊臣家も圧倒的に不利な状況に追い込まれたようにみせて
それでも日本全国を敵に回して堂々合戦してみせたんだから
十分に頑張ったと評価できると思うよ
統一権力に抵抗しうる勢力を秀吉自身が弱体化させていたため
豊臣家には徳川家に抵抗する手段がほとんどなかったんだから

469人間七七四年2016/10/25(火) 22:04:48.51ID:r29Ye31y
>>467
具体的に秀吉死後の豊臣家がそういう幕府の寺院法度に相当するものを出したの?

470人間七七四年2016/10/25(火) 22:19:48.24ID:c4ZeI/yT
>>469
どうしてその質問が出るのかよく理解できないけど
法度を出すことが公儀の証明みたいに思ってる?
近代国家じゃないんだから公権ってのは色々な形を持つんだっての
中世的な価値観での公儀がせめぎ合ううちに
近世的な意味での公儀が生み出されて長い時間をかけて定着していったんだよ

471人間七七四年2016/10/25(火) 22:36:02.61ID:r29Ye31y
>>470
では他に豊臣家は寺社に何かした?
寄進等は他の大名もしているか除外するとして、寺院間のいざこざの仲裁とか

慶長8年に法隆寺の騒動に介入しているけど、それ以降は特に確認できない

472人間七七四年2016/10/25(火) 22:46:33.86ID:c4ZeI/yT
>>471
中世的な価値観では肩書とか地位とか公儀であるとか関係なく
強い権力を持ってる方に仲裁を頼むの
豊臣家と徳川家ではそら徳川家の方が強いに決まってる

三好政権初期には細川氏綱を細川領国の表向きの公儀としながらも
三好長慶が実力者であったので裁定は三好家に頼んでたのよ
中世は権力主体が複数で並立してても成立してても異常じゃなかったの
当時はまだその感覚が普通に残ってたから
徳川も豊臣政権を大きな反発もなくまるっと乗っ取れたんだよ

473人間七七四年2016/10/25(火) 22:57:40.15ID:r29Ye31y
>>472
その三好政権初期=家康将軍就任までじゃない

474人間七七四年2016/10/25(火) 23:11:03.68ID:c4ZeI/yT
>>473
三好政権時と時代が違うことはわかっている
中世の公権が分裂した状態から徳川の一元的支配が定着するまでの
過渡期の公権のあり方を考えるのに三好政権の礼が示唆的だから持ち出しただけだ

475人間七七四年2016/10/25(火) 23:15:29.19ID:DA61a8Tb
上杉と武田の甲越和与のときって将軍の権力って強かったの?
傀儡じゃなくて?

476人間七七四年2016/10/25(火) 23:23:29.19ID:LKguD/wm
それは二公儀論ではなくて、不完全公儀論なんだよね。豊臣公儀の実体がないのだから、徳川公儀体制に完全移行するまでに少なくとも豊臣家の領域においては、不完全状態の徳川公儀であった。
論点はいつ豊臣公儀は消滅し、徳川公儀が発生したのかだが、不完全公儀論は段階的過渡的な徳川公儀の発生を認めるが、それは決して二公儀体制の意味ではなく、控除的に豊臣家領域を除く不完全公儀体制から完全公儀体制へと移行したと考えるべき。

477人間七七四年2016/10/25(火) 23:54:03.86ID:o41E4+lr
>>476
それって結局のところ家康個人の立場の変化ってことにならない?

478人間七七四年2016/10/26(水) 00:12:43.24ID:XbE+jF9E
不完全公儀論ねぇ。
二重公儀論の方がすっきりくる。

479人間七七四年2016/10/26(水) 00:15:28.18ID:9tNMdXxl
徳川豊臣で東西にとか馬鹿言わないなら別に二重公儀でも何でも良いような気がしてきた。

480人間七七四年2016/10/26(水) 00:56:18.38ID:OBIWvv/u
不完全公儀論は、徳川公儀体制の始点を不完全状態から起算する。だからどの起点を徳川公儀体制の始まりとするのかという論点に答えをだせる。
一方二公儀論は、いつからいつまでが公儀が重複したのか不明確である。何故なら豊臣公儀は実体として徳川公儀体制の中で存在しないからである。
最後に恐らく学者のいう、二公儀論は、不完全二公儀論のことだと思うが、これは論理的に無理がある。何故なら不完全から完全状態に権力の完全移行を捉えるのが不完全公儀論であるのに、重複した不完全な公儀が存在することはもはや公儀否定論である。
つまり二公儀論は、公儀否定論のほうがむしろスッキリする。

481人間七七四年2016/10/26(水) 01:35:56.51ID:wRwbmuFE
>>479
家康公に叱られる。
日本列島を京都を境に東西分有して、いく久しく徳川・豊臣の共存共栄をやっていこうというのは、
家康公のありがたい慈悲深い御心からなされたもの。

482人間七七四年2016/10/26(水) 06:31:38.19ID:98dEgQb7
二重公儀論は家康の将軍就任後も
特に西国では豊臣家を名目的には主君としている大名(ただし徳川の優位性と実権は認めている)が
一定数残っていたってぐらいの意味でいいんじゃないかな?
名目的主君とは言っても結構莫大な金を諸大名から集めてたようだし
徳川家からも主従契約は求められなかったんだし
その公儀は休眠させられた状態であっても死んではいなかった

483人間七七四年2016/10/26(水) 08:31:10.74ID:MxW3bkW7
太閤蔵入地が関ヶ原合戦後も維持されたのは縁戚で旧来の領土が維持された清正位かと

484人間七七四年2016/10/26(水) 08:45:02.29ID:xEEVOrlj
蔵入地は蜂須賀にもあっただろ。
ただ、年貢を大分あとで収めたようなので実質的に横領してたのかも知れんが

485人間七七四年2016/10/26(水) 08:47:24.99ID:MxW3bkW7
>>484
蜂須賀は知らなかった、出典を教えてもらえませんか

486人間七七四年2016/10/26(水) 08:54:56.93ID:0fl/U0yR
>>481
残念ながら現実はそうならなかったということやね。

487人間七七四年2016/10/27(木) 06:44:19.94ID:RBEafA6o
東西を分割していたとか誰も言ってないだろw
見えない敵と戦ってる徳川信者w

488人間七七四年2016/10/27(木) 09:00:24.56ID:gFuMTzmA
>>487
>>481が言っていま〜す

489人間七七四年2016/10/28(金) 03:10:58.53ID:u9wCpHYk
家康はなぜ征夷大将軍を選んだんだろうな?
鎌倉、室町の両幕府とも「将軍による全国統治機構」としては失敗例だろうし、
特に応仁以降の将軍のイメージが強い当時は、
秀吉みたいに将軍職に魅力を感じなくても当然だろう。

未だ豊臣の権威が残る1603年頃では、権威的に豊臣より高い役職に就くことはできず、
家康は、それ単体では卑職でしかない「征夷大将軍しか選ぶことができなかった。」
逆に言えばそういう政治的配慮が必要な程度には、豊臣家は絶対的上位者だったと思うんだが
どうよ?

490人間七七四年2016/10/28(金) 03:59:10.23ID:0/smuCBB
豊臣が絶対的上位者ならなんで家康はあれになれと命令したり朝廷に秀頼を関白にしないなら滅ぼすぞと脅さなかったの?

491人間七七四年2016/10/28(金) 06:11:25.04ID:u9wCpHYk
秀頼が成人した時は手遅れだったからじゃない?
あくまで1603年時点の話だし。
いくら何でも未成年が関白は無理でしょ。

492人間七七四年2016/10/28(金) 10:59:53.84ID:p1FMXC6l
>>489
豊臣の臣下から脱して天下を簒奪するには将軍職に就いて幕府を開き、豊臣を中心とする枠組みから外れる事が最も有効であったからだろう
たまたま関東を手中に収める事ができた事も将軍就任に興味を持つ大きな契機となったことも間違いない
そう考えると関東移封と将軍職の放置が豊臣政権最大の失敗だったとも言える
将軍職は幕府を開き、朝廷の外で実質的な全国統治を行える事が頼朝以来の慣例となっていた訳で
家康に限らず誰かが将軍職に就いて豊臣政権を脅かす可能性は十分に考えられたのに放置していたのは手抜かりとしか言えない
将軍職の権限を削り名誉職とし、更に適当な一門への任命を繰り返して一定の家が就任する慣例としてしまえば家康もかなり動きにくかったであろう

493人間七七四年2016/10/28(金) 12:06:47.28ID:Tx2Pl/w5
>>489
>鎌倉、室町の両幕府とも「将軍による全国統治機構」としては失敗例だろう
両幕府が崩壊した原因は色々あるだろうけど
鎌倉幕府みたいに外戚に乗っ取られないよう親族を増やしたり
さりとて室町幕府みたいに親族や譜代に力を与え過ぎて地方で独立しないように
権限と領土のバランスを取ったりと色々対策してるから
家康は幕府というシステムの問題だとは思っておらず政権運営の問題だという認識なんじゃないの
そもそも秀吉の武家関白制がより良いシステムとは限らないわけだし

494人間七七四年2016/10/28(金) 23:55:25.89ID:uedzwsS8
秀吉はもともと家康を将軍にする気があった可能性がある
臣従したころな

ただ気が変わったのかやめたけど

495人間七七四年2016/10/28(金) 23:57:02.62ID:uedzwsS8
未成年が関白は無理と言うのもどうなのか
本当に無理やり通そうと思えば通ったんじゃないのか
しかし関白に着けたくらいで安心とかそういうわけじゃないからな

496人間七七四年2016/10/29(土) 00:07:39.56ID:7Q6t092n
秀吉がやらなかったくらいだからな

497人間七七四年2016/10/29(土) 06:38:25.56ID:ik/Tvp4O
だな。
やれるんだったら秀次事件の直後にでも秀頼を関白にしただろうさ。

年齢的な問題は兎も角、大臣→関白みたいな手順は必要だったんじゃ無い?
まぁ結局は、「昇進に時間が掛かる≒若年で関白就任は無理」ってことになるのかもしれんな。

秀頼も4歳で元服してから、11歳では正二位右大臣になってるし。
逆に言えばこれくらいの恐ろしいスピード出世でも7年は必要だったわけだ

498人間七七四年2016/10/29(土) 07:14:29.95ID:eyV+6dLO
朝廷はとにかく慣例に拘るからな

499人間七七四年2016/10/29(土) 09:28:12.25ID:9rib42d4
関白就任のために大臣は最低条件だっただろう
ただ年齢については具体的に何歳と決まっていたわけではないから抵抗はそれほど強くないのでは

いよいよ死期が迫るなかでギリギリ中将から権中納言にさせたことで、摂関家のルートに乗って最低限のことはできたと思ったのでは
それでも権中納言から内大臣まで秀次の例からして数ヵ月でできるので、やろうと思えばやれたと思うが
死ぬタイミングなんて分からんし、心配はしてても、まさか死んですぐに内部抗争が起きるとも思わなかっただろうし
死ぬ直前なんてそもそも思考力が低下してただろうからねぇ

500人間七七四年2016/10/29(土) 09:35:37.20ID:9rib42d4
武家政権において、関白に無理やりなったとしても
それだけで全国の大名が従うわけでもなく
力の裏付けがあってはじめて意味がある
なのでそもそも関白になるかならないかは最重要の問題ではない

豊臣政権に公儀性が残っていたことに異論はないが、やはり関ヶ原の結果によって徳川が圧倒的な力を持ってしまったことが一番の転機だな

501人間七七四年2016/10/29(土) 10:07:05.14ID:HmvgcjGd
>>497
官職はいきなり叙任されて、あとは過去にさかのぼって叙任した事にして辻褄を合わせるというパターンもあるので権力さえあれば実際に任官してた期間も必要ない。
他ならぬ秀吉自身が1年もかからずに少将から関白へと超スピードで昇叙している。

むしろ先例重視の朝廷としては年齢の方がネックになる可能性があるが、家康の将軍任官の際に秀頼の関白就任の噂が出たが、これに際して公家や高僧も普通に受け止めてるので障害にはならないと考えてた節がある。

まあ、それまでの武家政権も先に政権としての枠組みが成立して、跡から朝廷が官職を付与するパターンだったから権威付けという意味合い以上のものは持たないと思われる。

502人間七七四年2016/10/29(土) 18:53:53.96ID:ik/Tvp4O
つまり1603年時点では、
豊臣家の(権威としての)公儀性は、「11歳 関白秀頼」が問題視され無い程度には残っており、
権威者としては圧倒的実力を得た徳川よりも依然として上位であったため、
家康としても、将軍職を得て豊臣政権の枠外で新秩序を構築した方が効率が良かった。

ということ?

503人間七七四年2016/10/29(土) 18:56:46.56ID:ik/Tvp4O
勿論、既に豊臣より徳川に従う諸大名が殆どだったろうし、
あくまで名目上の権威でしか無かっただろうけど。

504人間七七四年2016/10/29(土) 22:24:26.08ID:HmvgcjGd
>>502
まったく違うよ。

家康の将軍任官前には徳川公儀は既に全国政権として機能している。
秀頼は太閤秀吉の子として敬われ格別の扱いではあったが、関白位さえ家康の意向次第という状態で公儀性は皆無だった。

505人間七七四年2016/10/29(土) 22:40:06.47ID:+XOz+nvK
まあ慶長5年時点で九条兼孝が関白に再任してるし
慶長10年には秀吉への恨み深い近衛信尹が就任しているし
ゼロではないにしろ秀頼の関白就任の可能性は
かなり低いと言わざるを得ないだろうな
徳川に反感を持つ公家や民衆がどう考え噂してたかは別の話だが

506人間七七四年2016/10/29(土) 23:03:22.55ID:D/qq4jRl
>>502
藤原摂関家が征夷大将軍より権威権力持ってたか?違うだろ。

507人間七七四年2016/10/29(土) 23:41:32.03ID:PoItuaiX
鷹司信尚の後、高齢の二条昭実が関白に再任してるから
とくに徳川家と問題を起こしてなければ年齢的にはこの辺で秀頼が関白になれたんじゃないのかな
関白になったところで権威を振りかざして何かできるというものでも無いだろうが

508人間七七四年2016/10/30(日) 10:54:24.06ID:HWxw1zWO
渡邊大門あたりはせいぜい秀忠の将軍就任くらいまでって言っているんだっけ

509人間七七四年2016/10/30(日) 23:22:06.99ID:UKBPhtjN
残ってたのは秀吉の権威だけで豊臣家自体の権威は
もう無かったんだよ、過去に秀吉が決めた事はある程度
尊重されたが秀頼の言う事より幕府が最優先

510人間七七四年2016/10/31(月) 01:48:50.21ID:LBVC99FW
関ケ原合戦のあとも、秀頼が成人した時には公儀の主宰者として君臨するということは、
当時の武家領主たちの間では常識であったのだが。

    

511人間七七四年2016/10/31(月) 05:27:37.63ID:DiRvM16g
成人するまでは公儀たり得ないということ?

512人間七七四年2016/10/31(月) 06:18:35.47ID:8tAyblu9
可能性が残っていたのは西軍が関ヶ原で惨敗するまでだな。
慶長五年に大坂で和睦が成立した直後から、家康の書札礼は尊大化して立場の変化は明白。

家康の意向をもって秀頼に関白位が与えられたとしても、栄典としての飾りであり
全国政権としての機能を喪失した豊臣家は公儀の主催者には到底成りえなかった。

明白な証拠としては秀頼の関白位就任の噂が出た際にも、天下を譲るなどという噂は
まったくでなかったからね。

513人間七七四年2016/11/01(火) 02:47:33.90ID:Ozs74AMf
関ケ原合戦後の和睦の盃ごとでは、淀殿と秀頼が上座、家康は下座だった。
家康は関ケ原合戦のあともあれこれ仕切っているが、所詮は秀頼の政務代行をやっているにすぎないということ。

514人間七七四年2016/11/01(火) 03:00:37.53ID:eATrFvtH
その理屈で言うなら、豊臣政権は天皇の政務代行をやっているに過ぎないので、二重公儀どころか三重公儀となる

515人間七七四年2016/11/01(火) 09:51:05.77ID:321kDhmz
天皇まで入れるんなら三重公儀体制でいいんでないの

516人間七七四年2016/11/01(火) 11:18:10.34ID:rD+ufxCs
幕府と駿府政権で四重やな

517人間七七四年2016/11/01(火) 13:05:08.14ID:R4wQpebw
日本の政治は入れ籠構造

518人間七七四年2016/11/02(水) 14:14:34.97ID:qUHPX+s9
朝廷「豊臣がやられたか」
駿府「奴は我ら公儀四天王の中でも最弱」
江戸「公儀四天王の面汚しよ」

519人間七七四年2016/11/03(木) 00:40:08.13ID:rzQKyS1P
まるでヤクザ、暴力団の論法・・

520人間七七四年2016/11/03(木) 08:46:50.35ID:zUGkLYVu
まるでってかヤクザは武家の作法を模倣してるんですけど

521人間七七四年2016/11/06(日) 21:29:35.50ID:nN6JPYdh
>>1
笠谷和比古6月に宮帯出版社から徳川家康の本出したと思ったら
今度は12月にミネルヴァ書房から家康の本出すのか
家康、関ヶ原、大坂の陣をどれだけ喰いものにする積もりなんだか

522人間七七四年2016/11/07(月) 07:56:02.65ID:BfNNDaIC
去年は大坂落城400周年。今年は家康没後400周年。
出版社はこの時期をターゲットにして本を出すから、笠谷氏に限らず大量に出版されてる訳なのだが…

523人間七七四年2016/11/07(月) 09:11:12.05ID:Hm8Xs1zA
黒田が北条の、平山や丸島が真田や武田の本出しまくってるのと同じだろう

524人間七七四年2016/11/07(月) 16:23:29.02ID:NY6uerYb
笠谷は家康、関ヶ原、大坂の陣の研究者だからそりゃ本を出し続けるだろ。何言ってんだか

525人間七七四年2016/11/07(月) 16:33:46.86ID:zpFg0kJm
似たような本ばっか出してるからじゃねえの

526人間七七四年2016/11/07(月) 22:49:21.37ID:Cot1ndkB
ミネルヴァの評伝シリーズは伝記だから、家康も関ケ原合戦や大坂の陣だけではすまないだろうよ。
どんな内容になるのか、お手並み拝見といったところ。

527人間七七四年2016/11/08(火) 09:23:57.91ID:qQktmJc4
>>525 比較的最近で出した本で目次見比べると、そんなに内容被っていない気はするが
「歴史の虚像を衝く」教育出版            「徳川家康 その政治と文化・芸能」宮帯出版社 「徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助けべし」ミネルヴァ書房
目次 2015年12月                     目次 2016年6月                        目次 2016年12月予定
まえがき                        〈序章総論〉徳川家康の統治原則……笠谷和比古          はじめに
                            〈第一章 政治〉                        第一章 家康の誕生と幼少時代
第一章 歴史書における年号表記の誤り           三河大名としての徳川氏……………小宮山敏和          第二章 桶狭間の戦いと松平家の独立
はじめに                         関ケ原合戦と大坂の陣………………笠谷和比古          第三章 織田・徳川同盟
諸事例年月日表記の虚実                  徳川家康と朝廷…………………………野村 玄          第四章 豊臣政権への帰順
むすびに                        「御三家」の成立と家康の戦略…………白根孝胤          第五章 関東移封と江戸入部
                             徳川家康の兄弟姉妹とその血縁関係               第六章 豊臣政権の分裂と秀吉の死
第二章 関ヶ原合戦をめぐる諸問題             家康の姉妹を中心に…………………門脇朋裕           第七章 関ヶ原合戦
はじめに                         〈第二章 文化・外交〉                     第八章 徳川幕府の成立
一節 豊臣七将の石田三成襲撃事件             徳川家康の外交 ― 外国の史料に見る家康像           第九章 大坂の陣と徳川幕藩体制の確立
-三成、家康屋敷に駆け込むの嘘              ……………………… フレデリック・クレインス          終 章 家康の政治と文化
二節 関ヶ原合戦の歴史的意義 徳川家康の学問・儒学と紅葉山文庫…揖斐 高          参考文献
三節 関ヶ原合戦の軍事的展開               徳川家康と本草学………………………宮本義己          あとがき
むすびに-関ヶ原合戦研究と幕藩体制論            徳川家康の武具…………………………宮崎隆旨          徳川家康略年譜
徳川家康と狩猟…………………………横山輝樹          事項索引
第三章 大坂の陣をめぐる諸問題 徳川家康の肖像…………………………松島 仁          人名索引
はじめに -問題提起として 〈第三章 芸能〉
一節 関ヶ原合戦後の秀頼と豊臣家の地位 徳川家康と能……………………………天野文雄
-「太閤様御置目の如く」 徳川家康と雅楽
二節 家康の将軍任官はどのような意味を持つか 元和元年二条城舞楽上覧の意味するもの…武内恵美子
三節 豊臣・徳川の東西分有による二重公儀体制 徳川家康と茶の湯………………………佐藤豊三
四節 大坂の陣はどのようにして起こったのか 徳川家康が生きた時代のいけ花
むすびに たて花、抛入、立花……………………小林善帆
徳川家康と囲碁・将棋…………………増川宏一
第四章 大名改易と転封 〔付録〕徳川家康略年譜・徳川家系図・家康花押・旗指物・家紋など
はじめに-改易の意味とその実行理由
一節 福島正則の改易事件
二節 肥後加藤家の改易事件
三節 大名の転封
むすびに
終章 歴史認識をめぐる方法的基準- 本書の結語として
1.根拠を明示しない言明は無効である
2.結果利益をの観点から原因を遡及推測する思考法の戒め
3.合理的根拠に基づく事実関係の解明
4.第一次史料の例外的取り扱い
5.「歴史の見方は人によって異なる」という言説の危険性
あとがき

528人間七七四年2016/11/08(火) 09:32:33.25ID:qQktmJc4
なんかエラー防ぐ為に文字詰めた所為で
改行が無茶苦茶になったから三冊で分けるか

「歴史の虚像を衝く」教育出版  2015年12月          
目次                       

まえがき                           

歴史書における年号表記の誤り                                       
はじめに                                           
諸事例年月日表記の虚実                                   
むすびに                                          

第二章 関ヶ原合戦をめぐる諸問題                            
はじめに                                                
一節 豊臣七将の石田三成襲撃事件-三成、家康屋敷に駆け込むの嘘                              
二節 関ヶ原合戦の歴史的意義                
三節 関ヶ原合戦の軍事的展開                      
むすびに-関ヶ原合戦研究と幕藩体制論                              

第三章 大坂の陣をめぐる諸問題               
はじめに -問題提起として
一節 関ヶ原合戦後の秀頼と豊臣家の地位-「太閤様御置目の如く」
二節 家康の将軍任官はどのような意味を持つか
三節 豊臣・徳川の東西分有による二重公儀体制
四節 大坂の陣はどのようにして起こったのか
むすびに

第四章 大名改易と転封
はじめに-改易の意味とその実行理由           
一節 福島正則の改易事件
二節 肥後加藤家の改易事件
三節 大名の転封
むすびに

終章 歴史認識をめぐる方法的基準- 本書の結語として
1.根拠を明示しない言明は無効である
2.結果利益をの観点から原因を遡及推測する思考法の戒め
3.合理的根拠に基づく事実関係の解明
4.第一次史料の例外的取り扱い
5.「歴史の見方は人によって異なる」という言説の危険性

あとがき

529人間七七四年2016/11/08(火) 09:35:22.75ID:qQktmJc4
「徳川家康 その政治と文化・芸能」宮帯出版社 2016年6月
目次

〈序章総論〉
徳川家康の統治原則……………………笠谷和比古

〈第一章 政治〉
三河大名としての徳川氏………………小宮山敏和

関ケ原合戦と大坂の陣…………………笠谷和比古

徳川家康と朝廷……………………………野村 玄

「御三家」の成立と家康の戦略……………白根孝胤

徳川家康の兄弟姉妹とその血縁関係― 家康の姉妹を中心に……………………門脇朋裕

〈第二章 文化・外交〉
徳川家康の外交 ― 外国の史料に見る家康像………………………… フレデリック・クレインス

徳川家康の学問・儒学と紅葉山文庫……揖斐 高

徳川家康と本草学…………………………宮本義己

徳川家康の武具……………………………宮崎隆旨

徳川家康と狩猟……………………………横山輝樹

徳川家康の肖像……………………………松島 仁

〈第三章 芸能〉
徳川家康と能………………………………天野文雄

徳川家康と雅楽― 元和元年二条城舞楽上覧の意味するもの…武内恵美子

徳川家康と茶の湯…………………………佐藤豊三

徳川家康が生きた時代のいけ花- たて花、抛入、立花…………………………小林善帆

徳川家康と囲碁・将棋……………………増川宏一

〔付録〕徳川家康略年譜・徳川家系図・家康花押・旗指物・家紋など

530人間七七四年2016/11/08(火) 09:37:39.77ID:qQktmJc4
「徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助けべし」ミネルヴァ書房 2016年12月予定
目次

はじめに

第一章 家康の誕生と幼少時代

第二章 桶狭間の戦いと松平家の独立

第三章 織田・徳川同盟

第四章 豊臣政権への帰順

第五章 関東移封と江戸入部

第六章 豊臣政権の分裂と秀吉の死

第七章 関ヶ原合戦

第八章 徳川幕府の成立

第九章 大坂の陣と徳川幕藩体制の確立

終 章 家康の政治と文化

参考文献

あとがき

徳川家康略年譜

事項索引

人名索引

531人間七七四年2016/11/08(火) 18:29:50.02ID:OL0QFbyS
ミネルヴァ書房の本の副題のわれ一人腹を切て、万民を助けべしって、
何か元ネタになる史料とか逸話ってあるの?

532人間七七四年2016/11/09(水) 10:03:26.87ID:x3dmQvOX
ミネルヴァの副題は本の最初に出典を書くから読んでみればわかる

533人間七七四年2016/11/10(木) 20:52:54.73ID:vbAGribS
>>528
終章の内容が気になるな

534人間七七四年2016/11/12(土) 08:31:57.22ID:EahFoBFd
>>528
笠谷が福島と加藤の改易は幕府の陰謀ではなく自滅だって
言っていたとか言うのはこの本かな

535人間七七四年2016/11/12(土) 08:47:32.52ID:pJKD4En8
>>534
おいおい、それは笠谷氏の論文「徳川幕府の大名改易政策を巡る一考察」に出てくる話だろ。
1991年に発表されたものだぞ。

536人間七七四年2016/11/12(土) 16:54:13.36ID:swbh+xqq
ずっと昔に書いた論文で幕府の謀略説を否定したのだけれど、
一般の認識としてはほとんど改まってるようには見えないので、
この本で、歴史の虚像の一例として取り上げたのだろうよ。

537人間七七四年2016/11/13(日) 20:46:58.25ID:YM+SKMbr
白峰旬も福島正則の改易事件について論文書いているみたいだけど
どんな内容なのかなぁ
ネットでググったが収録されてる本が高くて困る

538人間七七四年2016/11/15(火) 00:35:16.86ID:PDBKAzW+
白峰ははなばなしく登場したけれど、結局、問い鉄砲虚妄論も小山評定虚構論も、みんなつぶれてしまったな。

539人間七七四年2016/11/15(火) 08:37:46.48ID:2OH9rg98
白峰氏の説は一見すると面白いものの論理の飛躍が激しくて検証が雑だからなぁ。
関ヶ原は史料が多いんだから、もっとキチンと掘り下げてから発表すりゃ良いのだろうが…そうすると自分で自分の説を否定しちゅう?

540人間七七四年2016/11/15(火) 09:27:09.29ID:wo9v7K/z
軍記否定は高二病

541人間七七四年2016/11/15(火) 21:25:39.13ID:JwQzd9ty
>>538
基本的な根拠が一次史料が無いだけじゃなぁ

542人間七七四年2016/11/15(火) 23:36:56.12ID:Mw9+0pP7
事件に近い時代の史料に書かれていないから嘘だという論法だけど、
事件から間を置いてからいろいろ明らかになって集まってくる情報だってあるんだから、
事件から時間の経った史料に書かれている事はすべて作り話という決めつけが誤りの元。

543人間七七四年2016/11/16(水) 21:41:02.79ID:Oz0wAzMJ
小山評定の否定は白峰が目立っているけど
そもそも書状の日付等に疑問を見いだしたのは
光成準治で白峰はそれを松平史観の否定に拘るあまり
間違った方向に飛躍的解釈しただけじゃ無いの

544人間七七四年2016/11/17(木) 07:39:31.41ID:miPFY2W9
小山評定のすれがなかったか

545人間七七四年2016/11/18(金) 21:45:53.20ID:b/1QhSyr
>538-539
諦めてはいない印象だけどね

546人間七七四年2016/11/20(日) 21:10:25.39ID:ZRmEQ+Ns
>>545
あきらめなくても反論材料が無い。
悪あがきというもの

547人間七七四年2016/11/20(日) 21:15:03.40ID:k1t3pHM7
あっさり肯定しちゃったらせっかくの自分の論文が無意味なものなっちゃうもの
なかなか認めないわな

548人間七七四年2016/11/20(日) 22:15:45.47ID:nETzHpZa
認めないと言ってもなぁ…。

例えば小山の話はとっかかりの主張をガッツリ崩されてしまったからね。
もう一度キチンとした根拠を構築しないとどうしようもないですな。

549人間七七四年2016/11/21(月) 02:48:27.33ID:a4+I5nIy
どうこねくりまわしても小山の評定が無かったというような議論は成り立たない。
むしろ、あったことを裏付ける事実が相次いで出されている。

550人間七七四年2016/11/21(月) 08:34:08.60ID:AvMq/Uq1
アンチ活動はほかでやれよ

551人間七七四年2016/11/21(月) 21:43:27.19ID:z6TLnbqg
>>530
この本の中で笠谷は小山評定や二重公儀論
方広寺の鐘銘の件や冬の陣の勝敗、
大坂城の惣堀埋め立てとかどう書いたのか楽しみだ

552人間七七四年2016/11/22(火) 02:19:23.75ID:1P7VfZ9+
やはり大坂の陣が最大の難関だろうな。
家康の悪役、狸おやじイメージを作ってるのは、何と言っても大坂の陣。
どう描いているのか、それは楽しみではある。

553人間七七四年2016/11/23(水) 21:59:14.77ID:IOz8ISTS
>>550
お前はアンチという言葉を履き違えている

554人間七七四年2016/11/26(土) 11:33:32.13ID:MBlth1Bo
笠谷氏の『徳川家康』というのは、いつ出るの?

555人間七七四年2016/11/30(水) 00:45:10.43ID:0vHdKsCv
12月中だろう。家康没後400年の最後の最後。
それにしても家康イヤーのはずだのに、真田丸に振り回された感じ。

556人間七七四年2016/12/08(木) 23:07:46.84ID:TiUOJf29
マダーっ ?

557人間七七四年2016/12/10(土) 15:50:29.12ID:oBAbB2kr
Amazon見るともう発売しているみたいだけどね

558人間七七四年2016/12/11(日) 04:09:39.09ID:o9dzx+wm
書店に並ぶのは来週以降かと

559人間七七四年2016/12/21(水) 19:01:48.69ID:OlecBN3C
「徳川家康」は一体、どうなった。討ち死とか(笑)

560人間七七四年2016/12/22(木) 22:08:19.71ID:g/cX3YGz
一月に発売延期になってるね

561人間七七四年2016/12/25(日) 21:15:11.75ID:jcsnB5O6
家康イヤーが終わってしまう・・

562人間七七四年2016/12/26(月) 00:16:02.67ID:O3A8MsYu
関ヶ原直後
・豊臣4:6家康

家康将軍任官
・豊臣3:7家康

大坂の陣直前
・豊臣2:8家康秀忠

家康死後
・豊臣?:?秀忠

朝廷、諸侯に対する影響力はこれくらい差があったんじゃない
徳川が豊臣を上回った関ヶ原後から徳川政権と言っていいけど
豊臣も旧主家として幾ばくかの影響力を行使していた
家康は0:10にして死なないと秀忠時代にもう一波乱あると考えたから
たいして影響力のない豊臣を潰しにかかったんじゃないの?
一大名に落とすか滅亡さすかは冬の陣まで決めかねていたかもしれないが

563人間七七四年2016/12/26(月) 00:51:49.33ID:OA6oax/N
時間が経てば経つほど秀吉の記憶が薄れていくので秀頼自身に何らかの事績がなければ
家康が死んだからといって豊臣に擦り寄る大名が増えるとは思わん

564人間七七四年2016/12/27(火) 03:07:52.23ID:Kgz/8x/i
秀忠ではねぇ。徳川の中でもついていかない奴が続出ではないの。
松平忠輝とか、松平忠直とか、忠輝に連動する伊達政宗とか。

豊臣よりも徳川の方に波乱要因満載といった印象。

565人間七七四年2016/12/27(火) 10:01:30.44ID:NLl/9hnv
秀忠無能論だが、結果は見ればご存知の通り、果断な将軍

566人間七七四年2016/12/27(火) 12:35:01.27ID:wMqAlLGD
秀忠だと波乱ですむが、秀頼なら崩壊だろ
どちらがベターかは一目瞭然

567人間七七四年2016/12/27(火) 13:09:16.23ID:1OD2WGt7
果断というか短気なだけだと思うが

568人間七七四年2016/12/27(火) 13:23:35.28ID:PL6fm/NQ
忠輝や忠直なんかが反乱起こしたって何の正統性もない上に秀忠より年少だからろくな実績がないし
両者とも家康生前に家中で騒動起きてるから能力的にも疑問符を付けざるをえない

569人間七七四年2016/12/27(火) 16:33:55.69ID:RC6LkNd6
御輿にはなるんでね

570人間七七四年2016/12/27(火) 16:57:51.73ID:PL6fm/NQ
担ぎ手が揉めた結果が家中騒動だぞ
忠輝なんかは担ぎ手に放り出されそうになっている

571人間七七四年2016/12/28(水) 02:26:08.65ID:mFEWlrnI
大久保忠隣なんてのもいる。
これは謀反をたくらんで、密告で粛清されている。
家康と秀忠と、両方とも始末しようと企てていたらしい。
豊臣には少なくとも、そんな危険分子は見当たらない。

572人間七七四年2016/12/28(水) 02:39:22.08ID:yVkLarIb
伊達政宗なら100%やるだろう。
家康か死んだら、松平忠輝かついでクーデター。秀忠を失脚(殺害)させて二代将軍に擁立するだろうよ。
それが見えてるから、家康も忠輝の排除に踏み切らざるをえなかったということ

573人間七七四年2016/12/28(水) 08:24:34.05ID:q/zeb8Si
豊臣に危険分子一杯いるじゃん。
大野暗殺しようとしたり、堺焼き討ちしたり……
そもそも浪人連中が危険分子だろ。あいつらのせいで豊臣滅亡じゃねーか。
徳川の危険分子とやらは(危険とは思わんが)反乱すら起こしてねーじゃん。
比較にもならないね。

574人間七七四年2016/12/28(水) 12:17:59.29ID:YAJsBwJm
豊臣の中には秀頼に対して謀叛を企てるようなヤカラは見当たらない。
最後まで秀頼と共に殉じたような侍たちばかり
徳川とはその点で大違い

575人間七七四年2016/12/28(水) 12:28:12.22ID:t2ZMya7A
大久保忠隣が謀反を企てるなんて話有ったか?
家康と秀忠の暗殺を目論んでいたなら処罰が改易と他家預かりで済まされるわけ無いだろ

576人間七七四年2017/01/01(日) 22:00:51.19ID:ubRKYdKn
なんだかんだで結局孫が小田原城主に復帰してるしね
大久保長安の息子は全員切腹させられて断絶してるけど

577人間七七四年2017/01/01(日) 23:32:55.03ID:zJOyyIHw
>>574
豊臣に対して謀反を企てた西軍首謀者連中を家康が討伐したのが大きいな
豊臣は家康に感謝しても仕切れないだろう

578人間七七四年2017/01/04(水) 14:34:23.38ID:Nf6E1TEK
本多正純もそう。秀忠暗殺未遂  
         

579人間七七四年2017/01/04(水) 18:32:12.84ID:N4ySqPjj
宇都宮城釣天井事件は秀忠の在世中に濡れ衣だと判明している

580人間七七四年2017/01/09(月) 00:23:16.17ID:vASHJFjU
濡れ衣でも、秀忠が密告を信じて宇都宮城の宿泊を避けたのは事実。
そしてその直後に、正純が改易されたのも事実だから。

581人間七七四年2017/01/09(月) 05:38:53.29ID:FuXYYPvl
その程度の危険分子なら豊臣政権でも掃いて捨てるほど居る
実質ただの内紛だからな

582人間七七四年2017/01/09(月) 10:52:00.87ID:ptELm2/p
いないだろう豊臣には、家臣が主君の暗殺をを企てたなんて話は聞いたことがない。

583人間七七四年2017/01/09(月) 12:38:16.78ID:FuXYYPvl
宇都宮城釣天井事件は濡れ衣だし大久保忠隣も政敵による讒言の類だろう
徳川家との内通を疑われて放逐された片桐且元や冬の陣の後襲撃された大野治長とかわらん

584人間七七四年2017/01/09(月) 13:31:36.51ID:CQDWRxjE
>>583
忠隣は無断婚姻が原因

585人間七七四年2017/01/09(月) 13:34:34.86ID:CQDWRxjE
後、正純の改易は福島正則改易に反対したことや、一度は受けた宇都宮の加増を返上しようとしたため

586人間七七四年2017/01/10(火) 00:27:24.18ID:ij65Sw8v
>>584,585
忠隣の改易は、家康に対する謀叛の密告を受けてのもの。

正純の改易は、秀忠の宿所に予定されていた宇都宮城内の御殿の作りに不審あり(釣り天井ではないけど)という密告を受けてのもの。

家康や秀忠は、これらの密告を受けて、小田原城や宇都宮城に立ち寄るのを取りやめている。

仮に濡れ衣だったとしても、こんな話を真に受けるというところに問題がある。

587人間七七四年2017/01/10(火) 08:51:00.60ID:Qq6a1FLr
>>586
それは俗説

588人間七七四年2017/01/11(水) 00:35:55.69ID:nLflIITT
大久保彦左衛門は『三河物語』の中で、大久保忠隣の失脚について、大久保一族が徳川家に謀叛など働くはすがない、讒言による陥れだと力説している。
つまり、大久保忠隣の失脚は、謀反の嫌疑だったということ。

589人間七七四年2017/01/11(水) 08:25:28.41ID:pFH+Dm14
>>588
この場合は、謀反と言っても幕府の决定に逆らったこと

590人間七七四年2017/01/11(水) 16:49:32.68ID:dl+NuG/8
結局>>564の言うような秀頼の豊臣家より秀忠の徳川家が危険ってことはないんだよな
謀反の嫌疑を受けた連中でも従容として罪に服しているし
むしろ家中の過激派を抑えられず大坂の陣のきっかけを作ってしまった秀頼の方こそ問題がある

591人間七七四年2017/01/11(水) 20:52:31.32ID:8sqkDf/1
豊臣摂関家として、存続続ければ問題ない。
結局武家であり、摂関家であると中途半端が
滅ぼしたんだね。豊臣政権を徳川政権に渡し、
豊臣秀頼関白家として、公家化すれば良いんだよ。将軍家は徳川。公家は豊臣家。将軍より、
関白が上だから。豊臣家は上位で、大名でないから、改易問題も起こらない。

592人間七七四年2017/01/13(金) 11:14:35.34ID:9Z7sUc4O
そもそも将軍より関白が上というのが間違い
令外の官だから時代によって変わるんだよ
江戸時代なんかは完全に関白より将軍の方が上

593人間七七四年2017/01/14(土) 03:26:45.99ID:fM1EfaqZ
>>592
江戸時代で見るから、征夷大将軍が圧倒的という印象になる。
家康以降、将軍をインフレートとさせた。
家康までは将軍というのは、関白よりはるかに低い職位だった。

594人間七七四年2017/01/15(日) 23:24:02.42ID:O21yT6kr
江戸より前に日本国王を名乗った将軍がいるのに

595人間七七四年2017/01/16(月) 20:17:08.54ID:WhHczS3Y
>>594
将軍だから名乗ったのではなくて、太政大臣あたりになってから名乗ってる。
征夷大将軍というのは五位相当なんだって。関白とは雲泥の差

596人間七七四年2017/01/17(火) 13:16:25.63ID:1PZE5FW0
豊臣家は関ヶ原以降、諸大名に対する指示や動員はしなかったでしょ?
徳川家康はあちこちに城をつくり、諸大名を動員したけど。
したがって二重公儀は言い過ぎ

597人間七七四年2017/01/17(火) 17:26:38.85ID:Ejwf/GaN
>>530の徳川家康って結局発売されたの?

598人間七七四年2017/01/18(水) 04:49:31.71ID:p54XW1rM
『徳川家康』出たね!

599人間七七四年2017/01/18(水) 12:18:46.42ID:Mkyx36aN
>>596
家康は全国の大名を支配しているけれど、それらに対して領地朱印状を出せていない。
また、それらに対して幕府の名前による法令というものを発布できてない。

600人間七七四年2017/01/18(水) 12:36:53.83ID:eb8nQGak
>>599
加藤貞泰が慶長15年に米子へ転封した時は、朱印状自体は残っていないが、
江戸年寄連署に「猶以、御朱印之儀者、重而可被遣旨に御座候、以上」とある

後は、西国大名一円に大船を献上させているね

601人間七七四年2017/01/18(水) 22:03:28.53ID:/g/fAUkR
>>596
家康が諸大名を動員していたのは豊臣公儀大老の立場でも
あったからだろ
少なくとも将軍になる前に天下普請で二条城作っているが
あれは形式的には秀頼の築城となる

602人間七七四年2017/01/23(月) 20:35:30.81ID:228JrnE+
笠谷氏はこんどの『徳川家康』でも、二重公儀体制の理論を使って、苦渋の末に大坂の陣を決断する家康の苦悩を描いているね。
やはり二重公儀論を入れないと、大坂の陣の理由は解けないのかも知れない。

603人間七七四年2017/01/23(月) 20:56:22.60ID:vuRwEpq6
笠谷氏の二重公儀論に対して
渡邊大門は大坂の陣まででは無く
慶長八年から長くて十年くらいって
主張しているんだっけ

604人間七七四年2017/01/23(月) 21:07:47.23ID:HGhBPi5n
>>602
そういう整然とした論理の帰結ではなく、ひたすらグダグダ展開というのが大坂の陣の開戦理由なのだが

605人間七七四年2017/01/23(月) 21:47:30.56ID:M+X/tuZn
まあ、理由が一つだけの訳はないが
それでは論として散漫になっちうからな

606人間七七四年2017/01/24(火) 11:50:08.39ID:AIbArBKT
>>604
グダグタでは訳が分からん(笑)

607人間七七四年2017/01/24(火) 12:45:18.37ID:AcD54Aak
>>606
家康が企図して大坂の陣を起こしたのではなく、且元の私案に激発した豊臣家が、
且元が徳川に両属という認識をせぬまま追放にした過程を指す

608人間七七四年2017/01/24(火) 23:16:32.34ID:QUW5MzQq
それを家康が企図して大坂の陣を起こしたという

609人間七七四年2017/01/24(火) 23:27:57.08ID:hVar9vU6
>>607
それは戦争の口実作りの話じゃね

610人間七七四年2017/01/25(水) 12:30:42.22ID:1iQK/Izw
国交断絶の次に来るのは戦争ちゅうだけ

611人間七七四年2017/01/25(水) 13:15:25.10ID:xRJrJdpq
>>601
そういうわけのわかんないこと言ってても話にならないから

612人間七七四年2017/01/25(水) 21:58:21.83ID:w/Wn2nSI
>>611
どうわけがわからんのか説明してもらおう
100万歩譲っても1603年以前は家康の立場は豊臣公儀大老
秀頼の代理者でしかない
だから家康がやる事は形式的には秀頼がやること

613人間七七四年2017/01/25(水) 22:01:14.31ID:xRJrJdpq
>>612
だからお前は!
“何も判って居ない”というのだよー
解るか?
雑魚やろーが!

614人間七七四年2017/01/25(水) 22:03:16.50ID:w/Wn2nSI
なんの説明にもなっていないようなのでNGな

615人間七七四年2017/01/31(火) 09:22:24.62ID:mTc1U8MS
age

616人間七七四年2017/01/31(火) 09:25:05.94ID:MtUxG8OU

617人間七七四年2017/01/31(火) 21:05:44.32ID:pBcdLSq8
>>613
知ったかぶりも程々にな

618人間七七四年2017/01/31(火) 22:56:57.38ID:K+51zgMA
二重公議政体論

619人間七七四年2017/02/05(日) 22:59:18.27ID:Cky+9mgh
二重公儀論に反対する連中の大坂陣の説明というのはとても薄っぺらな印象

620人間七七四年2017/02/05(日) 23:43:32.16ID:KJifTGTt
はぁ

621人間七七四年2017/02/06(月) 19:46:56.42ID:XE18zK+d
グダグダ・・(笑)

622人間七七四年2017/02/10(金) 00:19:36.39ID:IK7rVuJq
age

623人間七七四年2017/02/11(土) 22:29:36.76ID:Mw8l20be
アンチ完沈・・

624人間七七四年2017/10/15(日) 11:06:38.08ID:fXiox6D2
こんにちは

625人間七七四年2018/01/26(金) 00:02:27.86ID:UK9gPP+z
こんばんは

626人間七七四年2018/05/06(日) 19:54:37.49ID:MRUfz6Y6
「(慶長十一年)二月廿五日付江戸城公儀普請奉行連署状」について
: 笠谷和比古氏の学説・二重公儀体制論に関する新出史料の紹介 / 白峰 旬
史学論叢 (47), 138-153, 2017-03
別府大学史学研究会

627人間七七四年2018/10/13(土) 09:51:35.85ID:FcwwVdpt
>>1
真偽はともかく、豊臣家の力を家康が侮っていなかったのは事実。
だからこそ、江戸〜京都まで親藩、譜代で固め、西に池田輝政、
南に浅野幸長という豊臣秀頼の不倶戴天の仇敵を置いた。

それは、豊臣家が他と結びついたら恐ろしいと認識していた証拠。
特に池田輝政は、豊臣家と西国大名間の結びつきの邪魔を十二分に
果したし、豊臣家と対峙するための居城(姫路城)を築いた。

628人間七七四年2018/10/14(日) 01:05:42.04ID:hNXeyZZb
実際に家康は諸大名の加増等を行う際、秀吉の朱印状を持っている家に
対しては且元を通じて秀頼の追認をもらうのは怠らなかったはず
これは二重公儀どころか、家康の権限の根幹が依然として豊臣家にあったことを
示しているのだけど

629人間七七四年2018/10/14(日) 08:56:30.56ID:CxY6LLRc
>>628
初耳なのだが
後、且元は徳川家の国奉行でもあるので、その辺の区別をする必要があるのに、
且元の署名=秀頼の事業となってる件が多すぎる

630人間七七四年2018/10/14(日) 13:49:48.72ID:UAwGuvQM
関ヶ原以降は分かりやすく言えば
家康が徳川の王様と豊臣の総理大臣を兼務している状態だからね
秀頼は豊臣家の王様であっても、組織としての豊臣の経営権はあくまで家康が持ったままだ
だから別に南北朝みたいに分裂しているわけではなく
どちらの権限も家康が支配しているから統一は保たれている

豊臣の方は要らないから廃業したい家康と豊臣の権限を家康から取り戻したい淀・秀頼が喧嘩すれば
それが大坂の陣になるというだけの話だ

631人間七七四年2018/10/14(日) 20:01:37.32ID:jUcSXgpu
>>629
わける意味がない
もともとの徳川領ならまだしも関ヶ原以降の徳川の権力は太閤遺命によるものだし

632人間七七四年2018/10/14(日) 20:11:30.27ID:jUcSXgpu
>>629
>後、且元は徳川家の国奉行でもあるので、その辺の区別をする必要があるのに

上のカキコはこの事に関してのことな
関ヶ原以降の徳川領とされるものは元々の240万石以外は借りているもの、というのが建前だから且元は徳川の人間というのはのちの結果を知っている人間の認識に過ぎない

633人間七七四年2018/10/14(日) 23:20:12.76ID:UAwGuvQM
徳川に限らず関ヶ原以降の東軍領地は借りているものじゃなくて
謀反を鎮圧した恩賞として貰った物だよ
建前だろうが何だろうが借りているものだなんて口が裂けても言ってはいけない
日本の大多数を支配する東軍大名に向かって、お前の領地は借り物だ・返す義務があるだなんて
八つ裂きにして妻子もろとも皆殺しにしてくださいと言っているようなものだ
だから豊臣家も関ヶ原での領地配分には一切の文句を言っていない

借りているものというのが建前だなんて、それこそ後世の人間が好き勝手に言える妄言でしかない

634人間七七四年2018/10/15(月) 00:56:34.97ID:3xLvVibb
東軍大名の加増、加増転封については改易大名の空きを埋める恩賞
太閤蔵入地に関してはいくつかの大名預かり分に関しては関ケ原以後も存続している
つまりよくわかっていないということ

豊臣家が持っていた商業都市からの収入とか貿易収入、鉱山については
家康が天下の政の費用捻出のため預かっている建前
よく教科書などには豊臣家が減封を受けて家康から「処罰」されたなどと書いているけど
引継ぎの際の史料を見る限り、そんな認識を持っている奴は当時いない 
結果、家康が返還せずに横領した。だからそのまま徳川支配になったなどと後の時代の
人間が書いているだけ
東軍大名の加増も秀頼からの加増だけど、これも史実を知っている後世の人間が家康が
加増したと書いているだけ

635人間七七四年2018/10/15(月) 08:02:43.12ID:V3JvZkxt
二重公儀の根拠が建前しかないことを示すレスだな

636人間七七四年2018/10/21(日) 07:06:38.81ID:vaUgSjZH
渡邊大門も二重公儀を認めるにしてもせいぜい慶長八年から長くても慶長十年くらいまでと書いてるしな

637人間七七四年2018/10/21(日) 08:11:32.54ID:Y3l9Xl73
>>634
それって東軍大名が関ヶ原で貰った領地が自分のものだと確定させたいなら
秀頼を殺して豊臣を滅ぼせといっているようなものだな
確かに大坂の陣でどの大名も秀頼を味方しないはずだよ
秀頼は自分たちの財産の所有権を危うくさせる危険因子でしかない

豊臣を滅ぼした家康はけしからんと後の時代の人間が書いているだけで
日本の大多数を支配する東軍大名は、よく秀頼を殺してくれたと安堵していたというのが実情だろうね

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