【まったり】元亀争乱の雑談スレ【ifあり】

1人間七七四年2017/10/19(木) 12:38:52.81ID:E5chVn35
ルール
〇荒らしの「〜ねぇ」は立ち入り禁止。1匹出ると100匹出るのでさわるのも禁止

〇この時期の畿内全般の話もあり

〇ifは所詮結論は出ないので押し付けはやめましょう

〇まったりまったりが大事

2人間七七四年2017/10/19(木) 12:43:17.22ID:Xy6gp/96
移動してきました
元亀争乱って始まりは金ヶ崎の戦いでいいのかな?

3人間七七四年2017/10/19(木) 12:48:31.86ID:E5chVn35
まったりやって行きましょう
ピークはやっぱり信玄の西上でいいのかな?
志賀の陣の方が滅亡の危機みたいな切迫感はあるけど

4人間七七四年2017/10/19(木) 12:58:11.94ID:KglzWl79
>>2
それで良いかと
あれもいまいち真相が不明な戦いではありますなぁ
けど兵数的には織田が圧倒的していたし浅井の兵数で足りるのでしょうか?

5人間七七四年2017/10/19(木) 13:11:44.97ID:Xy6gp/96
>>4
上手くいけば大軍の利がきく狭い場所で挟み撃ちだしどうしょうもないと思う
急な出撃で兵がちゃんと集まっていたなら

6人間七七四年2017/10/19(木) 13:39:46.21ID:6nQTIESE
あちらだと荒れそうで聞けないけど武田の西上の時の織田の兵数ってどれくらいですか?
ウイキだと7月の浅井攻めでも5万だし3万は少なすぎだと思うんですけれども

7人間七七四年2017/10/19(木) 14:37:49.87ID:Xy6gp/96
ちょうど武田の倍の石高で守る側だし7〜8万くらいはトータルでいくんじゃないの?
配置しなくちゃいけない場所が多いので岐阜にどれくらい集められるかはわからないけど

8人間七七四年2017/10/19(木) 23:01:11.75ID:UcAdDo7n
領国は、美濃、尾張、近江、伊勢だけど、
近江と伊勢は混乱してるから集められないだろうなぁ

9人間七七四年2017/10/19(木) 23:12:25.26ID:9Cnxmv7D
>>8
伊勢は長島がおらついてるのはいつものことだし2月末には滋賀郡も平定してるしね
このちょっと後の槇島城攻めでは誇張があるにしろ7万集めてるんだから志賀の陣の時とかに比べればピンチ度は低い気がするけどね

10人間七七四年2017/10/19(木) 23:21:26.14ID:Xy6gp/96
包囲網側が勝つには手札がもう1枚ほしいんだけど、義継と久秀が義昭についてまとまったはずの三好の影が異常に薄いよね
三好三人衆とか岩成以外どこにいってしまったのか?

11人間七七四年2017/10/20(金) 03:42:20.56ID:VD7boU4e
織田の動員もいいんだけど、あくまでも徳川VS武田だと思ってる
信玄死ななかったら本当は織田と直接対決する説ととりあえず東海方面を切り取るだけ説があるからね

12人間七七四年2017/10/20(金) 04:38:48.09ID:MXIW5VUw
徳川は結構早い段階で掛川の小城は落としてるんだよな
もちろん士気向上はあるにしろ
まあ武田が東濃に入るのか三河に行くのかで対応は全然違う

13人間七七四年2017/10/20(金) 11:52:29.88ID:fWF57hv6
>>11
俺も織田に一撃かまして浜松城を囲んでも援兵を送れない形にして返す刀で遠江、三河を切り取るって形だと思うわ
流石に岐阜にたどり着くためには時間を遠江でかけすぎだと思うし

14人間七七四年2017/10/20(金) 12:31:54.03ID:JkI3jKnc
武田的には徳川削れるだけ削って自国領にする方がいいよな
織田との戦いもその方がやりやすいし、織田も東方を常に警戒しなきゃならなくなるから制圧ペースが鈍るんじゃないのかな

15人間七七四年2017/10/20(金) 13:36:37.56ID:ytkhTGXf
>>13
遠州で時間かけ過ぎたっていうより、二俣城を落とすのに予想外に時間が
かかり過ぎたってとこでは?
信玄が健康なら尾張までは間違いなく進んだと思うけどなあ

16人間七七四年2017/10/20(金) 13:58:06.62ID:23vsnKMo
もし勝頼が「信玄の死を隠して、このまま徳川領を削れるだけ削る」と主張してたら、重臣は不承知かな?

17人間七七四年2017/10/20(金) 14:17:19.17ID:fWF57hv6
>>15
浜松落としたならともかくまだいくらかの徳川軍が動けるのに尾張に進んだら前後から挟み撃ちだしいくら何でもリスク高すぎない?
織田が武田と同数で尾張に出てきたとして長篠城との兵坦を徳川に切られたら敵地で孤立するし

18人間七七四年2017/10/20(金) 14:24:45.26ID:fWF57hv6
>>16
甲府に戻ってすぐの内藤と勝頼の起請文のやり取りがかなりアレだし難しいんじゃないかなぁ
そもそも日本の中世の軍隊は総大将の大名が死んでも何事もなく活動できる形態にはなってないと思うわ
特に勝頼はなんら実権を譲られていたわけじゃないし

19人間七七四年2017/10/20(金) 14:35:23.07ID:MXIW5VUw
信玄は三河での活動を継続するのか東濃の方に矛先を向けるのかがまず問題だよね
あと鴨川氏の著書には越中の一向一揆のテコ入れを信玄が考えていて本願寺に三河・遠江での活動を継続するよう依頼したって話があったし朝倉の撤退で遠征継続の意欲が薄れていた可能性もないわけじゃない

20人間七七四年2017/10/20(金) 14:36:53.12ID:MXIW5VUw
>>19
越中のテコ入れを考えている信玄に本願寺が三河・遠江での活動を継続するよう依頼したの間違いでした

21人間七七四年2017/10/20(金) 16:16:33.79ID:4Q4k89H4
武田的には今回の作戦の成功と失敗の境界線はどこにあるのだろう?
まさか岐阜城まで落とさないと失敗ってわけではないだろうし。

22人間七七四年2017/10/20(金) 16:58:57.35ID:8RxSFFHE
織田を敵国にしちゃった以上、短期決戦で濃尾を攻め取る(できれば信長を殺す)か、徳川領を併呑して対織田長期戦体制を整えるかできなきゃ、結局は失敗じゃないかな?どちらもできなかった史実は「織田を怒らせた」だけの最悪の結果だった。

23人間七七四年2017/10/20(金) 17:55:57.08ID:0yo8md+2
徳川を滅ぼす(事ができたとして)にしても、それで撤退したら、「武田結局自分のことしか考えてないじゃん」って不信が包囲網側に広がって、包囲網が武田の意図とは別の方向に行くんじゃない?
丁度謙信が北条と和睦した事で信用を失って佐竹が台頭したように

24人間七七四年2017/10/20(金) 19:15:33.72ID:rEu2W0fn
凄いそもそもの話しになっちゃうんだけど、三方ヶ原で家康が釣られなかったら信玄はどうしていたんだろう?
確かに三方ヶ原は信玄の会心譜で流石信玄とは思うけど、家康が釣られてくれたから出来た戦いでもあるじゃん
もし当初の信長や家臣の忠告通り浜松に籠城していたらそのまま素通りして野田城まで行くのかしら?

25人間七七四年2017/10/20(金) 20:53:16.34ID:nKpuZJp+
>>24
浜松城に付城作って家康の動きを封じて徳川領の国人に対し調略を大々的にやりそう。対浅井の時の信長のように。

26人間七七四年2017/10/20(金) 21:35:12.98ID:rEu2W0fn
>>25
普通そうだと思うんだけど三方ヶ原勝った後やらなかったからな〜
勝った後なら尚更有効なのに
正直三方ヶ原の前から何か信玄にとって誤算な事があったような気がする

27人間七七四年2017/10/20(金) 22:07:28.30ID:nKpuZJp+
>>26
家康の脅威が半減したことによる後方の安全確保が図れたこと、信玄の体調の悪化、浅井・朝倉の信長に対する抵抗力の低下への懸念、信玄と信長の国力の差や長期遠征による補給等の問題から一気に尾張まで攻め込んで信長との決戦を急いだのかもね。

28人間七七四年2017/10/20(金) 23:02:10.33ID:Hprry/Fn
>>9
3月時点の二条城の戦いでは16000しか集まって無い様だけど?

29人間七七四年2017/10/20(金) 23:12:10.59ID:Hprry/Fn
足利や朝倉と連携とることが必勝の大前提だから、浜松や岡崎なんてどうでも良かったんだと思う。
朝倉との連携の再構築ができる前に発病して死んだから、いろいろ中途半端。

30人間七七四年2017/10/20(金) 23:33:27.58ID:IQ9xc/3l
野田城をダラダラ攻めてれば、岡崎で城攻めせずに、信康麾下の徳川三河衆や織田の援軍を誘い出して
野戦で叩ける−−という思惑だったのが失敗。折悪しく信玄も危篤になったから撤退、だったんかねぇ?

31人間七七四年2017/10/20(金) 23:36:03.36ID:CSRP+FXb
>>28
それは単純にまだ武田が長篠にいるから美濃・尾張からそんなに兵を引き抜けなかったんじゃないの?
地味に朝倉も敦賀に出てきているし
2週間くらい前の細川への書状に美濃・尾張の守りは固めてますから安心してくださいって書いて送っていたし
信玄の体調のこともわからんだろうしね

32人間七七四年2017/10/20(金) 23:47:43.72ID:P9QtCVMe
とりあえず信玄として美濃・尾張の織田の兵を各地に分散させてからが勝負っていうのは間違いない

33人間七七四年2017/10/20(金) 23:51:42.39ID:P9QtCVMe
ちなみに東濃に入っていくつか城を落として信玄が進むと美濃金山城であの鬼武蔵と愉快な仲間たちとぶつかるんだよね
あの宇佐山すら守りきった森一党だけに面白いカードになりそう(笑)

34人間七七四年2017/10/21(土) 01:44:23.59ID:cBMaej+R
伊勢は長島一向一揆もあるけれど、水面下では北畠がかなり危ない
近江は六角、浅井が敵で、水面下では朽木も危ない

元亀4年3月末の荒木村重の臣従までは、将軍が離反するわ、国人は寝返るわ、武将の討ち死には多いわの
織田家の勢力圏がどんどん縮小して、朝倉家とどっこいどっこいかそれ以下の下り坂だったと思う

35人間七七四年2017/10/21(土) 02:08:03.30ID:Fh+CNhbK
北畠の三瀬舘は1度行ったけど三重と和歌山の県境の凄い山奥に押し込められてて正直何か出来るようなとこじゃないわ。実際何も出来なかったし

湖西の朽木含む西佐々木七氏は足利将軍家との繋がりが強い地域で浅井・朝倉とも繋がりが強いからほぼ一貫して織田の敵だよね
湖西は清水山と新庄を押さえた磯野と坂本の明智、それに打下の林と堅田の猪飼野の水軍以外ほぼ敵じゃないかな
義昭としては挙兵したときに朝倉に湖西を通りがてら西佐々木七氏を引き連れて上洛してほしかったみたいだけど何故か上手くいかなかったな。信長の思った以上に早い上洛とそれが義昭の誤算だったと思うわ

36人間七七四年2017/10/21(土) 10:53:15.84ID:79TmAbGL
織田は志賀の陣辺りは一番ヤバかったけど比叡山を焼き討ちしたあと辺りからは順調に畿内の勢力は回復してるだろ
実際浅井領をかなり食いとって虎御前山砦まで進んでるし筒井を傘下に入れて裏切った松永にも大和では優勢に進めてる
三好の中でも松浦や安宅はそのまま織田についたし

37人間七七四年2017/10/21(土) 11:28:54.59ID:Z7f11ozn
元亀騒乱の発端IFだけど、金ヶ崎で浅井の敵対が判明した時に、織田方が湖北か湖西で踏みとどまって、
朝倉・浅井連合軍と決戦することは、統制取れた近代軍隊じゃないから、やはり不可能かね?

京都や湖南に戻らないと、浅井が湖東を南下して本国(美濃・尾張)との連絡線が遮断されるだろうし。

38人間七七四年2017/10/21(土) 11:38:16.97ID:AaTI/7c1
>>37
湖北だと前後に挟み撃ちだから無理かと

湖西に上手く軍を引ければ可能性はあるけど(そこで止まれば浅井も南下は出来ないし)、湖西の地侍は基本的に浅井と繋がりが強いし足下が危ういところで無理するくらいなら1度帰還して体勢を整えた方が良かったんじゃない?

39人間七七四年2017/10/21(土) 16:33:39.79ID:KgPgQ/a/
>>35
三瀬舘は三重と和歌山の県境では全くないし、
宮川の上流で伊勢支配の重要地点だということは玄人なら一目で見抜くんだけどね。
実際、文書発給は天正3年6月まで行われていたと織田政権研究者が認めている。

更に言えば、現地には三瀬坂峠が畿内から伊勢へ行く街道であるという
説明まであったけど、見落としたのかな?

40人間七七四年2017/10/21(土) 16:45:49.73ID:KgPgQ/a/
三瀬館を西に進むと伊勢南街道、三瀬館を南に進むと熊野古道。

41人間七七四年2017/10/21(土) 16:52:55.15ID:AaTI/7c1
やる夫のドリフターズで学ぶ最新の信長研究だと志賀の陣の叡山に陣取った朝倉との和睦が朝倉側から義昭に持ちかけて当初は信長が拒否してるんだけど、前は信長から泣き付いて和睦をまとめたみたいな話じゃなかったっけ?
「朝倉殿が天下を持ち給え〜」ってこの時の話だよね。
いつのまに話が変わったのかな?

42人間七七四年2017/10/21(土) 17:08:23.46ID:LSDrkorS
>>36
確かに安宅氏や筒井氏が元亀2年以降、ずっと織田傘下だったという研究者も昔は居たけれど、
阿波はどう見ても篠原長房率いる三好軍の制圧下で、安宅氏が織田傘下というのは無理がある。
筒井氏は歴史的に、ずっと反三好(特に反松永)、親足利勢力で、義昭との縁が深い。
織田傘下になったのは、足利義昭の敗勢が明らかになってからだろう。

43人間七七四年2017/10/21(土) 17:09:31.06ID:LSDrkorS
阿波というより淡路

44人間七七四年2017/10/22(日) 00:54:58.12ID:ASHbJYLt
>>42
織田と義昭が仲違いするまでは織田と義昭は不可分の関係だし義昭傘下であり織田傘下で問題ないと思う
あの足利織田連合政府に服属した領主は皆そんな感じだったし
実際に京都の政務からは距離を置こうとした信長に領地関係の安堵や訴訟の案件が次々に持ち込まれて信長が関わらざる得なくなってるし
まあこれは久野氏の本の受け売りだけどw

だだ筒井は松永との関係上織田の助力を欲した面も強く普通に織田から直接筒井に付け城を作るようにとか指令を受けてるからその度合いは強いと思う。
個人的には72年の5月に織田と筒井が一緒に多聞山城を囲んだのが決め手だと思うけど
もちろん仰る通り筒井はあくまで松永と戦う後ろ楯&本願寺とは関係が難しいという背景があるからそれ以外に積極的に兵を出すような強い繋がりとは思わないけどね
ただ織田としても大和の東が味方になり松永を抑えてくれるなら文句はないだろう
実際に筒井は松永を押し込んでいて久秀が大きく動けなかったのは間違いないし
73年に足利織田連合政府が崩壊して傘下にいた領主たちは選択を迫られるけど織田についたのが筒井や畠山で足利についたのが伊丹、旗色をはっきりさせる前に追い出されたのが和田って感じかな
細々なのはたくさんあるだろうけど

あと、安宅信康は72年の11月に信長が曽我に
「信康の件は義昭の話で問題ないと思うが難題であること。領知の件は信康の要請を容れてよいと考えている」
と通知しているから少なくとも三好方ではなく足利織田連合政府傘下だったんじゃないかな?
義昭と織田が別れたあとは知らないけど

45人間七七四年2017/10/22(日) 01:13:51.39ID:z8O65Pj6
筒井は松永と敵対していたから参陣でき、
伊丹は荒木と敵対していたから参陣できなかっただけで、
「織田」についたのが筒井、「足利」についたのが伊丹
と分析するのは難しいんじゃないかな
足利織田連合政府が崩壊した時点で信長より幕府の方が権威があったわけで。

46人間七七四年2017/10/22(日) 01:25:07.36ID:z8O65Pj6
あと、72年の5月に織田と筒井が一緒に多聞山城を囲んだことになってるけど、
多聞院日記は、元亀3年(1572)と4年(1573)の記事が混ざっているから、その時期の年代否定は要注意。

それから安宅神太郎は信康とは別人の可能性が高い。つまり安宅の当主かどうかわからない。

47人間七七四年2017/10/22(日) 02:43:48.09ID:ASHbJYLt
>>45
書き方が悪かったです
72年5月の段階はまだ足利織田連合政府が崩壊したわけではないと思っていますので筒井はその時は両属だと思います
ただ織田と筒井の繋がりが強くなった所という感じですかね

足利織田連合政府は複雑なので人により考えは違うとは思いますが個人的には9月の17条の意見書で大分危うくはなっていますが完全な崩壊は73年の2月の義昭挙兵だと思っています。
それまでは筒井は足利織田の両属。以降は松永がいる以上織田につくしかなかったと考えています。松永や岩成はその後討伐されていますが筒井は松永との交戦もありますし松永討伐の際には佐久間軍記ではありますが参加もしているようですし。
もちろん積極的に織田というよりは松永がいる以上という形でしょうが。

伊丹については信長と藤孝との書状でも立場が二転三転してよくわかりませんが寝返った荒木が討伐しているわけですから敵方だったのかなぁ、と

安宅信康については72年11月なので73年はないと思います。73年だと義昭云々にならんですから。
あと、72年11月でも義昭の側近の曽我と安宅信康の処遇について話していることから72年11月の段階では足利織田連合政府は存続していると思っています

48人間七七四年2017/10/22(日) 02:50:14.16ID:ASHbJYLt
あ、すいません。
多門院のは筒井を囲んだ方のことですね。勘違いした。
73年5月はそれこそ松永の多聞山を囲んでいるのはありえなくないですか?5月は佐和山で大船作っている時期ですよね?

安宅が別人の可能性が高いのは初めて聞きました。信康・清康で混乱があるのは知っていますが・・

49人間七七四年2017/10/22(日) 03:01:57.16ID:NAZ5TbjB
筒井は松永のおかげで織田と利害が一致した
まさに敵の敵は味方理論

50名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!2017/10/22(日) 10:37:43.69ID:O+aLbpd5
>>41 変わったというよりは元々、両軍とも手詰まりだったからこそ成立した和議だから、どっちも言えるのでは?朝倉は冬前に帰国したい。織田は、ヤケクソの連合軍に京へ雪崩込まれたら困る。

51人間七七四年2017/10/23(月) 16:27:41.53ID:4XfYv37q
>>50
織田も朝倉も手詰まりはわかりすが、朝倉と連携していたような三好と本願寺は何であんなにあっさり和睦に応じたんですかね?
朝倉にしてみれば梯子を外された、みたいな感じですけど

52人間七七四年2017/10/23(月) 21:53:23.42ID:OBko2a6/
>>48
多聞院日記は1573年の記事が完全に抜けていて、
1572年5月に織田の大軍が大和に到来したことになっている。

信長公記でも大和遠征は1572年となっているが、
信長公記は松永の投降が1573年正月と誤記されていて、
大和関連の記事が1年ずれている可能性が高い。

1573年4月、二条城の戦い
1573年5月、大和遠征(信長公記1572年、多聞院日記1572年)
1573年5月19日 織田信長、大和を退き美濃へ向かう。(信長公記1572年)
1573年5月22日 織田信長、近江国佐和山城へ寄り、「大船」建造を急ぐ。(信長公記1573年)
1573年7月 松永久秀が信長の江北出陣の隙を窺い山城出撃の風聞(多聞院日記1572年)
1573年8月 朝倉滅亡
1574年1月 松永投降 (信長公記1573年)

この流れのほうが自然。

53人間七七四年2017/10/23(月) 22:20:22.88ID:OBko2a6/
>>47
足利(和田、筒井)、三好(荒木)、松永陣営は1572年4月の河内騎西城の戦いの後には、
激しかった争いが急に無くなっており、足利織田連合政府は早い段階で崩壊していたようにも思う。

54人間七七四年2017/10/23(月) 22:38:17.00ID:OBko2a6/
>>47
安宅氏については謎が多い。
なんども阿波三好氏が畿内に進出していることから見て、淡路の安宅氏が独立できていた様子は見られない。
紀伊の安宅氏だろうか。
書状に年代は書かれていないから、1572年という比定も写本した人の勘違いの可能性がある。

織田と婚姻関係の畠山昭高はともかく、安宅氏が親織田というのは前後関係からみてほとんど信用できないと思う。

55人間七七四年2017/10/23(月) 22:53:58.15ID:OBko2a6/
1572年4月16日 佐久間信盛・柴田勝家・明智光秀・細川藤孝・三淵藤英・上野秀政・池田勝正・伊丹親興・和田惟長ら2万余の軍勢、
河州表へ出陣。松永久秀の軍勢を河内国河内郡騎西城を攻囲。〔『兼見卿記』一〕

ここに筒井氏の名は無い
筒井と織田の共闘は1573年5月からでは無いだろうか。

56人間七七四年2017/10/23(月) 23:50:32.98ID:LW8z9h8B
>>52
これだと筒井は義昭と信長が決裂したあとはずっと中立だったってこと?
あと松永と筒井は72年の後半も普通に小競り合いは幾度もしているみたいよ

57人間七七四年2017/10/24(火) 00:16:40.02ID:xkUKU1bW
ちょっと前のテレビで磯田さんって人が三方ヶ原の織田の援軍について1万5千くらいから2万を三河・尾張の各城に配置して何かあったら籠城出来るように守りを固めていたって古文書から見えるって語っていたよね
何で大して信憑性のない織田軍記とか明智軍記にしかない3,000説が通説になったのだろう?
一種の徳川史観?

58人間七七四年2017/10/24(火) 00:31:47.52ID:eCMbbVlO
1573年の義昭と信長の戦いの際、筒井の関与は不明。親織田とする理由は特に無い。

>松永と筒井は72年の後半も普通に小競り合いは幾度もしている
多聞院日記だとしたら1573年の後半のことと思われる。

59人間七七四年2017/10/26(木) 04:35:53.95ID:wzuRO75F
この時期将軍方についた武将は軒並み織田家の討伐対象になって討ち死にか降伏かを余儀なくされている中で筒井はどちらでもなく自然に織田傘下に収まってるわけだし少なくとも織田から見れば筒井は味方という認識だったんだろ
筒井からしてみれば松永との小競り合いは続いていたし松永の相手で手一杯ってことにして大和より外のことには関わらないで様子を見ていたってところだろうけど

60人間七七四年2018/05/01(火) 10:54:31.01ID:LxTY1v9N
>>57
磯田氏は近世社会史が専門
ただ自身の専門以外にもあっちゃこっちゃやってる
専門外のことについては雑

61人間七七四年2018/06/29(金) 20:22:49.61ID:JdKslDW3
畿内の諸勢力は織田反織田の前にみんな自分の敵がいてまともに動けないからな

62人間七七四年2018/06/30(土) 19:12:24.47ID:es3ziRZ8
三好一族の義継と康長でさえ顕如による和睦求めて失敗するぐらいだしみんなバラバラ

63人間七七四年2018/07/13(金) 01:34:51.67ID:5HgAGTMy
>>58
丁度義昭が織田と敵対した直後の
2月23日に筒井3000が松永と戦っているby尋憲記

64人間七七四年2018/07/15(日) 23:04:12.14ID:3v09HIB9
>>57
1572年11月の信玄の朝倉宛の書状で

織田の援軍3000が浜松に来たぞ、おかしいじゃねーか

ってのがある
武田としては織田は朝倉の相手して徳川に援軍出す余裕はないと思っていたんだろう

65人間七七四年2018/08/03(金) 19:50:26.81ID:ivhi154j
摂津は
池田は荒木に乗っ取られ中
和田は高山の下剋上中
伊丹は荒木高山と敵対

河内は
三好義継は康長畠山と敵対
畠山は遊佐と揉めていて三好らと敵対中
遊佐は最終的に畠山殺すが、三好らと敵対中
三好康長は三好義継畠山遊佐と敵対中

とこんな感じか?

66人間七七四年2018/08/03(金) 19:53:47.98ID:ivhi154j
>>46
72年11月の書状は宛名信康になってなかったか?

67人間七七四年2018/08/04(土) 19:43:40.23ID:c5oxBlNf
>>57
wikiだと
  織田家の援軍の数も諸説が有り、
@佐久間軍記 - 七頭(約1.5万人:1頭は2,100人とされる)
A明智軍記 - 5,000人
B総見記(織田軍記) - 3,000人
C甲陽軍鑑 - 「信長加勢を九頭まで仕る」(約1.9万人)
D前橋酒井家旧蔵聞書 - 信玄軍2.8万、徳川6千、織田の援軍2万

ってなってるね。5千以下と2万の両極端やな

68人間七七四年2018/08/14(火) 16:49:04.16ID:yrMA4a5q
>>51
摂津三守護に河内の三好畠山が義昭側として機能しているなら、阿波三好が攻勢に出ても勝てないからじゃ?

69人間七七四年2018/08/23(木) 22:38:14.14ID:7eYNHSmh
>>25
武田って付け城築いて長期包囲とかしたことあったっけ?

70人間七七四年2018/09/10(月) 19:30:58.70ID:S3E5l1zo
ないな

71人間七七四年2018/09/16(日) 07:57:10.01ID:nzC/0H0t
参考書状等

元亀3年11月19日付朝倉義景宛武田信玄条書
条目
一 当備逐日任存分候事
  付、二俣之地取詰候、落居可為近日之事
一 岩村之城、属当手候之間、人衆相移候事
  付、条々有口上
一 此上両様行之事
  付、条々
一 如聞得者、織田信長岐阜へ帰、引間へ三千余加勢不審存候事
一 当陣下風聞之事
  付、依大坂貴辺御催促如此、信長為当敵動干戈所、御分別之事
一 信長例式謀略察入候間、為可散御疑心、以誓詞申候、従貴辺茂可給之事
  付、条々
一 郡上之遠藤、向岐阜なたをの取出早々可築之旨、令催促候、
  自其茂同前ニ可被仰越之事
一 至来年五月御張陣之事
一 大坂門徒中蜂起御催促之事
  付、長島之事


なんつーか、計画というより武田から朝倉への要望書じゃない?これ。


元亀4年1月27日付朝倉義景宛本願寺顕如書状を提示しとく

別紙之御状披覧候、自信玄遠・三・尾・濃門下之輩働事、
貴辺へ被申越由承候、切々申付様候、
雖然時宜見合儀ニ付而其遅速之段者不及了簡候、
三州之儀も勝万寺近日令進発由申来候、
濃州表之儀者、旧冬勢州長島より申付、
濃州之内ニ新要害を相構、日根野備中守入置候、
岐阜与其間三里有之所ニ候、日々及行由候、
将亦越中表之儀者、越後勢為押加州衆罷在候処、
輝虎自身令出馬干今彼表ニ在陣候、随分方々申付候、聊無油断候、
次江北表之儀、如御存知浅備無人ニ付而、
門下之者竭粉骨様候、猶委細下間上野可申入候、
右之通以御分別可有演説事専用候、
此方へも細々信玄直札到来、飛脚等上下度々事候間、万端申談候、
於遠州表極月廿二合戦、甲州衆無比類働不及是非次第候、
大慶此事候、尚追々可申展候、


岐阜から3里の砦には日根野弘就が守備として入ったみたいだね。
どこかに織田が日根野弘就を破ったという記述でもあれば、
そこが岐阜から三里の砦の場所、もしくは近所だと思うが。

72人間七七四年2018/09/16(日) 07:57:37.09ID:nzC/0H0t
参考までに、上杉謙信が織田・徳川と連合し武田を討つ意思を示す条書

元亀4年3月19日付長景連宛上杉謙信条書


一 か様ニ林平右衛門尉方へ両人之従所為申越候、
  乍去信長被当機ニ候者、此以申分用捨之事
一 山門再興、先納得候而可然候、左様ニ候へば信長畢竟山再興候ニ成候間、
  信玄失手候者、都鄙之唱、又者信長きたうニも成、可然?之事
一 浅井身上之儀も、是も先々義景被申成ニ尤候、左様ニ候者、
  信長・家康分国被相静、其上信玄則時ニ愚老・信長・家康申合可打断候、
  其以後者、浅井者不及申、何方へ之信長存分も可相届候、此段可申分事

右、如何共信長備堅固ニ候へかしと覚悟候而申候、
於可当機ニ者、一切無用候、以上、


これは北信が手薄なら上杉が北信に進攻してくる可能性あるんじゃない?

73人間七七四年2018/09/24(月) 14:14:21.06ID:xgdcI866
上杉と織田は何度も武田領攻め込む詐欺してるから、実際にはどうだろ?

74人間七七四年2018/09/25(火) 21:03:54.57ID:F31pzZC6
>>71
その書状通りに朝倉が来年五月まで陣を張り続けたとしても、
肝心の朝倉が秀吉相手に抑え込まれているし、畿内の勢力は
このスレにあるように本格的に動けるような状態にはない。

計画書でも単なる要望でも包囲網側の勝ち目が薄いってのは
変わらないと思う。

75人間七七四年2018/09/30(日) 14:27:27.98ID:eRfbOgzK
5月に再出陣してくれって意味じゃないのか?

76人間七七四年2018/10/04(木) 20:57:48.52ID:dadVWr/4
信長公記 巻3(元亀元年)志賀の陣 9月23日の項

九月廿三日、野田・福島御引き払ひ、和田伊賀守・柴田修理亮両人殿に仰せつけられ、
路次は中島より江口通り御越しなり。(中略)

猛勢の御人数差し懸け候ところ、一揆蜂起し、渡舟を隠しおき、通路自由ならず。
稲麻・竹葦たんどの如く、過半竹鑓を持つて、江口川の向ひを大坂堤へ付きて、
叫喚すると雖も、異事なし。


一揆勢の武器が「過半竹鑓を持つて」とある。
やっぱ一向衆の武装ってこんなもんなんじゃないの?
もちろん鉄砲や弓槍もあったんだろうけど過半が竹槍って
やっぱ農民一揆より多少マシ程度の武装じゃないのかと思うけど。
数だけは多かっただろうけど、これじゃ無駄飯食いが多いだけで長期対陣は兵站がもたない。

77人間七七四年2018/10/20(土) 15:27:26.14ID:RDMvNIk9
>>75
一 『至』来年五月御張陣之事

来年五月まで陣をお張りになること、で合ってると思うが。
陣を張ってる人間に来年5月までに陣を張って下さいって言うのはちょっと変だし、
何で12月の朝倉の撤退に、武田本願寺が何で怒るんだとなるし。

78人間七七四年2018/11/05(月) 21:55:59.40ID:ZVaXi+nW
5月に出陣なら、内を使うと思う。

79人間七七四年2019/03/18(月) 12:02:04.54ID:6axVi0W6
一応平山とかは5月に再出兵してくれと訳してるみたいだな、
鴨川は5月まで対陣してくれと訳しているが。

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