【陸奥】 南部氏 【清和源氏】

1人間七七四年2018/04/11(水) 23:42:53.94ID:hYXeEgKS
なかったので

2人間七七四年2018/04/13(金) 11:30:38.46ID:iqsU10lf
ない理由がわかったやろ

3人間七七四年2018/04/16(月) 23:56:40.61ID:QNi++5G2
晴継が生まれなかったら島津みたいに地の利を生かして東北統一してたかも
一人の人間のせいで落ちぶれるいい例

4人間七七四年2018/04/19(木) 17:49:40.84ID:fnEpwXRL
自称南部支族による連合体でしかなかった集団に統一とか冗談きつい
信直が野心をもって内訌を制して戦国大名化する道筋は晴継の有無な何も関係ない
三戸潰し九戸との対立大浦独立は既定路線

5人間七七四年2018/04/25(水) 10:28:03.15ID:TacDvkeM
古文書研究84号にて南部信直の元服所について書かれていた熊谷隆次氏が
編著で戎光祥出版で南部信直が出版予定とか

2年前にも同社から森喜兵衛氏が書いてはいるけど

6人間七七四年2018/05/27(日) 15:01:12.72ID:6XyJXr87
「島津に暗君なし、南部に名君なし」というが
戦国時代の南部家当主で一番マシだったのは誰か?

7人間七七四年2018/05/27(日) 22:05:37.95ID:++q2l3/g
晴政の拡大路線の礎を築いた南部安信じゃね?

8人間七七四年2018/05/28(月) 05:40:52.10ID:2BWvz72d
>>7

安信は南部氏の戦国大名化を目指し、積極的に勢力拡大政策を推し進めた。
大永4年(1524年)石川高信ら3人の弟を動員して、津軽地方の諸城を抑えて津軽を平定させ、
そこに高信を置いて統治を任せている。さらに弟の南長義には五戸地方を、
同じく弟の石亀信房には石亀城を、同じく弟の毛馬内秀範には毛馬内城を任せて、南部氏の体制を固めている。

このように安信が築き上げた基盤は、次代の南部晴政時代の発展へとつながったと言われているが、
上記の安信の事跡は後世の書籍に記されているもので、安信に関する一次資料は不足しており、
実際の功績は定かでないと言われる。同様の理由から、
安信以前の南部氏の素性には、疑問視する点が多いとも言われている。

(ウィキペディア)

9人間七七四年2018/05/30(水) 20:29:23.40ID:7EjLvAL/
名目上は浪岡北畠の家臣で、八戸が本家だったのに三戸が盟主になり
久慈と九戸は二階堂一族で、後に南部氏庶流を自称して乗っ取りを狙う
ライバルの安東は過去に南部との戦で津軽喪失して、名目上は浪岡家臣同士
斯波とは南北朝以来の不倶戴天の敵だが、大崎には臣下の礼をとっていたことがある

こんな感じだっけ

10人間七七四年2018/06/01(金) 12:18:09.68ID:3FTa6UJX
南部領は広大な上に人口が少なく村や町も点在していたので親類衆や家老級にある程度の給料を与えるには広大な土地を与え、それを管理するための独立国並みの自治権と兵力を持たせないとまともに統治できなかったと言われている
それゆえに何十年も経つと親類衆や家老級に独立志向が強くなり度々反乱や独立を起こした
南部の当主が無能というより北東北の環境がそうさせたとも言われている

11人間七七四年2018/06/01(金) 13:41:09.66ID:PjIBnI+T
>>10

とはいえ、南部家の当主で頭脳明晰な人はいそうにない。

12人間七七四年2018/06/01(金) 21:50:02.18ID:x7EX8Btf
葬式と聞いたら武器もって襲撃せずにはいられない一族

13人間七七四年2018/06/01(金) 22:16:59.25ID:Vp+JxthJ
南部信直とか資料にあるだけで4〜5回は暗殺未遂にあったのに生き延びたからな
それが幕末までの盛岡藩に繋がった訳だし危機管理という点では名君と言えると思う

14人間七七四年2018/06/02(土) 00:51:04.35ID:MbQse3it
>>11
そりゃ信直が出たおかげで戦国大名化できた家なんだから
とはいえ南部の統一作業中に為信の津軽統一まで対処できる余力はなかったけど

15人間七七四年2018/06/03(日) 18:02:08.85ID:tbkUkQHY
九戸政実の乱は南部領内での家臣の反乱なんで本来なら南部信直は切腹もしくは転封レベルの大事件
他の多くの大名がそれで領地を失っている
信直が機転を利かせて豊臣政権への反乱と話をすり替えたんで
何もなくというかむしろ以前に奪われた津軽領分の代替として盛岡まで手に入れた
信直が無能とは言えない理由はそこにある

16人間七七四年2018/06/03(日) 18:11:18.12ID:g10Khz3b
>>15

伊達を背後から牽制するためには、南部が必要ってのはあったと思う。

17人間七七四年2018/06/03(日) 18:30:56.29ID:S800E60m
>>16
であれば豊臣系の大名を配置した方がいいからやはり南部は難癖つけて転封した方がいい

18人間七七四年2018/06/03(日) 19:10:58.16ID:Ebk9OYkH
>>17

寒冷地での戦闘や、荒れ地での戦闘を考えると南部は動かしたくない。

徳川幕府も最後まで南部は動かさなかった。

寒冷地での軍馬(奥州馬)の飼育ノウハウも南部家が保持していた。

19人間七七四年2018/06/03(日) 20:00:45.78ID:xkJlNj/q
木村吉清が葛西大崎一揆に瞬殺されて、豊臣の権威を傷つけたし
辺境は地元の連中に任せる方が安定する

20人間七七四年2018/06/03(日) 23:51:04.29ID:JwfZrccP
>>17
福島正則の津軽転封も流石にそれはあんまりだろう。と無くなったわけだし
あんな北国に移封とか罰ゲームにも程がある

21人間七七四年2018/06/04(月) 00:35:36.16ID:6EudPhvT
津軽と違って南部領は砂金と鷹と馬の産地なんで実は豊か
馬はともかく砂金と贈答用の鷹は見過ごされがちだけどかなりの収益を南部にもたらしてるし信直はそれを活用して前田や浅野をうまく取り込んだ
辺境だからといって侮ってはいけない土地だよ

22人間七七四年2018/06/04(月) 01:40:12.44ID:lXmFkMDo
交易路すら日本海岸ばかり注目されるけど
当然のように太平洋岸の交易路もあったので機を見るに敏なのは当然
久慈経由等で九戸ですらそのルートに乗って利益あげていた部類

23人間七七四年2018/06/04(月) 06:23:29.96ID:+8KJtWsD
>>19

木村家は豊後のマイナー大名として維新まで生き残ったんだっけ?

24人間七七四年2018/06/04(月) 17:54:21.05ID:YSFsAUGU
木村さんは西軍について、あぼんしました
個人的に阿曽沼さんのその後が気になる

25人間七七四年2018/06/04(月) 20:25:22.11ID:lXmFkMDo
阿曽沼は絶滅したんじゃ

26人間七七四年2018/06/05(火) 06:30:20.06ID:cq421OOA
>>24

> 木村さんは西軍について、あぼんしました

そのあと復旧しているはずだが。こじんまりと。

27人間七七四年2018/06/05(火) 21:36:53.11ID:SAc8xJ92
>>25
大名としては滅亡したけど荒廃した遠野に八戸氏が移封させられた際に
阿曽沼の子孫を取り立てて、治世に参画させたことで漸く遠野も安定したというし
八戸氏の家臣として生き延びたとも言われてる

28人間七七四年2018/06/11(月) 15:07:02.01ID:Ym/FaFV4
>>22
戦国時代の太平洋岸の交易路って大坂(堺)や京都(敦賀から琵琶湖経由)に通じてたのかな
そうでなければ大した利益上がらないような

29人間七七四年2018/06/19(火) 22:55:46.92ID:Sihtqjsk
太平洋側は志摩海岸、遠州灘、房総半島、三陸海岸といった難所が多く
動力源を持つ船が主流になる明治時代以前は西廻り航路がメイン

30人間七七四年2018/07/02(月) 06:48:20.86ID:rcKN3WrJ
そう言っていると土器作っていた頃からやっている太平洋岸の黒潮貿易を失念する

31人間七七四年2018/07/10(火) 10:00:07.62ID:w6neAEw7
波木井のスレかと思った。

32人間七七四年2018/07/10(火) 12:34:27.70ID:nGMbjHN/
南部 実長(なんぶ さねなが)は、鎌倉時代中期の御家人。
南部光行の三男。八戸氏(根城南部氏)の祖。
日蓮の有力壇越として知られ、また甲斐国波木井(はきり)に居住したことから波木井実長とも呼ばれる。

33人間七七四年2018/07/10(火) 22:08:27.92ID:SEcPs/3y
父光行から甲斐国巨摩郡飯野御牧内にある波木井郷(現在の南巨摩郡身延町梅平一帯)を割譲され、地頭職を兼ねた。
嘉禎4年(1238年)、4代将軍藤原頼経が上洛した際には、兄実光と共に随兵を務めた。
文永6年(1269年)頃、鎌倉での辻説法を聞いて深く感銘し日蓮に帰依した。

34人間七七四年2018/07/10(火) 22:09:29.18ID:SEcPs/3y
同11年(1274年)には、流罪を解かれ佐渡から鎌倉に戻った日蓮を波木井郷へ招き入れ、
まもなく領内の身延山中に草庵を造営し外護の任にあたった。
弘安4年(1281年)、十間四面の堂宇を建立寄進し「妙法華院久遠寺」と命名、また実長も出家し法寂院日円と号した。
弘安5年(1282年)9月、病身の日蓮は病気療養の為常陸の湯に向かう途中現在の東京都大田区池上に着くと病体が更に悪化し、実長への9ヶ年の感謝と死期の近いことを知らせる最後の手紙を送っている(『波木井殿御報』)。
10月13日朝、61歳の生涯を閉じた日蓮の遺言通り遺骨を身延の澤に埋葬し実長を中心に六老僧等で護った。

35人間七七四年2018/07/10(火) 22:09:55.82ID:SEcPs/3y
後代、長男実継の家系は陸奥国を地盤とする八戸氏(根城南部氏)として存続し、
本拠地である甲斐国波木井郷は四男(一説には長男とも)長義の家系が継承した。

36人間七七四年2018/07/10(火) 22:11:44.89ID:SEcPs/3y
鎌倉時代、
疫病や天災が相次ぐ末法の世、「法華経」をもってすべての人々を救おうとした日蓮聖人は、
三度にわたり幕府に諫言(かんげん)を行いましたが、いずれも受け入れられることはありませんでした。
当時、身延山は甲斐の国波木井(はきい)郷を治める地頭の南部実長(さねなが)の領地でした。
日蓮聖人は信者であった実長の招きにより、1274(文永11)年5月17日、身延山に入山し、同年6月17日より鷹取山(たかとりやま)のふもとの西谷に構えた草庵を住処としました。
このことにより、1274年5月17日を日蓮聖人身延入山の日、同年6月17日を身延山開闢(かいびゃく)の日としています。
日蓮聖人は、これ以来足かけ9年の永きにわたり法華経の読誦(どくじゅ)と門弟たちの教導に終始し、
1281(弘安4)年11月24日には旧庵を廃して本格的な堂宇を建築し、自ら「身延山妙法華院久遠寺」と命名されました。

37人間七七四年2018/07/10(火) 22:12:32.25ID:SEcPs/3y
翌1282(弘安5)年9月8日、日蓮聖人は病身を養うためと、両親の墓参のためにひとまず山を下り、常陸の国(現在の茨城県)に向かいましたが、
同年10月13日、その途上の武蔵の国池上(現在の東京都大田区)にてその61年の生涯を閉じられました。
そして、「いずくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候べく候」という日蓮聖人のご遺言のとおり、
そのご遺骨は身延山に奉ぜられ、心霊とともに祀られました。

38人間七七四年2018/07/10(火) 22:14:45.62ID:SEcPs/3y
その後、身延山久遠寺は日蓮聖人の本弟子である六老僧の一人、日向(にこう)上人とその門流によって継承され、
約200年後の1475(文明7)年、第11世日朝上人により、狭く湿気の多い西谷から現在の地へと移転され、伽藍(がらん)の整備がすすめられました。
のちに、武田氏や徳川家の崇拝、外護(げご)を受けて栄え、1706(宝永3)年には、皇室勅願所ともなっています。

39人間七七四年2018/07/10(火) 22:16:56.09ID:SEcPs/3y
日蓮聖人のご入滅以来実に700有余年、
法灯は綿々と絶えることなく、
廟墓は歴代住職によって守護され、
今日におよんでいます。
日蓮聖人が法華経を読誦し、
法華経に命をささげた霊境、
身延山久遠寺。

総本山として門下の厚い信仰を集め、
広く日蓮聖人を仰ぐ人々の心の聖地として、日々参詣が絶えることがありません。

40人間七七四年2018/07/10(火) 23:00:12.29ID:O4d2bXIE
南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経

41人間七七四年2018/07/11(水) 08:40:08.83ID:htVyH8wu
波木井氏と八戸南部氏は関係ないって現在ほぼ証明されてるけどな

42人間七七四年2018/07/11(水) 21:30:02.55ID:sOnsylIK
盛岡南部家の宗旨はなんだっけ?

43人間七七四年2018/07/11(水) 21:31:15.89ID:sOnsylIK
甲斐に残留した南部氏もいると思うが、その後どうなったの?

44人間七七四年2018/07/12(木) 00:08:04.73ID:tOxXKc/a
南部宗秀から笠井満秀 笠井慶秀につながる

45人間七七四年2018/07/12(木) 09:46:44.34ID:saKFahh7
>>44

甲斐を追放された南部宗秀は会津で餓死したという真偽不明の出来事があるが、
奥州の南部氏のところに行こうとしていたと考えてもおかしくなさそう。

46人間七七四年2018/07/12(木) 13:24:57.79ID:a5520n3s
相馬大作事件(そうまだいさくじけん)とは、
文政4年4月23日(1821年5月24日)に、南部藩士・下斗米秀之進(しもとまいひでのしん)を首謀者とする数人が、
参勤交代を終えて江戸から帰国の途についていた津軽藩主・津軽寧親を襲った暗殺未遂事件。

秀之進の用いた別名である相馬大作が事件名の由来である。
杜撰な計画と、事件前に裏切った仲間の密告により、
津軽寧親の暗殺に失敗したため、
秀之進は南部藩を出奔した。
後に秀之進は幕府に捕らえられ、獄門の刑を受けた。

47人間七七四年2018/07/13(金) 07:29:16.51ID:bTAzYckh
>>45
それ、私も思った

南部宗秀と笠井定明について資料がもっとあれば
南部と笠井と武田は元々繋がりが深かったみたい

48人間七七四年2018/08/07(火) 17:51:50.17ID:5anonhZw
北信景出奔は金山の利権争いに破れたからなんですか?

49人間七七四年2018/08/08(水) 22:53:09.08ID:2wJJL56W
単に利直と折り合いが悪かっただけな気がするけどねえ。一家臣が大名と利権争いで
戦えるわけないし…功績のあった八戸氏でさえ屈辱的な田名部取り上げと
遠野転封の渋々承諾してるくらいであって

50人間七七四年2018/08/09(木) 19:22:20.60ID:Q10UG2Og
後藤又兵衛基次が黒田長政と相性が悪すぎて出奔したようなものだと思う。

51人間七七四年2018/08/09(木) 19:26:22.43ID:Q10UG2Og
ただし、大阪の陣で豊臣家が踏ん張って生き残り、そのうちに家康が死んだ場合の
「保険」として北信景を大阪に入場させたという見方もできるが。

52人間七七四年2018/08/12(日) 14:50:27.00ID:4MiOhFsA
丸くなるなるまで南部領って石高どれくらい?

53人間七七四年2018/08/12(日) 20:49:23.00ID:Ym8Lg7kB
15〜20万石ぐらい

54人間七七四年2018/08/14(火) 06:39:09.36ID:97yh40QP
しょぼー(笑
そんな中で九戸だ津軽だって内紛してたんかいw
悲しいなぁw

55人間七七四年2018/08/14(火) 09:17:21.50ID:P0+o1KkC
東北のように一村の石高が低いとそれなりの石高を家臣に与えるためには広大な領土を分け与えなくては成り立たない=必然的に家老や一門クラスには広大な領土を分け与えることになる=数十年経つとその家老や一門クラスが自立し始める→反乱を起こす
という南部の統治を云々する前に地理的な統治の難しさが北東北にはある

56人間七七四年2018/08/14(火) 09:21:48.89ID:P0+o1KkC
さらに家臣団は自領地で事が起こった時に遥か彼方にいる当主の援護が期待できないため結果的に自分で解決しないといけない→結果的に自立心旺盛になる→もしくは自立心旺盛じゃないと統治できない

57人間七七四年2018/08/14(火) 09:23:04.25ID:Yq73yXve
南部利直は石高に見合わない3000という多数の兵を引きつれて徳川幕府に忠誠をしめしました。

58人間七七四年2018/08/14(火) 18:11:50.43ID:Y0oSGEkf
南部利直の時代には馬と砂金と鷹の商売で経済的に潤っていたよ

59人間七七四年2018/08/14(火) 22:17:15.76ID:YuORbuyH
小田原の陣では信直も1000の兵を率いて青森から関東に赴いてるし石高は低いけど金はあったんだろうな

60人間七七四年2018/09/12(水) 12:39:05.57ID:8Kk8cxb6
津軽氏相手に手こずり過ぎだから、もっと評価下げてもいい。江戸時代だと見栄張って石高維持のため無理して領民は飢饉で村離散し仙台藩に流出させてる

61人間七七四年2018/09/12(水) 17:05:20.44ID:9fRAg1GF
>>60

あれは津軽を褒めるべき。

ニック・ボックウィンクルのようなダーティーな戦いに徹したのが良かった。

62人間七七四年2018/09/12(水) 21:39:00.34ID:qCaUOhMP
https://www.youtube..../watch?v=gibeLKKRT-0
平家物語巻1
祇園精舎の鐘の声〜所業無常の響きの唄。
この世は全て夢幻よ…。

63人間七七四年2018/09/13(木) 23:23:59.12ID:zarn2azP
>>60
晴政や信直って津軽とろくに戦ってないんだけどな
むしろ安東や浪岡北畠との抗争が為信のメインだった

64人間七七四年2018/09/16(日) 00:19:01.81ID:ZxwkYpCq
同族の甲斐源氏小笠原氏と同じぐらいマイナーレベルの武家なんだよな
ただし南部氏諸家には一戸氏、二戸氏、三戸氏、四戸が無くて五戸、六戸、七戸
八戸氏、九戸氏まであって、まんま地名として残っている
有名なのは、三戸氏と八戸氏で、三戸氏が後の盛岡の大名になっているとおもた

65人間七七四年2018/11/08(木) 23:20:28.47ID:5FUZhTQ3
>>27
宮古辺りにいたりしたのかな?
宮古にある墓に阿曽沼氏の子孫って書いてあるが本当かわからんのよね

66人間七七四年2019/06/21(金) 01:03:17.93ID:DSrptcss
蠣崎氏とは仲良かったのかな?

67人間七七四年2019/06/22(土) 22:04:59.77ID:xTcmyPC+
下北半島を蠣崎氏から奪ってる時点でお察し

68人間七七四年2019/06/23(日) 17:41:46.81ID:LDmArFEy
どこも領土接してるとこは仲悪いね

69人間七七四年2019/07/02(火) 22:41:18.71ID:8RMYP+Yy
斗南藩が散々苦しんだ不毛な土地を巡って争ってたのか。

70人間七七四年2019/07/04(木) 13:44:43.28ID:ci7WoEY8
<<69
農業的には不毛だけど海産物とか北海道とかからの交易品とかで潤ってた。
何といっても、金がとれた。

71るん2019/07/04(木) 17:56:44.11ID:nWldlDo7
側室に耽溺して、若死にされるとその母親を側室にするとか、ちょっとおかしいです

72人間七七四年2019/08/06(火) 23:17:51.99ID:eaCZ9a0c
十三湊でがっぽり儲けてたんだろ?

73人間七七四年2019/08/14(水) 00:12:31.73ID:dzEhC8g3
何故か十三湊は使われなかったよ。室町時代に日本の交易港ベスト10である
三津七湊の一つとして繁栄していたのに

74人間七七四年2019/08/15(木) 12:26:50.08ID:sqoXp1Qh
>>73
砂のせい つかいずらかったんでしょ

75人間七七四年2019/08/15(木) 13:48:49.36ID:FfGbHGrO
南部が金持ってたのは砂金と贈答用の鷹と馬のお陰
常識な

76人間七七四年2019/08/16(金) 13:16:51.62ID:/F+hfr3e
南部晴政が騎馬で突撃してくるので、よくわかります

77人間七七四年2019/08/30(金) 21:03:44.28ID:D0EjqVKN
シナリオにもよるけど南部晴政、石川高信、九戸政実の騎馬トリオによる突撃で北関東までは行ける。
そっから上杉か北条に侵攻するわけだが上杉は南部の上位互換だからいつも北条に向かってたな。

78人間七七四年2019/09/08(日) 21:03:25.40ID:YJrqsWXS
キター

『歴史群像』2019年12月号 (11月6日発売)
第2特集 南部氏VS.津軽氏 陸奥北部で展開された虚々実々の闘争

79人間七七四年2019/09/09(月) 06:24:37.12ID:AImq19Tj
虚々実々の闘争  というより  田舎の小競り合い 

80人間七七四年2019/09/09(月) 13:20:57.26ID:oQisCfkI
津軽が鉄砲と弾薬をサービスしてくれたが、佐竹藩は有効活用が叶わず連戦連敗

81人間七七四年2019/09/10(火) 15:47:54.39ID:a/OvRRAA
江戸初期は日本で一番金持ちって言われてたんだっけ

82人間七七四年2019/09/10(火) 21:51:43.70ID:TMp3HGbj
七戸の民だけど祖父から家臣の一族って聞いてる
真偽はわからん

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