戦国ちょっと悪い話47

1人間七七四年2019/05/08(水) 19:17:00.45ID:MDWkvrbn
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

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戦国ちょっと悪い話46
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戦国ちょっといい話46
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1528724750/

2人間七七四年2019/05/08(水) 19:19:13.23ID:MDWkvrbn
保守

3人間七七四年2019/05/08(水) 19:19:43.88ID:Vj5EFILs
      _  __      ___
       |ヽ \|\ \   /\__\
       | | ̄|  | ̄|  /  /   /
       | |  |  |  |  \∠,,ィ/  /
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  / ,彡⌒ ミ/ /  _/.彡⌒ ミ
/  /(´・ω・)/  /\ヽ(´・ω・)
\/,と´   ノ´    \/と´   ノフ
   ̄ 'し'(_)       ̄し'(_)~  おつ

4人間七七四年2019/05/08(水) 19:22:18.18ID:xPoqLF1e
保守

5人間七七四年2019/05/08(水) 19:58:39.68ID:MDWkvrbn

6人間七七四年2019/05/08(水) 20:16:36.21ID:71sspKUT
>>1

7人間七七四年2019/05/09(木) 07:26:16.68ID:Wesiu6u1
お前らなんで平日のこの時間に5ちゃんできるの?

暇なの?
夜勤なの?
自営業なの?
2部学生なの?
フリーターなの?
入院中の患者なの?
平日休みの仕事なの?
職場で書き込んでるの?
昼からはじまる仕事なの?
親元に住んでる就活生なの?
来年以降に本気出す予定なの?
貯金を食いつぶして生きてるの?
金持ちの子供で遊んで暮らせるの?
何もしなくても家賃収入でもあるの?
生活保護だから働かなくてもいいいの?
宝くじでも当たってお金たくさんあるの?
定年退職されて一日中時間有り余ってるの?
会社を解雇されて次の職探しの真っ最中なの?
精神疾患で仕事が長期休暇で自宅療養してるの?
刑務所を出所したばかりで仕事が見つからないの?
引きこもりで昼間は人目があるから外出できないの?
職場にいても仕事が無いからスマホしかやる事ないの?

8人間七七四年2019/05/09(木) 07:49:44.52ID:x2fkBv0W
>>7
自己紹介乙

9人間七七四年2019/05/09(木) 10:31:36.85ID:Wesiu6u1
>>8
お前なんで平日に5ちゃんできるの?

暇なの?
夜勤なの?
自営業なの?
2部学生なの?
フリーターなの?
入院中の患者なの?
平日休みの仕事なの?
職場で書き込んでるの?
昼からはじまる仕事なの?
親元に住んでる就活生なの?
来年以降に本気出す予定なの?
貯金を食いつぶして生きてるの?
金持ちの子供で遊んで暮らせるの?
何もしなくても家賃収入でもあるの?
生活保護だから働かなくてもいいいの?
宝くじでも当たってお金たくさんあるの?
定年退職されて一日中時間有り余ってるの?
会社を解雇されて次の職探しの真っ最中なの?
精神疾患で仕事が長期休暇で自宅療養してるの?
刑務所を出所したばかりで仕事が見つからないの?
引きこもりで昼間は人目があるから外出できないの?
職場にいても仕事が無いからスマホしかやる事ないの?

10人間七七四年2019/05/09(木) 12:33:32.36ID:x2fkBv0W
>>9
お前なんで平日に5ちゃんできるの?

11人間七七四年2019/05/09(木) 12:40:57.59ID:fz55kaSk
大森伝七郎、切死の事

西岡東村に、公方(足利将軍家)数代の家の子で、大森伝七郎という侍が有った。
御所(足利義輝)すでに御滅亡(永禄の変)の後、隠れる場所もなかったが、かつて抱え置き、
懇ろに待遇していた者が西岡に在ったため、彼のもとに暫く滞在したいと思い、密かにそこを尋ねた。

ところがこの者は、大森が来たことを三好長慶方に知らせた(この頃三好長慶は既に死去している。
三好家が長慶の死を秘匿していたためか)。そこで三好方より薄武左衛門、磯上甚六郎の両名に、
上下十人の頑強な足軽を添えて、討ち手として向かわされた。

薄武左衛門、磯上甚六郎は到着すると、かの者の家の中に入り、大森伝七郎に向かって声をかけた。
「ここに大森殿が居られると承り、迎えにこの両人が参り候。はやく御出なされよ!」

大森は感の鋭い人物であったので、これを聞くより早く覚悟を据えて、立ち向かって聞いた
「私をどこへ召されるというのか」
「三好長慶が探しておられる。はやく出させられよ!」
「それがしは入道(長慶)の元へ参っても何の用もない。また言うべきこともない。よって
参る必要はない。」
「そなたはそう思っているかも知れないが、筑前守(長慶)には尋ねたいことが有るとの事である。
はやくはやく、出て参られよ!」

そう、両名が大森に近付こうとすると、「しからば、いざ参らん!」そう言うと同時に、2尺3寸の
打物(太刀)を引き抜くと、薄武左衛門の頸に押し当て、左側の肩先まで斬りぬいた。
磯上甚六郎はこれを見るや「やるまじ!」と抜き打ちに斬りかかったが、この時二階の竹垂木に箕笠が
下げ置かれており、これを斬りつけてしまい、「あっ」と思い太刀を引く間に、大森はすかさず磯上の
高股を両断し、磯上は戌亥(西北)を頭にして倒れた。

続く三好方の郎党たちは、これを見て「逃さじ!」と斬ってかかったが、そこは茅葺きの小さな家のため
働き自由に成らず、天井が低いため斬り損じ、大森に寄る者は斬られ入れ替わる中、六人が同じ枕に伏した。
そして大森伝七郎は

「今はもはや、罪造りにお前たちを殺しても何の意味があるのか。」と、座敷へつと走り上がり、
腹を十文字に切って死んだ。見る人聴く者、「天晴、かかる剛強のつはものを殺してしまった。一騎当千とは
ああいう者の事を言うのに。」と、彼を惜しまぬものは居なかった。
三好長慶もこれを聴いて大いに驚き、思わず手を打って、暫く物も言わなかった。

(室町殿物語)

12人間七七四年2019/05/09(木) 12:41:56.06ID:Wesiu6u1
>>10
頭大丈夫か?休みだからに決まってるだろ

13人間七七四年2019/05/09(木) 12:44:49.68ID:x2fkBv0W
>>12
頭大丈夫か?平日なのに5ちゃんしてて

14人間七七四年2019/05/09(木) 14:16:57.26ID:xv5IJncU
>>11
六人「もう少し早く気づいて(´;ω;`)」
まあ武士の意地というもんかなぁ
全員殺しても次の追っ手がきていつかはやられるだろうし

15人間七七四年2019/05/09(木) 14:26:43.35ID:sLXFenpt
いや義輝死んだし

16人間七七四年2019/05/09(木) 15:17:00.40ID:CSLdzN9n
>>13
頭大丈夫か?5ちゃんなのに平日してて

171/22019/05/10(金) 09:28:01.42ID:0VkCxDIG
両王(大友宗麟・義統父子)が日向及び豊後に於いて(キリスト教のために)為したる事は右の通りであるが、
それに対するパードレ等の満悦甚だしく、また大友統治下の諸国に於いて、帰依のために開かれた門戸は広く、
キリシタンたちが満足したことは、尊父も察せられるでしょう。
であるが他方に於いて我が教の敵は悲しみ、邪悪なるゼザベル(奈多夫人)と坊主達の不満甚だしく、
坊主たちは両王が寺院を破壊し彼らを侮辱したことに対し、神仏の罰が諸国に及ぶと脅したのであるが、
キリシタン並びに王達は、神仏がいかに激怒しても何もすること能わないのを笑った。

事情かくの如くであった時、我等の主デウス(御判断は我等には解らざれども、聖にして常に正しく、また
一般の幸福と成るものなり)は、日向の軍隊に油断の生じることを許し給い、これによりキリシタン及び
我等の喜びは嘆きに変じ、キリシタンに対する大迫害が起こり、豊後の王が多年領内に維持していた平和は
忽ち激烈なる戦争に変わり、国内の事情は一変した。
世の事は無常であり、日本の事情が変わりやすいこと、また我らが進まんと欲する道が、我等の主が定め
られたものと大いに相違していたことが、明らかに認められたのである。

日向に在った総司令官である田原親賢の油断と無能により、既に手中に在った勝利と、その指揮する全軍は
失われた(耳川の戦い)。軍隊は同国一帯の鍵であり、多数の兵の籠りたる一城(高城)を囲んだが、
それ以前に攻めた城においては少しも抵抗を受けなかったため、敵を軽蔑し警備を怠っていた。それに反し
敵である薩摩の王(島津義久)は少しも油断せず、高城の陥落が全領土の喪失と成るべきことを慮り、全力を
尽くしてこれを救援する決心をなし、噂によれば所領の三ヶ国より老人と少年を除き貴族及び平民の兵を
悉く召集して無数の兵を得、これを率いて城に向かって進軍した。そうして先ず伏兵を設け、全く警備を
怠っていた豊後の軍を平地に誘ってこれを攻撃した。城内の兵もまた打出て、豊後の軍を真ん中に挟んで
おおいに戦った。豊後の兵はよく防ぎ多数の敵を殺したが、大軍に対抗すること出来ず、大部分は戦死し、
残兵は戦場を敵に委ね、列を乱して敗走し、生命を全うするために全力を尽くした。

182/22019/05/10(金) 09:29:00.68ID:0VkCxDIG
風評は事実より誇大に伝わり、また逃げる者には恐怖が伴うのが常であり、多数の敗残者は戦場より数レグワ
離れた老王(大友宗麟)の滞在地(無鹿)に着くと『全軍殺され、または敗走し、敵は急激に追撃し、数時間の
内にはここに到着し占領を始めるであろうから、少しも時を失わず豊後に遁るべし。』と言った。
多数の人が逃げ帰って同じことを繰り返したため、話は益々大きくなり、前よりも悪しき報伝わり、人々の
恐怖は甚だしかった。パードレ・フランシスコ・カブラルは王に対し、「同所は堅固であるから引き上げを
急がず、残りの軍隊を収拾すべきで、敵が急に来ることも無いし、味方の死者も話よりは少ないはず。」と
言い、王もその勧告に従う決心をしたが、部下の恐怖甚だしく頻りに騒いだため、遂にこれに負けて急遽豊後へ
撤退することと成った。夜中人をパードレに遣わして己の去る事を告げ、少しも躊躇すること無くイルマン達と
共に出発するよう命じた。この夜の混乱は甚だしく、王と共に逃げる者が途中の食料を携えることも忘れたため、
豊後までの3,4日路の間非常なる苦労と飢えを覚え、国王も妃も大いに困窮した。

パードレ・フランシスコ・カブラルおよびイルマンたちは、国王が同日午後、彼らの説得により一端、敗残兵を
収拾して同所に留まることを決断していたため、撤退の用意を少しもしておらず、王が撤退の使いを出した
直後には出発してしまったため独り後に残り、馬はわずかに一頭しか無く、しかもこの馬は、病気のため
付近の他の町で療養していたイルマン・ルイス・ダルメイダを迎えるために送る必要があり、どのようにしても
他の馬を得ることが出来ず、又これを捜す余裕もなく、しかももしすぐに出発せず豊後の王から離れた時は、
我等は敵、もしくは味方であるはずの豊後の逃亡兵から殺される危険があった。この兵士たちは異教徒であり、
パードレたちが国王をキリシタンとなしたが故に、神仏の罰が彼らに及んだのだと言い、そういった迷信を
抱いていたためである。
パードレ及びイルマン等は如何とも出来ず、会堂の最も大切な品を少しばかり従僕たちに運ばせ、冬の最中に
険しい山道を通り、食料も無く、肉体及び精神上非常なる疲労を覚えたが、王が恥じて引き返してくることを
懸念して前進した。彼らの困難は甚だしく、大いに飢餓に苦しみ、三日の道中を成した力があったのは不思議と
思うほどである。
日本の戦争の習慣に従い、全土は焼かれて居住する者もなく、食料も、夜休憩する家もなく、飢餓と寒気と
疲労のため、絶えず死に瀕していたが、我等の主の御助により。夜の宿泊所において従僕たちから少しの米を
与えられた。また山の険路において足を痛め、履物もなく、降雨のため水多く冷たい河を渡り、濡れた体を拭く
物もなく夜を過ごした。これにかかわらずダライニヤを唱えてデウスの一身を委ね、かくの如くしてデウスの
御恵により慰めを得た。
(1579年12月10日(天正7年11月22日)付、パードレ・フランシスコ・カリヤン書簡)

耳川の戦いの敗北についての宣教師の記録。やはり神仏の罰だったのでは。

19人間七七四年2019/05/10(金) 13:28:47.46ID:C+7oiKRh
これは前スレの空気読まない学級委員長みたいな大鹿剣助も激怒

20人間七七四年2019/05/10(金) 14:29:37.95ID:cHJBuSGn
さて蔵人元康は義元公討死のその影響で、速やかに元康を改めて家康と名乗り給い、その年の暮れに
伯父の野州(水野信元)の仲裁をもって家康と信長の和睦の儀これあり。

「尾州に事が起これば家康公が信長へ加勢し、三州に事が起これば信長公が家康公へ加勢する」と、
互いに起請文を取り交わして、内々に無事を作り給う。

見合わせの儀を今川衆が「家康表裏」と申すことは、まったく不届きなことである。氏真公の政道が
良くおありならば、家康公の表裏でもあろう。氏真公が悪しき大将であるとしても、家康公が今川殿
に伝わる家老ならば、それこそ人が言うのももっともである。

家康公はもともと一城の主なり。時の験に任せて属している大名と申すものである。時の験によって
属している人は、万事を投げ打って時を見合わせ、自身の立身をもっぱらにするものなれば、家康公
は今川殿の家老ではない。ゆめゆめ、表裏であるべからず。

氏真公は御歳33までも月見花見遊山の善し悪しは御存知といえども、武道の直路いささかもおあり
にならず、無下に人を見知りなさらないので、家康公がこの屋形から御心を離されたことは、もっと
も道理に当たるのである。

三略にも『義者は不仁者の為に死せず、智者は闇主の為に謀らず』という。家康公も大方はこの理で
もあったのだろう。家康公は12歳の時に菖蒲切りの勝ち負けを見定め給う。志は今に至るまで誉れ
あって、三河一国と遠江半国の主となり給う。

また時の験に属した侍と譜代の区別を、長坂長閑老と跡部大炊助殿はよくよく御存知である。

――『甲陽軍鑑』

21人間七七四年2019/05/11(土) 19:21:19.83ID:HFu6A9lg
信玄公御時代諸大将之事

御歳増す次第の前に、まずこれを書く。もし反故落散して他国の人がこれを見て、我等の仏尊し(自分
の信じるものだけが尊い)と思われるように書いては、武士の道ではないのである。弓矢の儀はただ敵
味方ともに飾りなく有り様に申してこそ武道である。飾りは女人、あるいは商人の法なり。一事を飾れ
ば、万事の事実がすべて偽りとなるのだ。天鑑私なし。

一、永正12年乙亥の歳に平氏康公誕生。これは小田原の北条氏康のことなり。

一、大永元年辛巳歳、源信玄晴信公誕生。これは甲州武田信玄のことなり。本卦豊。

一、享禄元年庚寅歳、上杉謙信輝虎公誕生。これは越後長尾景虎のことなり。公方光源院義輝公より
  “輝”の字を下されて輝虎と号す。本卦履。

一、天文3年甲午歳、平信長公誕生。これは尾州織田上総守のことなり。本卦蠱。

一、天文7年戊戌歳、北条氏康公の御子氏政公誕生。(原注:一本に「此三人(氏政・氏真・義信)
  本卦の所きれて見えず」とある)

一、同年、今川義元公の御子氏真公誕生。

一、同年、武田信玄公の御子義信公誕生。

一、天文11年壬寅歳、徳川家康公誕生。これは三州松平蔵人公のことなり。本卦大壮。

一、天文15年丙午歳、武田勝頼公誕生。これは信玄四番目の御子、信州伊奈四郎の御事なり。信州
  諏訪頼茂(頼重)の跡目である故、武田相伝の“信”の字を避け給う。信玄公の御跡も15年の間、
  子息太郎竹王信勝が21歳までの陣代と称して仮のことであった故、武田の御旗はついに持たせ
  なさらず、ましてや信玄公尊崇の(原注:孫子)御幡も譲らせ給わず、もともと伊奈にいらした
  時の大文字の旗であった。ただし片時でも屋形の御名代であるからと、諏訪法性の御甲だけは許
  して差し上げなされたのである。

――『甲陽軍鑑』

「きれて見えず」は小幡景憲の筆記だと言われてますね

22人間七七四年2019/05/11(土) 23:28:52.08ID:upagUvNS
どの版本か分からないけど

享禄”三”年庚寅歳、上杉謙信輝虎公

23人間七七四年2019/05/11(土) 23:30:00.37ID:upagUvNS
↑途中で送った

どの版本か分からないけど

享禄”三”年庚寅歳、上杉謙信輝虎公〜

だと思うぞ

24人間七七四年2019/05/12(日) 15:52:22.17ID:kaPKSgKx
>>23
確かにご指摘通りでした間違いです
失礼しました

25人間七七四年2019/05/12(日) 21:10:14.32ID:kaPKSgKx
(勝瑞事件後)

さて、細川殿(細川持隆)の妾である岡本美濃守の娘・小少将の腹に男子1人あり(細川真之)。
実休(三好実休)はこれを聞いて男子を主君と仰ぎ、母儀を内室とする。そこで法体となり“実
休”と呼ばれ、殺奪の罪を補った。

――『三好別記』


一、実休は計りをなして讃岐守持隆の子息・掃部頭を取り立てる。掃部頭は阿波国の屋形に居住
  致したけれども、事あるごとに実休の所為に任せたのだという。

一、細川讃岐守持隆の妻女は周防国大内介(大内義興)の息女である。(持隆の自害によって)
  故郷に帰って、発心なされたのである。小少将という持隆の妾女は、岡本美作守の娘である。
  (持隆の)男子を1人生んだ。実休はこれを娶って妻とし、また男子2人女子1人を生んだ。
  長子は彦次郎長治、次男は孫六郎存保(十河存保)と称す。

――『三好家成立記』

26人間七七四年2019/05/12(日) 22:30:14.96ID:gJMRiBMX
まとめの10249「久米の乱」という
勝瑞事件の後に三好実休の舅であり、細川持隆の家臣の久米安芸守義広が
三好実休の主君殺しに怒って仇討のために起こした乱(鑓場の戦い、鑓場の義戦)があるけど
自分の娘をさしおいて主君の妾を奪うとは!という動機もあったとかなかったとか。

ついでにこのとき、久米義広に従って三好実休と戦い、ともに討ち死にした者に佐野丹波守(丹後守?)範房という人物がいた。
「源氏赤松之族 阿波佐野氏系図」によれば範房(系図には「丹波守 三好乱軍之節討死」とある)には
持貞という兄弟がいたようだが、佐野持貞については
18世紀末から19世紀初めにかけて徳島藩により成立した「阿波志」第六巻(三好郡)に記述があり、それを読むと

「源持貞 佐野次郎左衛門。赤松の族。三好に従い阪東に戦う。
持貞の子・左馬允範成、平義広(久米義広)の女を娶る。
源義賢(三好実休)が持貞に与えた感状を代々伝えている。」

「持」は細川持隆からの偏諱だろうから
主君と、兄弟と、息子の舅の仇から感状をもらった、という戦国らしいどろどろしたお話。

27人間七七四年2019/05/12(日) 23:20:42.11ID:gJMRiBMX
と書いたところで
「義賢」は三好実休のことではなく息子の十河存保(義堅とも称した)のことで
「阪東」の戦いは長宗我部との戦いのような気がしてきた。
これだと代替わりしてそれほど悪い話じゃなかった。申し訳ない。

28人間七七四年2019/05/13(月) 19:50:33.25ID:mxOrsGk9
老王(大友宗麟)は(耳川の戦いの敗北による)混乱の際、前に述べたように急遽出発し、食料も携えず、
所有の品の大半を失ったが、パードレが会堂に備え置いた十字架上のキリスト像を請うため人を遣わし、
これを携帯することを望む旨を伝えた。
またこのように大敗したが少しも恥じる所無く、デウスに対する信頼を失わない旨も伝えた。その後パードレが
王の陣所に到着した時、王は諸人の面前に於いて跪いて手を天に挙げ、現在の艱難に対して我等が主に感謝し、
パードレと語って彼は「キリシタンとして、このような不運に会うも心を変えず、むしろその熱心と
デウスに仕える希望はさらに加わった」と言った。この事を公言したのは、パードレに対する豊後の人たちの
不平と怒りを抑えるためであり、王の信仰がこのように固いことを聞けば、何人もパードレに対して無礼、
または害を加えることが出来ないためである。その後パードレと数回談話した際、「我等が主デウスは
我が意志と、私が日向においてキリシタンの教えを広めようと図っているのを知り給い、隠れたる御裁断に
よりこのような不測のことが起こった。しかしこれに満足し、己の弱き判断を捨てデウスの賢慮に
服従する。」と言い、また他の機会にパードレを慰めて、「デウスが私の軍隊を敗北せしめ給いしは、
この戦争においてデウスの教の最大の敵にして、帰依に反対していた者たちが多く死して、以後の教化に
便ならしむためであろう。」と言った。
若王(大友義統)もこれに劣らぬ勇気を示し、その父がパードレ・フランシスコ・カブラル対して言ったのと
同じことをパードレ・ルイス・フロイスに伝えた。

しかしながら豊後に於いては今回のことは全く神仏の罰であるとされ、我らに対する不平が大いに訴えられた。
よって若王の義兄弟の一人が彼を訪問し、「かくの如き不幸起こり、その部下たちは甚だしく憤慨しているが
故に、今後デウスのことに関係すべきではない。」と勧めたが、若王はこれに答えて
「従来臣下の意向を尊重し、また母(奈多夫人)の機嫌を損じ無いよう努力してきたが、今後は誰にも
譲歩せず、その(キリスト教の)救いのために適する事をする。」と言い、パードレ・フランシスコ・カブラルが
臼杵に到着すれば、他人の意向に頓着せず、直ぐに自らキリシタンと成り決してこれを見合わすことはないと
宣言し、また自らキリシタンと成ることを示すため、ロザリオを取り、公にその首に懸けた。その後同一の事を
パードレ・フランシスコ・カブラルに語り、またシナのビジタドールのパードレに通信し、従来よりも遥かに
その信仰心が強くなったことを示した。

国王父子の決心がこのように固いのを見て、我が教の敵は、我等並びにキリシタン等に反対する言を成し、また
行動をすること出来なかった。キリシタンと成って多くの日を経たわけではない国王と、受洗の希望者に過ぎない
世子とが、古きキリシタンにすら信仰への疑惑を懐かしめるこの大いなる不幸に遭遇して、このように堅信を
保持しているのは驚くべきことである。豊後の王は多年非常に幸福であったが、キリシタンと成った直後に
この不幸が起こり、殊にこう言った事態は、かねて坊主たちが威嚇していた事にも関わらず、少しも心を動かさ
なかったのは、我等が主の大いなる御恵である。

その後ほぼ一ヶ月を経て、日向の軍隊の総指揮官であり、死んだと思われ、ゼザベル(奈多夫人)一同も既に
その死を嘆いていた、彼女の兄弟である田原親賢が表れ出た。この残酷なる敵が豊後に戻ってきたと同時に、
キリスト教への迫害は新たに起こり、我等に対する不平の声挙がり、姉妹である悪王妃、およびこの戦において
父子、兄弟、親戚を失った多数の大身及び武士たちは合同して、『今回のことは宣教師たちが豊後に於いて
教化をなし、偶像を破壊したことに原因を発するものである』と成し、我等を殺し、または当国より追放
することに全力を尽くす決心をなした。
戦争において死んだ者は多く、諸人敗戦を嘆いていた故に、我等は町に出れば多くの罵倒の言葉を聞いた。
しかしながら老王は、動かざる柱のように我等を庇護し、若王もまた強く信仰を守ったため、敵はその望む
所を行うこと出来ず、ただ不平を述べるのみであった。

(1579年12月10日(天正7年11月22日)付、パードレ・フランシスコ・カリヤン書簡)

耳川の敗戦後の、豊後国内の動揺の様子。

29人間七七四年2019/05/14(火) 12:36:38.24ID:rANbibdw
>>26
妾といえど主君の母なので格が上
なので正室の娘が妾に格下げされたのに怒ったのでしょうね

30人間七七四年2019/05/14(火) 12:40:43.36ID:G3wFrSId
大友宗麟ってデビュー当時からピンチの時の判断が素早く的確
成功した戦国大名ってそういうものなんだろうけど

31人間七七四年2019/05/14(火) 14:05:44.57ID:9vYs8KUt
自分の首を取られたら終わりだからね
今川さんみたいになっちゃう

32人間七七四年2019/05/14(火) 15:04:21.80ID:x0PW2SgR
動かざる柱のようとか大敗しても恥じないみたいな姿勢はかっこいい

33人間七七四年2019/05/15(水) 13:42:07.62ID:vxZvkeB7
豊後の領内は(耳川の戦いにおける)国王(大友宗麟)の軍隊敗北の報を聞いて悲嘆している頃、
日本の領主達は常に領地を増加する機会を待っている者たちであるため、国王が兵力を失ったこの時を
最も良い機会であると考え、豊前、筑前、筑後および肥後四ヶ国に於いて多数の大身たちが叛起した。
彼らは皆、豊後の王並びにその配下の大身達の領地をできるだけ奪い、自ら領主にならんと欲し、
この目的を果たすため同盟を結んだ。

既に述べたように、龍造寺(隆信)は肥前全土の領主であったが豊後の周囲に有る先の四ヶ国に於いて
国王に対し激烈なる戦争を始めた。これによって豊後の事情は一層悲しむべきものとなり、我等
キリシタンに対する迫害者は力を得て迫害を行い、両王(大友宗麟・義統)を動かしてその意に従わせ
ようとした。

老王(宗麟)は堅固な柱のように少しも変わること無く、我等に対する愛と親しみは日々加わり、また信仰の
事については一層熱心を増したが、若王(義統)は漸次冷淡と成り、我等から遠ざかった。しかして国を
治めているのは彼であるので、彼が冷淡と成るに従って、我等に対する迫害は増加した。
先の四ヶ国の内、肥後と称する国の主だった大身の一人は国王の味方であったが、若王の元に人を遣わして
「今後デウスの教えを庇護することを止め、自らが希望する条件を守ることを神仏に誓わないのであれば、
自分も他の大身達も王に服従できない。」と伝えた。

このため若王は全く信仰を棄て、要求どおりに神仏に誓いを立てた。このようにして彼はデウスの御恵を
失い、再び昔の罪と暗黒に陥った。我が教の敵は若王が信仰を棄てたのを見て豊後に集まり、前よりも一層
悪しき条件を定め、偶像に収入を返し、慣例の祭儀を行い、世子がキリシタンと成り教化を援助することを
止めるよう要求した。世子はこの要求を悉く容れ、異教徒の慣例に従い神仏によって宣誓をなし、完全に
異教徒であることを公表した。

ただし我等に対しては、「これはみな強制させられた為やむを得ず成したことであり、その悪しき事、
また自分が臆病であることは承知しているが、領国を失わないためには他に方法はなく、このようにしなければ
大身達が我等に援助を与えないためである。」と弁解した。
この事は彼の大いなる誤りであり、もしその父のように信仰が堅固であれば、その望みに対して却って
好都合であっただろう。

このように若王が屈服したため、我等に対する迫害は増加し、迫害者は言葉によって侮辱するだけではなく、
各地において毎日のように死刑の宣告を下した。こうしてしきりに友人、並びに敵の使者が来て、間もなく、
或いは夜中に殺されるだろうと知らせたため、我等は毎日毎夜、絶えず恐怖を抱き死の準備をなした。
府内の住院においては夜になると上長(カブラル)が一同を激励し、死を迎える力をつけた後、互いに
抱擁決別し、終夜殺しにくる人を警戒した。

老王はしばしば我等を励ましまた慰め、もし事起こらば我等と共に死すべしとまで言ったが、騒ぎは大きく
敵は甚だ強力にして、さらに政治は既に老王の手に無かったため、我等の恐怖には正しい理由があった。

かくしてこの苦難は数日継続し、その間祈祷、ジシピリナおよび断食を成し、二ヶ月半の間は昼夜祈祷を
続け、イルマン達は各々時間を定め、常に何人か祈りをすることと成した。
若王が信仰を棄て、この迫害によりキリシタン達は嘲笑を被ったため、新たに洗礼を受けた者の多数は
信仰を棄てたが、老王および野津のレアンのように信仰堅き者も少なからず、その熱心は益々加わり、
また新たにキリシタンと成る者も絶えなかった。

(1579年12月10日(天正7年11月22日)付、パードレ・フランシスコ・カリヤン書簡)

34人間七七四年2019/05/17(金) 04:23:46.41ID:w2OiBgOR
(天正2年(1574)。遠江浜松への侵攻後)

勝頼公(武田勝頼)は平山を越え信州伊奈へ御馬を入れた。それから伊奈にて信虎公(武田信虎)は81歳
で勝頼公に御対面なさる。

勝頼公が「甲州へ信虎公を入れ参らせよ」と仰せられたところ、長坂長閑(光堅)が分別致して申されて、

「信虎公はまったく尋常ではない荒大将です。いくつになられても御遠慮なさることはありますまい。その
うえ、逍遙軒(武田信廉)・一条殿(一条信龍)・兵庫殿(河窪信実)・典厩(武田信豊)・穴山殿(穴山
梅雪)、その他御親類衆は多いため、(御親類衆が)御逆心なさるかも分かりません」

との由を申すことにより、信州伊奈での御対面となったのである。

長閑が申したように勝頼公と御対面の座で、信虎公は「勝頼は母方は誰ぞ」と尋ね給う。これを長閑が承り、
「諏訪の頼茂(諏訪頼重)の娘子でいらっしゃいます」と申す。信虎公は少し御機嫌を損ねられて「勝頼は
今年いくつぞ」と御尋ねになった。これを長閑が承り「29歳でございます」と申した。

その後、信虎公は各々侍大将衆を御尋ねになった。昔の親の名字を名乗る者は1人もいなかった。工藤源左
衛門を内藤修理(昌豊)と申し、教来石民部を馬場美濃守(信春)と申し、飯富兵部(虎昌)の弟を山県三
郎兵衛(昌景)と申した。信虎公は高坂弾正のことを御尋ねなされ、「伊沢の春日大隅の息子」と申した。
信虎公は聞こし召して、「百姓を大身にするとは信玄の分別違いである」と仰せられた。

ところで、この機会に武田の御重代(家宝)左文字の御腰物を押板の上に立て置きなさったのは、信虎公が
45歳で甲州を御出になってから37年、81歳の時に御帰参なされて、孫でいらっしゃる勝頼公に御対面
なさるということで武田の重代を御座敷に置きなさったわけで、もっともなことである。

そんなところで信虎公はこの御腰物を抜き給う。信虎公はこの刀で50人余りを御手討ちになさったのだが、
「中でも内藤修理と名乗る奴の兄を袈裟懸けに切ったのだ」と、仰せられた。

その後、信虎公は勝頼公の御顔を御覧なされ、左文字の腰物を御抜き持ちながら「このように!(切った)」
となされた。座中はことごとく凍りつき、目も当てられぬ模様であった。

そんな中で小笠原慶庵は心の剛なる人である故、「このようなついでに聞き及んでいる武田の御重代を拝み
申したい」と申されて、信虎公の御側へ参った。そして勝頼公の間へ入って御腰物を無理に奪い取り、鞘に
納め戴いて長閑に渡した。

信玄公は御相手に小笠原慶庵を頼もしく思し召し、御話相手になされた。大勢の中で慶庵を大事のところへ
と召し連れなされたのは、このような人と慶庵を御目利なされたからである。信玄公を諸人が尊び奉るのは
もっともなことである。

その後、やがて勝頼公は甲府へ御帰りになったが、信虎公は伊奈に差し置きなされたのは長坂長閑の分別が
良き故なり。そして信虎公はやがて御他界なされたのである。

――『甲陽軍鑑』

35人間七七四年2019/05/17(金) 07:41:32.52ID:EMUiFFNb
>>34
信虎がやばすぎて草、そら追放されますわ

36人間七七四年2019/05/17(金) 09:29:42.79ID:tI1C2xsG
(誰だよこんなの呼び戻してきた奴・・・)

37人間七七四年2019/05/17(金) 09:54:21.30ID:vPXWVMD0
てか信虎長生きだな

38人間七七四年2019/05/17(金) 10:35:18.75ID:nH85bSJc
(だからやばいって言ったやん・・・)

39人間七七四年2019/05/17(金) 10:35:53.50ID:3JPX1a4D
「内藤修理の兄貴をこの刀で袈裟がけに斬ったんじゃ〜」というのは、80過ぎてボケていたからと思いたい…。

40人間七七四年2019/05/17(金) 13:58:13.33ID:viLJ6jis
>>39
ボケてるんならそういう雰囲気にならなきゃそんな事するわけないし、それでも当主の勝頼に向けてやるはずがない

41人間七七四年2019/05/17(金) 23:29:12.88ID:LonsrQcf
こりゃ牛馬畜類まで愁悩しますわ

42人間七七四年2019/05/18(土) 05:45:56.56ID:GNN10F73
甲州軍鑑でも、こういうところでは創作しないで当時あった逸話を拾ってきているだろうしなぁ…
そりゃ、一族重臣総出で追放するわな。

43人間七七四年2019/05/18(土) 07:56:39.50ID:4ffkuKZb
>>34
>信虎公はまったく尋常ではない荒大将です。いくつになられても御遠慮なさることはありますまい。
しっかり想定されててしかもその通りなのが凄いw

44人間七七四年2019/05/18(土) 15:03:48.62ID:kgdWSgPA
完全にサイコパス
しかも殺しまくりのヤバい方
正体を隠そうともしないし

45人間七七四年2019/05/18(土) 17:52:01.62ID:Wwgww9Qv
漫画『花の慶次』での有名な場面として、秀吉に謁見した前田慶次が、虎皮の裃や奇矯な袴にわざと横向きにに結った髷で、
顔を横向きに頭を下げて意地を示し、その直後に装束を改めて見事な武士っぷりを見せるというシーン。
作中でも屈指の名場面ですが

「今度は成程くすみたる程に古代に作り、髪をも常に結直し、上下衣服等迄平生に改め・・」

と『可観小説』の一文が引用されていますのはご存知の方も多いかと思います。

ですが実は可観小説にこのような個所は存在しません。

では捏造か?というとそんな訳ではなく、大正時代に前田家が編纂した『加賀藩史料』が原作者・隆慶一郎の元ネタです。
加賀藩史料は古文書や書籍からの引用文を掲載し国史体で編纂されており、慶長10年11月の個所で慶次の略伝として様々な
書籍資料から引用紹介されていますが、このエピソードは加賀藩家老今枝直方の著作『重輯雑談』からのものなんですね。
つまり原作者は引用箇所のページ数と書籍名を間違っていて、それがそのまま漫画に掲載されて世に広まってしまったと。

自戒として、こういうスレに限らず元ネタと引用先は気をつけねばなりませんね。
加賀藩史料は国会図書館デジタルアーカイブでウェブ閲覧できますのでぜひご覧ください。

ちなみに可観小説の著者、加賀藩の儒者青地礼幹は直江兼続の養女(姪)の子孫です。

46人間七七四年2019/05/20(月) 03:38:02.63ID:lSOa7hwQ
安宅摂津守冬康。法名・一舟軒。長慶弟。

淡路国守護。度々手柄を致す。良き大将でござった由を申し伝える。隠れ無き歌人でござった。

天下の望みがある由につき、長慶は家老の松永弾正久秀や三好下野守(宗渭)などと相談して、
後には摂津芥川の城において、吉成勘助と申す者に申し付けて成敗致した。

供に参った家子は数百人。安宅の家老・里吉と申す者などは殊の外働き、いずれも討死。味方に
も手負い死人数多ござったとの由を申し伝える。長慶嫡子・筑前守(義興)在世の時と聞き申す。

――『三好別記』

47人間七七四年2019/05/20(月) 08:17:43.22ID:BV914y30
安宅冬康「三好池田の安宅屋のあたぎや羊羹でござる」
http://www.atagiya.co.jp
松永「ありがたい、お茶を点てましょう」

48人間七七四年2019/05/20(月) 08:52:01.21ID:pftXFin2
>>46
>供に参った家子は数百人
合戦だなもうw

49人間七七四年2019/05/20(月) 13:44:26.48ID:eIFVPv4q
週刊ジャンプであの連載で大人気って、今思うと凄いな

50人間七七四年2019/05/20(月) 16:08:18.65ID:6vZU7cQO
>>45
可観小説に書かれたエピソードは、利家を水風呂に入れる話だね。

51人間七七四年2019/05/20(月) 16:33:26.02ID:0Xfn6F6C
また三好長春(長治)は淫乱不道にして、昼夜酒宴遊興ばかりなれば、酒飲みやおどけ者、軽薄者
ばかりが出世し、少しでも質実な者を「気詰まりなり」と嫌って自分の周りへも寄せ付けず、母儀
の叔父・岡本卜世(原注:岡本美濃守弟)が諫めるけれども聞かず、上下は疎み果てたのである。

また上方よりゑつた(河原者)が下り、本来を隠して勝瑞の町人になった。されども隠れなくして
傍人は付き合いを厭い、そのゑつたを追い出そうと企てたが、かの者の子は生まれ付き優れたので
長春の小姓に使われ出世したためにそれも叶わず、諸人は誹り非難した。

――『三好別記』

52人間七七四年2019/05/20(月) 19:40:48.61ID:3Ffeh8GT
まだ香川家の本拠地が相模国香川荘にあった頃、
香川家の当主が狩の途中に山中で雷雨に遭い、
崖の近くの岩屋(洞穴)に逃げ込んだ。

すると岩屋には先客の老婆がおり、
濡れた体を温めるために火を焚いていた。
当主は火を借りようと老婆の側近くまで行くと、
老婆は当主が名乗ってもいないのに、
「おやおやご領主、寒かろうからこちらへ来て火にあたりなさい」
と当主が香川氏であることを言い当て、
「ご領主、峠で矢をかすめて獲物を逃がした時は惜しかったですな」
「姫君の病は今日は良いそうですね」
などと自分しかわからないような内密な話を次々と口にした。

当主は老婆を人間ではないと見抜いて、
腰に差した太刀を引き抜き、老婆の頭に切りかかった。
ところが太刀は老婆の頭に当たった瞬間、ポキリと折れてしまい、
老婆には傷ひとつ生じなかった。それでも老婆は憮然として、
「ご領主はナマクラな刀しか持っておらぬようじゃ、ならばこの太刀を進ぜましょう」
と言い、見るからも優麗な太刀を差し出したという。

以来、当主はその太刀を香川家の宝刀として珍重した。
人々はその太刀の名を岩屋に因んで「岩屋の太刀」と呼んだという。

53人間七七四年2019/05/20(月) 22:56:34.24ID:7RhZWjUa
>>52
妖怪退治の話しかと思ったら宝刀を貰ったちょっといい話?

54人間七七四年2019/05/20(月) 23:31:06.99ID:/aBGP2PW
この場合の憮然はがっかりでいいのか

55人間七七四年2019/05/21(火) 10:05:44.95ID:Jjm3EpoG
>>52
この刀の持ち主がみんな頭の傷や病気で死ぬ呪いとかそういう話ではないんだなw

56人間七七四年2019/05/21(火) 10:11:10.33ID:zYJMUoDl
>>52
讃岐国香川郡に住まう平氏だから香川氏だと思ってたわ

57人間七七四年2019/05/21(火) 18:10:48.03ID:D7yWtb0Y
三好筑前守(義興)。実名存ぜず。長慶嫡子。

摂津芥川に在城。20歳ばかりで病死致されたとの由を申す。

由座(遊佐か)・畠山(高政)が飯盛の城へ押し寄せて長慶は少ない人数で籠城したため、落城と極
まるところに筑前守は芥川の城でこれを聞き申され、松永(久秀)と相談して「後巻致されるべし」
と談合は極まった。

しかしながら、少ない人数のために成し難いため、安宅摂津守(冬康)に「味方に加わりなされ」と
三好下野(宗渭)を使者にして淡路へ差し遣された。安宅は同心申されて、松永・安宅が先手となり
筑前守は飯盛の後巻として出陣、大敵を一戦で追い払い申された(教興寺の戦い)。この時、筑前守
18歳という。

松永と安宅が先陣を争い申された時の筑前守の裁判は肝を潰したとの由を、三好因幡(為三。宗渭の
弟)の話で承った。

この時に下野守が淡路へ参って帰り、筑前守は「安宅は味方を致しなさると申されたか」と、尋ねな
された。これに下野守は申して「いかにも御同心です。しかしながら、安宅殿に似合い申さぬことを
仰せられました。『御合戦が御利運となったならば、どこの国を下されるのか』と御申しです」との
由を物語り致した。

これに筑前守が「返事はどのように申したのだ」と尋ねなさると、下野守は「『御国はいずこなりと
も御望み次第』と請け合い申しました」との由を申した。

すると松永はこれを聞いて「下野殿とも思えぬ返事を申される。どうして『天下を進ぜられましょう』
と申されなかったのか」と申したという。

この由を側で承ったように因幡は話申された。

――『三好別記』

58人間七七四年2019/05/24(金) 10:14:54.39ID:hDnie7Gp
>>34
珍しく長閑を褒めてるね

59人間七七四年2019/05/24(金) 10:21:51.76ID:hDnie7Gp
>>51
ゑつた、つまり穢多のことですね

60人間七七四年2019/05/24(金) 10:33:26.45ID:hDnie7Gp
>>57
天下の望みが本当かどうかの確認ですね

61人間七七四年2019/05/24(金) 11:45:39.91ID:ISgK1XN7
加藤清正の家臣である森本義太夫(一久)の子(次男)を宇右衛門(一房)という。
牢人の後、宇右衛門は我が天祥公(松浦重信)の時、しばしば伽に出て咄などをしたという。

この人はかつて明国に渡り、そこから天竺に赴いたが、彼の国の境である流沙河を渡る時に
エビを見たが、殊の外大きく数尺に及んでいたと云った。
そこから檀特山に登り、祇園精舎をも見て、この伽藍の様は自ら図記して持ち帰った。(今その
子孫は我が(松浦家)家中にあり、正しくこれを伝えているが、現在有るのは模写だという)

またこの旅の最中、小人国に至り、折節小人が集まって、一石を運んで橋を掛けていたのを
宇右衛門見て、自分一人で石を水に渡したところ、小人たちは大いに喜び、謝礼と思わしき果物を
多く与えられた。これも今に伝わっているが、年を経た故か、現在では梅干しのようになっている。
(また、始めは多く有ったが、人に与えて現在ではわずかに二,三ほどとなっている。)

近頃、ある人によると、この宇右衛門が至った場所はまことの天竺ではなく他の国であるという。
流沙河というのも、これは砂漠のことであり水がある場所ではなく、我が国において普段聞き及んで
いるに任せてそう名付けたのだ。

また山舎の如きも皆異所であろう。彼の国ではああいった類の物はもっと多いはずである。
また小人国というものも南北様々な場所に伝承が有る。この小人国は一体何方のものだろうか。

彼が外域、遥か遠い場所に至った事自体は疑いないが、その当時は世界四大洲の説も未だ知れ渡って
いなかったため、非常に曖昧で分かり難い。

(甲子夜話)

アンコールワットに渡ったという森本一房についての甲子夜話の記事

62人間七七四年2019/05/24(金) 13:34:27.02ID:DIUlQ1Gk
>>61
ガリバー旅行記みたいだなw

63人間七七四年2019/05/24(金) 15:24:00.04ID:5bhEUb8Y
ガリバー「踏み絵を拒否したら怪しまれた」

64人間七七四年2019/05/25(土) 09:39:09.14ID:rLzlw2E3
『雑談集』に曰く、宇喜多中納言秀家は備前一ヶ国の太守であったが、故あって一人娘(実際には妻の豪姫)に
妖狐が憑いて、様々なことを尽くしても退かず、このため秀家も心気鬱して出仕をも止めてしまった。

これを豊臣秀吉が聞かれ、かの娘を城へ召し、速やかに退くよう命を下すと、狐は忽ち退いたという。
かの狐は退く時このように言った

『我は車裂きの罪に逢うとも退くまじと思っていたが、秀吉の命を背けば、諸大名に命じ、西国、四国の
狐まで悉く狩り平らげるという心中を察したが故に、今退くのだ。我のために多くの狐が命を亡くすこと
如何ともしがたき故なり。』
そう涕泣して立ち去ったという。

翌日、秀家は礼射として登城し、その始末を言上した。秀吉は頷いて微笑したという。
(巻二十二・十九)

安芸の宮島には狐憑きというものが無く、また他所にて狐に憑かれた者をこの島に連れて来ると、
必ず狐が落ちる。また狐憑きの人を、この社頭の鳥居の中に引き入れると、苦悶大叫して即座に狐は
落ちる。霊験かくの如しで、近頃私(松浦静山)の小臣も、これは実説であると言っていた。

これによると、昔宇喜多氏の女が蟲狐が落ちず、太閤秀吉が西国四国の狐狩りをせんと言ったという話は
疑わしい。宇喜多氏の領国である備前と宮島はさほど離れていない。であるのに秀家は鼻の先程の場所にある
霊験を知らずに、憂鬱に日を重ねていたことに成る。実に訝しい。(巻二十二・二十九)

(甲子夜話)

「宇喜多の狐憑き」についての甲子夜話の記事

65人間七七四年2019/05/25(土) 10:53:54.78ID:pkUWqy7a
狐のくせに四国には狐がいないを知らないとか

66人間七七四年2019/05/25(土) 11:07:47.02ID:SLI61bsq
>>64
>蟲狐
なんかすげー怖い…。

67人間七七四年2019/05/25(土) 11:19:44.25ID:8K1a1MKB
こきつね

68人間七七四年2019/05/25(土) 19:34:35.29ID:hxMmZEG8
足利義冬より之系図

義冬(足利義維)

尊氏公十代の京都の公方・義稙公の長男(11代義澄の子。義稙は養父)。平島の元祖なり。永正
6年(1509)、京都で生まれる。母は細川讃岐守成元(成之)の娘。天文3年(1534)、
都から阿波国へ下向して那東郡平島庄に居住す。天正元年(1573)10月8日、平島で卒去。
同所西光寺に葬る。年65歳。法名・中山。

義冬が都から阿波国へ下向した趣きは将軍・義稙公の御台を清雲院と申し、阿波国の前細川讃岐守
成元の息女で義冬の母なり。

ところがこの清雲院殿は、ふと狂乱のようになられることにより、義稙公と不和になり給う。それ
故に子息の義冬を少しも寵愛なさらず、あまつさえ公家から御台を迎えなさり、清雲院殿も義冬も
嘆かわしい有様でおられた。

それにより新御台は義冬のことを様々讒言しなさる故、父子の間はいよいよ不和になり給うにつき、
義稙は世を(家督を)義高か義晴に御譲りなさるとの御内存であった。これは皆、新御台に近き一
門である故なり。

これによって清雲院殿と義冬はともに天文3年に四国へと志して下りなさったが、まず淡路志筑の
浦にしばらく居住しなさったところを細川讃岐守から迎船を遣わし、義冬を阿波へ招き受けて平島
に居住させたのである。

義親(14代義栄)

義冬の長男なり。天文7年(1538)、阿波国平島で生まれる。母は周防国の大内介(大内義興)
の娘なり。永禄9年(1566)10月20日、阿波国撫養で卒去。同平島に葬る。年29歳。法
名・国山。内室は結城氏。

義助

義冬の次男なり。天文10年(1541)、平島で生まれる。母は右に同じ。義親が早世故、義助
を惣領に立て義冬の家を継ぐ。文禄元年(1592)7月2日、平島で卒去。同所に葬る。年52
歳。法名・宝山。

義任

義冬の三男なり。天文12年(1543)、平島で生まれる。母は右に同じ。文禄年中に卒去。萩
原光勝院明岳和尚の父なり。

義種

義助の息男。天正2年(1574)9月2日、平島で生まれる。母は周防国の大内介の一族、柳沢
主膳正の娘なり。

義次

義種の息男。平島又八郎と号す。慶長元年(1596)9月23日に平島で生まれる。母は水無瀬
中納言の娘なり。

義景

義次の嫡子なり。元和2年(1616)、平島で生まれる。平島又次郎と号す。

――『阿州将裔記』

69人間七七四年2019/05/27(月) 15:25:22.10ID:70HqE8/o
松永弾正(久秀)の従弟に松永喜内という若者がいた。以前は大和の宇多にいたのだが、その頃は牢人
していたのを、弾正の計らいで義親(足利義栄)に付け置いた。

しかしながら、殊の外に不行儀者で義親の命にも従わないため、義親は喜内を手討ちになさった。

松永はこれを聞いて憤りを含むといえども、義親の道理至極であるためにどうしようもなく、上目には
変わることはなかったが、心中に遺恨を差し挟んで義親と松永は不快のようになった。

そんなところで義親は不運にして病気が差し出て、普門寺から阿波へ帰るとして撫養という所で永禄9
年(1566)10月8日に相果てられた。

義親の逝去は弾正が鴆毒を与えたためという沙汰がある。しかしながら事実ではあるまじきことである。

――『阿州将裔記』

70人間七七四年2019/05/28(火) 00:59:29.72ID:aWEGs2Wh
右の他に三好家は数多存在し、阿波国の所々に居城す。また五畿内には三好山城守入道笑巌
(康長)・同日向守(長逸)・同下野守入道釣閑斎(宗渭)・岩成主税助(友通)・松永弾
正(久秀)とかれこれ所々に居住す。

讃岐には十河一存・瀧宮豊後守、伊予には真辺・石川、淡路には安宅・野口、これは皆実休
(三好実休)に近き一門なり。

国を守護して三好家は繁栄したが、長治(三好長治)が悪心である故に一類は互いに遺恨が
出てきて、親子兄弟が立ち別れて敵となり味方となり、討ちつ討たれつ相果てた。また土佐
の元親(長宗我部元親)にも大方討たれ、信長公・秀吉公の代にもあるいは討たれ、または
他国へ落ち行き、ついに滅んだ。

――『阿州将裔記』

71人間七七四年2019/05/29(水) 17:57:14.41ID:38thBiDl
敵陣に大量のキングコブラをまくという戦法 [無断転載禁止]
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1494619655/

戦国板にもこういうネタスレがありますが、海外ではマジにこういう戦法が日本であったと思われているらしい。
欧州の研究家が江戸時代の軍記物のネタ話を丸写しで信用し、そのまま出典として引用しちゃったそうで・・

The Samurai Capture a King: Okinawa 1609
著者: Stephen Turnbull
https://books.google.co.jp/books?id=hF21CwAAQBAJ&pg=PA50&hl=ja&source=gbs_selected_pages&cad=2#v=onepage&q&f=false

72人間七七四年2019/05/29(水) 18:27:45.34ID:g8U7CXov
>>71
まあ日本でも三国志のぶっ飛んだ逸話信じてる人いるししゃーない

73人間七七四年2019/05/29(水) 18:42:47.13ID:AEb8hRxI
>>72
同じ伝記でも水滸伝だと完全にフィクションだろってことでスルーなんだけど、
下手に歴史物な三国志だと信じる人結構多くなっちゃうねい。

74人間七七四年2019/05/29(水) 19:18:47.59ID:mk5fFJh4
鈴木真哉「戦国時代の計略大全」p189だと
甲州流、北条流などの軍学書にな、蛇攻め、もしくは蛇責めというものがあるが中身の説明はまったくないので実態不明。
浸し攻めと並ぶ水攻めの方法の一つ、と書いたものがあるから
蛇が水没したねぐらから城に入って人々を苦しめる程度の小規模の水攻めだろう

としていた。

「蛇を撒く」だと、むしろ
フラウィウス・ヨセフス「ユダヤ古代誌」にある、
エチオピアがエジプトを攻めた際、モーセが敵陣に奇襲をかけるために
蛇がうようよする内陸の道を、蛇を食べるトキを連れて通り、見事奇襲に成功した。
という映画「十戒」でもネタにされている話の方が近いような。

75人間七七四年2019/05/29(水) 19:30:43.27ID:znGVlwxs
>>72
薩摩の琉球攻めの軍記物だから、三国志演義の南蛮攻略とほぼ同じノリなんだよねえ
おそらく実際に参考にしてると思う

76人間七七四年2019/05/29(水) 20:47:43.30ID:F/n+f8Zb
前田利常が蛇責めやってたゾ

77人間七七四年2019/05/29(水) 21:05:19.62ID:kRg60A/1
>>76
拷問と城攻めを一緒にしちゃいかん

78人間七七四年2019/05/29(水) 21:11:48.92ID:UGOt4bAO
スサノオがオオクニヌシにやってたゾ

79人間七七四年2019/05/30(木) 09:30:54.16ID:GaQuAx5H
著者のタンブル氏は欧米で東アジア戦史に関しては、日本で言えば小和田・本郷ポジションだもんな
思い込みと資料の未精査と誤訳も多いけど

80人間七七四年2019/05/30(木) 11:29:15.28ID:rRAGmZNE
>>71
薩摩の琉球侵攻作戦にしか見えない
ハブ撒いたの琉球じゃん

81人間七七四年2019/05/30(木) 12:13:52.40ID:Oa0G9WWv
Kindleで出てたから買って読んだら
・1942年にドイツ語で薩摩の琉球侵攻の本が出ているが
軍記物を参考にしていてあてにならない
・良質な史料としては琉球サイドの喜屋武親方の「喜屋武日記」
薩摩サイドの「琉球渡海実記」「琉球軍記(軍記とはあるが史実的に正確)」
・軍記物で記述されてる人物も実在の人物と乖離しているものとしては「島津琉球軍精記」それを基にした「絵本琉球軍記」がある
・何百匹ものハブを集めて放した話は「喜屋武日記」にはないが薩摩方の記録にある

となっていた。
ぱっと読んで違和感があったのは
・島津忠久は頼朝の庶子。頼朝が嫉妬深い正妻から離すために忠久を遠国の領主とした
・琉球の初代国王舜天は追放先から逃亡した源為朝の子供と言われるが、為朝には追ってきた船を矢を放って沈没させたあと切腹したという説もある。
(外国の読者に、矢で船を沈没させるよりは逃亡した方がありえそう、と思わせるような内容)

82人間七七四年2019/05/30(木) 15:18:13.68ID:w6dJrsKv
一、細川讃岐守持隆の内室は、周防国の大内介(大内義興)の息女なり。この内室の妹を持隆は呼び越し、
  義冬(足利義維)の御台にした。義冬の行末のことを持隆は思って、このように調えたのだという。

一、細川讃岐守持隆がある時に家老と三好一族を呼び集めて申したことには、「義冬公を当国に長く置き
  奉ることは、いたましく存ずるなり。各々の知略をもって義冬を一度天下に据え申したいと念願して
  おるのだ。どのようにすれば良いか」と申せば、いずれの者も同心した。

  そんなところで三好豊前守義賢(実休)1人がこの事に同心せず、あまつさえ顔色を変え持隆を散々
  に罵った。持隆は言うに及ばず、座中の皆が案に相違すると思ったのである。

  持隆はこの事を口惜しく思い、まず義賢を討ち果たして憤りを散じようとして近習の侍どもに密かに
  内談し給うと、四宮与吉兵衛という者は義賢に返忠して、これを告げ知らせたのである。

  これにより義賢は思案して近習の者をもって申したことには、「先に持隆が仰せになられたことをそ
  の時に同心仕らず、私としてもその事で戸惑っています」との由を、持隆の機嫌の良きように申しな
  した。さてその後に手勢、また近き所の一族を義賢は密かに呼び寄せ、勝瑞に近いあちこちの村里に
  隠し置いた。

  義賢はかの四宮をもって持隆へ申し、「北の河原で御逍遥(散歩)なされませ」と諸々謀り申した故、
  持隆は逆心とは思いも寄らず、天文21年(1552)8月19日に見性寺の前へ出給う。義賢が隠
  し置いた人数は一度に押し寄せ、持隆を取り囲んで鬨の声を揚げた。
  
  持隆はかねて無勢の上、供の者どもは落ち散り防ぐ術もなく、どうしようもないところで星合弥三郎
  と蓮池清助という者2人が踏み止まって持隆を見性寺へ退かせた。

  義賢の弟・一存(十河一存)が込み入って持隆をただちに討ち取ろうとしたのを、清助が押し隔てて
  防ぐ中、持隆は切腹して星合が介錯した。この2人の者は常々持隆の厚恩もない者どもであったが、
  義を守り2人ともに立ったままで切腹した。

一、持隆の外戚腹に六郎という幼少の男子がいた。義賢が申すには「持隆を討ち奉ったのは身の災いを逃
  れるためである。六郎殿に恨みはない。主君に崇めん」として、六郎を育て置いた。細川六郎掃部頭
  真元(真之)これなり。この真元の母は阿波国西条村の岡本美濃守の息女である(小少将)。持隆の
  死後に義賢は真元の母を妻とし男子2人をもうけた。一男は彦次郎長治、次男は孫六郎存保という。

一、返忠の四宮与吉兵衛は「無道の者なり」として、義賢は四宮を翌年の春に誅した。

――『阿州将裔記』

83人間七七四年2019/05/30(木) 17:56:57.91ID:yM5amPZr
>>81

英文だからしかたないが誤字ありますね
薩摩の琉球侵攻の薩摩・琉球それぞれの一次史料とされるのが、市来孫兵衛『琉球渡海日々記』、喜安『喜安日記』

影佐『琉球軍記(琉球入ノ記)』はさほど年月が経たない時期に書かれたとされていますが、七島衆(吐?喇列島)の
船頭衆が功績を誇示するためにかなり膨らませて書いたと考察されてますんで、あんま参考にしない方がいいかと思います

一次史料を見る限りは沖縄本島での戦闘は、首里の手前で100余人の琉球軍が薩摩軍の鉄砲で散々に打ち破られたという程度
(ただし薩摩軍は行く先々で放火してますが)
以前NHKの琉球特番でもやった、那覇港要塞の火砲で島津船団を撃退したというのは琉球軍記の記述です
でもこれもどうやら・・

84人間七七四年2019/05/30(木) 18:01:59.35ID:Oa0G9WWv
>>83
原文のローマ字表記をこんな漢字だろう、としてみたら随分違いました
ちゃんと原文通り書けばよかったですね、すいません

85人間七七四年2019/05/30(木) 18:13:15.89ID:yM5amPZr
https://i.pinimg.com/originals/4f/fd/32/4ffd32696d17a0d13c814d38a57c65b0.jpg
https://i.pinimg.com/236x/c2/51/2d/c2512d1808a489d1399889d3486f679d--samurai-wars-katana.jpg

資料の存在しない琉球軍の想像図が酷過ぎるが、まあ日本人も外国中世風ファンタジーではよくやってるからいいか(よくないけど)

86人間七七四年2019/05/30(木) 18:22:45.81ID:yM5amPZr
ところで、琉球時代の歌謡集『おもろさうし』では、薩摩軍の侵攻などを歌った部分に、薩摩兵を前坊主(まえぼじや)と呼んでいるので、
月代を剃っていたのが確実視されているとか

87人間七七四年2019/05/30(木) 18:47:21.84ID:Oa0G9WWv
そのあたりの記述
琉球の防衛側の武装については島津に比べほとんど不明。
おそらくは原始的でないにしろ島津より劣っていただろう。
もともと日本や明から武器を輸入していたのだが、1450年代の倭寇のせいで明の福建の商人が琉球に武器を売らなくなってしまった。
また明同様、日本刀は珍重されていたが長いkatanaは実用的ではないため短いwakizashiを使っていたと思われる。
木製の盾も使っていた。
おそらく日中折衷の武装で弓、刀、槍、銃、ハルバード(中国式の広い刃か日本式のnaginata)も使っていた。
琉球の王は早くから火器を取り入れており、1450年代の朝鮮の漂流民は琉球での火器仕様について触れている。
喜安日記には「敵軍(島津)は弾を浴びせながら橋を攻略してきた。我々はそのような銃は知らなかった」と書いてあるが
それは一斉射撃を知らなかっただけで火縄銃自体はあったと思われる。
また石火矢という琉球製の大砲もあり、1貫(3.75kg)の弾を発射したとされるが、
これは首里城から発掘された直径7-9cmの弾と合致する。
また石火矢は那覇港にも設置された。

88人間七七四年2019/05/31(金) 13:29:29.80ID:FGlWUgeb
陣中においては人気が立つものと云う。その気に生死吉兆があり、物慣れた人はこれをよく見分けるのだそうだ。

大坂御陣の時、冬陣に城中の気を見ると、晴天でも薄暗く、ものの見分けが出来ないほどであった。
しかし夏陣では曇った日であっても、これを見るに城中白けて良く見え渡ったと云う。
これは生死の気と云う。

(甲子夜話)

89人間七七四年2019/05/31(金) 18:36:38.03ID:lX7j0Ovy
『偽のなき世なりせば世の間に たが誠をもうれしからまし(『いつわりのなき世なりせばいかばかり
人の言の葉うれしからまし』の派生)』という歌を人に習って、高坂弾正がここに記し申すのは、

この書き置きがもし落ちて人々が見給うとしても、盛んな家において奉公衆の大小上下ともに心入った
武士が御覧になれば大いに笑いなさるであろう。しかし、これはまたそのような良き人へは深く、この
ようにして衰える家の無穿鑿な奉公衆へは心付け参らせるためで、いかにも愚痴な書物である。以上。

高坂弾正が申す。まことに私めは文盲第一でまったく一文字を引くこともできないが、傍輩の中で深く
分別に達した大剛の名人に親しく雑談を常に聞き、百に一ばかりは覚えていて少しは心付いてもいる故
か、また余の傍輩衆で良き程の人々が申されたことまで聞き書き仕り、只今紙面に表したのは、

今年長篠で勝頼公が後れを取りなされた故に、良き武士百人は98人が討死した。その人々は皆生まれ
変わるので、そのために書き置き参らせる(よき武士百人は九十八人うち死して、みな生れかはりにて
候間、其為にかき置まいらする)。

長坂長閑・跡部大炊助殿は必ず人に見せなさるな。もしまたは見せなさるとも、当御家に二代も奉公致
す子供数多の人には見せなさるとしても、牢人衆に見せなさっては中々高坂にとって現世来世までもの
恥であり、かつまた御家の傷になる。深く慎め慎め。件の如し。

――『甲陽軍鑑(品第四十上 石水寺物語)』

90人間七七四年2019/05/31(金) 19:05:13.61ID:TpoYaScU
>>87
https://thetv.jp/i/nw/103166/570881.jpg
沖縄の琉球放送で製作した特別ドラマ「尚巴志」の画像だけど、まあ実際の15世紀初めもこんなもんだったんじゃないかってことだそうですよ。
頭だったものは日本式の武装で、あとは手に入るめぼしい武器、雑兵は平服に棍棒だとか。

中国や東南アジアの武器が出土しているにしろ、必ずしも異国風が主流ではなく、やっぱり本土日本風らしく、例えば博多や堺で
中国南蛮の出土品が見つかったからといって、当時の風俗が中国南蛮風だったかというとそうじゃないようなもので。


でもこういう厨二風の独自のやつもあるので、なんかわくわくしますね琉球時代の沖縄。
https://vps8-d.kuku.lu/files/20190531-1848_ac8b40959509e14bf60d30ebc0413f15.jpg

https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/21/21195/15959_1_首里城京の内跡出土品展.pdf

91人間七七四年2019/06/01(土) 08:34:42.68ID:tqmeloYc
>>89
さすがは元百姓、譜代の重鎮に向かって何たる言い草
まさに分別違い、その上老害ときたか

92人間七七四年2019/06/01(土) 16:30:35.40ID:tPHC7BVm
外人さんの価値観で日本史を再構築されるのなんか嫌だ。
意識高い系の黒人さん達が弥助をモデルに映画化するんだけどちょっと美化が過ぎる。
奴隷じゃなかったとか、日本では仏像が黒いから尊敬の対象として見られてたとか
現代の価値観でブラッシュアップしすぎ。

93人間七七四年2019/06/01(土) 21:43:40.45ID:wUAqMo66
でキャストも日本人一人もいなかったりしてねw

94人間七七四年2019/06/01(土) 23:26:18.37ID:lKcUPN5J
日本人だってヒラコーとかが好き勝手やってるから無問題

95人間七七四年2019/06/02(日) 05:07:03.89ID:myTmwpEj
>>93
さすがに1人はいるだろう…渡辺謙とか

96人間七七四年2019/06/02(日) 17:26:04.25ID:hP+zLXOQ
仏像が黒いのは禅宗ダゾ
うちは浄土系だから金ピカ

97人間七七四年2019/06/02(日) 18:31:31.03ID:INaZgM35
大国主(おおくにぬし)→ダイコク→大黒天(マハーカーラ)の垂迹
大きくて黒い男が神様仏様扱いされても問題ない気が

98人間七七四年2019/06/02(日) 18:35:59.90ID:fbrKsrrq
>>97
宣教師の記録見ても日本人の記録見ても、どうみても珍獣扱いなんですが

99人間七七四年2019/06/02(日) 19:08:34.47ID:y+oIOg2Y
>>86
沖縄で波平スタイルのひとはどういう扱いだったのか

100人間七七四年2019/06/02(日) 20:23:22.59ID:BkTlaOA4
坊さんだったらまた違ったろうが奴隷だしな…>弥助

101人間七七四年2019/06/02(日) 21:22:08.93ID:4fi9sHcb
>>98
制作者は弥助を洗った話などの宣教師の記録は黒人を貶めるための嘘と言ってるが
同じ宣教師の記録でも信長が城持ちにさせてやると言った件は映画に組み込むらしいよ
花の慶次並みのでっち上げヒーローを作る気でいるみたい
黒人の地位向上の為のなんちゃって日本の歴史が世界にばらまかれる

102人間七七四年2019/06/03(月) 00:19:00.80ID:jqkjDxBD
信長が疑って洗わせたのも差別って言われそうだよね
今の感覚で考えないでくれ

103人間七七四年2019/06/03(月) 07:42:24.93ID:oDTu8Lzk
禅僧でも城持ちになれる時代だしいいんじゃね

104人間七七四年2019/06/03(月) 11:10:13.32ID:k7P3FsGF
映画製作者「フロイスや太田牛一や松平家忠の書いてる内容は信憑性低いと考えて、我々の考えた真の弥助像を描きました」
と言い出したりして

105人間七七四年2019/06/03(月) 14:33:42.04ID:Zjew9uM6
黒人でユダヤ人でゲイでヴィーガンなヤスケが本能寺でポリコレ棒を振り回して大奮闘するよ

106人間七七四年2019/06/03(月) 18:06:07.99ID:LHCbPT9u
義昭(足利義昭)を都に据え置かれたが、信長と不和になって天正の初めに山城宇治にて合戦あり
(槇島城の戦い)。義昭公はたちまち敗軍して河内若江庄へ落ち行き、左京太夫義誥(三好義継)
を頼みなさったけれども、どのように思ったのか城中へも入らなかった。

そのようなところで同じ若江の住人・乾太郎右衛門定直という者は、先年に義冬(足利義維)が都
から阿波へ下向した時に下った者であるが、義冬が周防へ下向した時に子細あって暇を乞い、故郷
若江に帰り義誥の旗下になっていた。定直は義昭公の有様をいたましく思い、自分の館へ招待した。

義昭公は定直の先祖を尋ねなさって、定直を“乾内蔵允義直”となされ給う。義昭公は乾の館で数日
過ごされなさったが、取り立てる人もいなかった。

――『阿州将裔記』

107人間七七四年2019/06/03(月) 18:08:57.17ID:20dOUEtw
日本語でおk

108人間七七四年2019/06/03(月) 20:57:17.74ID:52elCf5X
まんこ

109人間七七四年2019/06/04(火) 08:55:14.01ID:yjPfJm9C
義昭さんは信長さんの言うこと聞いとけば良かった

110人間七七四年2019/06/04(火) 14:03:19.65ID:19lOBpdD
統治機構パクれた時点で用済みではあるからなぁ

111人間七七四年2019/06/04(火) 14:53:53.73ID:cSFIfsi/
一、畠山右衛門督高政は前将軍の時から牢人して紀州広という所にいたが、将軍(足利義輝)より密かに免
  状を差し遣わし、「実休(三好実休)を討ち取るべし」との由を仰せ付けられた。高政と細川・三好家
  は年来の仇敵である故なり。

  高政は畏まって紀州の諸侍や熊野根来まで借り催し、その勢1万5千余騎。永禄3年(1560)2月
  下旬に紀州を出立し、まず和泉岸和田城を攻めた。これは阿波から実休を誘き出そうとの謀なり。

  岸和田城は実休上洛中の宿りの城で、舎弟の安宅摂津守(冬康)を籠め置いていた。案の定、この由を
  聞き付けて阿波から実休が人数を引き連れ、後巻を仕る。さて久米田という所で一戦に打ち負け、同年
  3月5日に実休自害す。これにより高政はたちまちに運を開いた。

一、その後、和泉の筒井喜三という者は人数2万ばかりで阿波木本という所に打って出て、三好家と度々戦
  うが、ついに三好宗三(政長)に討たれた。これも義輝から喜三方への内意と聞く。その子細はこれほ
  どの大乱で三好左京太夫義誥(義継)は、両度の合戦に虚病を構えて出合わなかった。

  義誥は義輝公の従弟婿であることにより、両陣ともに出立しないようにとの由で、義輝公からの内書が
  あった故である。さて喜三討死の後は、義誥の他の三好家は義輝と不和になったという。

――『阿州将裔記』

史実と合いませんが義輝の策謀を伝えるものでしょうか

112人間七七四年2019/06/04(火) 18:41:52.30ID:yjPfJm9C
義輝さんて松永久秀から悪人呼ばわりされたこともあるとかなんかで見た
将軍家ってやっぱり少なからず陰謀しないと生きてけないんだろな

113人間七七四年2019/06/04(火) 18:57:10.59ID:cSFIfsi/
小田原の北条氏政より、信玄公御他界かとのことをよく見届け申すべく、いたひえ岡江雪を差し遣しな
された。武田の家老各々は謀をもって江雪をしばらく留め申す様を仕り、その後の夜に入り逍遙軒(武
田信廉)を信玄公と申して御対面なされ、八百枚に据え置き給う。

御判の中でいかにも御判の不出来なものを選び、御返事を書いて江雪に渡すと、流石に賢き江雪も真と
仕って小田原へ帰り「信玄公は御在世なり」と氏政へ申し上げた故、御他界の取り沙汰しは無かったの
である。以上。

――『甲陽軍鑑』


信玄ついに逝去の時、遺言あってかの死去を隠し、ただ御病気とばかりの風説であった。これは四方皆
が敵であり、御逝去と聞けば小田原との御無事も破れることを迷惑して、このように計らったのである。

されども、その事は大方風聞したので、その実否を知るために小田原から板部岡江雪が御使者に参った。
これは信玄の病気について御心許なしとのことである。

甲州侍は殊の外迷惑し、色々の計りをなす。信玄の舎弟・逍遙軒はよく兄に似ておられたので、夜に入
ると逍遙軒を屏風の中に寝かせた。さて江雪を近い所に召し寄せ、逍遙軒は寝ながら返事をなされた。

流石の江雪も夜のことではあり、そのうえ逍遙軒はほうほうとしておられたので見違え、信玄と思って
帰り、「正しく信玄は御存生にて候。ただ御病気でいらっしゃいます。私は対面仕りました」とのこと
であった。

これにより小田原では「信玄が死に給うというのは誤りなり。存生である」とばかり存じたのである。

――『北条記』

114人間七七四年2019/06/04(火) 19:05:59.16ID:7kLGMBrD
>>113
写真もない時代だし、数年前に一度あったきりだろうしそりゃここまでされたらわからんな。

115人間七七四年2019/06/05(水) 21:36:25.57ID:q6z+kKQZ
阿波国三好之系図

三好の元祖は信濃国の小笠原成由(原注:ある説は長房)の後胤である。阿波国三好郡に居住する故、
三好という。

之長

初めは三好主膳正と号し、細川氏に仕えて後に筑前守と号す。三好に在城す。

三好が天下に名を顕したのは文明の頃。北国勢が2万余騎で都へ攻め上ったのを、細川が対陣の時に
三好は3千騎で先駆けして洛外で合戦した。

北国勢の謀には車菱という物を先手の者に1つずつ持たせ、逃げる真似をして道にまき、その菱を敵
に踏ませて、たじろぐところを討ち取ろうとの企みであった。

ところが三好勢が少ないのを見て、「味方の同勢は待てない。先手の勢だけで三好を討ち取れ!」と、
かの車菱を投げ捨てて掛かって来た。

三好は小勢であるといえども、各々が心を一つにして槍の柄を四方竹に拵え、之長の下知に任せ一同
に掛かったため北国勢は敗北したのだが、捨て置いた車菱を踏み立てて慌てふためいた。北国の後陣
も道を塞がれ、助けに来る者が叶わずに見えるところを追い詰めて1万ばかりを討ち取った。

その後また京都の合戦(等持院の戦い)に打ち負けて之長は切腹した。法名・喜雲。

――『阿州将裔記』

116人間七七四年2019/06/06(木) 10:59:20.07ID:d8YutnuM
>>112
義輝殺しって本当は義輝を操ってた側近を誅殺しようと引き渡しを要求したのに義輝が庇って要求を突っぱねたので攻め落とされたものらしいな

117人間七七四年2019/06/06(木) 13:38:29.79ID:ARU3QTOf
君側の奸を除くって、一番アレな挙兵理由じゃないですかー

118人間七七四年2019/06/06(木) 14:27:08.64ID:ktSs7bxg
永楽帝「君側の奸を除くために挙兵したというのに、
建文帝が自殺されてしまうとは、なんということだ」

119人間七七四年2019/06/06(木) 14:34:44.85ID:4tF7vR8z
>>117
安禄山「楊国忠を排除するための義兵だお」

120人間七七四年2019/06/06(木) 14:43:41.92ID:ktSs7bxg
今昔物語集巻10第7話 唐玄宗后楊貴妃依皇寵被殺語 だと
安禄山という「心賢く、思慮深い」大臣が
玄宗皇帝が楊貴妃に溺れ、その兄の楊国忠に政治を任せてるのに愁えて
世を正すために宮殿に兵を率いて押し行ったら、玄宗皇帝が勘違いして逃げちゃった
ってことになってるからセーフ

121人間七七四年2019/06/06(木) 20:49:45.58ID:ePlAaJVM
大坂の御城内、御城代の居所の中に、明かずの間というものがあるそうだ。それは大きな廊下の側にあるという。
ここは(大阪夏の陣による)5月落城と時から閉じたままにて、今まで一度も開いたことがないといい、
代々のことであるので、もし戸に損じた所があれば板でこれを補い、開かぬようにと成し置いていた。

ここは落城の時、宮中婦女の生害した場所と云われ、そういった由来の故か、今なおその幽魂が残って、
ここに入る者があれば必ず変異災いを成すという。また、その部屋の前の廊下で寝る者があっても、また変異の
事に逢うという。

観世新九郎の弟宗三郎、その家技の事によって、稲葉丹州が御城代の時これに従って大阪城に入った。
ある日、丹州の宴席侍って飲酒し、覚えずかの廊下で酔臥した。

翌日、丹州が彼に問うた「昨夜怪しいことはなかったか?」宗三郎が、そういう覚えはない事を答えると、
丹州曰く「ならば良し、ここはもし臥す者があると、かくかくの変がある。汝は元来この事を知らず、
よって冥霊も免す所あったのだろう。」
これを聞いて宗三郎は初めて怖れ、戦慄居るところを知らずという。

またこの宗三郎が語る所によれば、天気快晴の時、かの部屋の戸の隙間から覗い見ると、その奥に
蚊帳と思しきものが、半ば外れ、なかば鈎にかかっているのがほのかに見えた。また半挿(湯水を注ぐための器)
のようなもの、その他の器物などが取り散らしている体に見えた。であるが数年久しく陰閉の場所故、
ただその状況を察するのみであると、いかにも身の毛もよだつ様子で話した。

また聞いた話では、とある御城代某候がここをその威権を以て開いたことが有ったが、忽ち狂を発せられ
それを止めたという。誰のことであろうか。

この事を林氏(林述斎か)に話した所、彼は大笑いして
「今の大阪城は豊臣氏の時代のものではなく、元和偃武のあとに築き改められたもので、まして家屋のたぐいは
勿論みな後世のものです。総じて世の中には、そういった実説らしい作り話が多いものです。その御城代という
人も、旧事の詮索がないばかりに、斉東野人(物を知らない田舎者)の語を信じたというのは、まったく
気の毒千万です。」と言っていた。

林氏の説はまた勿論なのだが、世の中には意外の実跡というものもあり、また暗記の言は的證とも成し難い
もので、故にここに両端を叩いて後の確定を待つ。

(甲子夜話)

122人間七七四年2019/06/06(木) 21:51:35.32ID:48Km5ZhF
>>121
面白いwいつの時代も人間は変わらんなぁ。

123人間七七四年2019/06/06(木) 22:49:04.93ID:5yCAa8rV
林氏「なんだこれ、創作乙ww」
松浦静山「いや、でもこれ本当の話かもしれんよ?」

戦国ちょっといい悪い話スレ・まとめブログみたいなw

124人間七七四年2019/06/06(木) 23:33:00.37ID:hBrP2F1J
火薬で鉄砲撃つ時代に何言ってんだと思うが当時の人的にはそうなんだな

125人間七七四年2019/06/07(金) 07:45:07.39ID:fzkd+7XF
>>123
そういうやり取りがこうして>>121残ってるのもまた良いなぁ

>>124
電灯もない時代は今よりずっと夜が怖くて不気味だったろうし、いろいろ違うんだろうね

126人間七七四年2019/06/07(金) 08:12:05.47ID:AktD/lec
>>125
肝試しに行って背後の気配に振り返り打ちかかって逃げる
翌朝になって確かめると地蔵だったなんて定番だし

今日の明け方、パンパンパンと濡れタオルを広げるような音をさせながら何かが近づいてきて俺の布団に潜り込んだところで目が覚めた
金縛りにもならんかったし普通の夢なんだろうけど、近づかれているときはちょっと怖かったなあ

127人間七七四年2019/06/07(金) 12:45:53.27ID:6P9hJ6Th
現代の学校や廃墟ですらみんなキャッキャ言ってるのに、大坂城という実績ありの場所じゃしょうがない

128人間七七四年2019/06/07(金) 14:29:58.48ID:8rE4HOLf
国会議事堂でもあるのかな

129人間七七四年2019/06/07(金) 15:24:46.72ID:RXHWoMb5
  上杉家ノ喫煙ニ関スル令

『上杉年譜』

  掟

 (上略)

一、煙草を吸うことは病人と老人は構わない。下々の寄り集まる所でみだりに吸うことは無用
  とせよ。たとえ老人や病人であっても、海道、あるいは主人の供を仕っての門庭において
  吸うことは一切止めること。
 (タバコ、病者老人ハ不苦、下々寄合猥呑候儀、用捨アルベシ、縦老人病者タリトモ、海道、
  或主人ノ供仕、門庭ニ於テ呑事、一切停止之事)
 (中略)


    慶長17年(1612)8月13日

(原注:全文は8月13日に景勝が法令を家臣に分配した条に収められている)


 『直江重光(兼続)書翰留』

  このところ乏しい時分に一段の煙草90枚を御意に懸けられましたことで、とりわけての
  祝着をされました。この類は気にかかることなので、もしもその辺り重ねての到来もあれ
  ば御意に懸けられますように。それではまたの機会に。恐々謹言。
 (爰元払底之時分、一段之たはこ九十枚、被懸御意、別而令祝著候、此類気合ニ相当候条、
  自然其辺重而も到来候者、可被懸御意候、猶期後音候、恐々謹言)

    7月26日

       須右様 まいる

 (原注:本文は略す)

  追って煙草その他御法度の様子を、懇ろに尋ねて申し付けるように。
 (追而、たはこ其外御法度之様子、懇ニ相尋可申付事)
  
    9月14日

       千坂伊豆守殿
  
――『大日本史料』

130人間七七四年2019/06/08(土) 17:02:18.56ID:1WjVqsNF
初公開 山形城主・最上義光 直筆の手紙一般公開へ 山形市
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190605-00010003-sakuranbo-l06
山形城主・最上義光の研究を進める上で、貴重な直筆の手紙が、7月初めて、一般公開されることになった。

今年3月まで、山形大学で日本史学の教授を務め、現在は名誉教授の松尾剛次さん。松尾さんは38年間、山形大学で研究し、
最上義光に関する史料の発見と見直しを進めている。今回、松尾さんは以前から研究対象で私的に所蔵されていた史料を
自ら買い取り、初めて一般公開することを決めた。

(松尾剛次さん)
「天正14年の正月7日付、最上義光書状で、東禅寺氏永に宛てたもの」

松尾さんが買い取った義光直筆の手紙は1586年、援軍を求めた酒田城主・東禅寺氏永に宛てたもので、わずかながら軍を
派遣すると応えている。松尾さんによると、至るところに義光の字のくせや力強さがあり、義光の刻印も押されている。

(松尾剛次さん)
「字も力強く書かれているが、論理的な組み立て、非常に義光は頭のいい人。天正14年における最上義光の判断・情勢がわかって非常に興味深い」

義光の人物像を克明に浮かび上がらせる上で、こういった古文書の1つ1つが貴重になってくる。

(松尾剛次さん)
「(義光は)ずるくて残忍なイメージがあるが、多くの史料に最上義光は名君だったとある。優秀かつ素晴らしい人物だったとの史料がたくさんある」

古文書の多くは、私的に所蔵されていることが多く、一般に公開されることはほとんどない。今回松尾さんが見せてくれたのには、
公開することで貴重な史料を後世に残すという狙いがある。

131人間七七四年2019/06/08(土) 17:06:45.03ID:1WjVqsNF
最上義光の再評価は結構なんすが、それにかこつけて上杉の義は偽物だとかディスってくるやつが多くてね山形市の連中
正直うざいです
特に片桐のじいさんは実際会ってみても基地外レベル

132人間七七四年2019/06/08(土) 18:09:05.80ID:8w9ktd2h

133人間七七四年2019/06/08(土) 19:10:39.72ID:yXxB6Pg/
>>132
自殺まだ?

134人間七七四年2019/06/09(日) 03:07:24.08ID:cxXeu6pY
  六日、幕府、一季居、耶蘇教、負傷者、煙草、屠牛ニ関スル禁令五ヶ條ヲ頒ツ

 『令條』

  条々

一、一季居(一季で雇われた者)の事。堅く停止された以上は、侍はもちろんのこと中間・小
  者に至るまで抱え置く輩は速やかに罪科に処される事。

一、伴天連門徒は御制禁なり。もし違背のある族はたちまちにその科を逃れられない事。

一、手負いの事。上下に関わらず傷付いた者がいれば、その場所の給人・代官に詳細を申し届
  けなければならない。ならびに他の場所から手負いの者が来たならば、すなわちその手負
  いを留め置き、交名を註して必ず言上すること。万一隠し置けば、重科に処される事。

一、煙草を吸う事。制止とされるに至り、その上で売買する者までも見付けた輩がいたならば、
  双方(売る者と買う者)の家財を、見付けた輩に下されるものである。もしまた、路次に
  おいて見付けた場合は、煙草ならびに売主をその在所に押し置いて言上せよ。付いて来た
  馬・荷物以下は改め出した者に下される事。

  付いてはどこの地においても煙草を作ってはならない事。

一、牛を殺す事。御制禁なり。万一殺した輩には一切を売ってはならない事。

  この趣を領内に必ず触れさせるように。この旨を堅く仰せ出されたものである。よって
  件の如し。

     慶長17年(1612)8月6日        青山図書助(成重)
                            安藤対馬守(重信)
                            土井大炊助(利勝)

            藤田能登守殿(信吉)

(原注:幕府が一季居を停止したことは慶長14年正月2日に。煙草を禁止したことは、同年
7月是月に。また耶蘇教を禁じ、京畿の耶蘇寺院を破壊せしめたことは、本年3月21日に。
また一季居などに関する法令を頒布したことは18年3月是月に各々その条あり。参照すべし)
                      
――『大日本史料』

その7日後>>129

135人間七七四年2019/06/09(日) 21:52:07.77ID:mD08Q13s
キリスト教については分かる
煙草もなんとなく分かる
その他はどういう理由なんだろうね

136人間七七四年2019/06/09(日) 22:00:08.11ID:hwQ6Bi9R
当地方のキリシタン一同を驚愕させ、少なからぬ恐怖を懐かせた事は、龍造寺(隆信)が大村の領主
ドン・ベルチラメウ(大村純忠)に、その嗣子と共に佐賀(Sanga)城に来るよう頻りに求めたことである。

ドン・ベルトラメウおよびその一族は非常に困惑し、一方には、龍造寺の意図は、平和を口実として
ドン・ベルトラメウとその子、並びに領内の主要な人物を悉く集めて、日本の他の領主が成すように、
これを殺すことにあると言う者があり、また一方には、もし招かれても行かず、彼を信用しないということを
明らかにすれば、龍造寺は大いに怒って敵意を明示するであろうと言う者があった。
龍造寺が非常に有力であるのに対し、大村の武力はこれに対抗するのに充分ではない。
このため、二つの手段のどちらを取るかは容易に決定しなかった。

パードレ達はドン・ベルトラメウとその一族が自ら敵の手に投降するのは不可であると考えた。
この下の地方(九州)の長老であったパードレ・ガスパル・クエリヨは危険に陥ることを慮って龍造寺の元に
行くことを喜ばず、龍造寺を満足させる手段を講じてこれを断るべきであると主張した。しかし龍造寺は、
ドン・ベルトラメウとその一族が彼の招きに応じなければ満足する様子がなく、ドン・ベルトラメウは敵の
勢力と悪意に大いなる恐怖を抱き、一族とよく協議した上で、己を彼の手に委ね、それによって彼の意を
和らげることに一縷の望みをかけて、その嗣子および領内の主だった大身達と共に、五百人の武士を従えて
龍造寺の居城、佐賀に向った。

事の成功を予知することも、またこれを避けることも叶わず、もしドン・ベルトラメウとそれに同行した
武士たちが悉く殺されれば、全領土は敵の所有に帰し、ドン・ベルトラメウも一族も帰って来る望みは
無いのでなないかと、我等(宣教師)の恐怖が非常であったことは、尊師も諒解されるであろう。
さらに有馬の領地も同一の危険に瀕し。当地方のキリシタン協教会は全滅に至る懸念が有って、この心配と
恐怖の間に二十日間を過ごした。

しかしながら主はこの苦痛より我々を救出し給い、ドン・ベルトラメウは龍造寺より歓待され、様々に
名誉を与えられ、相互の間に平和協定を成し、これを確保するため、龍造寺は一女をドン・ベルトラメウの
嗣子に嫁がせる約束をした。少しも期待されず、事後ですら信じられぬ程であったこの好結果は、諸人に
大いなる喜びを与えた。

これがデウスの特別なる御恵であった事を示すのは、間もなく起こったカマチドノ(Camachidono:柳川城主・
蒲池鎮漣)と称する、ドン・ベルチラメウに劣らぬ勢力を有する筑後国の異教の領主が、ドン・ベルチラメウと
同時に龍造寺に招かれた事であった。或いは両人とも殺すつもりだったのかも知れない。
蒲池殿は起こるべきことを懸念し、ドン・ベルチラメウの様子を見ることにして待っていたが、龍造寺は
ドン・ベルチラメウに好意を示し、蒲池殿はこれに安心してその招きに応ずることとし、一族及び武士たちと
共に佐賀に到着し、龍造寺からドン・ベルチラメウと同様の歓待を受けた。このため彼らが注意を怠り、
思いもよらなかった時、龍造寺は4,5千人を以て蒲池殿の居場所を囲み、彼とその一族を悉く殺した。
蒲池殿たちは勇敢に戦ったが、多勢に抗することは出来なかった。

その後龍造寺は兵を出して彼の領地を攻めたが、住民たちは何の用意もなかったため少しも抵抗出来ず、
彼は容易にその地を占領して非常な残虐を行った。貴婦人たちは夫が既に殺されていたので、龍造寺に
捕らえられて、最も恐れた侮辱を受けるよりも寧ろ死を選ぶとして自殺した。

蒲池殿がかくの如き不幸に遭遇したので、我等はデウスが特別の御恵を以て、同様なる運命から
ドン・ベルチラメウを救出し給った事を感謝した。
しかしこの敵(龍造寺)は生命有る限り、有馬及び大村の領主並びにキリシタン教会に対し害を加える
懸念があり、我等は常に恐怖を抱いているのである。

(1581年2月15日(天正十年一月二十三日)付、パードレ・ガスパル・クエリヨ書簡)

龍造寺隆信が「佐賀に来い」と要求したことへの波紋

137人間七七四年2019/06/09(日) 23:29:16.21ID:ZfkTXeho
龍造寺がキリスト教のバックを考慮したんなら、手前味噌ながら方向性は正しいな

138人間七七四年2019/06/10(月) 02:49:05.49ID:2hX+mQxB
すみません>>134の訳を訂正します。失礼しました。

>一、牛を殺す事は御制禁なり。おのずと殺すような輩には一切(牛を)売ってはならない事。
> (牛を殺事御制禁也、自然殺へき輩には、一切売へからさる事)

139人間七七四年2019/06/10(月) 11:40:11.60ID:QN0NvVBL

140人間七七四年2019/06/10(月) 12:58:13.75ID:Cv0VNwoU
>>134
牛を殺すことの禁止はキリシタン弾圧の一環かな

141人間七七四年2019/06/10(月) 13:30:40.56ID:E0Guiztx
キリシタン弾圧って言うより、牛を食うという行為が農民から相当嫌悪感を持って見られてたらしい。
秀吉のキリシタン追放令の理由の中にも「牛を食うこと」が入ってる。

142人間七七四年2019/06/10(月) 13:44:22.19ID:ZI8DPZsm
自分の親が牛に転生してるかも、と思うと食えないな

143人間七七四年2019/06/10(月) 14:56:31.46ID:YuoSwCCz
カムイ伝みたら穢多が死んだ牛食ってた

144人間七七四年2019/06/10(月) 16:54:35.54ID:/xDs3wXj
彦根藩の特産品は干し肉と味噌漬けだったりする。
彦根藩から届く肉を楽しみにしていた大名は多く徳川斉昭もその一人だったが
井伊直弼が藩主になると肉食を禁じてしまう。
しつこく肉をねだる斉昭と頑なに断わる直弼の仲は険悪になり
安政の大獄や桜田門外の変の遠因になったとかならなかったとか…

145人間七七四年2019/06/10(月) 17:30:23.91ID:n8keEJU7
食べ物の恨みは怖いな

146人間七七四年2019/06/10(月) 17:42:52.27ID:eZpNrclM
中央日報日本語版20190610「名分なき戦争」として朝鮮に投降した沙也可、日本にも顕彰碑(1)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190610-00000032-cnippou-kr
1592年4月13日。加藤清正の先鋒部将の沙也加は3000人の兵を率いて釜山(プサン)に上陸した。
日本全国を統一した豊臣秀吉は朝鮮侵略を命じた。壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の序盤、倭軍は連戦連勝していた。
ところが3日が過ぎても沙也可の兵士に動きがなかった。1週間が経過した日、慶尚道兵使の朴晋(パク・ジン)に
沙也可の手紙が届いた。

「この戦争は大義名分がない。朝鮮に投降する」。沙也可は敵陣の朝鮮側に立った。普段から「礼儀の国」の
朝鮮に好感を抱いていたという。沙也可は火縄銃と火薬を作り方を朝鮮軍に伝授した。その後、功績が
認められて金忠善(キム・チュンソン)という名前を受けた。沙也可は丁卯胡乱、丙子胡乱にも参戦し、
72歳で死去するまで朝鮮人として生きた。

壬辰倭乱当時、祖国を背を向けて朝鮮側に立った倭軍の武将、沙也可。沙也可顕彰碑が日本にあるという話を
聞いて5日、和歌山県に向かった。大阪から列車に乗って南に約90キロ。沙也可の碑は和歌山市の
紀州東照宮にあった。東照宮は徳川家康を祀る神社で、紀州は和歌山地域をいう。豊臣氏を滅ぼした家康の
神社の前に沙也可の碑を建てたのは絶妙な選択だ。

紀州東照宮の管理者、西川秀大氏は「紀州地域は古くから朝鮮半島の影響を多く受け、朝鮮半島のものと
同じ遺物も出土する」とし「日光にある東照宮が金色で華麗に飾られているのとは違い、紀州東照宮は
緑と赤を主に使った朝鮮の丹青とよく似ている」と説明した。沙也可の碑が韓半島(朝鮮半島)と
関連が深い紀州東照宮の前に建てられたのは必然だという話のように聞こえた。

沙也可の碑が建てられたのは2010年。当時、「沙也可日韓国際シンポジウム」が日本で開催されるのを
記念して両国の関係者が集まった。沙也可を素材にした小説『海の伽耶琴』の作家・神坂次郎氏や
金忠善(沙也可)の子孫が集まった。

ここには自民党の有力政治家、二階俊博幹事長(当時は総務会長)もいた。碑石はアシアナ航空の
朴三求(パク・サムグ)会長に要請して韓国から運んだ。和歌山県を政治の基盤とする二階氏は沙也可が
和歌山出身という点を率先して知らせた。2月には親しい朴智元(パク・ジウォン)民主平和党議員が
和歌山を訪問した際、沙也可の碑に足を運んだ。

碑石の前には2本の木が寄り掛かるように絡んでいる。碑の建立当時をよく知る人は「意図して
この場所に決めたわけではないが、お互い寄り掛かるように絡んでいる木の姿が日韓関係を
表しているようだ」と語った。

147人間七七四年2019/06/10(月) 17:44:37.40ID:eZpNrclM
韓国朝鮮ネタは荒れがちだけど一応。なんかやっぱり向こうでは全て事実扱いなんですね。
まあ日本側の検証はほぼwikipediaの記述の通りですが。
wikipedia沙也可
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%99%E4%B9%9F%E5%8F%AF

参考文献にあげられてる、宇田川武久『東アジア兵器交流史の研究 十五〜十七世紀における兵器の受容と伝播』が
最近の研究の元ネタ。
宇田川氏は秀吉の朝鮮侵略は悪!と書いてしまうスタンスの人ですが、自分の専門分野で手を抜くようには見えない。

148人間七七四年2019/06/10(月) 18:30:43.06ID:ZI8DPZsm
>>144
慶喜「父上も近江牛がなければ豚を食べればいいのに」

149人間七七四年2019/06/10(月) 21:40:54.03ID:7oRtE5B8
>>146続き
日本では当初、沙也可を実存した人物として受け入れず、受け入れても否定的な認識を抱いてきた。
沙也可に対する大衆的な関心を高めたのは1971年に司馬遼太郎が紀行文で沙也可を扱ってからだ。
「背信者」のフレームから「大義のない戦争に抵抗した平和主義者」として沙也可を再解釈し始めたのもその後からだ。


和歌山県庁国際課の山下善夫国際企画班長は「沙也可のストーリーは映画化の話も出たほど多くの日本人が
勇気ある人物と評価している」と述べた。

沙也可に関する記録は日本には残っていない。祖国を裏切った事実が明らかになる場合、残された家族が苦境に
立たされることを憂慮して自らの身分を明らかにしなかったと考えられる。
ただ、沙也可が火縄銃と大砲をうまく扱ったため、当時和歌山地域の鉄砲部隊として名が知られた雑賀部隊を
率いた鈴木孫市の子孫が沙也可という説が最も有力だ。

「雑賀衆・沙也可で街おこしの会」の辻健会長は「特に罪のない民衆を残酷に殺すことで豊臣は有名だった」と
し「沙也可は豊臣が戦争をすることに我慢できなかったようだ」と話した。
また「当時、リスクを負って裏切りと変わらない帰化をしたのは強い信念と決意があったからだと考える」と
語った。

当時、朝鮮としても沙也可を受け入れるのは容易な選択ではなかった。いつまた裏切るか分からない敵軍の
武将に名前を与えて正二位まで昇進させたのは大きな決断だった。
辻会長は「李舜臣(イ・スンシン)の艦隊に倭軍は全滅した。沙也可でなくとも壬辰倭乱の結果は
変わっていなかっただろうが、火縄銃と大砲のおかげで朝鮮人の犠牲を減らしたとは思う」と述べた。

2000年代に韓日関係が急激に改善し、沙也可はいわゆる「韓日友好協力のアイコン」として扱われた。
関連研究も活発になった。2012年には沙也可が建てた鹿洞書院がある大邱市(テグシ)達城郡(タルソングン)に韓日友好館もオープンした。
日本では今でも辻会長を中心に毎年、沙也可をテーマにした朗読劇の会を開き、小学・中学生を対象に沙也可の
平和思想などに関する授業をしている。

辻会長は「日韓関係にはいつも悪いことばかりあったわけではない」とし
「今は徴用工問題などいくつか難しいことが絡んでいるが、文在寅(ムン・ジェイン)大統領に一度、
沙也可の碑を訪れてほしい」と語った。

150人間七七四年2019/06/10(月) 21:43:16.36ID:7oRtE5B8
典型的なタイプだね辻会長w

151人間七七四年2019/06/10(月) 23:10:25.14ID:aEXzpoP0
雑賀衆の鈴木某にも可能性があるだけなのに孫市の子孫と決めつけちゃっているのか
町おこしのためなら何でもありってことなのかな

152人間七七四年2019/06/11(火) 07:40:18.96ID:YeS6rj2+
村上海賊の娘とかもそうだけど、村おこしのためなら真実なんて知るかって感じがどうもなぁ…。

153人間七七四年2019/06/11(火) 07:42:30.70ID:DbFOGen+
武田信玄「せやな」

154人間七七四年2019/06/11(火) 13:25:46.77ID:5PkrBIp7
そういえばNHKの時代考証を担当していた人の本で
「武田信玄が鮑の煮貝を戦陣食として始めた」
という説があるから大河に出そう!
となりそうだったのを

山梨日日新聞「山梨百科事典」に
「江戸時代末期に駿河の魚問屋が伊豆で取れた鮑を加工して
甲斐に送り込んだのが最初で、甲州勤番の武士や文客が江戸にもたらしたのが評判となり甲州名物として定着した」
と書いてある以上、信玄時代に出すのは不適切、
と阻止した話があった。
土産物店のサイトだと武田信玄うんぬん書いてるところが多いようだけど

155人間七七四年2019/06/11(火) 14:08:49.60ID:tf9swAlS
我等が安土山に立派なガザを建てたことは、当地方に於いて非常に有意義であった。信長は特権として
城の瓦と同じ瓦でガザの屋根を葺く事を許したが、城の瓦のように金は用いなかった。
ガザは三階建てで均衡のよく取れた、甚だ立派な爽快なる建物であり、毎日多数の大身達がこれを見るために
来たり、我等はこの機会に彼らに説教しデウスのことについて語った。そしてガザにおいては毎日説教があり、
大身達が各地方から集まったために、この年ににコンパニヤ(イエズス会)が都、その他諸国に知られ、
デウスの教の広まりは、それまでの多年の間の成果と同じくらいであった。そのため、このガザが多数の人に
キリスト教の教えを知るに至る方便と成ることを期待している。もし敵が、例のように妨害を加えることが
無ければ、本年の収穫は少なからざるものと成っていただろう。

説教を聴いた者の中に、元近江国の王であり、今は国を失っているが、信長の庇護を受けている大いなる殿で、
(安土)城内にある最も立派な邸宅の一つを所有している人があった。この人はキヨクドノ(Chiocundobo
京極殿:京極高吉)と称し、夫人とともに説教を聴かんと決心し、デウスの教えを喜ぶあまり、四十日間
引き続いて説教を聴いてよくこれを悟り、四十日の末に夫人とともに洗礼を受けた。
この人に11,2歳の一子(京極高次)が有り、その頃他の町において信長に仕えていたが、父はこの子が
帰るのを待って全家族と共に洗礼を受けさせようと考えた。しかしながら、その後数日を経て我等の主が
彼(高吉)を御許に召し給うたため、その希望を達すること出来ず、又その子並びに家族はみな異教徒のままで
あったのみならず、子たちは父の死が神仏の罰によるものと考え非常に恐れたが、母はこれにかかわらず
信仰堅く、唯一その邸宅に住んでいる。我等の主が彼女によっていつかその子達を導き給わんことを期待する。

(1581年2月15日(天正十年一月二十三日)付、パードレ・ガスパル・クエリヨ書簡)

京極高吉の突然の死は、実際に仏罰だと噂されたらしいですね。

156人間七七四年2019/06/11(火) 14:51:43.19ID:DbFOGen+
>>154
真田丸のときに政宗が陣中でずんだもち食べてたな。

157人間七七四年2019/06/11(火) 17:12:34.08ID:gtIYJBnM
>>154
歴史家の人えらい!

158人間七七四年2019/06/11(火) 17:18:48.15ID:3yhMAURC
韓国とタッグ組んで歴史ネタで町興しに乗り出そうとしたっていえば、沖縄石垣島のオヤケアカハチ=洪吉童説もね。
こちらは実在人物どころか小説の登場人物なのでw

オヤケアカハチ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A4%E3%82%B1%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%83%8F%E3%83%81

159人間七七四年2019/06/11(火) 17:38:31.74ID:3yhMAURC
なお沖縄では、このアカハチは赤毛の大男だったということでオランダ人との混血児というのが
地元一部で喧伝されてたりもしますが、そもそもポルトガル人の東南アジアのマラッカ到達が
1509年、オランダ人に至っては1600年のアダムズ・ヨーステン一行のリーフデ号到着が初ですよね。
でもアカハチ死亡年は1500年・・・

後世、勝手に膨らまされたイメージって全国どこも一緒だなあw

160人間七七四年2019/06/12(水) 10:21:46.54ID:JWWpnTmp
日本人のルーツは朝鮮半島にあるっていうのにねえ
韓国アレルギーなのかな?
友でいるのが苦痛というのがネトウヨの総意だろうけど
交わることで分かることもあると思うぜ

161人間七七四年2019/06/12(水) 10:27:47.34ID:/BP8IaVo
テコンダーっぽいなw

162人間七七四年2019/06/12(水) 11:21:54.40ID:VNQ8hdgF
ハイハイ

163人間七七四年2019/06/12(水) 13:23:43.53ID:ZTSqhw30
ハイサイ

164人間七七四年2019/06/12(水) 20:16:00.45ID:h/jQFdtC
一、(前略)この時節、伊豆の宗雲(北条早雲)が出て小田原を乗っ取った事は、明応4年(1495)
  乙卯の歳と承り及んでいる。前代の事であり、しかも他国の事を人の雑談で書き記しているので、
  きっと相違な事ばかり多いのは必定ではあるが、ただこの理究(原注:リクツ)を取って今勝頼公
  御代の比較になさるべし。(中略)

  まことに北条家は弓矢巳の時(盛りの時)と輝き、万事政事よろしいので上杉家の功者どもは「さ
  て危なし」と呟く。しかしながら管領則政公(上杉憲政)には、両出頭人の菅野大膳・上原兵庫が
  これを聞いて申すには、

  「北条宗雲は元来伊豆のいかにも小さき所から出たのであり、その族の氏康が何の深きことがあろ
  うか。伊豆・相模両国を持っても、北条2,3人を合わせた程の大身衆は越後・関東・奥両国(奥
  羽)へかけては、則政公の御旗下に5,6人もおります。

  上杉家に伝わる衆(譜代)にも北条程の者はいそうもないので、蔓延っている以上は則政公が旗を
  出されて、ただ一陣で北条家を誅罰しなされ!」

  との菅野・上原両人の口により、(後略)

一、北条宗雲は古来、伊勢国より乞食を致して(伊勢国より乞食をいたし)駿河今川殿の被官となり、
  今川殿の恩恵をもって伊豆へ移りただ今この如くであるから、元来伊豆の狭き所から出た宗雲の子
  孫は、少しも深き事なく候。

  宗雲の子・北条氏縄(氏綱)は甲斐の武田信虎に大いに争い負け申した。これは駿河あしたか山の
  下、東さほの原での事。その気勢をもって氏縄の手に入れた富士川の北は尽く信虎に取られた。

  この時、興国寺の城主・青池飛騨(青沼飛騨守)は人より先に信虎の被官となるに付き、青池の息
  子・与十郎と申す者を、信虎家中の足軽大将・小幡(小畠)入道日浄と申す侍の婿に、信虎の下知
  をもって仕る。ただ今は駿河の今川義元が信虎の婿になる故、息女の化粧田として信虎より今川殿
  へ渡す。

  これでさえも、父・宗雲が今川の恩恵をもって小田原までも発向したその恩を、子息・氏縄の代に
  なって忘れ、替り目を見合わせて今川の持つものを取ったけれども、氏縄が義理違い申すに付き、
  珍しく回ってこの場所が今川へ帰ったのは、天道より北条家を憎んだのである。(後略)

――『甲陽軍鑑』

165人間七七四年2019/06/12(水) 20:23:10.63ID:h/jQFdtC
>>164
北条宗雲は古来〜は上杉憲政に家臣が申し上げた五ヶ条からの抜粋です

166人間七七四年2019/06/13(木) 01:18:22.30ID:NpktaL/T
今、ビジタドール及び同行者が、都への往復に危険に瀕し、恐怖を抱いたことについて少しく述べるのは
不適当なことではあるまいと思う。第一の危険と恐怖の原因は、山口の王なる毛利 Mory が豊後より都に
赴く路に当たる領内の諸港、特に日本全国に於いて有名である塩飽 Xiuaqui の港に通知を発して、そこを
通過するパードレ達を捕らえるように命じたことが豊後に聞こえたことである。パードレはまた豊後滞在中に
我等の友人の一人から、決して塩飽の港に入らないよう注意を受けたが、都に赴くには毛利の両国に沿った
港湾を通過せざるを得ないので、その危険は甚大であった。

また一層恐怖を加えたのは、乗船の船頭が、我等の大敵である坊主が所領する、大坂と称する市の者で
あった事である。ただし船頭は豊後の王の家臣の如き者で、塩飽にも、その妻子のいる大坂にも、毛利の何れの
港にも決して寄港しないことを王(大友宗麟)と約束したので、恐怖は幾分除かれた。ただし彼は異教徒で
あったので、大いに信頼することは出来なかったが、これ以外に信用すべき船が他に無かったため、
ビジタドールはパードレ4人及びイルマン3人と一緒にこの船に乗り、船頭は常にいかなる事があっても、塩飽に
寄らないと言い、また毛利の領内の町を通る時は、パードレ達を隠していた。

遂に塩飽の前に着くと、船頭は「塩飽に入港せざるを得ないが、決して不幸の起こることはない故、安心する
ように」とパードレに伝えさせた。この伝言を聴いて、この船頭が約束を破り、また異教徒が己の利益の
ためなら容易に陰険なる処置に出ることを思って、諸人皆大いに恐れたが、我等は彼に対して反対する力が
無いために、様々に交渉した後、彼の望むように任せること止むなきに至り、パードレ達は一切をデウスの
御手に任せ、同所に滞在している一昼夜の間は絶えず恐怖を感じていた。しかるにデウスの摂理は、その地の
司令官が前日数レグワ離れた場所に毛利(毛利氏の拠点か)を訪問し、その帰任はパードレ達の出帆後となるよう
計らい給うた。

第二の危険は右に劣らず、パードレ達に対するデウスの摂理もまた少なからざるものであった。堺に近づいた時、
南蛮(日本においては我等をこう称した)のパードレの長が、沢山の宝を持って通過するという噂が立ち、
常にこの海を横行する海賊が多数集まり、堺より6,7レグワの一港に寄港することを聞いて、同港へ行き
安全に略奪を行おうと考えていた。ところが風が強くなり、パードレがこの日のうちに堺に着くことを希望した
ため、船頭にかの港に寄って順風の機を失う事の無いように頼んだ。船頭は同港において納税の必要(海賊への
通行料であろう)があると言って初め拒絶したが、パードレを満足せしむるため、日本の慣例に従い税を堺より
送る事として航海を続けた。
海賊たちが待ち受けていた港に寄らなかった所に、我等の主の摂理が認められた。

海賊たちは我々の船が通過するのを見て、多数の船に乗って出港したが、中にパードレの船よりも大きなものが
二艘あって、ほとんど追いつこうとしたが、風が止んで櫂を用いることが必要となった。兵士たちは敵が
近づくのを見て戦闘の準備を始め、船は急進して逃げた。敵もまた同じ速度で追撃して堺の港まで進み、
小舟は我等の船とともに港に入ったが、大船はパードレの船のようには海岸に近づくこと出来ず、小銃の
着弾距離の所に停まった。もし航路がさらに長いか、また右の船がもう少し小さければ、我々が海賊から
逃れることは出来なかったであろう。この時我々の恐怖がどれほどであったか、尊師も推察されるであろう。

既に港に着いて、キリシタン及び多数の異教徒が小銃その他武器を持って駆けつけたが、海賊たちに
150クルサドを与えて協定を遂げた後、我等ははじめて安全と成るを得た。

堺より豊後へ渡る際の危険もまた右に劣らぬもので、海賊のことと、再び毛利の領内を通過しないことを考え、
路を島々の外(四国の太平洋側の航路を取った)に取り、この航路に1ヶ月を費やしたが、この間
日本の船の不自由の他に、数回非常なる暴風雨に遭い、デウスを想うのみであった。1回は非常に激しい
颱風に遭い、港に入ったが、風は24時間継続した。またある日海賊の船が1艘来た。それのみでは恐怖は
感じなかったが、合図をして他の船を招くのを見て恐れ驚き、この間に一昼夜を経過した。
暴風雨または海賊の危険は、この種の航海においてはパードレ達の常に遭遇するところであって、デウスの
御手に縋り摂理に頼って、常に種々の危険より免れるのである。

(1581年2月15日(天正十年一月二十三日)付、パードレ・ガスパル・クエリヨ書簡)

167人間七七四年2019/06/13(木) 22:17:55.95ID:igVSyUJR
塩飽のアルファベットカッコ良すぎ

168人間七七四年2019/06/14(金) 12:23:58.89ID:IHLOoPFL
織田の信長殿は内裏様を殊の外大切に思し召し、村井春長(貞勝)を奉行に付けられ、禁中のこと
尽く御修理をされた。この事についてうつけたる者が申すには

「内裏様の御念者(男色相手)は村井殿じゃ」

「何故に」

「今日も内裏様のみしり(御修理と御尻をかけている)をゆかせられるといって、日々御出であるから
そうかと思った。」

と言った。

(きのふはけふの物語)

169人間七七四年2019/06/14(金) 12:52:11.46ID:IX8PHLFL
江戸ノ悪少年、党ヲ結ビ、異装ヲナシ、横行シテ人ヲ害ス、幕府、ソノ首魁ヲ磔シ、余党ヲ誅ス

【参考】

『直江重光(兼続)書翰留』

(上略)あなたが近日、かぶきを御調査されていることに関して、旦斎が御子息の新二郎殿を御
気遣いなさっているとのことです。実否はどうなのかと御心許ないのです。(中略)

(其元近日かぶき御穿鑿ニ付而、旦斎御子息新二郎殿御気遣之由、実否如何無御心元候事、)

     8月13日

         千坂伊豆守殿(高信。上杉家江戸家老)


(上略)旦斎より御知らせが届きました。御子息の新二郎殿の様子について未だ解決していない
とのことは、全くもって気の毒です。その事について旦斎へ書状を進め置きました。(中略)

(旦斎より御報相届候、御息新二郎殿様子未相済候由、笑止千万候、右之儀ニ付而旦斎ヘ書状進
置候事、)

     9月14日

         千坂伊豆守殿


すぐに御知らせを示し下されましたことを忝く存じます。そして御子息の新二郎殿を御気遣いな
さっている様子を承り、御心許ないものと存じます。きっとその他の御気遣いはないものと推し
量っております。なお、追って御意を得られることでしょう。恐惶謹言。

(乍御報示被下、忝令存候、然者、御息新二郎殿御気遣之様子承、無御心許令存候、定而不可有
異儀候由、推量仕候、猶追而可得御意候、恐惶謹言、)

     9月14日

         小旦斎様
             人々御中

――『大日本史料』

170人間七七四年2019/06/16(日) 01:09:37.03ID:0tIddNzO
吉田殿(吉田兼見か)の所有する山に松茸が生えたのだが、松茸の有ることが他所に聞こえると
いろいろと煩わしいと思い、ずっと秘密にしていた。ではあったが長岡(細川)幽斎へは少しばかり
贈りたいと思い「これは私どもの山に生えたのですが、世上には隠しています。ですがあなた様には
進上いたします。どうか他所へは秘密にしておいて下さい。」と遣わされたが、これに対し
幽斎は狂歌を詠んだ

『松たけの おゆる(生える、勃起を隠喩)を隠す吉田殿 わたくし物(秘蔵のもの、男根の異称)と人やいふらん』

(きのふはけふの物語)

171人間七七四年2019/06/16(日) 01:45:44.25ID:kYm8Gowg
足利義昭、島津義久ノ物ヲ贈レルヲ謝シ、近ク京都ニ復帰セントスルヲ以テ、更ニ義久ノ助力ヲ請ウ、

『薩藩旧記雑録』

今度の織田の事は、天命を逃れた難により自滅せしめたものである。それにつき、残る輩が帰洛する
ことを切々と申すので示し合わせ、きっと入洛するものである。この節にとりわけての馳走は喜悦の
ことであろう。よって太刀1腰と黄金10両が到来したことには喜び入る。なお、昭光(注釈:真木
島)と明秀(注釈:一色)が詳細を申すものである。

(今度織田事、依難遁天命、令自滅候、就夫相残輩帰洛儀、切々申条示合、急度可入洛候、此節別而
馳走可悦喜、仍太刀一腰、黄金拾両到来喜入候、猶昭光、明秀可申候也、)

     天正10年(注釈:朱書き)

         11月2日        (花押)(注釈:足利義昭)


           嶋津修理大夫とのへ(島津義久)

(注釈:義昭が毛利輝元を頼って京都に帰ろうとして果たせず、輝元をもって秀吉に説かせたことは
10月21日の条に見える)

――『大日本史料』

172人間七七四年2019/06/17(月) 01:26:50.49ID:OuOOIOw1
>>170
忠興さんかと思った

173人間七七四年2019/06/17(月) 11:38:38.46ID:aBrfMfav
貞安和尚(聖誉貞安・天正七年の安土宗論での浄土宗の代表の一人)の談義(説教)で、
「今日は彼岸の最後の日ですが、このような日に奇特にも上臈衆(高位の女性たち)がお参りになりました。
そこで阿弥陀如来のご誓願にある女人成仏のお話を申したいと思いますが、しかしこれは、
詳しく話せば談義が長くなり、またあらましのみを語れば少々理解しにくくなります。どうしましょうか、
皆様の望み次第にしたいと思います。」

そう仰られたが、談義についてのことなので返答する者も居なかった。そこで貞安和尚が
「上臈衆は長いのがお好きか、短いのがお好きか?」
と尋ねたところ、彼女らは一斉に咲いだした。

これに長老(住職)は彼女らをきっと睨んで
「あなた方の気持ちの有り様はよくない。」
と申された。

(きのふはけふの物語)

まあ少々猥談的なお話ですね

174人間七七四年2019/06/18(火) 09:53:54.35ID:pCLnKn9F
昔、近衛殿(近衛信尹)が、どう言う仔細があったのだろうか、秀吉公の御時に、薩摩の坊津へ
流され、その後配所を鹿児島に移された。その頃詠まれたものが

 大臣の 車にはあらであはれにも のするかごしまになふほうのつ
 (大臣の車(牛車)ではなく哀れにも、乗り駕籠に棒で担がれている(駕籠と”鹿児島”、棒と”坊津”を
  かけている))

(きのふはけふの物語)

175人間七七四年2019/06/18(火) 16:18:05.19ID:XHJKzrW+
元亀3年(1572)12月、信玄は遠州表へ働く。信長・家康はかねて一身となっていたので、尾州よ
り家康へ加勢があった。信玄は井の谷へ押したところを、家康衆が足軽を掛けて合戦を始めて攻め戦った
ところ、家康衆と尾州の加勢衆は敗軍した。これを遠州三方ヶ原の一戦という。

「掘田の郷へ敵をやり過ごして合戦すれば家康の勝ちであったろうに、家康衆を遣って合戦を仕掛けて負
けになった」との批判があった。

その明年正月11日、信玄は三河の野田の城を攻め落とそうとして不慮に鉄砲に当たり、この傷を色々と
養生したけれども叶わず、ついに逝去した。(後略。>>113

――『北条記』


天正元年(1573)正月7日に信玄公は遠州刑部を御立ちになった。(中略)その後、信玄公は御患い
が悪くいらっしゃり、2月16日に御馬を入れた。

家康家・信長家の誰人の沙汰か、信玄公が野田の城を攻めようとして、鉄砲に当たり死に給うと沙汰仕る。
皆虚言である。およそ武士の取り合いでは、弱き方より必ず嘘を申す。越後の輝虎との御取り合いでは、
敵味方ともに、嘘を申した沙汰はついになかった。

たとえ鉄砲に信玄公が御当たりであっても、それが弓箭の瑕(名折れ)になることはない。長尾謙信(上
杉謙信)は武州忍の城において堀の端に馬を立てておられたのを、城の内衆は輝虎と見て鉄砲を寄せて、
いかほど撃ってもついに当たらなかった。その鉄砲に謙信が当たれば、結果強き大将と誉めはすれども悪
くは申すまい。

すでに信玄公が信州川中島において謙信に勝ち給う時、謙信が名馬の放生月毛を乗り捨てられた。これを
長坂長閑(光堅)が取って乗り、「流石の謙信も馬を捨てられた」と長閑が申せば、信玄公は大いに怒り
なされ、「馬がくだびれたならば乗り換えても構わないことだ。そして乗り換えた時に合戦が負けとなれ
ば、中間どもは馬を捨てて逃げることだろうに、それを輝虎が弱いとは一段と無穿鑿な申しようだ!」と、
長坂長閑を悪しく仰せられたのは、3年目に聞こえたことである。

輝虎が川中島合戦の時、和田喜兵衛が一騎で供を仕って退いた。そうして越後へ到着して馬から降りると
同時に、喜兵衛を謙信が手討ちに致されたのを信玄公は聞こし召して、「さては謙信ほどの侍も後れてし
まっては、ちと取り慌てることもあるのだろう。武士は誉めるも謗るも、踏まえ所をもって沙汰するもの
である」と信玄公は仰せられたのである。

――『甲陽軍鑑』

176人間七七四年2019/06/18(火) 19:03:01.58ID:fSX0hArW
>>174
近衛信尹といえば、娘の名前を「太郎」にしたとか面白い話があるけど、
ユネスコ世界記憶遺産にも登録された、近衛家に代々伝わっていた藤原道長自筆の「御堂関白記」についての本を読んでたら、
近衛信尹が薩摩に流された時に、何を思ったか自筆本の寛弘5年(1008年)のところの紙背(裏面の白紙)にだけ
先祖の近衛道嗣の日記、『後深心院関白記』の抜書を書いてしまったようだ、とあった。
紙の節約のために紙背を利用するのは珍しくないとはいえ、600年近く伝わっていた家宝によくやるもんだ

177人間七七四年2019/06/19(水) 12:22:42.43ID:Er11dkC4
>>175
たんに長閑を悪く言いたいだけ

178人間七七四年2019/06/19(水) 17:14:14.53ID:MKvkS746
戦も含め、全てはストーキングでもっていたってね
これは史実にない真実や、どや???

179人間七七四年2019/06/20(木) 00:37:47.96ID:EX6KxfGe
王(大友宗麟)は今(既に通信した通り)臼杵より3レグアのアクミ(津久見)と称する町にいる。
この頃、同所に甚だ良き家数棟を建て、その中にミサを行うべき立派な祈祷書を設けた。
彼は老後の休憩所(隠居所)として世子(大友義統)から、その滞在している地方を貰い受けることを
希望していたが、世子が昨年これを与えたため、ここに移った翌日、イルマン二人を招いて、
同地方に有る寺院三ヶ所にある仏像を尽く破壊し、一つも残らず焼く事を命じたためこれを実行した。

王はまたビセプロビンシヤル(ガスパール・コエリョ)より、同所に駐在するためのパードレ一人、
イルマン一人を請い受け、同地方の二千人を超える異教徒に説教を行わせることとしたが、一部は既に
洗礼を受け、他の者は今教えを受けている。
この町に居た坊主たちには甚だ親切に話させ、彼(宗麟)が既にキリシタンに成っている故、彼等も
キリシタンと成ることを勧め、己(の生活)を支えるに足るものを与えることを約束した。諸人皆これを
良しと考え、今ドチリナを授けられている、

この町は甚だ静かであるため、パードレ一人とイルマン一人が駐在していた小僧院には、豊後の国の
坊主達が木の箱の中に、他の立派な箱を納めたものを宝物として密かに蔵してあった。
この箱には釈迦の教えが、金の文字によって九巻に認められた、甚だ珍しいものが納めてあった。
この書物は彼等の習慣に従って製本され、確実なる文書によれば、これが作られて270年経っているが、
今も新しいもののように見えた。その一巻はインドの管区長に送るが、同所より尊師の元に送り、
坊主達がその宗旨の書物を尊重している事を御覧に供するであろう。

この他に彼等が甚だ珍重する、釈迦の門弟19人の絵を描いた19枚の紙を納めた箱がある、世子が
父なる王にこの地方を譲った後、豊後の坊主達は世子の元へ行き、急いでかの書物と肖像を取り出し、
パードレ達の手に入らないようにすることを願った。この宝物を失うだけでなく、これを焼かれることの
危険があったためである、世子は直ぐに人を遣わして書物と画像を王に請わせたが、良き老王フランシスコは
世子の使者の来る前に使いをイルマン等の元に遣わし、彼等が寺院に於いて第一に取り棄て、又は焼却すべき
ものはかの書物及び画像であると伝えさせた、そのためこの事は既に実行されており、世子に対しては
その使者が遅かった旨を答えた、

右のほか、王はイルマン一人を外の二つの町に派遣し、その住民に説教をさせた、これにより400人余が
キリシタンと成った、

(1584年1月2日(天正11年11月30日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)


うーん…

180人間七七四年2019/06/20(木) 08:43:33.06ID:3qib0QTB
庶民から金を巻き上げるアイテムなんだし焼却した方が後々良い事になる

181人間七七四年2019/06/21(金) 00:17:36.40ID:ktoSxB+q
国王(大友宗麟)にパンヤリヤン Pantaliao というキリシタンの一子(大友親盛)が有る。彼は年齢16歳で、
彼の父の兄弟である叔父(田原親賢 / 紹忍)の嗣子となった。

この田原親賢は先年報告した通り、養子のシマン Simao (田原親虎)がキリシタンと成ったため、これを
廃嫡した人である。

ドン・パタリヤンはキリシタンと成って既に4年であるが、思慮深く性質も良く、殊に良きキリシタンで
あるため、王は甚だ彼を愛している。この人については長く報告することも出来るが、簡略にするため
やだ2,3の事を述べる。彼は臼杵より4日路の城に居て、その叔父が承知しないためわずかに4,5人の
キリシタンの家臣が共に居る。叔父の妨害は甚だしいが、一層信仰を固くし、しばしばパードレ、イルマンたちに
書簡を贈って、常に彼のためデウスに祈ることを請い、その信仰については、これを捨てるならその前に死する
覚悟であることを、我々が疑わないようにと願っている。彼の求めに応じてパードレ一人が告白を聴きミサを
行うため同地に赴いたところ、彼の喜びは甚だしく、寸時もパードレの元を去らず、デウスが天使を降ろし
給うた思いがすると言った。復活祭の日は多数の異教徒に囲まれていて城を出ることが叶わなかったため、
キリシタンの家臣を集めて、立派な祭壇を設けて一同祈祷を成し、諸人の頭には薔薇の冠を置き、頸には
ロザリオを懸けた。終わって彼等を饗応し、貧民に食物を与えた。

付近の異教徒の貴族が彼の居城に来た時、彼に金の屏風を贈った。屏風は内部に木を用い、紙を合わせて
作った物で、日本人が部屋の壁掛けのような目的で使っている。
この屏風には異教徒たちが喜ぶ絵が描いてあったが、彼は難しい顔をしてこれを見、他の点では甚だ立派で
高価なものであったが、その面前でこれを焼かせ、使者には「キリシタンはこのような卑しむべきものは見ない」
と言った。

彼は臣民がキリシタンと成ることを非常に希望している故、デウスの御恵により彼等の君主に成った時には、
必ず皆洗礼を受けること疑いない。

(1584年1月2日(天正11年11月30日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

田原紹忍がキリシタン嫌ったのも、キリシタンが信仰を理由にこの金屏風の話みたいな事するからでは…。

182人間七七四年2019/06/21(金) 14:36:04.55ID:f5pcw5Wk
ある時、馬場美濃守(信春)のところへ振る舞いに内藤修理(昌豊)・山県三郎兵衛(昌景)・土屋右衛門尉
(昌続)・小山田弥三郎・高坂弾正・真田源太左衛門(信綱)・小幡上総、この衆が参られ、よろずの雑談の
中で小山田弥三郎が申すには、

「各々聞き給え。世間で物の分かりを言って人に教えることが学問者の業である。しかれば学問者の中に物知
りは多い。智者は少ないものであろうが、一文字を引けない人にも智者はいよう。山本勘介などは智者という
者であると信玄公は仰せであったから、さて物知らずであってもまた智者と言って別なのである」

と言えば、そこで馬場美濃が申される。

「小山田殿が宣う如く、松木桂琳は学問をして物を良く読むので、唐の諸葛孔明のことを某が尋ねたところ、

諸葛は百姓なれども大将(劉備)がこれを抱えなさりたいがために、いかにも慇懃な出で立ちで諸葛の宿へ大
将自身がいらっしゃった。けれども2度は留守として押し返し、3度目にかの諸葛は竹を耡っているところへ
大将が行き当たり、何程も慇懃になされたのでここでは諸葛は鍬を投げ捨て、今の大将を守護して軍法を仕り、
戦にその大将が勝ちなさった。

その事を本に向かって申している時は『松木桂琳は物知りかな』と存じた。その時に甘利の同心・春原惣左衛
門が私めの方へ見舞いした。かの惣左衛門は真田殿の家中で武辺・智恵・才覚・弁舌すべてが備わった武士で、
信州村上殿へ武略として真田一徳斎(幸隆)が差し遣し、村上頼平公(義清。頼平は父)を信玄公が押し倒し
て勝利を得なさった。

それは春原が賢き智計の武士なる故で、某は大剛の誉れを感じ、互いの冥加のために春原を一入慇懃にもてな
した。それを松木桂琳が見て、春原が座を立ち帰った後に私めに申すには、『人の同心足軽で殊更小身な者に、
どうして馬場殿ほどの人が殊の外慇懃になされる』と不審がった。

それ故、そこにおいて私めが存じたのは、諸葛は賤しき百姓なれども大きな大将が慇懃になされた談義を言い
ながら、これを不思議と疑うのは、松木桂琳の口と心は合わぬと存じた。そういうわけで、物の本に向かって
談義するのは物知り、本に向かって読む術を知らずとも、心の至っている人を智者とこそ申すのであろう」

これが馬場美濃の小山田弥三郎への返事である。

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』

183人間七七四年2019/06/21(金) 14:43:58.60ID:QGNI5dtj
>>182
まさに頭でっかち…

184人間七七四年2019/06/21(金) 16:27:20.84ID:u/Ny+gN0
>>181
奈多八幡宮大宮司の子がキリシタン嫌いでどこがおかしいの?
仮に彼がキリシタンとなった場合にどのようなことが起こりうるか考えろよ
デメリットしかないと思うけどな

185人間七七四年2019/06/21(金) 20:51:41.49ID:M9YcI+sb
>>183
でも現代でもありがちなことだわ

186人間七七四年2019/06/21(金) 20:52:28.59ID:M9YcI+sb
と言うか小山田さんと馬場さんの良い話のような

187人間七七四年2019/06/22(土) 15:45:10.78ID:mfU706rp
キリシタン嫌いってこれに通ずるものがあるな
https://video.twimg.com/ext_tw_video/859189019443437569/pu/vid/1280x720/k7p3G9VXkFpS2bfu.mp4

188人間七七四年2019/06/23(日) 01:25:56.85ID:ISi17C3o
永禄10丁卯年(1567)に太郎義信(武田義信)自害なされて後は、信玄公の跡を継ぎ
なさるべき惣領はおられず。

しかしながら、またその年に誕生された四郎勝頼公の嫡子を信玄公は養子になさり、吉田左
近助(信生)を御使として御曹子を太郎信勝(武田信勝)と名付け参らせられ、武田の重代
(家宝)である行平の御太刀・左文字の御腰物を譲り、武田28代目と定められた。

子細は、四郎勝頼公の母は諏訪の頼茂(頼重)の娘、勝頼公の御前は美濃国の岩村殿という
織田信長の姨(おば)の息女(龍勝院)である。「四郎の父はいやしくも信玄であるから、
例えどこへ頼ろうとも、これは然るべきことだ」と仰せの事により、信玄公の跡目にと今の
御曹司を定められた。

(勝頼公御前は美濃国岩村殿とて織田信長姨の息女也、四郎が父は苟も信玄なれば、いづか
たへたよりても是は然るべしとあるの儀にて、信玄公の跡目にと今の御曹司を有之)

そうしてこの太郎信勝は7歳で信玄公と離別参らせられたので、信勝21歳までの15年間
は父の勝頼公が陣代となされたのである。(中略)

また奥州より、高崎織部と申す牢人がこの頃甲州へやって来た。この人の物語りによると奥
州の侍大将・伊達(輝宗)の子息(伊達政宗)は太郎信勝と同年である。これは不思議なり。

(政宗は)万海という行者の生まれ変わりで、その事の成り行きはまさしくその通りとの話
を奇特と存じて、紙面に表す。

(奥州の侍大将伊達が子息に太郎信勝と同年なる是れは不思議なり、萬海と云ふ行人の生れ
がはり、その首尾まさしく候由奇特と存じ紙面にあらはす)

後の考えのためにこのようにするのであると、高坂弾正これを書く。(後略)

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』

「いづかたへたよりても」に難しい判断を感じる

189人間七七四年2019/06/23(日) 07:58:39.53ID:Yd8e5GYv
武田家の跡取りってかなり大変そうだ
信玄も各武将も優秀すぎて

190人間七七四年2019/06/23(日) 22:57:31.83ID:wQi0OLzi
  義冬(足利義維)に付下侍之覚。

  富永豊後守據宗。           和州高市住人。(兵部少輔父也。)
  結城但馬守重正。           駿州志多住人。
  小寺新右衛門。            阿州松原住人。
  荒川民部少輔珍国。          三州八名住人。(弥三郎父也。)
  森小平太時常。            越前長坂住人。
  村井権内。              関東者。
  天代十郎左衛門。           武州者。
  浅田将監延房。            摂州浅田住人。
  乾鵜之助定直。(後号太郎右衛門。)  河州谷江住人。
  西山源八。              讃州志渡住人。
    今の志渡の玄雪という者はこの源八の孫である。
  堀喜左衛門景盛。           江州之住人。
真淵伊豆守忠元。           但州出石住人。
    親は出石刑部という者である。
  安井源右衛門。            中国者。
  三江兵庫。              播州野口住人。
  湯浅次太夫兼綱。(小次郎父也。)   阿州長山住人。
    
    侍分以上15人。
    都合360人が付き下ったということである。

  以上の侍どもは義冬に仕え忠義は浅からぬものであったが、牢人した事故、扶持すること叶わず、
  三江・富永・結城・乾・荒川・湯浅、以上の6人が残り、その他は暇を遣わしたのである。


一、義賢(三好実休)は持隆(細川持隆)を討ち取って以後、三好民部入道を使いにして義冬へ申す
  には、「徳雲院殿(持隆)は御身を失わせ給うとしても、義冬の御事は別儀もございませんので、
  御領地はまったく相違ありません。只今までのように当地におられますよう」との由を申し越す。

  「徳雲院殿なき以上は、どこへでも立ち退く」との由を義冬は仰せなさるも、民部入道が達て制
  し申すことにより、それならば重ねて御返事なさると宣った。

  持隆の失せた後に、清雲院殿(養父・足利義稙の正室。本書では義維の生母)は勝瑞に居合わせ
  なさる。「もしかすると、義冬はいずこへも立ち退きなさるかもしれない」と、義賢は清雲院殿
  を勝瑞に2,3年も留め置いて平島へ戻し申さぬ故、義冬はどうしようもなく留まりなさった。

  義冬を義賢が介抱したのは、その時の将軍義輝公はいかがなされたのか義冬を親切に思し召した
  ことにより、義賢も少しは敬ったのだということである。

  そんなところに天文23年(1554)3月、清雲院殿は病死なさる。一周忌の後、御下りなさ
  る旨を義冬が仰せられると、義賢ももっともと思い、大船3艘を調えて弘治元年(1555)4
  月10日に周防へ下りなさった。

  供した侍6人の内、乾定直は上方の様子を知るために河内へ戻しなさる。湯浅は阿波の者なので
  義賢に預け置き、残る4人は妻子までも供をした。大内介(大内氏)は殊の外もてなし、小原と
  いう所に居所を構えて義冬を居住させ置いて、大切に致したので永禄6年(1563)の秋まで
  周防に居住した。

――『阿州将裔記』

191人間七七四年2019/06/24(月) 13:09:15.22ID:DJIUpD3b
>>189
晴信が板垣や甘利を失ったように合戦で殺せばええんやで

192人間七七四年2019/06/24(月) 20:14:25.64ID:WVVwlE18
千少庵(千利休の養子で娘婿。千宗旦の父)が小座敷に突上げ窓を二つ明けた。利休はこれを見て
「ありえないことだ。燕が羽を広げたようで見られたものではない。塞ぐように。」と言ったため、
少庵はその日のうちにこれを塞いだ。利休に見せると「これでよい」と答えた。

ところが後日、利休の小座敷に、少庵のものと同じように突き上げ窓が二つ明けてあった。
「これはどういうわけですか」と少庵が尋ねると、利休は言った
「数寄に親も子もない。私が二つ明けるために塞がせたのだ。」

(茶道四祖伝書)

えぐいな利休

193人間七七四年2019/06/25(火) 08:38:11.01ID:XDrCfgpn
>>192
ジョブスの逸話思い出したわw

194人間七七四年2019/06/25(火) 11:15:08.85ID:COqvQzwm
利休はとある茶師を大抜擢していまも続いてるブランドに押し上げたけど、そこにも裏話があったりするのかな?

195人間七七四年2019/06/25(火) 23:29:17.61ID:H/k4ezxE
あそこは当主の弟上林竹庵が伏見籠城に参加討死して
幕府の庇護も得たのも大きいんじゃないの

196人間七七四年2019/06/25(火) 23:35:41.04ID:93p5wq77
利休は唐物至上主義の海外厨だしな

197人間七七四年2019/06/25(火) 23:36:17.61ID:6D0v9SUX
>>192
こういう奴だから切腹させられるハメになったのかもな

198人間七七四年2019/06/26(水) 18:00:25.69ID:4xrHW1M3
【令和の戦い 参院選2019】静岡 野党間の遺恨
https://news.headlines.auone.jp/stories/domestic/politics/12487659?genreid=4&subgenreid=113&articleid=12487659&cpid=10130017

国内 産経新聞
6/25 23:28 .

徳川家康が晩年を過ごした駿府(すんぷ)城など徳川ゆかりの地が数多く点在する静岡県。JR静岡駅前には合戦の指揮で使う「采配」を
握りしめる「徳川家康公像」がそびえ立つ。その家康像を背に、250年以上の太平の世の礎を築いた家康公の威光を借りるようにして
徳川宗家19代目の徳川家広がマイクを握った。

「私たちがこうして豊かな生活を享受しているのは菅直人内閣のおかげだ」

立憲民主党から出馬する徳川は23日、街頭演説で東京電力福島第1原発事故に触れ、対応に当たった菅政権のおかげで日本が救われたと強調した。
静岡が抱える浜岡原発の廃炉も訴え、消費増税中止や「アベノミクス」批判を展開した。

徳川が静岡選挙区(改選数2)を選んだのは「先祖代々縁が深い」から。選挙カーに徳川家の家紋である「葵(あおい)の御紋」を施すなど、地の利を
生かして支持拡大を狙う意図が随所ににじみ出る。地元の選対関係者は「静岡で『徳川』の知名度は抜群だ。顔立ちもゆるキャラっぽい。
トップ当選を狙いたい」と鼻息は荒い。






19代様のあまりのご見識の高さに昇天してしまいそうな東北民です
列藩同盟もその場で崩壊するねこりゃ

199人間七七四年2019/06/26(水) 21:37:30.77ID:kvO1uRbV
い、いま静岡では義元が見直されてるところだから(震え声)

200人間七七四年2019/06/26(水) 23:02:59.75ID:vELgf2jt
廃嫡されてるとかじゃないのこの人

201人間七七四年2019/06/26(水) 23:04:51.66ID:sprWiwgc
大殿乱心!
(以下、悪い話に続く)

202人間七七四年2019/06/27(木) 01:52:22.96ID:D2BorQg4
もし菅が有能だったら今京兆とか言われたんだろうか…

203人間七七四年2019/06/27(木) 11:28:14.79ID:kNBXT4tI
令和の御世に主君押込が復活するとは・・・。

204人間七七四年2019/06/27(木) 11:38:10.51ID:6EbNIj5T
顔つきには血筋を感じないでもない

205人間七七四年2019/06/27(木) 16:33:56.02ID:s44NIbyz
南部下野殿(宗秀)改易は信玄公28歳の時。山本勘介と申す大剛の兵は、武道の手柄ばかりでは
なく兵法上手であった。ある時に信州諏訪において南部殿家中の者・石井藤三郎という男を南部殿
が成敗致し、切り損なって藤三郎は逃げ回った。

折しも勘介はその近所に居当たり、勘介のいる座敷へ藤三郎が切って押し込んだ。勘介は刀を取り
合わせず、そこにあった薪雑棒を取り向かい受けて組転ばし、藤三郎に縄を掛けて南部殿へ渡した。
少しずつ手傷3ヶ所を負ったが、手傷と申す程のことでもない。子細は30日の内に平癒したから
である。とりわけ勘介は武辺の時も放し討ちの時も数度少しずつ手負い、86ヶ所の傷跡があった。

それを南部殿は悪しく沙汰なされるも勘介は何も言われなかった。この南部下野殿も甘利備前(虎
泰)・板垣駿河(信方)・小山田備中に続いて、少しは武辺の覚えもあるといえど噂で常に無穿鑿
なことばかり言い、遠慮もなく明け暮れ過言を申され、嘘をつきなさる。

無分別で山本勘介を憎み、「国郡を持たぬ者の城取・陣取。外科医者も大したことはないものだと
思うが、ましてや兵法使いが手傷を負っている」(国郡をもたぬ者の城取陣取、又外科医者もふか
き事あるまじきと思ふに、まして兵法つかひにて手を負たる)などと言って山本勘介を尽く悪口な
された。

目付衆・横目衆はやがてこれを御耳に立てた。信玄公は聞こし召し長坂長閑(光堅)・石黒豊前・
五味新右衛門を御使になされ、すなわち書立をもって仰せ下された。その御書の趣は「南部下野が
山本勘介という大剛の兵を悪口したのは無穿鑿である」とのことである。

――『甲陽軍鑑(品第四十上 石水寺物語)』


山本勘介は一代で手傷を蒙ること63ヶ所なり。この内20ヶ所は信玄公の御家においてである。
子息(二代山本菅助)も若いながら2,3度良き事があった。一昨年に長篠において討死なり。

――『甲陽軍鑑(品第四十三 軍法之巻)』

206人間七七四年2019/06/27(木) 23:54:43.76ID:vCWOOG6J
>>205
先祖の話だわ
これだけは今の時代まで親族から伝え続けてるわ
肥後守がまともな人で良かったと感謝もしてる

207人間七七四年2019/06/28(金) 00:11:30.82ID:DTOY7Kmh
>>206
肥後守って南部宗秀の息子の河西肥後守満秀か

208人間七七四年2019/06/28(金) 00:48:38.43ID:f3R5LZ75
>>207
そそ、肥後守が先祖なので自動的に下野守も先祖なんだわ

209人間七七四年2019/06/28(金) 01:15:39.49ID:Or38vN5M
信玄公は書立をもって仰せ下され、その御書の趣は「南部下野(宗秀)が山本勘介という大剛の兵を
悪口したのは無穿鑿である」とのことである。(>>205

一、山本勘介のような小身の者の城取・陣取はまことらしからぬとの事は、物を知らぬ申されよう
  である。唐国周の文王が崇敬した太公望も大身ではあるまじき事。

一、兵法使いが手傷を負っているというのは、一入武士道無案内である。兵法とは手傷を負わぬと
  いうことではあるまい。手傷を負って相手を仕ほすのが本当の兵法である。ことさら其の方の
  被官・石井藤三郎が白刃のところへ、棒で向かって組倒したのならば、たとえ勘介が死んでも
  屍の上まで誉れであろうに、それを嫉むのは無穿鑿である事。

一、其の方南部の手柄は、家中の者である笠井と春日が両人で仕ったのを、自分の手柄のように申
  されたと聞き及んでいる事。

「この3ヶ条をもって成敗仕るべきであるが、それでは山本勘介もきっと迷惑に思うだろう。ここを
勘介に免じて命を助けるので、遠き国へ参れ」との仰せで改易致され、奥州会津へ行って南部下野は
飢え死になされたのである。

(南部宗秀の)70騎・足軽・旗本・その他は方々へ分かつ。春日左衛門・笠井備後は前述の南部両
おとな(老臣。3ヶ条中の春日・笠井)の子である。以上。

――『甲陽軍鑑(品第四十上 石水寺物語)』

210人間七七四年2019/06/28(金) 01:36:42.06ID:xIEGq9+P
そういえば十六代目の徳川家達は貴族院議員時代、シーメンス事件の余波でうっかり総理大臣になりかけたらしいと聞いた

211人間七七四年2019/06/29(土) 01:57:08.33ID:vUiZFcjS
江戸ノ悪少年、党ヲ結ビ、異装ヲナシ、横行シテ人ヲ害ス、幕府、ソノ首魁ヲ磔シ、余党ヲ誅ス

『駿府記』

7月7日、水野監物(忠元)が江戸より御使のために参着。(注釈:中略。七夕賀のことに係る)こ
れについて上意を得られたという。

江戸御番衆中の柴山権左(注釈:右)衛門は去る月25日、その小姓に科あってこれを殺した。する
とかの小姓の傍輩が側にいて抜刀し、権左衛門を刺し殺して逐電した。幕府はこれを聞こし召し、方
々へ追い掛けさせ給い、ついにかの者を虜にしてきた。

かの者が語って言うには、日頃約束して曰く「たとえ主人といえども理不尽のことがあれば、その仇
を報いるべし」との由で、連署して徒党を結んだのでこのようになったという。よって拷問して尋問
なさると、その党類を一々に白状した。その族は世に言うところの“哥部妓者(かぶき者)”である。

下鬢髪を切って狂紋所を染め、大刀長柄(原注:その刀には戯言を刻んだ)を帯びてその容貌は尋常
ならず。件の輩はかの白状を聞いて逃げ散ったが、これを捜索してゆうに70余人を搦め捕らえなさ
る。その他に逃げ去った者は5,60人。この如き者は、面々の家中に1人2人はいた。

さて穂坂長四郎など若年の数十人を拘束し、これをもってその所領を離されて、その番頭にその身を
預け置かせなさるという。

(徳川家康の)仰せに曰く、悪党を禁じ召されることは政道の肝心であり、すなわち駿府においては
この如き類はあってはならず、御糾明なさるものであるという。(注釈:『武徳編年集成』には「糾
明すべしとの旨を、町司の彦坂光正に命じられた」とある)

『慶長年録』

大鳥井逸兵衛(大鳥逸平)と申すかぶき者がいて召し捕らえられた。これは2,3年以来、江戸中の
若き衆、並びに威張る下々までが皆一味同心して“逸兵衛組”と称し、一同の思いをなして互いに血判
の起請文を書いた。

その趣は、「この組中はどのような事があろうとも、互いに身命を捨てて見馴染むべし。たとえ親類
父主でも思い替え、兄弟よりも頼もしくあるべし」と申し合わせた。

大将分は大風嵐之助・天狗摩(魔)右衛門・風吹は散右衛門(藪右衛門)、下の組頭は大橋摺右衛門
と申す者で、江戸中に充満して(注釈:『慶長見聞書』に7,8百とある)所々で辻斬りは絶えず。
その喧嘩は数度に及んだので、御法度に仰せ付けられ、「下々で左様の者は召し捕らえて断罪を仰せ
付ける」との由を仰せ出された。

ここに柴山孫作と申す者の家来はその組の小頭であった。孫作は聞いて大いに驚き、他所からの訴人
もいない中で「成敗してしかるべし!」と25日、権左衛門(孫作)は家来の者2,3人に申し付け
置いてかの者を呼び出し「手討ちに仕るべし!」と用意した。すると残る家来どもは皆かの者の組に
なり、「主にも替えてはならない!」と申し合わせて誓紙を書くと、家来は寄り合わせて主の権左衛
門を打ち切って出奔仕った。

これよりなおもって御法度は強くなり、方々の路次に関をそえて在々所々まで御穿鑿なされた。6月
の末に神田の町において夜五つ過ぎ、月夜に笠を着て通る者がいた。不思議であると申して町よりこ
れを捕らえて引いて来て見れ、ばかの主を殺した者である。すなわち宿を尋ねて道具を取り寄せ穿鑿
したところ、一味の悪党の名を書いた帳があった。その類5百人余りなり。

大将の大鳥井逸兵衛を御調べなさればその宿は八王子にあり、すなわち召し捕らえに遣したのである。
逸兵衛は高幡という所の不動堂に相撲見物に行っていたので、大久保石見(長安)家中の町奉行・内
藤平左衛門という者が高幡へ行き、謀って逸兵衛を召し捕らえた。

平左衛門も大力で逸兵衛も相撲の達者、互いに取り合い上下へ返すのを、逸兵衛は大勢より縄を受け
て江戸へ引いて参る。青山権之助(成国)の所に逸兵衛を召し置き、色々と御穿鑿し、水火の責めに
及ぶも逸兵衛は同類を1人も白状申さず。

212人間七七四年2019/06/29(土) 01:58:56.39ID:9XrjuxYh
この逸兵衛は元来は本多百助(信勝)の小者で、勘解由と申していたずらな倅である。さる慶長の初
めに秀忠公御上洛の御時、百助が御供に参った時に伏見で小者どもが毎晩御殿の近所の辻で、草履の
詰め開き、馬の受け取り渡しを稽古致し、あまりにうとうとしたので、後に御法度になった。その大
将を召し捕らえ、百助の小者も大将で出奔致して佐渡へ逃げ入った。

それから大久保石見の家中で辻喧嘩など一両度首尾の良いことがあり、大久保石見守の目代・大久保
信濃と申す者が逸兵衛を侍に取り立てて召し使った。さて天性この者は利根で弓を上手に撃ち習い、
鉄砲も達者、兵法は槍、総じて侍の嗜みを残さず稽古致した。そのため中小姓に取り上げたうえ、馬
なども乗ることを許された。

その後、本多百助方より構い申すので大久保信濃はすなわち故主へと戻し、逸兵衛が百助方へ帰った
時、逸兵衛は下々4,5人を連れ、弓盾を持たせて犬を引かせ、乗り掛けてやって来た。百助もこの
体を見て「召し使っても詮なし」と衣服などを取らせ、4,5日過ぎると信濃方へ送った。その後、
討ち者などを首尾良く致し、さて信濃に暇を受けて江戸へ来ると、かぶき者の組を立てて棟梁となり、
ついにはこの如くとなった。

(注釈:『武徳編年集成』に「歌舞妓組の棟梁となり、八王子の下原康重作の刀に『生過二十五』と
いう文字を彫った物という。これを使って闘諍辻斬を好んだが、その刀はまことに下作ながら骨の切
れることはその類無し。逸平はこの年25歳なり」とある)

本多佐渡守(正信)・土屋権右衛門・米津勘兵衛(田政。初代江戸北町奉行)方において色々取り調
べたが「一度も申すまい!」との由を申し、何程強く御責めになるとも「同類は申すまい!」と全く
申さず、水責めの又者が脛をひしいでも申さぬ故、米津勘兵衛は「あまりに申しかねるならば、尿水
をくれて問え!」と申し付けた。

逸兵衛は大いに怒って「侍たる者に左様の拷問とは前代未聞なり! いかに罪科の重き者であるとも、
『官人の尸(屍)は平土の上に置かず』と聞く。これにより官人は尸の号あり(武士は死を称えられ
るということ?)。侍はまた侍の法による拷問の作法がある。

なんとまあ、物を知らぬ奉行かな! 左様の問い様をするならば、其の方の子息・勘十郎も私めと同
類だ! 勘十郎にも尿水をくれて問え!」と申して、その後は口を閉ざした。聞く人は「さてさて、
この逸兵衛は只者にあらず」と皆舌を巻いた。

(注釈:『慶長見聞書』には「御馬廻衆の御歴々7,8人を白状致す。その後、方々より白状あって
以上百人ばかりが出奔し申したのを召し出し、切腹、改易、追放なされた」とある)

7月7日、水野監物をもって駿河へこの由を仰せ上げられ、その後逸兵衛は江戸中を引き渡して機物
にかかり(磔にされて)同類は皆成敗。3百人ばかりが切られ、この内無体に死に申した者もいた。

これは当5月に同類が辻喧嘩を致し、相果て申した者がいて、これはこの組の中の牢人である。その
ため同類にあらずといえど、知人と寄り合って代物を用意致し、寺へ送って弔い仏事を致した。その
帳を寺から出したので、帳に付き代物を致した者は罪なくして切られ申す。後日にこの事は知られ、
「奉行衆の誤りではないか」と人は申した。

9月、江戸で今回逸兵衛の同類になった衆で方々に御預けとなった衆は、

米津勘十郎。勘兵衛の子。津軽へ。
岡部藤次。奥州南部。
井上左平次。半九郎(井上正就)の兄。佐渡へ。
保坂長四郎。金右衛門(大坂夏の陣の旗奉行)の子。越後村上へ。村上周防(忠勝)に御預け。
坂部金大夫。越後柴田(新発田)へ。溝口伯耆(宣勝)に御預け。

(注釈:『慶長見聞書』には以上の他に内藤小伝次、大久保源之丞の2人を加える。また『武徳編年
集成』には逸平を梟首したこと、及びその党を斬戮したことを7月に係けている)

213人間七七四年2019/06/29(土) 01:59:33.88ID:9XrjuxYh
『津軽旧記』

慶長16年(注釈:17年)、柄木田勘十郎(米津勘十郎)御預け。これは公儀御町奉行・柄木田勘
兵衛(米津田政)の子息なり。大取市兵衛と申すも(者の?)御穿鑿に付き、御預けの旨。後に元和
3年、御許しによって罷り上り申す。

(注釈:これより先に煙草の事に因り、悪徒が組を成して京都にいたこと、並びに茨組のことは14
年7月の煙草禁止の条に見える。

この後、寛永6年10月18日、幕府は京中に令して町人が長刀を帯びることを禁じ、ついで慶安元
年2月22日にはその長刀を帯びてかぶきの体を為すことを禁じ、5年正月20日に至り、さらに大
いにかぶき者を逮捕した。かぶき者・町奴・男伊達・侠客などの事がまたその条に見える。

ついで同年2月3日には町人がかぶきに扮することを禁じ、また幡随院長兵衛が殺されたことは明暦
3年7月18日に。任侠の徒を禁ずることは同月22日に。水野成之を刑したことは寛文4年3月2
7日に。さらに男伊達の徒を禁ずることは寛文5年6月に。平井権八を磔にしたことは延宝7年11
月3日に。男伊達の者らが町家に強請することを禁ずることは宝永7年4月に、各々条あり。参照す
べし)

【参考】(>>169

――『大日本史料』

214人間七七四年2019/06/29(土) 06:49:03.76ID:ziUySTGo
男伊達に草生える

215人間七七四年2019/06/29(土) 08:59:39.43ID:/SeNJM5V
>>211-213
かぶき者の勢力がすごいことになっとるwこういうの放置してるとそのうちヤクザの組になるんだろうなー

216人間七七四年2019/06/29(土) 11:04:07.74ID:00Yqoxvp
警察官とヤクザは人間的には同類っていわれてますし

217人間七七四年2019/06/29(土) 20:55:20.66ID:2+Bij+Sw
まとめの8778
「豊国祭礼図屏風」(伝・岩佐又兵衛作)について
の「豊国祭礼図屏風」の太刀の鞘に
「生きすぎたりや廿三」と書かれているように
かぶき者の間ではかなりの流行語だったようで

218人間七七四年2019/06/29(土) 21:38:24.11ID:giT/Oas0
隆慶一郎の小説でよくあるあれだ

219人間七七四年2019/06/30(日) 00:39:14.11ID:raA9xB2O
私(久保長闇堂)の庭前にある七尺堂は、東大寺大仏再建の聖である俊乗上人の御影堂であった。
中井大和守(正清)がそれを建て替えられた時、その古い堂が古びて趣深かったので、ある人に頼んで
前栽の中に移し、繕って茶処に用いたのである。

堂の内はわずかに七尺(約2.1メートル)四方、その中に炉を入れ、床と押入と水屋がある。
水屋に茶道具を仕舞い、床に花や掛物を飾って、押入床を持仏堂に構えて、阿弥陀の木仏を安置した。
茶会をしても、狭いということはない。

鴨長明は維摩(居士)の方丈に倣って隠居し、人と交じわらない事を楽しみ、ただ一筋に阿弥陀を頼った。
私の堂は方丈より小さいとは言え、多くの人を招いて茶の湯をしているため、浄名居士の獅子の座には
叶っていると思う。そんな私がどうして鴨長明を理想とするだろうか。阿弥陀の木仏は俊乗上人の古堂に
ふさわしいと思って安置しただけであり、私には阿弥陀を頼もうという気持ちはない。俊乗上人は法然の
弟子であるから、上人に礼儀を尽くしただけなのである。

江月和尚が江戸に居られた時に私はこの堂を営んだため、用があって書状を差し上げたついでに、この事を
述べて、この阿弥陀の狂歌として

 狭けれど 相住みするぞ阿弥陀仏 後の世頼みおくと思うな

と書き付けて送った所、やさしくも詩歌をもって答えられた

 観音は 同坐とこそは伝えしに 相住まいする弥陀は珍し

 盡大三千七尺堂 堂中同坐仏無量
 自由一箇自然楽 今作西方古道場

そのようであったが、ある時(小堀)遠州殿が来られたので、この事を語って「額を一つ書いていただきたい」と
頼んだ所、微笑まれて「それでは」と、『長闇』の二文字を書き付けられた。私が「どのような意味ですか」と
尋ねると、遠州殿は

「昔の鴨長明は物知りで、智が明らかなので「明」の字が相応しい。一方あなたは物を知らず、智は暗く、しかも
方丈を好まれている。よって鴨長明から「長」の字をとり、また「闇」はその心である。」と笑われた。

そうしたわけで、この七尺堂を「長闇堂」と名付け、「長闇子」を私の表徳号とした。

(長闇堂記)

220人間七七四年2019/06/30(日) 18:00:42.20ID:jSCm0gOK
うーん、どう解釈して良いのか謎だ

221人間七七四年2019/07/02(火) 00:24:13.86ID:bhPTTZ/Z
内々以使者可令申之処、惣印軒可参之由承候際、令啓候、信虎女中衆之事、入十月之節、
被勘易巫可有御越之由尤候、於此方も可申付候、旁以天道被相定候者、本望候、就中信虎御?居分事、
去六月雪斎并岡部美濃守進候刻、御合点之儀候、漸向寒気候、毎事御不弁御心痛候、一日も早被仰付、
員数等具承候者、彼御方へ可有御心得之旨、可申届候、猶惣印軒口上申候、恐々謹言、


(内々に使者を出して申し述べるべき所ですが、安星惣印軒がこちらに参ったことを承りましたので、彼に
伝えました。(武田)信虎殿の世話をする女中についての事ですが、10月に入った頃に、占いなども鑑みて
遣わされるとの事、尤もだと思います。こちらに於いてもそのように申し付けておきます。
あまねく天道によって相定める事は、本望でしょう。

なかんずく信虎殿の駿府での生活費についての事ですが、去る6月にこちらから(太原)雪斎と岡部美濃守(久綱)
を遣わしたおりに合意した事であり、だんだん寒気も増してきて、何事にも御不便され、御心痛されています。
一日も早く仰せ付けられ、その生活費を承った者を信虎殿の元へ遣わされるべき旨を心得られるようにと
申し届けました。なおこの事については惣印軒より口上にて申し上げるでしょう。恐々謹言。)

     九月廿三日    義元(花押)
    甲府江参

(天文十年九月二十三日付、武田信玄宛て今川義元書状)

今川義元より武田信玄へ、「信虎さん困ってるから仕送り早く届けろ」という書状である。

222人間七七四年2019/07/02(火) 19:02:50.69ID:Clh68Acw
そういやツイッターで、「能ある鷹は爪を隠す」とかのことわざは「北条氏直時分諺留」が元らしいがなんで北条なのか、
なんて書き込みを見つけたのだが、詳細は国会図書館デジタルコレクションで『諺の研究』(藤井乙男、昭和4年)の
229ページと238ページを参照のことだね。

223人間七七四年2019/07/02(火) 19:52:44.70ID:ixlhX9sa
>>221
義元さんも困るわなそれは
ただでさえ厄介な人押し付けられてるのに

224人間七七四年2019/07/02(火) 20:17:55.08ID:AsuUgu9e
>>221
生活費自分で稼がせれば…いや下手に定期収入得ると怖いなこのおっさんはw

225人間七七四年2019/07/03(水) 02:38:55.24ID:Xi9PJ/pM
古田織部殿に取り立てられた服部道巴が、遠州殿(小堀遠州・政一)を茶会に招いた時、
その供として私(久保長闇堂)も同道した。その帰り、私が「さても見事な数寄者でした」
と申した所、遠州殿は「一段と不出来な仕方でした。」と批評した。
「なにかお気に入らぬ事が有ったのでしょうか」とお尋ねすると

「そうです。炭手前をした時、彼は前の大炭へ火がよく廻ってしまっていたのを失敗と思い、
動かして隠し、火気を丁度良く見事な状態にして炭を置きましたが、これは道巴には似合わぬ
事でした。悪くなるのは仕方のないことです。それを良く見せようと思う心は、初心の仕方です。」
そう言われた。

(長闇堂記)

226人間七七四年2019/07/04(木) 01:54:58.94ID:lsPqjLpR
一、天文21年(1552)に阿波国の館・細川讃岐守持隆を、家臣の三好豊前守義賢が討ち取った後は、
  細川の領地はすべて義賢が知行した。三好家はますます威勢を増した。さて義賢は弘治の頃、法体して
  “実休”と号し、五畿内所々に一門を居置いて、おのずから天下の執権を司る。

  しかしながら三好家は細川の家来であることにより、三好の執権を諸国の守護は大いに嫉み、そのうえ
  奢りを極めて我意に任せた故、将軍義輝公も以ての外憎みなさった。

一、三好山城守(康長)・同下野守(宗渭)・同日向守(長逸)・松永(久秀)らが評議したことには、

  「今回の両度の合戦(>>111)はまさしく義輝の御計らいである。そうであるからには我々の行末はしか
  るべからず。深慮を巡らせて義輝を討ち奉り、中国の義冬(足利義維)を都に据え置いて、一族中を心
  安くするべきである」

  と、永禄6年(1563)の秋に三好日向守は周防へ下り、義冬へ申したことには、

  「徳雲院殿(細川持隆)が果てられなさったことにより、ここへ御下向されたことは我々にとって面目
  もなきことですが、しかしながらその折に、我らが実休に組しなかったことは御存じなさることでしょ
  う。実休は天命によって高政(畠山高政)に討ち果たされました。

  さて高政と喜三の両陣は、義輝公の御計らいでございます。実休のことはもっとも悪逆の者なので(義
  維が)御憎みなさるのも道理です。別儀なき我らを御憎みなさることは以ての外です。そうであるから
  には、行末でさえも心安からぬのです。かれこれ時節は到来仕りました。このうえは、三好一家として
  兵を起こし、尊公(義維)を一度御代に立てて三好一族も安堵申したいのです。

  しかしながら尊公が遠国におられては評議もなり難く、まずは阿州へ御帰りなされませ。実休の息男・
  長治は阿州におりますが、かつては幼少でございました。そのうえ父の実休も尊公を疎略には存じてお
  りませんでしたし、また彦次郎(三好長治)は義輝を親の仇と存じていますから、尊公へ少しも別心は
  ありません。早々に思し召し立ちなされよ。そのために一家中より某が御迎えに罷り下り申しました」

  と色々道理を尽くして申したので、義冬は満足なされて早々に思し召し立ちなさったが、「この事を一
  先ず大内介(大内義長)に知らせなければ」との内意があると、大内ももっともとは思いながらも、他
  家の取り仕切りで義冬を代に立て申しては、大内の外聞は良からずと思ったのか、「仰せはもっともで
  すが、私めに存ずる子細がありますので、まず今回は御無用になされませ」と、強いて止め申すことに
  より義冬も日向守もどうしようもなくして、日向守は「罷り上ります」と港まで出て行った。

  義冬は名残惜しく思いなされて、義親(足利義栄)と2人で船着きまで送りなさったところ、三好は船
  から申し越して「今一度申しておきたいことがございます。恐れながら少しの間、船へ御召しなされま
  せ」と申せば、何の思案もなく義冬親子は共に船に乗りなさった。

  すると日向守はかねて家来の者に言い含めており、そのまま船を押し出した。義冬はどうしようもなく
  おられ、折しも順風で難無く阿州に到着して、元の平島の庄に帰る。彦次郎を始めとして三好一家は残
  らず伺候致した。そして日向守は諸事を計らい、領地も相違なく渡した。

――『阿州将裔記』

227人間七七四年2019/07/04(木) 03:31:42.40ID:ggM6iep6
>>226
永禄6年なら大内義長は死んでますね
年次の誤りか別の誰か?

228人間七七四年2019/07/05(金) 01:56:33.78ID:mC5kOoJC
(前略)しかればその太郎信勝公(武田信勝)11歳の時、小姓衆多き中にて近習である友野形部の
息子の又一郎と、日向源藤斎の息子の伝次とで「扇切りを致せ」と太郎殿は仰せになった。

その時、友野又一郎は腰に差している扇を抜く。日向伝次は手に持っている扇を腰に差して、指を立
てて向かう。その時に信勝は「はや見えたるぞ、置け。せぬ扇切りに伝次は勝ったこと、逸物の心で
ある」と褒めなさり、日向に褒美を遊ばす。

これを高坂弾正は聞いて曰く、

「この御曹司太郎信勝は近代の名人の大将衆、安芸の元就・北条氏康・北越の輝虎(上杉謙信)・尾
州信長・三州の家康・祖父信玄公の幼い頃に似ている。そのような信勝でおありならば…」

と、只今武田の家は万事政事みだりになり、一昨年長篠にて勝頼公は御分別相違なされた故、長坂長
閑(光堅)・跡部大炊助(勝資)両人の諫めをもって信玄公取り立ての衆は尽く討死して、なお家風
は悪しくなった。そうしてついに武田が滅却してしまえば、太郎信勝の良き生まれ付きも要らず、空
しく相果てなさるだろうと、涙を流すばかりであった。(後略)

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』

229人間七七四年2019/07/05(金) 18:08:57.65ID:SJY8LEsO
>>228
戦わずして勝った?それとも逃げるが勝ちっていう精神勝利法を意味してるの?
確かに長篠では決戦せずに退却していればよかったんだろうけどさ、家康と信長を同時に討てるチャンスはこれ逃したらもう無かったろ
解説お願いします。

230人間七七四年2019/07/05(金) 21:28:01.80ID:+PSLviV1
森武蔵守土岐三河守を討つ

可児郡兼山城烏峰は、永禄年中に信長公の下知によって森越守可勝(越後守可行)が城主であった。その
子・三左衛門可成を経て、武蔵守長可に至って当時は信濃にいたのだが、信長の凶変(本能寺の変)を知
ると急いで帰って領地の可児郡木曽川を限り、恵那・土岐三郡の内7万5千石を有す。ただし妻木領はそ
の他である。

さて妻木(広忠)の舎弟・喜十郎頼明、及び妻木長兵衛頼知の嫡男・久右衛門惟知両人は森長可へ降って
旗下となる。惟知は名を“日本六蔵”と改める。

長可は久々利城を降さんとの意あり。されど三河守(久々利頼興)は文武二道の達人なので、容易に討つ
ことはできないため、方便をもって討とうとする。天正11年(1583)正月、使者を送り、とにもか
くにも打ち続いている疎遠を謝罪し、さて軍議仕りたいので御大儀ながら御来駕を待っている由を、慇懃
に申し送った。

三河守は返答して「口上の委細は承知したけれども近頃は不快(病気)に付き重ねて折を得て、もって参
上致そう」と使者は復命した。長可は重ねて使者を遣わして言う。

「御所労に付き御出馬なき由ですが、当節は取り分け穏やかならぬ砌ですから御疑いもありましょう。貴
殿は信長公の御噂でも、『近辺に肩を並べる者はなし。味方にしたいものだ』と仰せられた程で、貴公よ
り他に頼む方はおりません。御疑いを散ずるがため、舎弟の仙千代(森忠政)を人質に遣わしますので、
隔意なく水魚の思いをなされてしかるべきです。もし御来駕が長引くに及びますれば私めが推参申します」

と、清げなる若武者を仙千代に作り立てて乗り物に取り乗せ、侍2人を差し添え日本六蔵を使者にして、
程なく久々利へ赴いた。三河守に対面して弁舌あざやかに言い、巧みに述べたところ三河守は易々と方便
に落ちて気を許し、「再三の御使者、殊に人質まで御念の入ったこと痛み入る。それならば明日参上して
御意を得申すべし」とのことであった。

よって人質ばかり返し置き(残し置き?)、程なく日本六蔵は首尾良く立ち帰り、ただちに登城してこの
由を武蔵守に告ぐ。武蔵守は喜ぶこと限りなく、ただちに佳酒美肴をもって歓待した。

翌朝、三河守は烏峰に入る。武蔵守は対面してその厚遇に至らざることなし。三河守曰く「御相談の事が
あるとして再度の使者、殊に我が疑いを散ずるがために人質を送られた心底分明、どうして疑おうか。故
に舎弟の仙千代殿と同道して来城したものである」と仙千代を返す。

武蔵守はいよいよ喜び「御承諾のことは大慶浅からず。さてまた相談の事とは他でもない」と雑談を繰り
返し繰り返し、酒を持たせて饗応した。その時の吸い物は鹿だという。台所は狼狽えて生の鹿を出した。

盃が終わって三河守は退城しようとする。かねて合図していた者ども8,9人はこれを送った。城の坂の
東にかかり、板の洞の大道に達する頃に「帰られよ」と言って、三河守が何心なく馬に乗ろうとしたとこ
ろを、戸田勘右衛門(勘左衛門)が抜き打ちに肩先から脇腹にかけて切り落とせば、従者も案に相違して
驚き入り、抜き合わせようとしたが敵い難く是非もなし。皆散々に逃れ帰った。

かくして三河守の首を取り、実検に備える。長可は「仕済みたり」と喜んで久々利を押領し、戸田勘右衛
門を置いて守らせた。

――『妻木戦記』

231人間七七四年2019/07/07(日) 04:07:09.23ID:2ZKpV0XZ
森武蔵守平井頼母を討つ

岩村城主・森蘭丸は京都本能寺の変に殉じたので、森氏家中の各務兵庫(元正)を城代に遣わした。土岐の
高山・小里及び明智分は城附である。

高山の城主・平井頼母方へ森長可は使者をもって曰く、「貴殿の領地は当方の朱印の内なので、紛れもなく
当家中である。そうであるからには金山に屋敷を渡し申すので、近日参着して受けとるように」と。平井は
使者に対面し「下命の趣、つぶさに承る」と言って、急に返状をしたためて使者に渡した。

 来命を受けるといえども、いささか承知しがたい。

 さて私は元来播磨国に城を有し、昔より数代の将軍にかしずき、諸騒乱の時のみならず木曽の戦の砌に
 は、織田信長公に従って木曽路に迫り、丹波国の住人・西尾某は3百余人を率いて上海道を固めて、土
 岐郡釡戸境権現の城を守った。某もまた2百余騎を率いて伊賀・伊勢・尾張から下海道の要害として当
 城を固め、ついに軍功をなして自力の働きあり。

 しかるに何故、今新たに武蔵守に属すというのか。まったくもって思慮に及ばぬなり。よって返状かく
 の如し。

         天正11末年(1583)正月      平井頼母佐

                  森武蔵守殿

この返状が武蔵守のもとに至る。武蔵守はこれを見て「頼母方は当方の領分でありながら、謂れなきこの言
い立て、近頃のわがままな振る舞い以ての外である! 高山の城へ押し寄せて討ち取るべし、用意せよ!」
と命ず。時に森主水が進んで曰く「今の治平の世に、私に弓矢を弄んではこれ偏に乱を好むようなものです。
私がよろしくこれを処しましょう」と。武蔵守が主水に任じると、主水はすなわち家中の高木与一を久々利
に招いて、密かに内談した。

与一は分別して「まず私が高山の城主・頼母に対面して、計略をもって我が方へ招き寄せて詰腹を切らせま
しょう。私に了見があります」と言い、高山の城へ馳せ参った。頼母に対面すると慇懃に一礼を述べ、次に
「今日某が来城したのは別儀にあらず。この度、貴方より武蔵守へ返状した趣を、君公(長可)は甚だしく
立腹しています。しかしながら私がよろしく取り成し、そのうえ和睦を取り繕うとしています。内談もして
頂ければ」と来訪を勧めた。頼母はその好意を感謝し、「明日推参する」と約束した。高木与一は急ぎ立ち
帰り、屈強の武者2,30人に旨を含めて、頼母が来るのを待った。

平井は家老の土本某とその他家来2人を連れて、久々利に高木を訪ねた。与一は迎え出て、山海の珍味でこ
れを遇した。予め用意した兵どもは広縁の先に出ると「森武蔵守の命である! 平井頼母急ぎ切腹せよ!」と
大音声で呼ばわった。

平井は思いも寄らず「そのこと心得難し! 誰かある!」と呼べば、随行の家老を始めとして部下2,3人が
太刀を抜き、切り出て守り戦うも衆寡敵せず、多勢に切り立てられついに土本は討たれ、他の者どもは皆逃
れ去った。平井も今や叶わぬと思ったのか押し肌を脱いで、「口惜しや! 高木に謀られたるか!」と腹を十
文字に掻き切って死んだ。与一は立ち寄って首を掻き、ただちに武蔵守に送った。

この報が高山に至る。頼母の嫡子・巳之助はすでに13歳の時に母と離別し、今また18歳で父を討たれて
愁嘆限りなし。頼母の妾のまのという者は腹に子を持っていた。

時に巳之助は命長らえても仕方のないことと既に切腹せんとするのを、まのはすがり付いて「どうして切腹
するのです! 播州には一門多し、一先ずはかの地へ忍び、両親の御菩提のために出家しなされ! まず私の
故郷である渡合の里に姥母の家もありますから、ここへ忍ばれませ。幸いにもまた、虎渓山の慶徳院の僧は
播州生まれで、先君と縁だと常に承っておりますから、播州への案内も私から願い出ましょう。それ故、急
ぎ渡合の里へ忍びなされ!」と諫めれば、巳之助ももっともであると部下1人を連れて渡合へ落ちて行った。

232人間七七四年2019/07/07(日) 04:14:45.25ID:2ZKpV0XZ
小里城主・和田彦五郎、明智城主・遠山民部(景行)らはこの由を聞き、密かに城を開けて各々立ち退いた。
さて小里・明智の両城主は三河辺りに隠れる。武蔵守は高山の次第を聞き、林長兵衛(為忠)を城代とする。

さて林長兵衛はその城下の百姓どもを召し寄せ「この度、平井の一子・巳之助が落去した。所在が分かった
らただちに当方へ知らせよ」と命ず。百姓どもは村々家並に触れを出した。しかるに渡合にいたまのの母は
この由を聞いたことにより娘に密かに告げ、「巳之助を匿ってもし高山に漏れ聞こえたら、どんな憂き目に
あうかも計り難い。密かに訴人して汝も我も命を逃れようと思うがどうか」と語った。

まのは思って「さてはもはや命のほども知れた老母! 今際も知れぬ歳で訴人し命長らえようと計る所存は、
親子ながら恨めしい!」と申せば老母は手持無沙汰の顔をして、ただしおしおと立ち出て後ろの山に登って
行く。まのはこの様子を見るなり「さては訴人するか!」と合点して、老母の心底委細を巳之助に告げた。

巳之助は「そうだろうな。某はこのように世に落ちたのだから是非もなし。討手が向かうなら討死する所存
である。汝は若君を連れてここから妻木の家中に忍び、中垣助右衛門を訪ねて行って、この由かくの如しと
頼み申せ」とあって、まのは仰せを承る。

「私とて女であっても心は男に違いありません。この若君を刺し殺して御最期の御供申さん! たとえ討手
が50騎,百騎来ようとも私が防ぎ申します! 主君はその間に御自害なされよ!」と、まのは足を上げて
力足を踏めば、大地も動くほどであった。

巳之助もこの有様を見て「汝は常に柔和に見えたが今の有様は、まことに木曽義仲の妾の巴とやらもどうし
て汝に勝てようか。たとえ軍兵50騎,百騎が押し寄せてくるとも恐れるに足らず。けれども今を限りの我
が命、所詮長らえることはできない。是非若君を連れて落ち、成長すれば父母、次には私の忌日も語り知ら
せて菩提を頼むぞ!」と是非に是非にと促せば、まのも今は力及ばずして「主君の仰せならば」と泣く泣く
妻木の城下へ落ちて行った。

そこへ討手の大勢が馳せ来たり「頼母の一子・巳之助がここにいる由により討手に向かった! 早く御切腹
あらせられよ!」と呼ばわると、「平井の一子・巳之助これにあり!」と言うやいなや太刀を振りかざして
受けつ開きつ戦ったが、さしもの大勢に切り立てられて思わず後ろのいり(圦か)へ落ち込んだ。討手の者
どもがこれを見て、松明に火を付け振るが如くに投げ込めば、どうして堪えられようか、ついに巳之助は空
しくなりにけり。討手の者どもは首を取り、勝鬨を揚げて帰った。

また、まのはようやく妻木の城下に着き、中垣助右衛門を訪ねて泣く泣く始終を語れば、助右衛門はこれを
聞き「さても頼母氏は切腹、巳之助も今を限りとは痛ましき有様なるかな。願いのままに親子諸共匿い申す
のは安きことだが、ここは高山に程近い。幸い尾州品野の里に永井作右エ門という私の縁者がいる。私から
書状をもって頼み送ろう。まず今宵はここで休息せよ」と心を尽くして言った。

まのは一入力を得て当方の子を抱いて中垣に向かい「このうえの情には、この君は未だ名もありません。名
を付けて頂ければ生々の情でございます」と申すと、中垣は「しからば」と自分の名を形取り“平井助五郎”
と呼ばしむ。程なく夜も明ければ、仲間1人を添えて尾州品野村の永井氏へ送られた。作右エ門は承知して
「5年,10年匿い申そう!」と頼もしく申されたので、諸共に安堵したのである。

かくて助五郎まだ7歳の時、土岐郡の某はかねてこの事々を詳しく伝え聞き「養子にしたい」と永井氏へ申
し入れると、永井氏は「いかにも所望に任せよう。しかしながらこの人は深い由緒のある者なので、養子と
なされても平井の名字を名乗らせられたし」と、肥田の某の方へ送り遣わした。しかるにこの時は森長可は
討死して、舎弟の森右近忠政の代であった。

――『妻木戦記』

233人間七七四年2019/07/09(火) 00:25:24.04ID:0PpH8yMY
三斎公(細川忠興)は、父幽斎より譲られた肩衝(茶入)を、心にかなわないと安国寺恵瓊へ一千貫で売られた。
その後、安国寺恵瓊が処刑された折、この肩衝は徳川家康公の元に献上された。

ところで安国寺恵瓊の処刑の原因と成った石田三成の乱(関ヶ原の戦い)の時、津田平左衛門(正しくは小平次、
秀政)が家康公に
「天下がお手に入ること必定でしょう、その仕置の際、多数の肩衝が献上されると思います。その中から
必ず拝領をいたしたく思います。」
と申し上げた所、家康公は非常に機嫌よく「そのこと、そのこと」と申された。

合戦後、予想した通りに1日だけで肩衝が16も献上された。この時津田にも新たに領地を与えるとの
上意であった所、「忝ない事ですが、青野ヶ原(関ヶ原)で申し上げましたように、御加増よりも
御茶入を拝領いたしたいのです。」と重ねて言上したため、「尤もである」と、この安国寺肩衝を拝領した。

その後これを三斎公が一万貫で買い取り、中山と銘をつけた。
(筆者注:この時忠興は安国寺肩衝を黙って懐に入れ持ち帰り、後で代銀を届けたという)

この肩衝を見た時、三斎公はこのように詠まれた

 年たけて また越ゆべしと思ひきや 命なりけり佐夜の中山

これは西行法師が関東での修行から帰る時に詠まれたもので、「下るときはまた越えねばならないとは
思っていなかったのだが、今越えることとなった。命が有ればこの佐夜鹿峠のような難所を越えるという
憂鬱な目にも逢うものだ。」という意味である。

この茶入は子息の越中守(忠利)に譲られましたが、後に越中守は金子1600枚で酒井宮内少輔(忠勝)に
売却されたという。

(三斎伝書)

234人間七七四年2019/07/09(火) 00:55:25.67ID:BTnI+Yho
>>232
戦国の世とはいえ読んでてつらい

235人間七七四年2019/07/09(火) 15:32:28.95ID:xtfu1St6
大神君(徳川家康)は忍の近辺で御鷹野をなされた。その節、岩松万次郎殿(守純)は御先祖である
新田の御末葉で、御尋ねになったところ新田に幽居して郷民どもは尊敬し、助力仕っているとの由が
御聞に達した。

そこで御会い遊ばされる旨を仰せ出された。これにより(岩松が)忍に参られて御目見した時、岩松
は、当家は嫡流で大神君は御末葉(当流之嫡流大神君には御末葉)との由を以前から家自慢申されて
おり、御前でも同様で、「内府は結構な御巡り合わせです。目出度い(内府は結構之御仕合目出度)」
との由を仰せ上げられた。

これにより大神君も驚き思し召し、御物も仰せられず内に御入りになったという。その後「餓死せぬ
ように」と仰せ出されて、御代官所より20石ずつを進め来たるという。

忠秋公(阿部忠秋)が忍を御拝領の折、御代官中より申し継いだので此方様方(忠秋)より20石ず
つを岩松殿に進めなさり、その後、厳有院様(徳川家綱)の御代に忠秋公は仰せ上げられ、岩松は御
先祖様の御筋目なので御知行を下されるように御世話をなされた。

当時は万次郎殿(富純か)の御亡父(秀純か)の御代で、御知行の屋敷まで御拝領を仰せ出された。
御知行の場所も良き所を渡すように御代官所に仰せ渡しなさったので、此方様(岩松)は御家の御厚
恩と思し召したとの由で、御知行の所も百石御拝領したところ、3百俵程を納めたという。

屋敷も3万坪あって林の惣囲いだという。“田島の屋敷”と申す。

(原注:義貞公(新田義貞)の御居城は分かっているけれども、御当家(徳川家)御先祖の有親公・
親氏公の御居住の場所は分からないという。もしかすると、只今の万徳寺比丘尼の所に大木などがあ
り、景色は常ならぬ場所というが、「ひょっとして、ここでもあろうか」と岩松万次郎殿は仰せられ
たという)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』

236人間七七四年2019/07/09(火) 21:03:41.02ID:g5uv+C8i
系図貸してって呼び出した時のお話か
岩松は足利義兼の庶長子の出であり且つ源姓畠山の祖でもあるからプライドは高いんだろうなあ

237人間七七四年2019/07/09(火) 23:28:48.29ID:AaMMFxaz
岩松家を下克上し、守純にとっては親父の仇・由良氏を召抱えてて
そんなのが新田を仮冒して一門面して会いたいって言ってきたわけで……
皮肉の一つもいいたくなるでしょ

238人間七七四年2019/07/10(水) 07:56:39.66ID:EhSynLtZ
なるほど
そうでもなきゃ神君怒るよね

239人間七七四年2019/07/10(水) 15:49:22.27ID:XPK8fwud
(前略)ところが明成(加藤明成)は闇将で武備を守らず、ただ金銀珍器を好んで臣庶国
民の困窮を顧みず、諸人の肉を削っても金銀となして集めることを喜んだ。

その金銀を集める時は、皆一分にして取り集めた。時の人はこれを“加藤一分殿”と称した。
(原注:“式部”と“一分”は発音が近い故、そのように言ったものか)

これ故に金銀財宝は蔵に充満した。私欲は日々に長じ、家人の知行、民の年貢にも利息を
掛けて取り、商人職人にも非道の運上を割り付けて取った故、家士の口論、商工の公事喧
嘩は止むことなし。これ故に老臣は心を合わせ、一同にこれを諫めても聞かず。(後略)

――『古今武家盛衰記』

240人間七七四年2019/07/10(水) 21:06:40.96ID:txMoZn0l
寛永十四年十月五日 吉田御屋敷、三斎様御茶湯、御座敷開き
                辻七右衛門殿、久重、誓願寺永玉、守顕。(茶会記略)

三斎公(細川忠興)が薄茶入を出された時、辻七右衛門殿が「この茶入はなんと言う名でしょうか。」
とお尋ねになった所、三斎公は「吹雪と申します。」と答えられた。

「この茶入の形は三斎様のお好みであると、世間では言われています。」と七右衛門殿が申されると、
「いやいや、これも利休が形を切り出されたものです。しかし最初に私が写したので、世間でそのように
言われているのでしょう。」と答えられた。

三斎公は、唐物茶入を持たずに、瀬戸の山の井肩衝(古田織部が天下一と称賛した古瀬戸肩衝)ばかりを
秘蔵していてもいかがかと思われ、唐物を持った上で、瀬戸を唐物よりも秘蔵すれば良いとして、
古田織部に、彼は所蔵する勢高肩衝(織田信長が所持し、本能寺で罹災した)を所望した。

すると織部は「金子二千枚頂ければ進上いたします」と返答した。三斎公が「肩衝に金子二千枚も出す
取引は聞いたことがない。」と申されると、
「それでは金千枚と、山の井肩衝を残りの千枚分として頂きたい。」と言った。

これに三斎公は
「それは駄目だ、勢高肩衝を所望したのも山の井のためであり、それは出来ない。」
とお答えになったという。

(三斎伝書)

241人間七七四年2019/07/11(木) 11:55:14.96ID:WC8s2TiO
世宗大王(セジョンデワン)は1450年(世宗32年)2月14日に
同副承旨の鄭而漢(チョン・イハン)にこのような言葉を残した。
崩御3日前だった。結局、これはは遺言になった。
「倭(日本)と野人(女真族)への対応は簡単な問題ではない。
平安に浸っていれば気が緩まないか本当に心配だ。
日々気を引き締めて問題がないようにしなければいけない」

(『世宗実録』)
以下略

ソース 中央日報 
【コラム】無知または無視:韓国の日本対応マニュアル

242人間七七四年2019/07/11(木) 12:08:12.99ID:WC8s2TiO
朝鮮王朝実録の宣祖修正実録には、1592年に外敵が侵入した時に
朝鮮がどれくらい無防備だったかが赤裸々に記されている。
外敵は20万人を徴発したが、実録には
「釜山(プサン)で見張りをしていた官吏が最初に来た4百余隻を報告し、
辺将が最初の報告を受けたものだけを根拠にこれを実際の数と見なした」
と記されている。

それで
「敵の船は4百隻にも及ばないが、一隻に乗っている人員が数十人に過ぎず、
その概略を計算すれば約1万人ぐらいになると報告したので、朝廷もそのように考えた」
ということだ。

(中略)

1592年、釜山沖に倭軍が予告もなく攻め込んだわけではなかった。
その前年の1591年、朝鮮通信使に渡した国書を通じて豊臣秀吉は明を打つという考えを知らせた。
「一超直ちに明国へ入り、吾朝の風俗を四百余州に易え、帝都の政化を億万欺年に施すは方寸の中に在り」
と伝えた。明への道の途中に朝鮮があった。

ソース 中央日報
【コラム】1592年と2019年、私たちは変わったのだろうか=韓国(1)

243人間七七四年2019/07/11(木) 12:09:38.55ID:WC8s2TiO
豊臣秀吉を直接見ても対策は分かれた。
秀吉を見た通信使の黄允吉(ファン・ユンギル)は朝鮮に戻ると
「必ず兵火があるだろう」と報告したが、
副使の金誠一(キム・ソンイル)は
「そのような情状は見つからなかった」と正反対のことを伝えた。

実録には秀吉を見た2人の官僚の全く異なる印象評価も登場する。
黄允吉は「眼光が輝いていた」としたが、
金誠一は「目がネズミのようだ」と比喩した。

実録には金誠一が朝鮮に戻る途中で
「通過する帰途でさまざまな倭陣で倭将が与える品物を誠一だけは断り受け取らなかった」
と記録した。
倭には何も要求しないという彼の所信だったのかもしれない。
だが、ネズミのようだという秀吉が送った倭軍は、
明の地上軍を碧蹄館(ピョクチェグァン)で撃破した当時の精鋭兵だった。

(中略)

倭軍との戦闘で釜山の辺将・鄭撥(チョンバル)将軍は
矢がすべて尽きると敵の弾丸を受けて戦死した。
東莱(トンネ)府使の宋象賢(ソン・サンヒョン)は抗戦を指揮し、
鎧の上に朝服を着て椅子に座っていたが、結局死んだ。
準備が整っていない戦争で、
現場の指揮官は死を以て倭軍と対抗しなければならなかった。

ソース 中央日報
【コラム】1592年と2019年、私たちは変わったのだろうか=韓国(2)

244人間七七四年2019/07/11(木) 12:17:22.82ID:qPa1o5mb
コラム名に笑ってしまった。すまぬ

245人間七七四年2019/07/11(木) 13:01:05.37ID:37oiW974
スレがスレだから仕方ないけど逆の立場だったら到底笑えるものではないかと

246人間七七四年2019/07/11(木) 17:28:10.07ID:he4PPQoo
朝鮮がチベットで日の本が中共といったところか
壬辰倭乱で国土は荒廃し書物は消失して文化レベルが水準以下となり水車さえ作れないほどになった
日韓併合でインフラ整備してあげたがそれでもなお日本は朝鮮に対して賠償し続けなければいけない
何故なら日本は朝鮮の一部だからである

https://i.imgur.com/Rc56XJ1.jpg

247人間七七四年2019/07/11(木) 21:25:57.73ID:6gXsWriM
油断しまくりだな
隣国の情報くらいちゃんと集められそうなもんだが

248人間七七四年2019/07/12(金) 09:28:52.56ID:8FkbYNGa
もともと水車さえ作れなかったはず

249人間七七四年2019/07/12(金) 16:30:42.87ID:ycVecxqD
3万石 渡瀬左衛門佐繁詮

太閤が卑賎の時から奉仕した。関白昇進の時に5千石を賜り、旗本の列となる。天正18年(1590)、
小田原の戦功をもって、遠州横須賀城3万石を賜る。ところが、秀次に悪行の詮議あり。渡瀬はその張本
人であることをもって、文禄4年(1595)8月に領地を没収し、佐竹右京大夫義宣へ預けられて常州
水戸へ配流(後に切腹)。


3万石 前野但馬守長康

太閤が筑前守だった時に馬廻に召し出され、前野庄左衛門と称す。賤ヶ岳では四番の軍列であった。後に
但州出石城主となる。長康も秀次へ悪行を勧めたことをもって領地を没収し、駿州府中城主の中村式部少
輔(一氏)に預けられる(後に切腹)。この将は加州の住人・富樫介(加賀守護富樫氏)の末葉で、後に
坪内と改めて、当時御旗本に奉仕した。


18万石 木村常陸介重高

重高は木村隼人佐の息男である。父の隼人佐は太閤が微賤の時からの老臣で、賤ヶ岳合戦の時は三番備、
柴田の先手を追い崩して越前まで突き入り、ついに勝家を自害せしむ。この功をもって山州淀城を賜り、
大名となって卒去した。

常陸介重高は家督を継ぎ、太閤は関白職を秀次へ譲られる。この時、「木村は数年予の老臣であり、目出
度き者である。秀次も予の如く果報を継ぐべし」と、木村を秀次のへ付けなさった。

されども重高は父・隼人佐に劣り、佞奸にして石田(三成)・増田(長盛)と心を合わせて秀次へ悪行を
勧めたことをもって、秀次生害の後に木村は摂州茨木で切腹、その一族は縁者まで尽く死刑となる。この
始終は『秀次記』に委細があるので、ここには記さない。


5万石 熊谷大膳亮直澄(直之)

直澄は熊谷次郎直実の末葉である。太閤が天下草創の始めより馬廻に召し出され、しばしば戦功があるの
をもって5万石まで賜り、秀次の附臣となる。ところが秀次生害あれば、直澄は嵯峨天龍寺へ馳せ入り、
たちまちに自害した。直澄はまったくその誤りがなかったので、太閤も召し返して本領を賜ろうと内談が
あった内にたちまち殉死したため、皆人は残念に思ったという。


8万石 熊谷内蔵介直陳(直盛)

直陳も熊谷次郎直実の末葉で勇猛の者故、太閤の馬廻に奉仕してより、しばしば軍功を尽すことをもって
天下平均の後に、豊後安岐城主となる。これも朝鮮へ渡海し(目付として)諸将の剛臆を告げたが、毛利
(吉成)・竹中(重利)と対決に及んで追放された。直陳も三成の婿なので佐和山へ赴いて忍んでいた。
翌年三成は本領を与えて大垣城へ籠め置いたが、垣見・木村とともに相良・秋月らにたばかられて死んだ。
(後略)

250人間七七四年2019/07/12(金) 16:31:56.17ID:ycVecxqD
1万石   塩冶隠岐守
1万5千石 寺田播磨守(光吉)
2万2千石 斎藤左兵衛督
3万石   津深右京亮
1万2千石 粕谷内膳正(糟屋武則)

以上五将は各々太閤の代に取り立てとなり、武威を振るったが石田に与するをもって所領を没収なされた。


6万石 戸田民部少輔氏繁(勝隆)

太閤が未だ勢微な時から従った。しばしば戦功があったので予州喜多郡大洲城6万石を賜る。天正13年
(1585)に太閤は四国退治のため、御舎弟の羽柴美濃守秀長と御猶子の三好秀次を大将軍とし、6万
余兵を添えてまず阿波州を攻めさせなさる。

この時、戸田は一番に馳せ加わり戦功をあらわす。それより四国の徒党は尽く雌伏したので、取り分けて
戸田の戦功を感心し、同州宇和郡板島城へ移しなさって官位を昇進し、大名に取り立てなさるとの契約が
あった。そんな折に程なく病死し、あまつさえ令嗣なきをもって所領を召し上げなさった。


7万石 小川土佐守祐忠

伊予今張城主。太閤取り立ての人である(原注:一説に明智光秀の従弟。故あって直参するという)。初
め石田に与し、島左馬介祐滋とともに大谷(吉継)に属して北国へ赴く。後に関ヶ原へ出張して軍談する
ところで金吾秀秋が密かに関東へ通じると聞き、脇坂・朽木・赤座とともに俄に心を変じ、大谷・平塚の
陣を破る功をもって本領を賜る。

ところが祐忠は不行跡にして家人国民に酷く当たり、諸人は疎み果てる折に異心を巧み、天下の大事を企
てた故にたちまち所領を没収なされた。小川父子とその一族与党まで尽く改易なされたという。

――『古今武家盛衰記』

消えた秀吉取り立ての家臣たち

251人間七七四年2019/07/12(金) 16:39:08.37ID:BhNSOonv
>>247
秀吉が天下統一して朝鮮の使節が来て九州に到着した時、九州で少弐氏が滅んだことを知って
驚いたという記録が残ってる。朝鮮王朝のレベルでは100年位対日情報が滞っていたらしい。

252人間七七四年2019/07/12(金) 16:44:39.80ID:MSoPE4K2
当時の朝鮮からするとそれまで戦乱続きだった日本が統一された事の方が異常事態なんじゃね
しかもそれをやったのが下層出身者だという
そんでそいつが明を征服しようと企んでるとか

253人間七七四年2019/07/12(金) 22:02:26.03ID:ycVecxqD
5万石 丹羽備中守長昌(長正)

越前守長秀の次男、修理亮長政の孫。幼少より太閤に仕え、後に越前東江城を賜る。石田に与して大谷に
属し、戦功をあらわす。関ヶ原の敗戦を聞いて逐電した(後に秀頼に仕えて、大坂開戦前に脱出)。(原
注:ある説に曰く、長昌は越前を逃げ出し、後に丹羽左京大夫方へ行き忍んていた。子孫はかの家に仕え
るという)


2万石   多賀出雲守(秀種)
1万9千石 杉若越後守(無心)
1万7千石 横浜民部少輔(茂勝)
1万5千石 杉谷越中守
1万石   寺西下野守(是成)

以上は太閤取り立ての将である。石田に与して大谷に属し、北国で戦功あり。それより大津へ向かって立
花宗茂の先手に進み、命を捨てて大いに戦い、関ヶ原へ出張しようと用意した。しかしすでに敗れたと聞
いて逐電し、諸国に忍んで放浪した。(原注:私に曰く、以上五将の由緒、かつその子孫が諸家の陪臣と
なることは長き故記さない。『太閤記』に詳しい)


1万石 松浦伊予守秀任(久信)

松浦安太夫宗清の従弟。初め安兵衛といった時より、太閤の馬廻に召し出されて頻りに立身した。石田に
与し、大津城攻めで立花とともに軍忠を励む。秀任は元来強力で、鉄棒を提げて馬人の区別なく散々に打
ち倒し、一の城戸を打ち破り二の城戸まで攻め入ったが、大勢に取り詰められてついに戦死した。立花は
その勇を大いに感じ、太平以後に秀任の子を召し出して扶持した。子孫はかの家に仕えるという。


1万石   高田豊後守(治忠)
1万3千石 藤掛三河守(永勝)

以上両将は太閤御取立ての者である。石田に与し、小野木(重勝)とともに田辺城を攻落する。味方敗北
の後に流浪したが、子孫は当家(徳川家)に召し出されて俵数を賜る。子細は知らず。

――『古今武家盛衰記』

追記>>250
富田高定などの伝もあるけど長くなるので割愛

254人間七七四年2019/07/13(土) 00:45:39.47ID:Kk+VP0qq
若い頃、三斎公(細川忠興)はいつも利休に蒲生氏郷の悪口を言い、また氏郷も利休に三斎公の悪口を
言っていた。

ある時三斎公は利休の所で
「氏郷は数寄者ぶっていますが、裏口を開けてみれば乗馬用の沓や鼻紙などが散らばっている有様です。
彼は絶対に数寄者などではありません。」
と言った所、利休は
「それも良いでしょう。数寄さえすれば、それでも構いません。」
と答えられた。

そうしているうちに蒲生氏郷が勝手の障子を開け
「誰だかが私の悪口を言ったようだ。しかしその者が恥をかいたのは嬉しい」
と言った。

後で三斎公は「誰かがすぐに告げ口したのだ」と大笑いされた。

(三斎伝書)

255人間七七四年2019/07/13(土) 11:19:11.37ID:YjWTGmPq
どんだけ仲悪いんだよ

256人間七七四年2019/07/13(土) 11:25:34.48ID:YjWTGmPq
>>251
驚きです
100年はさすがに。

257人間七七四年2019/07/13(土) 20:59:04.78ID:A8yxn3Gt
朝廷内は権力闘争の日々、朝廷外は貧困やら倭冦やらでぼろぼろだから日本にかまけてる余裕が無かったのか?
15世紀末だったか16世紀初頭の宗氏の内紛にちょっかい出したのが、秀吉前の日本に関わった最後なのかな?
博多商人とのやり取りで情報は入っていそうな気もするけどね

258人間七七四年2019/07/13(土) 21:10:06.07ID:I9aZsBuw
15-17世紀の日朝貿易は偽使の歴史だし
朝鮮に日本が朝貢した体裁を整えればどうでもいい

259人間七七四年2019/07/14(日) 00:52:23.62ID:bpKXLKyV
御所の御台所(崇源院。お江)は、贈中納言藤原の長政卿(原注:浅井備前守殿の御事なり)の
御娘で、御諱は“達子”と申す。御母は織田右府(信長)の御妹(お市の方)なり。

(原注:諸書に記すところは皆“妹”という。ところが溪心院という女房の消息(『溪心院文』)
を見たところ、信長の“従姉妹”であるという。あるいは従姉妹でいらっしゃったのを、妹と公表
して長政卿に送られたのであろうか)

(諸書にしるす所みな妹といふ。しかるに溪心院といふ女房の消息を見しに信長のいとこなりと
いふ。若はいとこにておはせしを妹と披露して長政卿にをくられしにや)

――『以貴小伝』

260人間七七四年2019/07/14(日) 20:50:03.53ID:S1JzbmpW
『難波戦記』に曰く、御宿越前(勘兵衛政友)の討死は強働きとある。白糸の具足は血に染まり、
赤糸に見えたとある。

光政様(池田光政。芳烈公)へ先の松平出羽守殿(直政)が御物語り致されたことには、御宿は
元来左手が無く手ん棒であるという(御宿事元来左手無手棒ニテ候由)。最期には赤糸の具足を
身に着け、手ん棒で槍を持たせていたという。越前家(越前松平家)の某はよく見知っていたの
で、そのまま討ったということである。

出羽守殿は越前の御手のことを確かに御存知のはずだから、これが本説であろうという。御宿は
手ん棒故に、強戦を仕る様子ではそもそも無いという。

――『烈公間話』

261人間七七四年2019/07/15(月) 09:44:55.09ID:DWiCMEm8
>>249

前庄殿な後だけどその話武功夜話にでとりましょうですか?

262人間七七四年2019/07/16(火) 01:34:51.74ID:Y8qQMC2y
同戦記(『難波戦記』)に本多出雲殿(忠朝)戦死の事がある。

自分の手勢の者を先手に残らず掛からせ、自身も掛け出なさったという。横から撃たれた
鉄砲に当たり、馬から撃ち落とされたという。弾の跡は7つあったとかいうことである。
(玉ノ跡七ツト哉ラン有之由)

先の本多能登守殿(忠義。忠朝の兄・忠政の三男)が御物語りなされたとのことである。

――『烈公間話』

263人間七七四年2019/07/16(火) 07:49:46.14ID:PycxYtRW
>>262
随分と鉄砲の精度が上がったんだな。

264人間七七四年2019/07/16(火) 10:26:56.94ID:Df4sL/wN
散弾だろ
甲冑に当たると弾けるようになってる

265人間七七四年2019/07/16(火) 14:56:32.28ID:gRFLGpaC
前日談の
家康から「お前の父親の忠勝は勇猛果敢だったのにお前ときたら」
と言われた話の方は特にコメントなしか

266人間七七四年2019/07/16(火) 20:50:33.27ID:3XPLdlvt
松平陸奥守様(伊達政宗)は御合口(相手として調子のあうこと)で不意に登城し、御夜話にも
御出仕した。

ある時に御前約で出仕し、正宗は異風を好んだのでいずれも替わり装束であったという。忠秋公
(阿部忠秋)も紅茶裏の御上下を召しなされた。そんな折に、正宗は御酒宴中に御次に御立ちに
なったところ、忠秋公を見なさって、

「さてさて珍しきなり! 紅の袴を着ることは往古ありきたりではあるが、紅の肩衣というもの
はこの歳まで見たことがない! 初めて一覧した!」との由で、かように興じ申されたという。
その時、忠秋公は御脇差に御手をかけ、御憤怒の様子で御睨め付けになられたという。

(原注:正宗は曲者で諸人を嘲り、その上に唾吐きを仕掛け申されたという。向かい仕る兼松某
(若松又七郎か)と申す方は唾を吐き掛けられ、堪忍なりがたく扇子で正宗の顔を強かに打った
という。その時、正宗は「堪忍堪忍!」と申され、「殊勝な若者かな!」と笑い申されたという)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』

267人間七七四年2019/07/16(火) 22:08:15.99ID:+SP1oFkm
>>266
あやうく刃傷沙汰じゃねーかw

268人間七七四年2019/07/16(火) 22:36:46.11ID:tH1GGutY
政宗もう60くらいだろ
いいかげん落ち着け

269人間七七四年2019/07/16(火) 23:52:24.77ID:G0uW+Lhr
つまり血の気からやっていた事ではなく単に面白そうだからとかカッとなったとかそんな理由ということなのか
自制心が弱くなるから年とった方がむしろヤバくなる人間

270人間七七四年2019/07/17(水) 07:06:41.88ID:Ga9W4yxv
政宗はよくも暗殺されなかったレベル。なかには親の敵と勘違いされて斬られてしまった人もいるのに

271人間七七四年2019/07/17(水) 08:23:52.41ID:THuUE6L7
>>266
>忠秋公は御脇差に御手をかけ、御憤怒の様子で御睨め付けになられたという。
煽られてプルプルしてるAAが思い浮かんだw

272人間七七四年2019/07/17(水) 09:05:06.66ID:jCJ77sYW
かの名老中、阿部忠秋をここまで激怒させる腐れ爺…。
阿部忠秋じゃなければ、切り捨てていたんじゃないか?

273人間七七四年2019/07/17(水) 15:27:54.93ID:ZijLCe+2
辱めを受けた御家人の岩松又七郎は扇子で頬先を殴り正宗に褒められたそうな
そして主人を守らなかった側にいた小姓を正宗は切腹させた

274人間七七四年2019/07/17(水) 15:37:43.86ID:nRszZZgX
葉隠だと若松又七郎になってるけどどうも兼松正尾という人みたいだね

275人間七七四年2019/07/18(木) 00:06:20.50ID:2uZ2Ncs/
兼松又四郎正吉(信長に足半貰った人)−又八郎正成−又四郎正尾

又七郎の「七」はどこから来たのか

276人間七七四年2019/07/18(木) 03:34:41.78ID:f+XvILOP

277人間七七四年2019/07/18(木) 08:37:42.59ID:5gA42Ipr
>>273
ひどすぎる

278人間七七四年2019/07/18(木) 19:31:33.07ID:wMVJRuAB
外桜田南通の石垣は上杉景勝に仰せ付けられ、権現様(徳川家康)も度々御見分ならせ
られて御指図遊ばされた。

上杉家の家老・直江山城(兼続)が罷り出て御挨拶申し上げれば、権現様は直に肩を御
押し遊ばされて、かれこれと仰せがあった。直江も腰を屈めるだけであったという。

(権現様直に肩を御押被遊彼是上意有之直江も腰をかヽめ候迄の由)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』

279人間七七四年2019/07/19(金) 00:03:31.80ID:0NM0kJP3
千利休の身上が相果てた理由についての事である。木下祐桂(秀吉の右筆とも言われる。不明)が
秀吉公に逆らって浪人したことが有ったが、その時知人であったにも係わらず、利休が見舞いの人を
遣わさなかったことに祐桂は非常に腹を立てた。

その後秀吉公に許されたため、その祝いに利休が祐桂の元を訪ねた所、祐桂は
「利休などという人は知らない。」と言って取り合わなかった。このため互いにひどく腹を立てたが、
表向きは仲直りをした。

ところが、秀吉公が祐桂に「この頃何か珍しいことはないか」とお尋ねになった時、祐桂は
利休の娘のことを申し上げた。「それでは」と秀吉公は祐桂を御上使として利休の内儀の元に
(娘を秀吉の側に上げるよ)2度も遣わしたが、内儀は「利休へ申されないのでは困ります。」と
同意しなかった。そして利休はこれを聞くと「とても納得できません」と申し上げた。
祐桂はいよいよ利休に対して腹を立て、秀吉公に報告した。

その頃、前田玄以も秀吉公に対して利休を散々に言った。これらによって、切腹となったのである。
前田玄以は胴高という茶入を取り出して、肩衝と言って利休に見せた所、全く返事すら無かったことを
恨んでいたのだ。

後にこの胴高の茶入は池田三左衛門殿(輝政)が所持し、今は備前の宮内殿の元にある。
習いが有って、胴高というのは茶入の中でも特別なものであり、習いが有れば見分けやすいものなのであるが。
(玄以はその心得がなかったのである)

(三斎伝書)

280人間七七四年2019/07/19(金) 02:24:54.45ID:z7/Ij/C3
政宗は酒が入るとやらかして後になって謝罪の書状を送ったりしてるからなw

281人間七七四年2019/07/19(金) 11:41:02.99ID:o6qNcdqI
(`●∀・)まあ俺という存在そのものがやらかしみたいなもんだしな

282人間七七四年2019/07/19(金) 12:19:20.92ID:KpYWaZEK
>>279
心得がないなら教えてあげればいいのに
思い上がってる奴を擁護するのは取り巻きだけ
まるで何処かの芸人のようだ

283人間七七四年2019/07/19(金) 12:42:58.45ID:1RTOYgSs
>>282
そして、偉い人の庇護のもとででかい顔。偉い人から嫌われたらその瞬間に終了。
今の芸人と完全に一緒。

284人間七七四年2019/07/19(金) 16:11:47.64ID:HeQN+1lg
>>279
前田玄以って二条城に信忠を置いて逃げた人だよね
晩年はしょうもない取り巻きばっかりになってたのかな
秀長が生きてればなー

285人間七七四年2019/07/19(金) 16:31:48.85ID:NTdE1FW0
置いて逃げたんじゃなくて信忠の命令で退去したんだよ。

286人間七七四年2019/07/19(金) 19:24:59.07ID:jR8ot1a1
大坂と御和睦が調った折に御誓詞の御取り替えがあり、大坂方より木村長門守(重成)と
郡主馬(宗保)が御血判拝領の御使者にやって来た。

その折に両人は御次の間におり、顔を出すまでで退いたそうで御威光に恐れたのだという。
こちらからは板倉内膳正(重昌)が遣わされた。

(原注:世上では両人が御前を憚らなかったと申すが、その折に村越茂助道半(吉勝。道
伴)が御前に詰めておられて見申されたという。木村は色白い大男で羽織袴だった。郡は
60歳程の小男で、黒羽二重の袖無し羽織を着用していたという)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』

287人間七七四年2019/07/19(金) 19:26:05.05ID:tYeeSVef
前田玄以は相当デキる人だと思うが

288人間七七四年2019/07/20(土) 09:20:47.85ID:nIqqXnjt
284がアホなだけ

289人間七七四年2019/07/20(土) 10:00:46.41ID:xNepVVg0
貴重な長宗我部氏が・・・


仙台・泉区で乗用車電柱に衝突 女性2人死亡

http://www.tbc-sendai.co.jp/01news/fr.html?id=00005969

19日夜、仙台市内の県道で乗用車が道路脇の電柱に衝突し後部座席に乗っていた10代の女性2人が死亡しました。

現場は見通しの良い片側2車線の直線道路で、警察は乗用車を運転していた多賀城市町前2丁目の無職・長曽我部力容疑者(23)を
過失運転傷害の疑いで現行犯逮捕しました。
取調べに対し長曽我部容疑者は「わき見をしていた」と話しているということで警察が死亡した女性2人の身元と事故の詳しい原因を調べています。

290人間七七四年2019/07/20(土) 15:50:11.33ID:RSfAlZUF
長曽我部容疑者「わき見をしていた」

馬か何かで踏み殺したのかと思ってしまう

291人間七七四年2019/07/20(土) 17:51:58.27ID:xNepVVg0
長曽我部元親の3女阿古姫は大坂の陣の際に夫や盛親に従って幼い子たちを連れて大坂城に入ったが、夏の陣で落城に見舞われた
この時夫は戦死したが阿古姫親子は伊達政宗軍に捕らえられ、戦後そのまま伊達家家臣となった
阿古姫の次男が有名な柴田外記である
土佐のあたらしい国主の山内氏は長曽我部氏やその旧家臣を低く置く措置をとっていったため、先代の阿古姫たちを頼って
長曽我部一門やその家臣の一部が集まり一種のコミュニティーを作り仙台藩に仕えたという
江戸時代、多くの長曽我部一門は幕府に遠慮して苗字を変えていたが、多くが明治維新後に長曽我部などに戻したという

292人間七七四年2019/07/21(日) 19:06:48.78ID:ARl2F+J7
一、翌年2月4日(1614)、大久保相模守(忠隣)江戸発足。上方筋で切支丹が起こったので
  仕置きのために上京。宗門の者どもを成敗して後、板倉伊賀守(勝重)をもって相模守の改易
  を仰せ付けられ、井伊掃部頭(直孝)に御預けなされた。

  この節、里見安房守(忠義)と佐野修理大夫(信吉)に改易を仰せ付けられた。ただ大久保相
  州の縁者たるによってこの如し。

  一族家来まで御咎めあり。相模守の子供の大久保右京(教隆)・同主膳(幸信)・同内記(石
  川成堯)、いずれも津軽・南部へ御預けなされた。大久保加賀守(忠常)はそれ以前に相果て
  られた故、孫(大久保忠職)が家督を致していたが、これは家康様の御息女・加納様(亀姫)
  と申す方の御婿である故、江戸の屋敷に閉門致した。

  森川内膳(重俊)は相模守の姪婿なので、酒井左衛門尉(家次)に御預けなされた。日下部河
  内守(正冬)、これは茂助(村越直吉。道伴の父)の娘を相模守の娘分に致して婿に致し、こ
  れによって館林の榊原遠江守(康勝)に御預けなされた。山口但馬守(重政)は縁者たるによ
  り御改易。

  谷六右衛門は相模守が取り分けて目を掛けられた故、松平将監に御預けなされた。石川主殿頭
  (忠総)は相模守の次男であるが、他名を継いだので知行の大垣に閉門致した。その他に摂津
  半兵衛は、その時は江戸奉行だったが当座の出仕を留め申した。

一、富田信濃守(信高)に改易を仰せ付けられた。もっとも罪科は相州とは別罪である。家康様は
  常々、御慈悲をもっぱら要に遊ばされたところ、御老年に及び厳しく御仕置きを仰せ出された
  と、世人は唱え奉ったという(家康様常々御慈悲を専要に遊ばされ候所、御老年に及び稠しく
  御仕置仰出され候と、世人之を唱ひ奉り候由)。

――『村越道伴物語留書』

293人間七七四年2019/07/21(日) 21:51:24.68ID:qLU8C8qo
>>291
龍馬とかが物語の開幕で郷士とかいじめられるあれか

294人間七七四年2019/07/21(日) 21:56:07.62ID:tvy6NoWG
なお幕末の土佐藩執政吉田東洋も長宗我部侍の模様。

龍馬は長宗我部とは何の関係もない模様

295人間七七四年2019/07/21(日) 22:37:47.16ID:QYh0WFsm
東洋は備後守重俊の子孫だよね

296人間七七四年2019/07/24(水) 01:11:16.70ID:qdiUyKEx
ある時、正宗(伊達政宗)は御夜話に登城し御酒宴は長くなったところ、正宗が御見え
申さぬので(徳川家光は)「また外したか」と仰せになった。

しかし、御次の間に脇差があったので退出仕ってはいまいとのことで、所々を探したが
見え申さず、中の御門へ聞きに遣わした。すると、とっくに退出したとの趣を言上した
ので脇差を御取り寄せて御覧になれば、中身は竹だったので御笑い遊ばされたという。

――『石道夜話(石岡道是覚書)』

297人間七七四年2019/07/28(日) 11:58:49.11ID:81YcgESZ
山上宗二は薩摩屋ともいい、堺の上手であり、物知りとしても超えるものが居ない人であったが、
なんとも顔つきが悪く、口も悪く、人に憎まれていた。
小田原御陣の時、秀吉公にさえも御耳に触るような事を言い、その罪として耳と鼻が削がれた。

彼の子は道七といい、故太政大臣様(徳川家康)の茶堂として御奉公をしていたが、父譲りの
短気な口悪者で、上様が風炉の灰をされたのを見て、それを突き崩してやり直したため、改易と
された。彼は牢人して藤堂和泉守(高虎)殿が伊予に在国されていた折に伊予へ下り、その事についての
申し開きをした。私(久保長闇堂)も居合わせて一冬話したことがある。

(長闇堂記)

298人間七七四年2019/07/28(日) 15:59:23.97ID:+FGMiur9
忠秋公(阿部忠秋)は御若年の時には御大酒をなされ、御心安き御客がいらっしゃった時は、
大島の伊達な御衣類に鮫鞘の大御脇差をなされた。

あるいは御謡の後には小歌をなされ、御風呂を振る舞いの時は御上がり場で御酒盛をなさり、
小姓衆まで裸で御給仕致した(御あかり場にて御酒盛小性衆迄[身果]にて御給仕いたし候)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』

そんなお洒落さんを茶化したらキレるよなっていう>>266

299人間七七四年2019/07/30(火) 03:54:51.62ID:m2Cmpsib
藪内宗把という人は名高い侘数奇で、かつ人を何とも思わない人物であった。
彼は隠居後、子の世話になっていたが、ある時侘数寄の友人が来た折、話の興が深くなった。
その友人が「用がなければ晩まで語らないか」と言うと、宗把も「それが良い」と答えた。

そこで友人は下僕を呼んで、自宅から夕食をここに持ってくるようにと命じた。
すると宗把に母屋の方から「夕食が出来ました」と伝えて来た。彼は「ここに持ってくるように」と
言い、食事が届くとまだ夕食の届かない友人を尻目に一人で飲み食いした。

この仕方はこの時代の風俗であり、珍しくない事であったようだ。しかし世の常の者は、客の夕食が
届くのを待ってから食べるものであるが、その礼儀もないというのは、宗把の心強く大胆な仕方であった。

すなわち、侘数奇は心強く大胆でなければ、道具をはじめ全てが不如意であるのだから、世に名高い人と
交われば、心劣りして肩身が狭く、自然と茶湯が嫌になるものである。だからこそ胸の覚悟が第一なのだ。

(長闇堂記)

300人間七七四年2019/07/30(火) 18:53:26.82ID:yQhGIf45
利休といい山上宗二といいこの男といい

301人間七七四年2019/07/30(火) 19:01:49.07ID:BdRJQ6Cs
傲岸不遜じゃないと茶人にはなれないのか?

302人間七七四年2019/07/30(火) 20:08:14.03ID:lKAqgCGR
誰に批判されても我が道を行けとな
文化系の人っぽいよね

303人間七七四年2019/07/31(水) 18:03:12.30ID:HDK0hrXm
道クソ

304人間七七四年2019/08/03(土) 00:38:46.97ID:XZbNzS3v
現代茶道だと礼儀というか、もてなしというか、要は心配りが重視されるが、茶の湯の創成期
ではその辺のニュアンスが異なるのかな。
そもそも、どちらが茶に造詣が深いか競う「闘茶」が起源だし、茶室での亭主と客の立場も
いわゆるホストとゲストじゃなくライバル同士の勝負、数寄振りを競う場みたいな感じだっ
たのかと思う。

305人間七七四年2019/08/03(土) 01:07:32.75ID:Huf6utXP
金森出雲殿(可重)が伏見から宇治へ行かれて方々の茶会に出席され。さらに当地奈良に来られ、
ここでも方々で彼を招いた茶会が有った。その時、拝殿右馬丞という春日若宮の禰宜が持つ茶入を
ご覧になりたいということで、私も相伴しての茶湯があった。

出雲殿はこの茶会を称賛され、「京より南には無い茶会であった。」と言われたので、私が
「当地においては、下手と言われます。」と答えると、「他はともかく、都にもまれな掃除の良さであった。」
と仰られた。

侘数寄は気遣いを専らとするが、侘びであっても出来るのは掃除である。
名人というものは相手によって褒めどころが有るのだと思ったものだ。

その右馬丞の茶入というのは、現在は尾張大納言様(徳川義直)の元にある小肩衝の事である。

(長闇堂記)

306人間七七四年2019/08/03(土) 09:47:37.53ID:1GDfPUqH
>>304
あーそれなら納得できる

307人間七七四年2019/08/03(土) 09:48:37.36ID:1GDfPUqH
そうでないと変人と言うか嫌なやつばかりになてしまう

308人間七七四年2019/08/05(月) 15:42:31.42ID:p5nsiM0X
ある所に侘びの茶湯者が有り、小堀遠州殿のお供で私もその人の茶会に参った事が有った。
茶会の後、私が遠州殿に「あるべき式法通りの茶湯でした。」と申した所、遠州殿は

「有るべき式法の茶湯でしたが、それでは侘びの心がない。侘びは侘びの心を持たなくては
茶湯は出来ないものです。今日の仕方では引菜(食事の途中で出す料理)の重箱を取り入れず、
席中にそのまま置いておくべきでした。侘びにふさわしく菜の数が少なかったので、全部食べて
しまった後に、また取れるようにするためです。また酒は燗鍋で出し、湯は湯桶で出しましたが、
これも考え直して、燗鍋をよく洗って、湯を継いで出せばよかったでしょう。」と言われた。

侘びには万事その心がなければ出来るものではない。世の常の茶湯をして誇る人には、
こうした心持ちは腑に落ちないものであろう。

(長闇堂記)

309人間七七四年2019/08/05(月) 15:43:00.35ID:8z59+Ygy
小督の局、名は於万の御方。永見志摩守小野吉英の娘で、第二の御子・結城殿(秀康)の御母上である。

 一説に永見志摩守は三河国池鯉鮒の人である。於万の方はあどけない時から徳川殿の北の方・築山
 殿に宮仕えしたところ、君(徳川家康)の御慈愛を受けて身重くなったが、築山殿は知りなさると
 ある夜に於万殿を赤裸にして縄で縛め、浜松の城の木深き所に捨てさせなさった。

 折しも本多作左衛門重次が警備しており、女の泣く声を訝り探して来た。この有様を見ると急いで
 縛めを解き、事情を聞いて密かに自分の家に伴い帰って介抱した。その後、君にそっと申したとこ
 ろ(家康は)何と宣ったのか、重次はそのまま(於万を)大切に養って、天正2年(1574)の
 2月に浜松の城外有富村という所で御子を産んだのである。これすなわち於義丸殿でいらっしゃる。
 このような事なので、しばし御対面もなく重次が万事育み参らせたのである。

 また一説には、於万は身重くなったので、北の方に漏れ聞こえては憂き目を見るだろうと恐れて密
 かに忍び出て、本多豊後守広孝の家の老臣・本多半右衛門の家に走り入り、しかじかの事であると
 言ったので本多作左衛門に付けたところ、重次は密かに君に申して自分の家に迎え取り介抱したと
 いう。いずれが真なのであろうか。

結城殿が越前国を賜りなさると局も越前にいらっしゃったが、慶長12年(1607)の4月8日に結
城殿は先立たれなさって悲嘆に堪えず、たちまち出家したことは気の毒なことである。法号を長勝院殿
という。元和5年(1619)の12月6日、福井で亡くなられた。73歳であったという。敦賀の孝
顕寺に葬られた。

永見の家も越前に仕えて忠直朝臣(松平忠直)の時に家は滅びた。その後、忠直は豊後の配所で生まれ
た子たちを永見と名乗らせて(永見長頼・長良)その家を立てなさった。これも中将光長朝臣(松平光
長)が流された時に罪を蒙って、ついに家は絶えたのである。

――『以貴小伝』

310人間七七四年2019/08/06(火) 16:16:59.79ID:/b25XDa/
肥後の熊本には加藤清正の廟(発星山本妙寺)が有り、像もあるという。現在の領主である
細川家に於いても厚く尊崇され、供僧などを厳しく付け置き、時々に供膳、香華を備えていた。

この供僧なる出家、ある時膳を据えて亭坊(住職の居る坊)へ下ろうとしていた所、清正の像の覆いに、
鼠が損した所があるのを見つけた。かの僧が言葉に出さず、心にて
『清正は無双の剛勇にて異国までもその名が轟いた人であれば、鼠などが害をなすことはありえないだろう。』
そう思いながら下山し、暫く過ぎて膳具を取りしまわんとかの山に上った所、配膳のほとりに血が染み、
膳の上に大きな鼠が、五寸釘にて刺し貫かれていた。
これを見たかの僧は、ほとんど気絶しそうに成るほど驚き、ほうほうの体で下山したため、
その他の僧たちが上ってかの場所を清め膳を下げたのだと、これは肥後の者が語った所である。

(耳嚢)

311人間七七四年2019/08/07(水) 08:33:28.32ID:p0Q8Ur8q
>>310
像の面倒まで俺にやらせんじゃねーよ!って怒ったんだろうかw
生きてる人がやることだよなぁ。

312人間七七四年2019/08/07(水) 10:21:05.85ID:l4GegedD
色々怖くてそんなこと実際出来ない気がする
実はにゃんこがお供えしたのだけど話が膨らんで、とかではなかろうか

313人間七七四年2019/08/07(水) 10:26:54.75ID:7BkDKFqU
仁王の敵ボスみたいなの想像した

314人間七七四年2019/08/07(水) 12:41:58.23ID:NfUoYjq1
石川左近将監(忠房)が大番にて大阪城に在番していた時、毎夏の虫干しが有った。数々の武具、兵具などを
取り出し、その掛りの武具奉行らが取り扱って、御蔵より持ち運ばせたのは加番大名(大番の加勢)の
人足たちであった。

数多の鉄砲の内、群を抜いて重いものが有り、これの搬出にあたった者も甚だ持ち悩み
「多くの内、このように重いものはどんな人が持っていた鉄砲なのか。」などと不満を口ずさんだが、
よく見るとこの鉄砲には『南無妙法蓮華経』と象眼にて彫り入れてあった。これについて、詳しい者が

「これは加藤清正の持ち筒を納めたものだ。清正の武器には題目を多く書き記している。」と言った。
皆々はこれを聞いて「剛勇の清正所持の上は、そのように重いのも当然であろう。」と感称したが、
鉄砲を担いできた人夫は

「清正は異国までもその名を響かせた人であるが、人を殺すべき鉄砲に題目を書くなど不都合である!
殊にこの鉄砲を担いだおかげで大いに肩を痛めた。大馬鹿者だ!」

そう散々に清正を悪口していたが、俄に心身悩乱して倒れた。程なく起き上がると憤怒の勢いで叫んだ
「雑人の身分として我を悪口なしぬるこそ奇怪なれ!」
それまでの人夫の口上とは全く違い、その凄まじさは言葉にも出来ないほどであった。
周りに居た者たちは色々詫言して宥めたが、まったく承知しようとしない。仕方なく、その時の
加番が松平日向守(直紹)であったため、その小屋にこれを報告した所、日向守の家老が驚いて、
俄に裃などを着し、かの場所へ駆けつけた

「さてさて、不届き至極なる人足かな。事にもよって、故有る武器に対しての雑言、憤りの段尤もであり、
恐れ入り候へども、雑人の義であり、何分宥恕をあい願う。」旨、丁寧深切に述べた所、かの人足は
威儀を改め

「免しがたき者なれども、雑人の義、その主人の断りも丁寧なれば免しぬる。」
そう言うと倒れた。彼は2,3日は何が有ったかわけがわからず人心地も無かったと、左近将監が語った。

(耳嚢)

315人間七七四年2019/08/08(木) 01:18:17.75ID:Z1L+3mDB
古田(織部)はまた家康公より逆心の御咎めがあった時に、申し分仕ったならば助かり申す
こともあったけれども、「この上で申し分は見苦しい」と申し分なく切腹した。これを時の
数寄者は感心したという。

身に誤りが真に無いのならば、申し分があっただろう。逆心がある故か、大坂城内へ内通の
罪だという。

――『烈公間話』

316人間七七四年2019/08/12(月) 18:41:01.21ID:noQSFKLS
織田左門(頼長。有楽斎の次男)が秀頼(豊臣秀頼)から家康公へ御使に参った時、御当家(徳川
家)の御家老衆が玄関へ迎えに出られた。

左門は家老衆に向かいなさり「出たか」と立ちながら不礼に致され、御書院へ通り上座におられた。
いかにも鷹揚の顔色でおられ、小姓衆は覗き見て(左門が)元来変わり者なので密かに笑った。

その様子を左門は見なさり小姓が茶を持参などすると、いかにも不礼を申されて小姓衆を憎み、大
茶碗に熱き茶を持って来たのを見ぬ顔をして、長くそのままにして小姓衆は耐え難く、難儀させた。

その後大茶碗を取ると熱いまま食らいなさり、「しゃ!」と罵って投げ出し御座敷を汚した(其後
取テアツクテクラワレテ社トテ抛出御座敷ヲヨコシ)。家老衆が出ておられたのにこの通りである。

さて家康公が御出になり御返答が済んで帰る時にまた御家老衆が出られると、「さてさて迷惑を仕
りました。こちらへおいでなされ」と下礼を厚くして(左門が)申されるには、「先刻は上使なの
でやむを得ず不礼の仕方でしたが、今は元の左門になりました」と申されたのだという。

常々変わり者であった故という。

――『烈公間話』

「社トテ」は次の意味にしました
しゃ( 感 )
人をあざけったり、ののしったりするときに発する語。 「 −何事かあらん/浄瑠璃・最明寺殿」

317人間七七四年2019/08/13(火) 13:55:02.76ID:Pv9b1yua
千利休は同子の道菴(道安)と古田織部について、細川三斎(忠興)が「貴老が五百八十年後
(長寿した後)に果てなさったとして、以後天下の茶湯指南は誰なのでしょう」と問うた時、

利休は答えて曰く、「世倅の道菴は働いた茶湯である。しかしながら人柄が悪い(然トモ人柄
悪シ)。天下の指南はなるまい。古田織部などでもあろうか」と申したという。果たしてその
如くである。

――『烈公間話』

318人間七七四年2019/08/13(火) 18:27:23.61ID:eJ1RsKwM
山形新聞
最上義光の孫・家信の母は慈恩寺にいた? 寒河江市教委専門員の大宮さん、論文発表
2019年08月08日
https://www.yamagata-np.jp/news/201908/08/kj_2019080800149.php?keyword=%E6%9C%80%E4%B8%8A%E7%BE%A9%E5%85%89

寒河江市教育委員会の歴史文化専門員大宮富善さん(65)=山形市清住町3丁目=が、初代山形藩主・最上義光(よしあき)の嫡孫で
3代目藩主家信(いえのぶ)の母親は、寒河江市の慈恩寺最上院にいた2代目家親(いえちか)の側室ではないかと推察する論文をまとめた。
家信の出自はこれまで不明で、最上家と慈恩寺の関係も新たな発見となり、大宮さんは「最上家と慈恩寺に関係があったとは」と驚いている。

今回の論文は「山形史学研究」の第47号に発表した。大宮さんは1990年に寒河江市職員となり、埋蔵文化財の調査や市史編さんを担当。
現在、県文化財保護協会の理事や県地域史研究協議会の常任理事を務め、地域史研究に深く関わっている。

3代目藩主家信は、最上家が没落する鍵となった人物。父である家親が亡くなった1617(元和3)年に10代の若さで後継ぎとなったが、
家臣の反発から、お家騒動に発展した。その結果、家信は幕府から全領没収され改易となった。

大宮さんは、家親が山形藩主となる前に寒河江領主であったことを糸口に、史料を丹念に調べ、家信は家親が寒河江領主時代の
1606(慶長11)年に生まれていることを突き止めた。さらに慈恩寺別当の系譜に、住職・37世幸光(1548〜80年)の脇書きとして
「前羽州太守最上源五郎義光娘」とあるのを見つけ、その人物の没年月日1617(元和3)年12月21日が、「最上源代々過去帳」にある
家信の実母の命日と同じであることを確認した。幸光は妻より先に亡くなっており、この妻が、夫の死後に家親の側室となり、家信が
生まれたのではないかと結論づけている。

慈恩寺は奈良時代の746(天平18)年に聖武天皇の勅命で開かれたとされ、1504(永正元)年、永正の兵乱で慈恩寺全体が焼け落ちた。
この際に再建された本堂は以前の姿には及ばず、1616(元和2)年に家親が再び建築に取り掛かり、2年後の18(同4)年、家信の時代に落成している。

また、慈恩寺三重塔再建は、家親が寒河江領主時代に始まっていることから、大宮さんは、慈恩寺最上院の側室との関係が建築を
進める上で後ろ盾となっていたと推測する。

最上家のお家騒動について大宮さんは「家信が(出自から)名門の武家でない血筋だったため、家臣の反発を招いたのかもしれない」と考え、
さらに「家信が改易にならなければ、慈恩寺は今以上に壮大な寺院になっていたかもしれない」との歴史ロマンにも思いを巡らせている。

◆最上家信 1606(慶長11)年生まれ。第3代山形藩主で、17(元和3)年に父の2代目藩主家親が急逝し、若くして藩主を継いだ。これが家臣の
反発を招く一方、家老は家親の死因は家臣による毒殺であると幕府に訴えるなど、「最上騒動」と呼ばれるお家騒動に発展。事態を重く見た幕府は、
家信を全領没収とし、近江(滋賀県)に改易とした。改易後は義俊と名乗った。通称は源五郎。没年は諸説あるが、20代半ばで亡くなったとされる。

319人間七七四年2019/08/14(水) 10:13:55.16ID:W0NEcpVc
伊豆国下田から北に二里半ほど隔てて、堀の内村がある。ここが堀越御所の旧跡である。
御所の跡は今は田畑と成り、堀の内村の傍らに法(報)本寺という寺が有り、かの堀越御所の
追福供養を、今以て毎年日時を決めて執り行っているそうだ。この法会を執り行わなければ
疫病などが流行するなどと、現地の土俗では申し習わしているという。

この堀越御所というのは足利将軍の支族である政知が初代であり、その子義通(足利義澄)は
将軍を相続したともいう。その子茶々丸は北条早雲に攻められ、堀の内村の紅花畑の内に隠れたが、
その畑の中から鶏が飛び出してきたのを北条の追手が疑い、茶々丸を探し出し遂に害された。
この事よりこの村においては鶏を飼わず、紅花も作らなく成ったのだとか。

ただし茶々丸は政知の子であるとも、義通の子であるともいう。茶々丸は代々の幼名であり、
その通りに名乗ったのか、又は次男であったのだろうか。
中古治乱記(中古日本治乱記)という書には、茶々丸は北条の勢に逐われて山の麓の寺にて
自害したとある。

(耳嚢)

320人間七七四年2019/08/14(水) 10:45:01.75ID:TJIU/2V8
この名を見るといつも思うんだが
茶々丸って元服させてもらえなかったのかな?

321人間七七四年2019/08/14(水) 20:48:35.60ID:KO6P8Utc
烏帽子親を引き受けてくれるひとがいなさそう。

書状とかは幼名のままでだしてたのかな?

322人間七七四年2019/08/15(木) 00:16:37.96ID:ADdXVEMj
一つの肩衝と呼ばれる茶入を、安国寺長老(恵瓊)が甚だ珍重していたのだが、
これを榊原康政が甚だ賞美して、「宝貨に替えん」と思っていたが、安国寺は全く承知しなかった。

しかしながら上杉征伐として大神君(徳川家康)が宇都宮まで御動座あった頃、上方にて石田(三成)の
反逆の事が起こり、奥に上杉、後ろに上方の蜂起と、諸軍も驚き、君にも御心痛有ったが、ここで
康政が満座の中御前に出て

「上方蜂起、さてさて恐悦です。」

と、殊の外喜ぶ様子で語った。

「いかなれば康政はかく申すぞ。」家康が尋ねると

「上杉は旧家と雖も思慮が過ぎ、その上急速に御跡を付けるような事は無いでしょうから、聊かの押さえの
兵を難所に残して置かれれば、決してお気遣いされることはありません。

また上方は烏合の集まり勢ですから、何万騎有ったとしても恐るるに足りません。この康政が一陣に
進めば一戦に打ち崩すでしょう。

そして後勝利の上は、安国寺も石田の余党ですから、御成敗されるでしょうから、その時に彼の肩衝を
この康政の軍賞として頂きたい。」

そう申し上げると御心良くお笑いあそばされ、さらに諸士、諸軍とも勢いいや増しに強くなったという。

関ヶ原の勝利後、願っていたものを御約束通りに、かの肩衝は康政に下され、彼は秘蔵していたのだが、
台廟(台徳院:徳川秀忠)の御代、この肩衝を頻りにお好みになされ、康政に献上するよう命じたものの、

「これは軍功の賞として賜った重宝です、この義は御免を相願う」

と従わなかったため、秀忠も思し召しに任せること出来なかった。

ある時、康政が細川三斎(忠興)を正客として茶事があったとき、康政が水こぼしを取りに茶室を出た時、
三斎はこの肩衝を奪い、馬を乗り跳ばして御城へ出、上へ差し上げた。

康政の所では未だ客も帰らない内に、上使が現れ
『この茶入は兼ねて御懇望のところ、康政が差し上げないのも尤もな事であったので。今回三斎に仰せ付けられ
奪わせたのだ。』

とのよしを仰せ付けられ、康政には黄金何百枚かを下されたという。

この肩衝の茶入は現在は田安殿(御三卿田安家)の御物となり、甚だ大切にお取り扱いに成っていると、
これは肩衝を拝見した者が物語ったものである。

(耳嚢)

>>233 の内容が江戸後期の耳嚢になると、津田秀政だったのが榊原康政に変わっていたり、忠興が
これを奪った理由が徳川秀忠に命じられたために成ってたりと、時間が経つと逸話というものはこんなに変化
すると言うことがよく分かる内容である。

323人間七七四年2019/08/15(木) 16:33:34.16ID:Tdfto4zP
「尼崎で諸大名が髪を切って信長公のことを嘆きなさる時、秀吉公も嘆きなさり『この上はいずれも
一味同心で明智を討ち取り申す他はござらん! いずれも左様に思し召しなされよ!』と敬っていか
にも慇懃に、同輩の様子も見えたのである。

明智敗軍の時、諸大名への御あしらいは『骨折り骨折り』と仰せられ、皆家来のあしらいになされて
大いに威が付いたのである」と(佐柿常円は)語りなさった。

――『佐柿入道常円物語(高松城攻物語)』

佐柿常円は備中高松攻めの時に秀吉に御供したという人
  
  
一、山崎合戦の時、秀吉公は西国より御上り。先手は中川瀬兵衛(清秀)・堀久太郎(秀政)・
  高山右近・池田勝入様(恒興)などである。

  (中略。戦勝後)

  秀吉公は遥か後ろより、乗物で朱唐笠を差させて御出になった。中川を始め諸大将は床机に
  腰を掛けていた。きっと懇ろに礼儀があるだろうと思いなされているところで、秀吉公は駕
  の中から「瀬兵衛、骨折り」と申されたという。

  瀬兵衛は気短き人なので「推参なり! 早くも天下取りの顔をするか!!」と申されたという。
  秀吉公の御聞きなきことはあるまいが、聞かぬ顔で御通りであったという。

一、古田織部は中川瀬兵衛殿の婿である。利隆様(池田利隆)の伯母婿でもある。秀吉公が山崎
  へ御向かいの時、秀吉公は古田を召して、

  「中川と其の方は縁者だから、中川へ行け。まったく中川を疑うわけではないが、世上の聞
  こえにおいても、中川なども人質を出すとあれば味方一味のために良い。誰であっても人質
  を出しなさるように申して参れ」

  との仰せであった。古田が畏まって行くと、秀吉公は山上に陣取りであったのだが、古田が
  山下まで行くのをまた呼び返して何か遣わしたいと思し召された。乾いてござる木綿足袋を
  脱ぎ、「これをやるぞ。これを履いて津の国(摂津国)の晴れをせよ」との仰せだという。

  さて中川へ行って以上の通り申した。例の中川殿は気短く、早くも立腹して申されるには、
  「秀吉が我に人質を出せと言うか!」と、申されたという。古田は「左様ではありません。
  よくよく御思案なされ」とまずは帰った。

  夜に入って古田を呼んで中川が申されるには、「いかにも心得た。しかし人質に遣わすべき
  者がいないので、家老の子を遣わそう」と人質を遣わしなさったという。その頃、中川殿は
  津国茨木に居住されたという。

――『烈公間話』

324人間七七四年2019/08/16(金) 16:29:02.21ID:R+/a7XHr
大久保彦左衛門(忠教)は名誉の一徹者である。大坂御一戦の時は御槍奉行であるが、後に
御旗奉行となった。

ある時、牢人の某がやって来て申すには「このように御静謐の御代ならば、何も得るところ
なく病死仕ることだろう。天晴にも具足を肩に掛けて討死仕りたい」と、彦左が気に入って
「愛い奴」と言われようと思って申したのである。

彦左は曰く「まことに左様に存ずるのか」と申されて、某は「実に左様の心底」と申した。
その時に彦左は曰く、

「それが本当ならば日本一の不届き者なり!

何故かと言えば、この御静謐の御代に其の方などが具足を着るということは、まず乱国で
なければありえないことである! 代乱れるは一揆か逆心か、左様なことがあって其の方が
具足を着るような如何程の功名があろうとも、(その恩賞は)3百石か5百石である!

其の方は自分1人が5百石の立身を仕りたいがために天下の乱れを好んでいる! 公方様に
難しきことを願い申す心底、さてさて不届き千万なり! 左様に本当に存ずるならば只今腹
を切れ! 是非とも切れ!」

と白眼付けて(怒った目で睨み付けて)言われ、某はコソコソと逃尻仕ったのだという。

――『烈公間話』

325人間七七四年2019/08/17(土) 10:41:04.88ID:+dFIgXP4
私(根岸鎮衛)のもとに来る正逸という導引(あんま)の賤僧がおり、もとより文盲無骨で
その言うところも取るに足りないわけだが、その彼が有る時咄た事に

「太閤秀吉の前に細川幽斎、金森法印(長近)、そしていま一人侍していた折、太閤曰く
「吹けどもふけず、すれどもすれず、という題にて、前を付け歌を詠め」
と有った

ある人は
「ほら(法螺)われて 数珠打きつて力なく するもすられず吹も吹かれず。」

金森報員は
「笛竹の 割れてさゝらに成もせず 吹も吹かれずすれどすられず。」

そう詠んだ。秀吉が「幽斎いかに」り聞いた所、
「何れも面白し。私が考えたものは一向に埒なき趣で、これを申すのも間の抜けた事ですが、
このように詠みました。」

「摺小木と 火吹竹とを取りちがへ 吹もふかれずするもすられず」

そう詠じたという。滑稽さにおいて幽斎はその姿を得た達人であると見えるが。この事は軍談の書や
古記にも見当たらない。私の目の前にいる賤僧の物語であるので、その誤りもあるのだろうが、
聞いたままを記しておく。

(耳嚢)

326人間七七四年2019/08/17(土) 16:26:55.11ID:a03B31HY
姉川合戦の時、家康公に従い奉った青木民部(一重)は真柄(直隆)という兵の首を取った。

さる人(原注:能勢小十郎(頼隆)である)は民部に尋ねて「真柄を討ちなさったとも申す
し、または真柄の子(隆基)であったとも申しますが、どうなのですか」と問うた。

青木は答えて「カスウ(糟斑か。馬の毛色)なる大男と競り合った後、片岸で大男が後ろへ
落ちて行くのを押し付けて取った。カスウの大兵なので、人の子とは申し難き者だった」と
申されたのだという。(原注:子か親かは分からないが、子とは言い難い者だったと申され
たのだということである)

真柄という者は隠れ無き大兵で功の者という。

――『烈公間話』

327人間七七四年2019/08/20(火) 15:12:23.45ID:p+fNZlzi
午10月の(池田光政の)御物語り。

輝政様(池田輝政)は姫路で右京殿(池田政綱。輝政の五男)のところへ御越しになられた。
その日から御気分悪く、御城へ御帰りの時に多くの鳥が飛び来たり、御駕に行き当たったと
いう。これは春のことである。まもなく御快気され、江府へ御参勤なさった。

御帰国されたのは同8月とかいうことで、翌慶長18年(1613)、また御気分差し起こ
り、その折に御座敷の書院床の障子に、また数多の鳥が行き当たったのだという。まもなく
御逝去なさったのである。

以上は加藤九左衛門が覚えていて、光政様へ御物語り申し上げたのだという。輝政様の御逝
去は、去る慶長18年正月25日(原注:行年50歳)。

――『烈公間話』

328人間七七四年2019/08/20(火) 20:47:37.86ID:1pbIn3oQ
輝政はラナのように鳥と話せたのか

329人間七七四年2019/08/20(火) 22:38:50.73ID:5gUQ1Yuj
例に出すなら公冶長(孔子の婿)にすべき

330人間七七四年2019/08/21(水) 15:08:53.88ID:j7HsFu40
岡野紅雪(板部岡江雪斎)という人あり。これは現在の岡野孫九郎(貞明)の先祖である。こ
の紅雪は小田原北条の旗下であった。小田原落居の時に紅雪は生け捕りで縛められ、秀吉公の
御陣にいた。

秀吉公は仰せられて「そもそも真田御陣の時、この岡野は表裏第一にして不届き者であった!
磔にも致したい者である!(真田御陣の時の)様子委細を尋ねよ!」と、御使をもって尋ねな
さった。紅雪は曰く「この事は人伝では中々申されぬことです。直に申し上げたい」とのこと
で、縄を取って引き立てた。

これを秀吉公は聞こし召され、「苦しからず」と御前へ召し出されて一々を御尋ねなさると、
一々を申し開き仕ったので命を御助けなさり、御咄衆になっておられたという。

ある時に京都において能を御興行の時、家康公が秀吉公へ仰せられて、

「小田原の北条は関八州の大将ですが、長く城も持ち堪えられず幾百日ばかりで落城しました。
降参していればこのような時に御物語りの相手にもなるだろうに、不甲斐なく百日ばかりで落
城したのは心残りの多いことです」

と仰せであった。その時に紅雪は末座にいたのだが罷り出て申し、

「天下の人数を引き受けた北条なればこそ百日は持ち堪えたのです。そのうえで第一の頼みに
存じていた家康が見放し申し上げなさったのですから、やり様もないことです」

と申した。その時、秀吉公も返事は無く、家康公も御言葉は無かったのだという。

――『烈公間話』

太閤能『北条』の時の話だったりして

331人間七七四年2019/08/21(水) 17:09:24.18ID:Xyh7xlrF
>「天下の人数を引き受けた北条なればこそ百日は持ち堪えたのです。そのうえで第一の頼みに
>存じていた家康が見放し申し上げなさったのですから、やり様もないことです」

まったくの事実だが、家康も秀吉も黙らされた話って珍しいなw

332人間七七四年2019/08/21(水) 18:29:25.10ID:Nl8+tmX0
どこまで名前かわからない人か

333人間七七四年2019/08/21(水) 18:35:44.12ID:267jfBR2
この優木かな容赦ない

334人間七七四年2019/08/21(水) 18:36:44.27ID:267jfBR2
すまん誤爆

335人間七七四年2019/08/21(水) 19:18:26.99ID:KUwKnP2Z
>>330
痛快だなw

336人間七七四年2019/08/22(木) 00:41:05.20ID:aOfLDkKJ
えらい胆力のある人だね

337人間七七四年2019/08/22(木) 09:07:29.18ID:sq2PUUTe
>>332
すぐ近くに別の雪斎がいたからなw

338人間七七四年2019/08/22(木) 11:06:46.39ID:vy5oxGoJ
秀吉・家康『何言ってんだこいつ頭大丈夫か!?』

339人間七七四年2019/08/22(木) 13:23:11.06ID:XoziOVmd
>>338の頭は大丈夫なのか?

340人間七七四年2019/08/25(日) 19:00:51.02ID:eXuKpPk/
彼(豊臣秀吉)は他の重大にして過酷なことを行った。すなわち、都の平野にある田畑を測量させ(同地の
周囲に寺院を有する坊主の所領であり、これによって多数の市民が生活した)、これを尽く己の有とした。
また彼に属する諸国に大いなる家屋(倉庫)を建築し、そこの糧食を納め、大部分は売って金銀と成し、
その宝庫に納めた。彼の書記官である安威殿(安威摂津守か)の言によれば、毎年売る米のみでも黄金百万を
越えているという。

(1586年10月17日(天正14年9月5日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

秀吉の検地についてのフロイスの書簡の記事

341人間七七四年2019/08/26(月) 22:14:32.56ID:Dm7AYDWD
「諸国百物語」「森の美作殿、屋敷の池に化け物すみし事」
まとめの5865の
「森家屋敷の怪女」と後半が被ってるけど書いとく。

森美作殿、屋敷の裏に小さき堀あり。
その堀の内より小さき児出づる事もあり。
又女のかづきを着たるが、あなたこなたと歩く事も有り。
ある時美作殿、近習の衆を集め夜ばなしをなされけるに、
座敷のまはりを、女、髪を下げ、二人連れにてあなたこなたを歩きける影、座敷の壁に映りて見えければ、
美作殿、不思議に思召し座敷の内を立て廻し、すみずみまで侍どもに探させ御覧なされ候へども、何物もなし。
ただ影ばかり、あなたこなたとするが、みな人の目に見えけるとなり。
それより一年ほどすぎて、殿も御死去なされけると也。

342人間七七四年2019/08/27(火) 22:09:29.53ID:6GqkOQEB
山口の王大内氏(大内義隆)と、その後を継いだ王(大内義長)が死した後、あまり顕栄でない血統の
一貴族(毛利元就)が、智慮と勇気とによりかの十三ヵ国の領主と成るに至った。山脈と日本の銀の
鉱山とを有する石見国 Yuami がその中に在る。この王は生存中常にキリシタンの敵であって、かつて
パードレを国内に入れなかった。彼が死して後に残した三人の男子は皆武勇と才幹の有る者であったが、
国を継いだ長子(隆元)が間もなく死し、後に残った一子(輝元)は未だ年少であったた故、二人の叔父を
後見として領内の支配を委任した。

年長の方の叔父は名を吉川殿 Quicauadono (元春)と言い、年齢は六十歳に近く、金銀の鉱山を有する
沿岸の諸国を納めている、

もう一人の叔父は小早川殿(隆景)と言い、年齢五十歳で、豊後の対岸に在る伊予国を治め、また天下の君
との交渉に任じ、その兄よりも有名になった。ただし両人ともその甥輝元 Teromoto を主君と奉じている。

同人は山口より5日路の安芸国の吉田 Yoxinda という城に居る。かの王たち(約40年前山口に於いて殺された)
の死後、かつて山口には居住せず、副王及び諸役人のみをそこに置いている。織田信長はその死に至るまで
多年この小早川殿と戦い、その信長の総指揮官として実際に戦い、勝利を得て6,7ヶ国を占領した者が、
今天下の君である関白殿(豊臣秀吉)である。

この山口の市(現在1万の人口を有するという)は、破壊されるまで日本で最も優れて人口の多い市であったが、
今は全く、昔の繁栄と異なった状態である。

(1586年10月17日(天正14年9月5日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

フロイスによる毛利についての記述

343人間七七四年2019/08/28(水) 14:30:41.50ID:9gs3r0Od
勝入(池田恒興)を安藤帯刀(原注:直次。御旗本御鉄砲頭の現在の九郎左衛門の伯父である)が槍を
付け、永井右近(原注:万千代直勝)が後から来たり、勝入の御首を取った。大勢が這い掛けたので、
右近は右手の人差し指を切られたという。

成瀬吉右衛門(原注:今の吉右の父である)が帯刀に尋ねて曰く、「勝入は貴方が槍を付けて永井に首
を取られたと承っていますが、左様なのですか」と。帯刀は曰く「敵の大将を討って首を人にやること
があるか。槍を付けると、後から真っ黒な者が取り掛かると覚えた。これが永井である(原注:永井は
黒母衣である)。勝入の首をすかさず永井が挙げたのだ」と、帯刀は申されたという。

その後、後から武者一騎が脇目もふらずに乗り来たり、あまりに急なのでひらき過ごして後ろから突き
落とした。これが紀伊殿(池田元助)である。その次にまた初めのように乗り来たる者がいて、これも
初めのようにやり過ごして突き落とした。これは秋田加兵衛である。

(原注:岡山にいた秋田という老女の伯父である。老女は延宝7年(1679)に90歳で死去した。
池田主水(由孝)の家来に秋田五郎四郎という加兵衛の筋の者が現在もいる。秋田加兵衛から五郎四郎
までは四代である)

私に曰く、安藤と永井は取り分けて間柄が良かったので、勝入の御首を譲ったという。また曰く、安藤
に神君(徳川家康)が仰せられるには、「井伊万千代(直政。原注:19歳)を何とぞ取り飼い申すよ
うに(何トソトリカヒ申様ニ)」と仰せであった。これによって勝入を槍付けて「万千代!万千代!」
と呼んだのだという。すると、永井万千代が隙間なく駆けて来たという。

安藤帯刀が紀伊殿と加兵衛を討ち申されたことは、加賀爪民部(忠澄)が光政様(池田光政)へ御物語
り申されたという(原注:民部は帯刀の婿である)。

――『烈公間話』

344人間七七四年2019/08/29(木) 16:48:58.29ID:idWAWTqs
古田織部は家康公の御意に入り、御懇意だった茶道者である。そのうえで古田は度々功名があった。
しかしながら茶湯の沙汰ばかりで世上の武名は少ない。茶湯は害となるのである(茶湯害ト成也)。

御庭の物数寄を古田が致されたところ、(家康は)円座(敷物)を御手自ら古田へ敷きなさったの
だという。これによって諸大名は殊の外古田を敬った。

駿府で輝政様(池田輝政)を始め、御館で諸大名の列座で料理があった。その中半に古田が来られ
ると、皆が座を立って(古田を)膳に座らせた。その時、茶道が終わって「数寄屋を見なされ」と
連れ立って数寄屋を見せ、脇道から帰ったのだという。

古田は以上の通り諸人の崇敬があったのだが、冥加尽きて逆心があったのだという。

――『烈公間話』

345人間七七四年2019/08/30(金) 00:17:27.23ID:+7LwoOAH
ゲーム雑誌ログインで古田は大大名が自分にへりくだるから勘違いしたんじゃないかってあったの思い出した

346人間七七四年2019/08/30(金) 07:44:23.09ID:o37TWyNP
利休を目の当たりにしてそれはない

347人間七七四年2019/08/30(金) 10:56:41.87ID:DJNW/LyU
大御所は豊臣を根絶やしにするつもりだったから、下手な周せんは非常に迷惑だったのだ

348人間七七四年2019/08/30(金) 11:10:23.81ID:E1FdUgeV
山中鹿之助は往古、武辺場数類ない武勇の武士であった。ある日、合戦が済んでその日初陣の若武者二人が
鹿之介の前に来て、先ず一人が尋ねた

「私は今回の初陣で敵と鑓合わせをした時、兼ねて思っていた事とは違い、敵に向かっては先ず震えを
生じ、目指す敵をしっかりと見ることも成り難く、仕合せに踏み込み、鑓を付けて首を上げたものの、
その鎧の縅毛(小札を結び合わせる糸や革)も色も覚えていません、初陣というものはこういうものなので
しょうか?」

鹿之助はこれを聞くと
「今後も随分と努力し給え。あっぱれ武辺の人と成るだろう。」と答えた。

もう一人はこう申した。「私はそのようには思いませんでした。」目指す敵と名乗りあい、敵は
何縅の鎧で、何毛の馬に乗っていた事、鑓付けした場所、その他鮮やかに語った。
これにも鹿之介は同じように答えた。

この両人が席を立った後、傍に居た人がこの論を鹿之介に尋ねた所、
「最初に尋ねてきた若侍は、何れ武辺の士と成るだろう。しかし後に尋ねてきた者は甚だ心もとない。
もしかして彼が取ったのは拾い首では無いだろうか。それでもないのであれば、重ねての戦では討たれてしまう
だろう。」

そう言ったが、はたして後日、言葉の通りに成った、

鹿之助の申すには
「私などは初陣、或いは二,三度目の鑓合わせは、最初の若侍が言っていたように、震えを生じ、目を開いて
向こうを見られるようなものではなく、ただ一身に向かって突き伏せようとと思い、幸いにも首を取ったのだ。
度々場数を踏んでこそ、戦場の様子も知られるように成るものなのだ、」と語った。

(耳嚢)

349人間七七四年2019/08/30(金) 11:12:40.31ID:J8zxYW+w
清正にも似たようなのあったな
新兵にはお決まりの症状だったんだろうな

350人間七七四年2019/08/30(金) 12:15:23.34ID:hFSa9L6j
氏郷最強か

351人間七七四年2019/08/30(金) 15:12:04.98ID:o37TWyNP
鬼武蔵は後者のほうだろうなあ

352人間七七四年2019/09/01(日) 15:49:58.23ID:QJScnLQh
伊藤一刀斎が剣術を広めようと諸国修行していた折、淀の夜舟にて大阪へと下った。
この船の船頭は力量優れた者であり、一刀斎が木刀を携えているのを見て、

「御身は剣術を修行されているのか。剣術とは人に勝つ道理であるが、私の力には普く
剣術の達人であっても叶うとは思わない。手合わせ致さないか?」

そう言ってきた。一刀斎は彼の様子を見るに、たいへんに強剛であると見え、いかがしようかと
思ったが、「しかしながら剣術修行に出て、たとえ命が果てたとしても辞退するのは本意ではない」と、
互いに死を約束し陸に上がった。

船頭は櫂を片手に持って、拝み打ちに一刀斎を打ってきた。これを身を開いて外すと、力が余っているため
大地にこの櫂を打ち込み、引き抜こうとした所を一刀斎が木刀を以て櫂を打ち落とし両手を押さえた。
船頭は閉口して一刀斎の弟子となり、随身し諸国を巡った。彼は元来力量優れていたため、国々に於いて
立ち会いがあった時も、一刀斎は手を下さず、殆どはこの船頭が立ち会い、何れも閉口して、その中より
一刀斎の門弟と成ったものも多かったという。

しかしながら、彼は元来下賤の者であり、その上心様も真っ直ぐではなく、一刀斎に敗北したことを
無念に思っていたようで、立ち会いにては叶わないのならばと、夜陰に旅泊において一刀斎が眠るのを待ち
付け狙うこと数度に及んだが、一刀斎の身の用心に隙きがなかったため、空しく供をして江戸表へと
至った。

そのような中、将軍家より一刀斎を召されたが、彼は諸国酒盗の望みこれ有るのよしを以て御断り申し上げた。
このため門弟の内を御尋が有り、そこで一刀斎は小野次郎右衛門を推挙し、かれが将軍家に召し出されることと
決まった。

これにかの船頭は大いに恨み、「我は最初から一刀斎に随身し共に流儀を広めた功がある。にもかかわらず
この度将軍家のお召に、末弟の次郎右衛門を推挙したことは心外である!もやは生きても益なし。
次郎右衛門と真剣の試合を以て生死を定めたい。」

この望みを申すと、一刀斎は答えた
「その方は最初より随身の者であるが、これまで度々私を付け狙ったこと、覚えがあるであろう。
今まで生かして置いていたのも甚だの恩徳である。しかしながら次郎右衛門と生死を争う事、
望みに任せよう。」

そう言って次郎右衛門を呼び委細の訳を申し談じ、勝負いたすべき旨を申し渡し、その上で次郎右衛門に
伝授の太刀を免した。

そして立ち会いの上、次郎右衛門の一刀の元に、かの船頭は露と消えた。

さて、その後次郎右衛門は召し出され、なお又牢内に罪有る剣術者を選ばれ立ち会いを仰せ付けられた。
この時も次郎右衛門は妙術を顕し、よって千石にて召し抱えられた。

(耳嚢)

353人間七七四年2019/09/01(日) 20:56:01.50ID:J7AQ/r7P
人を殺して止めを刺す時に、あるいは喉を断ち切り、あるいは胸を突き通し、またその足の
裏を割るのが古の一例である。これを“足ノウラヲカク”という。

――『志士清談』

354人間七七四年2019/09/01(日) 21:26:25.56ID:hPEwf+FO
足の裏って地面につく部分のことでいいの?

355人間七七四年2019/09/01(日) 23:31:20.36ID:Mb3OXDLx
戦国時代の足の裏はめっちゃ硬そう

356人間七七四年2019/09/02(月) 01:28:04.05ID:yY+jfsub
>>352
吉川英治の「剣の四君子 小野忠明」だと、弟子はこの船頭と改名前の神子上典膳の2人だけだったけど、史実だともっと多かったのか

357人間七七四年2019/09/02(月) 04:15:55.93ID:O3cztPnV
バガボンドだと佐々木小次郎も弟子

358人間七七四年2019/09/02(月) 12:15:54.84ID:5fsxEytf
地元だと一刀斎が堀久兵衛を暗殺したんだと

359人間七七四年2019/09/02(月) 21:46:52.97ID:GItnMJTM
京都新聞「秀吉から拝領」伝承の十字型洋剣、400年前に国内製造が判明
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190902-00000026-kyt-l25
滋賀県甲賀市水口町の藤栄神社に伝わる十字形洋剣「水口レイピア」が、約400年前にヨーロッパ製の
レイピア(細形洋剣)をモデルに国内で制作されていたことが分かった。水口歴史民俗資料館(同市)などが
共同研究成果を3日の国際博物館会議(ICOM)京都大会で発表する。
 国内に現存する唯一のレイピアで、アジアでもその存在は知られていない。関係者は「時の権力者が
南蛮人から入手し、好奇心から複製を作らせたという東西文化交流の一つの在り方を示す希有な事例」としている。
 十字形洋剣は、戦国武将加藤嘉明が豊臣秀吉から拝領したとの伝承がある。嘉明を水口藩主加藤氏の祖
として祭る同神社が所蔵し、1987年に同資料館に寄託された。
 共同研究は東京文化財研究所の小林公治氏ら国内外の専門家グループが6年前から実施。その結果、
17世紀前半のレイピアを基に国内の技術を結集して制作された精巧な模造品とみられることなどが判明した。
 ICOMセッションで研究成果を小林氏と共同発表する同資料館の永井晃子主査は「地域で大切に
守られてきた宝物の価値が国際会議で発表されることは市民の誇りにもつながる」と話す。

360人間七七四年2019/09/02(月) 21:47:11.02ID:GItnMJTM
東京文化財研究所
甲賀市水口藤栄神社所蔵十字形洋剣に対するメトロポリタン美術館専門家の調査と第7回文化財情報資料部研究会での発表
https://www.tobunken.go.jp/materials/katudo/247392.html
この度、世界でも有数のレイピアコレクションを誇るニューヨークのメトロポリタン美術館武器武具部門長、
ピエール・テルジャニアン博士にご来日いただき、現地での調査を実施のうえ、この洋剣に対する見解に
ついて第7回文化財情報資料部研究会にて、「ヨーロッパのルネッサンス期レイピアと水口レイピア」と題した
ご発表をいただきました。
 博士の見解は、銅製の柄部分は明らかに日本製であること、また剣身も日本製あるいはアジア製であって
ヨーロッパ製ではないこと、そして水口レイピアのモデルとされたヨーロッパ製レイピアは1600年から1630年の間に
位置づけられ、その間でもより1630年に近い時期であるが、この剣自体には実用性に欠ける面がある、というものでした。
 この見解は、17世紀前半の日本において、ヨーロッパからもたらされた洋剣を日本人が詳細に調べ上げ、
その模作までも行っていたという、これまでまったく知られていなかった新たな事実を意味するものです。
またその一方で、この剣には高度なネジ構造によって柄と剣身とを接続するなど、ヨーロッパのレイピアには
認められない独自の技術が使われていることも明らかとなりました。こうした独自の特徴は、当時の日本の職人が
見慣れぬ西洋の剣を自身の持つ技術で正確に再現しようと努力苦心し、工夫を重ねた結果であると理解できるでしょう。

361人間七七四年2019/09/02(月) 21:51:44.42ID:GItnMJTM
伝来と製作推定時期が違う?

こういうのでそんなん気にしちゃダメよ
伝世品や家宝ではよくある話だからw

とりあえずコーエーでキャラ化されるときのビジュアルはこれで決まりましたね
イカ頭にレイピアって

362人間七七四年2019/09/02(月) 22:16:11.79ID:Fkp1/lw1
ジミーさんって秀吉から色々なもの貰ってるな

363人間七七四年2019/09/03(火) 10:10:39.63ID:6rZ+ESk2
秀吉「これいらないんだよなあ・・・嘉明にやっとくか」

364人間七七四年2019/09/03(火) 11:00:09.55ID:xR9TLq28
なんか知らんが秀吉は嘉明に歯も与えてるな。
貰ってもいろいろ困るだろうに。

365人間七七四年2019/09/03(火) 16:07:29.71ID:gS8n8Noc
利休は大徳寺の山門を建立し、自分の形を木をもって作り、褊綴を着せて頭巾に杖をつかせ、
雪踏(原注:雪踏は利休が初めて作ったのだという)を履かせて高所に置いた。

秀吉公は御覧になって、「公家衆を始め礼儀ある門に推参至極のやり様である!」と大いに
怒りなさり、その罪で切腹した。

その時、(利休は)脇差を包み取って巻き直し、両端を揃え能を見て切腹仕ったのである。
「日頃の数寄が出た」と、数寄者は感じ入ったという。

(原注:『雍州府志』四巻の大徳寺のところに曰く、この門は連歌師の宗長が所建の後に千
利休がその上に設閣し、己の像を置いた。これにより豊臣秀吉公は僭越を怒り、その像を降
ろして一条反橋に晒したのである)

――『烈公間話』

366人間七七四年2019/09/03(火) 16:08:26.41ID:Yei4roZj
>>364
大明神の歯やぞ

367人間七七四年2019/09/03(火) 17:23:42.33ID:LdMBi2cl
>>360
紺糸威南蛮胴具足
http://www.emuseum.jp/detail/100509/001?word=%E9%BB%92%E7%B3%B8&d_lang=ja&s_lang=ja&class=&title=&c_e=&region=&era=&cptype=&owner=&pos=1&num=2&mode=simple&century=

この水口レイピアに限らず、例えば過去ログの「徴古館 青漆塗萌黄糸威二枚胴具足」で鍋島勝茂所用の青漆塗甲冑が、
青漆ではなく西洋絵画の油絵具に近い技法で作製された塗料であることがわかったというのもそうですし、こちらの
榊原康政所用の南蛮胴も、舶来品の改造であると思われていたのが和製の胴鎧であることがわかったというのも、
江戸初期に西洋技法を取り入れようとした実例は意外とあるんでしょうね。
ただしそれがどの程度定着したのかは?


それと、レイピアの調査をした東京文化財研究所は鍋島の具足も調査してたんですね。

368人間七七四年2019/09/03(火) 20:11:00.78ID:OUs1SCTH
鎧通しをレイピア風に作ってみましたな気がしないでもないんだが

369人間七七四年2019/09/03(火) 20:50:01.06ID:i7NzSYU+
鎧通しは短くて分厚いものだし
リーチ足らないなら槍というものがあるし

370人間七七四年2019/09/03(火) 23:11:30.61ID:612t7r84
歯医者さんが考えた歯ブラシ

371人間七七四年2019/09/06(金) 14:12:56.16ID:p5lmBOCz
下(西九州)および豊後教区の諸領主は、自領の港に入るポルトガル船に関連して、常にイエズス会から
収める利益に着眼している。したがって領主たちは、たとえキリスト教徒であっても、常にその脳裏には、
司祭たちが自分の希望する場所にポルトガル船を入港させる事ができるし、その船の積み荷の中の相当量は
彼ら司祭たちの物である、という考えから離れないでいる。それ故領主たちは常に自領の港にポルトガル船を
入港させようとするし、また彼らは貧しいために、贈物や借金を求めるのだが、決してそれを返済しよう
とはしない。

そして司祭たちが彼らの希望することをしなかったり、或いは出来なかったりすると、とたんに冷淡と成り、
動揺し、憤激し、司祭に対して当然払うべき考慮を払わず、自分たちの義務を果たさず、教会にも行かない。
領主が異教徒である場合には直ちに多くの非礼を成し、キリスト教徒を迫害し、棄教させようとする。

日本人はその領主によって強力な支配を受けているので、司祭は下の教区に於いて、或いは豊後教区に
於いてすら、幾度も腹立たしい思いを経験し、常に大きな迫害を受けた。

下の諸領主は、ポルトガルの船舶の税金から得る多額の利益を目的としており、その為同船が自国領に
入港することを希望した。そして各領主は司祭やキリスト教徒たちが居れば、自領の港に最大の利益が
もたらされるであろうと考え、異教徒であっても、自国の港に司祭たちが教会の建設やキリスト教を
布教する事を承認したのだ。

(ヴァリヤーノ『日本巡察記』)

イエズス会から見た九州の領主たちへの印象。

372人間七七四年2019/09/06(金) 16:22:11.74ID:xfBoafGR
(前略。大鳥逸平事件の記事)さて京都に下知あり。大坂・堺その他の国々でかの一類(かぶき者)
を成敗すべしとのことであった。これにより、この頃は無縁の者には宿を貸すことがなく、旅人は
このために迷惑した。

かのいつ兵衛(大鳥逸平)は相撲をも良く取り兵法をも使うので、(幕府の)若衆はかぶきとは知
らずに近付いたところを、罪科が行われて国々に遣わされた。

穂坂長四郎は越後衆の村上周防(忠勝)に預けられる。坂部金太夫は同越後衆の溝口伯耆(宣勝)
に預けられる。岡部藤次は奥州の南部に預けられる。米津勘十郎(北町奉行・米津田政の子)は同
奥州の津軽に預けられる。佐平次は佐渡に流された。

かのかぶきどもの傍輩で(かぶき者の)従者とは知らずにとりわけて近付いた者がいて、かぶき者
の中で去る5月に喧嘩して死んだ者を葬ろうとなおざりにしなかった。

その事とは傍輩に言わず「無縁の者が死んだので、結縁のために代物を少々合力してくれ」と様々
言ったので、何気なく代物を少し出したのをその一類と称して成敗され、この者どもは罪無くして
死を蒙った。迷惑なりし事共なり。

――『当代記』


当世に奴風といってバサラを好む人は、親に掛かる部屋住の若輩をよろしからぬ風俗に引き込むの
である。

例えばその若輩が弓を好むかまたは馬数寄ならば、すなわち「馬を見せ申そう」と招待し馬具など
を奇麗に伊達にして、あるいは馬取や中間に至るまですねふり奴を出して、奴を見習わせて真似を
したい心を付ける。その後に料理を出して酒になり、諸々のよろしからぬ風俗を教え奴の友に引き
込むのである。

「油断仕ってはならぬ」との(池田光政の)御物語りである。馬に限らず兵法や詩文の学、歌学の
友も慎むべきことである。

――『烈公間話』

373人間七七四年2019/09/07(土) 09:41:03.44ID:1yu1Nqpy
耶蘇会(イエズス会)宣教師たちは、その豪奢な生活のため他より憎悪されている。何故なら、
彼らが外出する時は、騎馬・徒歩の二百人あまりの同勢を以てし、修道者のようではなく、在俗の
王侯のように暮らしているからである。また一万二千ヅーロあまりの年収が有る諸港と数多の土地を有し、
その司法権を掌握して、軍隊と艦隊を有し、それを以て彼らの欲する港や土地を征服する。

(文禄2年(1593)マニラにてフィリピン総督に原田喜右衛門が語った日本事情)

キリシタン追放令以前の長崎の様子を語ったとされる原田喜右衛門の証言

374人間七七四年2019/09/07(土) 09:59:23.35ID:EZycz+jK
>>373
これ始めは西洋での習慣通りに粗末な格好で徒歩で通訳以外連れずにやってたんだよね
そしたら日本人は日本の習慣通りにしてないと全く話を聞いてくれないってんで、日本の坊主と同じようにやるようにしたらこうなった

375人間七七四年2019/09/07(土) 11:53:26.34ID:6y8uFZHF
それにしても度が過ぎてる感じ
原田が話を盛ってるんじゃ

376人間七七四年2019/09/07(土) 11:57:04.71ID:Hew4njoB
フランシスコ会「跣足(はだし)で布教しろよ」

377人間七七四年2019/09/07(土) 12:11:45.47ID:Sq1cwAIv
>>368
wikipediaだけど見てみたら、そもそもエストックとレイピアって基本構造も違ってて
エストックも日本で良くあるイメージのプレートアーマーの隙間を狙う武器じゃなくて、鎖帷子へ突き刺すための雑兵用の代物なんじゃん
レイピアは同じくイメージ通りの護身用、素肌剣術での決闘用のようだけど

378人間七七四年2019/09/07(土) 12:49:53.54ID:EzNjBb6u
>>374
日本の僧侶と言うより、ヨーロッパのカトリック司教領主のノリだな。

379人間七七四年2019/09/07(土) 17:32:03.95ID:nlvOh1FH
比叡山の僧兵が数千人単位だろ?
別にカトリック僧侶が数百人連れててもおかしくない

380人間七七四年2019/09/07(土) 18:42:47.30ID:luwCBCJw
>騎馬・徒歩の二百人あまりの同勢を以てし

これは信者が自主的についてきてるってことでいいのかな?
それとも、扶持をやって被官化してるとかってあったのかな?

381人間七七四年2019/09/08(日) 10:14:00.01ID:HTuo4zSr
僧兵寺侍なんじゃ

382人間七七四年2019/09/10(火) 12:59:34.92ID:a/OvRRAA
コンパニヤのパードレ等を日本の諸大学に派遣することは、この国(日本)の俗人たちが、当国にも
学校および学者が有ると言って、その迷信を弁解するが故にその必要がある。そして大学に赴く
パードレ等は、諸宗派を駁撃し、坊主たちが俗人より金を引き出す為の手段が欺瞞であることを
説明し、世に公にしなくてはならないが故に、甚だしい迫害を受けるであろう。
坊主達は魂を地獄より救出すると称して生計を営んでいる。故にこれを成す能力が無いといえば、
少しも容赦しない。この事と、その他多くの事によって大いに迫害を受け、苦労が多い。

私はパードレ・メストレ・シマン、また彼が不在の時はコインブラのコレジョの院長宛に書簡を送り、
右の諸大学には尊師が引見して適当と認めた人の他は派遣しないよう要求した。彼等は思わぬ
迫害を受けるだろう。日中には時間を問わず、夜中に至るまでも訪問と質疑に責められ、また身分の
ある人に招かれて辞退することが出来ない事もある。祈祷、黙想、思索の余暇も、精神上休養の
時も無く、最初の間はミサを行うことすら叶わず、絶えず質問に答えるしか無く、祈祷を成し、
食事睡眠を取る時間すら欠乏することが有る。

彼等は甚だ無遠慮で、殊に外国人にはこれを軽蔑し常に嘲罵する。ただしそれは、我等が
この国の諸宗派の明白なる非行を攻撃し、地獄に行く者は救済の道無しと説くが故である。

また、我等は地獄より魂を救済する事が出来ない故に、何も知らないと言ってくる者がある。
彼等は煉獄の何たるかを知らず、彼等の質問に答えるには、学問が有り弁論に巧みであることが
必要であり、詭弁を弄する者に対しては直にその矛盾を指摘することを必要とする。坊主達は
矛盾を指摘された時、また答弁することが出来ない時は甚だしくこれを恥じる。

日本の主要大学である坂東(足利学校か)は遠く北方に有り、他の諸大学も同様である故に、
厳しい寒さに遭遇する。寒地に居住する者は才知が有り鋭敏である。ただし米の他に食うべき物は
無い。また小麦、各種の野菜、その他養分の少ないものが有る。米から酒を造るが、その他に
酒は無く、その量は少なく価格は高い。

最大の試練は不断にして明確たる死の危険である。当地は労苦が多い故に老人には適せず、また
甚だ若い者は非常に経験がないので用をなさないのみならず、却って己を滅ぼすであろう。

この国は罪悪を犯すのに適し、彼等の罪悪を責める我等に少しの過失が有ればこれを誹謗する。
この事についてはメストレ・シマン、また不在の時はコインブラの学長に宛てて詳細に通知した。
尊師が仮に、日本に派遣されるべき者は先ずローマに来るべしとコインブラに命じられれば、私は
非常に満足する。

考えるに、日本に派遣されるべき者はフランドル人、又はドイツ人で、イスパニア語あるいは
ポルトガル語に通じた者である。何故ならば彼等の肉体は労苦に耐え、また坂東の大寒を凌ぐことが
出来るからである。
イスパニア、及びイタリアのコレジョにはそのような人が多数有るはずで、彼等はイスパニアや
イタリアでは言語に熟達しないため説教を成すことが出来ないが、日本に於いては多くの収穫を得るだろう。

(1552年1月29日(天文二十一年一月四日)付、フランシスコ・ザビエル書簡)

ザビエルが山口での布教への反発とそれへの対応について記した記録である。

383人間七七四年2019/09/10(火) 15:47:34.68ID:0AMoFP3l
中央日報日本語版 400年ぶりに復元される亀甲船、龍頭・鉄甲のようなものはない=韓国
https://japanese.joins.com/article/468/257468.html?servcode=400&sectcode=400&cloc=jp|main|top_news

>海軍が壬辰倭乱当時投入された亀甲船の原形をそのまま復元することにして設計作業に着手した。鉄甲構造、龍頭などを特徴とする
>かつて再現した亀甲船が実際と違うという指摘が相次ぎ提起されるにつれ、今回最大限実物に近い姿を実現するという趣旨だ。

かつてはオーバーテクノロジーの超兵器扱いされたものが、ようやく厳密な考証にかけられる余裕が出てきたというお話。
良い傾向ですね。
それに過剰な民族意識の象徴とはいえ、きっちり予算が出て維持されるのは正直うらやましい。


日本でも城郭研究で有名な広島大の三浦教授が設計して安宅船を復元(大河ドラマ「毛利元就」に登場)したものの、
撮影終了後に引き取った自治体が持て余して、露天でボロボロになった上に廃材処分というのがありまして・・・

384人間七七四年2019/09/11(水) 06:49:48.01ID:TzXx0pWO
>>383
維持とはいっても、記事中で木造船の寿命は15~20年で今回が3回目の建造とある
古いのは破棄する前提なんじゃないですか
愛国予算は無尽蔵に出るお国柄にしても、うらやましがるほど青い芝生でもないような

385人間七七四年2019/09/11(水) 14:32:26.36ID:AOL9rq9D
そもそも安宅船ってそんな人気あるわけでもないだろうしね…信長の鉄甲船(真贋はさておき)でも危うい

386人間七七四年2019/09/11(水) 16:54:00.18ID:wovCletZ
まあ、どうしても復元船舶はでかすぎて屋内展示できないのと、露天での木造の寿命がね

宮城県の伊達氏遣欧船サンファンバウティスタ号だって、地域のシンボルにして観光の目玉で
震災も乗りきって修復されても
そろそろ木造故の寿命が近づいて、しかも再建造できない見込みらしいし

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%A6%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%BF%E5%8F%B7

387人間七七四年2019/09/11(水) 17:39:44.40ID:gQUFVVVN
長いですが大阿武船解体までの顛末です。

http://0845.boo.jp/times/archives/cat_cat37.shtml
せとうちタイムズ2002年09月28日号
人気漫画の映画化 少女剣士「あずみ」 決闘舞台に大阿武船ロケ

動かない銭食い船として不評をかもしていた村上水軍主力船を復元した「大阿武船(おおあたけぶね)」が、
映画「あずみ」の撮影ロケに使われることになり日の目を見ることになった。
大阿武船は外装が木造で全長25メートル、幅10メートル、100トン。1997年、日本宝くじ協会の助成金1億円をかけて
「全国に因島村上水軍をPRしよう」と内海造船田熊工場で建造した。1999年の瀬戸内しまなみ海道開通イベントには
土生港から大浜町相川ビーチまで海上パレードしてお披露目した。
もともと同船にはエンジンがなくこの時の曵き船によるえい航費用が約250万円。何かのイベントに利用するとすれば
200万円前後は必要となる。このため内海造船田熊工場内の船台に保管されたまま眠っていた。その保管料が年間300万円。
市は有効活用を模索してきたが妙案にめぐりあえず大浜町しまなみビーチの陸上展示を検討していた。
今回の映画製作会社からのロケ利用で日の目をみることになり「全国に因島村上水軍がPRできれば因島水軍まつりにも
はずみがつく」と無償貸与を決めた。

せとうちタイムズ2005年08月20日号
合併のお荷物 一億円の「大阿武船」因島市検討委初会合

中世の村上水軍のロマンを求め全国にPRしようと因島市が日本宝くじ協会から1億円の助成を受け復元した水軍旗艦船
「大阿武船(おおあたけふね)」が建造以来、
ほとんど活用されず内海造船田熊工場に保管されたまま野ざらしになって老朽化している。
このため市は17日、活用方法を探る検討委員会をたちあげて初会合を開き、委員長に宮地正助役を選び地元観光協会や
文化財協会などから6人の委員が出席、これまでの経過、説明を受けた。
現在、大阿武船は設計建造した造船所に年間保管委託金300万円を支払っているが自力で航行できない海洋建造物のため
水軍まつり協賛事業に活用するにも経費のねん出に問題がある。
大浜町のアメニティ公園に陸上展示する案は2〜300万円かかる。インターネットで引き取り先を公募したが「タダでもいらぬ」という結果が出た。
こうした経過などをもとに委員会で意見交換が行われたが、ユニバーサル造船因島事業所長、若野晃一委員から「船を他角度
からビデオ撮影。コンピューターグラフィック(CG)を加えれば歴史教材になる」と提案。同市中庄町の水軍城周辺に
陸揚げ展示案も出た。そのためには周辺整備を一体化しなければ効果がないなど、廃船よりも利活用する提案が出た。
このほか、老朽化防止や補修問題など専門的な意見が出た。同委は次回、内海造船田熊工場に保管されている船体の現地調査、
移転候補地など視察する予定。いずれにしても尾道市との合併をにらんで作業を進める。

せとうちタイムズ2006年06月17日号
大阿武船がついに解体

尾道市は12日から、因島村上水軍の主力船を復元した大阿武(おおあたけ)船の解体作業を開始した。今月中に終わる見込み。
建造費1億円のこの船も全国から4件の問い合わせがあったが、活用のめどがたたず、市も「文化財の価値はない」と判断した。
作業は内海造船田熊工場に陸揚げされて始まった。杉材は廃棄され、鉄製の骨組みは再利用される。総費用は約580万円。

388人間七七四年2019/09/11(水) 17:45:51.99ID:gQUFVVVN
せとうちタイムズ2007年07月28日号
旧因島市建造の大阿武船の追想

梅雨があけ、参院選が終盤を迎えた25日夜。テレビのチャンネル転換が忙しかった。RCCの特別企画(4時間)の「ハリー・ポッター」、ホームTVの
サッカーAFC「日本×サウジアラビア」。NHK「その時歴史が動いた=アンコール・信長の巨大鉄船戦国の海を制す(戦国の軍艦)」。
戦国最強の村上水軍が織田信長の命令で建造した「鉄の船」との海戦で予期しない敗戦シーンが目に止まり、しばし釘付け。中世で最強を誇った
村上水軍も織田水軍に破れ、阿宅船が炎上する場面が、旧因島市建造の大阿武船の追想と重なった。
建造費1億円をかけたこの船の出番は2回だけだった。デビューはNHK大河ドラマ「毛利元就」の合戦のシーン。次は平成11年しまなみ海道全通記念事業として
大浜町のしまなみビーチで繰りひろげられた火まつりの水軍絵巻。以後は輸送に経費がかさむという理由から出番が無く無用の長物となり、
尾道市との合併を機に解体という運命になった。
ちなみに解体船は鉄製の船底上に木枠組みした言わば張り子だった。

389人間七七四年2019/09/11(水) 19:18:39.42ID:HklVf1Z/
外観復元なだけじゃ「文化財の価値はない」だわな

390人間七七四年2019/09/11(水) 21:36:06.71ID:XHdp+5sS
>>386
バブル最強の時に作った帆船か
そういえばハウステンボスのリーフデ号はしぶといな
あっちはオランダの造船所に作らせて海渡って来た本格派だから頑丈なのかな

391人間七七四年2019/09/12(木) 14:53:32.25ID:/feMcuRk
もし船にエンジン付けて自分で動けたら
コンクリートの城と同じで世間に叩かれてたよな

392人間七七四年2019/09/12(木) 18:42:26.73ID:ZFOj21EW
>>391
ハリボテの時点で文化財的価値は皆無なんだから、いっそエンジン載せて自走できる方がマシでは?

393人間七七四年2019/09/12(木) 20:38:49.07ID:bOXWfMf+
>>391
現存の大阪城は何の歴史的価値も無いけど、市民の寄付が目標を越える勢いで集まったし、叩く人もいないんだし、町おこし的な目的で作るのならエンジン積んで自航できる方がいいと思う

394人間七七四年2019/09/12(木) 21:07:41.77ID:IZ/mYKsE
大阪城はもう一週回って現在では「歴史的近代建築」という価値がついている。

395人間七七四年2019/09/14(土) 15:18:57.23ID:IDvnMKBp
上州館林の榊原遠江守(康勝)は、加藤清正の婿であるゆえ、清正はある時見舞いに行き、そこから江戸へ
帰る途中、くつという所で、高麗陣の頃より乗ってきた葦毛の馬が俄に煩い付いたため、その在所の
名主を召し出し、直に宣うた

「この馬は高麗陣の中も乗ってきた馬である。俄にこのように煩い出し、引こうとしても一歩も進まない。
随分不憫に思うのだが、帰路の途中であれば致し方ない。この馬を汝に預け置く。然るべき医師を呼んで
養生をさせよ。もしまた死んだならば、薪を求めて焼き捨てるように。畜生ではあるが、数度の用に立った
馬である。野外に捨てて長吏(穢多・非人の頭目)に渡すような事は、絶対にしてはいけない。」

こう述べられ、銀子二枚を名主に渡し、馬取二人を添え置いて江戸に帰っていった。

ところが名主達は清正の馬にはかばかしい養生もさせず。未だ片息のある内に、原中に打ち捨て、
馬取と密談して銀子を分け取り、馬取だけが江戸に帰り「色々養生いたしましたがその功無く終に
死んだため、薪を整え煙に仕りました。」と申し上げた。

そこから一月もたたぬうち、この馬が霊となってかの名主に取り憑き、こう口走った

「我、君の御恩浅からずして、莫大の銀子を下され養生を仰せ付けられたというのに、薬の一滴も
与えないのみか、剰え野原に捨てて、穢多の手に渡したこと、遺恨山々である!子供一人すら残らず
取り殺し、後には名主夫婦もなぶり殺しにせん!」

その言葉の下より名主の子どもたちは煩い付き、ひたひたと死んでいった。
これを見て一郷の者たち集まり、禰宜神子を頼み様々に祈ったが、馬の霊はあざ笑い
「名主の一家を取り殺した後は、この郷中も者共までこの遺恨を遂げる!」
と首を振って声高に喚いた、

これを見聞きした村老野翁、身の毛もよだって恐れ震え、これに近づくものも無かった。
このままでは郷中の者達までも取り殺されてしまう事疑いないと、近隣より貴僧を数多迎え、
法華普門品を千巻読誦して、馬頭観音に祀り、堂を立て、郷中より田地を付け、堂守を起き、様々の
供養をいたした事で、怨霊は静まった。

(續撰清正記)

396人間七七四年2019/09/14(土) 16:42:55.97ID:V/euPfCo
香川氏といえば香川県の戦国大名で、信長の野望や太閤立志伝で三好氏や長宗我部氏のおまけとして知られていますね。
その名から香川県土着のイメージを持たれがちですが、実は相模国高座郡の香川荘出身の一族です。
現在の神奈川県茅ケ崎市にも香川の地名が残り、香川駅や香川小学校があります。

細川氏の家臣として讃岐国の守護代に任じられたのが始めですが、東讃の安富氏、西讃の香川氏と、西半分だけの守護代でした。
そういうわけで東讃の香川郡(現在の高松市周辺)とは関わってもいないという・・

397人間七七四年2019/09/14(土) 18:40:05.10ID:BRDw7U9g
>>395
おうさまさん(´・ω・)カワイソス

398人間七七四年2019/09/14(土) 19:17:07.08ID:cJHKzPeB
>>395
馬強すぎワロタw

399人間七七四年2019/09/14(土) 19:37:28.46ID:GFzkYziS
>>396
こういうのは長井氏なんかもな

出羽国長井荘(山形県長井市)の大江姓長井氏

武蔵国長井荘(埼玉県熊谷市)の藤原姓長井氏

相模国長井郷(神奈川県横須賀市)の平姓長井氏

伊達氏に本拠地奪われた大江姓長井氏が武蔵国(八王子市)に移ったもんだから、武蔵国長井荘は
もともと大江姓の本拠地とか言われるようになってしまったし

江戸時代の旗本の系譜には、自分の家は平姓長井氏で武蔵国長井荘が故郷なんですよ、という家までw

400人間七七四年2019/09/15(日) 09:03:46.71ID:xjNELu5t
>>395
馬取は無事だったんだろうかな。清正の耳には入らなかったんだろうか

401人間七七四年2019/09/16(月) 00:22:30.66ID:5o8unsTp
藤堂高虎『遺訓二百ヶ条』、人斬り実践編

一五二
必ず人を打ち果たさねばならぬ時は、一尺あまりのはみだし鍔の脇差で突くべきである。そして刃を上にして突くべきだ。鍔がない
場合は血糊で滑ることが有る。ただし柄は巻いてあるのが良い。必ず刃を下にしてはならない。動きの素早い者には押さえられる
ことが有る。斬るというのは場合による。必ず討ち果たす必要が有る時、突けば尽き損なうという事はないが、斬る時は切り損なう
ことが多い。
(大事の仕者の時は壱尺に少余るはみ出し鍔の脇指にて突くへし。刃を上にして突きかへるべし。鍔の無はのりにてすべる
事あり。但柄は巻たる可然。必刃を下へすべからず。はやき者はおさゆる事あり。必切ル事は折によるべし。大事の仕者は突につき
そこなひはなし。切には脇そこなひ多かるべし。)

一五三
刀の大小の柄は、皮より糸巻きのほうが良いという人がいる。皮は血糊がかかると滑るが、糸巻きは滑らないという。しかしどちらが
悪いとも言い難い。とにかく、柄はどちらであっても古くあかじみているものでは血がかかると滑るであろう。昔は皮の柄ばかりであったが、
それで数度の用にたった。である以上皮の柄が滑ると決まったものではない。
(大小の柄皮より糸巻よきという人あり。皮はのりかかりすへるという。糸巻はすべらずといふ。何れ悪敷といひがたし。兎角柄は
いずれにても古くあかしみたるは血かかりすべらんと思はるる也。昔は皮柄斗なれ共数度の用に立来る。然上は皮柄すべるとも
きはまるべからすとなり。)

一六八
鑓長刀で人を突く時は、そのまま突くと同時に、鑓であっても長刀であっても捨ててしまえば、突かれた者は倒れるものである。
そして倒れた時に石突を足で踏みつければ、起き上がることができなくなる。うかつに突いた鑓を持ったままで居ると、相手に
手繰り寄せられることが有る。鎌鑓や十文字鑓はまた格別である。
(鑓長刀にて人を突時は其侭突込と一度に鑓にても長刀にても捨候へは突れたる者倒るる物なり。倒れたる時石突を足にて
ふまへ候へは起き上り兼る物なり。うかと突込たる鑓長刀持て居れはたぐり寄事あり。鎌鑓、十文字は格別なり。)

一七一
もしやむを得ず家来を手打ちにする時は、一刀を打ち付けたならば、続けて二つも三つも打つべきである。一刀で様子を見ては
いけない。もし切れていない時は反撃され自分が怪我を負う事が多い。よく心得るべし。
(もし是無非無にて家来手打ちにするとも、一刀打付たらは二ツも三ツも続けて討へし。一刀にて不可見手廻る歟。不切時は
必手負数度多し。能可心得。)

一八〇
敵を組み伏せて首を落とす時は切ってはならない。刀であっても脇指であっても、切っ先を左手で押さえて、擦り落とすべきである。
早業によい。
(組伏て首落す時は切べからす。刀にても脇指にても切先を左の手に取りすり落すへし。早業に能なり。)

402人間七七四年2019/09/16(月) 09:13:38.88ID:GLcy2izj
>>401
生々しくてすげーリアルだ、当事者だから当たり前だけど…

403人間七七四年2019/09/16(月) 10:31:30.75ID:sTJYIEYO
剣道やってる人も竹刀の持つところが垢まみれだと滑るとかあるの?

404人間七七四年2019/09/16(月) 11:52:17.33ID:C4HOaIOB
>>401
怖い
こんなのが200もあるのか

405人間七七四年2019/09/16(月) 14:03:13.19ID:zAldsUz/
三尺手ぬぐいの便利な使い方も10以上あった気がする

406人間七七四年2019/09/16(月) 16:04:14.18ID:YGXmz8gp
去る人は酒飲みで上戸だという。しかしながら、他所では飲みなさらなかった。

無理に一盃を盛れば「没義道好き」と毀ち、座の興が冷めるのも構わずに飲みなさらず、
一器量ありと見え申したのである。

その人の名を(池田光政は)仰せられたが、忘れてしまった。小身の御旗本衆ではない。

――『烈公間話』

戦国期の人ではないかもしれませんが

407人間七七四年2019/09/17(火) 12:07:27.33ID:rA55nKy+
天正17年(1589)小西行長と加藤清正による、肥後。本渡城攻めの時のこと。

加藤清正の軍勢が本渡城の本丸に攻め入った時、敵30人ほどが、具足・甲を着て、鑓長刀を持って
一斉に切って出たのを、追い取り包みて、一人も残さず討ち取った。そしてその者達を見ると、
討ち取られた者に男は一人もなく、皆女であった。故に首を取らず斬捨てとした。

彼女らと戦った時に手疵を負ったものが5,7人あった。これに対し清正の近くで、いかに働いたと言っても、
女人に斬られ突かれたというのは弱いというように取り沙汰していた者があった。これを清正が聞いて

「定めてそれは、不吟味なる若輩者共の申し分である。たしかに女人は、逃れがたき所であっても
命を惜しむというのが世の中における習いのように言われているが、あのように死を軽んじ、思い切って
出た心中は、却って男子より堅固であろう。それと戦って手疵を負ったのも越度ではない。
さりながら、彼女らの戦働きは、男ほどには出来ないのだから、これを討ち取ったと言っても
高名には成り難い。

ではあるが、一人も洩らさず討ち捨てたのは一段と心地よい(然りと雖も、一人も洩らさず討捨てたるは
一段と気味能き)」と仰せになった。

(續撰清正記)

408人間七七四年2019/09/17(火) 15:16:00.10ID:++DeFL0F
どこが悪い話なんだ?文句つけた奴がいることか?

409人間七七四年2019/09/17(火) 21:49:56.45ID:c4UNbjk5
強姦せずに斬り捨てた加藤軍は畜生にも劣る

410人間七七四年2019/09/17(火) 22:48:38.12ID:XdcEiAyO
>>406
本多正純「してその者の名はなんと?」φ(`д´)メモメモ

411人間七七四年2019/09/18(水) 12:32:10.52ID:MqXkTdA+
>>403
そうなる前に変えます

412人間七七四年2019/09/19(木) 14:23:55.28ID:KfDzYQf0
我等の有する報告によれば、日本の国は土地が貧弱でありポルトガルよりも寒く、山多くして
雪もあるという。国民の知識は開け、道理を解す。
その食物は大根の葉の上に少しの大麦の粉をかけたものである。

この地には橄欖(オリーブ)油、牛酪(バター)、乾酪(チーズ)、牛乳、卵、砂糖、蜂蜜、また酢も無く、
サフラン、肉桂、胡椒も無いという。
また塩もなく、塩味を作るのに大麦の糠を用いるという。
最後に、病人に薬として与える物もない。

このようであるにも拘らず、我が(イエズス)会員13,4人は主の御恵により喜んで同地に赴くのだ。
彼等の困難は更に大きいが、狼の口より彼の国の霊魂を救うため、喜んで尽力するだろう。
愛する兄弟たちよ、汝等の希望を実行すべき時は既に来た。我等の主キリストはこれらの霊魂のために
多くの事を成し給える。故に彼等を助けることを恐怖のために中止すること無く、来たりて創造主を
知らざるこの人達のために尽力せよ。

この国はキリストの騎士のために準備されたるが故に、来たりて十字架を抱け。この国より永遠の
天国に召されるべきが故に、来たりて諸星および諸国を見よ。

 1554年4月24日 コーチンより

(1554年4月24日(天文二十三年三月二三日)付、パードレ・ガスパル・ピレラ書簡)

塩はさすがにあるだろ。

413人間七七四年2019/09/19(木) 15:30:44.58ID:nRy2KSWH
伴天連に食わせる塩はねえ

414人間七七四年2019/09/19(木) 18:53:22.06ID:g9685+pm
とりあえず大げさに報告する営業日報

415人間七七四年2019/09/19(木) 19:25:43.04ID:vERIOLSj
塩は岩塩のことじゃないかな?

416人間七七四年2019/09/19(木) 19:26:47.54ID:aUt9NW6c
塩は無いが死は満ち満ちていたさ

417人間七七四年2019/09/19(木) 20:22:41.03ID:Nz58l5e9
しょ、醤油はあったし・・・。

418人間七七四年2019/09/19(木) 20:29:36.94ID:/u1TXQSZ
味噌はあったろ!

419人間七七四年2019/09/19(木) 20:58:08.75ID:vRWDmWnV
コーチンて何

420人間七七四年2019/09/19(木) 21:07:18.05ID:Nz58l5e9
>>419
インド南部の都市・コーチじゃね?
wikipediaでみたらポルトガルが占領してたみたいだし

421人間七七四年2019/09/19(木) 21:25:25.65ID:huLnoxn/
>>418
????「クソガァああああああああああ!!!」

422人間七七四年2019/09/19(木) 21:48:41.93ID:mLsM5rPb
結局言いたいのは「オレってすごい」だし

423人間七七四年2019/09/20(金) 08:13:03.27ID:CBJNSAf3
>>418
>>412
塩味を作るのに大麦の糠を用いるという。

コレが味噌のことかな?なお焼き味噌ではない

424人間七七四年2019/09/20(金) 15:28:20.75ID:qpWchHR6
糠味噌じゃね糠味噌やぬか漬けを何か誤解してたとか

425人間七七四年2019/09/20(金) 16:11:05.87ID:Qy3rYT1n
九州山口は麦味噌多いからそのせいかも?

426人間七七四年2019/09/21(土) 11:00:09.19ID:MY/3Tvpu
我がパードレ・メストレ・フランシスコ(ザビエル)は日本より当ゴアに来たりしが、1552年4月17日、
一船に乗りてシナ国へと赴いた。同船にはゴア総督がシナ国王のもとに派遣した大使(ジョゴ・ペレイラ)も
乗り込み、総督はパードレの事を王に依頼させようとしていたのだが、当市より600レグワのマラッカに
到着すると、パードレの旅行は障碍を生じた。すなわち船主にして船長である大使(パードレが使節の
庇陰にて希望の国に入ることを期待し、デウスの次に最も信頼する人である)が、マラッカに滞在することが
必要となったのだ。

パードレは同船において、水夫の他に彼とともに在るのはキリストの愛とキリストのために多くの労苦を
学ばんとする熱心な信者のみであり、パードレ、イルマン、その他現世の必要について彼を助けられる者は
一人も同伴しなかった。

船は広東の市に近いシナの一港(上川)に着いたが、その入国には様々に故障があった。シナにおいては
外国人の入国しようとする者、並びにこれを入国させようとする者に対して重罰が有った。何人もあえて
外国人を入国させようとはしないため、数日間ここに滞在した。パードレはその希望を実現する時をここで
待つことに決し、同港において、異教徒である一商人と交渉し、「自分を広東の市に連れていけば、同国に
おいて甚だ高価である胡椒を大量に与える。」との契約を成し、商人は数日後、再び来て彼を同伴する
予定にて去ったが、我等の主には別に定められた所があり、パードレは熱病に罹り数日中に死したり。

(1554年12月23日(天文二十三年11月29日)付、パードレ・アイレス・ブランダン書簡)

フランシスコ・ザビエルの最期についての報告。

427人間七七四年2019/09/22(日) 12:07:09.05ID:kiPUL+9X
当地方(日本)にて悪魔は多くの形で崇拝される。特に牛、兎、鹿などの獣類として拝まれ、
牛を殺せば死刑に処する地方も有る。

悪魔が崇拝を受ける方法は、人間に憑き、「誰なるか」と尋ねる者があれば「牛の長なり(牛頭天王か)」
と言い、もし去らんことを願う時は、これを祀るべき堂を建てる約束を成すまで去らずと答え、その約束を
成せば去る。よって堂を造り獣類の像を安置してこれを拝む。もし約束を守らなかった時は、種々の方法で
彼等を苦しめる。

また鹿の形にて崇拝を受ける事がある。鹿の島(鹿島か)と称する島があり、同所にてこれを拝む。
そしてこれを信仰させるため、鹿を殺す者が有れば病みて様態甚だ悪しきに至らしめる。
よってこれを信じ、鹿の形にて崇拝する。

また兎の形において崇拝を受けることも有る。このためその所有する島においては、”ウサギ”すなわち
兎の名を唱えれば”os que nomeao Vcangui”皆咽喉腫脹する。

悪魔がこのような事を成すのは、人間を我等が主デウスの真の信仰より引離し、無限にして汚すべからざる
デウスの栄光を、人間、鳥獣および蛇の朽つるべき像に変じ、創造主よりも作られたる物を拝ましめる
ためである。

(1557年10月28日(弘治三年十月七日)付、パードレ・ガスパル・ビレラ書簡)

428人間七七四年2019/09/22(日) 13:20:26.40ID:kweAEpuk
安芸の厳島とは違うのかね?鹿が崇拝と言うか、神の使い扱いされる島って。

429人間七七四年2019/09/22(日) 19:52:27.38ID:ZXFp1JlY
志賀島でしょ。
神功皇后が鹿の角を奉納した志賀海神社がある。

430人間七七四年2019/09/22(日) 21:04:02.67ID:+ZdypB0P
志賀島に鹿は居ないらしいし、鹿が由来で志賀島と言うわけでは無いらしい(近の島が訛ったとか)けどな

奉納されたのも神功皇后が対馬で鹿狩りした角と言うし、書簡に書かれた話とは相反する希ガス

431人間七七四年2019/09/22(日) 21:39:24.75ID:OhO35Ahj
loserの将棋ブログ読んでると、豊臣秀吉ってやっぱすごかったんだなって思った

432人間七七四年2019/09/23(月) 01:21:51.77ID:bWIuDE8Z
一昨日の清洲会議は面白かったな
やっぱ大泉すげーわ

433人間七七四年2019/09/23(月) 05:38:44.89ID:2hnkMw8k

434人間七七四年2019/09/23(月) 07:41:44.61ID:tas5s4rW
ええーい宮島はいい、鹿島を出せ鹿島を!

435人間七七四年2019/09/23(月) 08:02:48.00ID:2hnkMw8k
>>434
茨城県鹿嶋市
https://i.imgur.com/uFPJA30.png
 名前は、市の花である「ハマナス」の「ナス」と、鹿嶋の「カ」から名付けられました。
鹿の妖精であり、鹿嶋市の緑豊かな自然と海や湖の恩恵をイメージして、緑と水色の衣装を着用しています。
鹿島神宮で神鹿として大切にしている鹿の子をモチーフとし、頭には市の花「ハマナス」をつけています。

436人間七七四年2019/09/23(月) 19:30:46.75ID:cwZ3+KTm
20万石余 小西摂津守行長

肥後州宇土城主・従四位下侍従行長、父は泉州堺累代の薬商・小西清兵衛入道如清という。彼は子息の
清九郎(弥九郎行長)を伴って朝鮮へ渡り、薬を買って往来すること数ヶ年。

太閤は天下草創の以前より朝鮮を征伐せんと心掛けられた故、小西が案内を知っていることを聞いて、
子息の清九郎行長を召し使われたが、行長は武勇才智あって太閤は喜び、播州在城の時に初めて2百石
を賜う。行長はなお武を学び和漢の兵書を考えてもっとも兵道に達する故、太閤はかつて播州一国を領
せられた時より、天下平均、かつ朝鮮攻めまでの合戦でついに不覚を取らず。

さて太閤は備中出陣の時は小西清九郎が先手に進み戦功あり。帰陣の後に1万石の感状を賜り、従五位
下内匠頭と受領す。後にまた段々加増、10万石に至り摂津守と改める。

この時、宗対馬守義智に一女あり。小西の智勇を感じ入り太閤へ願い婿とする。しきりに戦功を積んで
天正13年(1583)に10万石の加恩を賜い四品に昇り、肥州宇土の城を賜う。

さて、太閤は宿望の通り朝鮮征伐を企て、行長を先手の大将たらしむ。行長は案内者である故、やがて
かの国の通事数人を語らい懐け、路次の便を調え諸将へ下知案内を司る。行長はかつ勇猛智謀をもって
朝鮮の王城数ヶ所を攻め抜き、敵の首を斬ること諸将に10倍す。その働きは『朝鮮征伐記』に詳しい。

しかしながら元来卑賎の者である故、己の武勇に驕り諸将の誓約を変じ、己1人の功を立てんことを業
とする故に交わり親しむ者なし。行長はこれを悟らず、人を嫉み世を恨む。石田(三成)とは懇意故、
かの逆意に与しその為に軍法を談じるといえども、石田の運が尽きたのか小西の謀を用いざること多し。

(後略)

――『古今武家盛衰記』

437人間七七四年2019/09/23(月) 19:33:28.75ID:cwZ3+KTm
>>436
すいません天正13年は1585年の間違いです

438人間七七四年2019/09/23(月) 23:49:15.22ID:Pi/XGgC+
>>433
もみもみしたくなるな

439人間七七四年2019/09/24(火) 09:54:25.03ID:0yXdIu4K
>>433
頼光「来たれい四天王。…いいえ、牛頭天王の神使達!」

440人間七七四年2019/09/24(火) 10:25:43.22ID:oBX6SoJl
>>436
持ち上げて持ち上げてからのハシゴ外し w

441人間七七四年2019/09/24(火) 10:36:01.80ID:/PMrZ76R
元来卑賤てwそれ太閤もやん

442人間七七四年2019/09/24(火) 12:31:24.12ID:/fKcB4+w
>>438
地元の男子高校生の下ネタみたいなもんなんだよなぁ
もみじ饅頭略してもみまん

443人間七七四年2019/09/25(水) 18:18:47.04ID:8prqcSXc
(前略 >>436

去る程に慶長5年(1600)9月12日、石田らは濃州大垣城に籠って岐阜城へ加勢を遣わし、島左近を
株瀬川(杭瀬川)へ出して戦の手始めをさせたところ岐阜はたちまち落城し、左近は利を得たけれども味方
は大勢討たれたので三成は驚いて諸将を集め、「この上は関ヶ原まで引き退き、味方の多勢と成り合って広
野において戦せん。如何だろうか」と言う。島津・宇喜多・安国寺らも心臆したのか皆もっともとこれに同
意した。行長(小西行長)1人は知らぬ顔でいたがこれを聞き、怒声をして高らかに言ったことには、

「こは臆したる評議かな! およそ戦の勝ち負けは5度も10度も戦い負けて、1度の勝ちに大利を定める
ものぞ! ましてや日本が2つに分かれて戦うというのに、10度20度の合戦に変わりがあろうか!それ
に味方の負けは岐阜ばかり、株瀬川の戦は大勢が討たれたが軍利を得て大敵を追い払った! さて敵方の負
けは大津城、丹後の田辺、伊勢の津城、伏見城である! これは我らの勝ちではないのか!

東国勢は多しといえど7万5千3百余兵、味方は13万8千6百余人! 敵に若干倍するのではないのか!
それを岐阜落城に物を懲らして逃げ支度する謂れはない! 今ここに有り合う勢をもって敵と戦うのに不足
はあるまい!

それで覚束ないのならば関ヶ原の兵をここへ招き寄せて快く一戦し、万一利が無ければ大坂城に籠り、また
勢を分けて所々の城に籠め置けば、敵は手配りしてこれを攻めることだろう! 多からぬ関東勢を分散させ、
その虚を窺って家康の旗本へ突き入れば、どうして勝利を得ないことか!

また岐阜中納言秀信は生得愚魯の闇将、臆あって勇なし! 弱将の下に強兵無き故、家臣らはまた浄き戦も
せずにたちまち首を伸ばして降参した! これは戦の咎にして天利とするべきではない! それを味方の兵は
臆して敵兵は気に乗ったとこの陣を退くことは後世の謗り、そして今においては戦の損、一方ならぬ誤りで
ある!

私が思うに家康は今日赤坂へ着陣して備は未だ定まっていまい。今夜こちらから逆寄せし、一戦すべきでは
ないか。つらつら思うに家康は広野の合戦に妙を得て、人数を見切り進退し、軍兵を指揮することは誰が雌
雄を争えよう。各々も見給う如く、姉川・長篠・長久手・楽田・羽黒などの戦場で僅かの手勢をもって大敵
を切り崩したその形勢は、神変無双の驍将である。尋常の如くこれと戦してはまったく利はあるまい。

まず今夜、夜討して敵の変化を窺い見て、重ねて術を巡らすべし。ただ運を天に任せて味方の勢を三分し、
一手は家康の本陣へ夜討させ、一手は旗本近き陣を攻め、一手は援兵の通路を断じ、所々の陣々、赤坂の町
屋在家を一同に放火してその変動に従って戦わん!」

と言うが、諸将は聞き入れず。石田は言う。「小西殿の計りは図に当たるといえども、味方の中に二心の者
は大勢いると聞く。しからばこの謀も敵に洩れるのではないか。なまじ夜討して味方の若干が滅びるよりは
速やかにここを退いて味方の大勢と心を合わせ、一戦の功を立てるに如かず」と用いず。行長はまた言う。

「夜討の術が各々の心に入らないのならば、ともかくもここを退いて関ヶ原まで引かれんことは甚だすべき
ではない! 戦の習いで一足でも進むとなれば鼠も虎の威に同じ、一足でも引く時は虎も鼠の如しと言われ
ている。岐阜が落城して味方の兵は気を失い、勇の挫けるところでまたここを退けば敗軍に等しく、ますま
す味方は力を失い、敵は未だ戦わずして勝軍の猛威を振わん! これは敵に勇を付け味方の気を弱めること
なれば、自然と心を変ずる者もあろう。重ねて戦っても利は無い!」

とするが諸将は肯定しない。小西は大いに怒り、座を立って大声で罵ったことには「それほど味方を疑って
は、いずれも戦はできない! 臆病神が付いた以上は百万の勢があろうとも負け戦になろうぞ! 思うに味方
の中に勇士はいなかったのだ!」と、悪口して陣所へ帰った。

石田を初め諸将が行長の奇計を用いず狐疑したのは、家康公が賢慮を巡らされ、敵が大垣へ出張した後にあ
らかじめ伊賀・甲賀の忍功者の輩を敵陣へ多く入れ置いて諸々の説を言わせられ、この流言に驚いて諸将は
互いに隔心し勇気は挫け、皆引く心が付いたのであった。

(後略)

――『古今武家盛衰記』

444人間七七四年2019/09/25(水) 18:20:33.61ID:Dlm/oppg
戦犯小西

445人間七七四年2019/09/25(水) 18:21:51.54ID:U38ZVahv
三成って安定択しかとれないイメージ

446人間七七四年2019/09/25(水) 18:54:19.25ID:UhsvF/OK
前線の武将は熱いな
モタモタするより速攻で1回戦って団結した方が良さそう

447人間七七四年2019/09/25(水) 20:20:18.64ID:Rn6zhfmt
三成は家康はもとより、同世代のNGMSや市松他東軍諸将連中と比べても前線や陣頭指揮の経験が豊富かって言うとそうでは無いしなぁ…
かと言って総大将としての戦略も…

結局、毛利と小早川が調略されてる時点で詰みよねぇ…

448人間七七四年2019/09/25(水) 22:49:49.78ID:e8AHqd1y
猪武者でも頭良い人けっこういるんだよね
三成は頭に寄りすぎ
融通利かなすぎ

449人間七七四年2019/09/26(木) 15:47:14.39ID:QTP1VGvV
簡単に岐阜を抜かれたのが痛いね
天下の名城だし諸将への動揺が大きかったと思う
態勢を整える為にも一旦下がるのは誰もがやる手法だろうね
伊賀者甲賀者が暗躍してる時点で夜討は効果ないでしょ
看破されて撃退されるのがオチ

450人間七七四年2019/09/26(木) 18:39:51.77ID:z0ck5pTd
西軍は団結力皆無なんだから、勝馬に乗らせる形にしないと崩壊する。
ので、危険だろうが何だろうが押していくしかなかった。

451人間七七四年2019/09/27(金) 06:39:27.78ID:DDzLkT4T
喜んで死地に赴けるのは一向宗か切支丹だけ

452人間七七四年2019/09/27(金) 10:37:41.29ID:sYpyrMZP
薩摩隼人も追加してー

453人間七七四年2019/09/27(金) 13:13:11.61ID:IIFlZzjV
>>452
心臆したんじゃなかったの?

454人間七七四年2019/09/27(金) 14:56:12.80ID:B2xH82PH
彼(大村純忠)はその兄(有馬義貞)より出陣の通知を受け取ったことにより、翌朝出陣の準備を
整えた後、パードレのもとに人を遣わし、彼とその家臣のためデウスに祈り、またその妻が妊娠して
いる故に、我等の主が安産を与え給うよう祈ることを求めた。

ドン・ベルトラメウ(大村純忠)が出陣した時、途中にて一つの注目すべきことが起きた。
日本人は戦争の神にして、摩利支天と称する大にして甚だ美麗なる偶像を有し、大身の人も
賤しき者も、その前を通る時は地面まで頭を下げ、及ぶ限り自ら卑しくする習慣が有った。
偶像の背後、頭の上にこれを覆うガロGallo(鶏)があった。異教徒たちは疑問ある時に、そのもとに至りて
これに伺うのを常とした。

ドン・ベルトラメウは軍隊を率いてここに到着したとき、部下を停止させて、進んで偶像を取り出して焼き、
次いでその寺院にも火をかけた。またガロをその面前にもってこさせ、剣によってこれに一撃を与え、
「今まで幾度、私を欺いたのか!」と言った。

悉く焼き盡くした後、その場所に甚だ美麗なる十字架を建てさせ、部下一同とともに深甚の敬意を表して
戦地に赴いた。

彼が(前に述べたる如く)我等の主なるデウスのため約束したより多くの事を成した一例は、
その兄の救援のため戦争に臨んだ時、人を領内に遣わし悉く偶像を焼き、また港より1、2レグワの
所にある森より、ポルトガル船に必要な材木を、ポルトガル人の望むまま伐採させるべしと命じて、
これを実行した。また武士等と語り、デウスのことについて疑いが有れば彼に尋ねよ、彼はそれについて
説明する、と言った。

(1563年11月14日(永禄六年十月二十九日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

455人間七七四年2019/09/27(金) 15:17:22.03ID:zJaqhU3P
(前略 >>443

石田を初め諸将が行長の奇計を用いず狐疑したのは、家康公が賢慮を巡らされ、敵が大垣へ出張した後にあ
らかじめ伊賀・甲賀の忍功者の輩を敵陣へ多く入れ置いて諸々の説を言わせられ、この流言に驚いて諸将は
互いに隔心し勇気は挫け、皆引く心が付いたのであった。

これより西国勢は敵からかえって夜討が来るだろうと、石田を初め島津・宇喜多などの諸将は慌てふためき
9月14日酉刻に陣所を払い、牧田の閑路を経て関ヶ原へ引き退く。殊にその夜は大雨で諸軍は大いに迷惑
し、その様子はさながら落人の如し。

この時、小西(行長)が付け置いた忍どもが走り来たりてこれを告げた。行長はまったく驚かず「どうして
そんな事があろうか。引き退くならば、我が方へもどうして一往告げないことがあろう」と事実とも思わず
にいたが、追々に告げて来るので不思議ながらも物具を堅めて馬に乗り、諸将の陣々を回り見るによくよく
慌てふためいたと思われ、兵糧・器財・弓・鉄砲・槍長刀・太刀・甲冑が捨ててあって、足の踏み所もない。

小西も興覚めながら自陣へ人を馳せて人夫5百余を召し寄せ、心静かにこれを拾い集めさせて夫駄に負わせ、
自分の陣所をも引き払って関ヶ原へ急いだ。

さて、諸将の方へ使を立て「各々の陣所に捨て置かれた兵具などを敵に拾われて、善し悪しの批判をされる
のも口惜しく、行長が広い集めて持たせて来た。御用次第に取り寄せなさるべし」と申し送り、関ヶ原から
八幡の西北、小池村の間に兵具などを並べ置いて所望に従って渡すと、皆面目なく見えた。行長は家子郎等
に向かって、

「このような臆病者とは知らず三成に頼まれ、犬死する口惜しさよ。しかしながら今これを捨てれば、節に
臨み義を忘れるようなものだ。ただ私が人を知らざる故なれば、今更恨むような様もない。汝らの数年の軍
功を無きに等しくしてしまうことは、返す返すも残念でならない。さりながら宿世の誓約と思い切り、今度
の最後の戦で悪びれて(気後れして)世人に笑われるなよ。速やかに討死して名を万代に留めよ!」

と情を含み勇を励まして語ると、従臣どもは「仰せまでもなし!」と誓いを立てて申したので大いに喜び、
「実に頼もしき心底よ! 最後の酒宴をせん!」と互いに打ち解け終夜舞い謡い、その後に手配りを定めて
明けるのを遅しと待っていた。

(後略)

――『古今武家盛衰記』

456人間七七四年2019/09/27(金) 15:32:51.16ID:GToyzteL
>これより西国勢は敵からかえって夜討が来るだろうと、石田を初め島津・宇喜多などの諸将は慌てふためき
9月14日酉刻に陣所を払い、牧田の閑路を経て関ヶ原へ引き退く。殊にその夜は大雨で諸軍は大いに迷惑
し、その様子はさながら落人の如し。

どうしようもねーな
こんなん聞いてると水鳥の羽音で平家が逃げたとか信じそうになるぞ

457人間七七四年2019/09/27(金) 20:59:55.87ID:d0XnWwP+
大垣城から関ケ原に引いた時点で、もう負け確定だったんだなぁ…。

458人間七七四年2019/09/27(金) 23:03:11.80ID:xvfY22wf
>>454
大村家って平安期からその地に居てキリスト教関係でめちゃくちゃやったのに
秀吉家康時代も転封なしって運がいいというか身の処し方が上手いんだよな
キリシタンの厄介な場所とはいえ、島津家や宗家ほど地域の特殊性もないのに治世任せられてる
戦後まで当主が辻政信を匿ったり大村市長になったりしてるし

459人間七七四年2019/09/28(土) 10:43:51.63ID:bhDpweX0
>>455
誇張もあるんじゃないかな
石田三成だけならまだしも他の将まで揃ってとは

460人間七七四年2019/09/28(土) 12:49:42.34ID:h/ZK5U/h
当地(日本)には大身等の間に戦争が絶えず、彼等はデウスを畏れず、各自首領とならんことを欲し、
やむを得ない場合でなければ大いなる者にも従わず、機会があれば領主に叛起する。故に悪魔は
彼等を導いて絶えず戦い、市および町を焼いて互いに亡ぼさせる。家は皆木造であるのでこれを焼くことは
容易である。

この事はデウスの教えを説くについて大いなる妨害であり、戦争の際には我が住院は焼かれ、我等の
所持品が奪われること度々であり、パードレ一人、およびイルマン数人が衣服を剥がれてわずかに
命を免れた事もあり、この地方においては、大いなる艱苦と生命の危険を冒す事なくして布教する
事は出来ない。

然れども主は我等に御慈悲を垂れ給い、デウスの教えは当国に広まり、敵の中にも熱心なキリシタンが
あり、彼等はパードレおよびイルマン等がかくのごとき状態にあるのを見て少なからず悲しみ、これを
保護し安全を保証すること、あたかも彼等の主人に対する如くである。

今はデウスの御慈悲によって双方に多数のキリシタンが有る。破壊を行う前に我等のその事を知らしめ、
最も甚だしい時は住院を失うが、そうでない場合には早くにその安全を図る。

この事を尊師に通信するのは、日本に於いて我々は未だ真の住院を有せず、我等が建築する会堂は
日本人の忠誠なる心であり、この会堂は永久に存続するものだからである。

我等が主、ゼズス・キリスト、彼等に恩恵と光明を与え、引き続き良き道に進ましめ給わん事を。

(1564年10月11日(永禄七年九月七日)付、パードレ・ジョアン・バウチスタ書簡)

永禄の頃の日本(豊後あたり)の状況について。

461人間七七四年2019/09/28(土) 18:40:27.66ID:U4mz+hGR
仮にキリスト教国だったとして変わらんだろこれw

462人間七七四年2019/09/28(土) 21:12:30.93ID:bhDpweX0
この頃のヨーロッパも結構なもんだよね

463人間七七四年2019/09/28(土) 22:13:59.96ID:g1EomfXJ
いや、日本がキリスト教になったとしての話
別に何も変わらん気がするから

464人間七七四年2019/09/29(日) 00:04:08.38ID:jYID+T12
確かに

465人間七七四年2019/09/29(日) 00:56:01.33ID:YZJcRlBM
宣教師ランダはあまりに容赦ない宣教活動が本国で問題になり異端審問にかけられている人物である。
しかし、彼が記録した「ユカタン事物記」は非常に詳細な記述であり
マヤ人の生活から文字の手がかりまで書かれている重要な資料であるのを前提として。

もしマヤと同じように、16世紀の日本にスペインからカトリック僧(ランダ)が来て宣教を始め、
キリスト教から旧来の宗教に再転向する日本人6000余名を笞刑にし、
4000名余名を拷問にかけ、その結果年間150名余名の死者を出し、
異教の本だからと当時の日本にあった書籍の90%を焼きすて、
そのかわり日本の文学、宗教、歴訪、社会、習慣などについて、ただ1冊の本を書き残したとする。
われわれが、この人物の行為は単に当時の考え方を反映してるに過ぎないと容認し、
「万葉集」や「源氏物語」は焼き捨てられたけれども、一冊の「日本事物記」を
残してくれたことに感謝すべきなのか、という質問である。

青木晴夫「マヤ文明の謎」講談社 

466人間七七四年2019/09/29(日) 08:50:07.59ID:jYID+T12
戦国時代で助かったわ

467人間七七四年2019/09/29(日) 12:17:46.71ID:3pp4eH/n
日本書紀編纂の時期に多分似たような事は起こったとおもっとる

468人間七七四年2019/09/29(日) 12:52:44.29ID:c91QPm4X
8月25日頃、我等並びにこの国のキリシタン全体にとって甚だ悲しむべき、また我等の敵にとって
大いに喜ぶべき報知が豊後に達した。すなわちドン・ベルトラメウ(大村純忠)は死し、その兄弟である
有馬の王(有馬義貞)は逃げ、ポルトガルの帆船およびジャンク船は横瀬浦港を去り、会堂及び
同地全体は他の多数の村々とともに焼かれ、キリシタンは皆死し、または迫害を加えられているという
報知である。(大村純忠の義兄である後藤貴明の反乱の事と考えられる。純正の死は誤報)

而してこれは、ドン・ベルトラメウが領内の仏像を焼いたためであり、その部下の者も、彼の親戚である
他の君主と供に暴起して悉く領地を奪い、有馬の王もその弟の奉じたキリストの教えを好遇し、
弟がキリシタンと成り、仏像を焼き、坊主に迫害を加えたにも関わらず、仏より何等の罰を受けることが
無かったため、「仏に何の力もないことは明らかである」と言い、その兄弟のごとくデウスの教えを
奉ぜんとし、またその領内にデウスの教えを弘める許可を与える事が良いと思い、また既に領内2ヶ所に
おいて千二百あまりのキリシタンが存在していた。

このような状況で家臣たちがこれに叛起し、デウスの教えに大いに反対するその従弟(後藤貴明)が
叛徒の首領と成った。

我等はこの報知を得て大いに驚きまた悲しみ、この事についてのみ語り、キリシタンは恐怖し、異教徒たちは

「デウスに力有れば仏の力よりドン・ベルトラメウを救出すべし。ドン・ベルトラメウの如くデウスの教えを
愛し、仏に迫害を加える者は無かった。宣教師たちが説いていたようにデウスに力があるのなら、その
僕を助けるべきである。」と言って大いに罵言し、また

「キリシタンの教えは偽物であり、滅ぼすべきものである。何故ならその教えの入った所には必ず
戦争及び紛争が起こる。」と言い、その議論を確証するため、日本に於いて最も古く、また立派であった
二つの都市、すなわち博多及び山口がキリシタンの教を受け入れた後滅亡したこと、その他多くの事を
挙げ、人民をして我等に大なる嫌悪を懐くに至らしめ、また我等は人を喰う者にして魔法使いであると
彼等の頭に入れ、また我等は日月も仏像も拝することを禁ずるが、そんな事を為し、また説く者は全く
信ずるべきではないと言った。

このような話は我等の行く各地において坊主に共通した所である。

(1563年11月17日(永禄六年十一月二日)付、イルマン・ルイス・ダルメイダ書簡)

後藤貴明の反乱の報についての記録である。キリスト教が入った所では平和よりもむしろ戦乱が起こる、
という印象がこの時代から既に有ったのですね。

469人間七七四年2019/09/29(日) 13:33:51.38ID:bMxm3j9d
隆盛の有馬に屈する形で大村は有馬から婿を迎え隠居、実子は後藤へ婿にやって反乱の目を潰すが、純忠が領内の寺や菩提寺を廃するとこれに怒り、これより大村を仇敵とみなした
なにもキリスト教だからではない、跡目を継げなかったことが争いの元凶なのである
なお龍造寺が隆盛を極めると後藤貴明は隆信の子家信を養子とし実子清明を隆信の養子に、大村純忠は娘を隆信の子家種の室に送った

470人間七七四年2019/09/30(月) 14:19:26.60ID:8QeXwAHH
聖週中、平戸において我等を大いに喜ばせる一事件が起こり、人間には遠方にあると見えても、
デウスは常にその名誉に関することに注目し、裁断を下し給うことを明らかにした。

平戸にヤシマンダケ Iasimandaque と称し、坊主一同の首領たる者があった。これは我が司教、
または大司教に相当する者であった。同人は常にキリシタンおよび信仰の事に対しての主たる
敵であり、十字架が切り倒され、パードレ・ガスパル・ビレラその他パードレが平戸より追放
されたのも彼の力によってであった(永禄元年の、松浦隆信による宣教師の平戸追放)。

ドン・アントニオ(籠手田安経:平戸松浦家重臣)も右の坊主がこの地の身分ある異教徒たちと
親戚関係にあるため、その罪悪に相当する復讐を成すことが出来ないのを非常に遺憾としていたが、
ドン・アントニオが平戸の王(松浦隆信)とともに戦場に在った時、坊主は使者を以て、その寺院二ヶ所と
併合するためにドン・アントニオの所領の地所の一部を彼に与えるよう求めた。ドン・アントニオは
これを与えることを欲さずと答えたが、坊主は甚だ傲慢であり、右の返答を以てその名誉を毀損せし
ものとし、先ず領内に火を放ち、その後数日を経てドン・アントニオの臣下であるキリシタンの家
5,6軒を焼かせた。

ドン・アントニオは陣中に於いてこれを聞き、王に対し、「この上坊主の悪行を容認することは出来ない、
殿下がもし直ぐにこれを罰しないのであれば、戦を中止し自ら行ってこれを罰する。」と述べた。
ドン・アントニオは平戸の王に次ぐ有力者であり、陣中の総大将でもあったことから、これを欠くことは
出来ず、王自身はこの報復を欲せず心中悲しんでいたものの、「彼に対しいかなる罰を加えるべきか」
と尋ねた。ドン・アントニオは右の坊主のためにパードレたちが当国を追われたことを想起し、王に
対して「永久に平戸の各地より追放し、領地および所有品は他に分かち与え、彼をして再び帰還する
望みを断つべし。」と説き、直ぐにそれを実行した。

最も愛するイルマンたちよ、坊主たちがその首領が右のごとく急速に名誉を失墜したのを見て、恥じ、
悲しみ、かつ驚いたこと、キリシタンたちがこのように敵が除かれたことを喜んだことは、これを述べる
詞を知らない。

ただし平戸の王はこれにより我等に友情を示したのではない。ドン・アントニオの存在が必要であったために
動いたに過ぎない。彼は私利のため言辞と動作に於いてポルトガル人を許容しているが、心悪しき人で
ある故に、信仰のことについては敵であり、ポルトガル人に期待する利益が大きくなければ、領内に
パードレおよび会堂を置くことを許容しないであろう。

(1564年10月3日(永禄七年八月二十八日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

フロイスによる、平戸についての報告と松浦隆信についての印象。

471人間七七四年2019/09/30(月) 14:46:28.69ID:IXM4wh0p
元気ですかー!

472人間七七四年2019/09/30(月) 15:39:33.63ID:lnE85m9J
ドン・アントニオの私服診断

473人間七七四年2019/10/01(火) 19:29:19.18ID:1WQXkFRG
>>470
当時の長崎はカオスだったんだろうね

474人間七七四年2019/10/01(火) 22:44:28.29ID:XbzXgAoP
1961年に平戸の仏教徒とポルトガルが揉めて武士が介入して紛争起こしてる(宮の前事件)
これにキレたポルトガルが平戸での貿易を中止して
>>468
のように大村氏に取り入って別拠点で布教を進めてる

475人間七七四年2019/10/01(火) 23:04:03.05ID:wbMAJO8B
>>474
ずいぶん最近だな

476人間七七四年2019/10/02(水) 19:52:26.84ID:eX+Eyt2p
わらた
平戸怖すぎだ

477人間七七四年2019/10/02(水) 21:15:19.14ID:aHv4gnVl
この13年後にポルトガルでカーネーション革命が起きて、海外の植民地を一方的に放棄するんだよな

478人間七七四年2019/10/03(木) 12:44:13.91ID:jV/+ZZRx
平戸、南島原、大村、長崎と貿易港の変遷も地味に目まぐるしい
キリスト教と組んだ領主が大儲けしつつ既存宗教弾圧するパターン
江戸幕府になって弾圧は攻守逆転するが貿易の利益は独占により更にアップ

479人間七七四年2019/10/03(木) 22:47:44.43ID:l2YNgwxJ
>>478
この辺りの歴史を勉強するのにおすすめの本ありますか?

480人間七七四年2019/10/04(金) 18:27:22.11ID:YX5u5dct
しかしこんなの正確に色変え出来る奴とかおるんかいなw

481人間七七四年2019/10/04(金) 18:27:43.80ID:YX5u5dct
誤爆すまん

482人間七七四年2019/10/04(金) 20:01:16.15ID:ow+gqZJT
講談社メチエの「教会領長崎」とか?

483人間七七四年2019/10/05(土) 11:46:50.21ID:McdmRo5l
長崎もポルトガル人さえ来なければもっと平穏だったろうに

484人間七七四年2019/10/06(日) 06:46:55.39ID:aRK4TBMs
>>479
各市域の郷土誌

485人間七七四年2019/10/06(日) 07:27:05.55ID:qFzQwGVX
アホな予算削減のせいで郷土史が死にかけている現状は辛い…

486人間七七四年2019/10/06(日) 11:39:16.00ID:/SwpiUyr
>>479
長崎文献社

487人間七七四年2019/10/06(日) 12:51:03.20ID:XoVewkF3
群馬郡高崎の城主、和田兵衛太夫の弟である和田喜兵衛は、昔の名を小膳といって、若い頃より
上杉輝虎に仕えていたが、ある時彼より、兄・兵衛太夫が甲府の武田信玄に内応して、深谷、倉加野、
高山などと語らって不意に箕輪を乗っ取ろうと企てていると、密使を以て輝虎の近習で、朋輩でも
あった小野伝助に知らせた。そして
「このような状況であるので、人数を少々向けて頂きたい。あとは自分が手引して、謀反人は
追い出します。」と伝えた。

上杉輝虎は小勢で箕輪に向かっていたが、この事を知るとその足で高崎城へと向かった。
ところがその途中で、これを知らせ、高崎城に居るはずの和田喜兵衛に出会った。
彼は輝虎に謝罪した

「謀反のことは自分の聞き違いであり、それで使いを出してしまったが、そのことが露見して
城にも居られず逃亡してきました。」

そうしてこの鳥川で輝虎に出会ったのだという。この旨を伝えられると、輝虎は以ての外の
怒り様で

「このような未熟な内通で出馬を促すとな何事だ!」

と、同行した小野伝助もろとも、和田喜兵衛を切り捨てた。
しかし輝虎は

「この上は、聞き間違いであったと言って厩橋に戻るのも後日の笑い草と成る。まんざら
火のない所に煙が立つわけでもあるまい。小勢ではあるが、いっそこのまま高崎城を
一攻めに攻めてそれから考えることとしよう。」
と考え、まっしぐらに高崎城へ向かった。

到着すると輝虎は自身鑓を取って大手門へ突っ込み、続く直江実継、大関親益、永井尚光と
いった家来たちも負けじと駆け込んだ。
高崎城の人々は訳が解らずも迎え撃ったが、一つ二つと城門を破られた。
城主和田兵衛太夫も剛の者であったから、自ら鑓を取って暴れまわった。
そのうちに輝虎は、「今日のところは無勢でもあり、兵も将も疲れ果てているから」と
引き上げを命じた。

かくして輝虎は行きがけの駄賃であると、郭外に放火し、早々と厩橋へ帰っていった。

(関八州古戦録)

さすが軍神である。

488人間七七四年2019/10/06(日) 14:33:53.95ID:BXDj4gj9
こんなのに毎年のように荒らされまくったのに、確実に領土を広げていった北条はすごいな…

489人間七七四年2019/10/06(日) 16:59:34.48ID:mFgpvsYZ
>>487
キチガイすぎるw

490人間七七四年2019/10/06(日) 17:31:41.42ID:P8JqbZOT
>>488
むしろ上杉内で争いが絶えなかったから北条は領土を広げられたのでは?

491人間七七四年2019/10/06(日) 17:45:15.24ID:sptkHPlz
>>487
今日はこのぐらいにしといたる

492人間七七四年2019/10/06(日) 20:21:42.73ID:nRmofFnC
>>491
いやー実在するんですねw

493人間七七四年2019/10/07(月) 07:31:52.16ID:3tpm9qeb
>>487
いや小野さんは斬る必要なくない?

494人間七七四年2019/10/07(月) 17:48:45.46ID:R+Bv9ZF6
>>493
そこら辺の理不尽さも含めて北斗の拳ライクで良い

495人間七七四年2019/10/07(月) 18:34:53.73ID:mLJwIBqg
(前略 >>455

すでに夜が明ければ、石田三成・島津兵庫守義弘と舎弟の中務大輔家久(豊久の誤り)・小西摂津守行長ら
は関東勢の旗の手を見て関の藤川を渡り、小関の南辰巳に向かって備える。備前黄門秀家も手勢の大軍を率
いて同所に備えた。大谷吉隆(吉継)・平塚為広・戸田武蔵守重政(勝成)と子息の内記重宗・津田長門守
信成は石原峠を引下し川を渡り、関ヶ原の北野に出て西北の山を後ろにあて、不破を左に見て辰巳に向かう。

家康公の旗本は鶴翼に備え、16段に備を定めて先陣は福島正則、鉄砲8百挺・弓5百張を段々に組み合わ
せてまず矢合わせの鏑を石田の先手へ射掛けた。さて鉄砲を一度につるべ放ち、金鼓を鳴らして鬨を揚げれ
ば東兵も共に同じく太鼓を打ち、楯の端や胡ロクを叩いてこれを助け、都合7万5千3百余人が鬨をどっと
作れば、西国勢13万8千6百余人も同じく鬨を合わせつつ、諸手一同に戦を始めて白刃を交えたのである。

福島父子は弓鉄砲の迫り合いを経て長柄を揃え錣を傾け三成に突いて掛かれば、小西行長も相掛かりに掛か
り揉み合った。これを見て東国方の細川・黒田・加藤は走り合わせ、命を鴻毛よりも軽くする。また西国方
でも島津兵庫守・宇喜多・島津中務大輔と掛かり合い、互いに魚鱗鶴翼の秘術を尽くし命を限りに攻め戦う。

中でも小西は手の者共に目合わせし「敵は大勢、味方は小勢、通り一遍では利はあるまい。羽武者共に目を
掛けるな! 大将に組んで討て!」と風の散る雲の如くに群がり、千騎が一騎になるまでも引くなと、互い
に恥しめて面も振らず相戦う。流石に広き関ヶ原、錐を立てる地も無く敵味方20余万は、算を乱したる如
くなり。

行長は諸将に構わず自兵を引き纏い、三国黒という長さ9寸余の名馬に一鞭当てては馳せ散らし、取って返
し蹴散らし、千変万化の勇を振るう。その形勢、脱兎の網の裏を飛ぶが如し。

家康公が大音声で宣ったことには「敵の旗色は騒ぎ立っている。戦は味方の勝ちなるぞ! 総勝鬨を作って、
旗本の先陣は一同に馬を入れよ! 近習の輩も前一軍は備を崩して石田・小西の横合を打つべし!」と朱旄
を揚げて自ら御駕を進めなされば、御旗本の先陣、16段の先手共は槍の穂先を揃えて馬の鼻を雁行に立て、
大山の崩れる如く突いて掛かると、さしも金石の如く勇を励み備を堅める石田・小西も、この時に駆け破ら
て四方に散乱し、伊吹山・草の谷・伊勢路に掛かって落ちる者もあり、あるいは谷へ落ち入って死ぬ者もあ
り、右往左往に逃れ走った。

行長も心ならず引き立てられて共に敗北し、伊吹山の東粕賀郡に知音の寺があったのでかの寺へ馳せ入り、
しばらく息を継いで世の有様を聞いていた。

(後略)

――『古今武家盛衰記』

496人間七七四年2019/10/07(月) 21:09:37.76ID:n4Znc1LY
小西行長が寺に?
伊吹山にはイエズス会の薬草園があったとか言うけど
ふつうに仏教寺だよね

497人間七七四年2019/10/08(火) 11:58:14.65ID:LC7+7kuF
>>496
キリシタンが寺に居るなどと誰が考える?
アホはそうやって騙されるんだよ

498人間七七四年2019/10/08(火) 16:22:44.93ID:bTgXE5VC
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541597/9
「南蛮寺興廃記」の薬草園の箇所

499人間七七四年2019/10/10(木) 11:13:50.41ID:zfrqx2uI
拙者童貞で候

500人間七七四年2019/10/10(木) 12:42:52.59ID:6oB8WiqO
永禄六年五月、小田原の北条氏康太清軒は、法華の僧を使いとして岩付城へ赴かせ、太田三楽斎(資正)に
このように伝えた

「この正月、国府台の合戦で思わず我等が勝利したが、これも弓矢を取る身の運不運である。
敵と味方に別れるのも時の勢いであろうが、もし今和睦をしても良いと言うなら、嫡子源五郎(氏資)に
家督を譲り、隠居されたい。そのようにして老後を心置きなく過ごされるおつもりなら、我が子氏政の
妹を源五郎に娶せ、自分がその後ろ盾と成り長く岩槻の社稷を守るであろう。」

そのように言い、それも二度までも使いが来た。その裏には、もし同心しないというのであればこちらにも
覚悟がある、という脅しの意味も含まれていた。

三楽斎も利口な男であったのでそのくらいの事は理解していた。しかし長年の兵乱に勢力は尽き果て、
この正月の合戦で兵の消耗も甚だしく、要害でもない平城でどれほど持ちこたえられるか先は知れており、
ここは一番和睦し、後日に事を謀ることが肝要であると、多年の宿意である上杉への肩入れを打ち切り、
小田原の意に従うことを決心した。

この事を伝えられた氏康・氏政父子は大いに喜び、すぐに吉日を選んで娘を岩槻へ送り、婚姻の式を挙げ、
千鶴万亀の祝をして、両家の昵懇はこの上なくまとまった。実に無意味な事である。

それからしばらく後、氏康は婿となった源五郎氏資に、垣岡越後守、春日摂津守などという太田家の
奉行職と相談させ、野州小山城、長沼城攻めを開始させた。しかしそれは氏康の策で、彼等を両城に
出陣させた後で、不意に岩付城を襲おうという密計であった。

三楽斎はその事に気づいており、またもとよりそのくらいの事は有ると思っていたので別に驚く事もなく、
何食わぬ顔で、密かに妾腹の子である梶原源太左衛門政景を招き、その場合に打つ手を色々と相談して、
政景に川崎赤次郎を添えて盟友である佐竹義昭(実際には義重 )の元に行かせ、自分は浜野修理介を
連れて、これも盟約の有る宇都宮三郎左衛門広綱の元へ向かった。

しかしこの事をすぐ、氏資に付いていた垣岡、春日が小田原に伝えた、氏政は早速太田大膳亮に兵二百騎を
付けて岩付城へ向かわせた。大膳亮はまたたく間に外郭を固めて二度と三楽斎を城に入れなかった。

ここにおいて三楽斎と梶原政景は浪々の身となり、政景のみは、弟の新六郎とともに佐竹に寄宿する
事となった。三楽斎はそのまま武州忍城の成田左馬助氏長を頼った。氏長は三楽斎の娘婿である。

ああ、世に前管領上杉憲政の旧臣は多いが、その中でも太田三楽斎と長野佐衛門大輔業正ほど
無二の忠誠を尽くし、上杉家の再興のため心を尽くした者があろうか。であるのに、時に利非ずとはいえ、
業正は箕輪にて討ち死にし(実際には病死)、三楽斎は今流浪の身となった。そして北条の武威のみが
したり顔となったのは皮肉なことである。

(関八州古戦録)

北条の謀略というより太田三楽斎が策に溺れた感強いな。

501人間七七四年2019/10/10(木) 23:56:01.31ID:wCzp0YSp
太田資正って、扇谷上杉ならともかく、上杉憲政の臣下だって意識あったんだろうか
扇谷上杉壊滅後は北条(古河公方)家臣で、謙信越山以降は独立路線でやってるよね

502人間七七四年2019/10/11(金) 08:34:36.97ID:ZngsXh4S
>>501
越相一和後の行動は完全に独立勢力でそ。

503人間七七四年2019/10/11(金) 13:55:59.33ID:ODWSD4PY
下野国那須家には、党七騎(那須七党)と称する旗本が有った。いわゆる大関、大田原、芦野、福原、
千本、医王野、岡本である。中でも大関右衛門佐高増は智謀に優れ、七党の中でも抜きん出て、那須家の
柱石とも成っていた。しかし先年の小田倉原の合戦に先陣を切って手柄を立てて以来、党の他の輩からの
高増に対する妬みが増し、一方の福原弾正左衛門資経(那須資郡・那須資胤の弟)の功のみを吹聴するので、
高増はそれが面白くなく、病と称して出仕しなくなった。

那須資胤はこれを怒り、また出る杭は打つに限ると思ったのか、大関の家人・松本美作守を呼び、
密かに高増を殺すように命じた。松本はやむなく了承して黒羽城へ戻ったが、その一部始終を高増へ語り、
御屋形様の命であり、これを断っては即座に誅せられると思い引き受けた、と言った。

大関高増はこれを聞くと
「罪なくして亡ぼされるのは無念である。そもそも殺す理由が不確かででたらめである。」
そう憤り、逆心を起こした。
彼はすぐに常州の佐竹義重に援軍を頼み、鳥山の那須資胤を攻撃することにした。この時佐竹と、
那須資胤を殺し、その二男である三郎義宗を迎えて那須家を継がせる内約を取っていた。

以後、黒羽の城に立て籠もって三年間、すなわち永禄六年の三月下旬より永禄九年夏まで、鳥山と
何度も繰り返し戦った。

(関八州古戦録)

大関高増の逆心について

504人間七七四年2019/10/11(金) 15:33:46.50ID:tAqYfxfy
>>500
策に溺れたというより、身の危険を察して逃げたというべき
養父、義父が婿に討たれるなんてのはよくある話
北畠具教や宇都宮鎮房をみよ

505人間七七四年2019/10/11(金) 16:37:31.03ID:zZQFSs+H
(前略 >>495

かくて行長(小西行長)は「大坂へ忍び行こうか、または薩州へ落ち行こうか、ただ居城へ赴こうか」と様々
に思案したけれども、敗北の従臣共は1人も尋ねて来ない。あまつさえ東兵は八方に充満し、落人を探し求め
たので、翼が無くてはこの場を漏れ出る様子も無い。

行長は今は運命これまでと思い切り、住僧に向かって「不覚者に与して快き戦もせず、無下に敗北したことは
口惜しい。しかしながら、いつまでもここに忍んでも運の開く我が身にあらず。自害しようと思っても、私は
年久しく耶蘇宗門を崇んでいる。天帝の法として、自らその身を傷つけることを深く慎み嫌う。御僧が今まで
深く労り隠しなさった厚志の返礼に、この命を進上する。徳川殿へ注進なされ」と言った。

これに住僧は「『窮鳥懐に入る時は、猟人も之を殺さず』と言うのだとか。ましてや僧侶の身であれば猶更で
す。ただいつまでもここに忍んで、時を待って運を開きなされ」と、もっとも頼もしく返事した。

ここに関ヶ原の近所に林蔵主という僧あってこれを聞き出し、9月18日、家康公が江州八幡山に陣しなさる
所へ参り、竹中丹後守重門を頼んで「行長は山中の賀須川寺に忍んでいます。人数を向けなさるならば、案内
して虜にします」と訴えることにより、かの僧に竹中丹後守を添えてその他大勢を遣わしなさった。

林蔵主は寺へ帰り強力の悪僧5,6人を伴って行くと、討手の輩を門外に残して自ら悪僧共を連れて、小西の
いた座敷へ忍び入って窺うと、小西は前後も知らずに伏していた。僧従は喜んで密かに側に置いていた刀脇差
を盗み取って俄に押し入り虜にしようとした。その音に小西は驚いて起き上がり、僧2人を取って押さえ膝下
に押し込み刺し殺そうとすると太刀脇差が無い。そこへ悪僧4人が前後左右より飛び掛かり組み留めようとす
るのを、小西はすかさず取って投げ付け押さえた2僧を押し殺した。

時に門外にいた竹中重門は大勢を率いて押し込み、ついに虜にして疲馬に乗せ八幡へ来たり、小西を献じた。
家康公の御感あって、抜群の功として竹中に小西が差していた光忠の刀と兼光の脇差を当座の褒美として賜わ
り、次に林蔵主を召されて黄金10枚を賜った。

諸人は皆、かの出家に似合わぬ任侠をあまねく憎み謗ったが、天罰かまたは小西が怒れる報いなのか、かの僧
が黄金10枚を賜わり帰るのを近辺の盗賊共が聞き付けて押し込み、僧従を残らず搦め置き、かの黄金宝物を
ことごとく奪い取り、あまつさえ林蔵主の耳鼻手足を断って逃げ行けば、林蔵主はその夜中に狂死した。因果
歴然の道理また宜かなと、聞く者は舌を巻き恐懼した。

さて行長は10月朔、石田・安国寺と共に各々雑車に乗せて洛中・洛外・大坂・伏見を引き渡し、三条河原に
おいて首を刎ね梟首せらる。嗚呼憐れむべし。

――『古今武家盛衰記』

506人間七七四年2019/10/11(金) 23:41:31.19ID:TJDlXupl
黒羽城の芭蕉の館(奥の細道の際に芭蕉が黒羽に逗留したためこの名前)
の黒羽藩や大関氏一族の展示を見たら
外様にも関わらず江戸時代を通じて黒羽藩をずっと大関氏が支配していたからか
大関高増についてもここで言われてるほど黒くない印象だった。

展示されていた高増の伝記
・高増は大関弥五郎増次の養子であるが実は大田原資清の嫡男であった。
増次が戦死し、ほかに子供がいなかったため増次の父親の宗増は資清と和議して高増を大田原氏の後継とした。
・大関高増は資清が死んだ後は那須氏の重臣として政治的・軍事的に活躍した。
>>503同様、活躍を妬んだ那須資胤により殺されそうになったため佐竹と組んで対抗。数年後資胤と和睦。
・和睦後、高増は未庵と号し、高僧・大蟲宗岑と問答。
自分自身を運命に翻弄されそうな存在とし、人生のあり方の悩みを宗岑に吐露したところ
「大切なのは過去ではなく今現在である」と諭される。
・主君の那須資晴に千本資俊・資政親子の討伐を命じられる。
高増は、資政に嫁がせていた娘を離縁されていたため、これ幸いと千本氏を殺害。
・小田原合戦の際、主君那須資晴に秀吉の元に参陣するよう説くが聞き入れられず、息子の晴増とともに秀吉のもとに出仕し、大関氏の所領安堵。

507人間七七四年2019/10/12(土) 09:57:40.42ID:21VI279s
訂正
×大田原氏の後継
○大関氏の後継

508人間七七四年2019/10/12(土) 12:05:11.95ID:zZ547gHR
常州の小田讃岐守入道天庵(氏治)は、家の吉例の行事として。毎年十二月の大晦日の夜、
家臣を集めて連歌の会を催し、これを年忘れとした、その後夜明かしで酒宴を張るのも
恒例となっていた、

この頃太田三楽斎は片野の砦に住んでいたが、この事を知って色々と工夫をしたが、ついに
小田城を乗っ取ろうと決心した。
そのころ天庵は藤沢城に住み、小田城には息子の彦太郎守治が入っていたが、彼のもとでも
この行事は行われていたのである。

三楽斎はまず、真壁氏幹入道道無に相談し、佐竹、多賀谷も巻き込んで密議を行った。
彼はこのように説明した
「これは必ず成功する。小田城中には二、三内応する者もあり、大晦日の夜に兵を出せば
正月には城はこちらの手にあるだろう。」

これに多賀谷側より「その内応する者とは誰か」と問われると、三楽斎はそれらしき書状を
二、三出してみせた、それで安心したものか、真壁、多賀谷、佐竹も彼の企てに同意した。

その年の大晦日、三楽斎父子、同新六郎康資、真壁掃部介、坂本信濃守、佐竹より岡谷縫殿介、
根本太郎、多賀谷より家人の白井全洞などが集まり、小田城近くまで進んだ。そこで人馬を休めつつ
手引の者を待ったが、いっこうに現れない。
佐竹側が
「三楽斎殿、これはどういうことか」
と尋ねると、

「内応のものが有ると言ったが、あれは嘘だ。」

と答えた。
一同驚き
「嘘だと言うが、証拠の書状まで見せたではないか。」
「だからそれが嘘である。」
「ではあれは偽の書状か」
「いかにも。そうでもしなければあなた方は同意しないと思った。」
「それは酷い。そのような事なら我々は帰る。」

憤る彼等に三楽斎は
「まあ待て、連歌のことについてはよく調べてある。小田城の者達は必ず遊び呆けて酒に成り、
家中一同は酔いつぶれて物の役に立つものは一人も城中に居ないだろう。
ここは一つこの三楽斎に任せて頂きたい。決して悪いようにはしない。」

こうも三楽斎の術中に落ちた以上、一同も今更否とも言えず、夜明け近く、貝を吹き盾を叩き、
一斉に鬨の声を上げ小田城に攻めかかった。三楽斎の旗本である益戸勘解由、高橋上野介、石井峰岸
などの勇士は真っ先に大手門を押し破り城中へと乱入した。

小田方はこんな事が起こるとは夢にも考えておらず。連歌の後の酒宴で酔いしれていた所で、寝耳に水の
驚きようであり、周章狼狽はその極みに達し、太刀よ物具よと探す者はまだいい方で、堀を乗り越え、
狭間に潜って逃げ出し、敵を防ごうという家来は一人も居なかった。
彦太郎守治も仕方なく脇虎口より逃れ出て、菅谷金吾入道全久の木田余城へと退散した。
三楽斎はやすやすと小田城を乗っ取ったのである。そしてしばらく番兵を入れて様子を見ていたが、
取り返しに来る様子もなかった。

ところが二月に入って異常に雪が降ったのだが、その大雪の日に小田彦太郎守治は、菅谷、大藤、月岡
といった家臣を率いて不意に押しかけ、小田城を取り戻した。
こうして元のように小田守治が城主に戻ったのである。

(関八州古戦録)

509人間七七四年2019/10/13(日) 15:15:04.76ID:EPNnuZ5J
>>508 の後のこと

小田天庵(氏治)と彦太郎守治父子は、小田城は取り返したものの、昨年大晦日の遺恨を果たすべく、
真壁暗夜軒道無(氏幹)を討とうとしていた。

天正元年(1573)四月下旬、小田父子は4千の兵を率いて筑波根の尾根続きである青柳山を越え、
新治の乙幡村へ着陣した。ここは真壁氏幹の領内である。小田勢は家という家に火をつけ狼藉を
働いた。

乙幡より太田源左衛門資晴の居る柿岡は行程一里半ほどの場所であるので、この噂はすぐに伝わり、
資晴はこの事を片野に居る父の三楽斎へと伝えた。三楽斎こそ、昨年真壁とともに小田を追い落とした
張本人である。三楽斎父子の他に、太田新六郎康資も共に資晴の加勢に来た。
しかし太田勢は小勢、小田方は多勢であるので、一戦を交えると太田方はすぐに近くにあった古屋敷に
駆け込み、その中に立て籠もった。そして小田勢が退くと打って出て、返せば古屋敷に逃げ込み
立て籠もる。そんな事を4、5回も繰り返して時を稼いでいるうちに、真壁氏幹と息子の右衛門太郎広幹が、
次男右衛門次郎久幹、甥の掃部介たちを引き連れ駆けつけ、小田勢が西の方より押し寄せると聞いて、
その方へと馬を急がせていた。所がそうではなく乙幡に敵が有ると解ると、山手に出ようと近道を駆けた。

真壁勢が近づくのをはるかに見た小田天庵父子は「これこそ当面の敵である。」と、太田父子を捨てて
真壁勢に向かった。この場所は三方を山に囲まれ、その中に十町ばかりの平場が有った。狭い場所であるが
小田勢はその中いっぱいに、蜘蛛の子を散らしたように待ち伏せた。

真壁氏幹はこれをよく見破り、先鋒が矢を射かけようとするのをしばらく止めると、敵の先鋒には
目もくれず、弓鉄砲を敵の本陣に向かって激しく射込ませた。小田勢はまたたくまに裏崩れをはじめ、
右往左往した。

(中略)

かくして小田勢は敗北し、もと来た道をしどろになって退く所を、真壁勢はすかさず追撃した。
天庵父子は帰りの四里ほどの道を、一度も返すこと無く逃げていった。
この時、未だ古屋敷に籠もっていた三楽斎父子は軍勢を外に出すと、逃げていく小田勢には手も触れず
ただその傍を一緒にどこまでも走った。そしてやっと小田城の近くになると、小田勢が言っているのと
同じようにわめきながら、味方を装って敵とともに手勢もろとも城内へなだれ込んだ。それから城門へ
上がって太田の旗を押し立てた。

これを見た天庵父子は歯噛みをして口惜しがり、残兵を集めてすぐに奪い返そうとしたが。後より
真壁勢がすぐに追い付いてきたため、このまま前後を敵に挟まれてはどうにも成らないと、城を捨て、
天庵は藤沢城へ、彦太郎守治は木田余城へ逃げ込み、後日の運に任せたという。

(関八州古戦録)

天庵様が鬼真壁に敗れるというお話。なんで直接小田城乗っ取りを企てた太田父子ではなく
真壁氏幹を目の敵にしたのかはよくわからない。

510人間七七四年2019/10/13(日) 21:28:17.17ID:g7tFGYqt
まとめの11961
敵陣に大量のキングコブラをまくという戦法
で、琉球が島津軍に対抗するために大量のハブをまいた話があったけど、
頼山陽「日本外史」の島津の琉球討伐の記述で
「夏、難巴(なは)津を攻む。虜(琉球軍)、徹夜鎖を以て船を聯(つら)ね、津口を扼守す。
而して津傍に山あり。険にして蛇蝎多し。虜(琉球)、恃んで兵を置かず。
我が軍(島津軍)、火を放って山を赭(あかつち)にして上り、進んで楊睽灘を奪ひ、千里山に戦ふ。
利あらず、転じて朝築城を攻めてこれを抜く。
琉球王尚寧、その弟・具志をして来って降を乞はしむ。許さず。
五戦して国都に至り、尚寧及び王子・大臣数十人を擒へて、厳しく抄掠を禁じ、国民を安撫す。
六十日を以て琉球を定む。」
蛇がいるから兵を置かなかった、とかあるから
こういう話が、蛇をまいて兵の代わりにした
という話になっていったのかも

511人間七七四年2019/10/13(日) 21:29:07.61ID:g7tFGYqt
訂正
徹夜鎖→鉄鎖

512人間七七四年2019/10/14(月) 12:28:02.56ID:qrq/6fPw
天正六年五月四日、房総の里見左馬頭義弘が上総の国浦田城で死去した。かねて遺言があり、
嫡子である刑部大輔義頼(弟で養子とも)へ安房一国、弟に下総の領内半分を与え、房州館山に在城の事、
次男梅王丸へは上野国を譲る、しかし未だ若年なので天羽郡佐貫の城主・加藤伊賀守が後見すべし、
とあった。そして下総の残り半分は末の娘の化粧田として、都合三ヵ国の家人は、義頼・梅王丸の
領地の2つに分かれて奉公するように、とあった。

梅王丸と妹君の母は上総千本城主・東平安芸守の妹で、加藤伊賀守の孫娘にあたるため、
幼少の姫君とともに亀の城へと移った。

ところが里見義頼は、自分に譲られた領地があまりに少ないことに怒り、内々に加藤伊賀守に
相談し、梅王丸を房州の円明寺にやって春斎(淳泰)と名乗らせ剃髪させ、わずかに二十貫文の厨料を
与えて館山の城へ押し込んだ。その上母堂および妹君は、上総国高滝の琵琶が首という所に小さな居宅を
普請して移した。

この事を母堂は恨みに思い、「我が身死なば悪霊と成って義頼に取り憑くであろう。」と歯噛みして
口惜しがった。また梅王丸の所領であった上総の領民たちが、東平安芸守、同右馬允父子にけしかけられ
方々で一揆を起こした。

義頼はやむなく、東平父子を討つため正木大膳亮時義を大将に立てたが、これに加藤伊賀守が
反対し数日間内輪もめが続いた。かといって今更房州の寺にやってしまった梅王丸を引き戻すという
わけにもいかず、結局、久留米、千本を根城とする東平父子へ強く談じ込み、条件をつけて収まった。

また梅王丸についた一族も、円明寺の住持を通じて歎訴してきた事で、ある程度その意向を聞き、
上総、下総を平均して義頼の持ち分とした。

その後義頼は春斎を還俗させ、里見讃岐守義成(義重)と名乗らせ、所領一万石を分け与えた。

(関八州古戦録)

里見義弘死後の、里見の騒動の模様。

513人間七七四年2019/10/15(火) 07:22:09.91ID:wpzSmfNx
田分けだな

514人間七七四年2019/10/15(火) 14:54:40.83ID:pTZaer+B
このころ、東上野山田郡高津戸において無残なことが有った。その始末を尋ねると、房州里見家の、
天文七年の国府台の戦いにつきあたる。この戦いで生実(小弓)の御所・発性院足利義明が討ち死にするが、
その義明に加担して軍功のあった里見刑部大輔義堯の叔父に、里見上総介実堯という人物が有った
(実際には実堯は義堯の実父であり、稲村の変で主君義豊に謀殺されており、ここでは桐生家重臣となった
里見勝広と混同していると思われる。以下里見勝広として記す)。この戦いの後、里見の頭領で甥である
義堯と不和に成り本国を出奔し、東上野に来て、一族の由来を以て仁田山の里見蔵人の家人と成った。
その後、弘治年間、上杉輝虎に攻められ仁田山城が落ちたことから桐生へと移った。

桐生大炊介直綱(助綱)はこの勝広が高家の余流であり(新田源氏は足利御一家とされた)、武勇にも
優れている所から礼儀を尽くしてもてなし、一門の列に加え、赤萩という所に砦を築いて城将とし、
仁田山八郎をつけて守らせた。

この桐生助綱死後、養子の又次郎重綱(親綱)が後を継いだが、奸臣の津布久(刑部)、山越(出羽守)
らに壟断され、家法が廃れて席次が乱れ、里見勝広も度々譴責されたが、幸い親綱はそれを聞き流していた。
しかしこのままでは将来がないと見た勝広は、嫡子平四郎実勝、次男兵部少輔勝康に、家人の
正木大倉左衛門を付けて密かに赤萩を立たせ、越後へやって上杉輝虎に仕えさせたのである。
その後この兄弟は佐渡、越中、および本庄の城攻めなどで抜群の働きをしたため輝虎に厚遇された。

その間父である里見勝広は老後を赤萩に残って日を送っていたが、例の津布久、山越らの悪家老が
桐生親綱に有りもしないことを讒言して、終に詰腹を着る仕儀に至った。すなわち、桐生家より
山越出羽守、荒巻式部太夫、斉藤丹後守、藍原左近太夫、津久井和泉守、風間将監、清水道仙、
内田主馬之介、水沼主税介らが人数を引き連れ赤萩へ押し寄せたのである。

これに里見入道(勝広)は少しも騒がず
「定めて桐生よりの討ち手であろう。子の兄弟が居合わしていれば私も采配を振るって華やかに
一戦を仕る所であるが、今はもう甲斐のないことである。腹を切って相果てる事としよう。」

そう言ったが、側に仕える石原石見守がそれを制し

「生害はいつでも出来ます。ひとまず谷山へ退き、御運の末を見届けてからになさりませ。」と言った。

これに近習の大貫佐兵衛弘景兄弟は
「この仕儀に至って谷山へ退かれたとて、老木に花も咲きますまい。逃れようとして却って見苦しい
有様に成っては、越後の二人の御子息まで面目を潰します。この上は寄せ手に一矢なりとも報いた上で
御生害あってしかるべきです。」
そう諌めたが、石原は無理に引き立て裏山より勝広を落ちさせた。

大貫兄弟は「今はもう主従三世の縁もこれまでである。せめて落ちられるまでの防ぎ矢を仕らん。」
と、長男彦八郎、次男彦七郎、弟の源左衛門、郎党筒田三郎右衛門らが打ち連ねて大庭に躍り出、
最後の杯を交わす間もなく敵に切り込み、思う様に切りかかり、瞬く間に敵のうち名のある
清水入道道仙、水沼主税介、風間将監の手勢から二十騎を討ち倒し、全員討ち死にをした。
大貫佐兵衛父子は館に火をかけ煙の中より打って出て戦い、切り死にした。

一方、里見入道勝広は石原石見守に連れられ谷山までどうにか落ち延びたものの、そこで石原は
たちまち変心して入道に生害させ、その首を証として敵陣へ送った。このため石原石見守を憎まない
者はいなかった。

(関八州古戦録)

何故か里見実堯と混同されていますが、桐生氏より仁田山赤萩を任された里見勝広の顛末。

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